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『雑食動物のジレンマ――ある4つの食事の自然史』

Pollan, Michael 2006 The Omnivore's Dilemma, Penguin Books, 450p.=20091105 ラッセル秀子訳,東洋経済新報社,302+302p.

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last update:20201029

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■Pollan, Michael 2006 The Omnivore's Dilemma, Penguin Books, 450p.=20091105 ラッセル秀子訳,『雑食動物のジレンマ――ある4つの食事の自然史 (上・下)』,東洋経済新報社,302+302p. ISBN-10:4492043527 ISBN-13:978-4492043523 [amazon][kinokuniya]・ISBN-10:4492043535 ISBN-13:978-4492043530 [amazon][kinokuniya]
*マイケル・ポーラン

■著者等紹介

 全米で話題沸騰! 数々の賞を受賞した全米批評家協会賞最終選考作!
 料理界のアカデミー賞とも言われるジェームス・ビアード賞最優秀賞(食関連著作部門)、カリフォルニア・ブック賞(ノンフィクション部門)、北カリフォルニア・ブック賞(ノンフィクション部門)を受賞し、全米批評家協会の最終選考作に選ばれた本書は、『ニューヨーク・タイムズ』の10 Best Books of 2006、『ワシントン・ポスト』のTop 10 Best of 2006、Amazon.comのBest Books of 2006に選ばれるなど、発売早々から各種メディアで話題の書として注目され、現在もベストセラーリストの上位にランクインしています。
 健康食ブームなのに増え続ける肥満や糖尿病、旬に関係なく食材が並ぶスーパーマーケット、工業化する有機農業、便利で簡単に料理ができる食品の開発、農業収入では生活できない農家、経済効率を求めた大規模農場や単一栽培……。同書に描かれている内容は、もちろん、アメリカの食と農業についてのことですが、読み進めるうちに、日本も変わらないのではと思えてきます。
 本書のタイトルにある「雑食動物」とは、植物でも動物でも何でも食べる動物、つまり私たち人間のことです。何でも食べることができるので、人間はどのような環境でも生きてこられたわけですが、同時に何を食べるべきなのかと頭を悩まし続けきました。コアラのようにユーカリの葉しかたべない動物とは違い、自らの健康や、地球環境に害を及ぼすものでさえ食べることができるのですからなおさらです。
 私たちがいつも口にしているものは一体何なのでしょうか? それはどこからどうやって食卓まで来たのでしょぅか? 私たちが食べるべきなのは、簡単で便利な冷凍・加工食品なのでしょうか? オーガニックフードなのでしょうか? その答えを見つけるために著者は、4つの食事――ファストフード、オーガニックフード、フードシェッドフード、スローフード──の食物連鎖を追いかける旅に出ます。
 いつもの食卓に並ぶ野菜や肉など、誰もが口にしている食べ物の食物連鎖を求めて、トウモロコシ農場から食品科学研究所、肥育場やファストフード店から有機農場や狩猟の現場までを案内し、私たちが正体を知らないまま口にしているものが何か突きとめます。
 そして、最後にたどり着いた完璧な食事とは?
 雑食動物を英語で言うとomnivoreですが、この言葉には、雑食動物のほかに、「幅広分野に好奇心を持ち、あるものは何でも読み、勉強し、概して吸収する者」という意味があります。私たちが食べているものの食物連鎖を知るということは、私たちが何を食べるかという選択が、地球温暖化などの環境問題にもかかわっていることも知ることになります。同書は、私たちの健康のためだけでなく、自然界の健康のために、私たちが何をどのように食べるべきかという知的好奇心を刺激してくれます。

著者について
著者紹介
マイケル・ポーラン
ジャーナリスト。食や農、ガーデニングなど人間と自然界が交わる世界を書き続け、ジェームス・ビアード賞、ジョン・ボローズ賞、QPBニュー・ビジョン賞、ロイター&国際自然保護連合環境ジャーナリズム・グローバル賞、全米人道協会ジェネシス賞など数々の賞を受賞。本書でも、カリフォルニア・ブック賞、北カリフォルニア・ブック賞、ジェームス・ビアード賞を受賞している。著書に『ガーデニングに心満つる日』『欲望の植物誌』『ヘルシーな加工食品はかなりヤバい』などがある。また、カリフォルニア大学バークレー校大学院でジャーナリズムの教鞭をとるとともに、食や農を中心に講演活動を行っている。妻で画家のジュディス・ベルザーと息子アイザックとバークレー在住。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ポーラン,マイケル
ジャーナリスト、食や農、ガーデニングなど人間と自然界が交わる世界を書き続け、ジェームス・ビアード賞、ジョン・ボローズ賞、QPBニュー・ビジョン賞、ロイター&国際自然保護連合環境ジャーナリズム・グローバル賞、全米人道協会ジェネシス賞など数々の賞を受賞。また、カリフォルニア大学バークレー校大学院でジャーナリズムの教鞭をとるとともに、食や農を中心に講演活動を行っている。妻で画家のジュディス・ベルザーと息子アイザックとバークレー在住

訳者紹介
ラッセル秀子
翻訳家。聖心女子大学卒。米国モントレー国際大学院修士課程修了。フリーランス通訳を経て、翻訳業にたずさわる。訳書に『ツール・ド・フランス 勝利の礎』(アメリカン・ブック&シネマ、2008年)、『天使に会いました』(ハート出版、2008年)がある。また、ビジネス、医療、教育、観光、スポーツなど幅広い分野で実務翻訳を行うとともに、米国モントレー国際大学院の非常勤講師として英日翻訳を指導している。アメリカ在住。

■目次

 https://str.toyokeizai.net/books/9784492043523/

[上巻]
序 章  摂食障害に病むアメリカ
第1部  トウモロコシ
   第1章 植物──アメリカを牛耳るトウモロコシ
   第2章 農場
   第3章 カントリーエレベータ
   第4章 肥育場──トウモロコシで肉をつくる
   第5章 加工工場──トウモロコシで複雑な食品をつくる
   第6章 消費者──肥満共和国
   第7章 食事──ファストフード
第2部  牧草──田園の食物連鎖
   第8章 人はみな草のごとく
   第9章 ビッグ・オーガニック
   第10章 草──牧草地を見る一三の方法
   第11章 動物──複雑性の実践

[下巻]
第12章 自家処理──ガラス張りの処理工場
   第13章 市場──バーコードのない世界から
   第14章 食事──牧草育ち
第3部  森林──私の食物連鎖
   第15章 狩猟採集者
   第16章 雑食動物のジレンマ
   第17章 動物を食べることの倫理
   第18章 狩猟──肉
   第19章 採集──キノコ
   第20章 完璧な食事

■引用

[上巻]
序 章  摂食障害に病むアメリカ
第1部  トウモロコシ
   第1章 植物──アメリカを牛耳るトウモロコシ
   第2章 農場
   第3章 カントリーエレベータ
   第4章 肥育場──トウモロコシで肉をつくる
   第5章 加工工場──トウモロコシで複雑な食品をつくる
   第6章 消費者──肥満共和国
   第7章 食事──ファストフード
第2部  牧草──田園の食物連鎖
   第8章 人はみな草のごとく
   第9章 ビッグ・オーガニック
   第10章 草──牧草地を見る一三の方法
   第11章 動物──複雑性の実践

[下巻]
第12章 自家処理──ガラス張りの処理工場
   第13章 市場──バーコードのない世界から
   第14章 食事──牧草育ち
第3部  森林──私の食物連鎖
   第15章 狩猟採集者
   第16章 雑食動物のジレンマ 
   第17章 動物を食べることの倫理 

 ※以下点検しておらず誤字多数あります。
 ・ステーキレストランのダイアローグ 111
 「だが私がやったことは、肉を絶対に食べ統けたいのならお勧めできない。哲学的な論議とジャーナリスティックな説明の半々で構成されている『動物の解放』を読めば、読者は自分の生き方の弁明に走るか、生き方を変えるかのどちらかしかないだろう。この本はそんな希少な一冊だ。シンガーの論法はあまりにも優れているため、生き方を変える読者も多いだろう。この本は数え切れないほどの人々を菜食主義に改宗させたが、少し読めぱその理由がわかつた。数パージも読まないうちに、私は私自身と、肉食と、狩猟の計画について、自己弁護をするはめに陥っていた。
 シンガーの論理は無用心なほどシンプルで、その前提を受け入れるなら、異議を唱えることは難しい。まず人間の平等という前提を考えてみよう。それはほとんどの人が難なく止める概念だろう。だが平等とは、本当はどういうことなのだろうか。事実、人間はまったく平等ではない。ある人はほかの人より頭がよく、見栄えがよく、あるいは才能にあふれている。平等とは道徳的な概念であり、事実の断定ではないとシンガーは書いている。すべての人の利益に対して、彼らがどんな人であるか、あるいはどんな能力を持っているのかにかかわらず、同等の配慮がなされなければならないというのが、彼のいう平等の倫理的な概念だ。△115
 それはその通りだし、ここまでの結論に達した哲学者も少なくない。しかし、次の段階にまでを論理を進めた者はあまりいない。「ある人間の知性が高いからといって、ほかの人間を自分のために使う権利があることにはならない。それなら、人間の知性が高いからといつて、人間以外のを利用する権利がなぜ人間に与えられるのだろうか」
 これがシンガーの主張の要点だ。この文章が書かれているぺージの余白に、私はただちに反論り書きした。「だが人間と動物とは、倫理的に大きな違いがあるではないか」
 その通り、とシンガーはひるまず認め、それだから、豚と人間の子供は同様に扱われるべきではないのだという。利益に対する同等の配慮は、同等に扱うこととは違うのだと。子供の利益は教育を受けることに、豚の利益は土を掘り起こすことにある。けれども、利益が同じ部分についは平等の原則に基づいて、同等の配慮が必要になる。そして、人間が豚やぼかの知覚がある生物すべてと共有するある重要な利益とは、苦痛を避けるという利益である。
 ここでシンガーは、一八世紀の功利主義哲学者ジェレミー・ベンサムの有名な一節を引用している。一七八九年、フランスが黒人奴隷を解放し基本的な権利を与えたあと、しかしまだイギリとアメリカがそれを行う前、べンサムは「人間以外のすべての動物が同じ権利を手にする日がいつか来るであろう」と書き、さらに、どんな特徴があるものに道徳的な配慮が必要なのか問いけている。「それは理性的な能力か、あるいは議論する能力なのか。しかし成馬や成犬は、人間の赤ん坊よりもはるかに理性的であり、会話もするではないか。問題は、理性があるか、あるいは話せるか、ということではなく、苦痛を感じるか、ということなのだ」△116
 ベンサムはここで、哲学者のいうマージナルケースの議論という決め手を使っている。この世には、乳児や、重度の知覚障害者、精神障害者など、精神的な機能がチンパンジーのレバルにも達していない人々、マージナルケースがいる。彼らは道徳的な配慮を相手に返すことはできないが(己の欲するところを人に施せという戒めを守るなど)、私たちは彼らを道徳的な配慮の対象に入れているではないか。それでは何を根拠に、チンパンジーを除外するのか。
 「それはチンパンジーはチンパンジーで、赤ん坊や障害者は人間だからだ」と、私は躍起になって余白に殴り書いた。けれどもシンガーにとっては、それだけでは充分な理由にならない。チンパンジーが人間ではないから道徳的な配慮から除外するというのは、黒人奴隷が白人ではないから除外することと同じなのだと。人間に対する除外を人種差別と呼ぶように、動物の権利の擁者は、チンバンジーがただ人間でないから差別することを種差別(スピーシズム)と呼ぶ。
 「だが黒人と白人の違いは、私の息子とチンパンジーとの違いに比べたら、大したことがないではないか」という私の問いに、シンガーは、「仮にたとえば知性など、大したことがなくはない違いに基づいて差別する社会を想像してみてほしい」という。もしそれが不平等だと思うのなら――それは確かに不平等だ――人間の持つあれこれの特徴が動物にはないからといって、なぜ差別しなければならないのか。重度の知覚障害者を仲間として見るなら、高い能力を持つ動物も仲間として見るべきではないのか。そうシンガーは結論づけている。
 私がステーキを食べるフォークを置いたのはここだ。平等を信条とするのなら、平等が特徴でなく利益に基づくものなら、私は牛の利益を考えるか、あるいは自分が種差別主義者だと認め△117 なければならないのではないか。
とりあえずいまのところは、私は自分が有罪だと認め、ステーキを平らげることにした。
 だがシンガーは、私にある嫌な概念を植えた。それは、ほかの動物の権利の擁護者の著作という水によってその後も育ち統けた。たとえば、哲学者トム・リーガンやジェームズ・レイチェルず、法学者スティーブン・М・ワイズ、作家のジョイ・ウィリアムズやマシュー・スカリーの著作だ。種差別主義だと呼ぱれても、私はかまわない。だが彼らが書いているように、もしかした、いつか種差別が人種差別と同じような悪だとみなされる日が来るのだろうか。ナチスのトレブリンカ収容所の陰でのうのうと生きたドイツ人のように、私たちも後世の歴史で糾弾されるのだろうか。南アフリカの小説家J・M・クッツェーは、最近プリンストン大学でまさにこの間いかけをし、答えはイエスだと述べている。擁護派が正しいなら、途方もないレベルの罪(クッツェーの言葉から引用)がいま現在、私たちはそうと気づかずに、日々繰り返されていることになるのではないか。

 それは、真剣に想像することも、ましてや受け入れることもほとんど不可能だ。レストランでステーキとピーター・シングーとの対決から数カ月聞、私はは論駁するための知力を総動員しようとした。だがシンガーとその仲間は、私が寄せ集めた反論をひとつひとつ負かしていった。
 肉食者の最初の反論は明らかだ。動物がお互いを道徳的に扱わないのなら、私たちが動物を道徳的に扱う必要があるのか。ベンジャミン・フランクリンは、私よりずっと前にこの路線をとっ△118 ている。彼は自伝で、「ある日魚釣りをする友人を見て、魚が共食いをするのなら、私たちが魚を食べてはいけないということにはないないと考えた」と書いている。ただしこの論理は、フライパンで魚が素晴らしく白い香りをたてるまでは思いつかなかったとフランクリンは認めており、合理的な生き物であることの大きな利点は、自分がとりたい行動に何らかの理由をつけられることにあるとしている。
 動物もお互いを食べるからという論理に対して、擁護派は、シンプルで痛烈な答えを用意している。あなたは自然界の理法をもとにした倫理規範に従いたいのか、それなら殺人や強姦も自然ではないか。それに、人間は選ぶことができるではないか、と。人間は生きのびるためにほかの動物を殺す必要はない。肉食動物は殺さなけれぱ生きることばできないが(わが家の猫オーディスを見てみれば、動物はただ殺す楽しみのためじ殺すこともあるようだが)。これは、家畜にとって自然界の生活は好ましくないのではないかというもうひとつの反論を引き出す。これに対して、アフリカの黒人を奴隷にした奴隷制度の賛成者も同じことをいったとシンガーは答える。自由な生活の方が望ましいのだと。
 だが、家畜の大半は自然界では生き残れないし、事実、人間に食べられなけれぱ、家畜は存在しないではないか! ある一九世紀の政治哲学者はこう書いている。「ベーコンの需要に誰より大きな利益を被つているのは豚だ。世界にユダヤ人しかいなかったら,豚はまったく存在していないだろう」
 それども擁護派は、それでもまったくかまわないという。たとえば鶏は存在しなければ、不当△119 に扱われることもないのだと。
 次に、畜産場の動物は、ほかの生活を知らないではないかという反論に対して、擁護派はこうえる。「動物は、体を動かし、足や羽根を伸ばし、毛づくろいをし、向きを変える必要を感じるものなのだ。それができる環境に住んだことがあるかどうかは関係ない」
 要するに、動物の苦痛とは、以前の経験ではなく、日々絶え間なく続く、本能的な不満に基づいてはかるのが適切だという考え方だ。
 それでは、人間による動物の苦痛が正当な問題だと仮定しよう。だが様々な問題あふれる世界に生きる私たちにとっては、人類の課題を解決することが先決なのではないか――。それは高潔な論駁に聞こえるかもしれない。だが擁護派は、ただ肉を食べるのをやめればいいという。菜食主義者になっても、人類の問題の解決に貢献できない理由はないだろうと。
 しかし、どうだろう。道徳的な理由から肉食をやめようと決められるその事実こそ、動物と人問の大きな違いであり、したがって種差別は正当化できるのではないか――。人間の食欲の曖昧さと、食に関する様々な道徳的な問題こそが、私たちを根本的に違う生き物にしている。人間は唯一道徳的な動物であり(カントが指摘しているように)、権利という概念を考えられる動物は人間だけだ。そういえぱ、権利というやつを自分たちのためにつくりあげたのも人間でけないか。道徳的な配慮を理解する者に道徳的な配慮をして、一体何が悪いというのか。
 ここが、知覚障害者や精神障害者、生後二日日の乳児、そして重度のアルツハイマー病の患者の道徳的立場という、マージナルケースの議論にぶつかるところだ。彼ら(近代の倫理学で使△120 われる憎むべき用語マージナルケース)は猿と同じく、道徳的な決定に参加できないが、私たちは彼らに権利を与えているではないか、と。当然だ、と私は答える。その理由は明らかだ――彼らは私たちの仲間だからだ。仲間に特別な配慮をするのは当然なことではないか。
 あなたが種差別主義者なら当然なのだろうというのが、擁護派の答えだ。それはそう遠くない昔、多くの白人が自分たちの仲間である白人だけの面倒を見ようといっていたのと同じことなのだ、と。しかし私は、マージナルケースの人権を守ることには、論理的な理由があるのだと反駁する。彼らを道徳的な共同体の一員にしたいと考えるのは、私たちもかつてマージナルケースだったからであり、再びそうなる可能性もあるからだ。さらに、彼らには父親や母親、娘や息子がる。それは、彼らの幸福に対する私たちの利益を、最も利口な猿の幸福に対する利益よりも六きいものにするのだ。
 シンガーのような功利主義者なら、家族親戚への気持ちは人間の道徳計算に何らかの意味を持っていることに同意するだろう。しかし、利益への平等な配慮という原則は、苦痛を伴う医学実験を重度の精神障害の孤児に行うのか、それとも正常な猿に行うのかという選択肢において、孤児の方を選べと要求するのだ。それはなぜか。猿の方が、苦痛を感じる能力に優れているからだ。
 マージナルケースに対する哲学者の論理の現実的な問題は、この点にある。この論理は動物を助けるために使えるが、それと同時に、マージナルケースを害する結果にもなるからだ。種差別主義をやめることは、私たちを道徳的な崖に追い詰めることになる。その崖の端ぎりぎりにまで追い詰められたとしても、おそらく私たちはまだそこから飛ぶ準備ができていない。△121
 けれども、私がここでしなけれぱならないのは、その選択ではない(その方がよほど楽なのに残念だ)。毎日の生活で選ばなけれぱならないのは、赤ん坊かチンパンジーかではなく、豚と豆腐のどちらを食べるのかということなのだ。シンガーの堅牢な功利主義を否定したとしても、苦を感じる動物に道徳的配慮をするべきかという疑問はまだ残り、それを拒否するのは不可能だ。そしてもし道徳的配慮をするべきなら、その動物を殺して食べることをどう正当化できるというのか。
 これだから、肉食は動物の権利のなかで最も難しい問題なのだ。動物実験については、最も過激な一部の人以外は、人間に対する利益と動物が払う犠牲とのバランスをはかろうとしている。それは人間の意識という特質が、快楽と苦痛という功利主義的計算で重みがわかれるからだ。人問の苦痛は、ネズミの苦痛よりも意味がある。人間の苦痛は、 恐れのような感情によって強くなることもあるからだ。同様に、人間の死は動物の死よりもたちが悪い。それは、動物にはわかないような方法で、人間には死の意味が理解できるからだ。それだから、動物実験についての論は、ある実験が本当に人間の命を助けることに必要なのかという、きわめて具体的なものになる(必要でないことが多い)。一方、生き残るために肉を食べることがもはや必要ないのなら、天秤の人間側の皿に私たちが置く、動物の利益よりも重い分銅とは、一体なんだろうか。
 これが最終的に、私が擁護派に対して弁明せざるを得なかった理由なのだろう。ナンバンジーと知的障害児のどちらを選ぶのか、あるいは、心臓バイパス手術の発展のために外科医が練習に使う数々の豚が犠牲を払うことをよしとするかは、別の次元の話だ。けれどもシンガーが書いた△122 ように、動物の生涯の苦痛と人間の美食的な嗜好とが選択肢ならどうだろう。私たちは目をそむけるか、あるいは動物を食べることをやめるしがない。どちらも嫌なら、自分が食べた動物が本当に生涯苦しんだのかどうか、考えなけれぱならない。
 シンガーは、私が肉を食べ続ける限り、その答えを客観的に見出すことはできないという。
 「ほかの動物への配慮イコール肉食をやめることではないと信じることに、私たちは大きな利益を有する」
 それはわかるような気かする。事実、私はディナーの一皿を正当化しようと必死ではないか。
 「動物を食べる習慣のある人は、その動物が育った環境が苦痛の原因となったか、まったく偏見なしに判断することはできない」
 つまり、狩猟をするべきかどころか、肉食をするべきかを良心に基づいて決めるなら、まず肉食をやめなければならないのだ。これは難題に思えたが、受け入れる以外に選択肢はない。こうして、ある九月の日曜日、美味しいポークテングーロインのバーバキューを食べてから、私はいやいや菜食王義者になることにした。どうか一時的なものであるようにと心から願いながら。
 →◇種/種差別主義

 ・菜食主義者のジレンマ
 「菜食主義者は一歩進化が進んだ人間なのかもしれないが、何かを途中で矢っているように私には思える。それは、ささいなことだとやり過ごせないような何かだ。菜食主義になったいま、健康で高潔な気分にはなれたとしても、大切な伝統や習慣から疎外されている気持ちがした。たとえば、サンクスギビング(感謝祭)の七面鳥や、野球場で食べるホットドッグでさえも。それが私の家族の伝統である、過越しの祭に母がつくるビーフブリスケヅト(訳注:ユダャ教の過越祭に定番の牛の胸肉料理)。こういった祭日の食事は、私たちのルーツに様々な線で結びつけてくれる。家族や宗教、風景、国、さらにもっと遡りたけれぱ、生物学にまで。
 人間の生存のために肉食はもう必要ない(ビタミンB12は発酵食品やサプリメントで補給できる)。けれども、人類の歴史の大半において人間は肉食だったのだ。この進化的歴史の事実は、たちの歯のつくりゃ、消化器官の構造、そしておそらく,ミディアムレアに焼かれた肉を見ると生つばが出ることにも現れている。肉食は、身体的にも社会的にも人間の何たるかなつくりあげてきた。人類学者によれぱ、狩猟をしなければならないというプレッシャーから、人間の脳は大きくなり複雑になったという。戦利品があぶられ分けられた火のまわりで、人類の最初の文化は花開いたのだ。
 私たちは、その伝統を超えることができないとか、超えるべきでない、ということではない。ただそれが私たちの伝統だ、というだけだ。肉食をやめて得られるものもあるが、少なくともこの伝統は失われる。動物に権利を与えるという概念は、摂食者と被食者がいる捕食という、野蛮で不道徳な世界から人間を救ってくれるかもしれない。だがその途中で、私犬ちのアイデンティ△125 ティの一部である獣性が犠牲になり、あるいはその昇華が起きるのだ(これは動物の権利という概念の奇妙な皮肉のひとつだ。人間に、動物とのあらゆる共通点を認識せよといいながら、動物に対しては動物とかけ離れた行動をしなければならないという)。
 獣性を犠牲にするのが残念だということではない。強姦も略奪も人間の伝統だが、それをやめたからといって残念に思う人はいないだろう。しかし。少なくとも人間が肉を食べたいという欲求は、動物擁護派がいうような、ささいな、ただの美食的な噌好ではないことを認識するべきだ。同じ理屈からいえば、セックスも実質的には生殖にはもう必要ではないから、ただの娯楽的嗜好ということになるではないか。肉食は、もっと深い何かに根ざしているものなのだ。」

 ・動物の苦痛
 「人間が動物を食べることの利益は、動物が人間に食べられないことの利益(それが動物の利益だととりあえず推定すると)より大きいのだろうか。これが結局は、動物の苦痛という厄介な問の鍵となる。厄介というのは、午や豚や猿が何を苧◆えているのか知るのは、ある意味で不可能だからだ。もちろん、自分以外の人間についても同じことがいえるかもしれないが、人間は多か少なかれ同じような神経の持ち主だから、他人の苦痛の経験も自分の場合と似ていると考えられるだろう。だが、動物についても同じことがいえるだろうか。答えはイエスでもあり、ノーでもある。△126
○動物は魂がないから苦痛を感じることばできないというデカルトの説をまだ信じているまともな著者に、私はまだ出会っていない。痛みに関していえば、知能の高い動物は進化的な理由から人間に似た感覚を持っているため、蹴られた犬が身悶えしたから、額面通りに受けとるべきだろうと、科学者と哲学者はおおむね合意している。
○動物が痛みを感じることについては、疑いの余地はないだろう。けれども動物の権利の擁護派、ネオデカルト派とでもいえるような科学者は、ネオデカルト派とでもいえるような科学者らが、動物は言語がないから苦痛を感じる能力がないと論じていると主張する。だがそういった著者(ダニエル・デネットとステイープン・プディアンスキーは最も引用が多い例だ)の著作を読んでみれば、擁護派の描写が不公平であることがすぐにわかるだろう。
 この問題とされる論理は、私は筋が通らないとは思わなかったが、人間の苦痛は動物の苦痛と◆きく違うというものだ。この質的な違いは、まず人間が言語を持つことに主に起因している。そして言語の力で考えに対して思いをめぐらし、存在しないものについて考えられるという事実も起因しているのだ。哲学者のダニエル・デネットは、多くの動物が明らかに経験する痛みと、意識のレべルが影響する苦しみとを区別できると提案している。後者の自意識を持っと思われる動物はごくわずかだ。この意味で苦しみというのは、ただの痛みではなく、明らかに人間的な感情である、後悔、自己憐憫、恥、屈辱、恐怖などで強くなる苦痛のことである。
 たとえば去勢について考えてみよう。これは、私たちがロにする哺乳類の雄の大平が耐えぬく経験で、動物にとって痛みを伴うことを否定する人は誰もいないだろう。けれども、去勢のすぐ△127 あとに動物は完全に回復しているように見える(アカゲザルの雄のなかには雌の奪い合いのときライバルの睾丸を噛みちぎるものもいるが、次の日には噛みちぎられた側の雄が参った様子もせず、平気で交尾しようと試みる例が観察されている)。人間は去勢が持つ意味を完全に理解できるし、去勢について事前に考え、その結果についても思いをめぐらせることができるから、その苦痛はまったく別レべルのものといえるだろう。
 一方同じように、言語やそれに伴うすべては、痛みを耐たやすいものにもするだろう。たとえば歯医者での治療は、それが何のために行われ、どれぐらい時間がかかるものか理解できない猿にとっては、苦痛でしかないと考えられる。私たちが動物の苦しみや痛みについて考えるとき、人間に置き換えて想像してみるべきではない。牛がスロープの上に列をなして処理場の入り口に入っていくのを見たとき,私はこの牛たちぱ、映画『デッドマン・ウオーキング』のショーン・ペン演じる死刑囚ではないのだ、と自分に言い聞かせなければならなかった。この情景は牛の脳内では違う風にとらえられているのだ。ありがたいことに、牛の脳には存在がなくなるという概念はない。狩猟者のライフル銃の銃身を見つめる鹿についても同じことがいえる。「動物に苦しみが見られないのなら、見えない苦しみはその脳内にも存在しないのだと安心していい。苦しみがあるのなら、簡単に認識できるだろうからとダニエル・デネットは『心はどこにあるか』に書いている。

※Dennett, Daniel C.  =2016 土屋俊訳,『心はどこにあるのか』,ちくま学芸文庫 ISBN-10:4480097538 ISBN-13:978-4480097538 [amazon][kinokuniya]

   第18章 狩猟──肉
   第19章 採集──キノコ
   第20章 完璧な食事


■紹介・言及

http://macroscope.world.coocan.jp/ja/reading/pollan.html

◆立岩 真也 2022/12/20 『人命の特別を言わず/言う』,筑摩書房

★05 『雑食動物のジレンマ』の第17章が「動物を食べることの倫理」。(シンガー流の)動物擁護論に反駁しようとするが、反駁できず、しぶしぶ肉食を(一時期)断念するという筋になっている。
 「動物もお互いを食べるからという論理に対して、擁護派は、シンプルで痛烈な答えを用意してる。あなたは自然界の理法をもとにした倫理規範に従いたいのか、それなら殺人や強姦も自然ではないか。それに、人間は選ぶことができるではないか、と。人間は生きのびるためにほかの物を殺す必要はない。肉食動物は殺さなければ生きることはできないが(わが家の猫オーディスを見てみれば、動物はただ殺す楽しみのために殺すこともあるようだが)。」(Pollan[2006=2009:下119])
 例えばこのようにして、この人は、反論しようとして、自分で負けて、負けを認め、しぶしぶ(しばらく)菜食することになるのだが、自ら簡単に負けを認める負け方には疑問がある。
 まず、(人間的な意味合いにおける)殺人や強姦が人間を別とした自然界に存在するのか知らない。むしろ、ないと言ってよいと思うと返すこともできる。また、どんな時にでも私たちは常に、例えば物理法則に従っているとも言える。だが、これはまじめな反論ではないということになるだろう。もっとまじめに返すことにする。私たちは、世界に存在するすべてをそのまま肯定するわけではない。しかし、そのある部分についてはそれを否定しないもっともな理由があると考える。そのことを本文に述べる。もう一つ、人間は肉を食べなくても生きていける(から食べるべきでない)という主張についても本文(85頁)で述べる。
 動物が動物を殺して食べていることについて、いくつか引いておく。
 「動物倫理に立ち入り、動物実験やべジタリアニズムについて考えていくとき、いつも疑問として湧出してしまう問題がある。それは、野生動物たち同士の食いつ食われつの殺し合いについてである。確かに、動物倫理の議論でもこのことは触れられるが、隔靴?痒の感を免れない。というのも、一方で動物△128 実験や肉食を論じる文脈で「動物への配慮」が言挙げされ、そこでは動物の「パーソン性」さえ言い立てられるときがあるのに対して、動物士の殺し合いに対しては、人間に害が及ばない限り、自然の営みなのだからそのまま放任するしがない、という論調になってしまって、動物の「パーソン性」を認めるように感じられるからである。」(一ノ瀬[2011:150?151])
 「介入派」としてマーサ・ヌスバウムをあげる浅野幸治による引用。
 「痛みをともなう拷問によるガゼルの死は、ガゼルにとっては、拷問が虎によってなされた場合でも人間によってなされた場合でも、同じように邪である。[…]人間には虎によるガゼルの死を防ぐための(人間によるガゼルの死を防ぐのと同様の)理由がたしかにあるということが示唆される。」(Nussbaum[2006=2012:274?275]、浅野[2021:8]に引用)
 この論文で浅野は動物界への人間の介入を否定する動物権利論主流派の論と、ヌスバウムも含む介入派の論を紹介し、論じている。ここでは、そのうえでも私が本文に述べることを撤回する必要はなかったとだけ記しておく。
 また、右に引用した文章を二〇一一年に書いた一ノ瀬正樹は、二〇二二年に「かくのごとく、動物をどう見るか、肉食をどう考えるか、そうした問題はあまりに錯綜し混迷をきわめ、大きな揺らぎのもとにあり、一義的な見解を述べることは困難である」と書き、「動物対等論」というのはどうだろうと言っている(一ノ瀬[2022:143])。」


*頁作成:立岩 真也
UP:20201220 REV:20201229, 30, 20221004, 1229
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