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Frontiers of Justice:Disability, Nationality, Species Membership

Nussbaum, Martha C. 2006 Harvard University Press
=20120808 神島裕子訳,『正義のフロンティア――障碍者・外国人・動物という境界を越えて』,法政大学出版局


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Nussbaum, Martha C. 2006 Frontiers of Justice:Disability, Nationality, Species Membership, Harvard University Press, 2007/4/30 pb New edition, Belknap Press of Harvard University Press, 512p. ISBN-10: 0674024109 ISBN-13: 978-0674024106 [amazon][kinokuniya] ※=20120808 神島裕子訳,『正義のフロンティア――障碍者・外国人・動物という境界を越えて』,法政大学出版局,568p. ISBN-10: 4588603256 ISBN-13: 978-4588603259 [amazon][kinokuniya] ※


■目次

Abbreviations
Introduction
1. Social Contracts and Three Unsolved Problems of Justice
i. The State of Nature
ii. Three Unsolved Problems
iii. Rawls and the Unsolved Problems
iv. Free, Equal, and Independent
v. Grotius, Hobbes, Locke, Hume, Kant
vi. Three Forms of Contemporary Contractarianism
vii. The Capabilities Approach
viii. Capabilities and Contractarianism
ix. In Search of Global Justice
2. Disabilities and the Social Contract
i. Needs for Care, Problems of Justice
ii. Prudential and Moral Versions of the Contract; Public and Private
iii. Rawls's Kantian Contractarianism: Primary Goods, Kantian Personhood, Rough Equality, Mutual Advantage
iv. Postponing the Question of Disability
v. Kantian Personhood and Mental Impairment
vi. Care and Disability: Kittay and Sen
vii. Reconstructing Contractarianism?
3. Capabilities and Disabilities
i. The Capabilities Approach: A Noncontractarian Account of Care
ii. The Bases of Social Cooperation
iii. Dignity: Aristotelian, not Kantian
iv. The Priority of the Good, the Role of Agreement
v. Why Capabilities?
vi. Care and the Capabilities List
vii. Capability or Functioning?
viii. The Charge of Intuitionism
ix. The Capabilities Approach and Rawls's Principles of Justice
x. Types and Levels of Dignity: The Species Norm
xi. Public Policy: The Question of Guardianship
xii. Public Policy: Education and Inclusion
xiii. Public Policy: The Work of Care
xiv. Liberalism and Human Capabilities
4. Mutual Advantage and Global Inequality: The Transnational Social Contract
i. A World of Inequalities
ii. A Theory of Justice: The Two-Stage Contract Introduced
iii. The Law of Peoples: The Two-Stage Contract Reaffirmed and Modified
iv. Justification and Implementation
v. Assessing the Two-Stage Contract
vi. The Global Contract: Beitz and Pogge
vii. Prospects for an International Contractrarianism
5. Capabilities across National Boundaries
i. Social Cooperation: The Priority of Entitlements
ii. Why Capabilities?
iii. Capabilities and Rights
iv. Equality and Adequacy
v. Pluralism and Toleration
vi. An International "Overlapping Consensus"?
vii. Globalizing the Capabilities Approach: The Role of Institutions
viii. Globalizing the Capabilities Approach: What Institutions?
ix. Ten Principles for the Global Structure
6. Beyond "Compassion and Humanity": Justice for Nonhuman Animals
i. "Beings Entitled to Dignified Existence"
ii. Kantian Social-Contract Views: Indirect Duties, Duties of Compassion
iii. Utilitarianism and Animal Flourishing
iv. Types of Dignity, Types of Flourishing: Extending the Capabilities Approach
v. Methodology: Theory and Imagination
vi. Species and Individual
vii. Evaluating Animal Capabilities: No Nature Worship
viii. Positive and Negative, Capability and Functioning
ix. Equality and Adequacy
x. Death and Harm
xi. An Overlapping Consensus?
xii. Toward Basic Political Principles: The Capabilities List
xiii. The Ineliminability of Conflict
xiv. Toward a Truly Global Justice
7. The Moral Sentiments and the Capabilities Approach
Notes
References
Index

■引用・一部紹介(&翻訳:堀田義太郎)

3 Capability and Disability
xiii. Public Policy: The Work of Care
(13節 公共政策ーーケアという仕事)

ケアは、ケアされる者(the cared-for)とケア提供者双方の中心的ケイパビリティに多かれ少なかれ影響する。そして、ケイパビリティリストは、我々が採用したい政策を考察する際の社会的規準について非常に有用なセットを提供する。政策的課題は、ケアされる者とケアする者という二つの面をもつ。そして三つの「場所」がある。公的セクター、教育システム、そして職場である。(212)
ケイパビリティ・アプローチは、公的領域と私的領域というお馴染みのリベラルな区別を却下し、家族を社会的政治的制度とみなすことで、家族内の資源と機会の分配を重要な関心対象とする。ただ、家族生活への国家の干渉については、成人の結社の自由が実質的な制約を与えている。したがって、国家が単純に、夫婦でケア労働を平等に分割することを命令するというやり方は、受けいれ難いだろう。
では、法はこの問題にどう取り組むべきか?

エヴァ・キティは家族内の女性の仕事が労働とみなされない状況を是正する最良の方法は、ケア労働に従事する家族成員に直接賃金を払う(direct paymant)ことだと示唆している。この支払いは、問題の労働に対する社会的尊厳と承認を与えつつ、給料として扱われるべきである以上、所得調査なしでなされるべきである。(212)
 ※ 各国でのさまざまな実践例は省略。

現金支払いと収入支援は、公的セクターの役割である。だが、公的セクターの役割はもっと大きい。青少年事業(national youth service)がある。たとえばドイツでは、若者たちは、二年間の兵役につくか三年間の別のサービスに従事するか、という選択を与えられる。この別のサービスとは、ほとんどがケア労働である(213)。合衆国も他の国もこうしたプログラムから大きな利益を得られると思われるし、若く力のある若者が低コストでケア労働に就くようになるだろう。そして若者はこの仕事がどんなものかを学ぶだろうし、それがどれくらい重要で困難かを学ぶだろう。
この経験は政治的論争においても家族生活においても、彼らの態度を形成することが期待される。(213)
ケア労働が男性と女性両者の生活の一部として重要だということを公教育が強調することは、この種の仕事に対する男性の忌避感を打破する試みとして非常に望ましい。明らかにこの忌避感は生来の(innate)ものではない。それは、男らしさと成功についての社会的概念として教えられたものであり、別様に教えることが可能である。ケイパビリティ・アプローチを採用するならば、その人格に関する政治的概念は、ケアニーズを重要な側面として、子どもたちに教えることができるし、そうすべきである。教育は男性のケア活動への忌避感を変えることが可能だし、男らしさ等も変えることができる。そうすれば、ケアにかかわる仕事をより尊重することになるだろうし、それに対する支払いについての公的態度をより好意的にするだろう。また、家族内でこの仕事を分担することに対する忌避感を減らすだろう。(以上213)

だがさらに、別の変革が必要である。職場の変革だ。ジョアン・ウィリアムズが強調するように、公的なお膳立てがよくても、キャリア構造が人々に、もし家族と両親のケア労働サポート政策を利用すれば二軍(second-class)の労働者とみなすぞ、というメッセージを送り続けている限り、改善は期待できない。(214-5)

スウェーデンでも結局、依存者のケアの仕事に就いているのはほとんどが女性である。(215)男性は自分の出世を犠牲にしたくないし、周辺パートタイム労働者とみなされたくないからだ。現在の職場はフルタイムで働くことが期待されており、パートタイムの労働は機会を大きく失うことになる。アメリカの法曹界はもっと悪い。長時間就労に対するマッチョな競争があり、時間外労働を拒否する人は二軍選手(marginal player)とみなされる。(215)
ケイパビリティ・アプローチによれば、公共政策の主要な目的は、柔軟性と新たな倫理規範を通した職場の変革にある。そして、これらの変化と公教育における変化は、強い意味で相補的である。(215) つまり若い労働者は彼の生活の一部としてケアを考えるようになり、リジッドな職場を受け入れる動機は弱くなる。そしてフレックスタイムとパートタイムという選択肢を提示する雇用者は、最も有能な労働者を引き付けることになるだろう(215-6)。ウィリアムズは、こうした変化は、アメリカの極めてリジッドな職場環境の中でさえ、ある程度はすでに生じてきていると論じている。(216)

■引用 第3章「可能力と障碍」10「尊厳の種類とレヴェル――種の規範」(翻訳は訳書)
x. Types and Levels of Dignity: The Species Norm

 「さて、この議論が向かっていた問題に、やっとたどり着いた。可能力の政治的なリストは、知的損傷の△215 ある市民たちの人生を考慮するさいにも、同じであるべきだろうか? 人間の特徴的な機能への本書のアリストテレス的な着目は、この点で困惑を引き起こすようも思われる。セーシャが今後も投票しない理由は、彼女が投票を禁止する包括的な価値の構想を有しているからではなく、彼女の認知能力が有意味な投票の可能性のレヴェルに達することが決してないからである。同様に、彼女にとって報道の自由は何の意味も持たない。それはユダヤ教の超正統主義のためではなく、彼女の認知レヴェルが、読むことと言語コミュニケーションとを不可能にしているためである。社会がどんなに努力したところで、問題とされる可能力をセーシャが何かしら意味のある仕方で有していると言えるレヴェルまで、彼女を引き上げることはできない。ここで、種の模範を重視する見解は、セーシャの生の形態はまったく異なると言うか、私たちの最大限の努力にもかかわらず彼女は決して繁栄・開花した人間の生活を手にすることはできないと言うかの、いずれかを選ばなくてはならないように思われるだろう。
 第一の(セーシャの生の形態はまったく異なるという)返答は、一部のきわめて極度の器質的損傷に対しては当てはまるだろう。いくつかの種類の知的喪失はあまりに深刻なため、その生は人間の生ではまったくなく、異なる形態の生であるとするのが理にかなっているように思われる。持続的な植物状態にある人、あるいは無脳症の子どもを、人間と呼ぶように私たちを導くのは、情操だけである。私たちがセーシヤの生を人間的なものと呼ぶことを願うのはなぜだろうか? そのことがどんな違いを生むのだろうか? もちろん、彼女が人間の身体を持っておりかつ二人の人間の子どもであるという事実が、ここで大きな役割を果たしており、また私たちの思考を歪めるのだろう。彼女の生はなにかほかの種類の生であると言うのが適切である可能性は、すぐさま除外すべきではない。「人間」という言葉は単なる比喩にとどまらないものであり、彼女の生は人問に特徴的な生の形態にはあまり似ていないのだ、と。これは、持続的な植物状△216 態と無脳症の子どもという先に私が言及したニつのケースでは、適切な物言いである。なぜなら、意識覚醒および他者とのコミュニケーションの可能性のすべてが欠けているからである。私たちがセーシャの生を人間の生であると実際に考えている限りにおいて――そのさい私たちは思い違いをしているわけではないだろう――そのように私たちが考えているのはたぶん、もっとも重要な人間の可能力の少なくともいくつかが彼女の生に一目瞭然としてあるためであり、またそれらの可能力つまり他者を愛し他者と能力、知覚、動きと遊びに喜びを見いだすことが、彼女を、何かほかのものではなく、人間共同体に結びつけているためである。この意味で、彼女が人間の両親の子どもであるという事実は重要である。彼女の生は人間関係のネットワークに結びついており、彼女はすべてではないにせよそうした関係の多くに、積極的に参加することができるのである。
 アーサーとジェイミーのケースは、実際的な観点からしてリストをいじくりまわすことは非常に危険だということを示している。現代のあらゆる社会では、器質的損傷のある人びとの能力と彼らの潜在的な社会貢献とを、過小評価するという傾向が根強い。それはひとつには、そうした能力を完全に支援することが非常に高くつくため、重度の損傷のある人びとが実際には多くの場合に高いレヴェルで機能しうるという証拠を、避けて通る方が容易だからである。そのような損傷の不可避性と「自然っぼさ」を示唆する用語の使用が、損傷のある人びとを利する目的で物事を大きく変化させるために十分な資△217 金を投じることの拒絶を、覆い隠している。目が見えない、あるいは耳が聞こえないという理由だけで高等教育や政治生活に参加することがとにかく出来ないとか、車いす利用者という理由だけでスポーツに参加したり幅広い仕事に就いたりすることがとにかくできないとか、このような思い込みがごく最近までなされてきただろう。まったくもって社会的であった諸々の妨げが、自撚本性的なものだと思われてきたのである。したがって、これらの人びとに必要なものを提供するために公共施設を再設計するというお金のかかる問題は、回避可能だと思われていた。
 それにともなう出費は、損傷のある人びとを永久的かつ必然的に他者に依存する人びととして特徴づけることによって、拒まれることが多かった。そのため、視覚的な損傷のある人びとのための公共空間は、彼らが目の見えるガイドと一緒に回らなければならないような仕方で描かれた。不法行為法は、あたかも目の不自由な人々には公共空間を別個独立した成人として占める権利はないかのように設計された☆27。この状況は、私たちがケアへのニーズについて述ぺるさいには、時間をかけて真剣に省察するよう仕向けるはずだ。それというのも、人が(通常ではないか非対称的な)ケアを必要としているという観念は、ときに計略的であり、損傷のある多くの人びとの(公共空間が彼らを支援するように適切に設計されたならば得られるだろう)成人としての十全な別個独立の可能性を、覆い隠しているからである。したがって、人びとがケアを欲しかつ必要とするさいにそれを得られるようにすることと、人びとを他者に依存しなくてはならをい状況に押しやることとは、明確に区別されるべきである――たとえそのことが彼らの欲することでははないとしても。身体障碍のある人びとは、私たち全員がそうであるように、自らのニーズのために医療上のケアを欲している。だが彼らはまた、人生におけるさまざまな代案と機能に関する選択肢のある、それもほかの市民たちと平等の選択肢のある、平等な市民として尊重されることも欲している。ここでは、適△218 適応的選好形成の問題を避けることもできない。したがってたとえ人びとが、依存性こそ彼らが選好するものだと述べたとしても、その事実によってほかの選択肢の提供が停止されるべきではない。
 人間の能力を引きだすことの、構成された失敗。この問題は、知的損傷のある人びとのケースにおいて、いっそう深刻である。マイケル・べルべによるジェイミーの詳述は、ダウン症候群の子どもの変えられない認知的限界だと考えられてきた問題の多くが、実際には治療可能な身体的制約であることを示している。なかでも重要な時期に、周囲の探求を妨げる脆弱な首の筋肉。そして発話の発達を妨げる脆弱な舌の筋肉。これらの子どもたちは単に「ばか」で教育不可能だという先入観は、彼らが達成しえたことがらの正確な理解を妨げてきた。それはまさに、親たちとほかの擁護者たちが、認知上の発達を重視しそれに関する発見がなされることと、その知見にもとづくプログラムが実施されることとを、要求し続けたためにほかならない。アーサーの場合も、ほかの子どもたちとよい関係を築くことがどうしてもできない子どもであると、そして社会の構成貝には決してなりえない子どもであると、時期尚早に判断されていたかもしれない。だが、両親、教育者、そして(後で議論するように)最終的には法が、教育の公共的構想において社交性に大きな力点をおいたため、アーサーはほかのアスぺルガーの子どもたちと一緒に、公共の費用で学校に送られたのである。そこで彼は、優れた社会的スキルを身に付けて、友だちを作ってきた。
 すると要約すると、損傷のある人びとのための適切な社会目標として、可能力の異なるリストを、さらには可能力の異なる閾値を使用することは、実際には危険だということになる。なぜならそれは、困難で高くつくとされる目標を、達成できないか、あるいは達成すべきではないと、はじめから想定することで責任逃れをするという、楽な方法だからである。戦略的に正しい道筋は、交渉の余地のない一群の社会的権原として単独のリストを何度も繰り返し示すことであり、また障碍のあるすべての子どもを、ほかの市△219 民たちのために設定したのと同じか能力の閾値まで引き上げるよう、根気よく努力することだと思われる。治療とプログラムは、実にすべての子どもに対してそうであるべきように、いかにも個別化されるべきである。だが、中心的な可能力はすべての市民にとって非常に重要であり、またゆえに通常ではない損傷のある人びとのために支払われるべき費用に値すると主張することは、政治目的のためには概して理にかなっている。これを主張するよい方法のひとつは、人間的繁栄・開花の言語を用いて、ジェイミーとアーサーはよい人間の生の前提条件のすべてを受けるにふさわしいということと、彼らは適切な教育とケアによってそれらを得ることができるということを、述べることである。
 このようにリストの単独性を強調することは、戦略的に重要であるのみならず、規範的にも重要である。それというのも、それは私たちが知的損傷のある人びと――人間共同体の構成員であり、よい人間の生を送る能力のある十全に平等な市民たち――に対して負っている尊重を想起させるからである。それはまた、いわゆる健常者と損傷のある人びととのあいだの連続性も思い起こさせる。教育が取り組むべき妨げは誰にでもあるのであり、またそれは可能であれば、個別化された取り組みでなければならない。そして適切なケアをもってすれば、誰もがリストにある中心的な機能をなしうるようになる。損傷のある人びとをあたかも異なる(そして下級の)種類に属しているかのように区別して追いやる代わりに、彼らには諸々のよい生に必要な手段への平等な権原があるということを、可能力アプローチは強く求める。
 政治目的のためにリストの単独性を主張することは、一見したところでは知的損傷のある人びとの個別状況を無視するような方略であるが、実のところ知的損傷のある人びとの個性を尊重するよい方法であるだろう。なぜなら(平等な尊重に関する本書の理論的関心に戻ると)私たちが述ぺているのは、知的損傷のある人びとはほかの誰もがそうであるように個人であり、分類される種類ではないということ、つまり△220 人類から区別される下級の種類ではないということだからである。このような種類の分類は、障碍のある人びとに社会的な烙印を押すやり方としてもっとも普及したもののひとつとなっている。社会的烙印に関するアーウィン・ゴフマンの有名な研究は、社会的烙印の作用、とくに損傷や障碍のある人びとに対する社会的烙印の作用の中心的特徴は、個性の否認であるということを一度ならず示している。つまり、そのような人との出会いのすべてが社会的烙印を押すような仕方で統合的に述べられ、そのような社会的烙印のある人は完全な人間ではないか、あるいは本当の人間ではないと私たちは考えるようになる、と☆28。そのような人が人間の生活においてもっとも正常な行為をすると、「健常者」はまるで「すごい! ある意味、あなたはまるで人間のようだ!」とでも言っているかのように、驚きを表明することがよくある☆29。もし私たちが「健常者」のために、ある可能力のストを採択し、別のリストを「ダウン症候群の子ども」のために採択するとすれば、両者を異なる種であるかのように扱うことになり、この有害な傾向を強めることになるだろう。そこには、「健常者」は個人であり(なぜなら彼らはそのことを知っており、また誰もそれを否定しないからである)、ダウン症候群の子どもは――その類型としての特性によってもっぱら定義された――有意義な個性および多様性のない種類であるという、嘆かわしい含蓄がある。
 また、種の模範に重きをおくことは、セーシヤのような女性、つまり可能力のリストのすべてを自分で達成することは無理だろう、またそれらのいくつか(たとえば政治参加)は後見人が有する代理権を通じて達成する必要があるだろう、そのような人のケースを考える場合でさえも意味をなす。なぜなら、種の模範が私たちに伝えるのは、満足したチンパンジーの生が不運ではないように、セーシャの人生はその限りにおいて不運だということだからである。重度の知的損傷のある人びとは、高等動物と頻繁に比べられている。この類比は、私たちに動物の複雑な認知能力を再認識させるというように、ある意味で啓蒙的で△221 ありうる。だがほかかの点ではかなリミスリーデイングである。それというのもそれは、セーシャが正常な生の形態のある種に属しており彼女自身の生がそうであるということ、同様の能力のある仲間の種の構成員に囲まれおり彼らと性的関係および家族関係を築くことになるいうこと、同様の能力のある種の構成員に囲まれており彼らと遊び生活できるということ、これらのことを示唆するからである。しかしこれは間違っている。セーシャ、彼女の損傷には欠けている人間に囲まれている。彼女は、彼女の種の共同体のたいていの成人の構成員にはある(そしてほかの種の動物も通常は達成する)相対的な別個独立性に欠けている。彼女は、かなりの苦痛と病気とともに暮らしている。このすべてが真である限り、彼女の生がセクシュアリティと子育てにおける自発的な喜びのあるものとなる見込みは減じられたものであるし、またおそらく彼女の生が有意義な政治活動を自ら開始するものである見込みは皆無だろう。これらのすべてにおいて彼女は、平均的なチンパンジーと非常に異なっている。また、種に典型的な諸能力を有する動物の生には、人間の場合であろうと、人問以外の場合であろうと、有機体的な調和がある。不調和であるよりは調和のとれた仕方で、さまざまな能力がかみ合う。対照的に、セーシャには愛、遊び、喜びの能力があるが、それらは彼女の認知レヴェルと運動神経の能力にはあまり関連していない。また、彼女には多くの苦痛をもたらす広範な身体障碍がある。したがって、私たちがはっきりと述べるべきは、リストにあるいくつかの可能力は彼女には得られないものであり、このことはきわめて不運ではあるけれども、それは彼女が異なる生の形態で繁栄・開花しているしるしではないということだと、私には思われる。社会は、彼女にできるだけ多くの可能力を直接に与えるよう努力すべきである。そして力づけが直接的には不可能な場合には、社会は後見の適切な制度編成を通じて彼女に可能力を与えるべきである。だが、後見制度はどんなによく設計されたものであっても(これについてはすぐ後でもっと述べる)、セーシャにとっては、彼女自身で可△222 能力を持つことのよさにはかなわない。本書がリストにある可能力を強調してきたのは、それらに人間的な重要性があるからである。機能のためのそれら選択肢の評価を踏まえれば、それらは本当に重要でありまたよいものだと言える。誰かがそれらを手にしていないとき、それが誰かのせいであろうとなかろうと不幸な事態が生じている。セーシャが繁栄・開花しうるとすれば、その唯一の仕方は、人間としてである。
 これは、セーシャの生はよいものでありかつ多くの面で成功しているとは判断しえない、という意味ではない。もし彼女の症伏が治寮可能で、可能力の閥値まで引き上げることができるのであれば、私たちはそうするだろうという意味である。なぜなら、人間がそのような仕方で機能しうるのはよいことであり、実のところ重要であるからだ。もしそのような治療が可能になるのであれば、社会はその経費を支払う義務を負うであろうし、その義務をないものとするために彼女には「自然によって」損傷があるなどとは言えないだろう。またさらに言えば、彼女がそれほど重度の損傷をともなって生まれてくることがなかったようにするよう、器質的損傷の遺伝子的側面を子宮内部で操作することができたならば、やはりまっとうな社会はそうするであろう。だがジェイミーとアーサーについてはそうではなない。なぜならまさに彼らには、人間にとって中心的であると本書が評価してきた一群の可能力を得る現実的な見込みがあるからである。したがってこの見解は、ダウン症候群やアスぺルガー症候群、あるいは目が見えないことや耳が聞こえないことを遺伝子操作によって取り除くことを求めるわけではないが、それをはっきりと拒否しているわけでもない。
 セーシャに対するを公共政策について考えるさい、リストが果たす主な役割は、彼女がその内部で生きている公共的かつ政治的な制度編成が、はたしてリストにあるすべての可能力の社会的基盤を彼女に供与してきたのかという問題を、提起することにあるだろう。もしそうした基盤を提供してきたのであれば、公△223 共的構想は務めを果たしたことになる――たとえ彼女が器質的損傷のために、ひとつあるいはそれ以上の領域における機能を十分に選択しえないとしても。現時点では、リストにある多くの可能力をセーシャに与えるために費やされた労力のはとんどは、明らかに彼女の両親によってなされてきた。両親は、公共的かつ政治的な構想の欠陥にもめげずにそうしてきたのである(キテイの本の第一義的な焦点はここにおかれている)。公共文化は、ジェイミーとアーサーのような子どもたちのニーズに対して、応答性を段階的に高めてきた。セーシャが受けているケアには、州とその公共政策からの支援がほとんどないままである。それでもなおセーシャの生は多くの仕方で尊厳と実りある人問的生となっているが、それは彼女の両親とほかの介護者たちの労力のおかげである。彼女の成功は、彼女の両親が高学歴で比較的裕福だという事実に、ある程度は依存している。このようにきわめて重要なことがらが、こうした運に左右されることを、正義にかなった社会は認めないだろう。
 もっと具体的に言おう。リストおよびその閾値は、セーシャに関する公共政策をどう導くのか? これについて考えるさいには、リストにある大きな項目の方を、より詳細な項目よりも重視すべきである。したがって、たとえセーシャが潜在的な投票者にはなれないとしても、彼女に政治的な成員資格と何らかの政治活動の可能性を与えるために、投票のほかにどのような方法がありうるかを問うべきである(彼女の完全な政治的平等のしるしとして、後見人を通じた投票も、認められるだろうけれども)。ダウン症候群の市民たちが、彼らの政治的環境に成功裏に参加してきたことは明らかである☆31。私たちは、セーシャにもそれらの機能のいくつかを得る可能性があるようにするにはどのような制度編成をなすぺきかについて、問うべきである。繰り返すが、さまざまな知的損傷のある市民たちには、雇用を受ける能力がある。セーシャが仕事を持つことができないのであれば、彼女が自らの物質的環境を管理する何らかの手段を得るように△224 するために、どのような方法があるだろうか? また、もし力添えがあったとしても、セーシャが自分で子どもを育てケアすることできないということになれば(これはまんざら分かりきったことではないが)、彼女の生をより豊かなものとするために、子どもたちとの関係性としてどのような代替案がひねりだされるだろうか? 可能力の単独リストを維持することは、こうした問題のすべてを引き起こす。もし知的な損傷と障得のある人びとが市民として完全に平等になるべきだとすれば、これらはきわめて重要な問題である。」

■言及

◆柏葉 武秀 2008 「倫理学は障害学に届きうるのか――リベラリズムとディスアビリティ」、障害学会第5回大会 於:熊本学園大学 http://www.jsds.org/jsds2008/2008html/d_kashiwaba.htmhttp://www.jsds.org/jsds2008/2008_genko/d2-kashiwaba_genko.txt

◆2008 「格差と障害者」 http://social-issues.org/community/node/85

◆榊原 賢二郎 20161110 『社会的包摂と身体――障害者差別禁止法制後の障害定義と異別処遇を巡って』,生活書院,398p.

◆立岩 真也 2018/05/01 「石川左門達/ありのまま舎――――連載・145」,『現代思想』46-(2018-05):-

 「□予定再々度+書いている場所について
 前回検討した榊原[2016]については続きがある。その本でも取り上げられているヌスバウム(Nussbaum[2006=2012])がおかしなことを言っていることも指摘しておかねばならないと思う。あと二回ほど書いて「理論篇」として秋に刊行してもらう。ただ、今回からしばらく、昨年いったん中断した「歴史篇」の続きを書いて一冊分を終わらせ、やはり秋に本にする。二〇一七年には、筋ジストロフィーで国立療養所に入院し、そしてそこを一九八〇年代初めに出た高野岳志について二回、福嶋あき江について二回書いた。その続きを二回続ける。その後、その前の部分をまとめる。つまり、二人について書く前に主に六〇年代の国立療養所に関わる話をかなり長く書いたのだが、それが七〇年代の体制にどのようにつながったのかについて、それが八〇年代の高野・福島には使えないものであったのかについて、覚え書のようなものを書く。それにも二回ほどを要する。そして、「理論篇」の続きをその後やはり二回ほど書く。こうして計六回足して、二冊をまとめる。」

◆立岩 真也 2018/09/01 「連載・149」,『現代思想』46-(2018-09):-

◆立岩 真也 2018 『(題名未定 2018b2)』,青土社 文献表


UP:20090110 REV:20100802, 20180502
Nussbaum, Martha C.  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK病者障害者運動史研究 
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