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Frontiers of Justice:Disability, Nationality, Species Membership

Nussbaum, Martha C. 2006 Harvard University Press
=20120808 神島裕子訳,『正義のフロンティア――障碍者・外国人・動物という境界を越えて』,法政大学出版局


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last update:20100802

Nussbaum, Martha C. 2006 Frontiers of Justice:Disability, Nationality, Species Membership, Harvard University Press, 2007/4/30 pb New edition, Belknap Press of Harvard University Press, 512p. ISBN-10: 0674024109 ISBN-13: 978-0674024106 [amazon][kinokuniya] ※=20120808 神島裕子訳,『正義のフロンティア――障碍者・外国人・動物という境界を越えて』,法政大学出版局,568p. ISBN-10: 4588603256 ISBN-13: 978-4588603259 [amazon][kinokuniya] ※


■目次

Abbreviations
Introduction
1. Social Contracts and Three Unsolved Problems of Justice
i. The State of Nature
ii. Three Unsolved Problems
iii. Rawls and the Unsolved Problems
iv. Free, Equal, and Independent
v. Grotius, Hobbes, Locke, Hume, Kant
vi. Three Forms of Contemporary Contractarianism
vii. The Capabilities Approach
viii. Capabilities and Contractarianism
ix. In Search of Global Justice
2. Disabilities and the Social Contract
i. Needs for Care, Problems of Justice
ii. Prudential and Moral Versions of the Contract; Public and Private
iii. Rawls's Kantian Contractarianism: Primary Goods, Kantian Personhood, Rough Equality, Mutual Advantage
iv. Postponing the Question of Disability
v. Kantian Personhood and Mental Impairment
vi. Care and Disability: Kittay and Sen
vii. Reconstructing Contractarianism?
3. Capabilities and Disabilities
i. The Capabilities Approach: A Noncontractarian Account of Care
ii. The Bases of Social Cooperation
iii. Dignity: Aristotelian, not Kantian
iv. The Priority of the Good, the Role of Agreement
v. Why Capabilities?
vi. Care and the Capabilities List
vii. Capability or Functioning?
viii. The Charge of Intuitionism
ix. The Capabilities Approach and Rawls's Principles of Justice
x. Types and Levels of Dignity: The Species Norm
xi. Public Policy: The Question of Guardianship
xii. Public Policy: Education and Inclusion
xiii. Public Policy: The Work of Care
xiv. Liberalism and Human Capabilities
4. Mutual Advantage and Global Inequality: The Transnational Social Contract
i. A World of Inequalities
ii. A Theory of Justice: The Two-Stage Contract Introduced
iii. The Law of Peoples: The Two-Stage Contract Reaffirmed and Modified
iv. Justification and Implementation
v. Assessing the Two-Stage Contract
vi. The Global Contract: Beitz and Pogge
vii. Prospects for an International Contractrarianism
5. Capabilities across National Boundaries
i. Social Cooperation: The Priority of Entitlements
ii. Why Capabilities?
iii. Capabilities and Rights
iv. Equality and Adequacy
v. Pluralism and Toleration
vi. An International "Overlapping Consensus"?
vii. Globalizing the Capabilities Approach: The Role of Institutions
viii. Globalizing the Capabilities Approach: What Institutions?
ix. Ten Principles for the Global Structure
6. Beyond "Compassion and Humanity": Justice for Nonhuman Animals
i. "Beings Entitled to Dignified Existence"
ii. Kantian Social-Contract Views: Indirect Duties, Duties of Compassion
iii. Utilitarianism and Animal Flourishing
iv. Types of Dignity, Types of Flourishing: Extending the Capabilities Approach
v. Methodology: Theory and Imagination
vi. Species and Individual
vii. Evaluating Animal Capabilities: No Nature Worship
viii. Positive and Negative, Capability and Functioning
ix. Equality and Adequacy
x. Death and Harm
xi. An Overlapping Consensus?
xii. Toward Basic Political Principles: The Capabilities List
xiii. The Ineliminability of Conflict
xiv. Toward a Truly Global Justice
7. The Moral Sentiments and the Capabilities Approach
Notes
References
Index

■引用・一部紹介(&翻訳:堀田義太郎)

3 Capability and Disability
xiii. Public Policy: The Work of Care
(13節 公共政策ーーケアという仕事)

ケアは、ケアされる者(the cared-for)とケア提供者双方の中心的ケイパビリティに多かれ少なかれ影響する。そして、ケイパビリティリストは、我々が採用したい政策を考察する際の社会的規準について非常に有用なセットを提供する。政策的課題は、ケアされる者とケアする者という二つの面をもつ。そして三つの「場所」がある。公的セクター、教育システム、そして職場である。(212)
ケイパビリティ・アプローチは、公的領域と私的領域というお馴染みのリベラルな区別を却下し、家族を社会的政治的制度とみなすことで、家族内の資源と機会の分配を重要な関心対象とする。ただ、家族生活への国家の干渉については、成人の結社の自由が実質的な制約を与えている。したがって、国家が単純に、夫婦でケア労働を平等に分割することを命令するというやり方は、受けいれ難いだろう。
では、法はこの問題にどう取り組むべきか?

エヴァ・キティは家族内の女性の仕事が労働とみなされない状況を是正する最良の方法は、ケア労働に従事する家族成員に直接賃金を払う(direct paymant)ことだと示唆している。この支払いは、問題の労働に対する社会的尊厳と承認を与えつつ、給料として扱われるべきである以上、所得調査なしでなされるべきである。(212)
 ※ 各国でのさまざまな実践例は省略。

現金支払いと収入支援は、公的セクターの役割である。だが、公的セクターの役割はもっと大きい。青少年事業(national youth service)がある。たとえばドイツでは、若者たちは、二年間の兵役につくか三年間の別のサービスに従事するか、という選択を与えられる。この別のサービスとは、ほとんどがケア労働である(213)。合衆国も他の国もこうしたプログラムから大きな利益を得られると思われるし、若く力のある若者が低コストでケア労働に就くようになるだろう。そして若者はこの仕事がどんなものかを学ぶだろうし、それがどれくらい重要で困難かを学ぶだろう。
この経験は政治的論争においても家族生活においても、彼らの態度を形成することが期待される。(213)
ケア労働が男性と女性両者の生活の一部として重要だということを公教育が強調することは、この種の仕事に対する男性の忌避感を打破する試みとして非常に望ましい。明らかにこの忌避感は生来の(innate)ものではない。それは、男らしさと成功についての社会的概念として教えられたものであり、別様に教えることが可能である。ケイパビリティ・アプローチを採用するならば、その人格に関する政治的概念は、ケアニーズを重要な側面として、子どもたちに教えることができるし、そうすべきである。教育は男性のケア活動への忌避感を変えることが可能だし、男らしさ等も変えることができる。そうすれば、ケアにかかわる仕事をより尊重することになるだろうし、それに対する支払いについての公的態度をより好意的にするだろう。また、家族内でこの仕事を分担することに対する忌避感を減らすだろう。(以上213)

だがさらに、別の変革が必要である。職場の変革だ。ジョアン・ウィリアムズが強調するように、公的なお膳立てがよくても、キャリア構造が人々に、もし家族と両親のケア労働サポート政策を利用すれば二軍(second-class)の労働者とみなすぞ、というメッセージを送り続けている限り、改善は期待できない。(214-5)

スウェーデンでも結局、依存者のケアの仕事に就いているのはほとんどが女性である。(215)男性は自分の出世を犠牲にしたくないし、周辺パートタイム労働者とみなされたくないからだ。現在の職場はフルタイムで働くことが期待されており、パートタイムの労働は機会を大きく失うことになる。アメリカの法曹界はもっと悪い。長時間就労に対するマッチョな競争があり、時間外労働を拒否する人は二軍選手(marginal player)とみなされる。(215)
ケイパビリティ・アプローチによれば、公共政策の主要な目的は、柔軟性と新たな倫理規範を通した職場の変革にある。そして、これらの変化と公教育における変化は、強い意味で相補的である。(215) つまり若い労働者は彼の生活の一部としてケアを考えるようになり、リジッドな職場を受け入れる動機は弱くなる。そしてフレックスタイムとパートタイムという選択肢を提示する雇用者は、最も有能な労働者を引き付けることになるだろう(215-6)。ウィリアムズは、こうした変化は、アメリカの極めてリジッドな職場環境の中でさえ、ある程度はすでに生じてきていると論じている。(216)

■引用 第3章「可能力と障碍」10「尊厳の種類とレヴェル――種の規範」(翻訳は訳書)
x. Types and Levels of Dignity: The Species Norm

 「さて、この議論が向かっていた問題に、やっとたどり着いた。可能力の政治的なリストは、知的損傷の△215 ある市民たちの人生を考慮するさいにも、同じであるべきだろうか? 人間の特徴的な機能への本書のアリストテレス的な着目は、この点で困惑を引き起こすようも思われる。セーシャが今後も投票しない理由は、彼女が投票を禁止する包括的な価値の構想を有しているからではなく、彼女の認知能力が有意味な投票の可能性のレヴェルに達することが決してないからである。同様に、彼女にとって報道の自由は何の意味も持たない。それはユダヤ教の超正統主義のためではなく、彼女の認知レヴェルが、読むことと言語コミュニケーションとを不可能にしているためである。社会がどんなに努力したところで、問題とされる可能力をセーシャが何かしら意味のある仕方で有していると言えるレヴェルまで、彼女を引き上げることはできない。ここで、種の模範を重視する見解は、セーシャの生の形態はまったく異なると言うか、私たちの最大限の努力にもかかわらず彼女は決して繁栄・開花した人間の生活を手にすることはできないと言うかの、いずれかを選ばなくてはならないように思われるだろう。
 第一の(セーシャの生の形態はまったく異なるという)返答は、一部のきわめて極度の器質的損傷に対しては当てはまるだろう。いくつかの種類の知的喪失はあまりに深刻なため、その生は人間の生ではまったくなく、異なる形態の生であるとするのが理にかなっているように思われる。持続的な植物状態にある人、あるいは無脳症の子どもを、人間と呼ぶように私たちを導くのは、情操だけである。私たちがセーシャの生を人間的なものと呼ぶことを願うのはなぜだろうか? そのことがどんな違いを生むのだろうか? もちろん、彼女が人間の身体を持っておりかつ二人の人間の子どもであるという事実が、ここで大きな役割を果たしており、また私たちの思考を歪めるのだろう。彼女の生はなにかほかの種類の生であると言うのが適切である可能性は、すぐさま除外すべきではない。「人間」という言葉は単なる比喩にとどまらないものであり、彼女の生は人問に特徴的な生の形態にはあまり似ていないのだ、と。これは、持続的な植物状△216 態と無脳症の子どもという先に私が言及した二つのケースでは、適切な物言いである。なぜなら、意識覚醒および他者とのコミュニケーションの可能性のすべてが欠けているからである。私たちがセーシャの生を人間の生であると実際に考えている限りにおいて――そのさい私たちは思い違いをしているわけではないだろう――そのように私たちが考えているのはたぶん、もっとも重要な人間の可能力の少なくともいくつかが彼女の生に一目瞭然としてあるためであり、またそれらの可能力つまり他者を愛し他者と能力、知覚、動きと遊びに喜びを見いだすことが、彼女を、何かほかのものではなく、人間共同体に結びつけているためである。この意味で、彼女が人間の両親の子どもであるという事実は重要である。彼女の生は人間関係のネットワークに結びついており、彼女はすべてではないにせよそうした関係の多くに、積極的に参加することができるのである。
 それでもまだ、最善のケアならばこのリストにあるすべての可能力を社会的に適切な闘値レヴェルまで生みだすとは、とうてい言えないだろう。ならば私たちは、社会目標として、彼女のために異なるリストを導入すべきだろうか? また、彼女が達成すべきことがらに関する私たちの政治目標として、そのリストの項目に異なる闘値を導入すべきだろうか?
 アーサーとジェイミーのケースは、実際的な観点からしてリストをいじくりまわすことは非常に危険だということを示している。現代のあらゆる社会では、器質的損傷のある人びとの能力と彼らの潜在的な社会貢献とを、過小評価するという傾向が根強い。それはひとつには、そうした能力を完全に支援することが非常に高くつくため、重度の損傷のある人びとが実際には多くの場合に高いレヴェルで機能しうるという証拠を、避けて通る方が容易だからである。そのような損傷の不可避性と「自然っぼさ」を示唆する用語の使用が、損傷のある人びとを利する目的で物事を大きく変化させるために十分な資△217 金を投じることの拒絶を、覆い隠している。目が見えない、あるいは耳が聞こえないという理由だけで高等教育や政治生活に参加することがとにかく出来ないとか、車いす利用者という理由だけでスポーツに参加したり幅広い仕事に就いたりすることがとにかくできないとか、このような思い込みがごく最近までなされてきただろう。まったくもって社会的であった諸々の妨げが、自然本性的なものだと思われてきたのである。したがって、これらの人びとに必要なものを提供するために公共施設を再設計するというお金のかかる問題は、回避可能だと思われていた。
 それにともなう出費は、損傷のある人びとを永久的かつ必然的に他者に依存する人びととして特徴づけることによって、拒まれることが多かった。そのため、視覚的な損傷のある人びとのための公共空間は、彼らが目の見えるガイドと一緒に回らなければならないような仕方で描かれた。不法行為法は、あたかも目の不自由な人々には公共空間を別個独立した成人として占める権利はないかのように設計された☆27。この状況は、私たちがケアへのニーズについて述ぺるさいには、時間をかけて真剣に省察するよう仕向けるはずだ。それというのも、人が(通常ではないか非対称的な)ケアを必要としているという観念は、ときに計略的であり、損傷のある多くの人びとの(公共空間が彼らを支援するように適切に設計されたならば得られるだろう)成人としての十全な別個独立の可能性を、覆い隠しているからである。したがって、人びとがケアを欲しかつ必要とするさいにそれを得られるようにすることと、人びとを他者に依存しなくてはならない状況に押しやることとは、明確に区別されるべきである――たとえそのことが彼らの欲することでははないとしても。身体障碍のある人びとは、私たち全員がそうであるように、自らのニーズのために医療上のケアを欲している。だが彼らはまた、人生におけるさまざまな代案と機能に関する選択肢のある、それもほかの市民たちと平等の選択肢のある、平等な市民として尊重されることも欲している。ここでは、適△218 適応的選好形成の問題を避けることもできない。したがってたとえ人びとが、依存性こそ彼らが選好するものだと述べたとしても、その事実によってほかの選択肢の提供が停止されるべきではない。
 人間の能力を引きだすことの、構成された失敗。この問題は、知的損傷のある人びとのケースにおいて、いっそう深刻である。マイケル・べルべによるジェイミーの詳述は、ダウン症候群の子どもの変えられない認知的限界だと考えられてきた問題の多くが、実際には治療可能な身体的制約であることを示している。なかでも重要な時期に、周囲の探求を妨げる脆弱な首の筋肉。そして発話の発達を妨げる脆弱な舌の筋肉。これらの子どもたちは単に「ばか」で教育不可能だという先入観は、彼らが達成しえたことがらの正確な理解を妨げてきた。それはまさに、親たちとほかの擁護者たちが、認知上の発達を重視しそれに関する発見がなされることと、その知見にもとづくプログラムが実施されることとを、要求し続けたためにほかならない。アーサーの場合も、ほかの子どもたちとよい関係を築くことがどうしてもできない子どもであると、そして社会の構成員には決してなりえない子どもであると、時期尚早に判断されていたかもしれない。だが、両親、教育者、そして(後で議論するように)最終的には法が、教育の公共的構想において社交性に大きな力点をおいたため、アーサーはほかのアスぺルガーの子どもたちと一緒に、公共の費用で学校に送られたのである。そこで彼は、優れた社会的スキルを身に付けて、友だちを作ってきた。
 すると要約すると、損傷のある人びとのための適切な社会目標として、可能力の異なるリストを、さらには可能力の異なる閾値を使用することは、実際には危険だということになる。なぜならそれは、困難で高くつくとされる目標を、達成できないか、あるいは達成すべきではないと、はじめから想定することで責任逃れをするという、楽な方法だからである。戦略的に正しい道筋は、交渉の余地のない一群の社会的権原として単独のリストを何度も繰り返し示すことであり、また障碍のあるすべての子どもを、ほかの市△219 民たちのために設定したのと同じか能力の閾値まで引き上げるよう、根気よく努力することだと思われる。治療とプログラムは、実にすべての子どもに対してそうであるべきように、いかにも個別化されるべきである。だが、中心的な可能力はすべての市民にとって非常に重要であり、またゆえに通常ではない損傷のある人びとのために支払われるべき費用に値すると主張することは、政治目的のためには概して理にかなっている。これを主張するよい方法のひとつは、人間的繁栄・開花の言語を用いて、ジェイミーとアーサーはよい人間の生の前提条件のすべてを受けるにふさわしいということと、彼らは適切な教育とケアによってそれらを得ることができるということを、述べることである。
 このようにリストの単独性を強調することは、戦略的に重要であるのみならず、規範的にも重要である。それというのも、それは私たちが知的損傷のある人びと――人間共同体の構成員であり、よい人間の生を送る能力のある十全に平等な市民たち――に対して負っている尊重を想起させるからである。それはまた、いわゆる健常者と損傷のある人びととのあいだの連続性も思い起こさせる。教育が取り組むべき妨げは誰にでもあるのであり、またそれは可能であれば、個別化された取り組みでなければならない。そして適切なケアをもってすれば、誰もがリストにある中心的な機能をなしうるようになる。損傷のある人びとをあたかも異なる(そして下級の)種類に属しているかのように区別して追いやる代わりに、彼らには諸々のよい生に必要な手段への平等な権原があるということを、可能力アプローチは強く求める。
 政治目的のためにリストの単独性を主張することは、一見したところでは知的損傷のある人びとの個別状況を無視するような方略であるが、実のところ知的損傷のある人びとの個性を尊重するよい方法であるだろう。なぜなら(平等な尊重に関する本書の理論的関心に戻ると)私たちが述ぺているのは、知的損傷のある人びとはほかの誰もがそうであるように個人であり、分類される種類ではないということ、つまり△220 人類から区別される下級の種類ではないということだからである。このような種類の分類は、障碍のある人びとに社会的な烙印を押すやり方としてもっとも普及したもののひとつとなっている。社会的烙印に関するアーウィン・ゴフマンの有名な研究は、社会的烙印の作用、とくに損傷や障碍のある人びとに対する社会的烙印の作用の中心的特徴は、個性の否認であるということを一度ならず示している。つまり、そのような人との出会いのすべてが社会的烙印を押すような仕方で統合的に述べられ、そのような社会的烙印のある人は完全な人間ではないか、あるいは本当の人間ではないと私たちは考えるようになる、と☆28。そのような人が人間の生活においてもっとも正常な行為をすると、「健常者」はまるで「すごい! ある意味、あなたはまるで人間のようだ!」とでも言っているかのように、驚きを表明することがよくある☆29。もし私たちが「健常者」のために、ある可能力のリストを採択し、別のリストを「ダウン症候群の子ども」のために採択するとすれば、両者を異なる種であるかのように扱うことになり、この有害な傾向を強めることになるだろう。そこには、「健常者」は個人であり(なぜなら彼らはそのことを知っており、また誰もそれを否定しないからである)、ダウン症候群の子どもは――その類型としての特性によってもっぱら定義された――有意義な個性および多様性のない種類であるという、嘆かわしい含蓄がある。
 また、種の模範に重きをおくことは、セーシャのような女性、つまり可能力のリストのすべてを自分で達成することは無理だろう、またそれらのいくつか(たとえば政治参加)は後見人が有する代理権を通じて達成する必要があるだろう、そのような人のケースを考える場合でさえも意味をなす。なぜなら、種の模範が私たちに伝えるのは、満足したチンパンジーの生が不運ではないように、セーシャの人生はその限りにおいて不運だということだからである。重度の知的損傷のある人びとは、高等動物と頻繁に比べられている。この類比は、私たちに動物の複雑な認知能力を再認識させるというように、ある意味で啓蒙的で△221 ありうる。だがほかの点ではかなリミスリーディングである。それというのもそれは、セーシャが正常な生の形態のある種に属しており彼女自身の生がそうであるということ、同様の能力のある仲間の種の構成員に囲まれおり彼らと性的関係および家族関係を築くことになるということ、同様の能力のある種の構成員に囲まれており彼らと遊び生活できるということ、これらのことを示唆するからである。しかしこれは間違っている。セーシャ、彼女の損傷には欠けている人間〔ママ〕に囲まれている。彼女は、彼女の種の共同体のたいていの成人の構成員にはある(そしてほかの種の動物も通常は達成する)相対的な別個独立性に欠けている。彼女は、かなりの苦痛と病気とともに暮らしている。このすべてが真である限り、彼女の生がセクシュアリティと子育てにおける自発的な喜びのあるものとなる見込みは減じられたものであるし、またおそらく彼女の生が有意義な政治活動を自ら開始するものである見込みは皆無だろう。これらのすべてにおいて彼女は、平均的なチンパンジーと非常に異なっている。また、種に典型的な諸能力を有する動物の生には、人間の場合であろうと、人問以外の場合であろうと、有機体的な調和がある。不調和であるよりは調和のとれた仕方で、さまざまな能力がかみ合う。対照的に、セーシャには愛、遊び、喜びの能力があるが、それらは彼女の認知レヴェルと運動神経の能力にはあまり関連していない。また、彼女には多くの苦痛をもたらす広範な身体障碍がある。したがって、私たちがはっきりと述べるべきは、リストにあるいくつかの可能力は彼女には得られないものであり、このことはきわめて不運ではあるけれども、それは彼女が異なる生の形態で繁栄・開花しているしるしではないということだと、私には思われる。社会は、彼女にできるだけ多くの可能力を直接に与えるよう努力すべきである。そして力づけが直接的には不可能な場合には、社会は後見の適切な制度編成を通じて彼女に可能力を与えるべきである。だが、後見制度はどんなによく設計されたものであっても(これについてはすぐ後でもっと述べる)、セーシャにとっては、彼女自身で可△222 能力を持つことのよさにはかなわない。本書がリストにある可能力を強調してきたのは、それらに人間的な重要性があるからである。機能のためのそれら選択肢の評価を踏まえれば、それらは本当に重要でありまたよいものだと言える。誰かがそれらを手にしていないとき、それが誰かのせいであろうとなかろうと不幸な事態が生じている。セーシャが繁栄・開花しうるとすれば、その唯一の仕方は、人間としてである。
 これは、セーシャの生はよいものでありかつ多くの面で成功しているとは判断しえない、という意味ではない。もし彼女の症伏が治寮可能で、可能力の閥値まで引き上げることができるのであれば、私たちはそうするだろうという意味である。なぜなら、人間がそのような仕方で機能しうるのはよいことであり、実のところ重要であるからだ。もしそのような治療が可能になるのであれば、社会はその経費を支払う義務を負うであろうし、その義務をないものとするために彼女には「自然によって」損傷があるなどとは言えないだろう。またさらに言えば、彼女がそれほど重度の損傷をともなって生まれてくることがなかったようにするよう、器質的損傷の遺伝子的側面を子宮内部で操作することができたならば、やはりまっとうな社会はそうするであろう。だがジェイミーとアーサーについてはそうではなない。なぜならまさに彼らには、人間にとって中心的であると本書が評価してきた一群の可能力を得る現実的な見込みがあるからである。したがってこの見解は、ダウン症候群やアスぺルガー症候群、あるいは目が見えないことや耳が聞こえないことを遺伝子操作によって取り除くことを求めるわけではないが、それをはっきりと拒否しているわけでもない。
 セーシャに対するを公共政策について考えるさい、リストが果たす主な役割は、彼女がその内部で生きている公共的かつ政治的な制度編成が、はたしてリストにあるすべての可能力の社会的基盤を彼女に供与してきたのかという問題を、提起することにあるだろう。もしそうした基盤を提供してきたのであれば、公△223 共的構想は務めを果たしたことになる――たとえ彼女が器質的損傷のために、ひとつあるいはそれ以上の領域における機能を十分に選択しえないとしても。現時点では、リストにある多くの可能力をセーシャに与えるために費やされた労力のはとんどは、明らかに彼女の両親によってなされてきた。両親は、公共的かつ政治的な構想の欠陥にもめげずにそうしてきたのである(キテイの本の第一義的な焦点はここにおかれている)。公共文化は、ジェイミーとアーサーのような子どもたちのニーズに対して、応答性を段階的に高めてきた。セーシャが受けているケアには、州とその公共政策からの支援がほとんどないままである。それでもなおセーシャの生は多くの仕方で尊厳と実りある人問的生となっているが、それは彼女の両親とほかの介護者たちの労力のおかげである。彼女の成功は、彼女の両親が高学歴で比較的裕福だという事実に、ある程度は依存している。このようにきわめて重要なことがらが、こうした運に左右されることを、正義にかなった社会は認めないだろう。
 もっと具体的に言おう。リストおよびその閾値は、セーシャに関する公共政策をどう導くのか? これについて考えるさいには、リストにある大きな項目の方を、より詳細な項目よりも重視すべきである。したがって、たとえセーシャが潜在的な投票者にはなれないとしても、彼女に政治的な成員資格と何らかの政治活動の可能性を与えるために、投票のほかにどのような方法がありうるかを問うべきである(彼女の完全な政治的平等のしるしとして、後見人を通じた投票も、認められるだろうけれども)。ダウン症候群の市民たちが、彼らの政治的環境に成功裏に参加してきたことは明らかである☆31。私たちは、セーシャにもそれらの機能のいくつかを得る可能性があるようにするにはどのような制度編成をなすぺきかについて、問うべきである。繰り返すが、さまざまな知的損傷のある市民たちには、雇用を受ける能力がある。セーシャが仕事を持つことができないのであれば、彼女が自らの物質的環境を管理する何らかの手段を得るように△224 するために、どのような方法があるだろうか? また、もし力添えがあったとしても、セーシャが自分で子どもを育てケアすることできないということになれば(これはまんざら分かりきったことではないが)、彼女の生をより豊かなものとするために、子どもたちとの関係性としてどのような代替案がひねりだされるだろうか? 可能力の単独リストを維持することは、こうした問題のすべてを引き起こす。もし知的な損傷と障得のある人びとが市民として完全に平等になるべきだとすれば、これらはきわめて重要な問題である。」
※セーシャ:「先天性の脳性麻痺と重度の知的発達遅滞」([113-114])
※アーサー:アスペルガー([114-115])、ジェイミー:ダウン症([115-116])

■言及

◆柏葉 武秀 2008 「倫理学は障害学に届きうるのか――リベラリズムとディスアビリティ」、障害学会第5回大会 於:熊本学園大学 http://www.jsds.org/jsds2008/2008html/d_kashiwaba.htmhttp://www.jsds.org/jsds2008/2008_genko/d2-kashiwaba_genko.txt

◆2008 「格差と障害者」 http://social-issues.org/community/node/85

◆榊原 賢二郎 20161110 『社会的包摂と身体――障害者差別禁止法制後の障害定義と異別処遇を巡って』,生活書院,398p.

 「潜在能力アプローチの限界──スティグマ化の問題
 (→第3章「潜在能力と異別処遇」)
 すでに述べたように、本書は包摂的異別処遇という言葉を用いており、異△006 別処遇であっても包摂的になりうるという立場に立つ。こうした立場をとることで、本書は潜在能力アプローチに近づく。センやヌスバウムは、個々人の平等あるいは十分な潜在能力を保障するためには、手厚い財の配分や特別な制度編成も必要であるという立場をとっている。これは包摂に向けた異別処遇として理解することができ、本書の立場と重なる。
 しかし本書は潜在能力アプローチを理論の枠組みとして採用しなかった。その理由は、潜在能力アプローチが障害者、特に重度障害者の生に否定的な価値づけを行なうこと(スティグマ化)の可能性を回避できないことにある。潜在能力は、個人がなりうるあり方やなしうる事柄の幅であり、財を手厚く配分することにより、一定程度改善することができる。しかし、重度障害者を考慮した時に、財の配分だけで潜在能力の少なさが解消されるとは限らない。もしも非常に多くの財をその人に配分しても、潜在能力が低い水準にとどまるとすれば、その人の生は不幸な生としてスティグマ化されてしまう。
 こうした状況が生じるのは、潜在能力アプローチが、社会的関係の網の目の中で生じる社会的排除/包摂という現象を、個人の持つ潜在能力に単純化してしまうからである。これに対して本書の枠組みは、特定の時点で解消できない障害を、あくまでも排除する社会のあり方に差し戻すことを可能にする。それが可能なのは、第一に包摂/排除や処遇といったものを障害の定義に組み込んでいるため、包摂/排除し処遇する社会を問い直すことが可能になるからである。また第二に、社会というシステムが閉じており、社会のコミュニケーションはコミュニケーションからしか生まれてこないという考え方(自己塑成)を採用したためである。本書の理論は、障害者のスティグマ化を回避する理論という性質を持つ。」(〔6-7〕)

「第3章 潜在能力と異別処遇──個人への価値付与を巡って

3.1 はじめに──障害問題と潜在能力アプローチ
 […]
 本書の結論の一端を先取りすれば次のようになる。柏葉[2011: 76]の整理によれば、障害の社会モデルが正義論に課す制約は、次の二つに整理される。

制約1:正義論は社会環境整備、再構築への要求に応えられるのでなくてはならない
制約2:障害者への配慮が障害者にスティグマを強いることになってはならない

 柏葉に従えば、センの潜在能力アプローチは、制約1は満たすが、制約2は満たさない可能性もある。これに対して、ヌスバウムの潜在能力アプローチは、制約1・2をともに満たす[ibid.]。したがって、ヌスバウムにおけるような形であれば、障害問題に対しては潜在能力アプローチを採用すれば良いことになる。
 本書の見解はこれとは異なる。センのみならずヌスバウムの議論も、制約2を満たしていないのであって、それは潜在能力の強調により論理必然的に導かれる。潜在能力アプローチは、確かに異別処遇を可能にした。しかしそれは、異別処遇が障害者の生のスティグマ化に転化する回路を遮断していない。そのため障害問題に潜在能力アプローチを用いることは適切ではなく、むしろ前章で述べたような枠組みを用いて初めてこうした制約は充足されるというのが本書の主張である。
 以下ではまず、センとヌスバウムの議論を参照し、このことを確かめる。その前提として、先にロールズ正義論に一瞥を加えておく。続いて、これらの潜在能力アプローチとはやや異なる形で、障害者の生のスティグマ化に取り組んでいる議論として、ろう文化・障害文化、および社会的役割価値付与(Social Role Valorization=SRV)を取り上げ検討を行う。最後に、これらとの比較で、自己塑成的障害論が有する特質を再検討する。

3.2 ロールズによる根源的排除
3.3 センの潜在能力アプローチ
3.4 ヌスバウムの潜在能力アプローチ

 それではヌスバウムの潜在能力アプローチはどうであろうか。柏葉は先述のように、ヌスバウムは障害者の生のスティグマ化を回避していると述べた。その根拠は、ヌスバウムが障害者と健常者の生を連続的なものとして扱っていることに求められるという。柏葉によれば、健常者も傷付きやすい存在であり、また人生の一部の段階では依存的であり、ケアを必要とする。そうであるならば、障害者を特別な配慮を要するものとしてカテゴライズする必要はない。これが、ヌスバウムが障害者の生に対する否定的評価を回避しえている点であると柏葉は述べる。
 しかし、こうした議論は成立しえない。連続性と評価の高低は端的に別問題であり、障害者が人生のより長い期間にわたって、様々な局面で否定的に評価されるという可能性は残るのである。そして実際に、ヌスバウムの潜在能力アプローチはセンよりも明示的に、障害者の生に対して否定的価値付与を行っている。このことを以下で確認することにしたい。
 ヌスバウム[Nussbaum 2006=2012]の潜在能力アプローチも、人がなしえたりなりえたりするものとしての潜在能力に着目する[ibid.: 84]。それは実際の機能というよりは、選択可能性を表現している[ibid.: 94]。正義に適った社会はこうした潜在能力を保障するが、そのためには変則的な制度編成、本書でいう異別処遇も要請されうる[ibid.: 117]。こうした意味では、ヌスバウムの潜在能力アプローチはセンのものと大きく重なっているが、相違点もある。
 相違点の一つは、センが潜在能力としていかなる項目が含まれるのかを示さなかったのに対して、ヌスバウムは潜在能力の具体的な項目を明示したことである。ヌスバウムは、10の大項目から成る潜在能力の一覧を掲げており、以下に大項目の項目名のみ抜粋する[ibid.: 90-92]。

〔ここから箇条書き〕
 ・生命
 ・身体の健康
 ・身体の不可侵性△190
 ・感覚
 ・感情
 ・実践理性
 ・連帯
 ・ほかの種との共生
 ・遊び
 ・自分の環境の管理
〔箇条書き終わり〕

 これらは人間の尊厳ある生活に要求される項目であり、正義に適った社会はこれらを保障しなければならないとされる。したがって、正義の尺度は、諸個人の生がこれらの潜在能力をどの程度有しているか、即ち諸個人がどの程度尊厳ある生を享受しているかという点に求められる。その評価は、ヌスバウムにおいては次のように行われる。一覧中のそれぞれの潜在能力には、真に人間的と目されたある閾値が設定される。ある個人の生が全ての潜在能力の閾値に達するのでなければ、その人の生は人間の尊厳に見合っているとはいえない。いずれか一つでも潜在能力が閾値を下回った場合、その潜在能力を別種の潜在能力で代替することはできない[ibid.: 85, 89]。この意味で、ヌスバウムの潜在能力アプローチは、個別要素の評価を重視する。
 ヌスバウムは、各個人が平等に尊厳を保障されることを要請している。しかし、潜在能力一覧の各項目においても平等が保障されることは求めていない。各潜在能力について求められるのは、閾値を超えること、即ち十分性である。確かに項目の性質によっては、閾値を満たすことは、当該項目の平等な保障によってはじめて可能となるものもある。例えば、投票権や宗教的自由は、平等に保障されて初めて適切に保障されたと言いうる。しかし例えば適切な住居に住めることのようなものについては、平等性と十分性は乖離するのであって、設定された閾値を超えることが重視される。そうした項目については、閾値を超えた水準における不平等は中心的な問題とはならない[ibid.: 334-338]。
 潜在能力一覧は、変更可能である。また、各地域の状況に合わせて具体化できるよう、潜在能力一覧およびそれに伴う閾値は、抽象的・一般的に定められる。しかしそうした抽象性・一般性の水準においては、潜在能力一覧は△191 普遍的であり、各国の全ての市民に対して適用されなければならないという[ibid.: 93]。この時重要になるのが機能と潜在能力の区別である。例えばアーミッシュの人々は政治参加に距離を置くが、この人々に政治参加の権利(「自分の環境の管理」の一部分)を含む上記の潜在能力一覧を適用することは、実際に彼らを政治参加させることとは異なる。あくまでも政治参加を全ての人々が選択可能であるという水準であれば、普遍的な合意が得られるのではないかとヌスバウムは論じている[ibid.: 212f.]。
 アーミッシュは、自らの価値観から投票しないのであった。他方重度知的障害者が投票しないのは、ヌスバウムによれば、価値観からではなく認知能力が投票可能な水準に達しないからであるという[ibid.: 216]。こうした場合にも、同一の潜在能力一覧が適用されるべきであるとヌスバウムは論じる。ヌスバウムは、正義論の単一の枠組みを、健常者のみならず障害者にも適用することを目指した。そうすることが、障害者の能力の過小評価を回避したり、公共空間の再設計を行ったりするのに必要であるとヌスバウムは述べる。そのため、健常者に用いられる潜在能力一覧を障害者にも用いることは不可欠になる[ibid.: 217-220]。しかしこのことは厄介な問題を引き起こす。重度知的障害者がこれらの潜在能力一覧のいくつかを満たせない場合、どのように考えれば良いであろうか。確かにヌスバウムは、尊厳は理性や他の特定の能力といった人格が持つ特性には依拠しないと述べている[ibid.: 12]。それでも仮に、価値というよりは能力によって、潜在能力を満たせない人がいるとすれば、そうした状況はどのように取り扱われるのであろうか。
 ヌスバウムの回答は明確である。彼女によれば、一部の重度知的障害者の生は人間の生ではあるが、不幸な生である。そうした不幸さからの救済は、最終的には損傷の除去に帰着する。ここでいう重度知的障害は、極度の知的喪失を含まない。ヌスバウムは極度の知的喪失、即ち持続的植物状態や無脳症にある生は、人間の生ではないと扱う。こうした状態においては、重要な一群の潜在能力が失われており、死に比されうるものであると彼女は述べる。他方、ヌスバウムが取り上げる重度知的障害者のセーシャには、もっとも重要な潜在能力のいくつかが明瞭にあり、人間の生として扱われるべきである。しかしセーシャはいくつかの潜在能力を手にすることができないと△192 いう。ヌスバウムによれば、先に挙げた政治参加の他、報道の自由もセーシャにとってはあまり関係ない。その他にもヌスバウムはセーシャのセクシュアリティや育児の可能性について否定的に論じている。ヌスバウムによれば、いくつかの潜在能力を得られない生は、健常者とは異なる形の生として位置付けることはできず、不幸な人間の生として扱う他はないとされる。もしもセーシャの知的損傷が治療可能であり、セーシャの生を潜在能力の閾値まで引き上げられるならそうするであろうとして、ヌスバウムは治療に期待を寄せる。それがセーシャの不幸さの回避につながるというのである。社会は治療経費を支払う義務があり、またまっとうな社会であれば、セーシャが有するような知的損傷が生じないよう、子宮内で遺伝子操作ができるのであればそうするであろうという[ibid.: 216-223]。
 こうしてヌスバウムは重度知的障害者の生に否定的評価を下す。そして、そうした否定的評価は、損傷が治療されない限り、その人自身に強固に結び付けられることになる。こうした事態は当然スティグマ化と把握することができよう。このスティグマ化は、結局人の存在と能力の評価を基礎として制度編成を導こうとする、潜在能力アプローチの本質的部分に由来している。確かに潜在能力アプローチは、ロールズ正義論のような排除は伴わず、かつニーズに応じて場合によっては手厚い分配も可能にする。しかし手厚い分配を要請するためには、そうした分配がない状況における当人の生を否定的に評価しなければならない。しかもここで評価される潜在能力は第一義的に個人に帰属する。確かに潜在能力は社会的処遇によっても影響されるが、個人のあり方によっても影響される。特に潜在能力の否定が個人の容易には変化しえない存在様態と結び付く時、それは当人の生それ自体への否定的評価に転化する。こうして潜在能力アプローチは、異別処遇をスティグマ化を経由して導くのである。
 ヌスバウムも、身体を無媒介に語り、損傷を身体内在的な所与として把握しており、このことがスティグマ化をもたらしている。ここで興味深いことは、ヌスバウムが単線的に解釈されたICIDHに依拠していることである。ヌスバウム[ibid.: 482f., 原書423f.]は註において、正常な身体的機能の喪失としての損傷(impairment)、損傷の結果としてなしえないこととして△193 の障害(disability)、その結果生じる競争上の不利としてのハンディキャップ(handicap)という用語法に言及する。これがICIDHの用語法であることは明確である。彼女によればこの用語法が障害関連文献で採用されている用語法であり、彼女もこれに従うよう努めると述べる(註2)。正義に適った社会環境においても損傷が機能に影響し続けるため、全ての障害を防ぐことはできないという。そこで議論の焦点はハンディキャップの予防であると彼女は述べている[loc. cit.]。こうしてヌスバウムの潜在能力アプローチはICIDHの単線的解釈に基づいている。このことは彼女が、まず身体内在的な損傷があり、その帰結として障害、更にはハンディキャップが生じると考えていることを示している。こうした枠組みにおいて先述のようなスティグマ化が生じるのは当然の帰結である。まず重度知的損傷があり、それが選択能力などの諸能力に影響を与える結果として、知的障害者は不利益を蒙るのであり、特に潜在能力集合が劣位に止まるというのであるから、知的損傷が否定されることになる。この知的損傷は身体内在的に把握され、通常変更しがたい状態と考えられているため、結局知的損傷の否定は知的障害者の生の否定につながる。ここには身体情報・処遇・帰責・排除という要素は見出されず、社会から有機体への無自覚な環境接触がスティグマ化をもたらしている。
 こうしたヌスバウムのいわば生物学的説明は、彼女が「種」に言及することによって強化されている。ヌスバウムは動物を潜在能力アプローチに含めるに当たり(註3)、「種に特徴的な機能や生活形態」[ibid.: 412]、すなわち「種の標準(模範)」(“species norm”)[ibid.: 415, 原書365]を重視する。人間と動物のいずれにおいても、ヌスバウムが言う開花(flourishing)の指標は種の標準に基づく。このことは、潜在能力の一覧や閾値が、それぞれの種の特質によって定められるべきことを意味する。重度知的障害者も人間という種に属しており、したがって人間の種の標準が適用されなければならない。しかしヌスバウムによれば、障害は種に典型的な開花を阻んでいる。そのため障害は、可能であれば治療されなければならず、また特別に設計された教育や理学療法、後見によって対処されなければならないとヌスバウムは述べる[ibid.: 412-415]。ヌスバウムが、重度知的障害者の生は人間の生ではあるが不幸な生であると論じるのはこのためである。こうして種の標準の導入により、ヌ△195 スバウムの潜在能力アプローチはより一層生物学化される。潜在能力一覧は、社会の作動原理によってではなく、種の標準という生物学的基準によって定められる。損傷も種の標準との比較により生物学的に同定されるのであり、排除相関的に同定されるのではない。ここで周縁化されているのは社会である。ヌスバウムの潜在能力アプローチは、社会的包摂/排除や社会システムにとっての身体情報といった領域を生物学に委譲するため、障害者の生をより強固にスティグマ化することになるのである。
 確かにヌスバウムは、ロールズとは異なり正義論を障害者に適用したのであり、健常者と障害者に共通の潜在能力と閾値を適用することを主張した。また柏葉が指摘するように、健常者の生と障害者の生の連続性を強調した。健常者も生涯のある段階においては依存的なのであり、合理性や社交性も一時的である[ibid.: 185]。しかしこうしたことはスティグマ化の回避を意味しない。ヌスバウムが行ったことを、離散的否定から連続的否定への変換として把握することができるであろう。ヌスバウムは障害者の生と健常者の生を截然と区別するロールズ正義論に替えて、障害者の生と健常者の生が連続的であることを一応は主張している。しかしいずれも、障害者の生が健常者の生よりも劣るという否定的評価においては共通している。{0, 1}の二値と[0, 1]の数直線のいずれにおいても、0 < 1という大小関係を定義できることを考えれば、このことは明らかである。
 社会的排除のみならずこうしたスティグマ化も回避する必要があるとすれば、障害問題に取り組むための方法論は、潜在能力アプローチ以外でなければならないことになる。続く節では、潜在能力アプローチとはやや異なる個人の生の評価を伴う議論を二つ取り上げる。それらは、障害文化/ろう文化と、社会的役割価値付与(=SRV)である。これらがやはりスティグマ化の問題を抱えることを確認した上で、本書の自己塑成的障害論がスティグマ化の問題を回避しえているかどうか検討する。

3.5 障害文化・ろう文化と多元的評価」

◆立岩 真也 2018/05/01 「石川左門達/ありのまま舎――――連載・145」,『現代思想』46-(2018-05):-

 「□予定再々度+書いている場所について
 前回検討した榊原[2016]については続きがある。その本でも取り上げられているヌスバウム(Nussbaum[2006=2012])がおかしなことを言っていることも指摘しておかねばならないと思う。あと二回ほど書いて「理論篇」として秋に刊行してもらう。ただ、今回からしばらく、昨年いったん中断した「歴史篇」の続きを書いて一冊分を終わらせ、やはり秋に本にする。二〇一七年には、筋ジストロフィーで国立療養所に入c院し、そしてそこを一九八〇年代初めに出た高野岳志について二回、福嶋あき江について二回書いた。その続きを二回続ける。その後、その前の部分をまとめる。つまり、二人について書く前に主に六〇年代の国立療養所に関わる話をかなり長く書いたのだが、それが七〇年代の体制にどのようにつながったのかについて、それが八〇年代の高野・福島には使えないものであったのかについて、覚え書のようなものを書く。それにも二回ほどを要する。そして、「理論篇」の続きをその後やはり二回ほど書く。こうして計六回足して、二冊をまとめる。」

◆立岩 真也 2018/07/01 「七〇年体制へ・上――連載・147」,『現代思想』46-11(2018-07):221-237

 「小林は、「重症者」に対して悲観的ではあったが、それを愛が覆う、というような具合になっていて、力を尽くした。尽力したが悲観的だった。それは、次回に紹介する白木博次☆といった医学者たちにも言えることを後述する。小林は、生まれたら(生まれてしまったら)救う、それは医師の義務だと言う。ただ、生まれなくすることには賛同している。ではそうしたこと、他を批判すればよいか。とても少ないが、直接小林に対してなされた批判もある☆。私も批判したらよいと思うところはある。優生保護法下の不妊手術について二〇一八年になって提訴があり、にわかに、ようやく、このことがいくらか知られるようになった☆のだが、小林は、そこからそう大きく異なる場所にいるわけではない。しかしそれでも私たちはうしろめたいのだ。つまり、否定的・悲観的であるという現実感はぬぐえない。である以上、捉え方描き方が否定的・悲観的であると、本当に批判できるかと思う。しかも、そのうえで、小林は実践を行なった。他方、そんなたいへんなことはできないと思う私(たち)は何もしていないのだ。
 しかしそれでも、やはり、悲観的である必要はない。それがヌスバウムの議論☆を検討し批判する回(→本年九月号、「理論篇」に収録)で言いたいことであり、そこで説明する。歴史と理論はそうして繋がっている。」

◆立岩 真也 2018/08/01 「七〇年体制へ・下――連載・148」,『現代思想』46-(2018-08):-

 「とすると次に、以上を除外したときに、なにが「ホープレス」であるのかということだ。「第五の医学」がどんなものであるのか、想像がつかないし、実際その後もなにかが起こったということはなかったのだが、医療によっても他でもなおらないという意味では、なにか変化・向上を見込めるということはない。椿と同じく、白木はALSの人に会って、そしてその悲惨を言うとともに、その困難の中でなお言葉を紡いだりすることに感嘆もし、井伊政幸――『ALS』に少しだけ出てくる([283])――の自宅を見舞った時「不思議な明るさに満ちた清潔な雰囲気に一驚した」といったことを『難病患者の在宅ケア』(川村・木下・別府・宇尾野[1978])の「はしがき」(白木[1978])に書いたりする。結局、「清薄」が問題にされている。その人たちは「世の光」(糸賀一雄)であると言わねばならないことはない、とは以前にも述べた。ただ、その人に準拠するなら、その人にホープ(という意識)はないことはあるかもしれないが、同時に、ホープレス(という気持ち)もないだろう。(このことをヌスバウムの論を検討しつつ次号に述べ、もう一冊の本に含める。)」

◆立岩 真也 2018/09/01 「非能力の取り扱い・1――連載・149」,『現代思想』46-(2018-09):-

◆立岩 真也 2018/09/01 「非能力の取り扱い・2――連載・150」,『現代思想』46-(2018-10):-

◆立岩 真也 2018 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


UP:20090110 REV:20100802, 20180502, 0719, 20, 25
Nussbaum, Martha C.  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK病者障害者運動史研究 
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