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『差別論:偏見理論批判』
佐藤 裕 20051221 明石書店,272p.
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■佐藤 裕 20051221 『差別論:偏見理論批判』,明石書店,272p. ISBN: 4750322431 2940
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■明石書店のHP
http://www.akashi.co.jp/Asp/details.asp?isbnFLD=4-7503-2243-1
■目次
はじめに
1 差別論について
2 差別という言葉をめぐる混乱
(1) 定義の問題
(2) 認識のズレ
(3) 差別の不当性
3 本書の構成と方針
第一部 理論編
第 1章 差別の定義
1 社会的カテゴリーと差別
2 差異モデルと関係モデル
3 不当性の論理
4 差別論と人権論
5 排除による差別行為の定義
第 2章 排除の理論
1 共同行為としての排除
2 他者化、同化、見下し
3 三者関係モデル
4 差別行為の類型化
(1)利害関係主導型差別
(2)同化主導型差別
( i)攻撃型排除
(ii)象徴的排除
5 差別行為の連鎖
(1)認知的連鎖
(2)儀礼的排除
6 差別行為の認識可能性――認識のズレとその解決
(1)他者の抽象化
(2)他者の客体化
(3)他者化に着目する差別の意識
(4)同化に着目する差別の意識
(5)同化メッセージのあいまい性
7 批判と差別
補論
1 スケープゴーティング論について
2 「われわれ」カテゴリーについて
第 3章 偏見理論批判
1 偏見理論とは何か
2 差別は心の問題か
3 カテゴリー化とステレオタイプ
4 二者関係のモデルと三者関係のモデル
5 偏見理論の問題点
第 4章 差別論の射程と解放の戦略
1 差別論の射程
2 差別の無効化という戦略
3 偏見理論からの脱却
4 行為の対象化
5 差別行為の「ワクチン」化
6 「ワクチン」の作り方
第 2部 事例編
第 5章 小説のなかの差別表現――筒井康隆「無人警察」
1 はじめに
2 筒井康隆「無人警察」をめぐる議論に見られる「差別表現」観
(1)「無人警察」とそれをめぐる評価
(2)三つの「差別表現」観
3 差別論の問題点
(1)「被差別」の論理
(2)悪意の差別論
(3)偏見と差別意識の理論
4 差別問題の「ねじれ」構造
5 「無人警察」における「てんかん」の意味
6 差別論のオルタナティブ
7 おわりに
第 6章 あいまいな表現としての差別語と「わくちん」
1 分析
(1)外国人
(2)三国人
2 ワクチン
第 7章 性別役割分業の非対称性――林道義『父性の復権』『母性の復権』
1 『母性の復権』と『父性の復権』の相違点
(1)母性本能と父性本能
(2)女性性と男性性
(3)母性の問題と父性の問題
(4)母性の保護と父性の保護
2 分析
3 性別役割分業の非対称性
おわりに
参考文献
■引用
太字見出しは、本文を参照した上で、作成者によるもの
本書の姿勢
本書のタイトルである「差別論」という言葉は、個別の差別問題について論じるのではなく、さまざまな差別問題の共通点を扱うのだということ、そして、「差別する側」に着目して考えていこうとしているのだということ、とりあえずはこの二つを頭に入れてもらえればいいと思います。(p.10)
社会問題としての差別
完全に個人的な理由による権利侵害は通常差別とは呼ばれません。(p.12)
差別と意図
しかし、発言の「原因」は簡単には特定できません。最もわかりやすいのは、発言をした人がマイノリティを侮辱したり攻撃を扇動したりする意図を持っていたという場合ですが、そういった意図が明確なケースはまれだといえるでしょう。それでは攻撃的な意図が明確ではない場合はどう考えればいいのでしょうか。
ここで判断はいく通りにも分かれてしまいます。まず、攻撃的な意図は差別と認定するための必要条件であるのか。もし必要条件であるのなら、それをどのようにして確認するのか。必要条件ではないなら、「結果」だけで差別と認定できるのか。あるいは何か別に「原因」の認定方法があるのか。実際は、こういったことはあいまいなまま、差別問題についての議論は行われ、そしてそれが混乱を招く原因になっていると私は考えています。(p.13)
差異モデル
まずひとつは、社会的カテゴリーによって異なる扱いをしていることが差別であるといった捉え方です。(p.22)
関係モデル
差別をマジョリティ集団/マイノリティ集団といった二つの集団の間の対立や権力関係としてイメージする場合(pp.23-24)
私の提案は、差異モデルによる差別の定義を破棄し、この領域は「人権問題」という言葉で捉えるべきであり、関係モデルを(「人権問題」によって「差異の不当性」の領域がカバーされていることを前提にして)差別の唯一の定義としようというものです。(p.38)
「関係の不当性」とケアの倫理
「関係の不当性」を基礎づける理論が「存在しない」としている点については、さまざまな異論がありえるでしょう。
この点について私が明確にいえるのは、「権利」という論理では説明できないということだけです。しかし、もう少し広げて、「関係の不当性」は、「抽象的個人」を前提にした規範理論一般で説明不可能なものだというものだということも、いえるのではないかと思っています。
そういう意味では、「関係の不当性」を基礎づける理論の候補として考えられる、現状ではおそらく唯一のものは、「ケアの倫理」かもしれないと思います。これは、キャロル・ギリガンの『もう一つの声』(Gilligan, 1982)に端を発する「ケア対正義」論争のなかで、従来の倫理学である「正義の倫理」に対置されたものです。この論争の詳細を私はしりませんが、可能性があると考えられる点は、「正義の倫理」が「権利(人権)」と重なり合う部分が大きく、そのオルタナティブであるということにあります。しかし、そもそも「不当性」という概念が「ケアの倫理」とうまく接合しないのではないかという懸念もあります。「不当性」はあくまでも「正義の倫理」のなかに位置づけられるものであるとすれば、「関係の不当性」という考え方がそもそもあまり適切な表現ではないのかもしれません。(pp.46-47)
きもちわるい
たとえば「いじめ」において特定の人を「きもちわるい」という理由で排除することを考えてみましょう。「きもちわるい」というのはあくまでも主観ですので、必ずしも全員がそう感じるわけではありません。そのため、それだけでは排除は起こりません。「他者化」が行われるためには、特定の人(の名前)が「きもちわるい」という性質を表す記号として共有される必要があります。(p.60)
排除と「われわれ」、負の価値づけ
すなわち、排除における「負の価値づけ」とは、「われわれ」という特定の視点からの「負の価値づけ」であることに注意する必要があります。そして、「われわれ」という視点、認識主体が具体的な文脈のなかで「消去」されることにより、特定の視点からの「負の価値づけ」は、あたかも「客観的」であるかのように構成されてしまうのです。(pp.62-63)
他者化と同化
「差別者」から「被差別者」に向けられるのは、「他者化」と「見下し」、「差別者」から「共犯者」に向けられるのが「同化」です。それでは「共犯者」と「被差別者」の関係はどうなっているのかというと、「共感者」が「同化」を受け入れたときに初めて「他者化」と「見下し」の関係が成立すると考えます。(pp.66-67)
儀礼的排除とゲーム
UP:20060706 REV:0806, 0914, 20070712, 20080411(篠木 涼), 1128
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差別 discrimination
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