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『水俣病の真実――被害の実態を明らかにした藤野糺医師の記録』

矢吹 紀人 200510 大月書店,221p.

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last update: 20180526

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■矢吹 紀人 200510 『水俣病の真実――被害の実態を明らかにした藤野糺医師の記録』,大月書店,221p. ISBN-10: 4272330446 ISBN-13: 978-4272330447 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ hsm, ms, m34

■紹介

内容説明 公害は被害に始まり被害に終わる。被害の全貌を明らかにすることが公害を全面解決する前提である。いかに大企業や政府であれ水俣病被害を永遠に押し隠すことは絶対にできない。二〇〇四年一〇月一五日の水俣病関西訴訟最高裁判決を機に、この一年で約三〇〇〇人が水俣病の認定申請をした。水俣病は終わっていない。この本は、水俣病問題の解決の道筋を事実にもとづいて明らかにしている。

著者等紹介
矢吹紀人[ヤブキトシヒト]
1953年生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後、ルポライターとして、医療・福祉、農業・食分野を中心に『週刊金曜日』、サンデー・プロジェクトなど多数のメディアで活躍中(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

■目次

プロローグ―人知れず苦しむ患者たち
第1章 水俣へ 患者たちのもとへ
第2章 水俣病とは何か
第3章 たたかいの最前線で
第4章 すべての患者に救済の手を
エピローグ―水俣はふたたび

■引用

 「動かす力と動かぬ力と

 水俣病第二次訴訟の控訴審判決が確定する直前の一九八五(昭和六〇)年一〇月一一日。環境庁において、「水俣病の判断条件に関する医学的専門家会議」と名づけられたひとつの会議が開かれた。
 この会議は、何を目的としたものだったのだろうか。初日からわずか四日後に出された会議の「意見」序文に、その目的とするところが次のように記されている。
 「水俣病の判断条件に関する医学専門家会議は、昭和六〇年八月一六日熊本水俣病第二次訴訟控訴審判決が福岡高等裁判所から出されたことを契機とし、現時点における水俣病の病理及び環境庁が示している後天性水俣病の判断条件が医学的に見て妥当なものであるかどうかについて環境庁の諮問を受け、病理学、精神医学、耳鼻咽喉科学、眼科学の専門家の意見も踏まえ、医学的立場から総合的に検討を行った。」
 つまり、水俣病第二次訴訟控訴審判決で、チッソが敗訴しただけでなく昭和五二年判断条件までが「厳しすぎる」と断定されたので、学者や専門家がほんとうにそうかどうかを検討するというものだった。
 会議のメンバーは、椿忠雄東京都立神経病院長、井形昭弘鹿児島大学医学部教授、荒木淑郎熊本大△176 学医学部教授など八名だった。このうち、座長の祖父江逸郎国立療養所中部病院長をはじめとする三名の医学者は、水俣病患者を診察した経験のない医師だった。それ以外の五名の学者は、昭和五二年判断条件を作成した検討会のメンバーだった。
 このような学者たちによる会議で、何が話し合われたのだろうか。一〇月一一日の初日会議は午後六時に開会し、午後九時に閉会している。翌一二日の目曜日には二回目の会合がもたれ、午援五時に開会、午後九時閉会となっている。これが、話し合われた会議のすべての時間だった。
 休憩時間などを含めた二日間すべての時間を合計しても、たった六時間半の話し合いしか行なわれなかったことになる。この短時間の「会合」によって、「水俣病の判断条件に関する医学専門家会議の意見」は出されている。
 焦点となっている「判断条件」についてはわずか一二行の記述があるだけだが、次のような結論をはっきりと打ち出している。
 「一症候のみの例があるとしても、このような例の存在は臨床病理学的には実証されておらず、現在得られている医学的知見を踏まえると、一症候のみの場合は水俣病としての蓋然性は低く、現時点では現行の判断条件により判断するのが妥当である。……」
 判決を受けて専門家が議論をしたという体裁は聞こえかよいが、実質的な議論などほとんどできないほどの短時間で出された結論が、これまでどおり環境庁の政策を支持するものだという。逆に考えれば、判決にあわてた環境庁が、あらかじめ用意した結論を「専門家」が議論したかのように装って△177 形をつくろった会議だったと指摘されても否定できないようなものでしかなかった。
 しかし、この意見書に書かれている「このような例の存在は臨床病理学的には実証されておらず」といった言葉の内実は、どのようにして検証されているのか。誰が何をどのように調べた結果、こういった結論が出されているのか。この意見書からはまったく判断できない。
 「専門家」の井形昭弘鹿児島大学教授は、八八(昭和六三)年七月二三日発行の専門誌『日本医事新法』で「水俣病の医学」という論文を発表し、「判断条件は医学酌」だと主張する。さらに、八八(昭和六三)年八月一三日発行の同誌においては、荒木淑郎熊本大学教授、岡島透大分医科大学教授といった八五(昭和六〇)年医学専門家会議のメンバーも加えた五人の学者による「水俣病」という座談会を行ない、自分たちの判断の正しさを繰りかえしている。
 座談会で井形教授は、「判断条件に誤りがありますかと聞かれれば、誤りはないと言うべきでしょう」と発言している。しかし、八五(昭和六〇)年医学専門家会議と同様、どのような根拠にもとづいて井形氏がそう断言しているのか、まったく理由は示されていない。自分たちでつくった判断条件を、根拠も示さず自分で「間違いがない」と強調しているだけなのだ。
 環境庁はこの八五(昭和六〇)年医学専門家会議の意見書を受けて、「専門家のお墨付き」をいただいたかのように、強硬に昭和五二年判断条件を固執する態度をとりつづけていく。
 その一方で、環境庁は専門家会議があったすぐあとの八五(昭和六〇)年一一月、いままで一貫して相手にしようとしなかった未認定患者に対して「特別医療事業」を開始することを決定した。これ△178 は、行政が棄却した四肢末梢性の感覚障害を有する患者に対して、「水俣病にみられる一定の症状がある」として医療費の自己負担分を補助するというものだった。
 いくつかの条件つきという不十分さをもってはいたものの、患者や支援者たちが粘り強く働きかけてきた結果、棄却した患者に対して国が初めて「被害」を認めた結果の制度だと言えるだろう。
 どのような社会的批判があろうともけっして動こうとしない行政と、事実からスタートしてその牙城を突きくずしていこうとする力の、せめぎあいがつづいていた。
 この「特別医療事業」を開始したという知らせを受けた椿忠雄新潟大学教授は、環境庁に対して激怒したと伝えられている。
 新潟水俣病の患者救済などで大きな役割を果たした椿教授は、昭和四〇年代の初期に「毛髪水銀値と四肢末梢の感覚障害」で水俣病と認める説を主張していた。だがその後、態度を急変させて水俣病者患者を切り捨てようとする国の側にたつ医学者になっていく。
 一九七三((昭和四八)年の水俣病第一次訴訟判決の結果、チッソと患者の間で協定が結ぱれ、判決許容額である一六〇〇万円から一八〇〇万円の補償金が支払われることになった。このとき、椿教授はこんな言葉をもらしたといわれている。
 「自分の書く診断書で、自分の退職金より多い金額を患者が手にする。この事実が、どうしても納得できないのだよ。」△179
 この言葉の真意がどのようなものだったのかはわからない。だが、このとき以降、椿教授は国の患者切り捨て策を支える医学者に変節していったのだった。
 椿教授にすれば、国の政策を助けるために自分は医学的な節を曲げてまで行政の片棒を担いできたという思いがあったのではないだろうか。ところが、国の意向を受けて自分たちが切り捨てたはずの患者に、いまになって国が救済の手をさし伸べる「特別医療事業」が実施きれるという。医学者としての自分は国に裏切られた、というのが椿教授の気持ちだったのかもしれない。
 椿教授の胸中がどうであれ、ここではすでに水俣病患者の認定が、医学としての認定作業から「補償金をもらう患者の認定」作業に変質してしまっている。医学的な立場からするならば、疫学的条件や本人の自覚症状、臨床症状などから純粋に判断すべきはずだ。ところが、「認定になればこの患者はいくら手にする」というような社会的要素が加わることで、認定の判断基準そのものにもゆがみが生まれてしまっているのだ。多くの医学者が、水俣病の認定を「補償金」との関連のなかでしか考えられなくなっていくなか、行政は医学者たちを取り込んで患者切り捨ての政策を遂行してきたといえるのではないだろうか。
 昭和五二年判断条件作成の中心となり、数多くの患者を棄却してきた鹿児島県認定審査会会長の井形昭弘鹿児島大学教授(当時)は、行政不服審査請求の参考人として陳述している。その発言のなかで、「認定問題」について問われたなかで次のように答えている。△180
 
 井形参考人 実際に、たとえば水俣病の患者さんを見た場合に、私たちは非常に心を痛める問題、その人が水俣病であろうとなかろうと、その人の負っているハンディキャップは同じなのです、社会では。だから、理想的な社会ならば、そういうハンディキャップを負った人は、水俣病どうかということに目くじらを立ててどうするというよりも、まずはすべての人を救済することが望ましい。そしてまた、たとえばチッソの責任は責任で別の次元で追及する――これは哲学ですから、今の問題に余り関係ありませんけれども、私自身はそう思っております。……
 審査請求代理人 そうすると、どこで線を引くのかの役割は、これは行政がやることだというお考えですね。
 井形参考人 そうです。おっしゃるとおりです。

 水俣病かどうかによらず、社会的弱者を救済すべきだと唱えるのなら、井形教授はなぜその水俣病患者を否定し、切り捨てるような行政の政策に加担してきたのだろうか。
 「線を引くのは行政」だと責任逃れとも受け取れる発言をしているが、行政が水俣病患者を切り捨てるような線を引くことができたのは、井形教授たち医学者が背景にいたからではないのか。
 行政不服審査請求の場で発言したような医学者としての真摯な思いがほんとうにあるのなら、医学としての「認定」の立場をどこまでも貫くべきだったのではないのだろうか。」(矢吹[2005:176-181])


■書評・紹介

http://www.hashimoto.or.jp/dr/bungei/syohyo.minamata.html

 「さて、この本の主人公の藤野医師は、熊本大学医学部を43年に卒業されているのでほぼ同年である。彼は仲間と共に水俣病に取り組んだのであるが、その苦労は並大抵のものではなかった。チッソの城下町では、水俣病なんて口にも出来ない情況であったし、人々は最初病人を家の奥に隠そうとしていたほどであった。その住民たちを説得し、検診し、水俣病の病像を解明してゆく藤野医師たちの活動が詳細に記録されている。チッソ、国、県、それに医学者達の壁に阻まれながら、それでも諦めずに運動を進めていった藤野医師たちは立派と言うしかない。その一方、行政の側に立って、住民達を切り捨てようとした医師たちのなんと多かったことか! そこには新潟大学の椿忠雄教授、井形昭弘鹿児島大学医学部教授、荒木淑郎熊本大学医学部教授、祖父江逸郎国立中部病院長などがいる。彼らは自分たちに反対するものは、医学部教授であろうが切り捨てる。(水俣病の臨床像を忠実に述べようとする熊本大学の医師たち、武内忠男教授、立津政順教授、筒井純教授らを、熊本県は水俣病認定審査会から排除している)。そんな権威者たちを相手に一臨床医が立ち向かってゆくのであるから、その勇気と努力には想像を絶するものがある。」

■言及

◆立岩 真也 2018 『(題名未定 2018b3)』,青土社 文献表


UP:20180430 REV:20180526(岩ア 弘泰)
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