『限界の思考――空虚な時代を生き抜くための社会学』
宮台 真司・北田 暁大 20051025 双風舎,480p.
■宮台 真司・北田 暁大 20051025 『限界の思考――空虚な時代を生き抜くための社会学』,双風舎,480p. ISBN-10:490246506X ISBN-13:978-4902465068 \1995 [amazon]/[kinokuniya] ※ s
■出版社/著者からの内容紹介(「BOOK」データベースより)
現代思想は死んだのでしょうか?
人間は壊れているのでしょうか?
不透明で強迫的な社会。
参照項なき不自由な時代。
中身のない専門知が飛び交うネット空間。
文化の記述法、カルチュラル・スタディーズ、あえてするコミットメント、保守主義とロマン主義、天皇制と亜細亜主義、動物化、反省、そして全体性。
現代思想が限界に達するこの時代に、社会学はその限界を克服することができるのか?
新進気鋭の社会学者・北田暁大と社会学主義者・宮台真司。ふたりの社会学者による、社会学を超えた討論。
■内容(「MARC」データベースより)
現代思想が限界に達するこの時代。社会学はその限界を克服する方法を提示することができるのか? 世代が異なる明敏なふたつの知性が、社会学の領域を超えて現代社会を徹底分析する。
■目次
まえがき 北田暁大
第一章 空虚な時代を生きる
一 保守思想を考える
あえてするコミットメントと保守主義の台頭
崩壊するコミュニケーションの地平
ホンモノの右翼と保守
左派によるロマン主義への繊細な考察
人間の理性は世界を覆えるのか
私たちが物事をまじめに考える動機
二 アイロニー、ロマン主義、そして社会学
思考のパッケージとしてのハーバーマス=ルーマン論争
社会学とロマン派とアイロニーの結節点
天皇論を持ち出すことの本意
ロマン主義とは何か
「超越系」と「内在系」
認識上の転向、実在上の非転向
形式を反復するロマン主義の罠
アイロニカルな社会学が立ちあがる土壌としての日本
この空虚な時代を、どう色づけしていくのか
第二章 文化を記述する方法
一 「価値自由」とは何か
あえてウェーバーの価値自由を提唱する
理論家/実践家としての廣松渉
上野千鶴子という非還元主義者
私が社会学者になった理由
「理論家」宮台と「文化社会学者」宮台は断絶しているのか?
日本のカルチュラル・スタディーズの問題点
いまなぜ「政治の季節」を語るのか
人はなぜ全体性に惹かれるのか
政治への意志を社会と接続していく
二 文化を研究することの意味
流動性への抵抗力を供給するサブカルチャー
認識は脱政治的に、実践は政治的に
カルチュラル・スタディーズのあるべき姿とは
非還元論的な文化研究をめざす
文化を記述することの難しさ
社会学的な想像力を磨く
モードの変化に気づく力を養う
反省を分析する手法の開発が求められている
限界の思考
第三章 社会学はどこへ向かっていくのか
一 「意味なき世界」とロマン主義
人間であり続けることは、どういうことなのか
ロマン的なものと動物的なものが反復する社会
近代システムの特徴としての再帰性
ロマン主義再考
日本は思想の全体構造を見わたしづらい?
かつて想像された全体性がよみがえる
「意味なき世界」を肯定するような習慣
二 「脱呪術化という呪術」の支配に抗う
人間は壊れているという自覚
乾いた語り口が切り開く思考空間を求めて
ローティの「反思想という思想」
虚構のうえに成り立つ近代社会という前提
社会学者はいま、何をすべきなのか
保守主義と構築主義というふたつの武器
超越への断念と批判への意志を貫く
第四章 アイロニーと社会学
一 戦略的アイロニズムは有効なのか?
時代とともに変化するアイロニーの構造
ポスト八〇年代をどう見るのか
日本には「消去しきれない理念」がない
オブセッションが人をどう駆動するのか
大澤真幸の単純さ
アイロニーがオブセッションへと頽落する戦後サブカル史
戦略的アイロニズムはオブセッションへの処方箋
オブセッシブな後続世代は、先行世代の餌食
二 楽になるための歴史と教養
若い世代は軽いようで重い
教養という旅をした世代、旅ができなかった世代
八〇年代を退落の時代と位置づけてよいのか
視界の透明性が存在しない後続世代
歴史地図のなかに価値を滑り込ませたくない
七〇年代的アイロニーを再評価することの危うさ
歴史をとおして自分の位置を確認する
第五章 限界の思考
一 全体性への思考と専門知
強迫性を解除するための方策とは
奇妙なかたちで流用される専門知
何が道具で何が知識なのかを考える
教養主義者としての蓮實重彦
依拠すべき参照項の消えた時代
二 社会の操舵が困難な時代
いまこそギリシャ哲学に学べ
分析哲学を見直す
オースティン、サール、そしてデリダ
何を意図しているのか、はじめに話してしまったほうがよい
宮台アイロニーへの思い違い
『歴史の終焉』という終焉を生きる
啓蒙の対象はエリートなのか大衆なのか
合理性のない欲望が肥大化する日本社会
国粋はかならずしも、愛国の体をなさず
公共的であることの困難
あとがき 宮台真司
■引用
本書の4つの論点―北田暁大の記述から(p5)
1. 宮台さんの「天皇制」「亜細亜主義」への「転向」は、システム論/リベラリズムとどのような関係を持つのか。「転向」は理論の水準でのものなのか、それとも時代診断の変化に応じたプラグマティックな戦術変更なのか?
2. アイロニーを処方箋として提示する宮台さんの理論戦略は、はたして有効か? じつは、それは「八〇年代前半はよかった」的な自己正当化の道徳にすぎないのではないか?
3. 現代社会は、「アイロニーが摩滅した」というよりは「アイロニカルであるがゆえに、ベタ」になってしまうような言説の構造を内包しているのではないか。とすれば、アイロニー戦略は、巧妙に現状を追認するイデオロギーである、ということにはならないだろうか?
4. 宮台さんは、いかなる根拠のもとに文化左翼を批判するのか。北田自身もカルチュラル・スタディーズの動向には距離を置いて接してきているが、ある意味で「カルスタ的」とのいえる仕事もやってきている。奇妙な「政治の季節」に突入してしまった現在、やはり表層的ではないかたちで、カルチュラル・スタディーズ的言説・実践と向き合う必要があるのではないか?
*作成:櫻井 浩子