HOME > BOOK >

『遺伝子改造』

金森 修 20051020 勁草書房,323p.

このHP経由で購入すると寄付されます

金森 修 20051020 『遺伝子改造』,勁草書房, 323p. 3150 ISBN-10: 4326153849 ISBN-13: 978-4326153848 [amazon][kinokuniya] ※ en be bp ss g01 d07d c0201

■内容(「BOOK」データベースより)
ヒト遺伝子の改造は止められるのか。ねばり強い思考実験によって、現代優生思想の展開を冷静に跡づける。

■内容(「MARC」データベースより)
ヒト遺伝子の改造は止められるのか? クローン人間は誕生するのか? ねばり強い思考実験によって現代優生思想の展開を冷静に跡づけ、遺伝学がもたらす問題群について省察。一種の「メタ遺伝学」を試みた遺伝学の哲学書。


■目次
まえがき

第一章 遺伝子改良の論理と倫理 1
1 ポストゲノム革命期の社会に向けて 1
2 遺伝子改良の暗渠 8
3 技術衝迫の〈遺伝子〉 29

第二章 遺伝子改造社会のメタ倫理学 35
1 クローン人間 36
2 遺伝子治療の倫理学 43
3 ゲノムの技術哲学 65

第三章 リベラル新優生学と設計的生命観 73
1 リベラル新優生学 73
2 技術的理性の狡知 86
3 「デザイナー・チャイルド」の哲学 94
4 設計的な未来と設計的な自然 104

第四章 対談 ―― 生命にとって技術とはなにか 113
1 人工性の哲学 113
2 生命操作技術とはなにか 119
3 リスクと優生学 125
4 生命への介入 131
5 生命技術の特異性はあるか 139
6 技術の論理と倫理 143

第五章 迂回路 ―― クローン人間 157
1 クローンという文化的仮象 157
2 クローン戦争 163

第六章 アーカイヴ ―― 遺伝子改造論の航跡 185
1 一九六〇年代から七〇年代半ば頃まで 185
2 一九八○年代終盤から一九九〇年代終盤頃まで 200
3 大統領報告書『治療を超えて』(二〇〇三) 212
4 未然のものの胎動 221

第七章 homo transgeneticus 229
1 プロメテウス・コンプレックス 229
2 〈許容可能な改造〉の思考実験 240
3 〈ヒト流動化〉時代の倫理原則 255

第八章 参考資料 ―― 健康という名の規範 259
1 客観的病理学の否定 259
2 生物学的規範性 266
3 正常という名の設計 270

あとがき 275
註 281
人名索引
初出一覧


■初出、著者略歴(「奥付」より)
初出一覧
第一章 遺伝子改良の論理と倫理 『現代思想』vo1.28, no.10, 2000年9月、pp98-117.(執筆時期2000年7月)
第二章 遺伝子改造社会のメタ倫理学 『現代思想』vol.29, no.10, 2001年8月、pp.74-98.(執筆時期2001年6月)
第三章 リベラル新優生学と設計的生命観 『現代思想』vol.31, no.9, 2003年7月、pp.180-202.(執筆時期2003年5月)
第四章 対談――生命にとって技術とは何か 『現代思想』vol.31, no.13, 2003年11月、pp.26-43(対談実施日2003年10月11日)
第五章 迂回路――クローン人間 書き下ろし(執筆時期2005年4月)
第六章 アーカイヴ――遺伝子改造論の航跡 書き下ろし(執筆時期2005年5月)
第七章 homo transgeneticus 書き下ろし(ただし、拙論「設計の自己反射・離陸する身体」『現代患想』vol.33, no.8, 2005年7月、pp.99-113と、かなりの部分で重複している。)(執筆時期2005年6月)
第八章 参考資料――健康という名の規範 『科学哲学』vo1.32, no.2. 1999年11月、pp.1-13.(執筆時期1998年10月〜11月)

著者略歴
1954年 札幌市に生まれる
1985年 パリ第一大学哲学博士
1986年 東京大学博士課程単位取得退学
現在 東京大学大学院教育学研究科教授
専攻 科学思想史、現代科学論
主要著書
『フランス科学認識論の系譜』勁草書房、1994年(第12回渋沢・クローデル賞受賞)
『バシュラール』講談社、1996年
『サイエンス・ウォーズ』東京大学出版会、2000年(第26回山崎賞・第22回サントリー学芸賞受賞)
『負の生命論』勁草書房、2003年
『自然主義の臨界』勁草書房、2004年
『科学的思考の考古学』人文書院、2004年


■引用
第1章 遺伝子改良の論理と倫理
□要旨(著者による)
『現代思想』vol.28, no.10, 2000年9月、pp.98-117.
周知のように、十九世紀終盤にイギリスで生まれた優生学は、とくに二十世紀前半、精神遅滞者やアルコール中毒患者などへの強制不妊などの数多くの社会的災禍をもたらした。ナチスの惨劇は、優生学的精神動向の最も極端な発現に他ならなかった。その意味で、優生学が否定的な忌避の対象になるのは当然である。ところがここ数年、国家の強制ではなく、個人の自発的選択によって準優生学的な介入を子孫に与えようとする傾向が現代医療の精妙化に後押しされてかなり頻繁に見られるようになってきた。本稿では、リベラルな社会での個人の自己決定権を尊重した場合、その種の準優生学的生殖操作を押しとどめるための社会的論理をどこに見つければいいのか、という議論が展開される。そこからでてくる暫定的な結論は、かなり驚くべきものである。
 http://www.p.u-tokyo.ac.jp/~kanamori/RonYoshi.htm
□引用
(pp8-9)
 さて本稿では、いずれもが重大な重みをもつそれらの問題群のなかで、漫然といろいろなことに触れることを避けて、或る特定の問題に話を絞る。それは上記の最後に触れた出生前診断とも密接に関連する、優生学をめぐるものだ。なぜなら、広義の優生学問題は、ヒトゲノム計画に付随するELSI問題のなかでも最重要のものの一つだということは、調査の過程でほぼ明らかになったように思われるからだ(14)。しかも、これは微妙な社会性をはらむ問題であるだけに慎重な分析が必要だというのは疑いようがないが、いろいろな配慮のために正面から切り込むことを避けていては、ポストゲノム革命期の社会分析にとって、むしろ有害な効果をもたらしうると考えられるからだ。本稿ではその優生学という、それ自体複雑な分節を抱える問題系のなかでも、さらにその内部の或る一点に論点を絞りこむことで、可能な限り、その特定問題がもつ意味を掘り下げることを目指してみたい(15)。
(略)
 松原洋子氏は二〇〇〇年二月に公刊された『現代思想』臨時増刊号のなかで、優生学の現代的動向について簡潔かつ的確に問題点を列挙している(16)。ここで私が主として論述の対象にしようとしているのは、彼女が「裏口からの優生学」、「レッセフェール優生学」、「自家製優生学」、「自発的優生学」、「個人的優生学」、「私的優生学」などという多様な呼び名をあげたうえで、包括的に一種の「新優生学」としてまとめ上げているものだ。しかもそのなかでもgene enhancementと呼ばれる、一種の改良志向的な遺伝子操作のことを主に論じる(本節(B)以下の部分に相当する)。なお、gene enhancementのことをいま便宜的に〈遺伝子改良〉という概念で呼び直しておく(17)。
(pp29-30)
 さて、上記の第2節では、ポストゲノム革命期の社会における近未来のnegative eugenicsとpositive eugenicsについて、予想される反論とそれへの反批判という形で、かなり執拗に、抑制派と推進派のそれぞれの論理と倫理を探ってきた。ただしもうお分かりのように、その大部分はpositive eugenicsについての検討のために割かれた。negative eugenicsについては、本稿では正面から取り上げたとはいえないので、この際傍らに置いておく。だがpositive eugenicsについては、現時点で考えられる主要な論点を挙げてみた。賛否をない交ぜにしながら書き進めたので、読者は論旨を読み取るのに若干苦労したかもしれない。いずれにしろ私には、この曲折した検討の果てに、どうやら、一つのかなり驚くべき結論が引き出されたように思える。それは次のようなものである。
 個別的にはまだいくつもの問題を抱え、特に知性改善については簡単には乗り越えられない障壁があるように思えるとはいえ、総体としてみたとき、gene enhancementつまり遺伝子改良を強く押しとどめるだけの論理を、われわれはいまのところもっていない。遺伝学がこのまま進展し続ける限りにおいて、「より良い生命形態」だと個入が見なすもの、または或る社会のなかでそのような暈囲(うんい)をまとっていると個人が感じるものに向かって、個人の責任とリスクにおいて漸進的な遺伝子改良を行うようになるという全体的な趨勢(すうせい)を、決定的なやり方で食い止めるだけの論理がないのだ。もちろんこれは、現在の言説場における、暫定的結論であるにすぎない。なぜなら、今後、遺伝子改良が次々に実現されるようになるとして、その時点でまた思いがけない問題点がでてくる可能性の方が高いからだ。とはいえ、現在の段階で、一定の結論様の判断を提示しておくことは、この繊細な議論の社会的成熟を促すためには必須の作業であろう。この文脈に限定した意味での新優生学が、今後、社会に或る程度定着していく可能性は、決して低いとはいえない。
 もちろん、ただ拱手傍観(きょうしゅぼうかん)していればいいというものではない。ELSIプログラムなどが体制的に整備されると、研究の速度が遅くなって困るというような〈本音〉が漏れ聞こえてくる以上(25)、遺伝学者自身に、社会正義や倫理面での問題意識を強く期待することは、あまりできそうにもない。われわれのような〈部外者〉こそが、今後ますます危機意識や批判的感覚を磨き上げていかねばなるまい。そして社会正義に抵触するように思えるものが見つかれば、必死に批判していく必要がある。
(pp31-33)
 どうやら、人間には、或る技術が使用可能になったのなら、とにかくその使用可能性がどのような幅をもちうるのか、それを全振幅にわたって見極めたいと感じる衝迫(しょうはく)のようなものがあるようだ。そうする可能性が目の前に開かれているのなら、とにかくそれをやってみろ。そう囁(ささや)きかける衝迫だ。あえて、やや諧謔風にいえば、人間のなかには〈技術衝迫〉に突き動かされて、その結果が薔薇色であろうが破滅であろうが、そんなことには関わりなく、ただひたすらに、その技術が生み出す未来に突き進むという〈遺伝子〉が組み込まれているとさえいいたくなる。〈技術衝迫の遺伝子〉である。社会空間のなかで躍動し続け、常に自らを刷新していこうとする技術衝迫は、いうにいわれぬ魔力をもち、その魔力に振り回された人間たちは、危険や予見不可能性を叫び続ける批判者たちの言葉を、単にうるさいものとしてしか聴こうとしない。確かに、その技術衝迫は、未知の危険に直面したときに発揮される勇気や、自在な好奇心、克己心や冒険心とも表裏一体のものにも見える。そしてそのいずれもが、多くの文化のなかで尊い心性として崇められてきた。まるで、窒息の危険は覚悟のうえで初めて川辺や沼地の陸に乗り出した、古生代の或る瞬間の生物たちのように……。
 だがその一方で、次の事実も忘れてはなるまい。或る先端的技術が問題になっている場合、そこには誰もが享受しているはずの〈恩恵〉があるのだから、多少の危険性は我慢するのが当然で、そのリスクを定量化して科学的に分析することは、素人の感情的で「非合理的」な怒号に比べればはるかに価値が高いと考えて、素人の直観や危機意識をできる限り封殺しようとする修辞は、保守的な利益関心にがんじがらめに拘束された科学者が、頻繁に使うレトリックなのだ。環境汚染や原発への意識覚醒(かくせい)を笑い飛ばすために、「人類の祖先が獲物を手に入れるために必要なリスクを冒そうとしなかったら、人類の歴史は無惨なものに留まっていただろう」とするような〈冒険談義〉によって、技術衝迫への抵抗を愚昧なものだと断罪し、技術衝迫への順応を高貴なものだと礼賛するような策略には、そう簡単にのるわけにはいかない(30)。現代科学者が身につけがちな独特の自惚(うぬぼ)れと虚偽意識は、奇妙なロマン主義に彩られている。それへの違和感を持ち続けることは、正当かつ重要な義務なのである。
 いずれにしろ、新優生学のなかでも特に遺伝子改良に焦点をあてて検討してきた私には、ELSI問題を熟考する過程で、或る研究者が絞り出すようにつぶやいた次の言葉が、妙に心に残っている。曰く、「われわれは創造的であるべく、呪われているのだ」(we are condemned to be creative)(31)。この「呪い」の衝迫は、われわれの文明を抗(あらが)いがたい滑り坂に引きずりおろすのだろうか。もっとも、この切迫した状況のなかで、文明全体が、或る逃れられない傾斜のうえを転げ落ちていくのを端で眺めながら、自らにはただひたすら〈泣き女〉のような役割を割り当てて満足する気には、私はなれない。もし仮に「坂を転がる」という診断が或る面で否定しがたいとするなら、なぜ、どのように考えながら坂を転がっていくのか、それをしっかりと見極めてみたい。そう感じる人格が、私のなかに潜んでいる。遺伝子改良が、予想を上回る恩恵をわれわれに与えるものか、それとも思いがけない奈落にわれわれを突き落とすものなのか、それをしっかりと見極めよう。そして、こう確認し続けよう、その犀利(さいり)な眼差(まなざ)しが成立しうる地点は、「科学主義VS反科学」というような単純な分節をすり抜けた、はるかに微妙な言説の襞(ひだ)が浮き彫りになる場のなかでしかありえないのだ、と。

第2章 遺伝子改造社会のメタ倫理学
□要旨(著者による)
『現代思想』vol.29, no.10, 2001年8月、pp.74-98.
導入部分では、生命倫理学者ペンスのクローン人間擁護論を瞥見して、その言説がもつ妥当性の射程を検討する。そして本論では、遺伝子治療の進展状況に配意しながら、現時点ではまだ仮想的成分の強い生殖系列遺伝子改良をあえて取り上げ、それがもちうる倫理的、社会的問題群の検討をする。その過程で、一定の留保条件つきながら、生殖系列遺伝子改良を社会正義と連接することは不可能ではない、という見方が英語圏で出現していることを確認する。それは新たな優生学思想の興隆を予兆するものだ。私は、この幾分驚くべき優生学の再出現を前にして、それを無視することで葬り去ろうとするのではなく、今からその言説の理論的輪郭描写を行っておくべきだと考えている。論の最後では、その背後に潜む「技術の哲学」の輪郭を示唆する。(49)「遺伝子改良の論理と倫理」の続編。
 http://www.p.u-tokyo.ac.jp/~kanamori/RonYoshi.htm
□引用
(pp69-70)
 ゲノム解析の進展の過程で繰り広げられる、自然や人工、技術などをめぐるこの種の議論は、迂遠(うえん)な理論的言説なのではなく、ゲノム学がもたらす波及性の甚大さが当然の如く哲学的水準にまで人々の考察を導くものだという意味で、刮目(かつもく)すべきものである。私は拙論「遺伝子改良の論理と倫理」のなかで、諧謔混じりに〈技術衝迫の遺伝子(98)〉について触れておいたが、実はそれは〈諧謔〉以上の意味をもっているのかもしれない。不安な外界に投げ出されたか弱い(校正者注:「か弱い」に傍点)生物、人間は、闇雲に手を動かし、感覚器官の充足に目の色を変えながら、「とにかくやってみる」という手法で、いままでなんとか生き延びてきた。所与を自分のいいように変えるという衝動は、それが進化の論理のなかでなんらかの意味をもっていたからこそ、代々受け継がれてきたものなのかもしれない。
 だが、もしそれが或る程度の真実をついているとするなら、そしてもしそれが技術活動一般への連接のなかで立てられる着想なのではなく、特に遺伝的規定がもつ因果連鎖を問題にする話題に特化して定位されるとするなら、そこには実に奇妙な<遺伝子決定論>が姿を現すことになる。なぜなら、その遺伝子決定論は、遺伝子が、自分を否定して同時代の文脈のなかで遺伝的所与さえも改変しろという指令を与えるように作られたシステム、状況次第で自分自身を変えるように作られた因果機構を想定することになるからだ。そして仮にその奇妙な自己言及的システムが存在しているとするなら、「遺伝子がすべてを決めている」といおうがいうまいが、説明内容は同じようなものになる。ときがくれば自分をも変えるように設定された遺伝子が作る文化Aと、ときがくれば遺伝子さえ設計的に変えることさえ辞さない文化B。この二つの文化を、いったい誰がどのように区別できるというのだろうか。設計的企図の本質性に着目し、技術的水準がゲノム改変までをも可能性の地平に位置づけることができるようになるとき、逆説的ながらも、<遺伝学の哲学>分野での論争的議論としては、従来最大の話題の一つだった<遺伝子決定論>の存立基盤が一気に瓦解していくのだ。
 その意味で、遺伝子改造論は、技術哲学の原基点を通過しながら、古典的な遺伝子決定論という問題構制自身に亀裂を与えるほどに、重大な哲学的含意をもつものなのだ。

第3章 リベラル新優生学と設計的生命観
□要旨(著者による)
『現代思想』vol.31, no.9, 2003年7月、pp.180-202.
論文(49)「遺伝子改良の論理と倫理」、論文(52)「遺伝子改造社会のメタ倫理学」の続編。1990年代以降、徐々に姿を現しつつある個人の自己決定権に基づいた優生学的動向を、〈リベラル新優生学〉と呼び、それを支える論理をできる限り冷静に跡づけようとした。とくに、「汎用の善」を希求する、生殖系列遺伝子改良の射程を論じる。そして優生思想を問答無用の悪として捉えるというのではなく、なぜ文化のある地点で優生思想的なものが何度も出現してくるのか、その根拠を考え抜くことの必要性を論じる。その過程で、文化事象一般における人間の設計的傾性を抽出し、同時に「デザイナー・チャイルドの哲学」を提示した。これは、優生思想一般への態度をよりニュアンスのあるものにする必要性を論じるという意味で、かなり問題提起的な性格の強い論文である。そしてこれは、前の関連論文ともども、〈遺伝子改造の哲学〉を構成することになるはずである。
 http://www.p.u-tokyo.ac.jp/~kanamori/RonYoshi.htm
□引用
(pp85-86)
 繰り返そう。優生思想を問答無用の悪、または口に出すのも憚られる歴史的な汚辱と考えているだけでは、対応できない段階にわれわれは近づきつつある。事実、アメリカを中心にしてとはいえ、現在すでに少なからぬ人々が、その仮想性を十分に意識したうえで、この種の優生学的介入の可能性について論じ始めているということは、それが、一般に人間文化がもつ或る重要な特徴になんらかの光を当てているからこそ、そうなっているのだ、と推定させるだけの重みをもっている。優生学という〈幽霊〉は、人間文化の基層(きそう)に深く根ざしているという可能性がある。「ホロコーストの思想的淵源」といった規定は、優生思想の理解としては、あまりに特殊個別的なものに依拠しすぎたものであるにすぎず、告発的な社会運動としては一定の機能をもつが、ただ漫然と繰り返されるだけでは、その機能性も逓減(ていげん)の一途を辿ることは免れない。
 とにかく、われわれの知的資源を総動員して、優生思想の文化的根拠を掘り下げねばならない。
(pp92-93)
 ただ、私の意図を良く理解していただきたい。私がここでバルディの議論を引用しているのは、結果的には彼が言いすぎを犯すところを抜き出して、その種の極端な科学技術推進論を愚弄(ぐろう)するために、なのではない。この種の科学技術推進論は、程度の差があるのはいうまでもないことながら、なにもバルディに限らず、似たようなことをいう人は沢山いる(33)。それだけなら、いまさら驚くに値しない。私がここで注目したいのは、そんなことではない。そうではなく、或る種の「弁の立つ」科学技術者に、この種の半ばアジテーター的な役割を与えることで、科学技術という非人格的な知の総体は、それらのアジテーターを〈捨て石〉として使いながら、社会の関連議論空間に或る種の〈慣れ〉を与えるという機能を果たしているのではないかという着想に、私は目を向けたいのである。クローン人間論にしても、バルディのような極端なことをいう人が、いわば自己破壊的にすぐに泡沫(ほうまつ)のように霧散(むさん)してしまうことが何回か繰り返されていくうちに、それほど極端で戯画的ではないにしても、結果的にはクローン人間誕生に一定のゴーサインを与えるような社会政策が、徐々に浮上してくる可能性はある。まるで、非人格的な技術的理性が、或る種の狡知を働かせ、文化的論争のなかに微震を何度も与えることで、大局的には激震に相当するような意図を、そっと実現してしまうとでもいうかのように……。私が、バルディのような、あまり本気で相手にする必要はないような文献をあえて引用したのは、この逆説的な構図に配意したいからだった。
 そしてあえていうなら、一九二〇年代から三〇年代の時点で社会に投げ出された『ダエダールス』や『夜から逃れて』のような文献も、ちょうど『破砕された自己』またはその類書が現在果たしうるかもしれないような煽動(せんどう)的な社会的機能を、その時代で果たしていたのではなかろうか。ホールデンやマラーが述べていたエクトゲネシス的な事例が、現在、選択的中絶や受精卵診断として実現し、精神への薬理学的制御がSSRIなどによって実現しているという構図を、私が先に確認していたとき、それはひょっとすると、ホールデンやマラーの個人的慧眼(けいがん)のなせる技というよりは、遺伝学を支える非人格的な技術的理性が、おのれの狡知(こうち)を働かせながら、〈自己実現的な予言〉を果たしていたことの証左なのかもしれない(34)。
(pp102-104)
 このように、人間は、多様な経験の様式をただ中立的かつ機械的に受容していくというのではなく、ほぼかならずそれらの経験内容に対して、なんらかの充足感または欠如感を抱く。そして充足感を抱いた場合には、その経験系列を増幅し、拡大し、反復しようとし、その逆に欠如感を抱いた場合には、それを矮小化し、回避し、抹消するための努力をする。
 一般に、われわれ人間はなにか逆境のなかに置かれたとき、その逆境に順応するためにそれまでの行動の自由度を減らし、減殺(げんさい)した自由度のなかでそれなりの満足をえるという解決策よりも、なんとかしてその逆境の圧力をはねのけ、それまで享受してきた行動の自由度が減る度合いをできる限り少なくするように努力するという解決策の方に、より大きな〈魅力〉を感じるようにできている。欠如を欠如のままに放っておき、どこか違う場所に充満を探しに行くのも一つの選択肢だが、欠如を受け止め、その欠如性の度合いを減らそうとすることが好まれるからこそ、周囲状況に関する多くの困難は乗り越えられてきた。われわれにとって多くの意味で〈自然状態〉のままに留まる外部の世界、そして、われわれの体という輪郭のなかで、いまだ完全に分かったとはいえない生命活動を続ける身体。その両者の状態を前にしたとき、もし人間集団の一部がそれを〈欠如〉として捉えて、なんらかの充填をしようとしたとき、それを他の集団が制止することは、明らかな災禍が現実のものとなるまでは、難しいものなのだ。しかもこの場合、欠如か欠如でないかの境界線はなんら「客観的」なものではなく、要するに欠如と感じる小集団がいれば、それが欠如として発現するという構造になっている。
 おそらく、人間がそのなかで過ごしたいと思うような状態に環境を変えていくという欲望は、人間にとって本質的なものの一つなのだ。人類は、自分のイメージや欲望に従って自分の外部環境を人間化してきた。人類はその意味での設計的な本能をもっている。そして人類が、自分自身のゲノムを、自分にとってより合理的で満足のいくものに変えようとしたとしても、それはただ、それまですでに無数に作動していた設計的な本能が自分の遺伝資源を対象にしたというだけのことにすぎない。そこに、或る特殊なスキャンダルを見て取るのは不適当である。――技術論的に見ても、文化史的に見ても、遺伝学者がこのような推論の果てに遺伝子操作を始めることのなかには、意外なほどに小さな飛躍しか存在しないのである。
 (D)
 このように考えていくなら、次世代の子孫のゲノムに設計的な彫琢を加え、生物的強度や社会的有利さを練り込もうとするデザイナー・チャイルドは、その奇怪さによって鬼面(きめん)人を威(おど)すようなものではなくなる。むしろそれは、その背景ではるかに広範で遠大な射程をもつ技術論的問題構制の、部分的な発現にすぎないものになる。
 もちろん、現段階で取り沙汰されている予想には、多くのアジテーター的な色彩があり、その全部を鵜呑(うの)みにすることはとうていできない。にもかかわらず、その種の議論が、単に奇矯(ききょう)な変人の囈語(げいご)には必ずしも響かないようなリアリティのきしみが、普通の人間の感性にも届き始めているという事実は、厳然と存在する。人工物環境を支える設計的企図の射程が、われわれの身体内部はおろか、まだ存在していない子孫の身体にまで食い入るような状態になりうるとき、われわれは、自分の存在を再び包括的に見直すというきわめて哲学的な作業を突きつけられているということを、早く自覚すべきである。
(pp108-112)
 とにかく、ここでのわれわれの議論の仕方をもう少し整理してみよう。われわれの議論のなかでは、たとえば〈犯罪傾性の遺伝子〉の存在自身は理論的に認められる、ということにしておいた。だから上記の事例で、犯罪者ではなく犯罪遺伝子を糾弾するというのが漫画的に見えると述べた理由は、その種の犯罪遺伝子などはあるわけがないからだ、という立論は、とりあえず避けておく。そうではなくて、もし犯罪傾性の遺伝子が本当にあったとしても、悪いのは遺伝子の方で、その遺伝子をもつ人間はたとえ犯罪を犯しても無罪放免扱いにすべきだということが含意されうるから、それは漫画的だと述べたのである。私は先に、遺伝学的知識の成熟に伴って責任概念は重大な影響を受けるだろう、と述べた。だが、紆余曲折を経た議論の果てに、私はそもそもの最初に述べた見立ての判断にもう一度戻ってきてしまう自分を見いだすことになる。つまり、たとえ成熟した遺伝学を備えた社会であっても、その社会はおそらく、われわれがこれまでしてきたのと同じようなやり方で、美しい、または醜い行為を判断し続けるだろう。そしてその人の遺伝的所与にかかわらず、良い行いをした人を賞賛し、悪い行いをした人を処罰するだろう。もし或る人が〈犯罪傾性の遺伝子〉をもち、なおかつ実際に犯罪を犯したとすると、社会は、その人が自分の遺伝子の傾向性を早くから認識し、それに対処することで行動調整をすべきであったのにそうしなかったという理由で、その人を処罰するのだ。
 こうして結局、私は振り出しに戻る。遺伝的知識はそれ自体としては、健全な社会政策の本質的要項として見なされることはないだろう、ということである。
 (C)
 だが、もしそうなら、なぜ私は、この論文でリベラル新優生学の現状について分析を加える必要性を感じ、出現可能性のあるデザイナー・チャイルドの意味についても思索を凝(こ)らしたのだろうか。私がその種の分析を加えたのは、〈所与としての自然〉と〈構築物としての自然〉という二項の間に繊細な境界線を引くためだった。逆説的なことながら、現在ならびに近未来の遺伝学の展開と、その文化的、社会的含意について思惟することによって、私は、或る本質的な事実に遭遇(そうぐう)することになった。つまり、われわれ人間が存在するその仕方、そして人間の文化、社会的責任、家族や友人への情愛や友愛などを決めている重要な部分は、人間活動の外枠を確かに拘束はしているわれわれの生理的所与の〈幾何学的なコピー〉ではないという事実に、である。ほとんど弁証法的なやり方で、われわれが自然的な基体に深く根ざしているということを認識させるはずの可能的な契機が、人間文化の〈設計的〉性格を確認させるための重要な契機に姿を変えるのである。
 また、遺伝学の最新情報を追跡したり、デザイナー・チャイルドなどの仮想事例を検討したりすることが、なにも遺伝的快定論や遺伝的運命論にそのまま従うことを意味するわけではないというのは、改めて確認しておくべき重要な事実だ。むしろその反対に、われわれがリベラル新優生学やそれに関連する話題について論じていたとき、それと同時に徐々に明確になってきたことは、そこで論じられているのが、人々が生きるに際して何をどのように選ぶのかの規準となる〈価値〉についてだった、ということである。極端な〈自然主義〉を信奉するというのでもない限り、それらの価値がそのままなんらかの自然的因果性を反映している、と主張することはできまい。自然からの離脱や飛翔が、価値の価値たる所以(ゆえん)をなしている。
 一般に、価値なるものは、或る設計的な企図の構築物だ。そして、〈設計〉についての議論がなされるとき、その議論をする人々は、鏡が鏡像として映し出すようなやり方で外界に対面しているわけではないという〈選択〉を、すでに暗黙のうちに行っている。設計はコピーではない。認識論的に見るなら、設計行為には主体的で構築的な契機が含まれている。存在論的に見るなら、設計は新たなタイプの存在の出現を含意する。設計という概念が工学で多用されるというのは、なんら偶然ではない。なぜなら、設計とは本質的に何かを造るということであり、この世界に何か新しい存在をもたらすいざないなのだという意味が、そこには最初から含まれているからだ。
 こうして、〈デザイナー・チャイルドの哲学〉は、われわれに興味深い事実を再確認させてくれる。ほぼ間違いなく、これからも人間は自分たちの遺伝的所与の秘密を探り続けるだろう。だがそれは、ヒト化の揺籃期の時代からすでに存在していた秘密の指導図式をわれわれがこれから手に入れることになるだろう、ということを意味しはしない。その逆に、一九七〇年代以降の遺伝子工学の技術史などを考えるなら当然推測できるように、われわれは今後ますます〈ヒトゲノムという存在〉に介入することをやめないだろうから、われわれは自分のゲノムを、社会的、または文化的な価値に、より繊細に適合させるための〈設計〉を実施し続けるだろう。自然が価値の根拠となるというのではなく、価値が自然を制御し続けるということだ。ヒトゲノムという〈存在〉は、自然界による気まぐれで散発的な流動化、生成化の様態をかなぐり捨てて、はるかに高速で、はるかに合理的な設計的〈生成化〉を、人間の合理的判断によって実現するようになるだろう。言い換えるなら、設計的衝迫(しょうはく)と教育的微調整の狭間(はざま)で、われわれは、自分たちがどのような存在になりたいのか、どのようにして自分がなりたいと思う状態に到達できるのかを決断するために、ますます選択可能性の大きなものになる技術的介入の諸様式のなかで、自分たちの活動を調整するように努力していくだろう。その作業の過程で、われわれ人間は、神や天から与えられた存在なのではなく、たえず自分自身を造りつつある存在なのだという重大な事実が、いまさらのように再確認されるはずである。
 以上のような意味で、なかば仮想的でスキャンダラスな雰囲気に満ちたデザイナー・チャイルドという肖像は、人間文化がもつ基層的な実質のありさまを、啓発的なやり方で暗にほのめかしているということが分かる。デザイナー・チャイルドは、われわれのアイデンティティが、実はわれわれの設計行為の果てに構成されているものなのだという事実の、間接的で喚起的な表現に他ならないのである。

第5章 迂回路――クローン人間
(p163)
 体細胞クローンという、除核未受精卵への体細胞核の移植技術からなる事象と、本書がこれまで主に論じてきた体細胞や生殖系列に対する遺伝子改造とでは、似て非なる問題であるにすぎない。それなのに、なぜ、ここでわざわざ迂回路(うかいろ)のようにクローン問題について触れる必要があるのか、と読者はとまどいを覚えるかもしれない。(略)だが、少なくとも或る面において、このクローン人間論という主題は、遺伝子改造論と重要な収斂を起こしている。
(p167)
 カスは、この事態を、通常の生殖により子どもを授かるbegetと、クローン技術によってクローン人間を作るmakeという二つの動詞によって対比的に表現している。クローンによって、子どもは授かり物から、makingの対象物、つまりmanufacturesに近付くのだ(22)。――私がなぜ、遺伝子改造論一般を論じるという目的をもつ本書のなかに、わざわざ似て非なるクローン人間論を挿入したかが、分かっていただけるだろう。この問題は、事実上、私が設計的生命観と呼ぶ問題構制のなかに吸収される問題系なのである。もしこのbeget/make問題をきわめて重大で、乗り越え困難な問題だと見なすなら、設計的生命観に基づいて、生殖系列も含めた遺伝子治療・遺伝子改良一般への一定の評価をし続けることは相当難しくなる。なぜなら、仮に治療目的に限定したとしても、それがなんらかのmakingの成分を含むということは、否定しがたいからである。ただ、このように問題を照射し直すと、逆にそれはクローン人間論の枠を超えてしまうので、本書の結論部分に当たる第七章で再び取り上げ直すことにして、ここではひとまずクローン人間論に戻るべきなのかもしれない。
(pp180-183)
 確かに、いま私が述べたことが、公共政策的には妥当な落としどころだといっていいのだろう。だが、その一方で、もう少し現実世界に接近した場面での議論も必要なのかもしれない。〈現実世界〉、つまり必ずしも、関係者の善意や誠意、倫理的配慮などが完全には前提にできない文脈で、ということである。たとえば先の安全順路不在問題にしても、別にクローン人間技術に限らなくても、人体実験には、常に一定の危険はつきものだ。だからといって、医学研究が頓挫(とんざ)し停滞するという代価を支払ってでも、少しでも危険性のある人体実験はすべきではない、と主張したとして、本当に聞いてもらえるだろうか。医学は、社会的要請としての医療を支える理論的基盤であるという意味で、社会の側の需要に対応する供給的な知識であると同時に、人体についての自律的な科学として、それ自体の発展を半ば自己目的化している成分も抱えもっている。難しい局面の問題に突き当たったとき、多少の危険性は承知しながらも、人体実験的行為を行うという欲望は、小さなものではない。被験者という少数者の小さなリスクと、そこから見込みうる不特定多数の患者の大きなベネフィットという両者を比較考量するという論理のなかで、医学研究者が、多少の危険性を承知のうえで研究遂行の決断をするということは、十分にありうることなのだ。だから、つい先ほど、安全順路不在問題に触れた際、「少なくとも理念的な社会空間においては」という留保をわざわざつけたのは、この問題が決定的な抑止論理になるためには、現実世界はあまりに雑多で多元的な因子が混ざりすぎている、という現実認識を私がもっているからである。だから、上記の議論を部分的に破壊することになることは承知のうえで、私は次のように付記せざるをえないのだ。安全順路不在問題は重要な論点であり、繰り返すならクローン人間論においては、近未来の切迫性がある分、実質的抑止論に近い機能を果たしうる。だが、これを敷衍して、他のケースにまで一般化適用することはおそらく難しい。たとえばわれわれの主題である遺伝子改造論は、技術的困難や実験的危険性という意味では、クローン人間作成以上のものが予想されるわけだが、この安全順路不在問題を同様に駆使して、遺伝子改造を抑止しようと思っても、クローン人間をはるかに超える医学的偉業としての可能性、設計的人間観がもつ哲学的起爆度などの重みの違いがありすぎるので、実質的には抑止論としては機能しないだろう、と私は考えている。
 〈現実世界〉のレアリズムに関連した話題として、最後に後一つだけ、象徴的な具体例を挙げておこう。イタリア人医師アンティノリ(Severino Antinori)と、その背後のフランス人、ラエルことクロード・ヴォリロン(Claude Vorilhon)のことを思い出して欲しい。(略)彼らが再度、実験を繰り返す、または彼らに類似した人々が、生まれてくる子どもの人権や健康などに必ずしも十分な配慮をせず、功名心や野心、または単なる過激なパフォーマンスとして、この種の行為を行うという可能性は常に存在する。しかも、その場合、関係者たちがどれほど「おかしな」人々であったとしても、生まれてくる当の子どもには何の責任もない、という事実が残る。上記のような、多様で複雑な議論や配慮の織り目を踏みにじるようにして、その種の行為がなされたとしても、その帰結は、少なくともただその表面的結果だけを見るなら、通常の医療行為となんら違わない。或る病室で、小さな命が誕生し、赤ちゃんの泣き声が響き渡るというだけなのだ。その子の出生の特異性は、その泣き声からはどうやっても聞き取ることはできないだろう。将来、その種の文脈から、実際にクローン人間が誕生し、その子が或る程度大きくなってから、スキャンダラスな情報開示が行われるというのは、十分にありうることなのだ。その場合でも、周囲の関係者たちへの非難はできても、当の子どもへの非難はできない。その子がもし普通児に比べてより高い健康上の危険性をもつとするなら、医学界は全力を挙げてその子を救おうとするはずであり、世論もまた、それを支持するはずである。
 そして、このようないわば〈なし崩し〉の前例作りによって、とにかく何人かのクローン人間が生まれてしまった場合、上記のように、とにかくその子を育てようとする人々の善意によって、それまでさんざん緻密な議論によって守ろうとしてきた文化的価値や倫理的規範などが、まさにすでに存在するクローン人間を救おうとする当の行為のなかで、同時に瓦解、ないしは弱体化していくという可能性はある。〈生命倫理学的議論〉がもつ或る種の空しさは、現実がなんらかの形で先行していった場合、本当の意味で、それを止めるだけの力はその種の議論にはないかもしれない、という予感から来ているように思える。
 いずれにせよ、安全性などの問題で、とうてい倫理的に支持し得ないと見なしうるクローン人間誕生は、このような意味で、たえず起こりうる事件、考え得る事象としてわれわれの前に宙づりになったままなのである。

第7章 homo transgeneticus
□要旨(著者による)
「設計の自己反射・離陸する身体」
『現代思想』vol.33, no.8, 2005年7月、pp.99-113.
『現代思想』誌に公表してきた一連の遺伝子改造論の、一応の完結編。2005年初夏の時点でこの問題について私なりにいえることを、総括的に述べておいた。重要なのは、生殖系列遺伝子改造について、一定の許容可能性を認めたことだ。そして、その際、どのような倫理原則がありうるのか、倫理的に認可されうる改造とはどのようなものなのかを思考実験的に開示しておいた。
 http://www.p.u-tokyo.ac.jp/~kanamori/RonYoshi.htm
□引用
(pp233-236)
 だから、ここで、一つの重要な問いかけをしてみよう。ヒトゲノムは神聖不可侵なものなのだろうか。
 (略)ヒトゲノムが現状ですでに完璧なものであり、それに手をつけるなどということは冒涜以外の何ものでもないとする判断は、事実上、自然についての事実的判断というよりは、設計者、つまり神についての宗教的判断に近い。しかもその場合、それが神聖不可侵だといいうるためには、多様で多元的、部分制御性や試行錯誤性を含意する多神教ではなく、統括的で総合的な設計・製作を含意する一神教的な宗教でなければならない。だから、たとえばキリスト教のような宗教で、ヒトゲノム神聖不可侵論がでてくる可能性は、確かに存在する。
 ところが、そのキリスト教的地盤に身を置いたとしても、絶対に神聖不可侵だと考えなければならないとはいえない。たとえば、次のような立論ができるのだ。――仮に人体の設計に神慮が反映されているとしても、その神が、最初から完全無欠な創造を完遂したと考えなければならない理由はない。近世から近代初頭にかけての神学論争、例の〈仕事日の神〉と〈安息日の神〉の話ではないが(2)、完全無欠な設計が最初に行われて、あとは被造物に見向きもしないというのでは、神はヒトゲノムにあまりに無関心だとはいえないだろうか。むしろ神は、創造時には確かに最適な形でではあっても、その後徐々に改良可能性が出てくるような形で創造した、とはいえないのか。その場合、神は時に応じて、ヒトゲノムに適宜微調整を加えるような形で、それを作ったということになる。そんな風に考えるのは、神の卓越性を否定し、不器用で粗忽(そこつ)な神のイメージを浮き彫りにすることなのか。いいや、そうではなく、被造物を一度創り上げたあとでも、たえず被造物に気を遣い、人間と世界に関わり続ける慈愛深い神のイメージに繋がる、とはいえないか。
 そして、もし神が、この〈仕事日の神〉のようなあり方で、ヒトゲノムと関わり続けているとするなら、つまり創造行為を世界創造の地点で終結したものとは見なさず、創造行為自体のなかに継続的創造の契機を入れ込むとするなら、その神観に呼応した新たな人間観が要請される土壌が整う。
 (略)つまり神と最初期の被造物がもつ〈原初的決定稿性〉を否定することで、被造物には永遠の草案のような性格が負荷される。そして、被造物のなかでは随一の存在である人間が、神を援護するということによって、創造者と被造物との関係がもつ因果的一方向性が否定される。〈存在を創る〉のは、もちろん神ではあるのだが、人間も人間なりに〈存在を創る〉のまねごとをし始めるということだ。こうして、神と世界と人間とが、三者三様に流動化の存在論に身を委ね始める。この文脈に置かれたとき、ただヒトゲノムだけは、絶対に手を触れてはならないものだと言い続けるのは、かなり難しくなる。ヒトゲノムに手を加えるということと、ヒトゲノムには手を付けないということがあったとき、いまのところはまだその挙証責任は前者の方が比率が大きいが、近未来には、後者の方に比重がかかってくるという可能性がある。つまり、なぜヒトゲノムに手を付けてもいいのか、ではなく、なぜヒトゲノムに手を付けてはいけないのかを、論証しなければならなくなるかもしれない。
 しかも、なにもキリスト教徒でもない私が一部のキリスト教で立ち上げられているこの種の議論を援用するなどということをしないでも、私の専門領域である科学思想史や科学史からの類推によっても、似たような推論が私のなかに湧き起こってくることに気づかざるを得ない。(略)私には人類の知的作業の一つのパターンといってもいいように思えるのだが、人類は、或る流動体を固定的に対象化することに成功したとき、あとはそれをただ黙って観察しているというのではなく、次のほぼ必須の段階として、それにいろいろと手を加え始めるという性質をもっている。今後、意味をもった塩基配列の集合として固定化されていくゲノムは、一つの被操作的な対象になったと考えた方がいい。
 だから、少なくとも仮想的思考実験の位相においては、ヒトゲノムの神聖不可侵性を唱え続けること、そして生殖系列遺伝子改造を絶対的禁忌として扱い続けることは、徐々に難しくなりつつあると考えられる。
(pp237-238)
医学はただの手段なのであり、その活動自体の根本に自らの最終的根拠を見いだそうとしても見つからないという構造をもっている。そして、たとえ一定のリスクがあったとしても自分の限界を突き破りたいと考える人は、あのプロメテウスのような心性に駆動されている。神から火を盗んだせいで、もの凄い懲罰を受けたプロメテウスの姿は、実は、より上を目指しては挫折していき、それでも憧憬や渇望をやめようとしない人間の姿そのものだ。〈プロメテウス・コンプレックス〉を抱えたままに生きていくというのは、人間の根源的な業(ごう)、または性(さが)のようなものだ。これを見ようとしない人間論は、どれほど美や正義論などで化粧をしても、底の浅さを隠すことはできない。そしてこの文脈で、あえて本書全体を貫く或る一つの判断を再確認するなら、いわゆる優生思想は、ナチスなど、特殊な歴史的拘束に囲い込まれた過去のおぞましい偶発的逸話というよりは、古くから存在し(7)、今後、新たな相貌のもとに現れ直してくる可能性の高い思想だと考えた方がいい。それは、自己凌駕の力動性を抱え込む人間性の根幹に関わるものであり、世界に対する一種の態度・欲望の発露なのである。確かに、かつて存在した否定的優生学のおぞましさは、こんな〈綺麗な〉表現で隠蔽されてしまうべきものではないだろう。だが、本書が、かつての優生学をそのまま復活させるなどという意図をまったくもっていないということは、本書をこれまで通読してきた読者には、ほぼ明らかなはずである。
(pp241-242)
技術的準備が整うというのは、どういうことを意味するのだろうか。もちろん、マウス・ラットを用いた計画的・系統的で大量の実験がなされるというのは、当然の前提条件だ。そして、その後にすぐに人間を扱ったりはせずに、移行的研究として、チンパンジーなどの霊長類を用いた実験計画が立ち上げられるかもしれない。だが、とにかくその最終段階では実際に人間を用いた実験をしなければならないはずだ。では、その人体実験の被験者は、どういう事態に立ち会わねばならないのだろうか。この場合、被験者とはいっても、実際に影響を受けるのはその人の子どもや子孫だ。そして当然、彼らからインフォームド・コンセントを取ることはできない。だから、その利点とリスクを説明しようにも説明できないのだから、にもかかわらずそれが許される実験であるためには、被験者に或る重篤な遺伝病があり、それが子孫に多大の苦しみを与える可能性が高い場合にのみ許されるという限定がつけられるだろう。それでも当然リスクは付きものということになるだろうが、現在でさえ、たとえば末期状態の患者に半ば実験段階の薬を投与するなどということはある。それがリスクを冒すに値する見返りの可能性を抱え込む限り、リスク自体の存在や、その行為全体の実験的性格は、別に問題にはされない。
 ここで、そもそも改造行為全体の背景をなす或る重要な前提に触れておく。一つの思考実験をしてみる。いま、レッシュ・ナイハン症候群の遺伝子が完全に特定され、それに対する治療的切り貼りが可能になったという技術的成熟がもたらされたとする。その場合、
@その重篤な疾患の遺伝子を普通人の遺伝子と取り替えること
A普通人の遺伝子をその重篤な疾患の遺伝子と取り替えて、普通人をその病気にすること
 この二つの行為の間には、単に方向の違う対称性しか存在しないのだろうか。常識的に考えて、仮にそれが〈思考実験〉という縛りの内部にあり、そこに留まり続けたとしても、後者は、「考えるだに恐ろしい」と感じるのが普通なはずである。常識的にみて、前者は治療であり、後者は虐待であろう。そして、その場合、その判断を基底から支えているものは、やはり〈生命に対する質的な評価〉ではないだろうか。「生命の質」、いわゆるQOLは、最近、文脈によっては、特に障害者冷遇の可能性に対する忌避もあり、ときに批判の対象にされる場合がある。だが、QOL概念は、末期医療での患者の待遇改善への意識化という意味だけではなく、より広範で深い含意をもっていると考えるべきだ。「生きている」ということのなかには、「どのように生きているのか」という質的評価の眼差しが必ず随伴している。生命の担い手の、ではなく、生命の諸状態に対する質的な序列は、生物にとって枢要の重要性をもっている。QOL概念を重視することは障害者差別をもたらすとでもいうかのような議論は、その重要性を見落としている。〈障害者のQOL〉を高めようという企図は、完全に有意味で、社会的にも重要なものである。一般に、「ただ生きていればいいというものではない」という判断がまるで無意味になるとは、とうてい考えられない。QOLは、以下に提示される遺伝子改造の思考実験の是非を決める際にも、その概念的な基盤になる。QOLが顕著に低くなるような可能性のある改造は、とうてい認容されえないということだ。まずは、これを大前提の判断として押さえておいて欲しい。
(pp245-246)
 さて、それでは、
@生殖系列遺伝子治療が遺伝病対策として或る程度成功するという事実が順調に蓄積された状態(本節Aで議論されたこと)
A治療がそれ自身の境界をなし崩し的に乗り越えながら、治療以上の改良・強化的側面と融合する場面がいくつも出現するという事態の浮上(本節Bで議論されたこと)
――この二つを前提条件とした場合、次の段階がどうなるかを考えてみる。いま、この条件を満たす状態になった時点、またそれ以降に展開されることを含めて、それをC段階と呼んでおく。
(pp255-258)
生殖系列遺伝子改造の言説空間にここ数年意識的に参加してきた私として、私が最低限これだけは守るべきだと思う倫理原則を提示することによって、私なりの責任を果たしたいと思う。(略)
この倫理原則はC段階に入って以降、とりわけ重要性を帯びてくるものだといえる。もっとも、それらは、私が本書の第二章や第三章で適切な遺伝子改造は「汎用の善」を目的にしたものに限るという判断に好意的に言及したとき、事実上は部分的に表出していた考え方だった。それをもっと明示的に、一種の倫理原則として提示するときが来たようだ。
 改造に当たり、以下の三つの原則が、不可侵の大原則だと考えられる。
@子どもの自由(liberty)の保護
A子どもの自律性(autonomy)の保護
B子どもの統合性(integrity)の保護
 以上である。そして、もしこれに違反することを医療機関や特定の個人が行ったことが明らかになった場合には、倫理的非難を浴びせるだけではなく、罰金や監禁等の可能性を含む刑事罰の対象にすべきである。だから、ガイドラインのような関係者の内部規範でお茶を濁すのではなく、その法的基盤を整備するために、明確な対象限定をもち特別に誂(あつら)えられた法律を作る必要があるだろう。
(略)
 自由と自律性という概念の相違については若干不明確かもしれない。強いていえば、後者は、子どもが自分を主体的エージェントとしていつも感じることができるような状態を中核的規範としてもつという意味で、前者よりも若干特定的性格の強い、狭い概念だといっていいだろう。また〈統合性〉という概念は少し分かりにくいかもしれない。それは或る種の調和、全体の纏まりのようなものを意味している。だからたとえば極度に高い知性を改造で多くの人間に付与するなどということをしてはいけない、ということが、この条件から帰結する。〈極度に高い知性〉は、人間精神のこれまでの、かろうじての纏まりを破壊し、解体する可能性を孕むからである。その一方で目の色の改変などは、統合性を明らかに破壊しているとはいえない、という判断が可能だ。
 もし技術が円熟し続けるなら、明らかに治療的な改造は繁栄を極めるだろう(14)。だが、それを除いた段階で、この三条件にたえず注意を払いながらでしか改造を試みてはいけないということになると、強化的な改造が徐々に出現し始めるとしても、事実上、その種類は比較的限られたものに留まるだろう。
 大山鳴動して鼠一匹、と思う読者も多いに違いない。だが、どこに、最も大きな議論場の構築性があったのかを見極めてみて欲しい。それは実は、「あれこれという生殖系列改造はしてはいけない」という倫理細則による拘束のなかにではなく、「生殖系列改造を絶対の悪と考えてはいけない」という哲学的開放のなかにあった。人体は〈離陸〉を始める。だが、それは一気に上空に飛び出すということでもなければ、〈管制官〉を無視して突進するということでもない。人体という〈所与〉は純粋な所与性からは離脱し、われわれの文化的判断が作り出す〈作品〉になるのだ。そして、その場合、大局的に見て価値判断の準拠は、所与としての自然をどんどん離れ、われわれの構築的な文化的位相のなかに、その準拠点が求められるようになっていくだろう、と私は考えている。その意味で、〈自然主義〉は重要ではないのだ。そのときに浮き彫りになるのは、むしろ〈文化による自然統御〉という様相がより顕著になるような時代だろう。自然の無視や隠蔽、周辺化ではない、その制御である。
 人体でさえ、そのような意味での設計の時代に入るとき、われわれの文化の質が、本当に繊細で上品なものであり続けるためには何をしたらいいのか、または何をすべきではないのか、この本当の意味で哲学的な含意をもつ問いかけが、いままさになされようとしている。私があえて、やや奇矯な執拗さで何年間もこの話題を追求してきたのは、それらの議論を通して、この文化的自覚を読者と分かち合いたいという願いがあるからだった。設計企図が自分自身に反射し、それが文字通りの意味で肉化する時代。われわれの近未来は、そんな時代になっているはずである。


■言及

森岡正博, 20011110, 『生命学に何ができるか――脳死・フェミニズム・優生思想』勁草書房.
(pp379-387)
 まとめると、優生学の中心テーマは、歴史的に見て、(1)イギリスの自発的断種の優生学、(2)アメリカで登場した強制的断種とナチで開花したホロコーストの優生学、(3)70年代に登場した選択的中絶の優生学、(4)21世紀に予想される遺伝子操作の優生学の、四つの時期に分けられる。現在は、(3)から(4)への移行期が始まったところである。
 私が本章で考えてきた選択的中絶は、70年代以降の第3期の優生学を支えた思想である。選択的中絶のような優生思想を研究することは、もちろん有意義なことであるが、しかしそれだけでは、21世紀に開花するであろう第4期の優生学の本質を把握することはできないという批判がなされるであろう。たとえば、選択的中絶においては、生まれてきてほしくない生命の存在を抹消するという点が、議論の焦点となった。ところが、第4期の優生学では、生命の存在の抹消は中心的なテーマではない。そこでのポイントは、生まれてくる子どもを、いかにして親の望む性質をもった子どもに変えるかである。子どもを殺すわけではないのだから、いったいどこに問題があるのか、というわけだ。第4期の優生学については、すでに1990年代から、英米を中心にして様々な議論が蓄積されつつある。金森修は、それらの文献群を総覧した論文において、「遺伝子改良を強く押しとどめるだけの論理を、われわれはいまのところもっていない」と結論付けている(*90)。
(略)
 本章で議論したことをもとにして、第4期の優生学に関して若干の意味ある考察をすることができるように思う。第3期の優生学のポイントは障害胎児の存在抹消であったが、第4期の優生学ではそれが前面には出てこない。したがって、第4期の優生学を進めることが「障害者の〈存在〉否定を意味する」とただちに結論づけることはできない。だが、以下に述べる点において、根本的な疑問をはらんでいると思われる。
 第4期の優生学は、親が自分の好みに応じて、生まれてくる子どもの肉体的あるいは精神的な性質を人工的に変えたり、能力を増進させたりすることをめざす。親が操作するのは、自分自身ではなく、生まれてくる子どもという他人の身体である。他人の肉体に対して、一方的に、不可逆的な変更を加えることが許されるのか、というのがポイントとなる。
(略)
 もし受精卵や胎児に対する増進的な遺伝子操作が許されるとするならば、それは、子ども自身が人生の岐路に立たされて、自分の将来を自己決定しなければならなくなったときに、その選択の可能性を広げるようなもの、あるいは人生を自力で切り開いてゆく力を支えるようなものに限定すべきであると私は思う。どのような人格を形成し、どのような職業を選択し、どのような人生を作り上げていくかを決めるのは、子ども自身であって、親ではない。美しい眉のカーブや、高い身長をもっていたとしても、それが親によって作られたのだと知ったときに、自己否定と自虐に陥る人間は多いかもしれない。親から過度な期待がかかるのだったら、特殊な運動能力や記憶力を遺伝子的に付加されないほうがよかったと思ってしまう子どもが、たくさんいるかもしれない。われわれには、そういう想像力が必要なのだ。生命科学医療のテクノロジーは、この子は美人になってほしいだとか、この子は高い知能指数の弁護士になってほしいだとか、この子はプロサッカー選手になってほしいだとかの、親の「欲望」「エゴイズム」をサポートするために利用されてはならない。なぜなら、そのようなテクノロジーを利用することで、親は自分の人生の夢の続きを子どもの人生で見ようとするのであり、そのことによって、子どもの全は親の道具となり、子どもは親の願望と期待によって束縛され、支配され、自分自身の人生を生き切ることができにくくなってしまう危険性があるからだ。
(略)
 ここまで、受精卵や胎児への生命操作は、それらの存在抹消を含まないという前提で考えてきた。もし、その前提に忠実にのっとって考えるならば、受精卵や胎児への生命操作を行なう親たちは、仮にその操作が「失敗」したとしても、胎児には殺意を抱かず、その結果として生まれてくる子どもをありのままに受けとめ、かけがえのない生命として大切に育ててゆくことになるだろう。いままでのすべての議論は、このような親たちを前提としてなされている。そのうえで、何が倫理の問題になるのかを考えてきた。
 しかしながら、現実問題として、実際にそれが応用されるときには、「失敗作の廃棄・中絶」が、かならずや組み込まれてくるであろう。すなわち、生命操作がうまくいった場合には産むが、うまくいかなかった場合には胎児を中絶したり、受精卵を廃棄するという選択肢が、きっちりと用意される。そのような「リスク回避」の選択肢が準備されたうえで、臨床応用されるにちがいない。もし、そうであるとするならば、第4期の優生学もまた、第3期の選択的中絶とまったく同じ倫理的問題を抱えていると言わざるを得ない。それをまぬがれているのは、「失敗しても産む」という契約のもとでなされた生命操作のみであろう。この論点が、従来の新優生学の議論に欠けていたのではないだろうか。

 (*90)金森修「遺伝子改良の論理と倫理」112頁。


霜田求, 200310, 「生命の設計と新優生学」『医学哲学 医学倫理』21.
 生殖における遺伝子増強を伴う生命の設計が優生学的実践であることを認め、かつその正当性を唱道する新優生学の言説群の中で、とくに二つの論拠に注目してみたい。それは、「市場における消費者=クライアントという主体像」と「遺伝子改造を通じた人類の自己進化というビジョン」である。何れも、技術的な操作可能性が拡がることにより設計する側の欲望がさらに前面に出てくるのに応じて、設計される個体が「思い通りにコントロール(支配・制御・管理)できる対象」として位置づけられていくという事態を映し出している。それぞれのポイントをまとめておこう。
 (ア)先端医療技術を利用した生命への介入は「優良な質」を選び取る優生学的実践であり、それが国家の政策による集団への介入としてではなく個人の自発的選択として行われる限り、そのサービス利用者である消費者=クライアントの幸福追求権の行使であって倫理的に正当化可能な優生学である。
 (イ)個人の自発的選択による生命への増強的介入は、人類の遺伝子プールの質の改善として集団(未来世代)の生物学的かつ人間的質にも及ぶものであり、従ってそれは人類の新たな進化の歩みという文明論的意義を有するものである。
 こうした立論は、同じく個人の自発的選択により行われている、選別(生存/消去)、改変(治療)、そして作製といった生命の設計の他の形態にも当てはまる。そのことも踏まえて新優生学を定義すると、「原則として個人の自発的選択に基づき、先端医療技術を用いて他者をコントロール可能な対象として眼差しかつその生の質に介入することにより、個人/集団(未来世代)における遺伝的質の改善を図る思想および実践」ということになるだろう。
(略)
 さて、上記(ア)に見られるような見解は、その主要特徴と結びつけて「レッセフェール優生学」「消費者優生学」「リベラル優生学」「ユートピア優生学」「個人主義的優生学」などと呼ばれているが、ここでは「消費者個人主義優生学」という呼称を用いる(*7)。

 (*7)この立場に言及している文献としては以下を参照。Agar[1999]; King[1999]; Kitcher[2000]; Paul[1998]、金森[二〇〇〇]、松原[二〇〇〇]

金森修 二〇〇〇:「遺伝子改造の論理と倫理」、『現代思想』第二八巻第十号


◆倉持武, 200510, 「訳者あとがき」 Kass, Leon R, ed., 2003, Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness: A Report of The President's Council on Bioethics, New York: Dana Press (=200510, 倉持武監訳『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求:大統領生命倫理評議会報告書』青木書店):383-398.
(pp383-385)
 本書と同様のテーマでクローン人間をも射程に入れた著書が,リー・シルバーや当評議会のメンバーであるフランシス・フクヤマ,当評議会議長レオン・R・カスによってすでに書かれ,邦訳もされているが,日本人著者によるエンハンスメント問題をある程度体系的に論じた書物は出版されていないのではないだろうか(@)。議論の体系性を度外視すれば,もちろんエンハンスメントに関する議論は日本でもすでに始められている。岡山大学の粟屋剛氏,東京大学の金森修氏,大阪大学の霜田求氏,静岡大学の松田純氏らの論文が発表されているし,日本生命倫理学会の2004年度大会のワークショップのテーマは「エンハンスメントの倫理問題」であった。
 日本におけるエンハンスメントの議論は,どちらかと言えば,各種エンハンスメント技術の紹介と今後の発展方向の予測に重点を置くものが多く,体系性の問題の他に,失礼を省みずに言えば,エンハンスメントが何のために行われようとするのか,その目的となる欲望の分析が欠けている。このため,本書の白眉とも言える「治療を徹底的に超える」視点,「治療」と「治療を超える」区別さえもが超えられてゆく視点が出てこない385)
。この視点を欠くならば,エンハンスメントが個人に対してはもちろんのこと,社会全体に対して持つ意味と影響を明らかにし,そこに生まれる倫理問題を明確に認識することはできないし,ひいてはそれの解決に向かうための道筋を示すことができない。
 たとえば,遺伝子改良に関する社会的公正の問題を取り上げて,金森修氏は次のように述べている。氏の論点がよく表されているところだと思えるので,少し長いがそのまま引用する。
 「確かに社会的平等や公正さの観点からみて遺伝子改良は負の要因となるかもしれない。しかし,それを改善しようとすると,先にも述べたリベラリズムの原理に抵触する。もし遺伝学が自立的な科学的知見として成熟し続けることを社会的に容認するのなら,他方でそれを個人の才覚で最大限利用することをやめさせるだけの社会的論理はありうるのだろうか。もし社会的公正や機会平等の観点から見て,それが好ましくないと思われるのなら,個別的な遺伝子改良を制限するという方向ではないやり方で,少しでも公正さを増すような手続きがとられるようになる,という可能性の方が高い。たとえば,もしそれを望むのなら,できる限り多くの人が余り経済的負担に気後れがしない程度にまで関連作業の医療費を下げる,また一部の人にだけ有利な情報が行き渡るなどということがないように,最先端の遺伝学的知識をかみ砕いて,できる限り多くの人々に周知徹底させる,などである。こうすれば遺伝子改良は,社会的公正の観点からみても,それほどゆがんだ事態を引き起こさないものに姿を変えていくだろう(A)。」
 ここで金森氏は,フランス革命によって宣言された近代社会の理念,自由,平等,連帯(博愛)は,相互に対立する場合があり,そのときには自由を平等,連帯の上位に置くリベラリズムの立場を尊重せざるをえないこと,また,この立場を堅持したかたちでの言わばバイオデバイドの解消,つまり公正の実現が可能であることを主張している。こうした議論は十分成り立つし,リベラリズムを堅持したかたちでの社会的公正の実現も,後で記す松田氏の指摘からすれば極度に困難ではあるかもしれないが,まったく不可能ではないかもしれない。しかし,問題は,エンハンスメントに関する倫理問題の核心は,社会階層化の促進可能性,社会的格差の拡大可能性にあるのではないということ,逆に言えば,金森氏の言う公正の問題が解決されたとしても,エンハンスメントに関する核心的倫理問題の解決への1歩にはならない,ということなのである。問題の核心は,エンハンスメントが引き起こす非人間化ということにあり,エンハンスメントを自由に利用できる経済的特権階級ほど非人間化していく可能性が高いという側面があるのである。エンハンスメントが毒であるならば,社会的公正のための毒物摂取量の平等の実現ということなどは問題にならないのであって,まず,エンハンスメントによって実現されるものと,もともとの欲望の関係を明確にすることが必要なのである。

A「遺伝子改良の論理と倫理」,『現代思想』28巻10号,2000年9月,112頁。


◆椎野信雄, 20070328, 「第12章 「遺伝子改造社会の論理と倫理」の概念分析」『エスノメソドロジーの可能性――社会学者の足跡をたどる』春風社:253-272.


*作成:植村 要
UP:20080523 REV:20080822
エンハンスメント  ◇科学技術  ◇生命倫理[学]  ◇生権力  ◇遺伝子  ◇薬について(とくに精神医療で薬の使うことを巡る言説)  ◇サイボーグ関連文献表:発行年順  ◇身体×世界:関連書籍 2005-  ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)