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『99歳精神科医の挑戦――好奇心と正義感』

秋元 波留夫/上田 敏 構成 20050916 岩波書店,246p.


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秋元 波留夫 20050916 『99歳精神科医の挑戦――好奇心と正義感』,岩波書店,246p. ISBN-10: 400022543X ISBN-13: 978-4000225434 1900+ [amazon][kinokuniya] ※

■内容

(「BOOK」データベースより)
パソコン5台を駆使してインターネットと日々旺盛な執筆活動―1世紀を生き抜き、高齢時代の最先端を行く“いきいき老人”の、驚異の人生と現代日本への洞察。
(「MARC」データベースより)
100歳を目前にしてなお障害者の社会復帰運動の先頭に立ってまい進する精神科医が、20世紀の生き証人として日本の過去を振り返りつつ、社会の今後のあり方について明快な処方箋を提示する。

■目次

序章 旅立ち
1章 追憶―風土と人生
2章 自由の大地―松本高校から東大医学部へ
3章 人生模様―石田昇と蘆原将軍
4章 大自然の片隅―伊豆大島藤倉学園、そして北大へ
5章 勝利なき戦い―十五年戦争と精神障害者の受難
6章 忘れじの面影―伊藤千代子の青春と治安維持法
7章 未知との遭遇―宗教妄想者「璽光尊」
8章 間違えられた男―帝銀事件、精神鑑定と自白の信憑性
9章 人間の絆―精神医療とサムライ達の誇り高き情熱
10章 生きる情熱―精神障害者が人間らしく生きること
終章 昨日・今日・明日―二十一世紀への処方箋
あとがき


■引用

9章 人間の絆―精神医療とサムライ達の誇り高き情熱

1941・金沢大学
「赴任してみると、教室は助教授一人きりであった。東大の教室から、わたしの願いをいれて金沢に助手として赴任してくれた広瀬勝世さん(旧姓近喰、広瀬貞雄日本医科大学名誉教授夫人、故人)と教室に新しい教室を作るつもりでその準備に没頭した。翌年には入局者があったものの、すぐに兵隊にとられ、診療にもことかくありさまであった。脳波の研究をするつもりで、赴任の時に購入した電磁オシログラフも、研究室に竣をかぶつって 放置されたまま。わたしたちは、患者と教室をまもるのが精いっぱいであった。」(秋元[2005:◆])

 「東京大学教授時代
 一九七五八年四月から一九六六年三月までの八年間、わたしは東京大学で精神医学講座を担当した。一九三七年、外来医長として働いた頃と全く同じ規模の、せまくるしいところであった。わたしが教授であった頃、一緒に勉強した作家の加賀乙彦君が東大医局時代を描いた小説『頭医者』(中公文庫、一九九三年)に、その当時の精神科の建物の様子が描かれている。
 「精神科は大学病院の端っこに位置する赤煉瓦の建物の半地下にあった。関東大震災直後にたてた当時としてはモダンな建物だったららしいが、戦争中に荒れはてて、いかにも古びて見える。天井は塗りがはげて無数の毒蛾がとまったようだし、木の廊下は凸凹していて、ところどころ腐って穴があいている。窓という窓には鉄格子がはまっているが、これが一様に赤錆びて何か荒廃の気がある。それに半地下だから薄暗い」
と書かれているよ、つに、この古びた赤煉瓦の建物に、耳鼻咽喉科、整形外科と同居していたが、精神科は最も条件の悪い半地下におかれていた。
 わたしが外来医長であった頃の教室員は、十人ぐらいであったが、戦後、精神医学を志望する若い医師が増加して、着任当時には、すでに百人に近い大世帯となっていた。教室員の名前を覚えるのに<0181<も往生するほどであった。そんな大所帯であったにもかかわらず、いれものは旧態依然のままだから、人口過密の状態で、一つの机を何人もの教室員が共同使用していた。それでも診療と研究は活発だった。精神医学の領域では臨床から脳の研究に至るまで、未解決の課題が山積しており、ほとんどの医局員は診療とともに、それぞれの興味と関心にしたがって新しい課題の研究に挑戦していた。研究室に入るのはおもに夜間で、当直室には二段べッドが蚕棚のようにいくつも取り付けられて、いつも満貝の盛況だった。
 その頃、わたしが痛切に感じたことは、精神科が内科や外科とちがって一講座、すなわち教授はひとりだけで、スタッフも少ないという不合理であった。精神医学の広範な領・の教授がカバーすることなどできるはずがない。欧米の大学は学科制で何人もの教授がいる。日本とは比べ<0182<物にならない数のスタッフが診療、教育、研究に従事している。当時の教室には、わたしの足りないところを補ってくれる優秀なスタッフがいたから、学生諸君と若い医局員の教育ができた。しかし、この精神科一講座制は国立大学では現在も改められていない。
 一九六六年三月十日、東大教授としての最終講義を、医学部大講堂で行った。そのテーマは、「精神医学はいかにあるべきか」であったが、それはわたしの解答ではなく、新しい遍歴、いや、新しい旅路のはじまりでもあった。
 東京大学を去った三年後の一九六九年九月に、予想もしなかった「東大精神科赤煉瓦病棟占拠事件」が起こった。それが全国の大学に波及し日本精神神経学会も紛糾した。この騒動が収束に向かったのは一九八〇年代に入ってからで、東大の事件が最も長引いた。この事件の意味や、この事件<0183<に対するわたしの考えは後述する。ここでは、肝心な精神障害者をそっちのけにした精神科医の独善的な論争であり、コップのなかの嵐であったというだけにしておく。強いてそのポジティブな面をあげれば「精神医学はいかにあるべきか」、「精神医学とは何か」についてあらためて考えるための反面教師の役割を演じたことだろう。

 国立武蔵療養所
 わたしは東大を辞める時、これで公職には終止符を打ち、もっと自由に自分のやりたいことをやろうと考えていた。ところが、わたしの松沢病院時代の副院長で、初代の国立武蔵療養所所長であった関根真一さんから、ぜひ、自分のあとをやってほしいという懇請があった。厚生省からも、この施設を国の基幹精神療養所として発展させる計画だから協力してほしいということで、引きうけることにした。
 国立武蔵療養所は、一九四〇(昭和十五)年、軍事保護院が設立した傷痍軍人のためのための精神療養所の一つとして創立された。戦後は、厚生省に移管され一般市民の治療施設として運営されていた。東京都の西郊、小平市と東村山市にまたがる七万坪の広い敷地は、いまでは本館、病棟、神経研究所、精神保健研究所などの、近代的な建物が立ちならんで狭く感じるほどである。しかし、わたしが赴任した頃は傷痍軍人療養所時代の兵舎風の古びた木造病舎や、うす汚い本館が使われていた。それでも武蔵野の面影が所内のあちこちに見られる櫟林に色濃く残っていた。院長室の窓も、櫟林から吹く風で<0184<ガラス戸が音をたててゆれた。
 わたしは着任そうそうこの古色蒼然たる療養所を、リハビリテーションに重点をおいた近代的な病院に作り変えようと考えた。まだわが国にはない、精神神経疾患の診療と研究の総合機関として、すくなくとも国立がんセンターに匹敵する「国立精神神経センター」に立ち上げる決意を固めた。そのためには何よりも、優秀なスタッフが必要となる。着任の年の五月、東大医局の若手教室員二十人に新宿の寿司屋に集まってもらい、センター構想への協力を頼んだ。六月には、希望の諸君を招待し、武蔵療養所と職員食堂で夕食をともにしながら、武蔵の職員との忌憚のない話し合いを行った。そのおかげで一、二年のうちに、東大医局から十数人の諸君が武蔵に馳せ参じてくれた。「武蔵旋風」という風評がたったそうだ。その後、東大だけではなく、北海道大学、熊本大学、弘前大学、信州大学などからも若手の諸君が入局してきて、武蔵療養所の医局は、多士済々で活気づいた。わたしの念願であった武蔵の医療改革、それに連結するセンター構想の推進も、さらには後で詳述する沖縄の医療援助も、医局<0185<の諸君の全面的な協力があったからこそ、達成できたと思っている。
 わたしの武蔵在任中のいちばん大きな仕事は、院内リハビリテーションの改革、強化であった。それは現在のわたしの主な仕事となっている共同作業所づくりの基ともなった。これまでの入院中心から、社会復帰に重点をおいたやりかたに発展させるための改革は、困難ではあったがやりがいのある仕事であった。後にわたしが深くかかわりをもっようになった小平地域の保健婦や、ケースワーカーの人たち、障害者の生活と権利をまもるための運動に挺身するボランティアの多くの若者たちとも知り合いになった。患者の社会復帰は、地域の活動との連帯がなくては実現が困難だからである。わたしが、東大から武蔵療養所に移ったちょうどそのころから、クロルプロマジンをはじめとする抗精神病薬が発見され、導入された。そのため精神病治療の画期的な進歩によって、難治の精神病の人たちの病状が改善されて、社会復帰が可能な時代になった。
 社会復帰にそなえるためには、まず院内のリハビリテーションを活発にする必要があった。厚生省と談判して、制度化されたばかりの作業療法士、さらには福祉を学んだソーシヤルワーカーをはじめて採用した。武蔵療養所は前任の関根真一所長の時代から作業療法が盛んで、温室でのシクラメンや観葉植物の栽培、野菜づくり、養豚などが行われていたが、わたしは作業の場を地域にも広げたいと思い、所外作業をはじめた。所外作業というのは、地域の事業所、おもに町工場、商店、食堂、スタンドなどに病院から通勤して仕事を覚え、退院、就労に結びつける活動である。毎日数十人の人たちが弁当持参で、萩山駅から地域の職場に通勤する風景がみられるようになった。<0186<
 この所外作業は「職親制度」の先駆けで、いま、精神保健福祉法で「通院患者リハビリテーション事業」として制度化されている。デイホスピタルも武蔵療養所が最初に作った。それは一九七ニ(昭和四十七)年「デイケア」が制度化され、社会保健診療報酬がつく二年前であった。このような、病院内リハビリテーションの積極的な努力によって、院内寛解と呼ばれる人たちの社会復帰の準備はかなり進んだ。また、所外作業などを通じて職業に就く人も増えてきたが、しかし、多くの人たちは退院して、社会に戻ることがきわめて困難呎であった。長期入院のため、身寄りがなくなった人とか、退院しても生活のあてがないなど、医学以外の社会的悪条件が、この人たちの社会復帰の妨げとなっていた。

  脳院をふるさとのごと住みている未復員患者にわれも似てゆく
  ふるさとを脳院にせむ心すら湧きいて今日の吾が病いながし
  故郷より帰院したりし我が友が「ふるさとは此処だ」と言ひて口つぐむ

 この三首の短歌は、一九七九(昭和四十五)年、武蔵療養所の総婦長羽生りつさんによって編集発行された、患者諸君の歌集「葦かび」に掲載されたものである。精神病院を自分のふるさとにしなければならない悲痛な思いが歌われていて、心打たれる。
 わたしはこの頃から、これらの人たちにも、知的障害者や身体障害の人たちと同じように、授産施<0187<設や更生施設のような、地域の生活を支える場所が欲しいと思うようになった。そんな時、たまたま、わたしはあさやけ作業所の藤井克徳さんたちと出会い、共同作業所への道が拓かれることになる。小平での、精神障害の人たちの地域リハビリテーションの幕開けとなった。これについては後述する。
小平から、精神病院のなかではじまった社会復帰活動と、地域の草の根運動から発展した精神障害者共同作業所、この両方が生まれた。わたしは幸いなことに両方の活動に参加し、小平と武蔵療養所はわたし自身のリハビリテーションの原点でもあり、ふるさととなった。
 センター構想はその後紆余曲折があり、最初のわたしの構想とはだいぶ違う、筋疾患を包含する「精神神経センター」として一九七七(昭和五十二)年に発足した。わたしはセンターの発足を目前にして武蔵療養所を去った。武蔵はわたしの終着駅だと思っていたので、あとは作業所作りに専念するつもりでいたが、そこに思いもかけず、松沢病院長就任の話がもちあがった。そのことに触れる前に、武蔵療養所時代にはじまり、今日まで続いている沖縄へのわたしの思いを書いておきたい。」(秋元[2005:183-188])

10章 生きる情熱―精神障害者が人間らしく生きること

「共同作業所
 一九七九年、イタリアのフィレンツェで開かれた「国際てんかん学会議」に出席した帰途、かつての留学の地ドイツに足をのばし、ノルトライン−ウェストファーレン州ギュータースローの、へルマン・ジモン(一八七六−一九四七)以来、作業療法のメッカといわれる州立ギュータースロー病院を訪れた。同行した玉木正明君が、「そのときの院長ウインクラー教授の言葉が心に印象深く刻みつけられ」たと、次のように書いている。

 「皆様は日本から、ドイツの国の最高の施設や機器や医学の成果を研究にこられたと思いますが、ここにあるのは何だと思いますか」と両手を挙げて微笑みかけました。不思議な人だと思ってみていると、院長は静かに語りかけました。
 「ここには皆様が期待する近代文明の利器、宝物はありませんよ。ここにあるのは皆様が古来か<0201<ら持っている(心)と(手)です。やさしい心とこの手のなかにこそ、現代精神医学の源泉が、魔法の杖があるのですよ」
 私は心の底から感動を覚えました。
 「やさしい心とこの手のなかにこそ、現代精神医学の源泉が、魔法の杖がある」とは不壊の名言である。

 わたしは、いま共同作業所作りと、共同作業所の全国組織である「きょうされん(旧共同作業所全国連絡会)の活動に参加している。「きょうされん」とその傘下の共同作業所は、精神障害の人たちの地域の受け入れがまったくなかった時代に、いちはやくその門戸を開いてくれたのだった。わたしは精神科医として、そのことをいちばんありがたいと思っている。
 共同作業所の存在や、それを運営していた藤井克徳さんと知り合ったことが、わたしにとって大きな契機となった。その経緯を、藤井さん自身の回想からたどってみよう。これは、上田敏先生のインタビューに答えたものである。
 藤井さんが、東京都小平市の知的障害児養護学校の教諭をされていた二十三歳のときである。十八歳を過ぎて養護学校を卒業しても、障害児はどこにも地域に受け皿がないために、行きどころがどこにもなかった。それは教師にとっても親御さんにとっても深刻な問題であった。そこで、藤井さんは<0202<考えた。
 まず、実態を把握しよう。そして、自分たちで何とか解決の道を切り開こうと思った。そのために障害者自身を含めた「障害者(児)の権利を守り生活の向上をめざす小平の会」を発足させた。その最初の事業として小平市の障害者(児)の実態調査をした。「障害種別を越えて」をスローガンにした。身体、知的、精神の三障害全部を対象にしたのは、当時としては画期的でした。
 その調査の結果、障害者(児)や、とくに精神障害者がひじょうに多いことがわかった。それは、地元に国立武蔵療養所があり、その退院者が地元に住み着く人がかなりいたからです。
 そこで、まず、一九七四年六月養護学校新卒者五人を対象に、四畳半一間のアパートを借りて「あさやけ作業所」を作り、割り箸の袋詰め<0203<などの仕事をはじめた。間もなく、精神障害者の作業所も必要だとの声が高まり、それが一九七六年十月の「第二あさやけ作業所」の創立につながった。
 その準備の過程で、秋元先生を、一九七六年の春、全く紹介もなく、突然、国立武蔵療養所にお訪ねした。若かったからできたことでした。何とか専門家の立場から作業所の設立・運営にご援助いただけないかという一心からでした。

 一九七〇、七一年頃からー武蔵療養所での院内リハビリテーションがどうにか軌道に乗り、退院できる患者さんが増えてきた。しかし、肝心の受け皿が地域になかった。これは武蔵としても深刻な問題であった。武蔵の近くに知恵おくれの人たちの、小さな無認可共同作業所があることは耳にしていた。それを運営されていたのが藤井さんであった。訪ねてこられた藤井さんに「本業は何か、どうして、どのような経緯で精神作業所を作ろうと孝えたのか、何をやるつもりか」などと、いろいろ質問をしたように思う。

 先生は何のこだわりもなく会ってくださいました。一時間近くとっていただいたと思います。ひとわたり聴かれた先生は、「協力しましょう」と快諾された。その後も何度もご相談にうかがい、作業所にも来ていただいた。一九七八年に第一、第二のあさやけ作業所を運営する法人として、「ときわ会」を設立した。その理事長にも就任していただいた。また、一九八一年の国際障害者年<0204<に行われた、全国組織「きょうされん」(前共同作業所全国連絡会)第四回全国大会では実行委員長も務めていただいた。「きょうされん顧問」、関連の二法人の理事長などを熱心に務めていただいている。

 かくして、わが国最初の精神障害者の共同作業所が誕生した。共同作業所という名前をはじめて用いたのは、名古屋の「ゆたか共同作業所」で、一九六九年のことである。障害者を主人公として、障害者と職員が共同して運営する場所を意味する言葉として「共同作業所」が使われた。身体障害者福祉法や知的障害者福祉法で使われている「授産施設」という言葉は、九仕事を授けてやるという官尊民卑の言葉だというので、現場では使われていなかった。一九七七(昭和五十二)年、全国十六の共同作業所が集まって、「共同作業所全国連絡会」(現在の「きょうされん」)が結成され、いまでは加盟作業所などおよそ千七百余を擁する、わが国の障害者運動の主力として発展している。
 「精神障害者共同作業所」は全国に広がり、いま、その数は千八百を地え、さらに増加する勢いである。その数が増えるだけでなく、活動内容も障害者のニーズに対応して多様化している。列挙すれば次のようになる。

 一、活動の多様化 下請け作業の単純労働から、喫茶店、レストラン、食事サービス、リサイクルショップ、農園、クリーリング、印刷など。
 ニ、活動の分化 最重度障害者のための憩い、交流の場、重度障害者のための福祉作業所、軽度<0205<障害者のための福祉工場
 三、住まう場所グループホーム、アパートなど提供
 四、地域の人々との交流の場地域生活支援センターの併設
 五、障害者運動の拠点
 昔のような下請け仕事だけではなく、食事サービス、パン屋、喫茶店、レストラン、農場、印刷工場など、バラエティーに富むようになり、利用者の選択肢が豊富になった。働く場所だけではなく、共同住居、グループホーム、アパートなどの住まう場所づくりや、障害者の自助運動の支援、市民の町づくりへの参加など、共同作業所は文字通り、障害者の地域生活を支える拠点として、飛躍的に発展している。共同作業所は、精神障害者が地域で人間らしく生きるのに、なくてはならない大切な拠点になっている。
 この民間の草の根運動から生まれた共同作業所がモデルになって、精神障害者授産施設が精神保健法ではじめて制度化された。さらに精神保健福祉法でその種類が増えた。しかし、社会福祉法人の取得にお金がかかるなどの理由で設置が進まず、無認可小規模作業所が多数を占めているのが現状である。
 きょうされんは国会請願などで無認可小規模作業所の法定化を進める運動をつづけてきたが、国はようやくニ〇〇二年に小規模授産施設制度を発足させた。この制度は従来の授産施設よりも、社会福祉法人の取得条件を軽くしようというもので、自己資産が少なく、建物などの規制もなく、定員も従<0206<来の通所型授産施設の最低定員の半分の十人でよいと定めた。この制度の施行により、無認可から法定施設となる道が開けたことは確かだが、公的補助金が従来の通所授産施設制度の三分の一にも満たない低額であるなど、小規模作業所運営の実情を無視しているために、期待されたほどこの制度の活用が進んでいないのが現状である。
 これらの作業所、授産施設などは医療施設ではない。活動を支えている職員のほとんどは医療専門職ではなく、社会福祉を勉強した人、教師、当事者の家族などである。アマチュアリズムが共同作業所などの福祉施設の大きなな利点、特色となっている。だが、そこで暮らしている精神障仰害者の多くは、障害のほかに病気を併せ持つ人たちでもあり、医療からの援助を必要としている。わたしが、共同作業所の活動にかかわりをもっていちばん痛切に感じることは、この活動が、精神障害者の社会復帰からさらに進んで社会参加と自立のために、なくてはならない大切な役割を呆たしているということである。現状では精神医学、精神科<0207<医からの援助、協力は十分とはいえない。しかし、最近の傾向として、地域リハビリテーションに関心を持ち、精神保健福祉センター、保健所を希望する若い世代の精神科医が増えている。また、精神科医の間で共同作業所などの活動に理解が深まり、協力が得られるようになったことを心強く思っている。わたしは、いま、「きょうされん」顧問を引き受けているが、その大切な役目の一つは、医学、医療との連携である。とくにこれまで手薄だった、精神医学との連携を強めていきたいと考えている。」(秋元[2005:201-208])

 「クラブハウスの歴史と現状
 共同作業所での活動自体が、精神障害者の自助活動の場となっている。あさやけ第二作業所の活動のなかから「ぶんぶんクラブ」という組織が生まれた。このクラブは、あさやけ作業所を卒業して、就職した人たちが中心となっている。定期的に集まり夕食を共にすることにからはじまって、小平市及び周辺で生活する精神障害者の人たちの仲間同士の助け合いと、社会的な発言もする組織に成長した。これが母体となって一九九七年二月に「クラブハウスはばたき」が誕生した。
 クラブハウスというのは、アメリカで生まれた精神障害者の自助活動組織の拠点のことをいう。このクラブハウスの始まりは、一九四〇年代後半に遡る。ニューヨーク郊外のロックランド州立病院から退院した四人の元患者が中心となって作った「ワーナクラブ」が源流となっている。WANAClubは、“We Are Not Alone”私たちは一人ぼっちじゃない、という彼らの合言葉の頭文字から作られた名称である。WANAクラブの拠点は、はじめはそれこそ住所不定で、教会や図書館のお情けで、その一隅で会合を持ったりしていた。廃品回収などの仕事で各自の生計を立てながら、活動の輪を広げていった。……
一九四八年、ニューヨークのマンハッタンの中心アイムズ・スクエアにほど近い、西四十七番街に五階建ての大きなビルを所有するにいたった。(pp.208-9)」

「アメリカの現状
アメリカでは、ジョン・F・ケネディ大統領の政策による所が大きい。彼は一九六三年二月五日の「精神疾患および精神遅滞に関する特別教書」で次のように述べた。
「われわれ国民は、今まで長い間、精神病者と精神遅滞者を無視してきた。このような無視は、われわれが同情と尊敬の理念を守り、人的能力を最大限に活用しようとするならば、すみやかに是正されなければならない」、「精神疾患および精神遅滞は、われわれの当面する保険問題のうちで、もっとも火急なものである。大胆で新しい政策が必要である。最新の医学的、科学的、社会的技術をかれらに適応することが可能である」(pp.211-2)

■書評・紹介・言及

◆立岩 真也 2013/06/01 「精神医療についての本の準備・3――連載 90」,『現代思想』41-(2013-6):- →


*作成:三野 宏治
UP: 20090711 REV:20130505
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