『この命、つむぎつづけて』
田中 百合子 20050810 『この命、つむぎつづけて』,毎日新聞社,238p.
■田中 百合子 20050810 『この命、つむぎつづけて』,毎日新聞社,238p. ISBN-10: 4620317365 ISBN-13: 978-4620317366 1470 [amazon]/[kinokuniya] ※ d07
■著者のHP http://blog.goo.ne.jp/konoinochi_tsumugi/
■内容(「BOOK」データベースより)
あの日あの時、薬害スモンにならなかったら…それでも生きてきたわたし、それでも生きていくわたし。スモンと闘ってきた1人の女性の絶望と希望の半生。
内容(「MARC」データベースより)
日本でいちばん患者の多かった薬害「スモン」。20歳でスモンになった著者。その後も様々な病気と闘いながらも乗り越え、前を見ながら歩き続けてきた一人の女性の絶望と希望の半生。
■著者
田中百合子[タナカユリコ]
1947(昭和22)年8月28日、東京都生まれ。70年、武蔵工業大学建築学科卒業。同年4月、東京都に就職。世田谷区建築部営繕課に配属される。72年3月、薬害スモンのため、東京都を退職。同年5月、結婚。スモンの人たちとともに、訴訟や、反薬害、患者救済のための活動に参加。76年、スモン訴訟東京地裁原告団事務局長代理。77年、スモン訴訟東京地裁原告団事務局長
■目次
第1章 整腸剤キノホルムで薬害スモンに
第2章 スモンの日々を生きる
第3章 スモンで得た友――反薬害闘争のこと
第4章 マイ・ラブリー・ファミリー
第5章 わたしの子供時代
第6章 ステロイドとの闘い
第7章 3回の全身麻酔手術
第8章 心の太陽に照らされて
■引用
第3章 スモンで得た友――反薬害闘争のこと
古賀照男さんのこと 93-98
「もうひとり、忘れられない人がいる。古賀照男さんである。
彼は、神奈川県のスモンの会会員だった。いつも茶色のビニールの長靴を履いて、クラッチという肘まである松葉杖をカチャンカチャンと鳴らして歩いていた。
胸と背中には「薬害根絶」という文字があった。汚れた布にいつ書かれたか分からないような手書きの字だった。いつも同じようなジャンパー姿だった。「それでよー、おまえよー、何考えてるんだ、しっかりしろ」というような、言葉使いは乱暴だったが優しい心根をもった人だった。
東京地裁の裁判が和解に向けて怒涛のように動いていったとき[…]いつもわたしと行動をともにしてくれた。
自分たちの弁護団のところへ何度も話し合いに行った。話し合ってもちらがあかないため、新<0094<しい弁護団をつくることができるかどうかを模索するため、2人で歩き回った。あちらの弁護士、こちらの弁護士、ほんのちょっとの知り合いにも紹介してもらって、とにかく歩いた。[…]しかし前にも述べたように、社会的な地位のある弁護団を解任して新しい弁護団をつくることは、もうここに至ってはできななかった。しかし、たった1人の弁護士だけが、第一次判決のときにわたしたちを助けてくれた。
その後しばらくして、わたしたちの原告団は頑張ってはみたが判決を求めていくことができず、和解へと追い込まれていったのは、先述したとおりである。
ところがこのとき、古賀さんともう1人の原告だけは絶対に和解しないと言った。わたしたち判決派の原告団では、決して和解を強要することはしまいと申し合わせていたので、古賀さんにはできるだけ協力することにした。
とは言っても体力、気力の限界まで頑張った後に和解したわれわれだったので、古賀さんの闘いにおいて、わたしたちにできることは限られていた。[…]<0095<
[…]
わたしたちスモンの原告団は、古賀さんの仲間だったはずであったが、時々のカンパを別にすれば、古賀さんと行動をともにできた者は結局いなかった。
古賀さんは、強烈な個性の持ち主であった。彼は、自分だけを残して和解してしまったわたしたち原告団に対して、表面上はともかく、心の中に怒りを秘めていた。裁判にも負け、奥さんを失い、古賀さんの心で燃えるのは怒りのともしびだけだったかもしれない。古賀さんは、私たち昔の仲間に電話をかけては、怒りをぶつけた。
わたしたちは、古賀さんに愛情をもっている仲間であり、古賀さんの気持ちは十分理解できると思ってはいたのだが、古賀さんに鋭く批判され、怒りをぶつけられたとき、体の具合が悪いわたしたちは、寛容の心をもってそれを聞き、ともに闘うということができなかった。
私も電話をもらい、あまりに理不尽なことを言われて大げんかをしたことがある。同じ病で死ぬか生きるかのときちる、こちらも古賀さんのわがままをわがままとして受け止め続けることができなった。
古賀さんは私たちを見放した。古賀さんは、自分の怒りを受け止めてともに闘ってくれる仲間と田辺に対する抗議行動を続けた。」(田中[2005:94-96])