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Libertarianism Without Inequality

Michael Otsuka 20050818 Oxford Univ Pr on Demand; New edition, 166p. ISBN-10: 0199280185,ISBN-13: 978-0199280186

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■Michael Otsuka 20050818 Libertarianism Without Inequality Oxford Univ Pr on Demand; New edition, 166p. ISBN-10: 0199280185,ISBN-13: 978-0199280186[amazon][kinokuniya]

■内容説明
Michael Otsuka sets out to vindicate left-libertarianism, a political philosophy which combines stringent rights of control over one's own mind, body, and life with egalitarian rights of ownership of the world. Otsuka reclaims the ideas of John Locke from the libertarian Right, and shows how his Second Treatise of Government provides the theoretical foundations for a left-libertarianism which is both more libertarian and more egalitarian than the Kantian liberal theories of John Rawls and Thomas Nagel. Otsuka's libertarianism is founded on a right of self-ownership. Here he is at one with 'right-wing' libertarians, such as Robert Nozick, in endorsing the highly anti-paternalistic and anti-moralistic implications of this right. But he parts company with these libertarians in so far as he argues that such a right is compatible with a fully egalitarian principle of equal opportunity for welfare. In embracing this principle, his own version of left-libertarianism is more strongly egalitarian than others which are currently well known. Otsuka argues that an account of legitimate political authority based upon the free consent of each is strengthened by the adoption of such an egalitarian principle. He defends a pluralistic, decentralized ideal of political society as a confederation of voluntary associations. Part I of Libertarianism without Inequality concerns the natural rights of property in oneself and the world. Part II considers the natural rights of punishment and self-defence that form the basis for the government's authority to legislate and punish. Part III explores the nature and limits of the powers of governments which are created by the consensual transfer of the natural rights of the governed. Libertarianism without Inequality is a book which everyone interested in political theory should read.

■Baker&Taylor Table of Contents

Introduction                    1 (10)
 Part I. Self-Ownership and World-Ownership
  Self-Ownership and Equality          11 (30)
  Making the Unjust Provide for the Disabled   41 (16)
 Part II. Punishment and Self-Defence
  The Right to Punish               57 (9)
  Killing the Innocent in Self-Defence      66 (23)
 Part III. Political Society
  Political Society as a Voluntary Association  89 (25)
  Left-Libertarianism Versus Liberal       114(18)
  Egalitarianism
  The Problem of Intergenerational Sovereignty  132(19)
 Bibliography                  151(4)
 Index                      155

[紀伊国屋BookWeb]より


■ IntroとPARTTのまとめ(抄) ※ 「」は引用

◇Introduction

・ロック『統治二論』第二部に基づく政治哲学と道徳的政治的諸原理を提示し擁護する。
「人間の自分自身と世界に対する権利(つまり自己および世界所有権)、これらの権利を守るために実力行使する権利、そして政治的権威の源泉とその限界」を扱う。

ロックの古典的自由主義―― ノージックの右派リバタリアン政治哲学にインスパイアを与えてきた。ロックに関するより穏当なあるいは左派的な解釈者でさえ、彼の政治哲学を十分に平等主義的な形で再構成することに成功していない。(2) → 右派リバタリアンからのロック再興の風潮に対して(右派リバタリアンとは)別の仕方で貢献し、ロックの議論がリバタリアニズムの強力な平等主義バージョンの着想源になりうることを示す。

ノージックによる「側面制約としての権利についての非帰結主義的正当化」 → これに一部並走するが、「自己所有権は世界資源の平等主義的分配と両立しない」という彼の主張は拒否する。(4)

 自己所有権の堅い(robust)解釈は、福利に対する機会を平等化するために世界の資源の分配を要求するような高度に平等主義的な原理と完全に両立する、と論ずる。所有されていない資源獲得についてのロックの正義原理は、擁護可能性の高いバージョンでは、非常に福利平等主義であり、ノージックが採用する不平等主義ではない。
 政府の権威は、合法化される場合、各々の被統治者がその統治者に移転することに同意する、自己と世界に対する権利の実行以上のものから構成されていない。

・ この権利の移転は自然である。自然権や自然の義務なるものが存在するかどうかを巡って論争が続いているとは思わない。というのも、殺人の不正等々は、その不正義が法や国家の行政官ないし制度の原理、社会慣習の実在の認識に基づくような偶然的なものではないからだ。ナチスやクメールルージュを非難するのに、習慣等々に尋ねる必要はない。どんな法を侵したかにかかわらず、彼らが侵害した権利と義務は自然権と自然の義務である。

・仮説的契約論との議論の違い ロールズがカント主義的契約論の再興に最も貢献したが、現在はスキャンロンの契約論が議論の中心になっている。
「スキャンロンによれば、契約論は、「行為が悪いのは、ある種の状況下でそれを行うことが、十分に情報を得た圧力なき一般的な合意を基礎として誰も合理的に拒否できないような行動に対する全般的な規制に対する一連の原理によって、却下されるときだと考える」」(Scanlon: 153)
「誰も合理的に拒否できない原理によって却下されるときに、その行為は悪いのだ」という議論を必ずしも拒否せずに、その種の契約論的アプローチが、道徳的理由づけの通常の形式からはっきりと区別でき、かつそれよりも優れた道徳性についての理由づけの形式の基礎になる、というスキャンロンの主張からは距離を採りたい。
むしろ、われわれがコミットできるような実質的な価値を具現化する、よりもっともらしい道徳的諸原理に直接訴える、馴染みやすく一貫した議論を展開する必要がある。
まず、ロールズの理論では、我々が重要だと考えているような自己所有の自然権を反映した原理を導出するのに足りない。他者を害することは不正であるという直観に関わる場面では、私たちは多様な倫理的考慮によって動かされるのだが、それは非常に微細であり、無知のベール下での自己利益に基づく選択手続きによる契約論では把捉できないからである。(5)

 ※ 注14: 五人を助けるために一人を犠牲にするというトロッコ事例に例示されるような決定を、無知のベールを使う議論は避けることができない、というKammの議論が引かれている。

合理的に拒否できないような原理に到達するという倫理的動機を、契約に参加する人に与えるようなスキャンロンの契約論的理論装置は、彼らにこの動機を与えるために、彼らが受け取るべき自然権を与える原理に人々が到達することを保障するだろう。だが、正義の諸原理を選択することに対する正確さは、他方で、正義の諸原理に到達するための手段としての契約論的理論装置の有用性を縮減する。我々は、道徳的理由づけの一般的な形式を使わずに、無知の状況において人々が彼らの自己利害にもとづいて何を選択するかを説明することはできるが、同じことを、その拒否が非合理的であるような原理に関して言うことはできない。拒否するのが非合理的であるような諸原理を決定するためには、すでにほのめかしたような道徳的議論に参与することを避けられない。

◇第一章 自己所有権と平等

コーエンは自己所有権リバタリアンと平等主義的分配的正義原理は対立すると論ずる。この点、コーエンとノージックは一致する。だが、自己所有権リバタリアンと平等主義の対立は、じつは、その多くが幻想である。ノージックは完全な自己所有権を否定する点で平等主義を批判している。
だが、そもそも完全な自己所有権をリバタリアンは擁護しているのか? ここで「完全な自己所有権」を「ある人の自己所有権が完全であるとは、その人が、他者による同じ所有と最大程度そして厳重に両立可能な程度、前述の権利を所有しているときでありかつそのときのみである。」としたうえで検討する。
完全な自己所有権を擁護するためには、リバタリアンは、ある人に対する同意なき深刻な危害を帰結するような侵入と、その権利が両立するかどうかというジレンマに直面する。(13)

★ まず、両立しないという角から。(コーエンは両立しないと考えている)。
 権利を守るのは結構だが、道徳的ファナティシズムという代償を支払うことになる。〔=「自己所有権守られるべし、たとえ世界滅びようとも」というタイプの議論〕 それは、どんなものであれ、罪なき人の身体に対する深刻な害を与える侵襲を締め出す、というファナティズムである。たとえその侵襲が、害を最小化するための手段として意図されたのではなく、害の最小化の必然的な副産物として予見されているだけだとしても。たとえば、そのまま行くと6人を轢き殺すトロッコの方向を変えて、死ぬ人を一人減らすことができたとして、この立場はそれでも5人を死なせる(結果としてより少ない悪が予見できるが害を減らさない)ので、トロッコの向きを変えるべきではないと主張する。自衛戦争のなかで、罪なき人を非意図的にだが、予見できた形で殺すことも決して許されない。

 注10 ノージックはしかし他者を死の恐怖に晒すことも許容されうると述べている。彼は殺されたことについて完全な賠償がなくても、結果的に誰かを殺してしまうことも許容されうるという見解を支持しているように見える。また、偶然殺してしまうことも許容されると述べている。というのも、そのような殺害も禁止することは、人が自由にできない出来事について責任を取らされ監獄に入れられてしまうという余りに大きなリスクと恐怖を与えるからである。
 ⇒ 「偶然のものや故意なしになされたものを含めて、同意を得ていないすべての侵害を処罰することは、人々の生活に多大のリスクと不安定を持ち込むことになるだろう。人々は、善良な意図にもかかわらず偶然の事故のために処罰されるということがない、との確信が持てない」(訳書:111)

 この見解は、無実の人の身体に対する深刻な害になる侵襲をいかなるものであれ締め出すというファナティシズムである。たとえそれが害を最小化するための不可避的な副産物として単に予見されていただけだとしても。
このようなファナティシズムは、リバタリアンがこのような非意図的な侵襲を許容しうるならば不要である。(14) というのも、リバタリアンの再分配税制への反対論は、生命、四肢、あるいは労働に対する強制によって手段として扱われることに反対する権利を前提にしているからである。

★ ジレンマのもう一つの角。つまり人の完全で侵害されない自己所有権は、誰かの身体に深刻な危害をもたらすような侵襲と両立する、という見解を採れるか。仮にこの立場を完全自己所有権リバタリアンが採るとすれば、何故それが可能なのかを説明しなければならなくなる。だが、その説明が可能であるとは考えられない。「たとえばリバタリアンは、なぜ彼がトロッコの事例で誰かを殺すとしても、その完全な自己所有権を侵害していないのか、さらにはある人の生命に関わる臓器を移植するために殺すとして、それが自己所有権侵害ではないのかを説明しなければならない。」(14)

注13 ノージックは説明を試みている。「Xに対する所有権という概念の中核は、Xをどうするかを決める権利、つまり、Xに関する制約された選択肢のセットのうち、どれを実現し又は試みるべきかを選ぶ権利であり、この中核との関連で、所有権概念を構成する他の部分も説明されるべきである。この場合の制約は、その社会に妥当している他の諸原理や法によって設定されるのであり、我々の理論においては、(最小国家の下で)人々が有するロック流の権利によって設定される」171(訳書:288)。この制約は深刻な害をもたらすような身体的侵襲のすべてではなくいくつかを非難する。自己所有権にこのような制約を課すことで、ノージックは、次のような平等主義的反論に晒されることになる。つまり「自己所有権の完全性が「ある社会に妥当している他の諸原理や法によって設定される制約」のなかでの全空間を満たすとして、私は次のように言える。つまり私もまた完全な自己所有権を尊重するが、それは我々の所有権が我々の支援を受ける他者の権利と我々の支援に対する集合的義務による制約を受ける限りでだ、と」。これに対して、ノージックの自己所有権の概念が完全であるとして、その理由が、平等主義的な権利義務ではなくてリバタリアン的な権利義務を前提にしているからでしかないのだとすれば、彼はリバタリアンが尊重する完全な自己所有権に基づいて平等主義に対してリバタリアンを擁護することはできない。それは、リバタリアン自身が尊重する(平等主義者は拒絶する)制約に基づくリバタリアニズム擁護論であり、結局のところ偏向していることになる。(14)

いずれを採用するか、というリバタリアンのジレンマ(前者は直観に反するが、後者は完全自己所有権的リバタリアンからは論理的に採用できない)を回避する立場がある。それは、「自己所有権リバタリアン」を、完全よりも少ないモノとして定義する。というのも、それは、身体に対するあらゆる非意図的な侵襲を禁止はしないから。二つの権利からなる。(15)

@ その生命や四肢や労働を犠牲にするように強いることで、その人を意図的に手段として使うことを禁ずるような、精神と身体の使用とコントロールに関する非常に厳格な権利。
A 人が自らの精神と身体(労働を含む)を用いて、あるいは、規制されておらず課税されない自発的な交換から得ることのできたすべての所得incomeに対する非常に厳格な権利。

平等主義は@には同意する。身体に対する自己所有権は、強いられて生体臓器移植の手段として人が用いられることに抵抗する。また、仮に他者にとって良いからといって、逮捕という脅しを使って労働を強いられることにも抵抗する権利を擁護する。だが、リベラル平等主義はAを拒否する。他方、ノージックは、@からAが必然的に帰結すると論じた(16)。「労働稼得からの徴税は、強制労働と同じようなものだ」と。もし、このノージックの議論が正しいとすれば、税ないし所得の再分配は、リベラル平等主義も承認する権利、つまり強制労働に抗する権利を侵害していることになるだろう。

 とはいえ、ノージックの議論は、課税は強制労働と等しいという主張では必ずしもなく、むしろそうした課税は個人の無条件の(simplisiter)自己所有権を侵害する、という主張である。これをUで示す。また、ノージックの議論は、世界に対する不平等を生みだす所有権の正当化可能性について議論の余地のある前提に依拠している。Vでは、この前提を除去することで、世界に対する我々の所有権に関する厚生の平等主義に沿う、ロック的説明を擁護する。そして、WとXで、この平等主義は、リバタリアン的自己所有権、といっても単なる形式的な権利ではなく 、より堅固な自己所有の権利との対立関係には必ずしも至らないということを示す。

U  世界の資源に対する労働遂行なしに人は所得を生みだすことができるし、他者との交換を経ずにも生み出せる。「所得」をここでは、「人の労働の結果として得られる利益になる物理的な財すべて」、とする(17)。すると四つの区分が可能になる。

@ 労働を経た所得(農業での自給自足)
A 労働産物の交換で得る所得
B 資源を使わない交換で得る所得(エンターティナー)
C 世界資源を使わず交換もしない(ほとんど考えられないが、髪の毛が頭を覆ってその人を暖かくすること)

世界資源を使わずに所得を得るケースの考察が重要。というのもノージックの再分配のための課税に対する反対論は、世界資源を使って得られる所得と、そうではない所得を同一視する限りで展開されているから(17)
想像してみよう。ここに無毛の人baldと多毛の人hirsuteがいる。その世界は寒いが、服を織るのに毛しか使えない。毛がないと服が織れずに凍死する。この状況で、第三者(国家)は、多毛人に50%の税を「毛」に課して、無毛人に服を半分与えるように強いるとしよう。それは服を織る労働を強いることでもある。この場合、多毛人は無毛人のために服を織る仕事を強いられる。何もしないと多毛人も死ぬが、もし織るならば、多毛人は自分自身のためではなく無毛人のための服も織らなければならなくなる。無毛人のために服を作っている時間、多毛人は凍死に至るような痛みを被ることになる。(18)
 国家はその代わりに、所得が十分に高いレベルに達するまでは再分配税を強いることを差し控えることもできる。毛深い人は、少なくとも自分自身が利益を得るだけのワードローブに余りがある場合に、その余りに課税される、と。ノージックはこの種の「奢侈所得税luxury income tax」に反対する。彼はそれは、「必要所得税necessity income tax」であり、強制労働だと信じている。だが、それは文字通り強制労働ではない。なぜなら、それは回避するのが非常に簡単だから。
 たとえば次の二つを考えてみよ。第一に、チンピラがあなたに、午後の間、彼の奴隷として働くことを、違反したら死刑にすると言って命ずる場合。第二に、あなたが必ずしもその必要がないような鼻歌を歌っているとき、かつそのときのみ、あなたに午後の間奴隷になるべきだと言う場合。第一のケースは、彼の奴隷になるようあなたに強いている。第二のケースではそうではない。いずれにしてもあなたはチンピラに対して文句を言う。彼は、あなたが自分自身で何をするかを選択する所有権を脅しで侵害していると。
 ノージックの議論は、強制労働についての反対ではなく、所有権侵害に対する反対である。(19)
 確かに多毛人の生産手段と労働の成果は、唯一そして完全に彼女のリバタリアン的な自己所有権に基づいていると言い得る。これに反対するために、平等主義者はこの多毛人はリバタリアン的自己所有権の所有者ではないと言うか、あるいはこの権利はリバタリアンが考えるほど厳格ではなく、上記の状況では侵害も正当化されうる、と論ずる。だがこの議論は、もしリバタリアン的自己所有権なるものがあるとすれば、それは、上記の状況で平等と対立するようになる、ということを認めることである。もし、多毛人に対する奢侈所得税の強制が、別の人を凍死から守るのに必要かつ十分であるならば、リバタリアニズムの反対者は、自己所有権に対する狂信的で不合理な顕揚だけしか、税金を強制することを否定するほど厳格なものでありえない、と正当に考えることができるかもしれない。しかし、もし反対者が、単に無毛人を死から守るために、あるいはある種の快適さを達成するためだけでなく、多毛人のワードローブを多毛人と同じ程度にするために、多毛人に税が強いられうると主張することになるならば、リバタリアンの主張の方が優位にあると思う。(19)
 世界の資源を用いて所得をえる人から徴税するケースを考えよう。農民が収監と引き換えに政府によって、所得の半分を飢えた孤児に与えるよう強いられるケース。これは上で毛を与えるケースと同じに見える。しかし同じなのは次の仮定を置く限りだ。つまり世界に対する所有権と自己所有権が同じだという仮定である。
自己所有権と世界に対する所有権が同じだという前提について、ノージックは説明していない。もし農民が土地に対する所有権を、〔自己所有権に比べて〕不完全な形でしか持たないのだとすれば、税は彼女の所有権をそれほど侵害していないことになるだろう。たとえば、この農民が必要な人に産物の半分を与えるという条件で、誰かから土地を購入したのだとして、この寄付を強制することは、契約によって生ずる義務となる。(21)
 平等主義者は、自己所有権と世界に対する所有権が同じかどうかを問い、同じではないと指摘する点で正しい。我々が土地の一部や世界資源を所有できるようになるのは、そこから得られるものを他者と共有するという条件でのみ、かもしれない。その場合、国家の強制は侵害ではなくなる。

V  いかなる条件で世界の一部の所有権を得るようになるのか。ロビンソンクルーソー的状況の想定。その状況に適用される獲得の正義原理が重要だから。
 ロック的獲得の正義原理は、誰も不利益を被らない限り、という但し書き付きである。
 ノージックはどうか。「ロック的但し書き」のノージックバージョンは、非常に弱い。というのもノージックは最初にすべての土地を占有した人が裕福になり、残りの人たちを雇って給料を与えることで優位に立ったとしても、残りの人たちが給料によって、自然状態で各々の土地から自力で得られるよりも多くを得られるなら、要するに自然状態に比較してマイナスを補償すれば良いという話になるから。最初の獲得について、その条件が不平等でも良い、ということになる。かりに最初の獲得競争でのチャンスが万人に平等なときに、という条件を付けたとしても、その結果が、諸個人の制御不能な要因によって不平等になったとして、ノージックはそれを認めることになる。(23)
 ロック的但し書きの「平等主義的」バージョンはノージックのバージョンの短所を埋め合わせる。

 平等主義的但し書き あなたはまだ所有されていない世界資源を獲得できるが、それは、あなたがすべての人が、そこから等しい利益を得られるに十分なだけ資源を残しておくとき、かつそのときだけに限る。

 これはロック的但し書きの解釈にふさわしい。「「所有されていない世界資源の平等な利益になる分有」というフレーズは、平等主義的但し書きであり、お馴染みの厚生主義や平等に関する資源ベースの議論までに中立的なものとして読まれるべきである。」
これについては分け前が等しく利益になるのは、誰も世界資源のなかの自分の持ち分bundleを誰かほかの人と交換したいと思わない状況である、という見解がある(Steiner)。また、分け前が平等に利益になると言えるのは、誰も自分の所有する世界資源と個人的資源の持ち分の総体を交換したいと思わない状況だ、という見解もある(Dworkin)。さらに、各々が、他の人々に各々与えられた世界資源と個人的資源の組み合わせを活用して同レベルの厚生を達成することができる時だ、という見方もある(Arneson、Cohen)。この最後の解釈を採用するのがよい。(25)
 厚生への機会の平等の方が、世界資源の平等よりも公正な世界資源の分有になる理由…… たとえば、大きな毛布一枚が世界資源だとする。二人の人がいる。毛布がないと二人とも凍死する。一人はもう一人よりも身体が(本人にあずかり知らぬ原因で)二倍大きい。同じ大きさに毛布を分割すると、小さい方は身体を二重巻きできてあったかいが、大きい方は身体全体を覆うことができず寒い。毛布を両者が同じ暖かさ・快適さを得られるように分割することもできる。それは毛布を完全に二分割することとは違うが、その方が直観的に公正だと思える。資源の平等分割では福祉への機会が平等に与えられるわけではない。
 とはいえ、資源平等論から見たとき、厚生主義的な考慮は平等主義的正義の可能性を汲みつくしていない、と言えるようなケースもある。ドゥオーキンの議論。障害者に対する補償のための資源要求正当化は、その人が他の健常者に比べて厚生への機会という意味では別に暮らし向きが悪くなくても可能であるという。ディケンズのタイニー〔小さな〕・ティムの寓話がある。つまり幸福な奴隷。だが、資源の移転がなくても、本人が厚生に対する機会についてマイナスを経験していないとしても、その障害者は資源の移転に値する、と主張する必要があるのではないか。厚生の平等主義的但し書きは、障害者に対するこのような補償を要請するように、厚生に対する機会の平等から離れて条件づけられる必要があるだろう。(26)
 とはいえ、コーエンとは違って、精神的・身体的能力などの選択できない差異に対する補償が、平等主義的正義論の目標の一つだ、といった一般的結論を導きたいとは思わない(27)。というのも、選択できなかった障害に対する補償要求は、選択できない能力の差異全般に対する補償要求ではないから。デフト〔素早い〕・ティムのケースを考えよう。他の人よりもずば抜けて素早く敏捷なティムがいる。他の人よりもティムは、世界資源の平等分割という条件下で、厚生の機会を圧倒的に多く実現できる。コーエンの議論だと、ティムの卓越した能力を前提にして、ティムは厚生の機会を他の人と同等の水準に下げるために、世界資源を少なくしか得られない、という話になる。だが、それが妥当な議論だとは思えない。
 それに対して、平等主義的但し書きを厚生主義的に解釈すると詳細は次のようになる。

「誰かが利益をあなたと同様に分有しているのは、彼女があなたと同じ程度に自分自身をよくできるときであり、かつそのときのみである。ここで「よさ」とは厚生のレベルという意味で測定されるべきだが、その厚生のレベルとは、「個人が、完全情報下で自分自身の選好についてハッキリとした考察を通して理想的熟慮を経た後で有するような自己利益にかなう選好の満足」とされる」(27)

W この平等主義的但し書きは、リバタリアンの自己所有権テーゼと両立するか? → する。
偶然、同じ資源から多くを得ることができる人と、少なくしか得られない人がいたとする。国家は少なくしか得られない人に資源を多く与え、多く得られる人に資源を少なく与える土地改革政策を採る。仮に、多く得る人が代々土地を受け継いできたとして、その土地に対する所有権は、この土地改革政策に反対できるほどは強くない。

 健康な身体をもつ「Able」と障害を持つ「Unable」の二人がいるとしよう(31)。Ableは自分が生存する以上に働きたいと思っていないとする。この状況で、厚生に対する機会の平等を生みだすような(つまりリバタリアン的自己所有権および両者の生存を両立させるための)世界資源分割方法は、Ableが自らの生存に必要な食べ物を得るに不十分なくらいのわずかな土地を残して、Unableに土地の多くを獲得する権限を与えることである(32)。Unableは、Ableに自分のために働かせる権利をもつ。つまりUnableは、AbleがUnableの土地を使った労働の成果をUnableに分け与えるという条件で、Unableの土地を使うことを許す権利をもつ。
 リバタリアンの自己所有権を「堅固robust」なものとして定義しよう。人は世界資源に対する十分な権利をもつが、それはその人が、生命・四肢・労働を犠牲にするような仕方で他者の援助を受ける必要性によって強制されないようにすることを保障する、というように。ここで、仮に平等主義的但し書きがリバタリアン自己所有権と整合しうるのが、健常者が余りに多くの資源を奪われてその権利が堅固なものでなくなり、自分が飢えるか障害者のために働くか、という強制状況があるときだけだとするならば、自己所有権と平等の融和を達成するとしても、余りに犠牲の大きいものになってしまう。
問題は、堅固な自己所有権利と両立する平等主義である。
 AbleとUnableの物語をあらためて想起しよう。もし健常者が自分の生存以上の資源になんの欲求も感じないなら、平等が達成されうるのは、健常者に与えられる権利は余りに少ない資源だということになり、そのリバタリアン自己所有権は堅固なものではなくなる。ただ、健常者がより普通の、自分の生存に足る以上の資源に対する選好をもっているならば、そういうことにはならない。健常者は労働を強制されずに、障害者に分配ができる。
次のような社会を考えてみよう。多くの健常者と、少しの障害者がいる島だ。海岸の所有権は障害者に与えられており、内陸の農地が健常者に与えられている。健常者はビーチに行って自発的に障害者と食べ物についての条約を交わす。この土地分割の結果、障害者も健常者も各々が同じ程度に、誰も他者を支援することを強いられることなく、生活できるということになる。(33) そしてアメリカのような繁栄した国ではそれは可能である。こうしてみるとコーエンの次の議論はミスリーディングである。

「外的資源のみを考慮する平等主義的規則は、自己所有権を伴ったとしても、集団所有の場合のように、自律性を受け入れがたいほどに犠牲にすることなくして、結果の平等をもたらすことはできない。自己所有権には不平等を生みだす傾向があり、(自己所有権を明確に縮減することなく)この傾向を無化する唯一の方法は、自分自身への独立した諸権利の行使を排除するほどに厳格な、外的資源への統制を通じて得られる」(105:訳145-6)

これがミスリーディングなのは、リバタリアンの堅固な自己所有権が不平等を生みだす傾向を無化することは可能だという点を見逃しているからだ。(35)
誰もが相互に強制されることなく資源を分配でき、障害者に支援がいく社会もある。そこでは、障害者が健常者に寄生しているとかフリーライドだといった非難に答える必要もない。公正な分有という道徳的主張が優先されるし、より強いからだ。

X 以上では一世代だけのロビンソンクルーソー的想定を前提にしてきた。しかし現実は違うという批判がありうる。現実には、手つかずの世界資源などほとんどないし、また何世代にもわたって人は生きている、と。
 世代間倫理の問題 → 【省略】

Y まとめ 上記のような理論的問題で現実問題に方がつくわけではもちろんないし、現実の問題が重要。だが、理論的に平等主義と自己所有権が相容れないという議論を検討しておくことは現実的問題を考察する上でも重要だろう。

◇第2章 障害者に対して不正な者に提供させる

第1章のような楽観的な想定ができないケース。
⇒ 健常者の誰もが、自分が得る以上の労働はしたくない。また、自分の分を得るのに自分の所有している資源だけで足りる。このような状況を前提にすると、障害者は何も得られなくなる。
 障害者に厚生への機会の平等を達成するためには、健常者に――飢えの罰や収監の罰と引き換えに――労働を強いることになる。だが、それはリバタリアン自己所有権の「堅固さ」を侵害することになる。
では、どうすればよいか。リベラル平等主義者とリバタリアンが、障害者の基本的ニーズを満たすために支援するように健常者に強制するために、あまり見慣れない方法を支持する共通基盤を提供する。罪を犯した健常者――受刑者――に強制課税するという案である。受刑者を「不正な者(the unjust)」と呼ぼう。(42)
まず、リベラル平等主義者がこの政策に同意することを示す。次にリバタリアンも同意することを示す。そして、不正な者に対する課税は、正義が許容する刑罰に対して過剰ではないか、という反論に答える。(43)
 
まず、障害者の生命を維持するに十分な収入を賄うための四つの方法を考えよう。

@ すべての健常者への強制課税 普遍的課税
A すべての健常者の自発的貢献 普遍的贈与
B 寛大な少数の健常者の自発的提供 非普遍的贈与
C 犯罪者への課税

T 〔リベラル平等主義が不正な者=犯罪者への課税を支持する可能性〕

リベラル平等主義は普遍的贈与がもちろん一番よいと言うだろうが、不正な者への課税も適理的に正当だと考えるはずだ。リベラル平等主義者は、不正な者への課税が次のような形で展開されるような場合には適理的だと思うはずである。

P1 リベラル平等主義者は非普遍的贈与を、少なくとも普遍的課税と同じくらい強いとみなすべきである。
P2 不正な者への課税は、非普遍的贈与よりはよくはないが、非普遍的贈与のなかの最も重要な徳を共有している。
したがって、リベラル平等主義者は、不正な者への課税を、普遍的課税よりも強くはないとしても、適理的に強力な方策と見なすべきである。(43)

★ P1の擁護
リベラル平等主義は、全ての市民が自発的に平等に犠牲になる普遍的贈与が、四つの方策のなかで最善のものだという点には同意するだろう。リベラル平等主義は、自発性と普遍的で平等主義的な贈与の本性を肯定するからである。普遍的贈与を不正な者への課税よりも望ましいと思うだろう。さらに、普遍的贈与の方が普遍的課税よりも望ましいと思うだろう。強制がないほうがよいと思うからである。
では、リベラル平等主義は、一部の贈与と普遍的課税のどちらがよいというだろうか。普遍的課税だけしか障害者に提供する方法がないならば、普遍的課税を擁護するだろう。だが、部分的贈与は普遍的ではないが、国家の強制はなくてすむ。一部の人の贈与によって、障害者が十分に生活できるならば、リベラル平等主義者は、ケチな人にも強制的に課税する普遍的課税よりも部分的贈与の方がよいというだろう。たとえば、一部の志願兵で国防が十分に可能ならば、いちいち普遍的に徴兵しないだろう。(45)
普遍的課税が障害者への支援に法的保障を与える、という理由で普遍的課税を支持するというリベラル平等主義者もいるかもしれない。とはいえ、一部の贈与で足りないときにのみ、普遍的課税でそれを補うという形で障害者に対する保障を実効性のあるものにするという選択肢は排除されていない。(45)強制課税はできるだけ少ないほうがよいという考え方とも整合する。
また、障害者に与える義務を健常者が回避することを許容する、という理由で、仮に一部の贈与で足りるとしてもそれを批判するようなリベラル平等主義者もいるかもしれない。だが、この種の義務を擁護する基盤は何か? どうして誰も我慢を強いられる人が存在しないのに、障害者に与える義務をもつのか。
また、貢献していないマジョリティは「ただ乗り」という言い方で義務を侵害したと非難されることはあり得ない。障害者に再分配することから得られる利益は、その実現に貢献していないケチなマジョリティがそこから何かを受け取ることを排除され得ないような〔非排除性をもつような〕「公共財」ではないからである。仮に公共善の側面があるとして、それは非常に限られている。それは、障害者が飢えないような社会に住むという善である。だがそれは小さい利益であり、普遍的課税が個々の健常者に課すコストに見合わない。(46)

★ P2の擁護
不正な者への課税は部分的〔非普遍的〕贈与よりも望ましくないことは明らかである。だが、非普遍的贈与と同じで普遍的課税とは違う側面がある。それは、「自発性シェーマ」であり、それを考慮するならば普遍的課税よりも望ましいはずだ。不正な者への課税の場合、その人が貢献を強いられるのは、その人が強いられていないのに悪を為したことの結果である。(47) 多くのリベラル平等主義者は、再分配のための普遍的課税という標準的図式を正当なものと考えているが、その理由は、たとえ人々が不可避的に強制されることが悪いとしても、障害者に支援を提供する必要があるからである。彼らは不正な者に課税することで福祉国家が支えられる可能性を考える前に、不可避的な強制の悪は、普遍的課税が達成する障害者への再分配の正義によって凌駕されると考えている。とはいえ、この不正な者への課税の可能性を知ったなら、リベラル平等主義者は普遍的課税よりも不正な者への課税を支持する理由をもつことになるだろう。というのも、不正な者への課税は、国家の強制による痛みの多くを、自分がその権利をもたないようなこと【=犯罪】をすることを我慢するすべての人々に対する強制を免れることによって、取り除くからである。(48)

U 〔リバタリアンが不正な者への課税を支持する理由〕

リベラル平等主義の検討の次に、リバタリアンが不正な者への課税よりも最小国家を好む理由をもたないことを示そう。不可避的な強制がノージック等のリバタリアンが普遍的課税に反対する理由である。だが不正な者への課税には強く反対する理由はもたないだろう。不正な者への課税が刑罰の一種と見なされるならば、それを強制労働と同じものだとして道徳的に望ましくない行いとして反対できないだろう。リバタリアニズムは懲罰的課税に反対する理論を採らない。
ノージック自身は応報刑論に固執し懲罰的課税は超過罰だとして非難しているが、次のことは認めている。

「現代の国家が、(賠償に加えて)刑罰を金銭的なものにし、それを様々な行政活動の資金にしてはどうか、という興味深い可能性に注目せねばならない。賠償に替わる応報としての罰金と、逮捕が確実でないために抑止の上で必要となる超過罰によって、支出可能な財源が多分いくらかは生じるであろう。逮捕された者たちが犯した罪の被害者たちは全額の賠償を受けるのだから、残余の資金(特に応報論の適用によって生じる金銭)が、捕まらない犯罪者の被害者たちに対する賠償にあてられるべきなのかどうか、明確ではない。おそらく保護協会は、この資金を、〔保護〕サービスの価格を下げるために使うであろう」(訳98-99)

つまりノージックのリバタリアニズムには、すべての納税者の税を割り引くよりも障害者を支援するために、国家がこのような残り金を使うことを禁止するものはない。 〔より一般的に、ハートが言うように〕「刑罰の説明という観点から見ても、他者――この場合、犯罪者に対する懲罰的課税で利益を得る障害者――を裨益するために個人を罰することは、その利益が、手段として扱われない権利の少なくとも一部を没収された者〔つまり犯罪者〕から引き出される限り、不正義ではないだろう。」(50)

V〔反論の検討〕

上記の議論に反論もありうる。まず、障害者の生活を十分に支援するための財源を得るには、罪を犯した人々に莫大な課金をしなければならないだろうという反論がある。リベラル平等主義者もリバタリアンも、そんな莫大な課税は、ある罪に対して正当に課される罪の量の上限を越えてしまうのではないか、と言うかもしれない。(51) だが、この批判が正しいのは、罪の厳密な上限を設定する理由が存在する限りにおいてのみである。絶対的基準があると言う人もいるかもしれない。だが、その見解は斥けられるべきだ。刑罰の重さは社会状況に相対的だからである。
たしかに、罪の軽重と罰の軽重が連動しているほうがよい。とはいえ罰の量について絶対的な固定した基準などない。(52)
たしかに、さらに別の、よりよい議論が、正当化できる刑罰の量の上限について主張できるかもしれない。しかし、リベラル平等主義とリバタリアンは、その上限の範囲内で犯罪者に課税し障害者に支援をすることに反対する理由をもたないだろう。仮に犯罪者への課税で足りなくなったらその部分を普遍的課税で補うことになるのだが、普遍的課税の犯罪者への課税への置き換えは、伝統的なリベラル平等主義理論の福祉国家よりもより自発的な福祉国家への道になるだろう。(52−53)


UP:20100705 作成:堀田 義太郎
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