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『国家とはなにか』

萱野 稔人 20050615 以文社 p283


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■萱野 稔人  20050615 『国家とはなにか』,以文社 p283. ISBN-10: 4753102424 ISBN-13: 978-4753102426 2730 [amazon] ※

■出版社 / 著者からの内容紹介

大型新人による書き下ろし

いま、「国家とはなにか」と改めて問われても、何を問われているのか分からないほど、私たちは国家というものを身近なものと感じ切ってしまっています。本書は、この身近と思っている国家は、基本的には「暴力に関わる一つの運動態である」という、あまり身近と思いたくない概念規定から論を始めています。
近年、グローバリゼイションと同時にナショナリズムやレイシズムへの関心も高まってきて、その意味では国家にかんする議論は広く行われていますが、本書は先の基本的概念から初めて、昨今の「国民国家論」に至る、現代思想の主要なテーマ系にも十分配慮した、新鋭によるい書き下ろしです。

■内容(「BOOK」データベースより)
国家が存在し、活動する固有の原理とはなにか。既成の国家観を根底から覆し、歴史を貫くパースペクティヴを開示する、暴力の歴史の哲学。

■内容(「MARC」データベースより)
国家が存在し、活動する固有の原理とは何か。「国家は暴力に関わる一つの運動である」。この明解な視点から現代思想の蓄積をフルに動員し、国家概念に果敢に挑む。次世代を担う国家論の展開。

■著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
萱野 稔人(かやの としひと)
1970年生まれ。2003年パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了(パリ大学哲学博士)。東京大学大学院総合文化研究科21世紀COE「共生のための国際哲学交流センター」研究拠点形成特任研究員および東京外国語大学外国語学部非常勤講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次
第一章 国家の概念規定
 1 「物理的暴力行使の独占」――ウェーバーによる国家の定義
 2 暴力の正統性と合法性
 3 暴力の自己根拠かとヘゲモニー
 4 「暴力の歴史の哲学」

第二章 暴力の組織化
 1 秩序と支配の保証
 2 服従の生産――権力と暴力
 3 暴力と権力の規範的区別と機能的区別
 4 権力による暴力の組織化と加工
 5 手段を超える暴力?

第三章 富の我有化と暴力
 1 富の我有化と暴力の社会的機能
 2 税の徴収の根拠
 3 設立による国家と獲得による国家
 4 所有・治安・安全
 5 国家形態の規定要因と「国家なき社会」

第四章 方法的考察
 1 国民国家批判の陥穽
 2 国家・イデオロギー・主体――国家=フィクション論の誤謬(1)
 3 国家と言説――国家=フィクション論の誤謬(2)

第五章 主権の成立
 1 暴力をめぐる歴史的問題としての主権
 2 近代以前の国家形態
 3 暴力の独占と政治的なものの自立化
 4 領土と国境
 5 「大地のノモス」と世界の地図化
 6 国境と領土による国家の脱人格化

第六章 国民国家の形成とナショナリズム
 1 国民国家とナショナリズムの概念的区別
 2 国家の暴力の「民主化」
 3 神学的・経済的なものと国家のヘゲモニー
 4 権力関係の脱人格化
 5 主権的権力と生―権力の結び付き
 6 ナショナル・アイデンティティの構成

第七章 国家と資本主義
 1 捕獲装置と資本主義
 2 全体主義的縮減――国家の現在
 3 脱領土化する国家
 4 公理をめぐる闘争

■引用

イントロダクション
国家は実体でもなければ関係でもない。では何なのか。さしあたってこう言っておこう。国家はひとつの運動である、暴力にかかわる運動である(p.6)

第一章 国家の概念規定
なにによって国家を定義すべきか。目的ではなく手段によってである、とウェーバーはいう。つまり、あらゆる国家に見出される暴力行為という手段によって国家を定義すべきである、と。むしろ近代国家の社会学的な定義は、結局は、国家を含めたすべての政治団体に固有な・特殊の手段、つまり物理的暴力の行使に着目して可能となる。(pp.10-11)

国家とはある一定の領域の内部で―この「領域」という点が特徴なのだが―正当な物理的暴力の独占を(実効的に)要求する人間共同体である(同、九項、強調原文)。(p.12)

国家が他のエージェントに暴力の行使を認めないのは、けっして正義をめざすからではない。そうではなくそれは、法がみずからをまもるために、みずからを措定し維持する暴力以外の暴力を非合法化するからである。(p.29)

国家を思考することは、暴力が組織化され、集団的に行使されるメカニズムを考察することにほかならない。近代における国家とは、暴力が集団的にもちいられるひとつの歴史的な形態である。それは、たとえ暴力の独占を実効的に要求するという点で特殊だとしても、やはり暴力を手段としてもちいる政治団体のひとつとして、暴力をめぐるエコノミーの歴史的な変遷過程のなかに位置している。したがって、そこで問われるべきは、どのようにして暴力は集団的に組織化され行使されうるのか、そして形態は歴史を通じてどのように変化してきたのか、ということになるのである。(p.40)

第2章  暴力の組織化
暴力は命令にとっても確実で普遍的な手段となりうる、というのはすでに見た。暴力による脅しは、その暴力を恐れるものであれば誰に対してであれ、特定の文脈に依存することなく、こちらの命令に従わせることができる。(p.45)

国家をはじめとする政治団体が存立しうるのは、こちら側の秩序と支配をうけいれない敵に対して暴力を組織化し、行使するという活動を通じてである。(p.47)

「暴力をつかうぞ」と脅すことによって服従させることと、暴力の行使そのものとは区別されなくてはならない。暴力を行使するぞという脅しによって服従させることと、暴力そのものとは区別されなくてはならない(p.52)

暴力による脅しは、相手が「それをするぐらいならその暴力に対峙したほうがマシだ」と思わない範囲内のことしか相手に命令することができない。暴力による脅しは、特定の文脈することを可能にするとはいえ、やはりそれは無条件的なものではない(p.63)

ホッブズはこうした組織化を「人びとの力の合成」と呼ぶ。「人間の力のなかで最大のものは、きわめて多数の人びとの力の合成であ……る。したがって、召使をもつのは力であり、友人をもつのは力である。なぜなら、かれらは合一された力であるからである」。(p.71)

あらゆる国家の存立基盤となっているのは、暴力の優位性を担保するための、暴力の組織化の運動である。その組織化のモメントをアーレントが権力として考えていることは重要である。(p.73)

国家の成立基盤には、暴力と権力のあいだの相乗的な関係がある。つまり、一方で権力は、暴力の組織化を可能にし、それによって暴力をより強大なものにする。と同時に、他方で暴力は、否定的サンクションの発動可能性として機能することで、人びとから特定の行為をみちびきだし特定の行為関係を実現する権力のはたらきを補強する。国家は、暴力をつうじた権力の実践と、権力をつうじた暴力の実践との複合体として存在するのだ。(p.74)

「国家暴力を廃止する」とは、支配のための手段としての暴力を廃棄するということである。しかしその暴力に、手段としてではないような暴力を対置することは、ひとつのアポリアを生み出してしまう。そうした暴力は、目的合理的によりコントロールからはなれて、破壊そのものをみずからの顕現とするような危険をともに伴っているからだ。(p.89)

第三章  富の我有化と暴力
国家の存在は、暴力の社会的機能からみちびきだされるひとつの帰結だ。支配の保証や富の我有化といった効果を暴力がもたらすことができるからこそ、より強大な暴力をもちいようとする運動が生じ、その運動の周りで国家をはじめとする政治団体が生み出されるのである。(p.99)

住民から租税というかたちで富をうばい、その富を暴力の組織化と蓄積のためにもちいるという国家の原型がここから生まれてくる。そこにあるのは、富を一方的に収奪することを根拠づけるような国家の特定レジームである。そのレジームをドゥルーズ=ガタリは「捕獲装置」とよぶ。(p.100)

国家は、住民たちがみずからの安全をめざして設立するものではない。そうではなく、暴力的に優位にあるエージェントが住民たちを支配し、かれらから富を収奪することで国家は、成立する。住民の保護とは、そこから派生するひとつの付随的活動にすぎない。(p.105)

住民はみずからの安全のために、国家が追及する治安を全面的に当てにすることはできない。われわれはバリバールにならって、国家にとっての治安(securie)と住民にとっての安全(surete)とを概念的に区別することができるだろう。後者は安全には必然的に「圧制に対する抵抗」が含まれる、と。(p.128)

国家の中や外において、国家から遠ざかろうとしたり、国家からみずからを守ろうとしたり、国家を方向転換させようとしたり、廃絶してしまおうとする傾向があるのと同じだけ、原始社会においても、国家を「求め」ようとする傾向や、国家の方に向かうベクトルが存在する。すべてが絶えることのない相互作用の中で共存するのだ(同、四八六項)。(p.136)

第四章 方法論的考察
フーコーは言説を、実在していないものを語ることによって構成するものとは考えていない。そうではなく、言説は一定の条件のもとではじめてある対象(国家なら国家という対象)について語ることが出来る。言説とは特定の歴史的条件にしたがって展開される実践にほかならない。(p.154)

第五章 主権の成立
ノルベルト・エリアスによれば、近代国家による暴力の独占は、ふたつの要因によって可能となった。貨幣経済の発達と火器の発達である。(p.169)

国家の歴史は、領土化された同一の国家的枠組みのなかでさまざまな集団が時の政府を担ってきた歴史として表象されるようになる。それは、国家の脱人格化をつうじた過去の再構成にほかならない。ここから、国家の連続性という観念にもとづいたナショナルな歴史観も生まれてくるのである。(p.189)

第六章 国民国家の形成とナショナリズム
ナショナリズムが集団的アイデンティティの構築という想像的なレベルに位置するからといって、想像的なものを廃棄すればナショナリズムを解体できると考えることはできない。〜中略〜ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』のなかで国家とは客観的に存在している共同体ではなく想像上の産物であることを示して以来、想像的なものを否定すれば国家を乗り越えられるといった考えが蔓延してきた。(p.196)

ナショナリズムに対抗するためには、想像的なものを否定するのではなく、それをべつのあり方へと変えていくことを目指すべきなのである。(p.197)

住民が国家の暴力をみずからのためのものとして受け入れるような国家形態が成立するためには、暴力を組織化するロジックが脱人格化されなくてはならない。その脱人格化は、規律、訓練の権力テクノロジーをつうじてなされる。規律・訓練とは「匿名の権力」であるとフーコーはいう。(同 181項)。(p.220)

国民国家とは、暴力の実践が住民全体によって支えられるような国家形態である。つまりそこでは、国家の主権は、住民全体の生の増強をもってみずからの力能を高める。生―権力はこのとき、主権国家がもちいるべき権力テクノロジーとなるだろう。(p.225)
生―権力の特徴は「生きさせるか死の中へ廃棄する」という点にある。つまりその権力は、死を要求することをつうじて発揮されるのではなく、住民の身体や生命、人口といった〈生〉を対象とし、その生の増強をめざして発揮される。生―権力とは「生を引き受けることを努めとした権力」であり、死ではなく「生に中心を置いた権力テクノロジー」なのである(同、一八二項)。(p.227)

主権的権力は「死なせる」権力であり、生―権力は「生きさせる」権力である。両者は正反対の作動ロジックをもつ。では、この二つの権力はどのように結びつくのだろうか。(p.227)

生−権力が、十九世紀後半以降、血をつうじて行使される主権的権力によって活性化され、支えられるようになったという事態が述べられている。(p.229)

生―権力のモードの上で国家が作動するようになると、国家のもつ殺害の機能はレイシズムによってのみ保障されるのです。(pp.232-233)


国民国家の主体となる領土内の住民は、はじめから民族的であったわけではない。また暴力を背景にして人々を支配し、富を徴収するという運動そのものは、そこでの住民が民族的であることをいささかも要請しない。(p.234)

第七章 国家と資本主義
国家とは、ストックを生じさせる仕掛け、アレンジメント(agencement)にほかならない。それは所有可能で比較可能な対象をつくりだすことでストックの蓄積を可能にする。こうした仕掛けをドゥルーズ=ガタリは捕獲装置とよぶ。(p.247)

人間活動が労働として国家に捕獲されることによって、公共のものではない独立した労働の流れがそこから派生する。貨幣形態における税が創設されることによって、交易や銀行といったものに結実する流れが発生する。そして国家による公的所有制がつくりだされることによって、私有システムの流れが公有システムのコントロールのそとへと流出する。(pp.249-250)

資本主義はつねに、既存資本の周期的な価値低下という限界をかかえている。その限界をのりこえるために、資本主義は利潤率のより高い新しい産業分野であたらしい資本を形成しなくてはならない。(p.261)
全体主義的実現モデルは、こうした新領域での資本蓄積を容易にするために、外的部門を重視し(国外資本への呼びかけなど)、資本の流れのイニシアティヴをより重視する。それは、資本の流れを公理の付加によって調整するのではなく、その流れにとって邪魔となる要素を手荒な手段でとりのぞく。(pp.261-262)

国境によって区画された世界地図はそのままに、べつの制度的な広域の確保によっておきかえられる。〜中略〜場所確定と秩序形成とのつながりを断ち切るところに脱領土的な国家形態の特徴があるのだ。(p.267)

資本主義の発達はけっして国家の消滅をもたらさない。いいかえるなら、国家は資本主義にくみ込まれることでより大きな富とテクノロジーをえようとするとはいえ、それに吸収されてしまわない独立性をもっている。(p.273)

国家がどれほど「ブルジョア階級の支配の道具」としてあらわれてこようと、そのことによって「資本主義の廃止=国家の消滅」という図式を導くことはできないのだ。(p.274)

資本主義という公理系のたえまない手直し…は、決してテクノクラートだけの課題ではない闘争の目標なのである。…闘争は直接、国家の公的支出を決定する公理や、国際的な組織(たとえば、多国籍企業はある国に置かれた工場の閉鎖を勝手に計画できる)にかかわる公理を対象にする。(p.280)

■書評・紹介

■言及



*作成:鹿島萌子 追加:中田喜一
UP:20080628 REV:20080803
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