『石原吉郎詩文集』
石原 吉郎 20050610 講談社(講談社文芸文庫),307p.
last update:20110218
■石原 吉郎 20050610 『石原吉郎詩文集』,講談社(講談社文芸文庫),307p. ISBN-10: 4061984098 ISBN-13: 978-4061984097 \1400+税
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■内容
詩とは「書くまい」とする衝動であり、詩の言葉は、沈黙を語るための言葉、沈黙するための言葉である――。敗戦後、八年におよぶ苛酷な労働と飢餓のソ連徒刑体験は、
被害者意識や告発をも超克した「沈黙の詩学」をもたらし、失語の一歩手前で踏みとどまろうとする意志は、告発とは対極の寂寥の中で、不条理の自由として、
思索的で静謐な詩の世界に強度を与えた。この単独者の稀有なる魂の軌跡を、詩、批評、ノートの三部構成でたどる。沈黙するための詩を追究した単独者の魂の書。
■著者略歴
1915年11月11日〜1977年11月14日。詩人。静岡県生まれ。東京外語卒。1939年、応召。翌年、北方情報要員として露語教育隊へ分遣。41年、
関東軍のハルビン特務機関へ配属。敗戦後、ソ連の収容所に。49年2月、反ソ・スパイ行為の罪で、重労働25年の判決。スターリン死去後の特赦で、53年12月、帰国。
54年、「文章倶楽部」に詩を投稿し、詩作を開始。翌年、詩誌「ロシナンテ」を創刊(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)。
■目次
詩の定義
I
詩集〈サンチョ・パンサの帰郷〉より
位置
事実
馬と暴動
葬式列車
その朝サマルカンドでは
サンチョ・パンサの帰郷
耳鳴りのうた
夜がやって来る
酒がのみたい夜
自転車にのるクラリモンド
さびしいと いま
伝説
夜の招待
詩集〈いちまいの上衣のうた〉より
霧のなかの犬
いちまいの上衣のうた
シベリヤのけもの
待つ
泣いてわたる橋
霞
詩集〈斧の思想〉より
Frau Komm!
像を移す
泣きたいやつ
居直りりんご
便り
ドア
方向
詩集〈水準原点〉より
いちごつぶしのうた
詩が
詩集〈禮節〉より
神話
構造
世界がほろびる日に
詩集〈北條〉より
痛み
世界より巨きなもの
詩集〈足利〉より
足利
詩集〈満月をしも〉より
膝・2
疲労について
死
II
ある〈共生〉の経験から
ペシミストの勇気について
望郷と海
失語と沈黙のあいだ
棒をのんだ話
III
一九五六年から一九五八年までのノートから
一九五九年から一九六二年までのノートから
一九六三年以後のノートから
解説 佐々木 幹郎
年譜 小柳 玲子
著書目録 小柳 玲子
■引用
詩の定義
詩を書きはじめてまもない人たちの集まりなどで、いき
なり「詩とは何か」といった質問を受けて、返答に窮する
ことがある。詩をながく書いている人たちのあいだでは、
こういったラジカルな問いはナンセンスということになっ
ている。「なにをいまさら」というところだろう。しか
し、詩という形式がまだ新鮮な人たちにとって、この問い
はけっしてナンセンスではない。彼らにとって詩は驚きで
あり、その驚きの全体に一挙に輪郭を与えたいという衝動
は、避けがたいことだからである。この問いにおそらく答
えはない。すくなくとも詩の「渦中にある」人にとって
は、答えはない。しかし、それにもかかわらず、問いその>011>
ものは、いつも「新鮮に」私たちに問われる。新鮮さこ
そ、その問いのすべてなのだ。
ただ私には、私なりの答えがある。詩は、「書くまい」
とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれ
ない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたこ
とは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るため
のことば、「沈黙するための」ことばであるといってい
い。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、この
ような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができ
る。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意思
が、詩の全体をささえるのである。(pp.10-11)
痛み
痛みはその生に固有なものである。死がその生に固有
なものであるように。固有であることが 痛みにおいて
謙虚をしいられる理由である。なんびとも他者の痛みを
痛むことはできない。それがたましいの所業であると
き 痛みはさらに固有であるだろう。そしてこの固有で
あることが 人が痛みにおいて ついに孤独であること
の さいごの理由である。痛みはなんらかの結果として
起る。人はその意味で 痛みの理由を 自己以外のすべ
てに求めることができる。それは許されている。だが
痛みそのものを引き受けるのは彼である。そして「痛>079>
みやすい」という事実が 窮極の理由として残る。人は
その痛みの 最後の主人である。
最後に痛みは ついに癒されねばならぬ。治癒は方法
ではない。痛みの目的である。痛む。それが痛みの主張
である。痛みにおいて孤独であったように 治癒におい
てもまた孤独でなければならない。
以上が 痛みが固有であることの説明である。実はこ
の説明の過程で 痛みの主体はすでに脱落している。癒
されることへの拒否は そのときから進行していたのだ。
痛みの自己主張。この世界の主人は 痛みそのものだと
いう 最後の立場がその最後にのこる。(pp.78-79)
*「引き受けるのは彼である」の「彼」には、傍点がふられている。
疲労について
この疲労を重いとみるのは
きみの自由だが
むしろ疲労は
私にあって軽いのだ
すでに死体をかるがるとおろした
紋索のように
私にかるいのだ
すべての朝は
私には重い時刻であり
夜は私にあって>085>
むしろかるい
夜にあって私は
浮きあがる闇へ
かるがるとねむる
そのとき私は
すでに疲労そのものである
霧が髭を洗い ぬらす
私はすでに
死体として軽い
おもい復活の朝が来るまでは(pp.84-85)
死
死はそれほどにも出発である>086>
死はすべての主題の始まりであり
生は私には逆向きにしか始まらない
死を〈背後〉にするとき
生ははじめて私にはじまる
死を背後にすることによって
私は永遠に生きる
私が生をさかのぼることによって
死ははじめて
生き生きと死になるのだ(pp.85-86)
■書評・紹介
■言及
◆畑谷 史代 20090319 『シベリア抑留とは何だったのか――詩人・石原吉郎のみちのり』,岩波書店
(岩波ジュニア新書).201p. ISBN-10: 4005006183 ISBN-13: 978-4005006182 \740+税
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*作成:北村 健太郎