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『白血病からの生還――「霧の中の生命(いのち)」増補版』

大谷 貴子 20050415 リヨン社,269p. 1575


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■大谷 貴子 20050415 『白血病からの生還――「霧の中の生命(いのち)」増補版』,リヨン社,269p.
   ISBN:4576050524 ISBN-13: 978-4576050522 1575 [amazon] b b6m00000 ot

■出版社/著者からの内容紹介
世間の白血病に対する見方は、やはりまだまだ「不治の病」。それもそのはず、書店で闘病記を探すと…ない。本当に、ない。亡くなった方々を偲ぶ「遺稿集」や「残された日記」は数多く並ぶが、元気になった方々の闘病記は……ない。(中略) そう、すべての患者さんたちは、これからの自分の行く末が不安なのだ。どの人もはじめてかかる病気。またその名前が、かの有名な「白血病」ときている。自分は生きられるのだろうか、と不安に思うのも当然である。だからこそ「生きられます!」とメッセージを送りたい。「ここに生きてまっせ!」「大丈夫でっせ!」というメッセージを送りたい。(はじめに より)

■内容(「MARC」データベースより)
20代の青春期を、白血病との闘いと骨髄バンクの設立に注いだ著者の、ひたむきな生き方。骨髄提供という「善意」が確実に白血病患者のいのちの救済につながる。1991年刊「霧の中の生命」の改題、増補版。

■著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
大谷 貴子
1961年、大阪生まれ。千葉大学大学院卒業。1986年、大学院在学中に慢性骨髄性白血病と診断され、入退院をくり返す。1988年、名古屋大学医学部附属病院で母親からの骨髄移植を受け4月退院。「名古屋骨髄献血希望者を募る会」を発足。1989年、「東海骨髄バンク」を設立。1990年、「全国骨髄バンク推進連絡協議会」発足と同時に運営委員に就任。(社)名古屋青年会議所TARG賞受賞。1991年、ライオンズクラブ国際協会334‐A地区ガバナースペシャルアワード人道主義大賞受賞。(社)日本青年会議所TOYP大賞グランプリ受賞。東海テレビ文化賞受賞。1994年、「名古屋骨髄献血希望者を募る会」が「骨髄バンクを支援する愛知の会」へ改称。1995年、朝日社会福祉賞受賞。「全国骨髄バンク推進連絡協議会」の副会長に就任。1996年、日本ホスピタリティ協会主催「The Best Hospitality of the Year」受賞。医療者と患者との掛け橋になるため、初級カウンセラーおよび精神対話士資格取得。骨髄バンクに関する啓蒙活動として、現在も執筆や講演などを精力的に行なっている。
(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

 はじめに

 第一章 霧の中へ……
 第二章 ひとすじの光を求めて
 第三章 「死」という絶望の淵から
 第四章 霧の中へふたたび
 第五章 骨髄移植
 第六章 新たなる生命
 第七章 二度目の人生
 第八章 そして、未来へ

 おわりに


■引用

第二章 ひとすじの光を求めて
◆さおりちゃんを助けたい!(pp66-74)
 「基本的には、個人で非血縁者の骨髄提供者を探し出すのは、百パーセント不可能に近い。ということは、肉親にHLAの適合する者がいない場合は、患者は死を覚悟しなければならないのだろうか。<067<
 そこで生まれたのが「骨髄バンク」の構想である。構想だけではない。実際に欧米では、骨髄バンクがすでにつくられて機能している。」(p.67-p.68)
 「骨髄バンクとは、骨髄移植のために、善意から「自分の骨髄を提供してもよい」という人たちのHLA検査を行ない、そのデータをあらかじめ登録し、蓄積しておくデータバンクである。そして、骨髄移植を行ないたい患者が出現したとき、その患者のHLAと適合する提供者を、データバンクの中から探すのである。」


第六章 新たなる生命
◆ふたつのシンポジウム(pp.173-175)
 「その前日の二月四日、東京で骨髄バンク運動を始めていた橋本さんが中心となって、初めての「骨髄バンク早期実現のための民間シンポジウム」が開かれた。橋本さんは、私が急性転化して名古屋へやって来たあとの十二月末に、「全国骨髄バンクの早期実現を進め<173<る会」を発足させ、この日のシンポジウムの準備を進めてきたのであった。
 二月四日のシンポジウムは、東京・新宿の全国身体障害者総合福祉センターで行われ、医師や患者の家族、それに一般の方々など、百人近くが集まった。」(pp.173-174)

 「一刻も早い骨髄バンクの設立を訴えたこのシンポジウムは、新聞各紙をはじめ、多くのマスコミに取り上げられ、社会的反響も大きかった。「全国骨髄バンクの早期実現を進める会」には、すぐに全国からの電話が殺到したそうである。問い合わせや激励がほとんどで、多くは、同じような病気を抱える患者の家族からであった。」(p.174)

 「翌日の二月五日、私のいた無菌室のカーテンは半開放になったその日には、医師たちによるシンポジウムが開かれている。
 骨髄移植の専門家・約三百人で構成されている、日本骨髄移植研究会の第十回研究会が東京でもたれた。このシンポジウムのテーマが「骨髄バンク設立」であった。
 骨髄移植の技術は急速に進歩しているにもかかわらず、HLAが一致する家族がいないため、移植を受けられない患者が多い。そういった患者を救う骨髄バンク設立について、専門家は何ができるかを明らかにするのがテーマであった。
 一九八八年に入って日本でも、こうして骨髄バンク設立へ向けた大きな社会的うねりが、患者サイドと医師たちから起こり始めたのである。


◆春爛漫(pp.179-183)
 「三月に入ってもなお、私はすこぶる元気で、体調の悪いところはなかった。移植前からずっと悩まされつづけてきた吐き気と嘔吐からも、やっと解放されていた。
 この頃になると、私のもとには、全国の白血病患者を抱える家族からの手紙が連日殺到していた。<179<
 というのも、二月四日のシンポジウムに声のメッセージを送り、それが新聞で報道され、準備無菌室に移った私のところに雑誌の取材があり、週刊誌の記事にもなったので、その記事を読んだ方たちの反響が、私のもとに続々と届いていたのである。
 いろいろな内容の手紙があったが、目立ったのは病気に関しての相談の多さであった。直接医師に問いただしたり、質問しにくい件について、患者であり、骨髄移植体験者の私に相談を持ちかけてくるのである。
 それに、白血病治療に対してすべての医師が適切な処置を会得してはいないから、明らかにおかしな対応を受けている例も多かった。そうした相談の内容に、私は名大病院血液内科の先生方に助言や指導を受けながら、手紙の返事を毎日書きつづけた。
 電話もたくさんもらった。その対応でこちらから電話をすることもあった。相手は全国各地にいるので、電話代が大変であった。
 これではたまらない、早く退院して、自分の電話でことを片づけなくては――と思った。それに、病院の電話でやりとりするのは、何よりも不自由だった。
 私と同じ悩みを持つ人々が、この世の中にはじつに大勢いることを知り、そうした方たちのためにも、一日も早く骨髄バンクをつくらねばならないと、あらため痛感したのであった。」(pp.179-180)

◆退院、そしてさおりちゃんとの別れ(pp.187-192)
 「一九八八年春となって、日本における骨髄バンク設立をめぐる動きは、にわかに活発と<190<なっていた。私が退院する直前には、日本血液学会や日本骨髄移植研究会など関係五学会が、厚生大臣(当時。現・厚生労働大臣)と日本赤十字社に対して、「移植用骨髄ドナー(提供者)バンク」を設立するように申し入れを行なっていた。
 五月に入り、市民レベルでも、東京の橋本さんたちが中心となっている「全国骨髄バンクの早期実現を進める会」が、百万人署名を始めた。厚生省(現・厚生労働省)に対して、骨髄バンクの請願をしようというのである。
 私も、名古屋地域での署名集めに尽力することになった。」(pp.190-191)

 「ついに、さおりちゃんのために骨髄提供者を探しあてることはできなかった。そして、さおりちゃんと同じように、毎日何人もの人たちが白血病で死んでいく。その人たちの多くは、骨髄移植で完治する患者である。そうした病魔の犠牲者を出さないために、一日も早く、一刻も早く、骨髄バンクが設立されなければならない。<191<
 しかし、黙って見ていても、バンクができるわけではない。誰かが必死になって働きかけなければ、何も生まれないのである。
 第二、第三のさおりちゃんを出さないために、どうしても骨髄バンクをつくる――それが骨髄移植で二度目の人生を与えられた私の仕事である、と思った。」(pp.191-192)

◆誕生日(pp.192-196)
 「私はテキスト通り、六ヵ月でサイクロスポリンが終わった。最短コースであった。
 サイクロスポリンの終了は、社会復帰を意味する。これまで恐る恐るマスクを着用して外に出ていたのだが、これで一応、外出もおおっぴらにしてもいい、ということになった。
 これで骨髄バンク運動に打ち込めるようになったのである。」(p.196)


第七章 二度目の人生
◆骨髄バンク運動(pp.198-205)
「「全国骨髄バンクの早期実現を進める会」の橋本さんたちとともに、七月下旬に京都に行った。私が急性転化して緊急入院する前に、相談に乗ってもらった京大病院の秋山先生に、これからのボランティア運動をどう進めたらいいかの意見を聞くためであった。
 とりあえず、ボランティアとして、骨髄移植というものの存在を広く市民に理解してもらい、骨髄バンクの必要性をアピールしていくのが第一であった。
 移植とバンクを知ってもらう啓蒙活動が、ボランティアとしてまず取りかからなければならない作業である。すぐに一般市民に骨髄提供者としての登録を呼びかけ、そのHLA検査をしていくという力は、まだなかったのである。強いてできることといえば、「将来骨髄提供をしてもいい」という希望者の募集を始めることぐらいだった。」(p.198)

 「骨髄提供者の、骨髄採取にともなう入院の際の休業補償はどうするのか。提供者には全<198<身麻酔がかけられるが、これまでに例はないとはいえ、万一の麻酔事故があった場合の保険はどうするべきなのか。HLAが合致したあとのくわしい移植の客観的説明、いわゆるインフォームド・コンセント(Informed Consent 直訳すれば「知らされたうえの同意」)はどのように行なったらよいのか。
 これから骨髄バンクを設立して機能させていくために、乗り越えなければならない懸案は、まさに山積していたのである。」(pp198-199)

 「私が免疫抑制剤服用の義務から解放された七月下旬に、患者の家族たちと会って、いよいよ名古屋で、本格的な活動を始めようということになった。まずは、骨髄バンク運動のバックアップをしてくれる医師団を探すことから始まった。
 幸いにも、名古屋は日本における骨髄移植の先進地とでもいう土地柄である。名古屋には骨髄移植を行なっている施設が十六(著者注‥現在は二十)もあり、「名古屋骨髄移植グループ」という医師たちの集まりがある。どう考えてみても、こうした医師たちの力添え抜きで、骨髄バンク運動の展開は不可能である――という結論に達した。」(p.199)

 「医師たちの思いも、私たちボランティアと同じであった。血縁者の中にHLAの合う提供者がいないため、骨髄移植で助かるはずの患者が何人も死んでいくのを見てきた医師たちにとって、それはつらい出来事であった。なんとか非血縁者から提供者を見出すことはできないだろうか。そうするには、骨髄バンクの設立以外に道はない――と医師たちも考えていたのである。」(p.200)

 「それではどのようにして、「骨髄を提供してもいい」という人たちを募集するのであろうか。それにはマスコミに協力してもらい、大きく報道してもらうほかはない。
「名古屋を基地に活動を始めるのだから、『中日新聞』にやってもらいたい」ということになった。」(p.200)

「私たちは、骨髄提供者を集める会を、一日も早くつくりたいと必死だった。そしてマスコミを通して、広く世の人々に訴えたかったのである。」(p.201)

 「私たちボランティアと名古屋骨髄移植グループの医師たちとの会議を、何度か持った。<201<
 新しくつくる会の目的は、骨髄提供希望者を募ることを第一とし、患者からの相談は小児科と内科に振り分けて、医師たちにまわすことに決定した。」(p.202)

 「いろいろな名前があがったが、最終的に、提供者を募集する会であることを的確にわかってもらうために、『名古屋骨髄献血希望者を募る会』に決定しした。」(p.202)

 「新聞発表は、八月三日に決定した。」(p.202)

◆意外な反響(pp.203-211)
 「八月三日の朝、ぐっすりと眠っていると、電話のベルが鳴った。……「骨髄提供者になりたい」という方からの電話であった。……それから深夜までに、八十八本の電話が入り、切るとまたすぐ次の電話が鳴る……という具合だった。」(p.203)

 「結局、三日間で百五十人ほどが、骨髄提供希望の登録を申し出てくれたのであった。」(p.204)

 「骨髄バンクの設立を望む声は、全国的に大きく広がっていった。名古屋でも、細々とではあるが、「何かできるだろう」「やれるところからやってみよう」と、私たちが動き出した。<204<
 しかし、最終的な望ましい形は、「国のお金と責任で、骨髄バンクの運営をすること」である。全国の提供希望者をネットワーク化し、いつでも骨髄の欲しい患者に情報を提供できる態勢をつくらなければならない。そうした私たちの願いを、政府には訴えつづけていかなければならないのである。
 そして、そうした時代のうねりは高まっていった。
 この年、一九八八年八月の末には、国会でも、骨髄バンクについて、初めて議論が行なわれた。参議院予算委員会で、二院クラブ(当時)の下村泰(コロンビア・トップ)さんが質問に立ち、政府は骨髄移植と骨髄バンクについて、どう対応するのかをただした。
 それに対する厚生大臣の答弁は、
 「骨髄バンクをつくることは、医学的、倫理的にさらに検討が必要で、ただちに創設は困難である」
 というものであった。じつに国は腰が重い。」(pp.204-205)

◆大盛況のシンポジウム
 「九月十日、名古屋で第一回目のシンポジウムを行なうことにした。名古屋骨髄移植グループの医師たちが、提供希望者で登録したい人があれば、HLA検査の採血もしてくれることになり、新聞などでシンポジウムへの呼びかけを協力してもらった。……参加者はなんと、五<206<百人近く。……なんと、参加者の九割が、「骨髄提供をしたい」という希望者であった。」

 「このシンポジウムを機会に、「名古屋骨髄献血希望者を募る会」の会報を発行することになった。」(p.208)

 「どんどん増えつづける提供希望者の住所や氏名などの名簿管理もある。活動に欠かせない資金をカンパしていただけば、心から感謝して礼状を書く。こうした作業は、すべてボランティアの力で支えれているのである。」(p.208)

 「一九八九年春、「名古屋骨髄献血希望者を募る会」に登録する骨髄提供者の数は、順調に伸びつづけていた。
 せっかく提供希望者が集まってきたのだし、骨髄を必要とする患者の登録準備を始めよう――ということになった。まず五月に入り、手始めに、名古屋骨髄移植グループの医師たちが抱える患者で、試験的にHLAの照合シュミレーションを始めた。」(p.210)

 「五月十五日、提供希望者の募集に加えて、悲願であった、患者登録を一般に公開した。まだ骨髄バンクと呼ぶのはおこがましいが、これでごくごくミニではあるが、ささやかなバンクがスタートしたことになる。」(p.211)

◆普通に生きることの素晴らしさ
 「この頃になると、公的な骨髄バンクの設立を望む声が、全国各地であがってきた。日本じゅう、いたるところにボランティア・グループが生まれ、骨髄移植と骨髄バンクを知るためのシンポジウムが開かれた。
 私はそうしたシンポジウムに出て、自らの骨髄移植体験を語り、骨髄バンクの必要性を呼びかけた。」(p.212)

 「やがて各地のボランティア団体が集まって、「全国骨髄バンク推進連絡協議会」も結成され、政府や国会への請願も行なって来た。全国協議会には、全国十七団体が参加するまでになった(著者注‥現在では支部を合わせると五十六団体)。
 もちろん、全国協議会に参加していないボランティア団体や患者家族の会も多いが、いずれも願いは同じ。「一日も早く、国の責任で運営される骨髄バンクが設立されること」である。(p.213)

 「一九八九年秋、私たちにとっては記念すべきときがやってきた。日本で初めて、私たちのミニバンクで見つかった提供者から、一人の白血病患者に骨髄が移植されたのである。その患者は、白血病と闘いつつ、自ら骨髄提供者を探して訴えつづけてきた人であった。
 日本初の骨髄バンク運動の末に行なわれた骨髄採取ならびに骨髄移植は、名古屋骨髄移植グループに所属する、異なった病院の倫理委員会の審査の末に承認され、実施された。
 こうして十月二十一日、「東海骨髄バンク」が設立されることになったのである。」(p.213)

 「ちなみに、骨髄バンクによってHLAが適合した提供者と患者には、お互いがどのような人物であるのかを知らされることはない。これは、相手方の情報を知ることによって考えられるさなざまな危惧や、不必要な心づかいを取り除くと同時に、もしも移植が失敗した場合の、患者家族や提供者の気持ちを配慮してのことである。」(p.214)

◆大きなうねり(pp.215-223)
 「公的な骨髄バンクの設立を望む声は、専門家をはじめ、市民レベルでも全国的に広がり、大きなうねりとなって盛り上がっていった。
 こうした声を受けて、国会においても、参議院議員の下村泰さんは機会あるごとに国会審議の際に取り上げ、厚生省に、なんとか骨髄バンクに関して前向きの姿勢を取るよう、迫っていた。
 私たち民間の小さな「東海骨髄バンク」が発足した翌月の十一月十五日、国会の場で、注目すべき変化があった。参議員決算委員会で、この日の最後の質問に立った下村泰さんが、<215<戸井田三郎厚生大臣(当時)に、終了間際にこう質問した。その部分を議事録より抜粋引用する。


  ●下村泰君 先ほど申し上げましたように、年間五千人の発病者があって、今私がこうしてしゃべっているあいだにも倒れていく人がいるわけです。今日、傍聴者のなかにも、十三歳になる坊ちゃんを抱えて、この子がいつ倒れるかわからない、いつ冥土に旅立つかわからない、そういう必死の思いでこの話を聞いていらっしゃる傍聴者もいるんです。(中略)私が今言っているのは、とにかくバンクを先行させなさい。登録する人を増やしてください。それからいろいろ組織適合がどうの、問題はあります。けれども、まず動かさぬことには、旗は動いていかないんですよ。旗を動かすことをやってください。大臣、ひと言だけお答えください。

  ●国務大臣(戸井田三郎君) お説、よく検討をしてまいりたいと思います。

  ●下村泰君 終わります。


 骨髄バンクの設立について、厚生大臣の、これまでは「困難である」であった答弁が、「検討する」に変化したのである。」(pp.215-216)

 「厚生大臣が「検討します」と言ったのだから、検討しないわけにはいかない。厚生省内に、骨髄バンクに関する担当部署がまず決められた。
 そして翌一九九〇年一月に、厚生省は、医師や法律家で組織される「骨髄移植の評価に関する研究班」を設置した。誰もが骨髄バンクが必要なことは認識している。この研究会は間もなく、「骨髄バンクを全国規模で組織化すべきである」との報告書を提出した。
 報告にもとづいて、今度は六月に「骨髄バンク組織に関する研究班」が発足し、十一月には、「骨髄バンクは、全国組織のある日本赤十字社を中心に運営していくのがよい」との報告を出す。
 そして厚生省は、平成三年度予算に、骨髄バンク設立のために二億七千万円の予算を組む。予算案は、一度は大蔵省(当時)に蹴られるが、結局は、復活折衝で認められることになった。
 さらに一九九一年三月に、厚生省は「骨髄移植対策専門委員会」を発足させて、「一九九一年じゅうにも骨髄バンクをスタートし、提供者の募集を始める」と公約している。」(p.217)

 「一九九一年十一月現在、「東海骨髄バンク」のHLA検査済骨髄提供を希望する登録者の数は二千三百五十八名。骨髄提供を希望する患者登録者数は六百十八名。これまでに「東海骨髄バンク」を通して行なわれた、非血縁者の提供による骨髄移植を完了した数二十一組。現在、移植可能で進行中の数八組である。」(p.218)


第八章 そして、未来へ
◆あれからの日々(pp.230-235)
「一九九一年の十二月、ついに「仮称・骨髄移植推進財団」から「仮称」の文字が消えたのである。午後七時のNHKのトップニュースで、「厚生大臣(当時。現・厚生労働大臣)が、骨髄バンクを認可した」と報じられた。」(p.230)


UP:20080208 REV:

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