HOME > BOOK >

『「存在の現れ」の政治――水俣病という思想』

栗原 彬 20050430 以文社,227p.

このHP経由で購入すると寄付されます

栗原 彬 20050430 『「存在の現れ」の政治――水俣病という思想』,以文社, 227p. 2400+税 ISBN-10: 4753102408 ISBN-13: 978-4753102402  [amazon] ※ bp

◇著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
 専攻は政治社会学。1936年栃木県生まれ。1961年東京大学教養学部教養学科国際関係論卒業。1964年東京大学大学院社会学研究科修士課程修了、1969年同博士課程満期退学。武蔵大学文学部講師、立教大学法学部教授を経て、明治大学文学部教授。水俣フォーラム代表、日本ボランティア学会代表(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


内容紹介
◇内容(「BOOK」データベースより)
 水俣病公式発見から半世紀。人類史上最初でかつ最大の生命破壊・環境汚染は、今日われわれに何を語りかけているのか?近代日本が一貫して追求した生産力ナショナリズムが破綻に瀕している今日、支配しない他者を宛先とする新しい人間像を“水俣病という思想”に読み解く。

◇内容説明
 ミナマタ:ジェノサイドから「存在」の現れへ
 九州の不知火海全域を巻き込んだ水俣病が1956年に公式確認されてから来年で半世紀になろうとしています。昨年10月に「水俣病関西訴訟」の最高裁の判決が出ましたが、その後、未確定の水俣病患者から認定申請が相次いでおり、水俣病はまだ終わっていません。
 本書はこの水俣病の50年の歴史をふまえつつ、この問題を戦後日本の政治構造のなかに位置づけようという画期的な試みです。フーコー以来、近代社会における〈生政治〉が指摘されてきましたが、近年では、ジョルジョ・アガンベンによって〈剥き出しの生〉として形象化されています。不知火海全域で10万〜30万ともいわれる発症は、アウシュヴィッツ、ヒロシマ、ナガサキにならぶミナマタというジェノサイドで、まさに〈生政治的現実〉です。この現実を生き抜いてきた一人の漁師の極限思考から、著者は「存在」が現れる「新しい人間像」を描いていきます。法理から言えば、チッソと行政の「加害責任」は問わなければならない。しかし、人間のこととしての水俣病という地平に立つとき、加害と被害の別は溶け合って灰色の領域を構成する。この出口なしの八方塞がりのグレイゾーンに踏みとどまって、これを内破する身体の運動こそが「新しい人間」としての生を踏み出すことができる。他者を支配する権力位置を離脱して、あるがままの人間として肩を並べて加害と被害のグレイゾーンを突破していく企て:「課題責任」。ここに〈生政治〉を乗り越える可能性を見出しています。

◇内容(「MARC」データベースより)
 公式発見から半世紀を経た水俣病は、今、われわれに何を語りかけているのか? 近代日本が追求した生産力ナショナリズムが破綻に瀕している今日、支配しない他者を宛先とする新しい人間像を「水俣病という思想」に読み解く。

目次
序にかえて 「存在」の訪れを聞く

I 「存在の現れ」の政治――水俣病という思想
1 「さまよい」の旗から
2 自己決定の政治
3 代行政治とグレイゾーン
4 あなたが存在して欲しい
5 存在の現れの政治
6 「私たち」が変わる
7 「またあしたね」

II 水俣病という身体――風景のざわめきの政治学
1 「水俣病がある」風景/Mの身体
2 Mの初原の風景
3 不在の風景
4 「清くさやけき水俣」/煙はこもる町の空
5 植民地朝鮮・興南の風景
6 親密性と公共性の風景
7 苦海・発生の風景
8 政治病の風景
9 市民社会・差別の風景
10 表象の政治・代理身体
11 水際へ

III 市民は政治の地平をどのように生きたか
はじめに――市民的な批判的知性への離陸と着地
1 「市民政治」の形成
2 生活政治の展開
3 「人間の政治」の現れ
4 住民運動・エゴイズムの肯定
5 公共性の逆構造転換
6 環境政治の展開
7 共同性・親密性の政治社会学
8 アソシエーション・生活協同組合
9 ボランティア・市民運動・NPO
10 地球市場化と市民政治
11 新しい親密圏から公共圏を直立させよ
おわりに――響きあう二つのエッジ

IV 人間の再生と共生へ――水俣病は終わっていない
1 祈りと記憶――水俣・東京展の意味
 行政責任ということ
 素顔(ヴィサージュ)で立つ
 水俣病者の本当の声
 重層的な繋がり
2 アウシュビッツ、ヒロシマ、ナガサキ、ミナマタ――水俣病公式発見から四〇年
 海からのジェノサイド水俣病
 人間存在の代替不可能性
 「すべての生命の幸福」に立つ――公共性の逆構造転換
3 法理と倫理の新しい関係を求めて――水俣病展に映るもの
 魂起こしとしての前夜祭
 遺影に見られること
 「存在の現れ」の政治――法理と倫理の新しい関係

あとがき


引用
I-3 代行政治とグレイゾーン
p27-30
 自己決定の政治で、結局、何が問われていたのかというと、人間の矜持、人間の尊厳の回復ということでしょう。馬鹿にするな。こんなに屈辱を受けている。人間の尊厳を取り返すということだと思います。そこで損害賠償ということになれば、法で争うことになりますけれども、それはつまり、過去に損害が生じた、そのことに対する賠償ということになるわけです。しかも、繰り返し行われてきたことは、賠償ではなくて補償なんです。
 ついでに言いますが、二〇〇一年、ハンセン病に対する熊本地裁の判決が出ました。熊本地裁は、らい予防法は違憲と判断し、厚生大臣の政務行為と国会議員の立法不作為に違法性と過失を認めて、国に賠償命令を下しました。国は控訴を断念しました。そこが評価されているわけですが、しかし、そのとき政府声明がつきました。そこでは、国と国会の法的責任を認めないと言っています。そうすると、熊本地裁が国に命じた賠償法ではなくて、単なる公平の均衡の回復のための補償法なんですよね。結局、補償という考え方になっていく。この「救済」の論理は、水俣病の「見舞金契約」や「和解」に通底する「恩恵」の<0027<執行ということになります。
 水俣病者は、死んだ子を返せ、金は要らんと言っているのです。このことに少しでも近づくためには、生活という側面と魂という側面、その両方の恒久的な救済が必要になります。しかし、これは裁判だけはダメなんです。裁判も大事ですが、裁判と運動とがあって、それから、第三者調停とも和解とも異なる、当事者主権的な交渉行動がある。ここに新しい別の政治の生まれる余地があるのだろうと思います。
 この自己決定の政治が結局、エージェント(代行組織)の政治に転化していきます。エージェントの政治は、支援者や専門家が水俣病者の代わりに意思決定をしていく、裁判を進めたりするということになります。これはマンモス訴訟になれば、ある意味でやむをえないところが出てきます。そして、そのことで、水俣病者たちは水俣病問題の本質から自分たちが遠ざけられていくという感覚をもつようになっていきます。とりわけ和解による全面解決という社会的な圧力が働いてきますと、国や県は和解の方向に向けて患者団体の内部管理を患者団体自体にさせるということをやります。
 ですから、一方に加害者がいます。国や県やチッソがいます。それから、片側に被害者がいます。その間に一種のグレイゾーン(灰色の領域)が生まれます。社会的な圧力で和解を進める人びとです。それがいわばシステムの代行者になっていきます。水俣病者は高齢化して亡くなっていく。支援者まで含めて、もう水俣病はやめにしようという動きが加<0028<速されます。そして、今度は被害者の団体のなかで、システムを代行する被害者が出てくるわけです。被害者のなかの指導者、幹部会、役員会ということになりますが、和解という方向への社会的な圧力が働いている限りでは、「苦渋の選択」に赴かざるをえないところがあります。
 全員を説き伏せる必要があるわけです。そうでなければ和解金は入らないのですから。しかも、逆らえば孤立するという恐れが働いていくことになります。そうしたとりまとめを患者団体にさせたということがあります。
 このことでグレイゾーンの問題が出てきます。代行政治のなかでグレイゾーンがみえてきた。それは「存在の現れ」の政治へ行く前の、越えなくてはならない問題です。グレイゾーンは、プリモ・レーヴィというアウシュビッツ収容所から生還したユダヤ人の詩人が指摘したことです。グレイゾーンが見えてきた証しのように、水俣病展の会期中に、緒方正人さんの『チッソは私であった』(葦書房、二〇〇一年)という本が出ます。『チッソは私であった』という題名は、非常に象徴的だと思います。
 チッソは私であったという自己認識とともに、緒方正人さん自身は、認定申請運動を抜けていきます。金の分配に帰着する代行政治そのものに対する疑いをもつようになっていく。そのときに自分が一種の狂った体験をする。狂った体験とは、たとえばテレビを持ち出して庭石にガチャンとぶつけるとか、しれから、車を三台壊したと言いますから相当な<0029<ものですが、考えてみれば近代的なものをみんな壊す。そのような象徴的な行為。正人さん自身は、自分はそのとき狂ったと言います。そういう経験をしながら、そこで彼が見出していくのが、「チッソは私であった」という地平です。
 仮に自分がチッソの社員であったり、工員であったりすれば、どのように振る舞っただろうか。やはりチッソがやったようなことを自分もやったのではないか。自分は漁師である。漁師は命の殺害者だ。魚を獲り、ほかの命を殺して食べて生きているという存在である。しかし、これはまた、魚を獲って市民に提供するわけですから、市民のエージェントとして、人びとに代わって魚を殺すということを行っている。そういう代行者の側面もあるわけです。
 チッソは私であったというのは、加害者と被害者の相互転倒と言いましょうか、加害者は同時に被害者であり、被害者は同時に加害者でもあるような、人間の業に届くグレイゾーンです。水俣病の前に、善と悪、加害と被害というものが互いに溶け合ってしまうような、新しい倫理の地平が生まれてくるのです。
 ふつう善と悪と言います。罪と罰というように、多く法律的な問題としてそれは立てられていきます。判決が内面化される。それが通常の倫理でしょう。しかし、それとは全く違う。つまり、判決不能なグレイゾーンがある。その認識から新しい倫理が生まれてくるのではないか。加害と被害の溶融という新しい地平から、人間であることに対する深い問いが生まれてきます。



*作成:北村健太郎
UP:20080505 REV:
生−権力(bio politics)  ◇身体×世界:関連書籍 2005-   ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)