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『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』

水町 俊郎・伊藤 伸二 編 20050320 ナカニシヤ出版,168p.


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■水町 俊郎・伊藤 伸二 編 20050320 『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方!』,ナカニシヤ出版,168p. ISBN-10: 4888489475 ISBN-13: 97848-88489478 2100 [amazon]

■出版社/著者からの内容紹介
「吃音」は治さなければいけないのか。吃音研究者、吃音臨床家、吃音に悩んだ当事者、吃る子どもの親が、それぞれの立場から、吃音に悩み、それと向き合う ことの豊かさと、吃音者がそのままで認められる社会のあり方を提唱。

■目次
第1章:吃音の問題を、周囲の聞き手や吃音者自身の生き方をも含んだ包括的な問題として捉えることの意義・・・・・・水町俊郎
吃音研究の動機と行動療法との出会い/周囲の聞き手は吃音者をどのように見ているのか/吃音者は率直な自己表現ができているのか/吃音が改善されるとはど ういうことか

第2章:吃る人は具体的にどんなことで困り、悩んでいるのか・・・・・・伊藤伸二
はじめに/なぜ吃音の悩みが理解されないか/吃音者は具体的にどのようなことで困り、悩んでいるか/吃音の悩みを深めるもの/未来像が描けない吃音の苦悩 /おわりに

第3章:ある成人吃音者の生活史から、吃音とのつき合い方について考える・・・・・・水町俊郎・伊藤伸二・佐々木和子
どもりのままで輝きたい/佐々木の体験から考えたこと/つくられる弱者/吃音から解放されていく道筋/その後の私/カミさんの吃音

第4章:吃音仲間の出会いの意義(その1)・・・・・・伊藤伸二
はじめに/なぜ、吃音を治すのではなく、つき合うなのか/吃音とつき合うための大阪吃音教室/セルフヘルプ・グループの意義を子供にどう生かすか/吃音親 子サマーキャンプ/吃音親機サマーキャンプで起こっていること

第5章:仲間の出会いの意義(その2)・・・・・・廣嶌忍
欧米の言語治療/岐阜での吃る子どもたちへの支援

第6章:吃音はマイナス面のみか――吃音力の提唱・・・・・・伊藤伸二
はじめに/未来から吃音を捉え直す/未来への展望/なぜ、吃音のマイナス面ばかりが強調されてきたのか/なぜ、吃音をマイナスとばかり意識してはいけない のか/吃る力

第7章:吃音者の就労と職場生活・・・・・・水町俊郎
吃音者の職種は限られているのか/仕事をする上でどういうことが支障になっているのか/仕事をする上で困難に直面したとき、どう対処してきたか/就職を控 えている若い吃音者たちのために

第8章:ことばの教室でしておくこと・・・・・・堀彰人
ある成人の方の相談から/コンサルテーション・モデル/ことばの教室における支援/保護者や学級担任等に対して行われる支援/学級担任等による支援

■紹介・引用
第1章:吃音の問題を、周囲の聞き手や吃音者自身の生き方をも含んだ包括的な問題として捉えることの意義・・・・・・水町俊郎
吃音治療における行動療法では、吃音の根本的な問題は吃音者が吃ったしゃべり方をするところにあると考えるから、それを流暢なしゃべり方に変えること、つ まり、流暢性を身につけさせることが主たる指導目標となる。そのため、まずいろんな指導技法を駆使して、とにかく吃らない、流暢なしゃべり方を身につけさ せようとする。しかし、その指導の段階では多くの場合、クリニックや指導教室といった、非日常的な、限定的な場面で行われることが多いので、その次に、そ のような限られた状況下で身につけた流暢なしゃべり方を、その他の多くの場面でも可能にするための指導段階を導入することが必要となってくる。このような 指導によって、たとえ多くの場面でも流暢なしゃべり方が可能になったとしても、すぐにぶり返して再び吃り始めることが少なくない。ぶり返しの問題は、吃音 の大きな特色のひとつである。そのため、「流暢性の維持」のための指導が必要となる。
行動療法では、吃音症状を吃音の主たる問題と考えるから、その改善に重きをおく。そのために、吃音者の内面的なことへの配慮がなされない傾向にある。
吃音者の多くは、「吃ることは悪いこと、恥ずかしいこと」であり、したがって「吃る自分は人間として劣っている」と考えて、吃りそうな場面を回避したり、 吃ることを必死で隠そうとしたり、吃る自分を自己否定するというように、消極的ないし、ネガティブな人生を送りがちになる。実は、吃音の最大の問題はそこ にあるのであり、決して、流暢に話せないことそのことであるのではない。そこで吃音者に対しては、自分が吃音者であるという現実を率直に受け入れ、これま での吃ることを隠したり、吃る場面を回避することに費やしていたエネルギーを、自分なりの人生を構築していくという前向きな方向へ向けるように指導する必 要がある。そのため、吃音の指導の場合には少なくとも、吃音児・者の日常生活場面での暮らしを十分に考慮に入れた上での指導でなければならない。
また、吃音者は吃音に対する懸念の減少(どもりに対する悩みの比重が軽くなる・人前でひどく吃っても立ち直りが早く、あまり長い間気分が沈むことがなくな る等)を、吃音が改善される上で重要なことであると考えているのに対して、臨床家はそのことよりも、吃音症状が改善されることの方を重視する傾向にある。 吃音症状に改善にこだわらず、吃音に対する自らの捉え方を転換し、吃音を持ったままの生き方を目指している吃音者に対して、臨床家としてどのように向き 合っていけばいいのか。臨床家としての資質が問われているように思う。

第2章:吃る人は具体的にどんなことで困り、悩んでいるのか・・・・・・伊藤伸二
人と人がコミュニケーションを図る上で、話しことばがもっとも重要な手段であることは誰もが認めることだろう。その話しことばに障害があれば、コミュニ ケーションに大きな支障を来たし、人を悩ませることであろうこともまた、誰もが容易に想像がつくことであろう。ところが、吃音はまさにそのような問題であ りながら、その苦悩は理解されていない。だから、「ゆっくり言えばいいじゃないの」、「そんなに緊張しなくてもいいよ」と軽く言われる。「私も慌てたり、 緊張すると吃りますよ。誰にでもあることじゃないですか」とよく言われる。そのために、多くの人が吃る人に「そんなに慌てなくてもいいよ」「そんなに緊張 しなくても」とつい言ってしまう。吃音に悩む人は、慌てなくても、緊張しなくても、吃り、それが日常的に続く。そして、そのことを強く意識し、悩んでい る。吃音の意義では、吃ることがあっても、そのことを意識せず、悩んでいなければ吃音とはいわない。吃ることに悩んでいるのが吃音なのである。
吃る人の悩みの元となっているのは、吃音問題の核心といっていい、吃ることへの予期不安と、場面や語に対する恐怖である。
@予期不安――吃るかもしれないという予期→予期どおりに吃る→さらに強い予期不安→さらにひどく吃る→いっそう強い予期・・・という悪循環。
A場面恐怖――ある特定の場面で吃って失敗し、周囲の人から笑われたり、軽蔑された等の嫌な経験の積み重ねによって、以後、同じような場面に出られなくな る。
B吃語恐怖――すべての音に吃るのではなく、特定の「音」が発音できず、難発の状態になって悩み、吃りやすい語をどうしても使わなければならない場面で は、非常に不安定な心理状態になる。
ほかに吃音の悩みを深めるものとして、吃音には治療法がないといいながら、自然に変化することがあり、以前より軽くなったり、治ったという人がいるため に、自分もそのうちに治るのではないか・あと少し何とかなれば、もう少し努力すれば普通の人と同じようになれるのではないかという期待を持ってしまうこと である。吃らない自分が本当の自分だと思いたいため、吃るという現実を認めることや吃っている自分を受け入れることがかなり難しい。
社会一般の常識としても、「どもりは治る、治せる」と思われており、教員研修や言語聴覚士を養成する専門学校であっても、「吃音は治るか、治らないか」と いうアンケートをすると、「治る」と思っている人の方が多い。「吃音は治るもの」という社会通念は、吃音に悩んでいる人に、「吃音を努力して治せ」と迫っ ていることにもなる。
吃ることだけが吃音の問題をつくっているのではない。吃ることそのものが問題なら、すべての吃る人が日常の生活に大きな影響を受けているはずである。吃音 の問題は、吃るという事実をどう受けとめ、どう意味づけしているか、未来にどのような自己像を持っているかによる。吃音を大きなマイナスのものと意味づけ ることで人は悩む。吃りながら、豊かに自分なりの人生を送る人の方がむしろ多いのではないか。
「吃音を治そう」ではなく、私たちは社会に吃音の正しい情報、理解を広め、吃る人が吃っているそのままを認められる社会になるように努力していきたい。そ れは、吃る人だけではなく、吃らない人々にとっても生きやすい社会だと思うからだ。

第3章:ある成人吃音者の生活史から、吃音とのつき合い方について考える・・・・・・水町俊郎・伊藤伸二・佐々木和子
この章では、40歳代の吃音の女性教師(島根県立浜田ろう学校教諭・佐々木和子)の半生を検討することを通して、吃音との向き合い方やつき合い方について 考えるものとなっている。まず佐々木の生活史を紹介する。
佐々木が吃り始めたのは3歳の頃で、小学校1年生の時から、本読みができない、発表するのはいやという思いを持っていた。それでも4年生くらいまでは、吃 りながらも話そうと努力した。しかし、国語の本読みで一生懸命つっかえながら読んだ所を次の子に読み直しを求めた担任の先生の態度から、自分の努力は報わ れないものであることを知った。また、その後、自分の吃る姿が友だちからのからかいの対象となった。またこの頃、自分のどもりが言語障碍といわれているこ とを知る。それまで自分の話し方を"癖"と受けとめていたが、どもりは障碍だと意識させられたとき、当時の自分は「私は障碍者じゃない」、「どもりなんか じゃない」と心の中で反発し、自分のどもりの存在を否定した。どもりはしゃべらなかったら、つっかえる症状が現れなかったら、どもりとレッテルを貼られる ことはないため、どもりを隠すために、ひたすら話す場面から逃げ続けるようになった。どもりが自分の性格や生き方にまで影響を及ぼすほどの強い劣等感や嫌 悪感になっているにもかかわらず、どもりで悩んでいることすら認めたくなかった。
その頃から、発表などで当てられても、ただ黙って立って、時が絶つのを待った。吃る自分の姿を人に見られることがたまらなくいやで、自分の惨めな姿を見ら れるくらいなら、しゃべることを放棄し、「しゃべれない子」と思われる方を選んだ。授業中当てられることもなくなり、予習をしなくなった。自分にとって都 合の悪いことは全てどもりのせいにして、楽な道に逃げた。
中学3年の秋、担任が「どもりがあるばかりにこの子は力を十分出し切ることができないでいる」と熱心に言われ、母親が相談に連れていくことにした。
ことばの教室で先生に渡された本(大阪教育大学に集まった吃音者が訳した本)を読み、吃音を研究する人たちが存在し、吃音が認められている場があることを 初めて知る。それから、大阪教育大学に行くことになる。
親元を離れての大学生活は、いやでも話さなければならない逃げられない状況に追い込まれていく。そして、本当にせっぱ詰まって、覚悟を決めて話す場がだん だんと増えていった。そのように吃ってでも話そうとする自分を支えてくれたのは吃る人たちだった。
大学で多くの吃る仲間に出会い、どもりは自分だけでないことを知り、どもりでもいろんな吃り方があることを知る。実に堂々と相手の目を見て自分のどもりを ありのままに口に出し、自然体で生きている姿に、何ともいえない魅力を感じ、どもりを持っていても魅力的な人間になることができるかもしれないと思ったと き、はじめて自分のどもりを認めることに抵抗がなくなっていった。そして、最終的に教員になる。
以上の生活史から、水町と伊藤は吃音との向き合い方やつき合い方で重要なものとして「吃音は、吃ることが問題なのではないこと」をあげている。「吃音は、 吃ることが問題なのではない」というのは、吃音の問題の核心が、吃音を否定し、吃音を隠し、話すことから逃げることにあるからだ。そのことによって社会的 な経験が少なくなり、ますます失敗することへの恐れが強くなる。そして、ますます話すことから逃げるという悪循環に陥ってしまう。佐々木の場合、緊張する 場面で吃ることの多かったため、朗読や発表が苦手だった。たとえ苦手であっても、そのことを担任教師が真剣に受けとめ、朗読について話し合うことができれ ば、相談の上で、朗読や発表にどう対処するかを考えることができた。しかし、現実に子どもと真剣に向き合わない教師によって、吃る子どもたちは弱者へと追 いやられていく。本来しなければならないことを「かわいそう」だからと、「傷つけるのはよくない」と、周りの人が放棄させてしまった。佐々木は指名されな いと分かると、しなければならない英語の予習をしなくなった。どもりは都合のいい言い訳であり、免除される格好の条件だった。学校生活の中で、こうして吃 る子どもは教師の配慮によって弱者の立場に追い込まれていく。そうしたなか、彼女は大阪に行き、生活の場面で少しずつ話すこと、吃ることを始める。吃りな がらも前向きに生きている人を知ったことは、彼女の大きな転機になったのだろう。
最後に、佐々木は自分のどもりをどうして認めることができるようになったのかについて、次のように述べている。社会に出て仕事に就き、自分のどもりと向き 合い葛藤する中で「まあいいか」という気持ちになっていった。流暢な話し方ができない自分、ブロック症状が激しくて立ち往生している自分、緊張すると何を 言っているか相手に伝わらないほどに吃ってしまう自分・・・・・・さまざまな自分の姿を「まあいいか」と諦めることができるようになった。つまり、「諦め た」から――明らかに見極め、こだわらなくなったからだと。

第4章:吃音仲間の出会いの意義(その1)・・・・・・伊藤伸二
筆者は吃る人のセルフヘルプ・グループを設立し、活動している人である。この章では、その体験に基づき、仲間との出会いの意義について述べられている。
筆者は、筆者の活動の経験から、次のことを確信したという。
・吃音症状は変化し、吃る人の吃音に対する考え方や態度も変化する。
・人が変化するのは、日常生活の中にある。
吃音は変化するのが大きな特徴である。幼児期には自然治癒や波現象があり、学童期の子どもは、充実した楽しい学校生活で変化する。成人にも波があり、吃る 場面とそうでない場面がある。以前よりは吃らなくなった人にも多く出会うが、それらの人は吃音を治す努力をしていない。したい仕事に就いた、楽しい豊かな 人間関係があった、話さなければならない立場になったという人たちだ。
その人に内在する自然治癒力といってもいい「変わる力」と、日常生活の充実によって自然に吃音は変化していくものだと考えていいだろう。吃音は治療法を模 索するより、自然治癒力とでもいえる「変わる力」はどう育つか、それをどう引き出すかを模索することが必要である。
その「変わる力」をサポートするものに、セルフヘルプ・グループがあげられる。このセルフヘルプ・グループの最大の意義は、「吃音は悪いもの、劣ったも の、恥ずかしいもの」と周りから貼られたスティグマを仲間と共に剥がしていくことにある。「吃音を治し、改善する」を目指すのではなく、吃音を否定せず に、「吃っている事実」を認め、自分らしく生きる道・吃りながらも自分なりの豊かな人生を送ることができることを、知らせていくものでもある。
セルフヘルプ・グループで主に行われていることは、吃音と共に生きる道を探るために、同じように悩む子どもや大人と出会い、自分のことばで吃音について話 すことである。そうすることによって、吃音は自分だけではないということを知り、自分のどもりの体験などを語ったり、どもりでからかわれたときの対処法を 仲間に教えてもらったりと、吃音に対する捉え方を身につけていく。早期にそれらのことができれば、吃音と向き合い、吃音を認め、吃音から大きなマイナスの 影響を受けずに生きる道筋に立つことができる。

第5章:仲間の出会いの意義(その2)・・・・・・廣嶌忍
筆者は岐阜で、吃らないで話すことにこだわらない子どもたちへのグループ支援を実践している。その支援の特徴は、吃音を治すのではなく、子どもたちが吃音 とうまくつき合えるようになることを目的とした活動であるところである。
吃音児のためのデイ・キャンプは岐阜吃音臨床研究会が毎年2回、吃音児とその家族を対象としている活動である。参加者は吃音児とその家族、および、スタッ フである小学校や幼児の施設の指導者、成人吃音者である。そこでは午前中はレクリエーション活動、午後は大人と子どもに分かれて、吃音の話し合いを実施し てきた。その話し合いで、子どもが自分以外の吃る子どもに出会うことで、吃音であることの孤独感を軽減させることが目的であった。子どもたちからは「他に 吃る子がいて安心した」という感想を聞くことができた。さらに、そこでは同じように吃る仲間がいるという安心が、吃音をオープンにできる自信につながると 考えられる。
このように仲間に出会うことは、こうした吃音への価値観を考えるためにはとても重要な経験になると考えられる。デイ・キャンプに参加する年齢の子どもたち には難しい課題であるとも思えるが、吃音でいじめられたらどうするかなどに自分なりの意見を述べている小学生の子どもたちを見ると、仲間を見つけ、お互い の吃音に対する気持ちや思いを話すことは、次第に「したい」と「できる」のバランスを理解していく一助になると思われるのである。
吃音に対して効果的な言語治療の方法がない現状では、「吃音に対して吃音があってもいい」と思えることが非常に重要であると考えられる。吃音があってもい いと思うことは決して吃音の言語治療を否定するものではない。しかし、吃音を消失させる目的の言語治療からは養うことのできない考え方である。個別支援、 集団支援を通して、吃音のある子どもが吃音とうまくつき合っていくことができる吃音の支援が、今、とても重要視されている。

第6章:吃音はマイナス面のみか――吃音力の提唱・・・・・・伊藤伸二
筆者によれば、筆者が吃音に悩んでいたとき、なぜ「治す、軽くする」以外考えられなかったかというと、吃音に関する情報全てが「吃音は治る、治せる」一辺 倒だったからだという。その情報の中で、吃音に悩む人が「治したい」と思うのは自然なことだが、高い費用と時間をかけてでも、治さなければならないと親や 本人に思わせるには、吃音が人生にいかに大きなマイナスとなるかということを強調しなければならない。それは、吃る子どもや吃る人の幸せを願っている吃音 の研究者や臨床家が「ひどく吃っていては決して有意義な人生は送れない」と吃音症状へのアプローチを重視し、それによって吃音のマイナス面を強調すること になり、本人の意図する善意から離れて、吃る子どもや親、吃る人本人を結果として苦しめることになったからである。
しかし、吃音は薬や手術があるわけではなく、本人の努力で軽くしたり、治せるものでもない。治せないものを、「私は私のままでいい」を考えないと、自己を 否定し、話す場面に出ていけなくなる。つまり、吃るという事実をどう意味づけるかによって、吃音に悩むのも、吃音に影響されるのも大きく変わっていくので ある。
筆者は、吃音に悩む人にとって、何よりも大切なのは、吃音と共に生きる人生が未来に開かれていることを実感することであるという。それは、吃音をマイナス のものとだけ考えるのではなく、プラスの面もあるということ、吃りながら人々はさまざまな仕事に就き、自分らしく生きているのだという事実を知ること、そ してさらに、実際に吃音と共に生きている人と出会うことであるという。そうすることによって、未来を見つめることができるし、その未来から過去の苦しみや 悩みを意味づけし直すことができる。過去の事実や現実の事実をどう意味づけするかによって、新たな自己概念が形成されていく。その意味づけによって、新た な人生を歩み出すことができる。それは、人生いつでもやり直しができるということにほかならない。どのような現在であっても、未来の視点から意味づけをし 直すことができ、その時点から過去や現在とは違った新たな人生を展開していくことは可能である。それは、自分の意思で切り開いていけるものであるからだ。

第7章:吃音者の就労と職場生活・・・・・・水町俊郎
吃音者の職種といえば、あまりしゃべらなくてすむと一般的に考えられている仕事、たとえば図書館の司書やエンジニアのようなものに限られているのではない かと思われがちだが、実に多種多様である。一番多かったのは公務員、次いでプログラマーや設計技師などの技術者であった。ここでとくに注目すべきことは、 一般に仕事を遂行する上でコミュニケーションがとても重要な役割を果たす職種であると考えられている学校の教諭、セールスなどの営業職が上位を占めている ことと、総合病院の受付、医師、看護師、サービス業(接客業)など、人と直に接する仕事の分野に吃音者が進出していることである。
仕事に就いている多くの吃音者は、自分の吃音の問題が完全に解決されたから就職できた訳ではなくて、相変わらずその問題と対峙しつつ職務に励んでいる。
多くの吃音者は仕事をする上で困っていることとして電話を挙げることが多いが、その他にもいろんなことで困難を感じている。その例として、人前での発表・ 報告や伝達・人間関係が挙げられる。
仕事をする上でこのような困難に遭遇しているが、彼らはどう対処しているのだろうか。
例として、吃りながらも積極的に取り組む・気にしないようにする・前もって工夫する・義務感や責任感に基づいて行動する・吃らない練習をする・どもりを公 表する・結果としてどもりに対するこだわりを弱める行動をする・その他(森田療法や吃音者宣言との出会い)が挙げられた。

第8章:ことばの教室でしておくこと・・・・・・堀彰人
ことばの教室は、もともと一対一の個別指導を出発点としてきたが、近年、さまざまなニーズから、小集団指導を行うことも増えてきている。吃音児同士の交流 に取り組むことも、その中の一つである。ゲームなどを通して、出会い、自分と同じ課題で通う友だちと知り合う。そして、自分の学校生活での課題などを語り 合い、吃音の問題にもふれ合っていく。場合によっては、ビデオレターやメールの交換という間接的な方法をとることもある。ことばの教室を終了したした後 も、支え合う場となっていく場合もあるだろう。
なお、このような活動や出会いを通して、吃音を自分の一側面として向かい合えるようになり、自らの吃音をめぐって小冊子を作成したり、総合的な学習の時間 のテーマに吃音を選択したりする。「吃らなければと思うことは多いけど、吃っても大丈夫。絶対ダメとも思わない」など自分と吃音との関係を深く見直した例 も見られる。
従来、「吃らなくなるために」という方向性を持って、そのために関わり方を改めるなど、保護者や学級担任がすべきことを求めるというかたちで連携が進めら れてきたところが多い。基準は吃音の状態にあった。ややもすると、吃音が増加することにびくびくしながら、子どもに対する関わりの方向を決定したり、ま た、決定に迷ったりすることもあった。しかし、将来像を考えながら、共に見つめていくのは、まず子どもの内面であり、子どもがいかに周囲や状況に向かい合 い、そこでいかに自分を広げていけるのかという点である。
そのため、保護者や学級担任と取り組む上で重要なことは、いかに視線を吃音症状から、コミュニケーションや行動全般へ広げていけるかということである。
学校生活の中で吃音をめぐって、何らかの困難さを子どもが感じており、しかも、自分ひとりでなかなか解決できないでいるとき、その困難さが軽減すること で、学びやすさや過ごしやすさが変わってくることは重要なことである。こうした課題は、言語指導を継続した後にその成果として解決されることを待つばかり でなく、何らかの工夫により、早期に解決できることも少なくない。また、そのような課題について子どもと学級担任との間でフランクに話せるようになること も大切である。


*作成:田中慶子(先端総合学術研究科)
UP:20070810
BOOK ◇障害学
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