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『いのちの平等論――現代の優生思想に抗して』

竹内 章郎 20050224 ナカニシヤ出版,(シリーズ「人間論の21世紀的課題」3)176p.


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竹内 章郎 20050224 『いのちの平等論――現代の優生思想に抗して』,岩波書店,253p. 2900+税 ISBN-10:4000221477 ISBN-13: 978-4000221474  [amazon]※ eg eg-bg

■内容(「BOOK」データベースより)
脳死・安楽死問題や、出生前診断・遺伝子組み換えなど、生命操作をめぐる議論にひそむ、差別と排除の論理を告発する。

内容(「MARC」データベースより)
脳死・安楽死問題や、出生前診断・遺伝子組み換えなど、生命操作をめぐる議論にひそむ、差別と排除の論理を告発。先端医療技術のもろもろの事例を採集し、 看護と介護の現場に立って「弱者」のための生命倫理を考える。

■著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
竹内 章郎[タケウチアキロウ]
1954年生まれ。専攻、社会哲学・生命倫理学。一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。岐阜大学地域科学部教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■概要
 「安楽死」、「重度障害者の死ぬ権利」や「脳死」、「臓器移植」「生殖医療」などについて「今では生命倫理学としてまとめられる分野」として語られてい るが、果たしてそれは「生命倫理」の問題として語られるべき問題なのか、その前に問わなければならない「なぜ」があるのではないか、ということに本書は貫 かれている。市井に生きる日常意識では、根拠なく「やむをえざること」と思わされていることを、「なぜその事は起こるのか。」と再度問いただし、上記のよ うな問題が、「生命倫理」の問題として捉えられる以前に、この「社会や文化」の何がその事を起こしたかというところを起点とした立論を目指すべきであると する著者の視点は、「真のいのちの平等」を考えることを阻んでいる大きな要因の一つとして、「能力主義」へと向かう。

■目次

はじめに
T いのちを守る
第一章 「弱者」のいのちを守るということ−「重度障害者」が提起するもの−
1 「安楽死」は「本人のため」か
 (1)「安楽死」を語るということ
 (2)人間をみる眼
 (3)激痛はしかたないか
 (4)生命のなかの社会・文化
2 優生思想はどこに
 (1)不十分な学問
 (2)「自然な」とは
 (3)近代的ヒューマニズムの弱み
 (4)<健康>対<病気・障害>か
3 人間性を求める営み
 (1)人間らしさと「定まった生活過程」
 (2)「重度障害」ということは?
 (3)社会・文化の「水平的展開」へ
第二章 「脳死」論の帰結を考える
1「脳死」という一点からの全面把握
2「脳死」に内在する臓器移植
3 自然科学主義的・啓蒙主義的「脳死」論
4 哲学学主義的「脳死」論
5 博愛主義的「脳死」論
6 「脳死」を真に把握しうる哲学を!
第三章 死ぬ権利はまだ正当化できない cf.安楽死・尊厳死
1「死ぬ権利」論を反駁する手順
2「死ぬ権利」論の横行
3「死ぬ権利」を助長する現実的基盤
4 倫理学的問い全般からの論点
5 やむをえざる死、歴史的産物としての死
6 自己決定論の陥穽
7 生命自体の自己保存・自己存続志向
U 能力の共同性論のために
第四章 病気と障害から能力問題を考える
1 能力主義をとらえる視覚
2 三つの病気観
 (1)特定病因論的病気観
 (2)社会医学的病気観
 (3)分子生物学的遺伝学的病気観
3 病気観の位相
4 二つの障害観
 (1)<「障害(者)」である人>から<「障害」をもつ人>へ
 (2)能力「不全」自体の関係性 −小括をかねて
5 <障害=損傷と社会との相互関係自体としての能力不全>と<「障害」を持つ人>
第五章 身体は私的所有物か −身体と能力をめぐる私有と共同性−
1 身体をめぐる哲学と社会科学
2 私的所有の対象としての身体
3 私的所有における分離と共同性
4 身体の共同性論の射程
第六章 能力にもとづく差別を廃棄するために−近代主義と向き合う−
1 能力上での「弱者」差別の存在
2 市民社会期の「能力」による差別の歴史的位置
3 能力にもとづく、ということも制度次第
4 個体能力観の克服へ
5 「能力の共同性論」の必要性
6 能力論と責任論との結合を
V 先端医療と倫理
第七章 先端医療技術は何を隠すか
1 先端医療科学・技術の「進歩」をどう問うか?
2 出生前検査・診断技術の概要とその一般的評価
3 羊水検査以降の「進歩・発展」の表裏
4 出生前検査・診断技術が隠すもの
5 隠されたものによる差別・抑圧の克服を
第八章 生殖技術と倫理との関係を問う−商業的優生学との対抗−
1 生殖医療を問う枠組み
2 認識哲学・認識論的枠組み
3 社会哲学・価値論的枠組み
4 最大の差別・抑圧としての死および死に近い生のはなはだしい軽視
5 健康願望と現代の商業的優生学−市場(商業化)・資本の論理との関係−
6 哲学の現実化としての全ての生と生活の実現
おわりに

【紹介者のコメント】
 この本で取り上げられている、「安楽死」、「重度障害者の死ぬ権利」や「脳死」、「臓器移植」「生殖医療」は、どれをとってもある特定の人にしか関係の ないことだとは言えない問題である。
 しかし、われわれは、社会の中で「できる」うちはその事について思考停止し、自分ではない他の人の問題として脇においやってしまっていることが多いかも しれない。そして、自分が障害、老い、病気や死に直面し、上記のような問題に出会ったときには、もう何も「できない」自分になってしまった、それなら死ん だ方がましか、と考えるか、もしくはできなくなったのだから「やむをえ」ないとして社会から厄介払いされても、社会とはそういうもの、と力なく、大きな疑 問も持つことなく諦めてしまうことが多いのではないだろうか。
 1970年代には、そのことに異議を唱えて社会に出て行った障害を持つ人々の運動があったことを学んだ。
 「できない」と思われている人は、社会・文化のあり様が変化すれば、「できる」のだということの実践であった。「能力がある」とは、その時代の社会・文 化を反映し評価される、相対的ないわば流行モノである。もし個人の能力がその身体に固着のもので流行には左右されないのならば、現代人のように、常に恐怖 を抱え、「弱者」のレッテルをはられまいと真の主体を失って、自己の身体すら交換の中に投げ出して、命を削りながら働かなければならないこともないだろう し、さらにたくさんの「資格」や「能力」を「持つ」ことに奔走する必要もないだろう。著者は「できる」ことが優位にされる「垂直的な発展」のもとで、優生 学が自明視される状況となっていることを問い直し、「できない=能力不全」状況を生み出す個体能力観を克服するために、「能力の共同性」を唱える。現在、 社会全体にはびこっている個体能力観を変革していくことは、政治や経済のシステム、文化のあり様、個人のお金や能力に関する強迫観念などを180度転回す るようなことであろう。
 しかし、「弱者」とされている人たちだけではなく、われわれ一人一人が真に安心できる社会を創造していくためには、避けることができない困難なのかもし れない。
 脳死で消極的安楽死状態になった患者の隣である年老いたその患者の姉が、「あんなに悲惨な状態になるくらいだったら、自分は死んだ方がましだから、ああ なったら死なせて。」というのを聞いたことがある。
 また古くから「ポックリ信仰」などと呼ばれ、周囲の人の迷惑にならないようにポックリと死にたいという、民間の信仰、願望がある。このように、素朴で もっともだと思われるような物言いの裏にも、「弱者」に対する無意識の、排除や抑圧、差別が隠されていることに気づく必要がある。そして裏返せば、それは われわれ自分自身の「弱者」の部分をも抑圧することになっているのだ。

【内容紹介】

はじめに
「生命倫理学やその主流派の議論の多くが、いわばベッドサイドストーリーや狭い医療空間や個人間関係などの場に拘泥し、そうした場での細かい規則や行動原 則論に終始しがちで、生命・生存をめぐる生命倫理が、大きな意味での政治的議論や、社会や文化全体の変革や、人間性の内面の革新などと真には結びつくこと ができず、結果的に、生命倫理に関するもっとも深刻な諸問題の解決の展望が見出せないようになっている。これら諸問題を解決したいーベッドサイドストーリ に内在しつつー。」(x-xi)

T いのちを守る
第一章 「弱者」のいのちを守るということ−「重度障害者」が提起するもの−
1 「安楽死」は「本人のため」か
「「まるで存在そのものが苦痛であるような姿」の「重度障害児」は「死んだ方が本人のためであろう」ということになるんでしょうか?いわゆる「安楽死」の 問題は、根っこのところでは、こうした「重度障害児」をめぐるさまざまな問題ともつながっているのではないでしょうか。」(p.3)
 (1)「安楽死」を語るということ
非同意的安楽死(現在の文化においては、その「意思」が他者には伝わらない人に対し、「本人のため」に実施される)は、もっとも議論の余地がある。「「本 人の最上の利益」が死であることは、何の留保も必要としないものなのか?「本人のため」とは、どんなことなのだろうか。」(p.5)
 (2)人間をみる眼
 「「重度障害児」や「重症患者」本人の状態の把握自体が、彼らを取りまく人びと、ケア、さらには社会・文化のあり方によってまったく異なる。」
「死にまさる「悲惨な状態」という認定によって、死を「本人の最上の利益」だとする命題も、社会的・文化的広がりをきわめて狭いものとしてとらえたり、こ れをまったく捨象してしまうがゆえにでてくるものかもしれない。」(10p)
 (3)激痛はしかたないか
 「激痛を不可避とする現実とは何かについて、あらためて考えてみる必要がある。」(11p)
 「激痛制御にほんとうに取り組んだ医療・ケア、これらを実現しうる社会・文化がないがゆえに、死をもってして、「本人の最上の利益」だとする判断を正当 化するような、つらい激痛が存在していることも多々ある。」(13p)
 (4)生命のなかの社会・文化
 「「抽象的に考えられた自然、それだけで、人間から分離して、固定された自然は、人間にとって無である」(MEW.E[587,238])にならってい えば、「抽象的に考えられた生命、それだけで、人間=社会から分離して、固定された生命は、人間=社会にとって無」」(15p)
 「最も大切なことで分岐点となることは、「重度障害者」等々の生死を左右する「本人の最上の利益といった、日常意識的には、いわば諸個人の内奥にのみ成 立していると考えられていることが、彼らに直接かかわる人びとやケアのみならず、広く社会的・文化的諸関係自体といった、いわば諸個人にとっての外側と しっかり結合していること、このことへの視座を持ちうるか否かなのだ。」(16p)
2 優生思想はどこに
 (1)不十分な学問
 「社会の学問と生物の学問とが「切れている」がために、その自然的非同一性をはじめとして自然性・生命のレベルでの深刻な問題がいやおうなく表面化する 「重度障害者」については、社会的・文化的諸関係を議論することが、通常の場合にくらべてよりいっそう困難になり、社会的・文化的諸関係を捨象した「孤立 的抽象的生命」把握が跳梁する。」(18p)
 (2)「自然な」とは
  「「自然」によって社会や文化に関する当該事態を正当化するということは、正当化機能を「自然」に求めるという、最も説明を要する歴史的で社会的・文 化的な営為を不問に付すことのあからさまな表明にほかならない。」(24p)
 (3)近代的ヒューマニズムの弱み
 「病気の治療や「障害」=損傷の軽減、さらには個人的な成長といった、諸個人レベルでの生命の質や能力が「優れること」を直接めざすうえで不可欠の、か つヒューマニズムに満ちているはずの日常的諸営為が、他方での、能力主義差別の容認のもとで営まれる限り、平等思想自体が優生思想をかかえこんでいくとい う発想が顕現しないという保証は「ほとんど」何もない。」(25p)
 (4)<健康>対<病気・障害>か
 「一般に病気・「障害」を治療・軽減するというヒューマニズムにのっとった営み自体が、資質や能力が「劣等」なことを排除し、「正常で健康」な人間的 「自然」を求め、さらには「優生」であることを求める営みである。」(29p)
3 人間性を求める営み
 (1)人間らしさと「定まった生活過程」
 「諸個人ごとに自らの日常的な直接の守備範囲だと意識している「定まった生活過程」はきわめてせまいものであり、その生活の過程の内部で人間らしさを求 めていたとしても、きわめて限定されたものである。」(35p)
「私たち自身がきわめてせまい「定まった生活過程」の内側に閉じ込められ、人間らしさを求める営みを中断・放棄していることの事例には、「障害者」に対す る差別・抑圧や優生思想・能力主義の容認などをはじめとして事欠かない。」(p37)
 (2)「重度障害」ということは?
 「「ダウン症をもつ胎児=重度障害胎児」といういい加減な「言葉」をふりまくことが、「重度障害胎児」はその「障害」ゆえに中絶実施判断の対象となって よいという特定の「定まった生活過程」に符合した偏見に満ちた常識をいっそう強固なものにし、無限に連続している人間らしさを求める営みの中断・放棄に拍 車をかけ、かつこうした傾向を自明視させてしまう。」(p.41)
 (3)社会・文化の「水平的展開」へ
 「私たちの常識としての能力や教養や文化や生活などの尊重と、それらの豊かさへの期待には、比喩的にいえば、ちょうどエスカレーターや階段を下から上へ 昇っていくような、いわば「垂直的な発展」へのかたよりがなかったでしょうか?逆にいえば、エスカレーターや階段の無数の各階ごとのフロア−にあるはず の、能力や教養や文化や生活のいわば「水平的な展開」やそこにおける能力や教養や文化や生活の豊かさや人間らしさということに、あまりにも無関心ではな かったでしょうか?」(p.43)
「「安楽死」が問われたり、「重度障害者」の人間性を云々したりしているだけのようにみえる、いわゆる生命倫理の問題は、じつは私達にこれまでの文化や能 力や教養等々のとらえなおし(これは、当然、生産力のとらえ直しにまでいたりますが)と、それらの改造・社会そのものの改造という課題を、改造の原理的な 方向性の転換を含めて、つきつけているのです。」(p.45)

第二章 「脳死」論の帰結を考える
1「脳死」という一点からの全面把握
2「脳死」に内在する臓器移植
 「進行性脳不全という病態を死の判定の対象として「脳死」を規定し、さらには、この病態の人を「脳死体」などと規定するのは、今のところ、できるだけ新 鮮な臓器が欲しくて、心拍停止以前の病態の患者から臓器を取り出す臓器移植を、殺人罪などの恐れなしに円滑に行なうためでしかない。」(p.48)
3 自然科学主義的・啓蒙主義的「脳死」論
 「「脳死」という規定自体についても、これらが医学的死とか生物学的死だ、といった自然科学レベルでまず議論できる、という自然科学主義自体が基本的に 間違いである。(p.50)このように自然科学主義が間違っていれば、(中略) 自然科学主義を自明の前提とする啓蒙主義が正当であるわけがない。」 (p.51)
4 哲学学主義的「脳死」論
 「「脳死」を人の死と規定することの原理論と称して、社会や文化の現実から離れた「正当化できる何か」や、エシックスやその論理的思考の固有性を持ち出 す哲学学主義も、見かけ上での厳密で普遍的な議論にもかかわらず、きわめて問題が多い。」(p.54)
5 博愛主義的「脳死」論
 「「脳死」判定以後は自らの臓器を他者の生に役立てることを希望するドナーがおり、他方に、その臓器提供とこれによる生の持続を希望するレシピエントが いる。」(p.56) 「しかし、博愛精神にあふれた臓器移植論や「脳死」論と臓器移植および「脳死」の現実とがまったく異なることに気づかねばならな い。」(p.57)
6 「脳死」を真に把握しうる哲学を!
 「把握すべき一点たる進行性脳不全状態を、社会や文化全体に通じる真の全面展開への契機とするために、当該の一点の規定の内部に、あらかじめ社会的・文 化的内容を、とりわけ臓器移植にまつわるすべてを取り入れなくてはならない。」(p.61)

第三章 死ぬ権利はまだ正当化できない
1「死ぬ権利」論を反駁する手順
2「死ぬ権利」論の横行
 「七〇年代半ばまでは、否定ないし消極的にしか主張されなかった「死ぬ権利」とこれにもとづく「死なせること」の正当化論は、八〇年代にかけて大きく変 化し、現在に至るまで、社会的趨勢としては「死ぬ権利」の積極的な正当化論が根強くなっている。」(p.68)
 「こうして、悲惨な生とか、無意味な生といった話をさんざん聞かされれば、たしかに「死ぬ権利」や「死なせること」を正当化する議論は、日常意識にとっ ても、いかにも当然のごとく聞こえるかもしれない。ところが(中略)当然どころかきわめて多くの欠陥を持っていることがわかる。」(p.71)
3「死ぬ権利」を助長する現実的基盤
「既存の社会・文化の多くは「弱者」については、たんなる延命や悲惨で苦痛に満ちた生および差別される生に帰結するような在り方、また、「効率」や「利 便」のみを追求して「健常者至上主義」的な「高度な」社会・文化のあり方をしてきた」。(p.73)
「「健常者」モデルを超えうるものへの志向、すなわち「能力」的に「弱者」とされる存在に適合したコミュニケーションをはじめとする諸技法への志向、つま りは「社会・文化の水平的展開」への志向が、あまりにもなおざりにされてきた。」(p.74)
4 倫理学的問い全般からの論点
 「「死なせること」の正当化の是非の議論について、「なぜ、そうした諸事態が生じるのか?」という「なぜ1」への問いが無視されたまま、「なぜ、そうし た諸事態が正当化されうるか否か?」という「なぜ2」ばかりが、問われてきた。」(p.84)
5 やむをえざる死、歴史的産物としての死
 「プラトン、セネカ、モア、ベーコンの死に関する言説についても、(中略)種々の意味で現世の生が、かの論者達によれば、あまりにも悲惨で耐え難いもの であるがゆえに、「やむをえざること」として、死が容認されたにすぎず、生の尊重に類比しうる真の意味での死の尊重ではない。」(p.101)
6 自己決定論の陥穽
 「「死ぬ権利」の行使をリベラリズム的な自己決定として正当化することは、自己決定という名に値しない可能性が、きわめて高い。第一に、「死ぬ権利」行 使の前提となる、情報および決定機会がきわめて限定されている、という問題。第二に、個人還元主義的な生命の質の判断が前提されているにもかかわらず、自 己決定の名のもとに選択の自由が標榜され、この生命の質の判断自体が隠微される、という擬制の問題。」(P.107-108)がある。
7 生命自体の自己保存・自己存続志向
 「ここで考えるべきは、人間の「生命自体の自己保存・自己存続志向」が、これを阻害する社会的・文化的諸要因が存在しなければ、生物学的還元主義として ではなく、なおかつ生命自体にそくして想定しうるということである。また、この想定に立つ限り、生命体としての人間が死ぬことを欲したり、自殺を望ましい モラルとすることはありえない。」(p.115)

U 能力の共同性論のために
第四章 病気と障害から能力問題を考える
1 能力主義をとらえる視覚
 「「いじめ」をその典型とするような差別・抑圧現象が示していることは、「力の弱さ」や「動作の鈍さ」といった、本来は「自然的」差異に含まれてよいは ずの事柄が、差別・抑圧に直結している、ということなのである。」(p.125-126)
2 三つの病気観
 (1)特定病因論的病気観
 (2)社会医学的病気観
 (3)分子生物学的遺伝学的病気観
3 病気観の位相
 「<「病気」をもつ人>というイデオロギーが、特定病因論の該当する領域の問題に留まらず、人間存在と「病気」による能力「不全」とを無媒介に結合する 傾向を防いでいるように思われる。ところが現在では、さらに<「病気」をもつ人>を着実に崩しながら、<「病気」・「障害(者)」である人>をよりいっそ う強化する新たな問題が生じている。」(p.143)
4 二つの障害観
 (1)<「障害(者)」である人>から<「障害」をもつ人>へ
 「<「障害(者)」である人>というイデオロギーは、・・・「障害」や能力「不全」を、人間存在の平等性の否定という方向で人間存在に無媒 介に結合し、したがって「障害者」の人間存在を能力、さらには異形などといった点から劣等視し、差別・抑圧するために強大な力を持っている、といわねばな らない。」(p.146)
 (2)能力「不全」自体の関係性 −小括をかねて
 「人間存在と「障害」および「障害」ゆえの能力「不全」とを分離的に関係させることによって、一方で「障害」に関するいっさいを人間存在の平等性の否定 の根拠にすることに反対するためであり、他方で人間存在の平等性を抽象化させず、個人に固着したものとしての「障害」ゆえの能力「不全」という不可避の事 柄を踏まえて、人間存在の平等性を具体的に擁護する。」(p.149-150)
5 <障害=損傷と社会との相互関係自体としての能力不全>と<「障害」を持つ人>
 「いかなる「重度障害者」に関しても、強固な<障害=損傷と社会との相互関係自体としての能力不全>というイデオロギーに媒介された、<「障害」をもつ 人>というイデオロギーが貫徹しうるか否かが、「病者」や「障害者」などの「弱者」の問題をとらえるうえでの分水嶺である。」(p.155)

第五章 身体は私的所有物か −身体と能力をめぐる私有と共同性−
1 身体をめぐる哲学と社会科学
 「身体論と私的所有論との媒介がなかったのは問題ではなかろうか。」(p.158)
 「「自己固有のもの=所有」としての身体の把握と、共同性としての身体の把握が真に媒介できれば、身体論の領域から、人間観一般における個別性と普遍性 との統一的把握につながる原理的論点する提起できる。」(p.160)
2 私的所有の対象としての身体
 「共同体や共有のものを「奪われた」ということは、身体をも奪われた私的所有主体という主体的(主観的)世界と、価値法則に支配された交換価値の担い手 という客観的世界をもたらす。」(p.167-168)
3 私的所有における分離と共同性
 「皮膚によって閉ざされない生理的境界を越えて広がった身体、つまり共同性としての身体を真に実現するには、以上のような疎外され分裂を生み出す使用価 値や共同性のあり方を廃棄し、使用価値や有用性レベルでの抑圧や排除を廃棄する展望と合体されるべきである。」(p.173-174)
4 身体の共同性論の射程
 「生理的身体像を真に克服し、身体の共同性を真に論じるのであれば、それは、遺伝病という、大問題をはらむ遺伝子次元にまで拡大されるべきである。」 (p.177)

第六章 能力にもとづく差別を廃棄するために−近代主義と向き合う−
1 能力上での「弱者」差別の存在
 「弱者」の尊厳は、能力にもとづく差別によって侵されている。(p.179)
2 市民社会期の「能力」による差別の歴史的位置
3 能力にもとづく、ということも制度次第
 「能力にもとづく差別を生むシステム(制度)の変革なくしては、「弱者」の尊厳の恢復/創造はあり得ない。では、能力にもとづく差別を克服しうる制度と は、いかに?能力差にかかわらない配分・処遇が可能な制度を!はひとつの解答だろう。だが、「弱者」の尊厳に資する配分・処遇とこれを実現する制度は、能 力差に応じて適切でなければ意味がなく、能力差にかかわらず、という発言だけでは済まされない。」(p.185)
4 個体能力観の克服へ
 「ドゥウォーキンは、能力の分布の共有資産ではなく、ちょうど累進課税制による財貨の再配分部分と同じように、能力自体を共有資産とみなし再配分対象と している。この論点を保持しつづけているなら、ドゥウォーキンは、<能力の平等>とそのための<能力の再配分>を主張していることになり、ロールズ以上 に、個人所有の能力の特定と能力にもとづく差別との連動を遮断し、個体能力観の克服に駒を進めたといえる。」(p.189)
5 「能力の共同性論」の必要性
 「個体能力観を超える能力把握を、私は、「能力の共同性」と名づけているが、単純かつ抽象的に規定すれば、能力の根幹は、《当該諸個人の「自然性」と諸 環境や他者(社会的生産物等も含む)との相互関係自体》ということになる。」(p.194)
6 能力論と責任論との結合を 
 「個人責任の所在と、個人的善の追及やインセンティブの所在、さらには個人の自由自律性」(p.198)
「「弱者」の傷つき易さ自体がわれわれとの関係において存在するのだから、傷つき易さの補填の責任はわれわれにあり、この「傷つき易さ」および「左右され 易さ」という概念の中核にあるのは、両者が関係的だという事実なのである。・・・たしかに関係規定が中心であるだけに、傷つき易さ(「弱者」の能力)自体 の特定とその補填をめぐっては、固有の困難があろうが、その克服こそ目指すべきではないか。」(p.199-200)

V 先端医療と倫理
第七章 先端医療技術は何を隠すか
1 先端医療科学・技術の「進歩」をどう問うか?
 「われわれの多くは、生殖医療技術の「進歩・発展」にあまりにも目を奪われすぎ、生殖医療技術それ自体が抱える否定面、つまり差別・抑圧、優生思想に正 面から立ち向かってこなかったのではないか。」(p.207)
2 出生前検査・診断技術の概要とその一般的評価
 「出生前検査・診断技術については、胎児や親を直接検査するために、多様な科学・技術が統合されたものとしてとらえるとともに、選択的人工妊娠中絶、病 気・障害の定義、障害をもつとされる人(胎児も含む)や女性に対する差別・抑圧を含むものとしても、とらえる必要がある。」(p.207-208)
3 羊水検査以降の「進歩・発展」の表裏
 「「進歩・発展」に収斂される安全・効率・便利・安心といったことは、一度は疑ってみる必要がある。・・・かならずしも安全性や確実性の向上をともなわ ないからである。」(p.214)
4 出生前検査・診断技術が隠すもの
 「なぜ、出生前検査・診断技術という科学・技術が開発され世に出ることになったのか。」(p.216)・
その日常性、利用しやすさ、商品化による物化、社会保障の削減、利潤動機、妊娠中の生活などの問題が隠されている。」
5 隠されたものによる差別・抑圧の克服を
 「能力が低いとされる人に対する差別・抑圧の構造と、これの屋台骨をなす優生思想は、出生前検査・診断技術の「進歩・発展」によって隠される多くの事柄 を通じて、より一層強化され、進化・拡大されつづけるのではなかろうか。」(p.226)

第八章 生殖技術と倫理との関係を問う−商業的優生学との対抗−
1 生殖医療を問う枠組み
 「新優生学としての商業的優生学」の深刻さを明らかにし、またその克服を志向しつつ、・・・一般には市場万能、「国家」根源悪、「自由」重視の三点に
よって特徴づけられる新自由主義との関連も重視したい。(p.230)
2 認識哲学・認識論的枠組み
3 社会哲学・価値論的枠組み
 「教育などによる人間・社会・文化の操作(変革)と、生殖医療・遺伝子操作による遺伝形質の操作とを価値論的に等価とみなして、この両者の「距離」を無 媒介に無にする問題であり、これに関わって、能力・遺伝子の私的所有(権)を単純に正当化する問題である。」(p.234)
4 最大の差別・抑圧としての死および死に近い生のはなはだしい軽視
 「死に近い生の軽視が蔓延して、弱者排除を旨とする優生学がより介入しやすいことを、今こそ研究者はもちろん、いや多数の研究者は頼りにならないがゆえ に、庶民すべてが真剣に考えるべきであろう。」(p.238)
5 健康願望と現代の商業的優生学−市場(商業化)・資本の論理との関係−
 「出生前診断などの生殖医療・遺伝子操作は、たとえば、国家的施策や民間保険会社による社会問題として進展しており、そこには、生殖医療・遺伝子操作の 基盤全体に関する、市場・資本による支配があるので、いわば純粋な健康願望はありえない。」(p.239)
6 哲学の現実化としての全ての生と生活の実現
 第一に「生命の再生産と生活手段の生産とのつながりは、「諸個人の活動のある特定の仕方」を含んで把握されるべきだが、・・・このつながりの、複雑で多 様なあり様を豊かに示すべきである。」 
 第二に「生命の再生産としての生産から離れずに、さらには、個人還元主義的にではなく、<能力の共同性論>も踏まえて、彼ら(重症心身障害 児)の「活動のある特定の仕方」に内在して、現実化する努力が必要である。」
 第三に「生命倫理(学)一切において、いかなる意味でも死を前提にせず、上記の生命の再生産を含む生産としての「人間の生」−死に近い生の充実を含む− を前提に事柄に対処すべきである。」(p.244)

■紹介・言及

◆立岩 真也 2008 『唯の生』,筑摩書房 文献表


*作成:白居 弘佳
UP:20070825 REV:20080817, 1204, 20090619,0811
竹内 章郎  ◇優生学・優生思想 eugenics  ◇優生学関連文献  ◇身体×世界:関連書籍 2005-  ◇BOOK
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