HOME > BOOK >

『戦争と万博』

椹木 野衣 20050225 美術出版社,349p.

Tweet
last update:20150807

このHP経由で購入すると寄付されます


■椹木 野衣(さわらぎ・のい) 20050225 『戦争と万博』,美術出版社,349p.  ISBN-10: 4568201748 ISBN-13: 978-4568201741 2800+税  [amazon][kinokuniya]

■内容

戦前に計画された紀元二六〇〇年博と1970年の大阪万博EXPO’70を結ぶ、都市計画家、建築家、そして前衛芸術家たちの、 終わりなき「未来」への夢の連鎖のなかに「環境」の起源をたどるタイムトラベル的異色長編評論。

■出版社の紹介

戦争はまだ続き、万博は繰り返される。……戦前に計画された紀元二六〇〇年博と1970年の大阪万博EXPO’70を結ぶ、都市計画家、建築家、そして前衛芸術家たちの、 終わりなき「未来」への夢の連鎖のなかに「環境」の起源をたどるタイムトラベル的長編芸術評論。

1970年、大阪万博EXPO’70アメリカ館に展示されたアポロ11号の「月の石」と連日の新聞をにぎわす学生運動家たちの「投石」のかたわらで、 美術館の床に置かれた「石の作品」が日本の美術界を塗り替えようとしていた。――岡本太郎、丹下健三、浅田孝、瀧口修造と実験工房、メタボリズム、粟津潔、磯崎新、 ハイレッド・センター、石子順造、李禹煥、ダダカン(糸井貫二)、中ハシ克シゲ、ヤノベケンジらの作品を独自の視点でリンクしながら、 昭和史の戦前・戦中・戦後を貫くもうひとつの戦争美術=「万博芸術」の時代をいま浮き彫りにする。

■目次

第一章 「爆心地」の建築――浅田孝と〈環境〉の起源
戦争と「こどもの国」
焼け跡から「環境」へ、「環境」から未来へ
原爆時代と建築
「列島改造」と「日本沈没」

第二章 一九七〇年、大阪・千里丘陵
人類の進歩と調和
「未来」の矛盾、「世界」の矛盾
未来と夢の廃墟
フジタと太郎

第三章 「実験」(エキスペリメンタル)から「環境」(エンバイラメント)へ――万博芸術の時代
空間から環境へ
実験工房からインターメディアへ
巨大なトータル・シアター

第四章 ネオ・ダダとメタボリズム――暗さと明るさの反転
奇矯な明るさ
前衛の突然変異
ふたりの境界人――粟津潔と磯崎新

第五章 戦争・万博・ハルマゲドン
廃墟となった未来都市――電気的迷宮
紀元二六〇〇年の万国博覧会
ハルマゲドン・チルドレン

第六章 そこにはいつも「石」があった
月からの石と投げられた石
穴を掘る――《位相―大地》
石を置く――石子順造と李禹煥(リ・ウーファン)
石を売る――『無能の人』
石の時代(ストーンエイジ)――環境と芸術

第七章 ダダカンと“目玉の男”
一九七〇年四月二十七日へのタイムスリップ
ダダイスト糸井貫二
震災というダダイズム
都市を駆け抜ける裸体

第八章 万博と戦争
映画人・甘粕正彦
バーチャル・シティとしての満州国=大阪万博
「環境」の起源
『環境開発論』と『日本列島改造論』
曲がりくねったら、それは芸術だ


核(アトム)の時代――「あとがき」にかえて

主要参考文献
口絵・参考図版データ

■引用


原爆時代と建築
[…]現代思想では、しばしばユダヤ人にとってのホロコーストが表象不可能だということが語られる。が、ホロコーストで死体は残ったけれども、 「爆心地」では影しか残らなかったことを哲学者たちは、どう解釈したらよいのだろう。比喩ではない。文字通り表象不可能なのだ。
 ある意味では、日本人が戦後、芸術にかかわるとしたら、直接・間接を問わず、この問題がすべてに先立ってよかったのではないか。 これは政治や歴史では立ち入ることのできない領域で、唯一、芸術だけがそれを扱える可能性/不可能性を持つ。しかしこの問題を、 たんなる悲劇の「描写」を超えて表象不可能性の観点から扱った芸術作品は、いまなお存在していない。わたしたちは、どうしてこの問題に熟考しようとしないのか。 ヒロシマ・ナガサキの表象不可能性は、ブランショの否定神学やデリダの決定不可能性を日本人が真の意味で血肉化するための唯一の機会であり、倫理的責務であるはずなのに。 (p.031)

都市を駆け抜ける裸体
 そう考えたとき、戦後、東京オリンピックや大阪万博といった「明るい厳戒」体制の>236>なかで、あの「鯰」が隠し持つ両義性の蓋を開けるかのように、 ダダカンが「裸」で街を駆け抜けたのは、かつての大震災が、あるいはダダイズム=アナーキズム革命を成就させたかもしれぬその失われた余韻を、 遠く「昭和」に響き渡らすものであろう。大震災にせよオリンピックにせよ、それらの国家規模の事件(イベント)は、 つねに騒乱と紙一重であるがゆえに潜在的には両義的であり、そのかぎりで国家権力とアナーキズムが隣り合わせでせめぎあう稀な場所なのだ。 当然、国家はあの「鯰」が無政府主義に加担しかねないすべての不確定な要素を、合理的な都市計画や美化運動の名のもと、事前に周到に排除しようとするだろう。 かつて関東大震災の戒厳令下、ささいな流言蜚語をきっかけに、官憲や自警団の手により多くの「朝鮮人」や「主義者」が街から「排除」されたのは、 それゆえのことにほかならない。(pp.235-236)

核(アトム)の時代――「あとがき」にかえて
 ヒロシマ・ナガサキだけではない。太平洋の島民たちや、さらには日本国民自体が、すでに「ヒバクシャ」かもしれないのだ。「ヒバクシャ」とは、 ほかでもないわたしで>338>あり、あなたでもありうる。いや、地球市民のすべてかもしれない。(pp.337-338)

■関連文献

◆古川 隆久 19980315 『皇紀・万博・オリンピック――皇室ブランドと経済発展』,中央公論社(中公新書1406),247p.  ISBN-10: 4121014065 ISBN-13: 978-4121014061 700+税  [amazon][kinokuniya]

◆荒俣 宏 20000123 『万博とストリップ――知られざる二十世紀文化史』,集英社(集英社新書0011),238p.  ISBN-10: 4087200116 ISBN-13: 978-4087200119 680+税  [amazon][kinokuniya]

■書評・紹介

■言及



*作成:北村 健太郎
UP: 20150807 REV:
ホロコースト  ◇都市・空間・場所  ◇差別  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)