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『遺伝子技術の進展と人間の未来――ドイツ生命環境倫理学に学ぶ』

松田 純 20050215 知泉書館,264p.

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■松田 純 20050215 『遺伝子技術の進展と人間の未来――ドイツ生命環境倫理学に学ぶ』,知泉書館, 264p. ISBN-10: 4901654470 ISBN-13: 978-4901654470 \2940 [amazon][kinokuniya] en, ss, be, bp, g01, d07d, c0201

■内容(「MARC」データベースより)
ヒトゲノムの解読以降、遺伝子技術の急速な進展の中、遺伝子情報の問題を保険契約や雇用など多角的に分析、遺伝子情報という概念の限界を示す。遺伝子操作の人体改造の試みが、医療の将来等に与える影響を検討する。

■【作品解説】 (知泉書館HPより)
 http://www.chisen.co.jp/book/book_shosai/901654-47-0.htm
生命科学はわれわれをどこに連れて行くのか
激しい論争の狭間で、その意味を問う。
ヨーロッパの状況を踏まえ,クローンをはじめES細胞,遺伝子情報,人体改造など急速な技術の進展が生命倫理に突きつけた問題を考察。


■目次

まえがき v

第一章 いのちをめぐるドイツの激論―二〇〇一年から二〇〇四年へ 3
 一 国家倫理評議会設置 5
 二 シュレイダーの社会倫理学 8
 三 ドイツ学術協会の方針転換 11
 四 大統領ベルリン演説の衝撃 14
 五 連立のきしみに三人の女性大臣の争い 17
 六 国民はどう考えているのか? 20
 七 連邦議会における「いのち」をめぐる論戦 21
 八 バイオ・クーデター 23
 九 ドイツ学術協会決定延期 26
 一〇 国家倫理評議会初会合 27
 一一 すでにES細胞はドイツに? 28
 一二 国民的議論 29
 一三 合意形成のむずかしさ 34
 一四 国民的激論の政治決着 39
 一五 研究用クローニングをめぐる新たな展開 41
 一六 この議論の根底にあるもの 47

第二章 「人間の尊厳」の意味内容 49
 一 時代のキーワード「人間の尊厳」 50
 二 問い直される「人間の尊厳」 56

第三章 ヒト胚の地位をめぐって 73
 一 ヒト胚はどこまで保護に値するか? 73
 二 研究目的との比較考量 80

第四章 遺伝子情報の取り扱いについて 85
 一 遺伝子診断がもたらす利点とリスク 86
 二 遺伝子検査と保険 92
 三 遺伝子検査と雇用 96
 四 医学生物学研究と人体情報保護―情報について自己決定する権利 101
 五 遺伝子「情報」とはなにか 105

第五章 人体改造―増進的介入(エンハンスメント)と〈人間の弱さ〉の価値 121
 一 エンハンスメントの種類と倫理的問題 122
 二 低身長症への成長ホルモン治療および伸長手術 123
 三 エンハンスメントによって医療は健康サービス業に変質する 127
 四 エンハンスメントは人間の条件か? 130
 五 人間の〈弱さ〉の価値 144

第六章 生命政策の合意形成にむけて 149
 一 議会と政府の二つの倫理委員会 150
 二 連邦議会審議会と国家倫理評議会との二重構造について 162
 三 教訓と提言―わが国における常設の国家倫理委員会 168
 四 生命倫理情報センターの必要性 178

第七章 Bioethics(バイオエシックス)(生命倫理学)から Bioethik(ビオエーテイク)(生命環境倫理学)へ 183
一 Bioethics(バイオエシックス)と Bioethik(ビオエーティク) 184
 二 コスモス倫理学という構想 187
 三 義務という原理 190
 四「自然の権利」ではなく、自然に対する人間の義務 195

おわりに―二方向からの挑発 199

(付論) 穏健な生命中心主義―ブリエド・リケンによるエコロジカルな倫理学の基礎づけ 203
 一 ラジカルな生命中心主義と穏健な生命中心主義 203
 二 動物に関する規範 206
 三 植物に対する直接的な義務 217
 四 比較考量(Abwagung)の諸々の視点と問題 224
 五 生命中心主義のエートス 229
 六 暫定的まとめ 231

あとがき 234
初出一覧 237
注 8
索引(人名・団体名等/事項) 1〜7


■著者紹介(*「奥付」より)

 松田純(まつだ・じゅん)
 1972年静岡大学人文学部哲学専攻卒業、1979年東北大学大学院文学研究科倫理学専攻博士課程単位取得。1995年文学博士。東北大学助手をへて現在静岡大学人文学部教授。1990-91年ドイツ、テユーピンゲン大学哲学部客員研究員、2001年ボン大学「科学と倫理のための研究所」、ドイツ連邦文部科学省「生命諸科学における倫理のためのドイツ情報資料センター」客員教授。
 〔主要著作等〕ドイツ連邦議会審議会答申『人間の尊厳と遺伝子情報―現代医療の法と倫理(上)』監訳、知泉書館、2004年。『受精卵診断と生命政策の合意形成―現代医療の法と倫理(下)』同、近刊、へ一ゲル『宗教哲学講義」翻訳、創文社、2001年、『神と国家―へーゲル宗教哲学』創文社、1995年、2003年補正版、「倫理力を鍛える」共著、加藤尚武編著、小学館、2003年、『共生のリテラシー―環境の哲学と倫理』共著、加藤尚武編、東北大学出版会、2001年など。


■初出一覧 (pp237-238より)

 第一章 「いのちの始まりにおける"人間の尊厳"―二〇〇一年ドイツの激論」『いのちとこころに関わる現代の諸問題の現場に臨む臨床人間学の方法論的構築』浜渦辰二編、科研費報告書、二〇〇二年(加筆補正)。
 第二、三、四章 ドイツ連邦議会審議会答申『人間の尊厳と遺伝子情報』二〇〇四年、知泉書館、解説。「遺伝データの取り扱いについて―ドイツ連邦議会「現代医療の法と倫理」審議会最終報告書における評価と提言」『平成一四年度環境対応技術開発等(バイオ事業化に伴う生命倫理問題等に関する)報告書』バイオインダストリー協会(第二章責任編集 蔵田伸雄)、二〇〇三年。「遺伝子技術の進歩と人間の未来」『哲学思想への誘い』静岡大学教養教育「哲学・思想分野」分科会(代表山下秀智)、二〇〇三年(それぞれ一部活用)。
 第五章 「Enhancement (増進的介入)と「人間の弱さ」の価値」『続・独仏生命倫理研究資料集』千葉大学(代表 飯田亘之)、二〇〇四年、上巻(加筆補正)。 第七章の一部 「いのちの共鳴―人権の根を掘る」『新世紀社会と人間の再生』北村寧・佐久間孝正・藤山嘉夫(編著)、八朔社、二〇〇一年(一部活用)。
 おわりに 「BT革命と人間の未来」『共生のリテラシー―環境の哲学と倫理』加藤尚武編、東北大学出版会、二〇〇一年(一部活用)。
 付論 「なぜ環境をまもらなければならないのか? ―穏健な生命中心主義の立場から」、『文化と哲学』静岡大学哲学会、第一四号、二〇〇二年(加筆補正)。


■引用

まえがき
(ppvii-ix)
 日本の生命倫理学における情報の偏りを是正する必要を感じた。日本は、自己決定権を重視するアメリカ流のバイオエシックスばかり追いかけていて、大陸ヨーロッパの生命倫理学については、情報面でも欠けている。そこで本書では遺伝子技術をめぐる生命倫理問題に焦点を絞るが、それをめぐるドイツの議論のなかから、アメリカ流のバイオエシックスとは一味違う特徴を描いてみたい。
 第一章では、滞独中ヒトES細胞研究をめぐる議論をリアルタイムで追いかけたものを再現し、そこに二〇〇四年に至るその後の経緯を加える。文体は当時の臨場感が伝わるよう現在進行形のままにしてある。
 第二章では、ドイツの生命倫理学において最も重要視される「人間の尊厳」という原理について、その意義と、それに対する異(ことなる)議について論点整理を行う。
 第三章では、着床前診断やES細胞研究のなかで問われているヒト胚の道徳的地位をめぐって、対立点を整理する。
 第四章では、遺伝子技術の進展がもたらす「遺伝子情報」の取り扱いをめぐる諸問題を、保険契約や雇用、バイオバンクなどを例に多角的に考察する。後半では、そもそも遺伝子「情報」とは何なのか、そこに潜む言葉の罠について考える。
 第五章では、遺伝子操作による人体改造の試みが現実のものとなるなかで、こうした営みを増進的介入(エンハンスメント)という文脈のなかでとらえ、これらが医療の将来をどう変容させ、人間社会の基盤にどのような影響をおよぼすかを検討する。
 第六章では、上記のようなさまざまな倫理問題に関する公共の議論をどう展開し、生命政策についての合意をどう形成していくかについて、まずドイツの事情を分析する。さらに、フランスの国家生命倫理諮問委員会の活動も参考にして、日本における国家レベルの常設生命倫理委員会と、その審議を支える調査研究機能を持った情報センターの設置を提言する。
 第七章では、ドイツの Bioethik (ビオエーテイク)が環境倫理学や動物倫理学をも包摂する「生命環境倫理学」という広い概念であることを紹介する。遺伝子技術が種の壁を越えて適用可能であることからも、生命倫理学と環境倫理学という二分法を越える包括的な生命環境倫理学の方向性への手がかりを模索する。
 付論では、そのための重要な論点を整理したブリエド・リケンの「穏健な生命中心主義」に関する論稿を紹介する。

第一章 いのちをめぐるドイツの激論―二〇〇一年から二〇〇四年へ
(pp4-5)
 本章ではES細胞研究をめぐる議論をほぼ時間を追って振り返ってみたい。いや「振り返る」というのは正確ではない。本章の一三節までは滞独中ほとんどリアルタイムで日本に送ったメールをもとにまとめたものである。文体は「現在進行形」であり、政党の態度や世論状況などは二〇〇一年の各時点のものであることをお断りしておきたい。
(pp47-48)
 この間のドイツの激論、わたしはこのなかに人類史の過去・現在・未来がぶつかりあって発する火花を見る思いがする。すなわち
 @ ITの次はBT(バイオテクノロジー)という国際市場経済競争、グローバリズムの抗しがたい圧力、目先の経済的利益という現在のテーマ。これは激しい変化を促す。
 A 人間の生命、胚、胎児等に対する態度。過去から引き継いできた生命観・人間像。これはそう簡単には変わらない(第二、三章参照)。
 B 医療の細胞工学化の未来像。遺伝子治療→増進的遺伝子操作(Enhancement)、遺伝子ドーピング→人間改造。こうした趨勢のなかで「人間とは何者なのか」という自己了解が揺らいでいく。人間としてのアイデンティティをどう守るのかという未来世代への責任(詳しくは第五章)。
 バイオテクノロジーの先導的研究をめぐる議論には、このような人類史的な問いが潜んでいる。とりわけ幹細胞研究とそれを応用する再生医工学は不老不死の夢に迫ろうとする志向をはらみ、深い射程をもった人間学的問いを投げかけている(第五章)。

第二章 「人間の尊厳」の意味内容
(p49)
 「人間の尊厳は不可侵」はドイツ基本法にも定められていて、否定できない至上命令である。しかしいまこの原理は生命科学の発展のなかで、改めて問い直されている。これをめぐる論点を、ドイツ連邦議会「現代医療の法と倫理」審議会答申の議論などを参考に整理してみる。
(p50)
 人間の尊厳という概念は非常に古い歴史をもつが(後述)、これが明確に憲法原則として確立されたのは戦後のことであり、その歴史はまだ浅い。世界人権宣言(一九四八)が初めてこの原理を導入した。
(pp55-56)
 このような尊厳概念は直接的にはルネサンスに発し、啓蒙主義によって展開され、近代自然法思想のなかで人権と不可分の概念としてとらえられてきた。しかし、それに先立って長い概念の歴史がある。ヘレニズム起源の「人間の尊厳(dignitas hominis)」、そしてヘブライズム起源の「神の像(imago Dei)」という二つの流れがある。前者は、理性の働きとそれにもとづく道徳的な気高さにこそ人間の価値と尊厳があるとする知性的な伝統である。後者は、人間は神に似せて造られ「神の像」を宿しているがゆえに尊いとする宗教的伝統である。人間本性に内在する尊厳と、神に原型を求める「神の像」とは、もとは本質的に異質な概念である。この二概念が緊張関係を孕みながら、複雑にからみあって展開し、今日の「尊厳」概念が形成されてきた(5)。その結果現在では、人間は@知性(理性)とA自己完成能力とB自由意志をもつがゆえに尊厳に値する、と理解されるに至った(6)。
(pp62-63)
 ドイツの生命倫理学も自律(自己決定)尊重の原理を当然重視している。しかしながら、それが自信過剰な自己決定権に傾くことにブレーキをかけるような錘の存在がいつも感じられる。それが、ここで展開されているようなふくらみをもった「人間の尊厳」概念であり、とりわけ「連帯原理」である。そもそも人間は、啓蒙主義が強調するような、強い意志をもった独立した主体であるとは限らない。このような人間像は一面にすぎない。人間は誰しも、他者(とりわけ母)の世話(ケア)なしには一時も生き延びれない無力な赤子として生を開始し、再び他者のケアに依存する終末期を経て生を閉じる。強い意志をもった独立した主体として活躍できるのは、人生の一時期にすぎない。その時期においてさえ、障害をもったり、ときに病に冒されることもけっして稀ではない。このことだけからしても、自己決定権万能の生命倫理学によっては、生の多様な局面をとらえそこなう。答申は「自由にして依存的な存在」という人間像をふまえて、「人間の尊厳」原理という要から基本的な諸権利が「扇状に展開」してくる様を描いている。人間の尊厳という概念は一見非常に抽象的であるが、尊厳ある生の実現ということを考えていくと、「自然環境と社会環境のなかで自らの人格的発展を可能にするような一連の基本的諸権利」を伴って豊かな広がりをもったものとなる。
(pp70-71)
 わが国も近年、「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」(二〇〇〇)やさまざまな指針等で「人の尊厳」や「人間の尊厳」原則が謳われるようになった。しかし"国際的な雛型"に従って、とりあえず「人間の尊厳」が謳われてはいるものの、このヨーロッパ起源の概念は日本人にはなじみが薄い。この言葉を、その歴史的な深みをほとんど意識することなく、漠然としたイメージだけで用いているのではないだろうか。また、前述したように「人間の尊厳」原理の根底にあるのは、日本人の多くが抱いている「生きとし生けるものへの畏敬」という情感とは、ずれるものがある。ユダヤ教・キリスト教文化に根ざす「人間の尊厳」という言葉にこだわる必要があるのかという思いもあろう。しかし日本はすでに「人間の尊厳」を謳った世界人権宣言や国際人権規約などを承認している。後戻りは不可能である。人間の尊厳の概念史の深みをおさえながら、いま直面している論点を理解し、いかなる意味で受容するのかを明確にしなければならないであろう。

 第三章 ヒト胚の地位をめぐって
(pp82-83)
 たしかに病気の治療や予防という目標は、生きる権利、健康である権利によって支持され、特別な倫理的位置を占める。しかし、これを論拠に倫理的な比較考量と評価を行う際には、その目標がすでに臨床実践のなかで確証されているものなのか、それとも治療への応用をめざしてはいるが、まだやっとこれから研究開発されるようなものなのかが、決定的な意味をもつであろう。
 幹細胞研究のさまざまな道にある可能性と限界についていろいろな言明がなされているけれども、研究の現段階を踏まえれば、いまのところ大いに留保しなければならない。(略)
 倫理的な難点を踏み越えてでもなすべき研究だと言うなら、その研究が実現性も含めて「高い価値をもっていること(Hochrangigkeit)」、めざす成果を挙げるにはその研究以外に道がないこと(代替不可能性 Alternativlosigkeit)が明確に示されなければならない。それを説得的に示しえない場合には、倫理的にも法的にも問題のない道(成体幹細胞研究)がまず初めに追求されなければならないであろう。
 ヒト幹細胞研究では、めざす目標が達成されうるのか、いつ達成されるのかということがまだ不明確であり、あまりにも流動的である。現時点での研究段階を冷静に見すえた上での判断が求められる。その点についての説明責任は明らかに研究者の側にある。ES細胞をめぐる倫理的議論は先端科学の側から投げかけられたものであるが、いま問いは再び科学の側へと投げ返されている。

第四章 遺伝子情報の取り扱いについて
(pp85-86)
 まず遺伝子診断がもたらす利点とリスクについて考え(一節)、リスク面として、とくに遺伝子検査を保険契約や雇用選考に利用する問題を取り上げる(二、三節)。さらに医学生物学研究に遺伝子情報を活用する際の問題点を考察する(四節)。最後に、こうしたテーマのなかで使われる「遺伝子情報」という言葉の二義性、「遺伝コード」というメタファーの力、さらに「遺伝子」という概念そのものの揺らぎを検討してみたい(五節)。
(pp105-114)
 「遺伝に関する情報」というたぐいの話は、異なる意味が区別されないまま、渾然と使われている。
 a 「DNA(またはゲノム)に刻まれた情報」という言い方と
 b 「病気に関する個人の遺伝(子)情報」という言い方。例えば医師が「あなたはがんになりやすい遺伝的体質をもっていますよ」と告知(inform)する際の情報(Information)
 (略)「遺伝子情報」をめぐる議論はふつうこの二つを区別していない。しかし二つの概念はまったく身分が違う。身分が異なる二つの言葉を同一視していること自体に多くの人は気づいていない。これを鋭く指摘したのはペーター・ヤニッヒである。彼の分析(30)に基づいて、遺伝子「情報」について改めて考えてみる。
 a 「DNA情報」と分子生物学者が呼ぶものは、遺伝の仕組みを説明するために情報理論やサイバネティックスをモデルとして、情報伝達の経過とメカニズム(暗号、解読、転写・書き換え等々)を証明する際に、用いられる。この情報理論モデルは20世紀における熱力学、脳科学、分子生物学に用いられ、大きな成功を収めた。
 これはいわゆるモデルではない。現実の家と建築家の事務所にある「家の模型(モデル)」であれば、両者は同じカテゴリーに属し、同じ言語で記述できる。設計士と大工と施主は設計図と家の模型を前に、幾何学の用語などを使って、将来の家について語りあうことができる。家の模型は家「についてのモデル(Modelle von)」である。モデルとモデル化されているものとの間には構造的な同質性が成り立っている。しかし分子生物学における情報理論モデルはこれとは違う。例えば「遺伝コード」「コード解読」「転写」「翻訳」「書き換え」等々という「説明するもの(Explanans)」と、「説明されるもの(Explanandum)」〔例えば、ある一定の塩基配列がある種のタンパク質を合成させる〕とは同じカテゴリーに属してはいない。家と家のモデル(模型)であれば、同じ基準と同じ言葉を適用することができるが、分子生物学の領域ではそうはできない。ところが、これらの概念群とモデルは分子生物学者にとって「日常生活の一部」となり「実験台上のコーヒー・ポットのような存在」にまでなっている。そのため彼らは自分たちのモデル(理論、学)を対象(自然)そのものと思い違えるほどだ(31)。
 b 「遺伝子診断の結果えられた個人の遺伝子情報が保険会社や勤務先に漏れて差別が生じたりしないようにすべきだ」という主張のなかで問題となっているのは、aとは違う。「病気に関する個人の遺伝子情報」と言う場合の「情報」は、人間同士のコミュニケイションのなかで「伝達されうる意味内容」をもつ。
 つまり、a 分子生物学の自然科学的な言語レベルでは、情報伝達技術の構造的な「情報」概念が考えられていて、b 遺伝子技術の倫理・法的問題においては、コミュニケイションにおける情報概念(伝達される意味内容)が問題になっている。二つの「情報」概念はまさに同音異義語なのだ。このことが忘れ去られたまま、まったく次元を異にする「情報」概念が同じものであるかのように用いられている。分子レベルの物質的な構造が「情報」の担い手であり、それが患者の遺伝的素質に関する「情報」の原因でもあるかのように考えられている。ゲノム構造の意味での情報が健康リスクに関する情報として受け取られるような言い方が、倫理的・法的問題についての公式文書や教科書などに多数見受けられる。このような同一視こそが社会に直接的な影響を与え、遺伝子決定論を助長している。こうした用法が「社会の遺伝子化」を強めている。aの情報は次に述べるように、実はメタファーなのである。
  (2) 「遺伝コード」はコードではない―メタファーであることの忘却
 ヒトゲノムが「解読」されたとき、「解き明かされた生命の設計図(32)」とか「生命の書の解読」という言説が乱舞した。これらはすべてメタファーである。しかし改めてこう言わないと気づかないくらい、メタファーであることを多くの人が忘れて語っている。あるいは意識的にこのメタファーにリアリティーを持たせようとする人たちもいる。ヒトゲノム・プロジェクトの推進者たちがそうだった。これらのメタファーは要注意である。MITの女性科学史家リリー・カイはフーコーの〈知の歴史分析〉の手法を駆使して分子生物学の歴史的展開を読み解き、genetic code (遺伝コード、遺伝暗号)というメタファーの罠を警告する(33)。カイによれば、このメタファーこそ「分子生物学の潜在力をあらわすイコンにして家紋」であるからだ。カイのテーゼは、「遺伝コード(genetic code 遺伝暗号、または遺伝に関する信号体系)はなんらコードではない」というものである(34)。(略)
 J・ワトソンとF・クリックによるDNA二重らせん構造の「発見」(一九五三年)ののち、遺伝情報を担ったコードの解読が始まった。そのコードはまずDNAというインプットと、たんぱく質(プロテイン)というアウトプットをもつブラック・ボックスとしてとらえられた。ニーレンバーグとマタイによって、一九六一年に遺伝コードが「読み解かれ」、一九六七年にニーレンバーグ、ホリー、コラナの三人によって遺伝子的相関の目録が呈示された。三連の塩基(コドン)が一種類のアミノ酸を指定することを示したこの相関表(次頁の表)によって、生命現象の「謎が解き明かされ」、そのメカニズムが「発見された」と通常はとらえられている。ところが、カイによれば、「遺伝コード」というのは対象としてすでにあったのではない。それは遺伝に関わる問題をDNAとタンパク質との間の情報転移として構想する経過のなかから、初めて科学的な対象として構成されたのだ。カイはこの経過の歴史分析のなかから、「遺伝コードは〈コード〉とは呼べない代物だ」というテーゼを導き出した。
 「〈三個の文字をもった語からなり、語音も句読点も意味論もアルファベット順の限定もないような言語〉を人々はイメージしている。さらに、翻訳する際、原語(起点言語)も翻訳言語(目標言語)も分からないような暗号の解読をイメージしている。これこそまさしく"遺伝コード"という語を用いているときの実態なのだ。なぜなら言語学的、暗号分析的に見れば、DNAのなかに含まれる化学記号の配列はなんら言語ではない。遺伝"コード"はコードではない。そしてゲノムはテクストではない。にもかかわらず〔DNAを〕文字に見立てるメタファーが自然科学者の耳に魅惑的に響き、或る幻想世界―敵のコードとかコンピュータープログラムといった概念、あるいは神の設計図(創造プラン)といった概念さえもが幽霊のように俳徊している世界―をただちにイメージさせる(36)」。(略)「情報」「言語」「暗号」「メッセージ」「テクスト」といったメタファー群は、アナロジーとしては非常に説得力があるため、いまでも分子生物学者の説明のなかで重用されている。
 カイによれば、分子生物学者たちは「情報」という語を生物学の特異性(specificity ある物質が特定の物質に選択的に結合したり影響したりする作用)を表すメタファーとして使用したが、しかしこの「情報」は指示対象を欠くシニフィアンであり、濫喩(catachresis 不適切な喩え)であった。そのようなものとしてそれは、遺伝コードを生命の本であるとする科学的空想にとって豊かな宝庫になった。そこからさらに、ゲノムで書かれた「生命の本」を「読み」「編集し」、自在に操るという技術的・商業的な挑戦が始まる(38)。ところが、コード表にある一対一対応をはるかに越えて、DNAの諸部分は、有機体が生活環境世界に反応するときに、新しい結合を引き受け、これまで想定されていた単位とはまったく異なる機能単位が働きを示す。有機体はDNA配列によっては予測できないほど複雑で、「関係全体は柔軟で偶然的、文脈依存的である」。有機体の発達は全体として一つの相互作用―遺伝子と、そのつどの外的な環境、および個々の細胞内における分子の相互作用による偶然的な出来事との間の相互作用―の帰結である((3)で詳述)。それゆえ、「ゲノムは、それが実際にテクストである場合でさえも、使用説明書としてよりはむしろ詩として読まれなければならない」とカイは言う(39)。
 近年の研究の結果、遺伝子は明確に定義づけられた諸要素とは別のものになりつつある。一つの遺伝子を他の遺伝子から明確に限界づけることも不明瞭になってきている。次にこの事態を眺めると、「遺伝コードはなんらコードではない」というカイのテーゼは一層明らかになるであろう。
(pp117-119)
 遺伝子構造の安定性は、出発点としてではなく、細胞調節のダイナミックなプロセスの最終産物として得られる(44)。遺伝子がどう働くかは、ゲノム全体の文脈のなかで決まってくる。さらに環境との相互作用も影響してくる。遺伝子は環境からの影響をあまりにも受けやすいため、the fluid gene (流動するゲノム)という新語を分子遺伝学者(Gabriel Dover & Dick Flavell)が一九八〇年代に作ったほどだ(45)。遺伝子は出発点にある安定した単位ではなく、複雑でダイナミックなプロセスの最後に保証されるものである。「遺伝子」という言葉は「もはや単一の存在なのではなくて、大きな弾力性を持つ言葉」となった(46)。こうした新しい方向性は一般社会における議論やメディアのなかにはまだ反映していない。そのため科学研究と公衆の認識との間に溝が拡がっている。
 「遺伝子に関してひろく同意の得られる安定した定義を用意することが生物学者に次第に困難になってきている」ことをふまえて、フォックス・ケラーは「遺伝子」という概念の運命をこう予想している。
 「いまだに遺伝子という語を使って話すことを続けさせる力のうちでもっとも有力なものは、この語自体がいまだにしっかりと仕事をこなしていて、今となっては余りにも多くのものがそれに依存するようになってしまったという事実である。しかし発生ダイナミクスの複雑さについての新たな理解が進むにつれて、発生の原因としての遺伝子という概念の妥当性が徐々に足元を掘り崩されつつある。ところが逆説的にも、"遺伝子で語る"(gene talk)語り口は明白で否定しがたい用途をもち続けている。gene talk をやめにすると、文脈の違う実験の間でコミュニケイションを交わすことができなくなる。専門用語におけるある程度の柔軟さ(曖昧さ)はこうした異なる文脈を架橋するために必要である。科学的な意味の構築は、言葉が異なる背景のもとでは異なる意味をもつ可能性に依存している。しかしこれだけの荷の重さは、わずか一つの存在に無理なく背負わせる重さを越えている。生命の営みのなかでのたくさんの異なる働き手の間に重荷を分配する方がはるかに適切だ(47)。」
 このように、「遺伝子」という語は生物学者にとって理解の妨げになるほど曖昧なものになってきた。「とすれば、世間一般のひとにとってはさらに重大な妨げとなって、情報が与えられるたびに、いつも誤解をもたらすかもしれない。この語は世間に的外れな期待を抱かせ、不安をかき立て、真実で緊急な問題について公共政策の議論をするときでさえも生産的でない作用を及ぼす」とフォックス・ケラーは警告する(48)。
 「遺伝子情報」という新しい知識とつき合っていく際、そもそも「遺伝子」とか「遺伝子情報」という概念や、「遺伝コード」を中核とする一群のメタファーの実態を見極めながら、いま何を議論しているのかを見極める努力が必要であろう。

第五章 人体改造―増進的介入(エンハンスメント)と〈人間の弱さ〉の価値
(pp144-147)
 人間をエンハンスメントへと駆り立てるもの、それは「より健康で、より強く、より優秀で、より美しくありたい」という欲望である。そうした欲望実現のために人間は涙苦しい努力を積み重ねている。それは「自己完成(自己形成)」をめざす人間的努力の本質的な要素であると見ることもできよう。しかし遺伝子改変にまで手を伸ばした今日のエンハンスメント技術は、「自己完全化」までも志向し、人間の弱さを根本的に乗り越えることをめざしている。かつてヒトラーは、自然は、「いかなる場合にも、強者の存在を犠牲にしても弱者が支えられ守られるべきだというようなヒューマニズムを知らない。……弱さは有罪の宣告理由である」と言った(28)。しかし人間の弱さは果たして否定的な意味しかもたないのであろうか? ひとは人生の目標を達成しつつあるただなかにおいても「ひょっとしたら達成できないかもしれない」、「折角の成果も運命のいたずらで失うかもしれない」と感じることがある。「喜びのさなかにも苦しみの最初は始まる(29)」(セネカ)。人生一寸先が闇。人生に安全地帯などどこにもない。順風満帆と思われる人生にも突然の悲劇が訪れることも珍しくはない。「不条理な」運命にさらされている「か弱き存在」でありながら、人はこの弱さを認めず、さまざまな手段を講じて、これを克服しようとあくせくする。さまざまな保険を掛けて「完全武装」する。エンハンスメントもその一つである。しかしこの「弱さ」がもつ価値を見逃してはならない。「弱さ」こそがじつは「助け合い支えあう」という人間文化の本質的条件を生み育んだものなのだ。身体の傷つきやすさ(vulnerability)、壊れやすさ(fragility)はわれわれの人生を味わい深く奥行きのあるものにしている源泉である。もしも人間が傷つきやすいものでなかったなら、文学も芸術も十分には発達しなかったであろう。
 誰もがいつ「弱者」になってもおかしくないという状況は人生の至るところにある。むしろ人間が「強くあること」自体ひとつの僥倖と言える。「自立した主体的な人間」どいう啓蒙主義的人間像は、健康な成人をモデルにしている。人生全体を眺めて見れば、これは生の一局面でしかない。誰の人生も、まずは他者の世話なしには一日たりとも生き延びれない無力な赤ん坊から始まる。人生の途上で事故などにより障害を負うことも稀ではない。その難を逃れたにしても、老年期や終末期には、ほとんどの人が他人の介護・看護に依存することになる。こうした人生の実相を見据えるならば、弱さを根本的に克服しようとするエンハンスメント的志向には、かえって危ういものがある。もしも、「他人はさておき自分だけは絶対安全な地帯にいる」と思える状況を人々が「われ先に」とめざすようになったら、どうであろう? たまたま「運命の犠牲」となった者に共感する力は衰退していかざるをえない。それどころか運命の犠牲は犠牲者自身の自己責任とされてしまう。これは被害者を加害者として責め立てるのに似た道徳的転倒である。
 人間の身体の「傷つきやすさ、壊れやすさ」こそが人間社会を根底から支えている。それは単に「困った時はお互い様」という打算ではない。ヨーナスは「責任」の原型を、ほって置かれたら生き延びていけない乳飲み子の全身による呼びかけ、それに応える親の世話のなかに見た(30)。それは give-and-take の「権利―義務関係」ではない。シモンヌ・ヴェーユの言う「権利に先立つ無条件の義務」である(31)(第七章、一九三―一九五頁参照)。このような意味での無条件の義務と責任が人間社会を支えてきた。増進的介入によって「身体の傷つきやすさ、壊れやすさ」を乗り越えようとする試みは、このかけがえのない価値を失うことになりはしないか? 増進的操作への熱中は生(Life)を貧弱なものにし(32)、連帯社会を危うくするリスクを孕んでいる(33)。技術革新の一歩一歩がそうした人間学的・文明論的問いを投げかけている。
  エンハンスメントをめぐる倫理学的射程
 エンハンスメントめぐる問題は医療経済学的な問いや医の職業倫理をはるかに越える深い射程をもっている。ここには、どのように自己を形成し、おのれの人生を創って行くかという生き方が問われている。さらには、自然の限界を次々に突破していく「力強い人間」像の上に社会を運営していくのか、それとも、人間の〈弱さ〉を認め、「弱き存在」という人間像の上に人間のアイデンティティと人間社会の持続可能性を担保しようとするのかも問われている。それは、われわれがどのような社会で生きることを望むのかという社会選択の問題でもある。

第六章 生命政策の合意形成にむけて
(pp149-150)
 本章ではまず、ドイツにおける二つの委員会の対立状況について考察し(一、二節)、そのなかから、日本における生命政策についての合意形式のあり方について提言してみたい(三節)あわせて生命倫理の審議を支える情報センターの設置を提言する(四節)。
(pp178-181)
 生命倫理に関する日本の各種審議会は、問題が生じてから設置され、初会合で課題が諮問されてから、新技術の基礎的理解の学習に始まり、そこに関わる倫理的・法的問題の性格、諸外国の対応などを慌てて調査しているのが現状である。総合科学技術会議生命倫理専門調査会にも専従スタッフはおらず、内閣府政策統括官(科学技術政策担当)ライフサイエンス推進グループに所属する七名(うち二名は非常勤)が兼任スタッフとして担当しているという(12)。生命倫理的諸課題を検討する際に基礎となる情報を日常的に収集し、問題点を整理し、それらを広く国民に開放するとともに、審議会等での検討の用に供する任務をもった情報資料センターの設置が望まれる。
 ドイツ政府は連邦文部科学省の管轄下に「生命諸科学における倫理のためのドイツ情報資料センター」(Deutsches Referenzzentrum fur Ethik in den Biowissenschaften 以下DRZEと略記)を一九九九年にボンに創設した。ホネフェルダー(ボン大学)名誉教授がセンター長を務め、一二名の専従スタッフ(研究担当、デジタル情報処理担当、司書、秘書等)と四名の学生アルバイトが勤務している。
 本センターに先立ち一九九三年にボン大学に「科学と倫理のための研究所」(Institut fur Wissenschaft und Ethik 以下IWEと略記)がノルトライン=ヴェストファーレン州によって設置された。DRZEはIWEの活動実績を基盤に、それに併設される形で設置された。IWEの所長もホネフェルダー教授が兼務し、ここにも一三名の優秀な若手研究スタッフと秘書一名、学生アルバイト三名が活動している。両施設は同一の建物のなかに併設されている。図書室を共有し、緊密な連携のもとに、ほとんど一体的に活動している。スタッフは自然科学、法学、哲学・倫理学、神学、社会科学の分野から学際的に構成されている。州や連邦、EUからさまざまなテーマで研究を委託され、常時十数件のプロジェクトが走っている。両施設は先端生命科学がもたらす倫理的・法的問題を検討する際の基礎となる情報・資料を日常的に収集整理し、国民の啓発に供するとともに、連邦政府や州政府やヨーロッパ連合、それらの各種審議会、さらに政党などからの資料提供の要請に即応できる態勢をとっている。インターネットによる情報発信にも力を入れ、DRZEのホームページの「視点 Im Blickpunkt」欄 (http://www.drze.de/themen/blickpunkt) では、治療用クローニング、ヒト胚性幹細胞研究、安楽死、着床前診断、遺伝子組換え食品などの特集が組まれている。ここを開くと各テーマに関する基本的な科学的知識から、倫理的・法的問題への視点、各国の対応や制度など、貴重な情報がほとんど世界中からオンラインで入手できる。ジョージタウン大学ケネディ倫理研究所を初め多くの類似センターとデータベースを共有し、国際的連携にも力を入れている。これらの情報収集および研究活動の成果をふまえ、国際シンポジウムを開催し、公共的議論と諸外国との交流を促進している。
 生命諸科学や遺伝子技術の分野は次々と新しい発見・発明が生まれ、それらを理解するのに複雑な知識を要する。信頼できる確かな情報の上に倫理的議論が展開される必要があることは言うまでもない。わが国においても、優秀な専門スタッフを擁する情報センターが然るべきところに設置される必要があろう。クローン人間産生や遺伝子組換え作物、国境を越えた精子や卵子の売買など、バイオテクノロジーに関わる倫理問題では、今後ますます国際的な対応が求められていくものと思われる。日本の生命倫理を国際的水準に高め、日本からも情報発信し、国際的討論のなかで政策決定していくためにも、高度な情報収集力、論点整理力をもった情報センターが必要であろう。

第七章 Bioethics (バイオエシックス)(生命倫理学)から Bioethik (ビオエーテイク)(生命環境倫理学)へ
(pp183-184)
 ここまでは、遺伝子研究と遺伝子技術が人間と社会にどのような影響をもたらすかという点を中心に考察してきた。(略)遺伝子技術の応用は実はこれに先立って、遺伝子組換え作物や家畜の育種などとして、人間以外の動植物に対してなされてきた。(略)アメリカの学問状況をふまえると、生命倫理学は自己決定権を基本原理とする個人主義、環境倫理学は地球全体主義という、あい対立する原理によって規定されているとまとめられる(1)。しかし同じ遺伝子技術がもたらす倫理的・法的問題を (p187)
 たしかに医学生物学が種の壁を超えるDNAレベルの研究に達したいま、個人の生死を扱う生命倫理学と、地球環境という大文字の生命を扱う環境倫理学とを対立させておくことは賢明ではない。生命に対する人間の責任を多様な側面から体系的に解明し包括的な連関にもたらそうとするドイツの戦略の方が理論的に有効であろう。
 人間が個人として自然に対峙するというのではなく人間の生死も自然という大いなる生命の懐に抱かれているという感覚をもつ日本人には、この構想のほうが馴染みやすいのではないだろうか。このようなドイツ生命環境倫理学の視点に学びながら、われわれも生命について包括的な倫理学をめざすべきであろう。
(p190)
 医療倫理学のなかで重きが置かれてきた人権や自己決定(自律)の原理を手放すことはできないが、この包括的な構想のなかでは、別の原理が必要となる。それは「義務」という原理であろう。そもそも権利を第一原理とする倫理学や社会哲学が展開されるようになったのは、近代になってからである。それまでは義務が人間の社会関係を律する第一原理であった。
(pp197-198)
 「権利」概念を第一原理に据えると、「動物の権利」や「自然の権利」を立てないと自然環境保護の論理を見出せなくなる。しかし「権利」という言葉は人間世界の約束事を表現するものであるから、これをそのまま自然界に当てはめるのは無理であろう。「自然の権利」論者が訴えたいことは理解できるが、それを「自然の権利」としか表現できないところに、ヨーロッパ・モダンの狭さを感じる。「権利」という概念に先立って「義務」という観念があったというヨーロッパ社会哲学の伝統を想起すべきであろう。環境を破壊する工事の差し止めを求める「自然の権利訴訟」の戦術的意義は理解できるが、「自然の権利」論は理論的には歪みをもたらすものと思う。権利の範囲を人間以外へと拡大するというのではなく、人間の義務と配慮の対象範囲を人間以外へと拡大するというのが正しい方向であろう。そうした視点から、原告適格性を含む法的枠組みをも変えることで、アマミノクロウサギや樹木が法廷に立たなくても環境問題に対応できるようにする必要があろう。
 「人間の尊厳」という原理が包括的な生命環境倫理学のなかでどう位置づけられるかも大きな問題である。「生物と無生物を含む全自然における人間の無条件で変更不可能な特別の地位(24)」を、他の存在者に対する絶対的な優位としてとらえてしまえば、道は閉ざされる。「人間の特別な  こうした議論は人間中心主義 VS 生命中心主義という環境倫理学の中心的論争と深く関わっている。

おわりに――二方向からの挑発
(pp200-201)
 ムラサキツユクサの葉の上で朝日に光輝く一滴の朝露は独立してそこにあるわけではない。地球全体の壮大な水の循環のプロセスの一コマとして、いま目の前の朝露として存在している。その水の源をたどれば、生まれたばかりの原始地球にいまから四五億年前に太陽系のはしから飛んできたおびただしい彗星(コメットシャワー)のなかに含まれていた水だという。一滴の朝露のなかにも地球のドラマが、さらには宇宙の歴史が凝集している。この一滴一滴が地球に海をつくった。その海のなかで生命が誕生した。胎児を包んでいる羊水は太古の海の成分によく似ているという。この子宮の海のなかで胎児は三八週を過ごすが、生命三六億年の歴史をちょうどビデオの早送りのように通過して、この世に生まれ出る。われわれの体をつくっている細胞も、太古の海水によく似た成分の水で満たされている。細胞が最初にできたときに取り込んだ海水と同じ成分を遺伝子が記憶し、三六億年間つくり続けてきたからだ。遺伝子情報は変化しながらも三六億年間連綿として受け継がれ、われわれのからだの基本を作っている(1)。私たちがいまここに生きているという現実は三六億年の生命誌、四六億年の地球史、さらには宇宙の歴史全体に支えられている。(略)
 アトミズムをきわめ、生命を部品の集合と見るのか、それとも生命のエコロジカルなつながりを見据えるのか。遺伝子技術の進展は世界観の上でも、わたしたちを二つの方向から挑発している。

付論 穏健な生命中心主義――フリエド・リケンによるエコロジカルな倫理学の基礎づけ
(pp229-231)
 生命中心主義にとって本質的なのは、態度変換(ein Wandel in der Einstellung)である。倫理学は規範を基礎づけることに尽きはしない。倫理学はエートスをも世話しようとする。すなわち、倫理的に正しいことを実際に行動に移すことへと動機づける情動的な構えをも世話しようとする。実際に行動に移すためには、自然への純粋に審美的な関係だけでは十分でない。審美的な関係は自然に対する関わりをたんなる主観的な趣味の事柄にしてしまう恐れがある。審美的な関心は変化しうるし、他の主観的な関心によって凌駕されることもある。生命中心主義的テーゼは自然の美的価値から存在論的価値へと踏み込み、その価値を認め称える態度(構え)を要求する。自然のなかに人間の利害関心を満たす単なる道具だけを見る思考にかわって、協働モデル(das Modell einer Kooperation)が登場する。人間が自分の目的を満たすために自然に対して何かを要求する場合、その目的が正当化される仕方でなければならない。プラトンによれば、国家共同体の起源はひとが他人の助けをどんなに必要としているかを認識することのなかにある(22)。エコロジカルな危機は、われわれの視点を人間共同体から先へと拡げるよう強いる。われわれは自分たちが他の有機体の働きにどれだけ依存しているかを知っている。他の生きものの利害関心と欲求を尊重することによって、われわれにとっての彼らの働きを承認すべきだ。それによって人間の特別な地位が危うくなるのではなく、強調されるのだ。本章で展開した生命中心主義は、倫理の主体と客体との区別を強調するがゆえに、「自然主義」という異議にさらされない。人間の倫理的責任は、人間以外の生きた自然も倫理の直接的な対象であるというテーゼによって、拡張される。人間は自然の諸目的をそれ自身のために尊重し、自然のなかにパートナーを見ることによってのみ、長い眼で見れば、人間に対する責任に応えることができるのだ。
(p233)
 生命中心主義的な自然観はたしかに自然をかけがえのないものとする情操を養う上で重要である。しかし情操だけでは環境破壊を食い止める力にならない。伝統的には生命中心主義的な自然観と情操を持ってきたはずの日本の現状を見ればわかる。情操を倫理的合意にまで高め、必要に応じて法制化の合意にまで達しなければ、環境破壊防止は有効にならない。その合意形成は倫理的な比較考量(Abwagung)のなかで模索していくしかない。


■言及

◆Wissenschaftliche Abteilung des DRZE[生命環境倫理ドイツ情報センター] 2002 drze-Sachstandsbericht.Nr.1. Enhancement. Die ethische Diskussion uber biomedizinische Verbesserungen des Menschen,New York: Dana Press(=20071108, 松田純・小椋宗一郎訳『エンハンスメント――バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』知泉書館).
(pp46-48)
 低身長は病気として位置づけられ、それゆえに医学的治療が要請されるべきかという問いが、二、三の論者においては、医学にはそもそもどんな目標が課せられるのかという問題設定へと移行する。例えばダニエルズ(18)は病気治療とエンハンスメントとの区別に固執しようとする。彼によれば、医学は不利益・不都合を取り除くことにけっして全般的に関心を持つわけではなく、病気を原因とするハンディキャップにのみ関心を持つ。この区別を断念してしまうと、われわれは機会(チャンス)の平等を作り上げ回復するという医学の目標設定に関して、本質的にラジカルな形の平等主義に行き着くであろう。こうした論への批判(19)は、正常機能と、病気という原因を基準にすることを問題視するだけではなく、病気概念に照らして検討すること(disease approach)全般を問題視する。低身長の諸形態を原因、程度、影響に即して体系的に区別し、それに対応して、病気の中身と治療提案をリストアップしたものは目下のところ存在しない、
 アングロサクソン圏で起こっている議論の一つはまだドイツでは生じていない。しかしながらドイツでも社会裁判所で、低身長を病気と見なしうるかが争われた判例がある(20)(*)。裁判所は低身長の程度とその原因と影響を考慮した。保険法が意味する病気はさしあたって、異常をきたした(regelwidrig)心身の状態と定義され、その状態は医師による治療を必要とする状態、または同時に労働不能を結果する状態、あるいはもっぱら労働不能だけを結果する状態である。その際、異常をきたした状態と見なされるのは、健康な人間についての基準や理想像(Leitbild)から逸れた状態である。低身長症の個々のケースの治療では、こうした基準からの偏差(Abweichung)が―それがかなり著しい場合には―〔成長が止まった時点に〕予想される最終身長のなかで生じることを示している。基準からの偏差はまた、成長ホルモン不足が最終身長の低さの原因と認知されたということでも確認されうる。〔ドイツ〕社会法は、治療の可能性とは別に、低身長症は基本的に、重度障害者法が意味する身体障害であるということから出発する。その身体障害は通常、多くの人から蔑視されることで精神へ影響を及ぼすことと結びついていることがある。精神への影響と並んで、とりわけ日常の活動と仕事への制約に注意が向けられる。
 (*) 八四頁参照。この判決の内容については松田純『遺伝子技術の進展と人間の未来』一二四―一二七頁に詳しく紹介してある。
(pp86-87)
 どんな条件のもとでなら、形成外科手術の費用を公的健康保険から支払うことが出来るか? どの時点から、本来の意味で健康に関わる治療について語りうるか?
 ドイツにおいては社会法の枠組みのなかで法的健康保険に支給義務を定めている。この枠は狭く限定されている。保険の負担で外見の姿形を変えることには、正当な理由がない。例外は機能の改善回復を図るための修正と、歪みを直し取り除くための修正である。これには、癌のあとの乳房の修復、思春期までの子供の立ち耳を寝かせる手術、悪性化の危険がある場合の皮膚のシミならびに皮膚の腫瘍の除去、性転換(長期の心理療法の所見がある場合に限る)が含まれる。これらに対して、豊胸手術、乳房縮小、鼻の修正、脂肪吸引、顔の皮膚のたるみの除去などは原則として保険から支払われない診療である(31)。一九九三年二月二〇日の連邦社会裁判所の判決によれば、或る心理的障害は精神医学と心理療法の手段で治療することができる。この目的のために「正常な身体状態」に手術で介入する費用は健康保険から支払われない。このことは、患者が精神医学と心理療法による治療を病気が原因で拒否した場合にも当てはまる(32)。二〇〇一年五月三日のノルトライン=ヴェストファーレン州社会裁判所の判決によれば、被保険者が保険に請求できるのは、本来の疾患に対して直接ほどこされた病気治療の措置、すなわち精神療法の措置のみである(33)(*)。
 (*) 低身長に悩み自殺まで思いつめた青年は、精神医学などでは問題が解決しないとして、伸長手術を受けた。連邦社会裁判所は、この場合、精神医学的治療などには健康保険を適用できるが、伸長手術には適用できない、と判示した。詳しくは、松田純『遺伝子技術の進展と人間の未来』知泉書館、一二四―一二六頁参照。


金森修, 20051020, 『遺伝子改造』勁草書房.
(p228)
 (f)松田純の『遺伝子技術の進展と人間の未来(二〇〇五)は、ヒトES細胞研究などについての現代ドイツでの激論のありさまを回顧している。ただ、その第五章がわれわれの主題、遺伝子改良(エンハンスメント)に当てられている。先に触れたハーバーマスの議論や、アーレントのnatalityという概念に着目しながら、松田氏は遺伝子改良が、人間がもつ根源的な弱さを隠蔽し、弱さに否定的意味しか与えないような動向に拍車をかけるものだと見る。自立した主体的人間という啓蒙主義的人間像は健康な成人をモデルにしている。ところが、赤ちゃんから老人に至るまで、他者の補助や介護を必要とせざるを得ないようなあり方でわれわれは存在している。むしろ傷つきやすさや壊れやすさこそが人間文化の本質的条件なのだ、とする。――このこと自体に異論はない。〈人間の弱さ〉は、ほぼ自明な事実として誰に対しても説得力をもつ。だが、これが遺伝子改良への反論として言挙げされている限り、その説得性は十分なものとはいえない。根源的傷つきやすさがあるからこそ、せめて少しでも寿命が長くなるようにしたい云々という反論が、この文脈にすんなりと収まってしまう。いつまでも生きていられるなら、もっと長く生きたいとは思わない。ロボットのような腕をもつなら、筋力を高めたいとは思わない。要するに、人間の根源的弱さは、改良を抑止するどころか、それを新たに基礎づける論理としても、同様に使われうるということである。


美馬達哉, 20070530, 『〈病〉のスペクタクル――生権力の政治学』人文書院.
(pp.x-x)(*4章の「生殖技術とヒト胚の保護」の終わりのあたり)
 ワーノック勧告のなかでは、生殖技術の問題は、中絶論争の際のように人間の生命の起点はどこかという哲学的問題ではなく、(子宮内ではなく)体外にあるヒト胚にどのような「一定の法的保護」を与えるかという実際的問題として扱われている。それは、法律による直接的規制は「寛容な社会における最低限の要求」であり、さらに厳しい道徳的ルールを定めるかどうかとは切り離して考えるべきだという理由からである。だが、なぜ、それ自身は人間としても権利を持たないヒト胚という生きた細胞の塊を、特別に保護の対象とする必要があるのだろうか。そして、ヒト胚を保護すべきだという思想的な根拠はどこに求められるのだろうか。
 ワーノック勧告は、その問いに直接答えようとはしていない。だが、その一つの解答を示しているのは、ドイツでの「胚保護法」(一九九○年)である。そこでは、「人間の尊厳」の不可侵性という原理に基づいてヒト胚を用いた研究を規制している。先進国のなかでもっとも厳しい研究規制といわれる「胚保護法」では、生殖目的以外でヒト胚の作成や利用が禁止されている。この根拠とされているのが、ドイツの憲法である基本法の第一条(「人間の尊厳は不可侵である。それを尊重し保護することはすべての国家権力の義務である」)なのである。ドイツ連邦議会の「現代医療の法と倫理」審議会の最終報告書(二○○二年)でも、権利主体である成人へと連続した存在であり、成人になる潜在的能力をもっている存在であるという理由から、「この保護義務は、生まれでる前のいのちについても当てはまる」と認めている(*42)。人間の尊厳の厳格な重視は、「生きる価値のある生命」と「生きる価値のない生命」を区分することが大量虐殺へとつながったナチスドイツという過去への反省に由来している。ただし、この答申では最終的な結論を出さず、ヒト胚は無条件の保護に値するという立場と、発達段階に応じて保護に値するという立場の両論併記となっている。
 立法府である連邦議会がこうした方向に向かう一方で、シュレイダー首相率いる行政府は、科学研究の発展とバイオテクノロジー産業振興という観点から、ES細胞研究に積極的な姿勢を示していた。そして、首相直属で設置された「国家倫理評議会」は、「現代医療の法と倫理」審議会とは異なり、二○○一年に「ヒト多能性幹細胞を厳格な条件と結びつけて当面期間を限定して輸入する」という答申を出した(*43)。この結果を受けて、二○○二年に、連邦議会は、「ヒトES細胞の輸入及び使用に関わる胚保護を確保するための法律」を可決した。そこでは、ドイツ国内でヒト胚を破壊してES細胞系列を作成することは認めないものの、他国で二○○二年一月一日以前に合法的に作成されたES細胞を輸入することを審査委員会の許可のもとで認めている。ブッシュ大統領によるES細胞研究容認の政策が、中絶の権利を拒否する「生命の文化」哲学と矛盾をきたしているのと同様、ドイツでの妥協案もまた、少なくとも「胚保護法」の精神に反していることは確かだ。そもそも人間の尊厳が真に重要だとすれば、それは国境によって区切られるべき原理ではない。

 (*42) 松田純監訳『ドイツ連邦議会審議会答申 人間の尊厳と遺伝子情報――現代医療と倫理(上)』知泉書館、二○○四年(原著二○○二年)、一八頁。
 (*43) 松田純『遺伝子技術の進展と人間の未来 ドイツ生命環境倫理学に学ぶ』知泉書館、二○○五年、三七頁。

■書評・紹介・言及

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版


*作成:植村 要