付論 穏健な生命中心主義――フリエド・リケンによるエコロジカルな倫理学の基礎づけ
(pp229-231)
生命中心主義にとって本質的なのは、態度変換(ein Wandel in der Einstellung)である。倫理学は規範を基礎づけることに尽きはしない。倫理学はエートスをも世話しようとする。すなわち、倫理的に正しいことを実際に行動に移すことへと動機づける情動的な構えをも世話しようとする。実際に行動に移すためには、自然への純粋に審美的な関係だけでは十分でない。審美的な関係は自然に対する関わりをたんなる主観的な趣味の事柄にしてしまう恐れがある。審美的な関心は変化しうるし、他の主観的な関心によって凌駕されることもある。生命中心主義的テーゼは自然の美的価値から存在論的価値へと踏み込み、その価値を認め称える態度(構え)を要求する。自然のなかに人間の利害関心を満たす単なる道具だけを見る思考にかわって、協働モデル(das Modell einer Kooperation)が登場する。人間が自分の目的を満たすために自然に対して何かを要求する場合、その目的が正当化される仕方でなければならない。プラトンによれば、国家共同体の起源はひとが他人の助けをどんなに必要としているかを認識することのなかにある(22)。エコロジカルな危機は、われわれの視点を人間共同体から先へと拡げるよう強いる。われわれは自分たちが他の有機体の働きにどれだけ依存しているかを知っている。他の生きものの利害関心と欲求を尊重することによって、われわれにとっての彼らの働きを承認すべきだ。それによって人間の特別な地位が危うくなるのではなく、強調されるのだ。本章で展開した生命中心主義は、倫理の主体と客体との区別を強調するがゆえに、「自然主義」という異議にさらされない。人間の倫理的責任は、人間以外の生きた自然も倫理の直接的な対象であるというテーゼによって、拡張される。人間は自然の諸目的をそれ自身のために尊重し、自然のなかにパートナーを見ることによってのみ、長い眼で見れば、人間に対する責任に応えることができるのだ。
(p233)
生命中心主義的な自然観はたしかに自然をかけがえのないものとする情操を養う上で重要である。しかし情操だけでは環境破壊を食い止める力にならない。伝統的には生命中心主義的な自然観と情操を持ってきたはずの日本の現状を見ればわかる。情操を倫理的合意にまで高め、必要に応じて法制化の合意にまで達しなければ、環境破壊防止は有効にならない。その合意形成は倫理的な比較考量(Abwagung)のなかで模索していくしかない。
■言及
◆Wissenschaftliche Abteilung des DRZE[生命環境倫理ドイツ情報センター] 2002 drze-Sachstandsbericht.Nr.1. Enhancement. Die ethische Diskussion uber biomedizinische Verbesserungen des Menschen,New York: Dana Press(=20071108, 松田純・小椋宗一郎訳『エンハンスメント――バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』知泉書館).
(pp46-48)
低身長は病気として位置づけられ、それゆえに医学的治療が要請されるべきかという問いが、二、三の論者においては、医学にはそもそもどんな目標が課せられるのかという問題設定へと移行する。例えばダニエルズ(18)は病気治療とエンハンスメントとの区別に固執しようとする。彼によれば、医学は不利益・不都合を取り除くことにけっして全般的に関心を持つわけではなく、病気を原因とするハンディキャップにのみ関心を持つ。この区別を断念してしまうと、われわれは機会(チャンス)の平等を作り上げ回復するという医学の目標設定に関して、本質的にラジカルな形の平等主義に行き着くであろう。こうした論への批判(19)は、正常機能と、病気という原因を基準にすることを問題視するだけではなく、病気概念に照らして検討すること(disease approach)全般を問題視する。低身長の諸形態を原因、程度、影響に即して体系的に区別し、それに対応して、病気の中身と治療提案をリストアップしたものは目下のところ存在しない、
アングロサクソン圏で起こっている議論の一つはまだドイツでは生じていない。しかしながらドイツでも社会裁判所で、低身長を病気と見なしうるかが争われた判例がある(20)(*)。裁判所は低身長の程度とその原因と影響を考慮した。保険法が意味する病気はさしあたって、異常をきたした(regelwidrig)心身の状態と定義され、その状態は医師による治療を必要とする状態、または同時に労働不能を結果する状態、あるいはもっぱら労働不能だけを結果する状態である。その際、異常をきたした状態と見なされるのは、健康な人間についての基準や理想像(Leitbild)から逸れた状態である。低身長症の個々のケースの治療では、こうした基準からの偏差(Abweichung)が―それがかなり著しい場合には―〔成長が止まった時点に〕予想される最終身長のなかで生じることを示している。基準からの偏差はまた、成長ホルモン不足が最終身長の低さの原因と認知されたということでも確認されうる。〔ドイツ〕社会法は、治療の可能性とは別に、低身長症は基本的に、重度障害者法が意味する身体障害であるということから出発する。その身体障害は通常、多くの人から蔑視されることで精神へ影響を及ぼすことと結びついていることがある。精神への影響と並んで、とりわけ日常の活動と仕事への制約に注意が向けられる。
(*) 八四頁参照。この判決の内容については松田純『遺伝子技術の進展と人間の未来』一二四―一二七頁に詳しく紹介してある。
(pp86-87)
どんな条件のもとでなら、形成外科手術の費用を公的健康保険から支払うことが出来るか? どの時点から、本来の意味で健康に関わる治療について語りうるか?
ドイツにおいては社会法の枠組みのなかで法的健康保険に支給義務を定めている。この枠は狭く限定されている。保険の負担で外見の姿形を変えることには、正当な理由がない。例外は機能の改善回復を図るための修正と、歪みを直し取り除くための修正である。これには、癌のあとの乳房の修復、思春期までの子供の立ち耳を寝かせる手術、悪性化の危険がある場合の皮膚のシミならびに皮膚の腫瘍の除去、性転換(長期の心理療法の所見がある場合に限る)が含まれる。これらに対して、豊胸手術、乳房縮小、鼻の修正、脂肪吸引、顔の皮膚のたるみの除去などは原則として保険から支払われない診療である(31)。一九九三年二月二〇日の連邦社会裁判所の判決によれば、或る心理的障害は精神医学と心理療法の手段で治療することができる。この目的のために「正常な身体状態」に手術で介入する費用は健康保険から支払われない。このことは、患者が精神医学と心理療法による治療を病気が原因で拒否した場合にも当てはまる(32)。二〇〇一年五月三日のノルトライン=ヴェストファーレン州社会裁判所の判決によれば、被保険者が保険に請求できるのは、本来の疾患に対して直接ほどこされた病気治療の措置、すなわち精神療法の措置のみである(33)(*)。
(*) 低身長に悩み自殺まで思いつめた青年は、精神医学などでは問題が解決しないとして、伸長手術を受けた。連邦社会裁判所は、この場合、精神医学的治療などには健康保険を適用できるが、伸長手術には適用できない、と判示した。詳しくは、松田純『遺伝子技術の進展と人間の未来』知泉書館、一二四―一二六頁参照。