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『脳性マヒ、ただいま一人暮らし30年――女性障害者の生きる闘い』

本多 節子 20050201 明石書店,262p


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本多 節子 20050201 『脳性マヒ、ただいま一人暮らし30年――女性障害者の生きる闘い』,明石書店,262p. ISBN-10: 4750320390 ISBN-13: 978-4750320397 2100 [amazon] ※ b d d00h

■内容

◇(「MARC」データベースより)
若い頃から自立し、どこでどう生きていくべきかを考え、悩み、苦しんできた著者。そして今は、今度生まれ変わっても障害をもった人間として生まれたいとさえ思っている…。そのように思うようになった68年の歩みを綴る。

◇元朝日新聞記者・本多勝一氏の妹、節子さんの自伝。脳性マヒによる障害のある節子さんは68歳になったいまも、長野県飯田市の自宅で一人で暮らす。差別や偏見との闘い、施設での窮屈な暮らし、結婚・離婚などさまざまな体験がつづられた力強さあふれる作品。

■著者略歴

(「BOOK著者紹介情報」より)
本多 節子
1936年長野県下伊那郡大島村(現・松川町)で生まれる。脳性マヒによる身体障害があり、2年遅れで小学校へ入学。卒業後は実家が営む雑貨店の手伝いなどをしていたが、1人で生きていくための準備として、東京・小平の職業訓練所に1年入社したのち、長野県の身体障害者センターへ。だが、施設での生活に耐えきれず1年で退所。1970年結婚。73年離婚。73年より、実家での一人暮らしを始める。1975年には長野県に住む脳性マヒ者とともに「長野県青い芝の会」を発足させる。現在も、松川町で多くの人に支えられながら、一人暮らしを続けている。兄はジャーナリストの本多勝一氏(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

第一章 妹の死と、戦争と
 私と晃子
 ユキちゃのこと
 七久保の祖母
 そのことの私の家の生活
 戦争末期
 兄の入院
第二章 障害のある子もない子も一緒に遊んだ
 小学校へ二年遅れで入学
 戦争が終わった
 運動会、そして三学期
 二年生のころ、友だちとの遊び
 三年生になって
 飯田市の大火と殺人事件
 私が障害を意識するまで
 店の手伝いもする
 初めて遠出をしたとき
 近所の友だちのことなど
第三章 自立をめざして施設へ
 絶望しつつも自立したいと思った
 兄の就職と結婚
 「青い芝の会」に入会する
 職業訓練所に入る
 身障者福祉センターでの自由のない生活
 父母の死
第四章 私の人生は私が決める
 結婚と離婚
 カナダへの旅
 「長野県青い芝の会」をつくる
 さまざまな出会い
 生まれて初めての入院で思ったこと
 新しい家で自分らしく
 介護保険は福祉の後退?
おわりに
妹について(本多勝一)

■引用

第三章 自立をめざして施設へ

 「青い芝の会」に入会する
 「さまざまな苦労をかさねて、どんなことがあっても負けない強い精神力を持たなければならないと思った。そんなとき、義姉が脳性マヒ者の組織である青い芝の会のことを教えてくれた。青い芝の会に入ったのは精神力を養う第一歩だった。<0134<
 東京・世田谷区豪徳寺に事務所がある青い芝の会の事務所を訪ねると、五、六人の障害者が円になって話をしていた。私がここを訪ねたもう一つの大きな理由は、同じような環境の中にいる友だちが欲しかったからだ。
 その日、事務所に集まっていた人たちと話した。同じ障害者同士だから緊張することもなく、気楽な気持ちで話すことができた。それは雑談程度のもので、有意義な話し合いをしたわけではないが、健常者の中にいるときに感じる遠慮や冷たい視線などがまったく無かったので、私は楽しかった。そのあとで会の設立経過などを説明してくれたのは、山北厚会長だった。」(本多[2005:134-135])
 「東京の蒼い芝の会を訪ねたときに、長野県に会員がいるかどうか調べてもらうと、長野市に蒼い芝の会の会員が一人いることがわかった。長い手紙を書いて一緒に運動してくれるように誘ったが、「私は長野県に会を作る気はない」と、その女性から返事がきた。その後彼<0139<女は結婚する。相手は『母よ殺すな!』(ママ)(すずさわ書店)を書いた横塚晃一氏だ。彼女が横塚氏と結婚したことは関係ないだろうが、横塚氏が後に青い芝の会の会長になってから、会は次第に大きくなっていった。」(本多[2005:139-140])

第四章 私の人生は私が決める

 カナダへの旅
 「ここでも私たちは重度障害者に会うことはできなかった。」(本多[2005:190])
 「繰り返しになるが、私はこのカナダ旅行で重度の脳性マヒ者に会うのを楽しみにしていた。でも、結果としては一人しか会えなかった。ごく普通の暮らしぶりをしていて、問題点などを充分に感じている人たちと、私は話をしたかったのだが、その願いはかなわず、カナダの重度脳性マヒ者の置かれている状況が日本と比べてよいのか悪いのか、まったくわからないままに旅は終わった。」(本多[2005:198])

 「長野県青い芝の会」をつくる
 「長野県青い芝の会が発足したのは一九七五(昭和50)年
五月二十七日で、カナダ旅行に出る三カ月前前だった。集まったのは私を含めて七名。男性三名、女性四名である。集まったほか六名は、「自立」とはどういうことなのかまだよくわからなかった。年金についても、自分がいくらもらっているのかも知らないのだった。
 そのとき私が書いた文章が残っている。次のような内容だ。」(本多[2005:203])
  cf.『そよ風』8(81.9.10):80 によれば1974年

 一九七七(昭和52年)、川崎駅のバスターミナル 210
 「青い芝の会は全般的に、一九六〇年後半(ママ)から八〇年(ママ)の半ばまでめざましく活躍した。ところが、一所懸命に活動していた人たちが年をとって、亡くなったり病院通いをしたり寝たきりになったりして、しだいに衰えた。
 私よりあとの世代は養護学校出身者が多く、「彼ら」や「彼女たち」には、心底から差別を味わっていない人が多かった。もちろん養護学校のせいばかりではないが、現実には障害者に対する差別はあるのに、表面に現れないため肌で感じない差別は心を深く傷つけず、運動していくことを面倒に感じるようになったのではないかと思う。」(本多[2005:229])
 「長野県青い芝の会の会員たちは、その後それぞれが施設に入り、いまでは解散したと同じだ。周囲に何もないさびしいところにある阿智村の重度障害者施設「阿智養護園」に入った人もいる。それにしてもどうして障害者施設は人が住んでいないところに建設されるのだろう。」(本多[2005:230])



UP:20070729
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