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『超人類へ! ――バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会』

Naam, Ramez 2005 More than Human: Embracing The Promise of Biological Enhancement,Random House, Inc.
=20061130 西尾 香苗 訳,河出書房新社,304p.


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■Naam, Ramez 2005 More than Human: Embracing The Promise of Biological Enhancement, Random House, Inc=20061130 西尾 香苗 訳 『超人類へ! ――バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会』,河出書房新社,304p. ISBN-10: 4309906982 ISBN-13: 978-4309906980 \2310 〔amazon〕[kinokuniya] en

■出版社/著者からの内容紹介

[脳・IT・遺伝子]技術の融合から、超人類が生まれつつある。
脳から脳へテレパシーのように思いを伝える(米国防総省が実験を推進)など、驚異の生体情報社会の到来を、世界中で活用されているウェブソフトInternet Explorerの開発者が告げる!
遺伝子工学・脳科学・神経工学は、この数年にもめざましい進展をとげている。
本書はこうした最先端分野における数多くの成果を紹介しつつ、私たちの心身がテクノロジーによってどのように拡張されていくかをあざやかに描き出す。
たとえば・・・
◎脳から脳へテレパシーのように思い(イメージ・音声・触感など)を伝える
 →米国防総省DARPAが巨額の費用を投じ、実験を推進。インターネットがDARPAの前身ARPAから生まれたように、この画期的な「脳--脳コミュニケーション(脳コンピュータ直結インターフェース)」技術も、やがて民間に広まっていくだろう(=ワールド・ワイド・マインドの実現)。*なお、DARPAの実験の一部はNHKスペシャル「立花隆が探るサイボーグの衝撃」でも紹介。
◎記憶力を飛躍的にUPさせる
 →記憶力を5倍にする動物実験が成功。記憶力に関わる脳内CREBを増やす薬も開発中。アルツハイマーなどの治療にも有効。
◎寿命を延ばすだけではなく、いつまでも若々しくいられる
 →遺伝子操作により、寿命を200歳まで延ばす可能性のある実験が成功。また、老年でも若々しくいられる薬(カロリー制限模倣薬)が開発中。老化にともなう数々の疾病予防にも有効。
◎肌の色をファッションのように一時的に変える
 →遺伝子の活性を制御できる「スイッチ」によって、動物の体毛を変える実験に成功。皮膚ガンの予防にも有効。
◎脳内シアター
 →目の見えない人の視力を回復する人工視覚装具(デジタルズーム機能付き)がすでに実用化。この装置は肉眼では見えない赤外線・X線などをとらえたり、脳内にダイレクトに映像を投射する脳内シアターに応用可能。
・・このほかにも、「性格・感情をつくり変える」「運動もせずに筋肉を増強する」「脳の記憶を外部に保管する」などなど、驚くべき先進事例・研究が次々とあげられる。
とはいえ、本書はたんにテクノロジーを手放しに礼賛するものではない。その利益とリスクとを冷静に分析しながら、きわめてクールに未来を予測する。
そうして、このような心身の増強技術は、私たちが迎えている高齢社会の処方箋としてもきわめて有効であることを示している。
一方、とくに生殖にかかわるテクノロジーを規制しようとする思潮も根強い。
著者は国家がテクノロジーを規制・管理すべきではなく、広く個人・市民が選択できるように開放されるべきとするリベラルな立場から、ひじょうに説得力のある議論を展開している。
著者とまったく反対の立場にあるビル・マッキベン(生殖テクノロジー規制派の代表的論客、『人間の終焉』の著者)ですら、本書につぎのような讃辞を寄せているほどである。
ーーラメズ・ナムは、私たちがさらに進化の道を先へ進もうと決めたなら選択するだろう世界の、信頼するに足る知見に満ちた展望を示している。本書で語られることに対して、私はまったく賛成できないが、とはいえ、かなり説得力のある本に違いない。ーー
私たち人間の根深い性(さが)ともいえる技術の探求は、ついに当の「人間」自身をつくり変える領域にまで達してしまった。本書が問いかけるのは、私たちの心身・能力・自我・コミュニケーション・家族・権力などが、「人間を超えて」進展し変容していく未来社会への構想力にほかならない。
なお、テクノロジーを規制するのではなく、その進展を受け入れ、人間の能力を拡張していこうとする思潮は、「トランスヒューマニズム」と呼ばれる。注目されるのは英国の名門オックスフォード大学が近年(2005)、トランスヒューマニズムのリーダー的存在、ニック・ボストロムを所長とする研究機関「Future of Humanity Institute」を創設したことだ。こうした動向をうかがう上でも、本書は必須の文献といえる。

●ラメズ・ナム
科学技術者。エジプト系アメリカ人で、世界中で活用されているマイクロソフトのInternet Explorer とOutlookの開発者のひとり。バイオやナノテクノロジーなどの先端技術についても造詣が深く、みずからナノテク企業を起こし、CEOを務めている。現在はマイクロソフトが力を入れているインターネット検索テクノロジーのプログラム・マネージャーとして活躍中。

■内容(「BOOK」データベースより)
ケータイから脳‐脳コミュニケーションへ!技術の融合から、超人類が生まれつつある。脳から脳へテレパシーのように思いを伝える(米国防総省が実験を推進)など、驚異の生体情報社会の到来を、世界中で活用されているウェブソフトInternet Explorerの開発者が告げる。

■内容(「MARC」データベースより)
テレパシーのように思いを伝え、知能や記憶力をUPし、いつまでも若々しく、肌の色をファッションのように変える…。心や体がテクノロジーによって拡張される「トランスヒューマンな社会」の到来を実験成果とともに描き出す。
著者について
科学技術者。エジプト系アメリカ人で、世界中で活用されているマイクロソフトのInternet Explorer とOutlookの開発者のひとり。バイオやナノテクノロジーなどの先端技術についても造詣が深く、みずからナノテク企業を起こし、CEOを務めている。現在はマイクロソフトが力を入れているインターネット検索テクノロジーのプログラム・マネージャーとして活躍中。

■著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ナム,ラメズ
科学技技術者。世界中で活用されているマイクロソフトのInternet ExplorerとOutlookの開発者のひとり。バイオテクノロジーやナノテクノロジーなどの最先端技術と近未来社会について洞察する若きオピニオンリーダー。ナノテク企業のCEOを務め、また現在、マイクロソフトのインターネット検索テクノロジーのプログラム・マネージャーとしても活躍している

■著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
西尾 香苗
京都大学理学部大学院で動物の系統分類学および形態学を専攻、脳内DNAの分析研究にも参加。その後、大阪のIMI・インターメディウム研究所(現・彩都IMI大学院スクール)で情報やメディアなどについて学ぶ(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
各メディアが絶賛!
「遺伝子治療、神経工学などの未来の可能性について、素晴らしい展望を与えてくれる」ーーロスアンゼルス・タイムス紙
「魅惑的で、挑戦的、そして啓発的な本」ーービジネス・ウィーク誌
「エンジョイでき、わくわくさせてくれる」ーーヴィレッジ・ヴォイス誌
「エディターズ・レコメンド!」ーーサイエンティフィック・アメリカン誌
「読書の楽しみと重要な主張をともに満たしている希な書物」ーースティーブン・ジョンソン

■目次

はじめに 治療と能力増強(エンハンスメント)  6
第一章 からだを選ぶ  18
第2章 こころを選ぶ  52
第3章 だれもが平等に  74
第4章 メトセラの遺伝子  92
第5章 寿命を選ぶ  112
第6章 メトセラの世界  130
第7章 自分自身の子ども  146
第8章 選択による子ども  160
第9章 接続された脳  196
第10章 ワールド・ワイド・マインド  228
第11章 限界なき生命  252
謝辞  264
註 (2)
解説  294


■引用

第1章 からだを選ぶ
(pp26-27)
 薬剤による治療と遺伝子治療の重大な違いは、持続期間なのだ。薬剤を投与すればしばらくは効果があるが、そのうち分解あるいは排出され、効果はなくなる。これに対して遺伝子治療では、酵素などのタンパク質やそのほかの物質を自分の体内で生産できるようにする。導入した遺伝子は一週間ほど効力を持つか、あるいは患者自身のゲノムの一部となって永久に働くという場合もありえる。
 効果の持続期間は、ベクターの種類およびベクターがどこにDNAを運び込むかによって決まる。(略)薬剤、非挿入ベクター、挿入ベクターはそれぞれ有効時間が異なるわけで、これをうまく利用すれば、用途によって使い分けることが可能になる。薬剤を使えば一時的な変化が得られ、効果は数時間から数日単位で消滅する。非挿入ベクターを用いればもう少し長期にわたる効果があり、数週間から数ヶ月は続く(有効時間は導入した遺伝子や導入された細胞の種類によって異なる)。挿入ベクターを用いてゲノムに遺伝子を挿入すれば効果は永久的だ。それぞれの状況に応じた選択肢をとればよい。
(p36)
 筋肉量を増加させるための遺伝子治療は、耐久性を増加させるためのそれよりも広く行われるのではないだろうか。赤血球数を増加させると心臓麻痺を引き起こす危険性があるが、筋肉量増加の場合はその恐れはないからだ。
 おそらくもっと重要なことがある。加齢にともなって普通に起こる筋肉量や筋力の減少が、医療の対象になりつつあることだ。つまり、いまやこれらを「正常な」現象ではないとし、病名を与えて疾患として扱うようになってきているのである。(略)「サルコペニア」は立派な疾患として扱われつつあるわけで、疾患であるならば医療対象ということになる。五〇代の人ならこの治療に興味を持つだろうが、それが四〇代、三〇代、そして二〇代の人たちへと広がっていくのではないだろうか。
(pp38-39)
 実際、人間以外の動物のからだはたいへん色彩豊かである。熱帯の鳥類や魚類は赤・青・黄色のさまざまな色調で鮮やかに彩られている。この色彩は遺伝子がつくり出したタンパク質の色素によるものだ。この遺伝子を人間に組み込んで、肌色や毛の色を鮮やかにすることも原理的には可能である。
 しかし、遺伝子治療をこのような用途に使うことが社会に受け入れられるだろうか? 予測するのは難しいが、しかし、遺伝子治療をどこまで使うか、その限界を決めるのは人間の欲望と想像力だけではないだろうか。もし数週間ほど肌を光らせたいと思う人がいれば、それを可能にする技術がつくり出されるだけのことだ。いずれ、美容目的の遺伝子治療に興味を持つ人が多くなり、それが主流になるのは十分にありそうなことだ。永久的に筋肉を増強させたり、永久的に髪・目・肌の色を変えるのと同じように。
(pp45-50)
 遺伝子治療技術が発達すれば、疾患治療も身体改造もできるようになる。見通しは有望だが、いくつかの懸念もないわけではない。最もよく耳にするのは、「人間遺伝子の改変は自然の摂理に反する」、「遺伝子治療はまだ安全ではないので倫理的ではない」といったような意見だ。
 第一の「自然の摂理に反する」という懸念について。これは議論しても無意味だろう。外来の遺伝子を人間の身体に導入するのは確かに自然なことではないかもしれない。しかしこれは医療上のほとんどすべての技術に関して言えることだし、事実、多くの技術がそう非難されてきた。一七九八年、エドワード・ジェンナーが天然痘への対抗手段として発表した種痘は、自然の摂理に反し人倫にもとるものだとして、新聞の社説や教会の説教で公然と非難された。歴史家のアンドリュー・ディクソン・ホワイトによれば、反対するいくつかの団体は、種痘を「それ自体が天に対して反抗せよと無理強いすることであり、神の意志に反することでもある」として糾弾し、「神の法はこの所業を禁止する」と宣言した。
 また、一九世紀半ば、麻酔による無痛分娩はヴィクトリア女王が自ら試みるまでは「自然の摂理に反する」ことであり「自然本来の過程への干渉」として批判された(訳註・麻酔術は一八四六年に開発された。ヴィクトリア女王が全身麻酔による無痛分娩をしたのは一八五三年)。人間の血液を採取してほかの人に与えるのは自然なことではないが、輸血という手法は医療の一部として当たり前に受け入れられている。臓器移植は自然なことではないが、すでに心臓や肝臓、腎臓そのほかの器官で行われている。もし「自然」に任せていたら、アシャンティ・デシルヴァは死んでしまっていただろう。三〇年前だったら、どうやれば助けられるのかわからないばかりに、アシャンティは生まれて二、三年で死亡していたところだ。それどころか、アシャンティが遺伝子治療を受けられるようになるまで頼っていた薬剤PEG-ADAでさえも、人工的につくったものであるとして自然の摂理に反する産物ということになる。
 新しくなじみのない治療法が、自然の摂理に反するものとみなされるのはよくあることだ。しかし最初はそうでも、使用例が増えていくにつれ、次第になじみのあるものになって、受け入れられていくのが常である。一八〇〇年代初頭までには、種痘は世界中に普及していた。ヴィクトリア女王がクロロフォルムを用いて子どもを産んでから数年と経たないうちに、イギリス中の女性が真似をするようになった。だとするならば、今は何か不気味で恐ろしいものに思われる遺伝子治療も、もっと効果が上がり対象となる疾患が増えるにつれ、異質なものではなく、すでに慣れ親しんだほかの医療技術と同じようなものと思えるようになるのではないだろうか。
 第二の懸念、「まだ安全ではない」については慎重に考える必要がある。先に書いたことで明らかだが、遺伝子治療にはまだかなりの危険性がともなう。本書で紹介するほかの技術についてもすべて同じことが言える。(略)
 こういった危険性をなくすためには、実験段階にある医療技術の使用をばっさり禁止してしまうという道もある。しかし、それでは医学の進歩が阻まれてしまう。どんな技術も必ず、だれかが最初の被験者にならなくてはいけない。その段階にいたるまでに研究者や医師は長い時間をかけ、動物や培養細胞を用いて何千回もの実験を行い、安全性を追求するのである。この段階で却下される技術も多い。培養細胞や動物実験の段階でうまくいった薬剤のうち、臨床試験段階に進むのを許可されるのはわずか〇・一%にしかすぎない。しかし結局、どれほど実験室段階では安全で効果的に見えた技術であっても、多くの人たちを助けるためには、まずだれかに試してみなければならないのだ。
 最初に被験者になる人は危険を冒すことは避けられない。しかし、「危険」の評価は相対的なもので、その時その人が置かれている状況によって変わる。どんな遺伝子治療においても、ひじょうに深刻な病状にある患者がまず被験者になると考えられる。能力増強して超人レベルになろうなどというわけではなく、実験的な治療を受けてでもなんとか生き延びたい、あるいは疾患や事故によって奪われてしまった能力を取り戻したいと切望して被験者となるのだ。そのまま病状が悪化するに任せ次第に衰弱していくか? どんな副作用があるかもわからないが有望な治療を受けるか?この二つの選択肢を突きつけられた場合、治療のほうを選ぶ患者は多いのではないだろうか。アシャンティ・デシルヴァの両親が置かれたのもそういう状況だった。ADA欠損症で衰弱し確実に死へと向かう娘を黙って見ているか、それともまだだれも試していない治療に望みを託すか……。結局、デシルヴァ夫妻は賭けに勝ち、アシャンティは死なずにすんだ。それは両親が新しい技術のほんのわずかの可能性をつかもうと行動したからこそである。
 もちろん、賭けには負けることもある。世界初の心臓移植手術を受けた患者は術後わずか一八日で死亡したし、また人工心臓の移植を初めて受けたバー二ー・クラークは、装置を埋め込んでから一一二日後に死亡した。このほかにも、革新的な治療法を受けた患者が、治療にともなう合併症で、あるいは治療自体の失敗で死亡した例は多い。事実上、どんな治療法にも何かしら問題点は存在し、さらに試行を繰り返していくなかで改善されていく必要がある。しかし、たとえ死亡したとしても、それは無為の死ではない。医学の進歩のためにはだれかが最初の被験者になることが絶対必要なのだ。
 ジェシー・ゲルシンガーは実験的遺伝子治療で死に追いやられたが、この事件をきっかけとしてウイルス・ベクターに対する免疫応答の危険性が改めて認識され、より安全な治療法を求めて研究が進むことになった。ジェシー自身は得るものはなかったとしても、これからOTC欠損症を持って生まれてくる子どもたちのためにはなるはずだ。ジェシーは自分の役割を承知していて、治療を受ける前、友人に「最悪の場合どうなるかって? 僕は死ぬんだ。だけど赤ちゃんたちはそれで助かる」と話していたという。
 再三再四、新しい医療技術が現れる度にそれは繰り返される。初期に新技術の対象になるのは、得るものは最大で失うものは最小限という人たちである。成功すれば万々歳で、人生が一気に開けることもある。うまくいかずに副作用で苦しむ場合もある。しかしどんな結果であったとしても、それは研究者や医師が人間の精神や身体についてのより深い理解へ向かって歩を進めるための足がかりとなり、かつ技術の洗練と安全性の発展に貢献するものであり、何百万もの人たちがその結果救われることになるのだ。
 とりわけ皮肉なのは、安全性を懸念するあまりに能力増強技術を禁止すると逆効果になるということだ。おそらく能力増強処置は広く普及していくだろう。参考になりそうな例を挙げてみよう。アメリカでは二〇〇二年、八〇〇万件以上の美容整形手術が行われ、加えて、一七〇億ドルものスポーツ・サプリメントやハーブ製品が消費された。健康状態を改善したり精神的・身体的能力を増強するというふれこみの、こういったサプリメントの多くは、ほとんど、あるいはまったく効果がない。それにもかかわらず、これだけ大量消費されているとは驚きだ。では、確実に精神的・身体的能力を増強する薬剤や技術が現れたとしたら? それはすでに存在している巨大な市場を席巻するに違いない。
需要のたいへん高い商品やサービスを禁止しても、市場が消滅するとは思えない。ただ闇に潜るだけのこと。一九二〇年代アメリカの禁酒法時代がいい例だ。また今日の「麻薬戦争」も同じことだ。どんなに手を尽くしても禁止薬物の流れは止められない。欲しがる人がいればブラック・マーケットができるのは必然である。
 ブラック・マーケットでは安全性が犠牲にされる。目を光らせて安全基準を管理する機関は存在せず、いい加減なサービスやお粗末な商品で儲けても、責任を取る必要はない。何か問題が起きたとしても、じっくりと安全性テストを行って問題を突き止めるなどということは難しい。
 現に、ストリートにまがいものの非合法ドラッグが出回ることが多い。(略)規制された市場においては、このような粗悪品や詐称にはまずめったにお目にかからない。商品は検査を受けて安全チェックをされるので、対価に見合うものが手に入るのはまず保証されている。
 ほかにも例はある。妊娠中絶禁止が安全性を脅かしているのだ。(略)世界保健機構(WHO)の概算によれば、世界全体で、出産時の妊婦の死亡例のうち八分の一は危険な中絶によるものであり、その大部分は中絶が非合法な地域で起こっているという。こういった例に見られるように、もしある処置が非合法なものとされてしまうと、規制によって守られていた安全基準の多くが棚上げされてしまう。もしも能力増強処置の安全性に懸念を抱くならば、禁止するのではなく規制するほうが理にかなっている。
 規制する場合には、医療技術としての面だけではなく、能力増強としての面も考慮すべきである。EPOの過剰摂取でサイクリストが死亡したのは安全な投与量を知らなかったからだ。EPOに関する文献や、EPO製品が関係機関から承認を受けるまでに行われた安全性テストで考慮されていたのは、医療目的の使用だけだった。動物実験および貧血症の患者を対象とした臨床試験は行われたが、健康な人は対象外であり、もちろん試合中のアスリートの使用などまったく想定外だった。能力増強目的の使用を禁止してもサイクリストはかまわずEPOを用いた。禁止されたために、生死に関わる重要な情報がサイクリストの手にわたらなかったのだ。本当に効果的な安全システムを開発するつもりならば、能力増強目的で医薬品が用いられる可能性のあることを認め、その種の使用法についても安全ガイドラインを設けなくてはならない。


第2章 こころを選ぶ
(pp67-72)
 人間の脳と精神を変えるほどの大きな力は、社会全体にも深い影響を与えると考えられる。精神を変貌させる薬や遺伝子治療などの新しい手段が開発されれば、アルツハイマー病や老衰、慢性痛など、数多くの疾患の治癒も期待できる。「頭のよくなる薬」「頭のよくなる遺伝子」だけでも、現在、精神障害と闘っている何千万という人々が救われることになるのだ。
 社会的・経済的な面でもまた、ひじょうに大きな利益が見込まれる。アメリカではアルツハイマー病患者の長期看護に年間一〇〇〇億ドルが費やされている。(略)もしもアルツハイマー病、うつ病、そのほか深刻な精神障害の発症を減らせれば、年間何百億ドルもの費用が浮くことになる。それに加えて健常者の学習スピードや集中力を向上できれば、さらに何千億ドルもの生産力が得られることになるだろう。
 記憶力がよくて頭の回転が速い人は高収入を得ることができ、社会全体の生産性向上にも寄与すると考えられる。人間の学習思考能力や、対人関係能力を増進させるようなテクニックとは、私たちの問題解決能力や科学的な大発見をする力を高め、よい成果が得られるようにしてくれるものだ。(略)こうして社会全体が豊かになっていくのではないだろうか。
 これは、たんなる絵空事ではない。長年にわたる研究によって確かめられている。(略)
 このような経済成長率向上の数字は紙の上だけのものではない。現実に利益が上がり、よりよい住まい、より安全な車、よく効く薬などが手に入り、生活の質(QOL)が向上するのだ。人間の精神的能力を向上させれば、人間の精神がつくり出すものも皆、向上する。人間の知性を向上させるテクニックのすべてが、社会全体に配当をもたらすだろう。
 結果として競争が起こる可能性もある。近い将来、知的能力増強のための薬やそのほかの手段を禁止する国と、擁護する国とに分かれることになるだろう。たとえばアメリカや西欧諸国では治療目的以外の知的能力増強手段は禁止される。一方、中国やインド、そのほか多くのアジア諸国では当たり前に行われる、といったような事態になるかもしれない。(略)
 もしもアメリカで知的能力を増強する薬や遺伝子治療が違法とされたとしても、ほかの国では開発は止まらず、それらの技術を擁護する国はほかの国々に比べて高い競争力を持つようになるだろう。
 能力増強には種々のプラス面がある一方で、同時に厄介事がついてまわる可能性もある。脳についての詳しい知識が得られれば、新しい麻薬も簡単につくり出せるようになる。まったく害がなく、人生を豊かにしてくれるものも多くできるだろうが、濫用すれば中毒になるような危険な薬もできるかもしれない。
 また、感情をコントロールできる力が私たちの手に入るとすると、アイデンティティの意識に対する懸念が湧き上がってくるに違いない。感情改変技術が確立すれば、自分の性格を変えようとする人も当然出てくるだろう。友人や家族にはそれが理解できないかもしれない。もしかしたら、攻撃的で暴力的な、敵意に満ちた性格になろうとする人もいないとは限らないし、罪の意識や良心の呵責、同情を感じなくなるように性格を変えようとする人も出てくるだろう。
 こういった過激な変化は社会に容認されそうにないが、技術が完成に近づくにつれ、ブラック・マーケットではますます簡単に手に入るようになっていく。長い目で見れば、遺伝子を切り出してベクターにつなぎ込むのも、違法なドラッグをひとまとまりつくり上げるのと同じぐらい簡単になるのは間違いない。現在の世界を見わたしてみれば、ドラッグを化学的につくれる技術も動機も持つ者は数多くいる。精神変貌を求める人たちがいれば、違法であってもそれに答える人も必ず出てくる。
 私たちの精神を変貌させることが可能になれば、それほど過激ではないとしても、この「自分とはいったい何者なのか」という、一筋縄では答えの出ない複雑な疑問に私たちは直面することになるだろう。もし注射一本で性格の一部が変わるとして、内気で控えめだったのが、平気で危険を冒したりスリルを求めるようになるとしたら、それでも私は同じ人間なのだろうか? もしずっとそんな自分になりたいと思っていたとしたら?もし友人たちに愛想をつかされたり、あるいはその逆だったら?それとも、妻と一緒に注射を受けて神経化学的に絆を強めるとしよう。二人の関係はどうなるのだろう? 愛の絆は深まったと言えるのか、それとも安っぽい関係に成り下がったことになるのだろうか?
 しかしこういった疑問は、別に新しい技術がなくても出てくるものだ。アルコールその他、ドラッグの影響下にあるとき、私は普段と同じ人間なのだろうか? 私は一〇年前と同じ人間なのだろうか? 新しい言語を学んだり、外国に行ったり、新しい友人をつくったり、新しい仕事に就いたり、信仰する宗教を変えたりしたら、それでも私は以前の私と同じ私なのだろうか?
 つまり神経工学(ニューロ・テクノロジー)は、アイデンティティをがらっと変えてしまうようなものではなく、アイデンティティという考えの境界線の一部をはっきりと浮き彫りにして見せてくれるだけなのだ。私たちはつねに変化している。これが現実である。私たちが経験したことは何にせよ、知性や感情面を変化させる。神経生物学的な変化も起きる。この本を読んでいるあなたの脳内では、今、電気化学的なプロセスによるインパルスがニューロンからニューロンへと駆け巡り、それぞれのニューロンのなかでは個々の遺伝子がスイッチオンになったりオフになったりしている。シンクロして発火するニューロン間のシナプスでは、樹状突起がぐっと伸びてシナプス間隙を狭めようとする。それ以外のところではシナプス間の結合は弱まり、ニューロン間の距離はひらいていく。このページを読むあなたの脳は変化し続け、けっして以前の状態に戻ることはない。
 心理的なレベルで考えても同じことだ。永続的な変化がつねに起きている。記憶が形成される。考えが沸き起こる。以前の思いが意識表面に浮上してきて、あなたの未来の行動に微妙な影響を与える。何を読んでどう感じたか、その影響が、明日、来週、来年、どの本を読みどの映画を観てどんな会話をするかを変えるかもしれない。
 こういった変化はすべて、自分が選択したからこそ起こるものだ。(略)
 神経工学によって選択が可能になるとしても、それは人生のほかのさまざまな選択と基本的には同じで、要は程度の違いである。自分のあり方を自ら選択する力を、よりはっきりと直接的にするにすぎない。その結果、行動やアイデンティティに対する個人の責任もより明瞭になるだろう。感情や性格を自分で形づくれるような世界にあっては、もはや「どうしようもないよ。俺ってこういう奴なんだから」などと言うことはできない。とはいえもちろん、個人がこのレベルまで選択できるようになるのは、そう簡単なことではない。しかし力が増大すれば、自分が何者なのか自ら決定し、将来何者になるかについてもしっかりとした責任を持てるようになる。これは基本的には望ましい変貌であると私は考えたい。


第3章 だれもが平等
(p75)
 過去、医学技術がどのように発展し、費用がどう変化してきたかをたどれば、二つの点から、能力増強技術は世界中のほとんどの人の手の届くところまで安くなると考えられる。第一に、本書で検討する能力増強技術の大半は、開発や試験にかかる費用は高額でも、大規模製造が可能になれば安価になると予想される。研究や開発という最初の段階を乗り越えれば、その後はほとんど投資する必要はないからだ。初期投資が回収されてしまえば、価格を低く抑えることも可能である。新しい技術のほとんどがそうであるように、能力増強技術も最初は裕福な人しか手を出せないだろうが、時間が経てば手頃な価格になり、ずっとたくさんの人が利用できるようになるだろう。
 第二に、バイオテクノロジーによる能力増強技術への投資は、「収穫逓減の法則」にしたがう可能性が高い。つまり、増強に一〇倍の費用をかけても、得られる結果は一〇倍よりもずっと少なくなる。比較的少額の費用をかけた場合は得をするが、それ以上費用をかけたとしても見返りはほんのわずかだろう。
(pp84-90)
 自分自身のこころやからだを改変する力を、より多くの人に広めるためにまず重要なのは、能力増強技術の規制方法を変えることだ。記憶学習能力を向上させたり、老化を遅らせたりする薬や遺伝子治療は、現在では必ずしも違法ではないが、ものによっては規制プロセスを経なければならないものもあり、そのため、医師や消費者が技術の安全性や効果のほどについての良質な情報を得るのは難しくなっている。
 アメリカでは、医薬品、遺伝子治療、医療機器はFDAによって管理されている。遺伝子治療も医療機器も、基本的には医薬品と同じように規制を受ける。(略)ところが、ダイエタリー・サプリメント(栄養補助食品)については、FDAの課したルールが適用されないのは不思議である。ダイエタリー・サプリメントは病気の治療や予防効果を掲げたり宣伝したりすることを許可されてはいない。たとえばビタミン剤のラベルには「ガンの発症率を下げる」などと書いてはいけない。ところがそれ以外のことは事実上何を書いてもよく、科学的な根拠がなくてもかまわない。本当は試験などまったく行われていないハーブ製品が「記憶力向上!」と謳う一方で、薬品のほうは、綿密な試験により記憶力向上効果があるという科学的データが出ていても、ラベルには一言も書いてはいけないことになる。
 FDAが薬を能力増強剤として使用することを認めていないことの影響は、これ以外にもまだ二つある。まず、製薬会社が薬や遺伝子治療で実際に能力増強できるのかどうかを実験して確かめようという気をなくす。もし効果があってもその用法としては市販できないので、研究に資金をつぎこんだとしてもたいした見返りがないからだ。
 もう一つ、薬や遺伝子治療が承認される前、安全性試験は主に病気の患者を対象に行われることになる。その病気《ではない》人にとっての安全性は十分には試験されない。筋ジストロフィを治療する遺伝子治療法ができても、筋力を向上させたがるアスリートを被験者とした臨床試験は行われないだろうから、アスリートが使用した場合の安全性は不明なままだ。
 現在の規制方針を全体的に見るなら、能力増強効果があるかもしれない薬や治療法に関して、消費者も医師も安全性や有効性についての情報を手に入れられないと言えよう。もしもどちらもひじょうに簡単なことを二つ行えば、この規制モデルを改善できるだろう。
 第一に、FDAやそれに類する各国機関は、治療目的のそれと同様に、能力増強目的の用法についても申請受け付けを検討すべきだ。増強目的として申請される薬は、たいていの場合、治療目的の用法についても調査される。能力増強目的の薬として申請する場合、試験と承認のプロセスは、現在治療目的の用法に関して行われているものとほとんど同じでよいだろう。ただし、より多くの健康な被験者を対象に安全性テストを行い、申請内容通りに精神や身体の能力増強に真に効果があると証明するように要請したい。
 このように、ほんの少しFDAの認可プロセスを変えるだけで、得られるものは大きい。医師は、本当に人間の能力を増強させるのはどの薬なのかについての信頼できる情報を手に入れられる。また、FDAが能力増強目的での使用を認可しなかった薬についても、有効性(というより無効性)の情報が自動的に得られることになる。また、すでに増強剤として用いられている薬がその用法で安全なのかどうかについても多くの情報が得られるだろう。さらに、薬を能力増強目的で使用することが解禁されれば、需要量も増えて価格は下がり、増強と治療、双方の費用が安くなる。
 次にもう一つの改善点。第一のものより重要性はやや劣るかもしれないが、ダイエタリー・サプリメントが裏づけとなる研究なしで増強効果を掲げるのを制限すべきだ。そうすれば、科学的な根拠のあるものとないものとの区別がつくようになる。(略)
 能力増強目的の薬や遺伝子治療について、安全性や有効性が科学的に調査されるようになれば、消費者の教育や保護に役立つ。規制を受けることの少ない、科学的証拠の裏づけがほとんどない製品ではなく、有効性が科学的に保証されたそれを選べるようになる。
 もしも行政機関が規制プロセスを改革して、医師や消費者が能力増強技術に関する情報を得られるようになれば、あとは市場原理によって増強術の費用は低下し、たいていの人の手の届くものになると考えられる。一般的に行政機関というものは、市場がうまくやるに任せてこそ役に立つものだ。そうすれば何百万もの人々はより聡明になり、同じ価格のなかで最もよい製品を選べるようになり、その製品を市場に出した製薬会社も得をする。
 だが時には、高まる需要に価格の低下が追いつかないこともある。能力増強技術に関してそういう事態になったならば、行政機関が介入して価格を押し下げるべきだろう。
 能力増強技術利用における不平等によって、富裕層が特権を得る危険が生ずる。学習能力や記憶力などを増強すれば高い収入を得られるようになるだろう。もしこういった増強術を富裕層だけが手にすることができて、貧しい人々には手が出ないとしたら、前者はますます有利になり、後者はおいてけぼりにされるばかりだ。裕福な人にとっては得が得を生み出す善循環だが、貧しい人にとっては悪循環だ。能力増強ができなければいい仕事につくことも難しいので、増強術に払えるほどのお金を稼ぐこともできなくなるからだ。
 近年の技術の歴史はこのパターンにしたがっては《いない》。世間の貧しい人たちは、裕.福な人たちとの格差を実質的に埋めてきている。平均寿命でも教育でも、技術の利用という点でもそうだ。ほかの技術と同じように、バイオテクノロジーによる能力増強技術の費用も急速に低下する可能性が高いが、ただ、影響が急激かつ飛躍的に現れるかもしれないので、階層分離を警戒しなくてはならない。バイオテクノロジーや神経工学(ニューロ・テクノロジー)による能力増強技術が、その費用が下がる《よりも早く》稼ぐ力を上げるとしたら、裕福な人たちは特別階層として逃げ切ってしまうかもしれない。このような場合には行政機関が手を打つべきだ。
 また行政機関は、危険に先回りする予防的介入をすべきだろう。先に述べたように、精神的機能を増強する技術は経済的な成長につながる。また、老化を遅らせる技術は医療費の削減に役立つ。アメリカだけでも、生産性が一%伸びるごとに経済的な利益は一〇〇〇億ドル増加し、医療費が一%減少すると二八〇億ドルの節約ができるのだ。
 こういった影響を考え合わせると、バイオテクノロジーや神経工学による能力増強技術は、貴重な人的資本への投資と考えられる。もし増強が安く簡単にできるならば、個人も家族もどういった面にどれほど投資するのか決められる。かりに、どんな理由であれ価格がうまく下がらず、大部分の人が手を出せるほど安くならなかった場合は、行政機関が資金を投入し、皆が利用できるようにすべきだ。得られるものは大きいのだから。(略)
 このような分野に費用を注ぎ込む行政機関には先例がある。(略)
 西欧社会では、社会は個人の権利を守るためにつくられるものと考えられている。またそれぞれの個人がどのようにありたいかを自分で決める自由は擁護されている。できるだけ多くの人が、自分で自分の行く末を決めて生活を改善するための力を手に入れられるように、《機会》均等を強めようと私たちは努力している。歴史は、個人がそのような力を手に入れれば社会全体としても得になり、うとましいほど一律になることもなく、多様性に富む社会となることを示している。また、人間は究極の資源であり、社会にとって最も貴重な資本であるということをも示している。したがって、原理的にも実際的にも、この資源に投資するのは理にかなっている。行政機関は自由を制限するのではなく、個人や家族に力を与え、人類全体のための利益を手に入れることができるように努力すべきなのだ。


第4章 メトセラの遺伝子
(pp92-93)
 人間は平均的には以前より長生きするようになっている。しかし、老化と闘って寿命を延ばせるようになったのは最近のことで、それまでは、若年での死亡減少に努めた結果、平均寿命が延びたにすぎない。医学は老年層の余命延長については、ほとんど貢献していないのだ。一九〇〇年においては七〇歳のアメリカ人男性は平均七九歳までは生きると予想された。いま七〇歳のアメリカ人男性は平均八二歳まで生きると予想できる。一世紀間に延びた平均余命は、この年代ではわずか三年。新生児に比べれば、たいして増えてはいない(略)。このように、高齢者の平均余命にはわずかの進歩しか見られない。これは、医学が力を注ぐ対象はまず第一に病気であり、老化過程そのものについてはあまり注目していないからだ。(略)人間が年をとるにしたがって衰え、健康に問題が生じてくるという根本的な問題については、これまで何も手を打たなかったのだ。たとえ長生きしているとしても、ふつうは《老いぼれて》いるだけ。私たちの望みは言うまでもなく《若さを保つ》ことなのに。
(p95)
 このように、年をとったら体は弱り、なにかしら病気にとりつかれることを考えると、自分の晩年はどうなるのかという恐れが膨らんでくる。生命維持装置につながれて、何ダースもの病気に苦しみ、ぼんやりした頭ではものも考えられず、つねに介護の目が離せないような状態になってしまったら? だれだって生きていたいとは思う。だがこんなふうにはなりたくない。
 人間が技術を用いて寿命延長に努めるのを批判する人々は、ストラルドブラッグ人のありさまを未来像に描いてみせる。そのシナリオにしたがえば、膨れあがった高年齢層を生かすために途方もなく高価な医学技術が使われ、その費用を払うのは若者たちというわけだ。事実、現在の健康管理状態や平均寿命から予想するなら、そういったシナリオは正しいようにも思われる。先進国で高齢化が進めば、年金制度に負担がかかって医療費はうなぎのぼり。一方、身体も精神もちゃんとしていて、年金や医療費を肩代わりできそうな若者たちの割合はどんどん低下していくのだ。それこそ、肝心要の問題なのである。もし幸せに長生きしたいと思えば、老年期に現れる症状だけではなく、老化現象自体にも取り組まなければならない。
 実際に老化を遅らせる、つまり若さを引き延ばすことができれば、社会にも少なからぬ利得がもたらされる。現在の総死亡例のおよそ半分を占める、加齢にともなう疾患の発生を減少させることができるだろうし、世界全体では、医療費を何千億ドルも削減できるだろう。若年層の医療費は老年層のそれに比べて少なくてすむからだ。また、精神的にも身体的にも良好な状態が長く続き、若い世代の稼いだ分を使い尽くすようなこともなく、自分で自分の身を処するに足る分を稼ぐことが可能だろう。要するに、若さを引き延ばすことができれば、寿命延長で引き起こされる問題が解決できると考えられるのだ。


第5章 寿命を選ぶ
(pp112-113)
 遺伝子操作技術で不老長寿を実現しようという研究とは別に、簡単で確実に寿命を延ばす方法が、すでに見つかっている。動物の餌は減らすが、ビタミンなど必須の栄養素は十分与えるというもので、カロリー制限(Caloric Restriction・CR)と呼ばれる方法だ。そのしくみはまだ解明され始めたばかりだが、マウスにラット、線虫、ショウジョウバエ、クモ、グッピー、イヌ、ニワトリ、ほかにも多くの種の動物が、実際にCRで長生きしている。人間でもうまくいくだろうという予備的な証拠も得られている。幼少期からCRで飼育した動物は、三〇〜四〇%ほど長生きするのが普通だ。(略)カロリー制限は適度なダイエットに比べて効果も大きいのだが、厳しさもまたひとしおだ。ダブルベーコン・チーズバーガーなんてもってのほか、注文するのは決まってサラダで、デザートは絶対に食べない……、そういう生活を《この先ずっと》、死ぬまで続けられるだろうか? さらに、厳しく自制しさえすればそれでいいというわけではなく、綿密詳細な食事計画をたてる必要もある。摂取するカロリーと栄養素に十分注意しなくてはならない。カロリー制限を自分からやろうという意思や時間のある人は、まずいないだろう。
 CRの研究をしている科学者は皆、大多数の人々がそんな養生法にわざわざ身を投じようとはしないのはよく知っている。人間は食べるのを愉しみにしている。科学者は人間の意思の力について幻想を抱いてはいない。ただし科学者には、ほかにもわかっていることがある。若さを保ったり《スリムな体型を維持する》ための製品があれば、人はお金を払うということだ。カロリー制限研究に携わる高名な一流科学者のなかには、カロリー制限《模倣薬》(食事制限しなくても、CRと同じ効果を身体にもたらす薬)を研究している面々もいる。
(p118)
 もしもCRが人間でうまくいき、さらに副作用を多少なりとも軽減できたとしても、それでもこの方法が広まることはなさそうだ。あり余るほどの食べ物に囲まれていながら、一生がまんして、手を出さないでいられる人はほとんどいないだろうから、人間にCRの恩恵をもたらすためには、好きなだけ食べていても、CR制限に似た効果を示すような薬を開発する必要がある。また、副作用があっては困る。単一の薬でこの療法を実現するのは難しい。


第6章 メトセラの世界
(pp130-132)
 人間の老化を遅らせる薬や遺伝子治療法が開発されたら、だれがその恩恵を受けられるだろうか?バイオテクノロジーによる能力増強については、ほかの技術と同様、最初のうちは高価であっても、そのうちにだんだん安価になっていくことが考えられる、これはすでに述べた通りだ。
 寿命延長技術もまた、庶民の手に届くものになる。そう確信する根拠はほかにもある。歴史記録という具体的な証拠である。(略)公衆衛生技術が発展途上国にも定着するようになり、その平均寿命は革命的に上昇し始めた。それ以来、豊かな国々と貧しい国々の平均寿命には、相変わらず開きがあるものの、それはほとんど時間の差という状況になっている。
 豊かな人々は一八〇〇年代から寿命を延ばし始めた。一歩先んじたわけだが、新しいバイオテクノロジーによる能力増強でも同様のことが起きるかもしれない。(略)
 こういったきわめて具体的なデータからわかるように、豊かな国々と貧しい国々との物質的福祉の差は、過去一世紀のあいだに縮小してきた。その上、今後五〇年間にその差はさらに縮まっていくだろうと考えられる。(略)
 情報商品の価格は急速に低下するという証拠と考え合わせるなら、過去の平均寿命の推移からすれば、貧困世界の人々も、バイオテクノロジーによる能力増強法、特に老化を遅らせる技術の恩恵を、やがては受けるようになることを示唆している。もちろん市場に出てすぐには手が届かないだろうが、利用できるようになれば、その後の平均寿命は豊かな人々よりもずっと急激に増大し、ときが経つうちに差をどんどん埋めていくかもしれない。
(pp133-136)
 もしも、老化遅延技術が多くの人々に利用できるものになったならば、高齢化社会にまつわる緒問題の回避に役立つかもしれない。(略)
 ベビーブーム世代が定年になると、社会に対して経済的に貢献してきた集団だったのが、経済を消耗する集団へと変貌してしまう。
 社会保障制度やそのほかの公的年金制度は、すでに社会の高齢化がもたらす危機に直面している。(略)
 人間の老化を遅らせることは、高齢化する人口が直面するストラルドブラッグ人のジレンマ(第4章を参照)に対する、一つの解決方法である。もしジョンソンやケニヨン、ド・グレイ、そのほかの科学者たちの予測が正しければ、不老長寿技術の影響が現れるのは、公的年金制度が大きく変化するのとほぼ同じ時期ということになるだろう。一定の割合の高齢者に、生物学的な若さを保たせることができれば、高齢社会における医療費の増加に歯止めをかけ、さらに、連邦議会予算事務局が予測したように出費が大きく増加するのを食い止められるかもしれない。
 いいことはほかにもある。寿命の延びた動物では《病的状態の短縮》が見られる。最後の日まで元気に活動していて、ぽっくり死ぬという例がきわめて多いのだ。はっきりした死因のないこともよくある。カロリー制限を受けていたマウスの死後、解剖してみると、三分の一には、これといって悪いところはどこにもなかったのだ。もしも、人間が高齢になってから健康なうちに死ぬとすれば、晩年にかかる出費の多くが節約できる。なによりも苦しまずにすむ。
 老化を遅らせることができれば、出費を削減できるだけではなく、経済的な効果も上がるだろう。寿命延長技術によって、精神的にも肉体的にも十分現役でやっていける高齢者の数が増えれば、経済の活性化につながる。ただ、皮肉なことに、よい遺伝子を持ち、健康にも気を使い、老化を遅らせる治療法を受ける賢明さを兼ね備えた元気な高齢者が、その見返りとして得るのは、ずっと労働し続けること、という事態にはなるが。政府の給付金で退職後の長い年月をすごせるはずだったのに、それができないとは、あまり愉快なことではない。だとしても、病気を抱えて社会保障の世話になりながら生きていくよりも、仕事を続けなくてはならないにせよ健康であるほうが望ましい、と思う人が大部分なのではないだろうか。
 先進国の多くでは、現在の年金制度に関して問題が持ち上がっている。(略)老化のペースを遅らせることは、この人口統計的な危機を遅らせる一つの方法なのだ。
(pp137-140)
 寿命が延びたら、世界の人口構成にはどのような影響が現れるだろうか?皆が長生きするようになれば、人口が増加するのは確かだ。しかし、実際に人口がどのように増加してきたのか、統計データをたどってみると、いささか直感に反した現象が見られる。まず、現在、平均寿命の高い国では、人口は安定しているか、あるいは減少さえしているのをご存じだろうか。たとえば、国連経済社会局人口課の予測によれば、日本の人口は、平均寿命が大国のなかで最も高いというのに、今後五〇年で減少するという。平均寿命でそれほどひけをとらないイタリア、ドイツ、スペインも同様。まさに正反対のパターンを示すのが、インド、中国、パキスタン、ナイジェリアで、平均寿命は低いのに、人口は急激に増加しつつある。(略)
 最近数十年のあいだに、出生率は大幅に低下した。特に豊かな先進国でその傾向が著しい。国が豊かになって、教育が行きわたり、特に女性が権利を獲得するようになると、子どもを多く産むよりは教育やキャリアアップに多くの資産が費やされるようになる。(略)
 出生率は死亡率の二倍なので、同程度の影響がある場合、出生率に影響を与える現象のほうが、死亡率に対するものよりも、はるかに大きな変化を引き起こすことになる。たとえば、二〇〇〇年から二〇五〇年のあいだに、地球全体で三七億人が死亡し六六億人が生まれる、というのが国連の予測である。死亡率が半分になれば、人口は一九億人ほど増加する。出生率が半分になれば、二〇五〇年には人口は三三億人減少する。このように、出生率のほうが人口におよぼす力が大きいのだ。(略)
 ひとつ、簡単な計算をしてみよう。寿命を延ばす技術がいつ使えるようになり、それが広まるのにどのくらいかかるのか、正確な予測はできないが、そのへんは推測に頼る。寿命延長技術が市場に初めて現れるのが二〇一五年だとしよう。その結果、次の年の二〇一六年には、世界全体で死亡率が一%低下するとする。さらに、毎年、死亡率が一%ずつ余分に低下していくと考えてみる。つまり二〇一七年には、寿命延長技術のために世界全体の死亡率は二%低下し、二〇五〇年には、死亡率は三五%低下するというわけだ。これはまったく楽観的なシナリオだが、この結果から考えると、二〇五〇年には、先進国の平均寿命は一二〇歳くらいに、発展途上国では一一三歳くらいにまで延びていることになる。過去二世紀のあいだに平均寿命はかなり延びたが、これはそれ以上の延び率で、過去にこれだけ急速に寿命が長くなった例はない。
 仮に、このきわめて楽観的な平均寿命の延びが実現した場合、世界人口にはどれほどの影響が現れるだろうか? 国連が予測する死亡率の減少幅に単純に足し算していくと(二〇一六年には死亡率は一%減少、二〇五〇年には三五%減少)、二〇五〇年の人口は九四億人という結果が出る。国連のもともとの予測では八九億人である。
 余分に増えるのが五億人、これはばかにならない数字ではある。しかし、国連の予測した二〇五〇年の人口に比べれば、六%弱の増加にすぎない。人口増加の歴史と比較するなら、一九七〇年から一九七三年にかけての世界人口の増加率よりも少ないことになる。もちろんそれなりに大きな変化ではあるが、かといって、破滅的なものだとは言えない。
(pp141-143)
 医療関連支出や退職、人口については、いずれもがひじょうに明快な問題であり、変化傾向を数学的に分析することができる。しかし、老化克服の見通しによって、これとは別の「微妙(ソフト)な」諸問題、とりわけ、寿命が延びることによって、社会はどのように変化し、また発展するだろうか?といった問題が発生する。人間のつくる組織にはヒエラルキーがあるものが多い。みな争ってトップにのぼりつめようとするのは、そこまで行けば権力を奮うことができるからで、いったんのぼりつめたならば、そこからなかなか降りたがらない。会社の重役や現職の政治家、大学の学長や学部長など、そういう例には事欠かない。(略)
 社会、政治、そして学問の分野で、停滞や世代間の争いが起こる危険性がある、というのはもっともらしく聞こえる。しかし、高齢者の停滞を防ぐ強力な手段がある。寿命延長技術がそれで、これはたんに長生きさせるだけのものではなく、脳や身体を若く保ってくれもするからだ。若々しい脳はのみこみが速く、新しい状況に簡単に順応できる。二一世紀の中頃には、六五歳の人間が、二五歳の人間と同じぐらい柔軟な考え方ができるようになっているかもしれない。しかもその柔軟さに加えて、六五年間の人生で得た経験にも支えられているのだ。
 もう一つ考慮すべきは、人間は、これから自分自身の知力に手を加え、学習や記憶能力を高めたり、性格のある面を変革したりできるようになっていく、という点だ。長寿者たちは、人との競争に勝つために、知力変革技術を受けるようになるだろう。会社の重役や社長などが自らの作法に固執することと、一つの会社や大学が丸ごと停滞することとは、まったく別のことである。もしも組織が停滞したならば、より柔軟な競争者がとびかかって、分け前をさらっていくだけのことだ。組織レベルで、一種の自然淘汰が働くのだ。変化の遅い鈍重な組織は死に絶えるだけのこと。融通の利く組織とは、おそらく融通の利く人たちのいる組織だろう。
 人口高齢化が社会におよぼす影響はまだほかにもある。たとえば、高齢者は選挙で投票する割合が高い。(略)また、高齢者が暴力犯罪を起こす例はきわめて少ない。(略)結局、高齢化が進めば、市民生活への関与を深め、暴力の使用を控えるようになると言える。長い目で見たときに、これが社会にどのような変化を引き起こすことになるのかは難しいところだが、いずれにしても、寿命延長のあるなしにかかわらず、人口高齢化が進んでいけば明らかになるだろう。
 最後に、寿命延長の実際的な利益は、それによって起こる危険性を上回ると考えられる。もし老化を遅らせられるなら、さまざまな種類の疾患に対して、もっと効果的に闘えるだろうし、社会の老齢化による経済的な打撃を和らげてもくれるだろう。また、寿命が延長したとしても、世界人口に対する影響は驚くほど小さいのだ。これらの具体的なデータからすれば、寿命延長が社会におよぼす二番目の影響はどのようなものか、静観する姿勢をとるのが最も賢明だと思われる。とはいえ、寿命延長によって、予測できない問題が生じることも確実だろう。社会の一員として、私たちは協力してその問題を解決しなくてはならない。過去にも、社会に新規の事物がもたらされると、それにともなって問題が生じてきた。私たちはこれまでにもそういった問題を解決してきたのだ。


第7章 自分自身の子ども
(pp157-158)
 体外受精、着床前遺伝子診断、子宮内遺伝子治療、遺伝子操作。これらはすべてたった一つの目的、健康な子どもを産み育てたいという人間の欲求を満たすために開発されてきたものである。この欲求がどれほど強いかは、さきにあげた統計データが示している。IVFはこれまでに三〇〇万組以上のカップルの妊娠を助けてきた。PGDのおかげで致命的な遺伝子異常を免れて生まれてきた子どもは数千人にのぼる。いつかそのうち、子宮内遺伝子治療や遺伝子操作もカップルの苦悩を解消し子どもを生み出すための助けとなるだろう。
 ほかの医学技術と同様、社会はこれら生殖・衛生技術の恩恵を得ることになる。疾病を抱えて生まれてくる子どものための保健医療費が削減できるからだ。PGDは高価だが、化学療法にかかる費用、ダウン症候群患者が生涯必要とする費用を考えれば、ずっと安価となる。予防は治療よりもたやすいのである。疾病の原因遺伝子や疾病の発症確率を上昇させる遺伝子の発現を、技術を用いて低下させられるならば、私たちは皆その恩恵を受けるが、なによりも助けられるのは、これらの技術によって生まれてくる子どもたち自身なのだ。
 このような利点があるというのに、批評家たちはこれらの技術を攻撃し続けている。最もよく聞かれる反対意見は「生殖に干渉するのは不自然であり、神を演じようと企てることだ」というものである。しかし、ここまで述べてきたように、そういった議論は人間の歴史の大部分や近代社会の多くの面を無視している。私たち人間は、狩猟採集時代以来、生殖に関してはすでに大きな変革を経てきた。避妊具や避妊薬によりセックスと繁殖とを切り離しているし、超音波や出生前診断でもって生まれる前の子どもについて知識を得、出産が困難というのなら帝王切開を行う。また病気の新生児や未熟児の生命を救うために保育器や薬品を用いてもいる。
 つまり、私たちはとっくに、健康な子どもを持つためならば手段も選ばず、できる限りの干渉をするようになっているのだ。これら新しい技術はすべて、私たち人間が人間として地上に現れた最初の頃から目指していたゴール、子どもを安全にこの世に生み出すというゴールを達成するための、ただの道具にすぎないのである。


第8章 選択による子ども
(pp170-171)
 心臓病や糖尿病、ガンなどの危険因子である肥満について考えてみよう。肥満傾向には少なくとも六つの遺伝子の四〇もの変異型が関係すると考えられている。肥満の危険性減少は、医療的に見て明らかに価値がある。同時に、美容的な意味からいってもこれには明らかに価値がある。肥満の危険性減少のために遺伝子操作を行うのは、医療的な見地からすれば、社会的にも容認できることかもしれない。しかし、親が子どもの健康を願っているのかそれとも見栄えがよくなってほしいのか、どちらなのかを知る手だてはない。親の動機がどちらにあったとしても、子どもの将来の体重を操作すれば、美容に関わってくるのは確かだ。もしこれが許されるとなれば、なぜ身長や髪や肌の色について遺伝子操作をしてはいけないのか、という疑問を抱く人も現れてくるだろう。
こういった例はほかにいくらでも挙げられる。また科学が進歩すればそういう事例はますます増えていくだろう。「治療」と「能力増強」とのあいだのグレーゾーンは、滑りやすい坂道なのである。(略)
 歴史を振り返ってみれば、生物学の新技術はたいてい、最初は恐れられるが、次第に価値が認められるにしたがって受け入れられるようになる。IVFや臓器移植、予防接種、そのほかの技術は、登場当時は敵意を向けられたが、現在では当たり前のこととされている。遺伝子による能力増強も同じ道をたどるのかもしれないではないか。
(p173)
 残念ながら、現在の技術では生殖目的のクローニングは安全とは言えない。クローン動物は、生まれてきても奇形、あるいは健康面での問題を抱えていることが多いのが実状だ。そういうわけで、現段階で人間のクローニングを試みるのは倫理的に無理がある。とりあえず動物を対象に基礎研究を進め、安全だという確証が得られるまで、人間のクローニングは法律で禁止するという選択肢が考えられるが、実際、そうすべきだろう。ところが、クローニングに反対する動きは安全性をことさら問題視しているわけではない。争点は「人間性」と「自己同一性(アイデンティティ)」にある。もしも人間のクローニングを行ったならば、それによって生まれてきた子どもは唯一無二の存在としての尊厳を傷つけられることになり、ひいては人類全体の尊厳が損なわれることにすらなるのではないか、と言うのだ。
(pp174-178)
 遺伝子技術を用いて胎児の望ましい特性を選択することに反対する人々の懸念の一つは、これが子どもに対する余りに大きな力を親に与えることになるのではないか、という点にある。(略)この憂慮にはどの程度の現実性があるだろうか? その答えは多くの事実、なかでも人間のアイデンティティはどの程度の数の遺伝子によって影響されているのか、という点に関わっている。(略)
 遺伝子と行動上の形質にはこの程度の相関関係しかないとするなら、親が遺伝子操作を通じて子どもの形質の決定に力を行使するとしても、限りがあることになる。つまり遺伝子操作によって、親はある傾向の子どもを持つ確率を上げることはできるが、遺伝子をいくらいじったところで、子どものIQや性格までもコントロールすることはできないのだ。子どもが結局どういう性格になり、どの程度の知能を持つようになるか、またどのような行動上の形質を表すようになるかは、やはり厳密に環境やランダムなチャンスによるのだ。(略)
(pp182-185)
 遺伝子が性格をコントロール仕切れないもう一つの制限事項がある。どの遺伝子もみな複数の役割を担っているということだ。性格や知能のある一面に関連する遺伝子のおおかたがほかの面にも影響する。(略)
 そういうわけだから、特定の遺伝子を選ぶといっても、好きな料理をあれこれ注文するようなわけにはいかない。つねに何かとひきかえ(トレードオフ)にしなければならない。高いIQの可能性と、不安神経症そのほかの精神障害を発症する危険性とを天秤にかけなければならない。(略)
 こういったトレードオフやそのほかの制約の存在を考え合わせてみると、遺伝子操作に関するまた別の懸念が浮び上ってくる。子どもたちの遺伝子に影響力をおよぼすことによって社会が均一化してしまうのではないかという懸念である。遺伝子技術に手を出す親で、子どもをバブル・ボーイ・ディジーズや筋ジストロフィ、先天性心疾患、ガンにしたがるような親はまずいないだろう。しかし行動にかかわる形質に関してはトレードオフが生じてしまうものが大変多く、さらに調整もおおざっぱにしかできないので、生まれてくるのは種々雑多な子どもたちとなる。
 遺伝子は私たちの行動に途方もない影響をおよぼす。近い将来、親たちは遺伝子操作によって子どもの健康や外見(髪・目・肌の色、身長、容貌、健康要因、運動能力、体重など)、さらにまた子どものIQや性格などそのほかの精神的形質にも影響をおよぼすようになるだろう。しかし、IQ、性格、そのほかの精神的形質を完璧にコントロールすることは絶対にできない。親は生まれてくる子どもの個性についてかなりの選択の自由を手にするが、それは絶対的な力からはほど遠い。
 もちろん、だからといってクローニングや遺伝子操作が何の問題も引き起こさないという意味ではない。(略)
 たとえ親が適切にその子を育てたとしても、「操作」された子どもは感情面で否定的かつ深刻な影響を受けているかもしれない。自分がある特質を持つように「デザイン」されたと知って憤慨し、自分の人生は最初から筋書きが与えられ操られたもので、個性を発揮するチャンスが奪われたかのように感じるかもしれない。あるいは、どうして自分にとって望ましい操作をしてくれなかったのかと親を恨むこともあるだろう。たとえば高い運動能力を与えられた子どもは高い知能がほしかったのかもしれないし、秀でた容貌や長い寿命をもらったとしても、そんなものに費用をつぎこまなくてもよかったのにと思うかもしれない。
 このような懸念は今に始まったものではない。IVF(体外受精)による子どもが初めて誕生したとき、多くのIVF批判者が、IVFで生まれた子どもは、受精後数日を試験管のなかですごしたことや彼らが「人工的」に「不自然な」方法で生まれてきたのだと知って、一生、心に傷を負いながらすごすことになるだろうと言い立てた。(略)
 だが、何年かにわたる心理学的な追跡調査によれば、IVFで生まれた子どもは非の打ち所のないほど正常に育っている。それどころか、彼らはむしろ普通の子ども以上に感情的に健全だという傾向も見られる。データが示すところによると、わざわざ苦労してIVFを行った親は通常の親に比べて、おおむね子どもをより健全な環境で育てている。
(pp186-194)
 子どもの遺伝子を操作するというのは新しい考えだが、子どもへの投資はそうではない。いつの時代でも、親というものはつねに子どもたちを有利にするために、できる限りのもの、食糧、衣服、家、教育などを与えるのだが、そのなかには子どもの脳や身体に生涯続くような変化をおよぼすものも多くある。
 実は、親が子どもに投資をするのは人間の進化の過程で選択されてきた形質の一つなのだ。もしも親が子どもにエネルギーを注がず、よき人生を歩む手助けもしなければ、その親は自分の遺伝子を次世代に残すという点で不利になる。一世代に一ダースから何千もの子をつくれるほかの動物とは違って、私たち人間がつくる子どもはほんの数人、おまけに成熟するのにほかのどの動物よりも時間がかかる。こういった事情により、私たちはほかの生物に比べて子どもの世話にはたいへんな手間をかけ、子どもに利点を与える方向に進化してきたのだ。
 私たちの社会はこれを歓迎、賞賛し、支持する制度をつくり上げてきた。学校、予防接種プログラム、ピアノのレッスン、家庭教師などなど、これらすべて、子どもをできるだけ有利にしようという努力の現れだ。(略)
 どんな学校に通うか、何を食べるか、そのほかもろもろの文化現象は、あとあとまで影響をおよぼす。アメリカでは植民地時代に比べて男性も女性も平均身長が八センチほど高くなったが、これは栄養状態が改善されたためとされる。同じような変化はほかの国々でも起こっている。
 一九八四年、政治学者のジェイムズ・フリンが気づいたのはこれとはまた別の傾向だが、これがなかなか面白い。IQである。IQの数値はどの年も平均が一〇〇になるように補正され、ほかの値はその両側の曲線によって表わされる。したがって、裏で起こっている変化に気づくのは難しい。フリンはIQテストの補正前の素点にさかのぼって正解数と不正解数を表出した。するとなんと、正解数が年々増加していることがわかったのだ。アメリカの一九一八年と一九九五年との結果を比べると、IQは二五ポイント上昇したことになる。つまり一九一八年にIQ一〇〇だった人は、一九九五年では七五の人と同じだ。一九九五年のテストで一〇〇の人は、一九一八年では一二五にあたる。(略)
 身長が伸びIQも高くなっていることからすると、子どもは近年、非遺伝学的なテクニックによって能力増強されていることになる。結局、育ち(環境)が改善されても、氏(うじ)(遺伝子)が改善されたのと同じように、結果は確実なものになる。遺伝子操作の結果、子どもが高身長になろうと高い知能を得ようと、そんなことは実は親子双方にとって真に大切なことではない。おおかたの親にとっては、子どもに数々の利点を与えるように最善をつくすことこそが大事なのだ。私たちはそういうふうに進化してきたのである。
 文化的および生物学的な理由から、子どもが成長して自分で選択できるようになるまでは、親が子どもに代わって決定を行うのが最も適切だというのが、今日の社会の基本的な見解である(親が破壊的な行動を示すような場合は除く)。(略)これは、概して言えば親はなによりも子どもにとってよかれと望み、ほかのだれよりも子どもに利益をもたらす立場にあるということにもとづいている。
 ここで面白いのは、遺伝的能力増強に反対する人々のなかには、遺伝子操作を「優生学的」と決めつける人がいることだ。(略)
 もっと面白いことがある。人間の能力増強をめぐる議論で、遺伝的能力増強テクニックを禁止しようとしているのは、国家が人々の遺伝子を管理すべきだと主張する人々だけなのだ。一方、能力増強を擁護する人々は、個人やそれぞれの家族の選択について論議している。これは国家による管理とは対照的である。
 だとすれば、能力増強禁止論者は、ある意味ではこの論争における優生学的な面を支持していることになる。彼らは個人や家族が自らの遺伝子を選択するのに反対する人々である。さらに突き詰めれば、人類には受け継いでいくべき「正しい」遺伝子があり(それはつまり現在私たちが有する遺伝子のことだ)、おまけに、大衆にはこの件についてはまったく選択権がないと決めつけている人々だ。これに対し、少数派である遺伝子選択擁護者たちは、自らの意見をほかの人たち、ほかの国の国民に押しつけようなどとはしない。ただひたすら、遺伝子選択の決定を自分自身ならびに、家族のために行える自由を求めているだけだ。子育てにおいて親には多くの決定が任されている。それと同じように、この遺伝子選択も親に任されて当然なのだ。(リャク)
 家族の選択権を尊重しつつも規制をはかるとするなら、禁止ではなくて安全性や教育、平等性に焦点を絞ることが必要になるだろう。(略)
 遺伝的能力増強をめぐる法律が、国際的に一致しないままでは、どうしても、と思う親を止めることができないのは明らかだ。遺伝子技術に対する考え方が国によって異なるとすれば、各国の法律が一致するということはありそうにない。先に見たように、わざわざ国外にまで行って診断を受けるとすれば、ますます費用が上昇し、貧しい人々と豊かな人々のあいだの不平等はいよいよ拡大する。
 だからといって規制しなくてよいというのではない。もちろん大衆の手に届くよう、安全性、教育、平等性を強化する方向で規制しなければならない。(略)
 生殖補助テクニックの安全性が示され《るなら》、政府の役割は禁止することではなく、啓蒙や平等性を推進することになる。アメリカではクローンや遺伝子操作について誤解している人が多いので、啓蒙は特に難しいが、だからこそ効果も上がることだろう。啓蒙キャンペーンで特に強調すべきなのは「すべての子どもは独立した個人である」こと、また、「遺伝子技術を用いても、特定の性格や知能、健康、外見を備えた人間を確実につくり出せるというわけではない」ということだ。(略)
 《結局のところ》、私たちが子どもたちのためにどんな選択をしようとも、子どもが成長して大人になったときには、親の選択は変更されてしまうのだ。将来的には、投薬や成人遺伝子治療、コンピュータの脳への組み込みなどにより、今よりずっと簡単に自らのこころやからだをコントロールできるようになっているかもしれない。
 遺伝子技術の威力を借りて、私たちは子どもの当初の性質に影響を与えられるようになる。しかしその性質も、ときが経ち、新技術が発達して成人の精神や身体に手を加えられるようになるにつれて、ますますたやすく変えられるようになる。私たち親がどのようにして子どもを生み、育てていったとしても、成人となった彼らは好ましい自分を自ら選択できるようになっていることだろう。


第9章 接続された脳
(pp200-201)
 ニューラル・インターフェースは議論するに足る技術である。だがそれは、すぐ実現可能なところまで来ているからではない(まだまだ実現にはほど遠い)。この技術が人間の生活に途方もない影響を与え、大きな変革を引き起こす恐れがあるからだ。私たちの脳内部の活動に直接手を加えたり、脳内活動を直接コンピュータに連結することができれば、自分自身を変革するための大きな力が手に入るだろうが、その影響力は本書で紹介してきたほかのどの技術よりも大きい。自分の感情をリアルタイムで制御する。自分の性格を根本的に、上書きするように変える。心の奥深いところにある思考や感覚を人とやりとりする。そういったことが可能になり、さらに、コンピュータの持つ能力を、自分のものであるかのように利用できるようになる。このような能力は、アイデンティティや個人の存在といった感覚に対して、深刻な疑問を投げかけるだろう。人間と機械の境界線だけでなく、人間一人一人の境界までもが曖昧になってしまうかもしれない。子どもに遺伝子操作を加えるよりも、こころやからだを遺伝子操作や薬物摂取によって変容させるよりも、さらに老化を克服するよりも、精神とコンピュータを統合し、たがいの精神をも統合することは、人間とはどういう存在なのかという概念に挑戦するものなのだ。
 当面は、脳内への装置移植を医療に利用して、視覚障害者や麻痺患者、脳の損傷患者を補助するという研究が続けられ、技術開発が進んでいくだろう。補助法や治療法を見い出したいという強い想いが、より洗練された装置の設計を促し、移植手術の手順はより安全なものになっていくだろう。それにより、脳がどうやって働いているのかがさらに解明され、脳内に装置を移植(インプラント)するというアイデアが徐々に一般の人たちの知るところにもなるだろう。そうすれば、病気治療のためではなく能力増強のためにインプラントを利用する人が現れても、それほどの衝撃とは思えなくなる。


第10章 ワールド・ワイド・マインド
(pp234-236)
 脳-コンピュータ・インターフェースが、盲目や麻痺、記憶障害などについて効果的なことは、すでに示されている。だがそれでもなお、治療用として広く採用されるには二つの問題点を解決しなければならない。健康な人々が新しいコミュニケーションの道具として用いるようになるのはさらにその先のことだ。一つ目の問題点は、インターフェースとつながるニューロンが少ないために、情報の流れが限定されるということだ。(略)アイデアの実験的証明から、実際の応用にいたるまでには、インプラントは将来、さらに多くのニューロンと接続しなければならない。(略)
 二つ目の問題点は脳外科手術であり、こちらのほうが重大である。(略)ニューラル・インターフェースが、治療的にであれ能力増強のためであれ主流になるためには、健康上の危険性や費用、脳のなかに手をつっこむという不都合を、なんとかして大幅に低減させなくてはならない。
(p243)
 安全で簡単に組み込み可能な、しかも何百万ものニューロンと接続できる脳内インプラントが開発されれば、人工神経装具の世界には革命が起きるだろう。視覚や聴覚を失った人も正常な人と同じレベルにまで回復可能になる。四肢麻痺の患者は、持って生まれた手足を操るのと同じように簡単かつ正確に、ロボットアームやコンピュータ・インターフェースをコントロールできるようになる。
 インプラントがブロードバンドになれば、デルガードとピースの行った、あの粗雑な実験とは比べようもないほど、微妙できめ細かいところまで感情をコントロールできるようになると考えられる。このインプラントを持っていれば、コンピュータや他人とのあいだで、想像できる限りの豊かな映像や音や感覚を、直接送り合うこともできるようになるだろう。ここで最も重要な点は、こういった高密度かつ大容量のインプラントとの接続が、記憶や注意力、言語、知覚、そのほかの高次脳機能に関する新しい洞察への道を拓くだろうということだ。それによって新たな理解が得られ、私たちがもともと持つ知的機能を増強するインプラントの開発が始まる可能性もある。
(pp244-245)
 ニューラル・インターフェースは、脳とコンピュータという二大情報処理システムを結びつける。脳の特徴は、なんといっても柔軟で融通が利くところだ。(略)それに比べて、コンピュータは単純で杓子定規、きわめて特化したものだ。(略)>p245>
 つまり、脳とコンピュータは、たがいに補完する関係にあると言えるだろう。だからこそ、人間はコンピュータを開発したのだ。それならば、脳とコンピュータとをつなぎ合わせ、連携して情報処理が行えるようにできたとしたら?両者が緊密に連携すればするほど、得るものは多くなるに違いない。これは不可能なことではない。というのも、人間の脳は、道具を扱う能力をすでに有しているからだ。この力をもってすれば、コンピュータを私たちのセルフイメージに組み入れることができる。
(pp249-251)
 史上これと同じような意義を持つ出来事と言えるのは、おそらく、ルネッサンスの到来を告げた快挙、一四五〇年代、ヨハネス・グーテンベルクによる印刷技術の開発だろう。グーテンベルク以前、書物は貴重品であり、ひじょうに豊かな人々だけのものだった。(略)人間が写しとるために本は高価であり、しかも、写本をつくるたびに間違いが生じるということにもなった。印刷術がこの状態を変革したのだ。人類はこのとき初めて、大量の情報を正確な形で共有する効率的な方法を手にしたのだ。一度も会ったことのない男たち、女たち、同時代に生きたこともないような人々が、思考内容を一定かつ永続的方法で、分かち合えるようになったのである。
 また、印刷術の到来は社会の脱中心化という驚くべき事態をも呼び込むこととなった。(略)マルティン・ルターは教会に反旗をひるがえすために印刷術を用いた。小冊子を印刷して配布し、宗教改革に弾みをつけたのだ。教会の側も、メッセージを広めるのに印刷術の力を借りはした。しかし、印刷術の影響はそれまで声なき存在であった人々の意見を拡大して見せるという点にこそ、大きく現れたのだ。
 人間の歴史を通じて、情報とコミュニケーションの技術(印刷術、電話、コンピュータ、そしてインターネット)は、概して個々人に力を与え、独裁政体の土台を崩す役割を担ってきた。これらの技術は、制御ではなく変化を促進してきた。コピー技術やファックス機の登場は旧ソビエト連邦の改革につながった。また、インターネットへのアクセスは、今日の中国で(体制側の検閲にもかかわらず)ゆっくりとだが変化を促しつつある。テレビやラジオなどの中央集権的な情報技術に対して、ワールド・ワイド・ウェブや携帯電話、インスタント・メッセージのような新しい技術は《分権的》なものだ。だれであれ、自分のオリジナルなものにせよ他から得たものにせよ、情報をほかの人たちと共有することができる。ニューラル・インターフェースは分権的コミュニケーション装置の頂点となり、個々人が考えや感覚、感情、知識を同じ装置を身につけた世界中の人に向けて発信できるようになるだろう。歴史の教訓によれば、このような進展は個々人やグループに力を与え、中央権力の足場を崩すものである。
 情報技術は中央権力の足場を揺るがしはする。しかしながらそれは、人間同士の協同によって得られる利益を増大させるのだ。ロバート・ライトは『ノンゼロ人間の運命の論理』(Nonzero: The Logic of Human Destiny・未邦訳)のなかで、人類の歴史について魅力的な理論を打ち立て、この傾向を説明して見せた。(略)人類の歴史二万年を振り返ってライトがたどり着いた結論は、人類は新しいコミュニケーション方法を繰り返し開発して、活動を調和させ、たがいの相互作用がノン・ゼロサム的になるようにしてきたというものだ。つまり、私たちは新しい活動方法を発明することによって、みんなが利益を受けるようにしてきた、というのだ。
 印刷術がまさにこの好例である。(略)
 情報網テクノロジーは全体として、知性を世界規模に増加させるという影響をおよぼす。私たち個々人は、ある意味、世界という脳のなかのニューロン一本一本だと言える。この脳は、アイデアや経験や革新的なものなどがやりとりされる市場とも言える。たがいにコミュニケーションする力が強くなるほど、脳は統合され一体化していく。過去数世紀に私たちは驚異的に進歩してきた。それぞれの民族や文明のなかだけの演算(コンピューテーション)から始まって、コンピュータを持っていればだれでも、テキストや画像、音、映像などを世界の何十億もの人々に向けて発信できるワールド.ワイド・ウェブにまでいたったのだ。次のステップは、私たちの生物学的な脳の統合である。今や、心のなかの考えや経験を解き放ってたがいに共有し合い、それらを紡ぎあげてワールド・ワイド.マインドをつくり上げていくべきときなのだ。


第11章 限界なき生命
(pp256-257)
 私たちはつねに、手の届く範囲よりもずっと先にまで到達しようと苦心してきた。この、つねにもっとそれ以上を求めてやまない想いをカスは恐れているのだが、実はこの熱望こそが人間性の証なのである。私たちの文化は、四万年前に《大飛躍》が起こって以来ずっと、これを推進力として進化してきたのだが、いま現在も、この力によって前進中なのだ。
 永遠に続く満足感は、神話的な理想郷(ユートピア)や暗黒郷(ディストピア)だけで見られるものだ。現実世界では、満足は何かを達成したときだけ、ほんのつかのま得られるものにすぎない。もしも満足が長く続いたとしたら、私たちは、成長したい、変化したいなどとは思わなくなってしまうだろう。
 この渇望、手の届く範囲を超えてそのさらに先まで達したいという想い、「現世では手に入れることができない」ものを入手したいという野望こそが、私たち人類世界をつくり上げてきた力なのだ。快適な生活ができるのもそのおかげだし、命を救ってくれる医学ができたのもそのおかげである。また、この力があるからこそ、膨大な量の知識が結集されていく。美術も音楽も、哲学も、すべてこの力がつくり出したものだ。宇宙の謎の奥深くまで理解できたのもこの力があるためだ。だから、もう十分だなどと言わずに、つねにもっと先を求めるべきなのだ。それこそが、人間としてのふるまいなのである。
 私たちが今日の生活で利用しているものはすべて、先人たちの活動の結果によるものである。「十分だ」などと考えず、その代わりに「さあ、次は?」と問いかけてきた先達がいたから、今の私たちの生活がある。勇敢で向こう見ずな発明家や探検家たちは、よりよい生き方やより快適な生活を探し求めてきた。加えて、子どもには自分よりもよい健康状態と多くの機会を与えてやりたいと考えた。好奇心や、未知のものを試してみたいという意志、危険に直面してもひるまない勇気、それらを先達が持っていたからこそ今のすべてがあるのだ。農耕から始まり、文字、火の使用、電話、抗生物質など、あげればきりがない。しかし、私たちは先達に借りたこの負債を返すことはできない。皆この世界から姿を消してしまっているので、感謝の念を届けることもできない。
 だが、返済は無理だとしても、未来の世代のために先払いはできるではないか。子孫たちは私たちが開発した技術をなんらかの形で(どんな形になるのか予測は難しく、私たちには想像すらできないかもしれないが)利用するだろう。歴史を紐解くならば、あとの世代の人々は、私たちから伝えられた力を用いて世界をもっとよい場所にしようとするだろう。過去の世代の人々がなしとげてくれたことを、今こそ私たちが行う番なのだ。世界を探検し、行為と在りかたとを新しい方法でもって実験し、そうやって学んだ知識を未来に向けて受けわたしていこうではないか。未来の人々に向かって、どのように生活せよと指図などできない。多数の家族や個々人が自らの計画を立てるに任せればよい。それぞれが最良と考える判断を下すに任せ、皆の知恵を合わせて、人類という種の未来をつくっていくに任せればよいのだ。

■書評・紹介・言及

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版


*作成:植村 要