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『ウンコな議論』

Frankfurt, Harry G. 2005 On Bullshit, Princeton University Press
=20060110 山形 浩生 訳,筑摩書房,107p.


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■Frankfurt, Harry G. 2005 On Bullshit, Princeton University Press =20060110 山形 浩生 訳 『ウンコな議論』,筑摩書房,107p. ISBN-10: 4480842705 ISBN-13: 978-4480842701 1365 [amazon]

■出版社/著者からの内容紹介
その場しのぎの言いのがれ、ふかし、ごまかし、はぐらかし・ 政治で、メディアで、社内会議で、「そんなウンコな!」と思わずうめいてしまう、そんな屁理屈のかずかずが、なぜこんなに蔓延しているのか?  世にみちみちるその正体を暴き、つぎつぎ繰り出されるカラクリを解く。 米国騒然の怪著、待望の翻訳山形浩生による爆笑必至の解説たっぷり付!

■内容(「BOOK」データベースより)
その場しのぎの言いのがれ、口先から溢れ出てくる、ふかし、ごまかし、はぐらかし―― それが「ウンコな議論」だ。世にみちみちるその正体を暴き、つぎつぎ繰り出されるカラクリを解く。悶笑必至の訳者解説付。

■目次
ウンコな議論
訳者解説

■紹介・引用
本書は1970年代に匿名で書かれた怪文書 “On Bullshit” の全訳である。 アメリカの院生達の間で脈々と受け継がれてきたこの楽しい怪文書の作者フランクファート教授(プリンストン大学名誉教授)が、 30年もの歳月を経て今更名乗りでた背景には、構築主義や文化相対主義のインチキ具合に対する 妥当な認識がようやく醸成されてきたことも無関係ではないだろう。 さて、本書の中身をあれこれと話すのは、この短い論文の全てを暴露するような無粋な真似であるからして、 いかに経済学帝国主義と揶揄される経済学の片隅でちまちまと研究を行なう愚者 といえども、あえてそのような大罪は犯しますまい。 しかしながら、日本で信頼に値する数少ない評論家・翻訳家の 一人であられる山形 浩生氏の解説を一部引用することで、本書の魅力がいささかなりとも伝われば、 と強く願わずにはいられない今日この頃なのである。 巷に溢れまくるウンコ議論に浅はかにのせられることもなく、 また自らウンコ議論を恥知らずに生み出すこともなく、 若き研究者や院生が果敢に真理に挑み、 面白くも新しい知見を創出する姿は心からワクワクさせられるすんばらしいものである。 そのような人が本書を読むことで少しでも増えることを願いつつ、駄文を連ねただけの本紹介を終えることにしよう。

(以下は、訳者解説80-88p.からの引用。)
当時、・・・哲学の世界には、・・・目を覆いたくなるようなウンコ議論や屁理屈が猖獗をきわめていたのであった。
 それが、六〇年代後半から七〇年代にかけて世界中を覆った、社会主義学生運動に伴う反知性主義の流れ、 そしてそれに前後する悪しき文化相対主義の流れである。
 反知性主義は、必ずしも目新しいものではない。知識の追求は果てがない。 さらに一人の人間にできることには限りがある。己の関心ある問題を追いかけるうちに気がつくと いつの間にやらタコツボに陥って、「しかしこんなことをやっていて何の意味があるのか」と思ったことのない人はまれであろう。 ・・・そうした人々は、自分の関心、あるいは目先の課題とは無縁の生活を送っている人々や動物が、 のびやかに明るく生きている(ように見える)のを見て深い憂鬱にとらわれてしまう。
 これらの発想は決して無価値なものではない。単に青臭くて退屈なだけである。 さらに、無価値ではないとはいえ、一方では威張るほどの価値も持ってはいない。 ちょっとしたボタンのかけちがえ程度のものである。・・・
 一方で古来より愚者の知恵という考え方がある。狭いタコツボに入りこみがちな小賢しい知恵よりも、 枠にとらわれず余計な計算に縛られることもない愚者のほうが時に本質を突いた鋭い見方を提供できる、 という発想である。・・・これまた決して間違ってはいない。しかしながらごくたまに愚者の知恵という現象が 見られるからといって、すべての愚者が常にそうした知恵を持ち合わせているわけではない。 知恵のある愚者よりは、単なるはた迷惑な小賢しい馬鹿のほうが遥かに多いのである。・・・ それを理解せずに特殊な例を一般化し、どんな馬鹿でもかまわず拝み、 それどころか他人の知識の探求を邪魔しようとする連中はまさにその有害無益な小賢しい馬鹿であり 他人の楽しみを邪魔して喜ぶ無粋で低劣な寄生虫どもである。
 これまでの文化の多くは、こうした小賢しく低俗な寄生虫をたまに輩出せしめつつも・・・、 そうした輩を適度につまはじきにしてはからかって遊ぶ知恵を持ち合わせていた。・・・ しかしながらそれが青臭い社会主義と結びついたとき、話はわけがわからなくなってきた。 青臭い学生社会主義においては、学問などというのはブルジョワのお遊びにすぎず、 資本家に奉仕するだけの権力の道具でしかない。えらいのは労働者であり、 直接労働に貢献しないものはすべて排除されるべきであり、したがって知性は有害なので インテリは下放して農作業や工場労働に従事させて矯正せねばならない、というわけである。 こうした社会主義運動と結びついてしまったために、反知性主義は不幸なことになにやら 社会正義や道徳と結びついて我が物顔にのさばるようになる。・・・
 同時にそれと半ば独立し、半ば手を組む形で愚鈍な文化相対主義が幅をきかせるようになる。 文化相対主義にもいろいろ流派はあるが、どれもまあ物の見方にはいろいろあるという程度のことを 難しく言い換えただけの話ではあったりする。もちろん、これにはそれなりの意味はあった。・・・ 各種の文化はそれなりに整合性のある世界観を持っており、それは十分尊重に値するものである。 西洋文明だけが絶対的に正しいのではない。これは意味のある発想だった。これは愚鈍でない、 賢明な文化相対主義である。
 しかしながら・・・・・・その延長で出てきたのが、文化はどれも同じ価値を持つ、あるいはすべての 文化的な知見や物言いが同じくらい正しい、という愚鈍な文化相対主義である。・・・病気を治すのに 薬を処方するのと呪術師が祈祷をするのとで効果がまったく変わらないとか、その手の世迷いごとを 真顔で言い立てる馬鹿がウンカのごとくにわいてきたのである。いやそれどころか、 西洋科学は資本家の支配の道具でしかないから劣ったものであり、むしろ魔術や土着信仰の 迷信のほうがエライなどという話も平気で登場するようになってきた。
 それと同時に、生半可な知恵をつけた連中も出てきた。不確定性原理をたてに、 しょせんあらゆる現象は観察者次第なのであり、客観的な事実などというものはない、 それを前提にした西洋科学はまちがっているとか、不完全性定理をもとに 西洋科学だって不完全でありでかいツラはできない、といった情けないことを 得意げに唱える輩も登場してきた。これが文化相対主義や反知性主義とどう手を組むかは容易に理解できよう。 魔術も科学も見方の違いでしかなく、すべては観察者次第である――したがって観察者次第でどうにでもなる 外部世界を云々するより、観察者――つまりはご当人――についてあれこれ素直に書き連ねたほうが有益ではないか? 一時は、哲学や文芸批評その他の多くの分野で、この手のアホダラ経が大いに幅をきかせていたりしたのである。


*作成:坂本 徳仁
UP: 20080621 REV:20080626
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