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『日常・共同体・アイロニー――自己決定の本質と限界』

宮台 真司・仲正 昌樹 20041218 双風舎 286p.


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■宮台 真司・仲正 昌樹 20041218 『日常・共同体・アイロニー――自己決定の本質と限界』,双風舎,286p. ISBN-10: 4902465043 ISBN-13: 978-4902465044 \1890  [amazon][kinokuniya]

■内容

私たちは「日常」的に、様ざまな事柄を自分で決めていると思っている。とはいえ、自己決定しているようであっても、実は、「共同体」に制約されていたりする。そこに、本人は自己決定だと考えていることが、「共同体」のシステムから必然的に導き出されたものだ、という「アイロニー」が生じる。

■目次

第一章 現代思想と自己決定
第二章 共同体と自己決定
第三章 リベラリズムとアイロニー
第四章 日常・共同体・アイロニー

■引用

仲正:脱構築は正義だという場合の正義は、いまはこのように分配しており、人びとはこのような権利をもっているが時代や地域などといった見方を変えると、その権利がとんでもない不正になっている可能性がある、ということを思考し、”もうひとつの正義”を探っていくことを意味します。だから正義をおこなうときには、どういう不正に対する正義なのか、どこの「権利」を制限して、どこに新たな「配分」することになるのか考えておく必要がある。新たな「権利」の資源をどこに求めるのか?自分は弱者のために戦っているのだからといっても、その弱者以外の、”誰か”の権利を多少なりとも制限することになるのだから、「正義の闘い」だからといって、まったく無条件・無前提に正当化することはできません。(pp. 204-205) 仲正:アドルノは様ざまなところで、自分たちが本来性の隠語によって、いかにハイデガーに騙されたのか、ということをしつこく書きつづっています。とはいえ、アドルノはハイデガーを全面否定はしていません。それは本来性を全否定すると、さらなる本来性を探ることになり、袋小路に入り込んでしまうからです。本来性を批判しているお前も、結局は本来性を語っているではないか、ということになる。〜中略〜スターリン時代のソ連にしろポル・ポト時代のカンボジアにしろ、マルクス主義が変な方向で暴力性を発揮してしまうのは、既成の共同体をうそっぱちだと決めつけて暴力的に破壊しようとしながら、じつは自分たちも真の共同体を求めていることに原因があると思います。〜中略〜だからアドルノのいうように、論敵を否定するときには「限定的な否定」である必要があります。つまり、相手の全てを即座に否定するのではなく、相手のどこがおかしいのか具体的に指摘し、自分と相手の違いと共に共通性を自覚することがたいせつなのです。そうでないと、相手と同じパターンの過ちを繰り返し、互いにエスカレートさせていく危険が高くなる。(pp. 268-271)

■書評・紹介

■言及



*作成:中田 喜一 
UP:20090705 REV:
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