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『お〜い、元気かぁ〜――医の源流を求めて』

早川 一光 20041105 かもがわ出版,203p.


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■早川 一光 20041105 『お〜い、元気かぁ〜――医の源流を求めて』,かもがわ出版,203p. ISBN-10: 4876998434 ISBN-13: 978-4876998432 1700 [amazon][kinokuniya] ※

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内容(「BOOK」データベースより)
 京都・西陣の「わらじ医者」が雪深い山里の診療所に赴任。美しい自然と人情につつまれての7年間。ここに医療の原点が…。

■著者

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
早川一光
1924(大正13)年、愛知県生まれ。京都府立医科大学卒業。1950(昭和25)年、京都・西陣に住民出資による白峰診療所を創設し、のちに堀川病院となり、院長・理事長を務める。1998(平成10)年、京都府北桑田郡美山町の美山診療所の公設民営化に従事し、所長を務める。2002(平成14)年、京都・衣笠に「わらじ医者 よろず診療所」を開設し、さまざまな医療相談を受けている。ラジオ番組のパーソナリティ(KBS京都「早川一光のばんざい人間」)のほか、全国各地での講演、新聞・雑誌への寄稿と、多忙な日々を送る

早川ゆき
四季の移ろいや日常を大切に詠み続けている。京都歌人協会会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

目次
第1部 医療って何やろ?―美山発ひたすら歩む道
 共に歩む―医の源流を求めて農村へ
 山に分け入る―昔の人の“脚力”に感心
 畦道―青空の下で“職場健診”
 蛍―“光る川”を見てみたい
 ほか
第2部 わらじ医者のとわず語り
 美山の四季と人と
 診療所と周辺のこと
 おーい、元気かあー――これからの美山の医療

■引用

 「医療に困った西陣の人たちが、貧しい中から五円、十円とお金を出しあい、約八百人の方たが三万五千円ほど集めて織り屋さんの工場の跡につくった診療所に勤めだしたときは、
 住民が運動の仲間だったので、みんな友のようにその名前をおぼえた。
 京極学区の遠藤さん、西陣学区の渡部さん、室町の立入さん、正親の勝部さん…。学区の活動家の名前は今でも次々と出てくる。当時は患者さんが来るのを待っていては病気も手遅れになるので、ドンドン、家に出かけて、”出前・用聞きの医療”をやった。すると、こんどは、町名、職業で人の名前をおぼえた。」(早川[2004:91])

 「まず、となりの病気は自分の病気、集落の悩みは、自分たちの悩みと考えて
 お互いに、語りあい、はげましあい、助けあい、知恵とカを出しあっていかないといけません。
 これが”共に生きる”ということです。
 医療・保健は勿論、福祉の原点は、ここにあります。
 そのセンターが、今度、町の皆さんのカを集めて創られる美山診療所(医療センター)
と、お隣の保健センターの役目です。
 保健センターは「町立」ですが、医療センターは、公設民営です。

 公設民営とは、町の普さんが施設を建て、町の住民が運営に参加する形です。
 勿論、医療は、専門であります医療担当者が、いろいろ知恵をしぼって、町の皆さんの立場に立って頑張りますが、
 運営は、社会的な法人組織で、経営も医療活動も、共に考えながら、すすめて参ります。
 日本に珍しい、数少ない運営の形ですが、うまくいくかどうかは、町当局の皆さんと、住民の方たちと、医療をになう職貝とが、三者、信頼のもとに、何でも相談しながら事をすすめていくことにつきます。
 語りあうロと、よく聴く耳が勝負です。(99・9)

 医療の主人公は住民

 今から四年前、町の皆さんの為に三十三年余、医療を一手に引き受けて献身された、伊藤盛夫先生が病を得、▽166 やむなく、診療所閉鎖を町に申し出られた時、町長さん始め町議会の皆さんも美山に診療の灯が消えることを大変心配なさって、私の家をお訪ね下さり、
「何とか力を」
とおっしゃいました。
 […]

 町長さん、議長さんに。医療の担い手は、”私たちにお小かせ頂き”
 町の皆さんには、自分の健康を守るセンター(よすが)として、新しく出発する診療所を育ててほしい、運営にも経営にも参加してほしい、とお願いをしました。
 よく、ものの筋道を理解された町長さん、議長さんも
 共に汗をかきます
と約束して下さいました。
 今も、私は、町長さん始め、町の自治体の方たち、議云の皆さんを、信じて疑いません。お互いの信頼こそ、すべての基礎(モト)です。
 公設民営の民は、民間の民でなくて、住民の民だということ、医療も官公私立の形はちがっても、企業(事業)▽167 の側面があります。どんないい医療でも、事業として戊り立たねば、続きません。
 共に汗をかいて下さい。私たちは、何の政治的意図も経済的目的もありません。
 診療所の財産は、法人のもの、――広く町の方たちのもの――です。私たちは、
 ただ、ひたすら、
 町の方たちが、安心して生活し、安じて老い、満足して人生を終えて頂ければ、それで満足なのです。さあこの十一月から、みんなの新しい診療所が出発します。よろしく。( 99・10)」(早川[2004:165-167])

 「もともと、病気は患者さんのもの
 医者のものではありませんでした。いつの間にか、病気を病人から医者が取りあげてしまっていました。カルテも見るな、のぞくな。くすりも聞くな、問うな。まか▽197 せなさいという医療が長くつづきました。

 病院の立場に立つ医療… 住民の為の良心的な医療… という医者がいますが、”医者がよかれと思う医療が必ずしも患者に住民に、いい医療とは限らない”ということが、、この頃ようやく分かりかけてきました。

 やっぱり、かく言う私も医療を施す側に、知らず知らずのうちに立っています。
 これは、医療側からいくら努力しても限りがあります。私は、医療を住民の皆さんに返す、住民の皆さんは、医療を自分のコトとして参加する―
 この双方の謙虚な運動こそ、これからの美山の医療だと確信します。

 それには美山の町の人々が
・自分の体は、自分で守る
・自分たちの”くらし”は自分たちで守りあう
という美山町町衆の考え方が、自主・自立・自衛そして共生の思想に立つことです。」(早川[2004:196-197])

 「わらじ医者ひとり旅立ち

 美山町の皆さん… お世話になりました。七年間いい夢を一杯見させて頂きました。伊藤先生のご病気のあと、中田町長さんから”美山の診療の灯を消さないで”との、町の方たちの自然と健康を思う熱情あふれる一言で、五十年の西陣地域での医療に区切りをつけ、美山にハセ参じて参りました。
 まず私は、美山の皆さんに
・自分の体は自分で守る
・自分たちのくらしは、自分たちで守る
という自主・自立・共生の心を持って頂きたいと願いました。
 そして、日本には珍しい”公設民営の診療と医療機関”の創設を訴えました。町当局の方も、議会の皆さんも、そして町の人たちも、医療を考える道筋と住民参加の道を開き始められました。
 私たち医療をおあずかりした者は、
 いつでもだれでもどこでも必要なときは、医昔にかかれる体制―二十四時問、開かれた一次救急医療―二四時間、開かれた一次救急医療
・町の皆さんが畳の上で死ねる在宅医療―往診と訪問医療―
・デイケア、リハビリの部門
を開設しました。
 美山ではここしかない十九床の入院べッドも用意しました。実は私の見果てぬ夢は、町に住む皆さんの毎日の”くらし”の中に医療と看護と介護を見つけていくことでした。
 いい汗も一杯かきました。一番苦労したのは、美山に住んで、町の皆さんと共に生活しながら医療をつづける”常勤医”をつくることでした。初代の秦先生、高先生、大矢先生、その他各先生もみんな一生懸命に医療にとりくんで下さいました。むつかしい数々の峠がありました。ようやく、松本先生、桑原先生の両常勤医師を迎え、重い肩の荷をおろしました。
 フト気付いたら、私も八十歳に手がとどきかけています。
 でも、美山の皆さん、これからも八十の臨床医でこそ出来る医療を、今後も創り出していきます。▽203
 お別れではありません。美山の皆さんと、私と新しい”旅立ち”の時です。いつでも、立ち戻ってきます。
 ありがとうございました。(02・6)」(早川[2004:202-203])


UP:20140731 REV:20140905
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