『神谷美恵子の世界』
みすず書房編集部 編 20040924 みすず書房,222p.
last update: 20100616
■みすず書房編集部 編 20040924 『神谷美恵子の世界』,みすず書房,222p. ISBN-10: 4622081865 ISBN-13: 978-4622081869 \1,575 [amazon]/[kinokuniya]
■内容
内容(「BOOK」データベースより)
心の景色の美しい人。写真とことばで編む、神谷美恵子のすべて。
内容(「MARC」データベースより)
どこでも一寸切れば私の生血がほとばしり出すような文字、そんな文字で書きたい-。作家として、精神科医として、教師として、そして妻、母として生きた神谷美恵子のすべてを写真とことばで編む。
没後すでに四半世紀がたとうとしているのに、『生きがいについて』や『日記』など、あらゆる世代の人々から非常に幅広く、また非常に高い人気を得ている神谷美恵子。英文学から医学へ、さらには精神医学から病跡学へ、自らの信じる道を貫いた研究者としての迷いのない人生。またそれと表裏をなす、一人の女性として、また妻として、母として、日常の雑事を生き、多くの人々の共感を呼んだ生活者としての一生。読者の多くの要望に答えて、神谷美恵子の「人と生涯」が、はじめて、分かりやすくハンディなかたちにまとまった、ファン待望の一冊。
■目次
詩 うつわの詩
アルバム 神谷美恵子
幼年時代/スイス時代/帰国、女子医専入学まで/女子医専入学、結婚まで/人生の本番
講演録 フレッシュマンキャンプのために(神谷美恵子)
コラム1 身のまわりの彩り
生きがいについて(中村桂子)
神谷美恵子管見(鶴見俊輔)
詩 癩者に
神谷美恵子先生との邂逅(高橋幸彦)
神谷美恵子と看護の心(川島みどり)
思い出――学生時代の日記から(明石み代)
詩 尼院を出でて
先生を偲んで(江尻美穂子)
思い出(近藤いね子)
コラム2 ヴァジニア・ウルフの病跡
「存在」を追って―神谷美恵子とヴァージニア・ウルフ(早川敦子)
詩 病床の詩
晩年の日々(神谷永子)
精神科医としての神谷美恵子さんについて(中井久夫)
コラム3 美恵子と音楽
先生に捧ぐ(島田ひとし)
詩 おお地球よ
神谷美恵子さんの思い出(加賀乙彦)
神谷美恵子 年譜
編集部より
■引用
神谷美恵子の世界(2004年、みすず書房編集部編)より
P.32 「愛生園見学の記」
旅を前にして
約10年も前のこと、ひとつの「生きる意義」raispn de vivre を喪って、宙に漂う私の前に、東京府下全世病院ライ療養所見学の際、新たな「生きる意義」として現れたのが
ライへの奉仕ということだった。爾来様々な紆余曲折はあったけれど、私のひそかな希いと歩みは、ほとんど、常にそれに向けられていた。今や医学校卒業の日も来年に迫っている。果たしてこの方向が単なる主観でないかどうか、確かに自分に運命付けられたものかどうか、」それを見窮めるために今私は岡山の国立愛生園ライ療養所旅たとうとしている。あそこは何が、どんな生活が待っているのだろう。
昭和18年8月4日 旅立の夜
東中野にて記す
P.48 限界状況における人間の存在
ライ療養所における一妄想症例の人間学的分析
一生のあいだに人間は、様々な状況に直面するが、時には、極度の逆境に陥り、これを避けることも操作することもできないようなせっぱつまった事態に見舞われることもある。こうした逆境は、人間のまえに厳しい壁のように立ちはだかり、その忍耐力は、ぎりぎりまでためされ、まったく歯がたたないことも少なくない。不治の病を宣告されること
死を宣告されること、耐え難い苦しみを負わせられること、愛するものに死なれること、自己の存在ゆえに他人が苦しむのを見なくてはならぬこと、自己の生が全く無意味であること感じること一こうしたものが上にいう状況の例であって、ドイツの精神医学者であり、哲学者でもあったカール・ヤスパースは、これに「限界状況」という名をつけた。
限界状況という概念には色々な著書が一とくに「実存主義的」傾向に属する著書が様々の定義や内容を与えてきた。ヤスパース自身は、このような状況を人生にもたらす主な原因として葛藤、死、不慮の事故と罪を教えあげた。ガブリエル・マルセルは、死と裏切りをあげた。ジャン=ポール・サルトルは、死と「他人」とを列挙した。仏陀が人生の限界状況を目指せたのは、病、苦、老、死という人生の四側面に接してのことだった。
いずれにせよ、限界状況とは人生をかたちつくる素材そのものの一部であることはまちがいなく、おそかれ早かれわれわれすべては一生のうちに少なくとも一度は限界状況に何らかの形でぶつからなくてはならない。
このような限界状況におかれた人間が、もしそれを乗り越えようとするならば、どのようのそれに反応し、それを乗り越えられるであろうか。これは人間としての存在そのものにまつわる根本的な問題である。ヤスパースのいう通り、これは「経験的心理学を超え」た主題かもしれないが、精神病理学を扱うときにんは避けて通るのはむつかしい題目であるように思われる。
この論文が『生きがいについて』へとつながってゆく。
神谷美恵子管見 鶴見俊輔
P.86 9行目
どんな人とも、同じ目の高さでつき合う、これが聖者の風格と感じられた。やがて彼女がハンセン病患者と付き合うときにも、フランスから来た同性愛の哲学者フーコーを案内して日本を旅行するときにも彼女は、自分の態度を崩さなかっただろう。
P.87 10行目
これらすべてに接したのは、彼女が亡くなってから、神谷美恵子著作集と補巻がでてからのことだ。さらにこんなことがあった。
戦争が終わってから、私は、結核の療養のため、一人で軽井沢に暮らしていた。そこに神谷美恵子の母親(前田多門夫人)から電話がかかって、自分も一人でいるから晩御飯を食べにきなさいということだった。
そのとき彼女は、娘の頃、群馬県から出てきて、私の母に助けられた話しをした。それを話すことが招待の目的だった。
話は、娘のことに及び、ここは、美恵子がひとりで戦前、結核の療養をしていたところで、その病気は、隣の野村鼓堂家の長男の日記を彼が没後に借りてきて読んだからだという。これは医学的にはありにくい。しかし、前田夫人はそう信じていた。これからは、私の推測。
一彦に傾倒していた美恵子は、一彦の死が、人生の希望を変えた。自分の生涯をハンセン病の人々に捧げようという希望は、ここから育ったものではないか。
この希望は、父前田多門の反対ですぐには、実現しなかった。彼女は、父についてアメリカに行き、おそらくそこで修得したラテン語によって、ストア派哲学者マルクス・アウレリウスの『自省録』を訳した。彼女は、戦中、女子医専に入って自分の所信を実現する基礎を作る。
やがて、粘膜の研究者神谷宣郎と結婚。神戸女学院でフランス語を教えた。女子医専卒業後、東大の内村祐之研究室で、精神科の診療に参加したこともあって、そのときの知識
と見聞は、ヴァジニア・ウルフの評伝を書くときに役たったと思われるが、彼女自身が同じような病的症状を内部に持っていたのかもしれない。
やがて彼女は、初期の子宮癌を経験し、このとき、夫の宣郎に、かねてからの希望だったハンセン病患者への奉仕に踏み切っていいかと許しを求め、長嶋愛生園に精神科医としてつとめた。父の多門は、かつて娘の初志をとどめたことについて、悔恨をもって、娘の死後、愛生園で講演した。
1960年、米国大統領アイゼンハゥワーが日本を訪問して、日本の首相岸信介から日米安保新条約成立の知らせを受けるという計画があった。これに対して、もと米国留学生12名の連署で、この訪日は、適切ではないという声明を出した。これはアメリカ大使館前で警察官に配った。このとき、私は、大阪の神谷美恵子に電話をして、署名に加わってもらえないかと頼んだ。
彼女は、すぐに承知し、「宣郎さんは、どうですか?」と私が尋ねると、「宣郎は臆病ですから」と答えた。
記憶が不確かなので、そのときのビラをファイルから出してみると、神谷宣郎の名前がはいっている。美恵子が説得したのか?
神谷美恵子 高橋幸彦
P.92
大学の精神医学教室の機関誌に寄せられた先生のお便りが機縁となって、ハンセン病療養所長嶋愛生園と邑久光明園に勤務することなり、先生と交互に島に通うことになった。
不幸にして、この病に冒された人たちに対して、いつも先生は、自分に代わって犠牲になってくださったのだという敬虔な思いで診療に従事されていた。だから、患者さんの一言半句をも全身で受けとめて、その出会いに、自分のすべてを投入されていた。先生のこころには、この広大な宇宙の中で、たまたま、巡りあった、ほんの束の間のこの出会いを大事にしなければないないという思いが強かったにちがいない。
世間の方々は、先生を学者あるいは、書斎の人と受けとめているかもしれない。しかし、
療養所での先生の外来診療は、昼すぎから夜の八時ごろまで続き、十時ころに食事をされることもしばしばあった。さらに常勤医師の激務が少しでも軽減されたらと自ら宿直を引き受け、ハンセン病者特有の激痛に する人もあれば、厳寒の夜、海を渡る凍てつく強風の中を歩いて遠くまで往診に行かれ、男性でも過酷な臨床活動を続けられた。
往診から戻られても、相談ごとや悩みを抱えた職員が先生を放さない。患者さんでも職員でもご自身を相手と同じ境地において、その人の胸奥まで共感を抱かれ、考え悩み模索しながら、ともに歩まれる。問題を抱えている人たちにとって、先生は、温かい血が流れ、いついかなるときでも絶対に逃げないしっかり握れる杖でもあった。
これは何も療養所内に限られることで、先生の著作を読まれた方々の手紙や電話に対するご返事にも温かい共感性がこめられていて、先生の書かれた手紙を心の拠り所として大切にしまっている方もある。中には、先生のご自宅を訪ねて何時間も席を離れない人もいた。先生の前から離れがたい気持ちは真に同感できる。先生のご自宅を訪ねて話し込んでいると、表情豊かに話される言葉、その言葉が消えてゆくのが惜しまれて、このひと時が
いつまでも続くことを願わずにはおられない。
先生は、もろもろの精神療法の理論を超越した計り知れない叡知に満ちていた。逝去されたあと、ご主人の御厚志で、蔵書をご寄贈頂いたが、その中に精神分析関係の洋書も含まれて、あちらこちらにアンダーラインの筆跡を見ることができる。しかし、生前、先生の口から精神分析用語を耳にしたことは一度もない。
人は、言うかもしれない。先生は、学者だ、教育者だ、魂のカウンセラーだと、しかしそれでもなお、先生の全体像をつかんでいるとは言えない。先生は、驚くべき叡知と、先生にのみ賦与された童心が一体となった稀有の人であった。
先生を偲んで 江尻美穂子(津田塾大学名誉教授)
P.116 12行(上段)
もう何年も前に、『朝日ジャーナル』で毎号一人づつ特徴ある仕事をしている人を取り上げグラビアで紹介していたことがあると記憶しているが、その最初のころに長嶋愛生園で病室を巡回し患者さんと会っていらっしゃる先生が紹介され、慈母観音という言葉があったように思う。先生に触れた人は、先生から伝わってくるこの限りない優しさを感じて、心に病気を持つ人も身体を病む人も大きな慰めを得たのではないだろうか?
先生は、自己を顕示したり、傲慢な態度をおきらいになった。専門的業績を持った人でも
接する相手に冷たさを感じさせ、恐怖感を抱かせるようなひとであるならば、一歩距離を置いたほうが良いと教えてくださった。
先生が本当に人間一人ひとりを大切にされ、どの人にもかけがいのない価値を見出しておられたことは、先生の御著書に触れたものが等しく感じることであろう。先生は、人間を超えた存在に自己を委ね、自分がその存在によって、生かされているというお考えのもとに他の人もまた同じくその存在も生かされ愛されているものとしてお接しになったと思う。
学生時代に結核を病まれ、その後も悪くすれば致命的というような病気を体験され、また若くしてらいの患者さんたちに出会われたことなどが、先生のこうした思想に大きな影響を及ぼしているようにお見受けした。
思い出 近藤いね子(津田塾大学名誉教授 2008.11.14 97歳にて没)
P.123 9行目(上段)
神谷さんは、「島に行っているときが一番嬉しい」といつも言っておられたが、『極限の人』
への神谷さんの愛と献身は、そのまま、他の普通の人間にも向けられていたことを私は、身をもって経験している。神谷さんは、私にとって何でも打ち明けられるかたであった。
人には、遠慮されることも神谷さんにだけは言えて、色々と聞いていただいてしまった。神谷さんは、私のいうことすべてを、それらが御自分にとっても最大関心事であるかのように受け止めてくださった。恐らく、これは私に限らず、神谷さんを知る者すべてが経験したことだと思うが、完全な感情移入のできる珍しい方だった。そういう友を失うことが
人の心と生活にいかに大きな空洞を作るかは言うまでもないことである。神谷さんに再び
お会いして今までのようにお親しくさせていただくことができるものなら、私は何度でも
生まれ変わりたいと思う。しかし、たとえ、人間にとって生まれ変わることが可能であったとしても、神谷さんのようなかたに再びめぐりあえるとは到底思われない。
存在を追って 神谷美恵子とバージニアウルフ
早川敦子(津田塾大学)
P.149 7行目(上段)
ライの人たちとの関わりを「よろこび」と記し、「彼らの心の友とさせて頂いたことが光栄である」という美恵子の思いは、ウルフに対する眼差しにも重なる。それは精神科医の観察者としての視点ではなく、女性としての、そして自己と表現の狭間で苦悩した一人の表現者への暖かなまなざしである。この暖かさにふれたときに、読者である私たちは、心動かさずにはいられない。「人間をその内側から理解すること。これが精神医学の理想であり、これこそこの学問が教えてくれたことだ」(『存在』の重み)と記す美恵子という稀有な読者を得たことは、ウルフにとって、どれほど大きな幸いであったことだろう。美恵子のウルフ研究は、ウルフ文学の本質にある「存在」への希求を掬い上げることを通して
、美恵子自身の深い「人間観」を照射したのだった。
精神科医としての神谷美恵子さんについて
「病人の呼び声」から「一人称病跡学」まで
中井久夫(精神科医)
P.160
神谷さんを一般の精神科医と区別するものは、単にものさしがないとか教養と見識の卓越とかだけではない。25歳の日に「病人が呼んでいる」と友人に語って医学校に入る決心をされたと記されている。
このただ事ではない召命感というべきものをバネとして医者になった人は、他にいるとしても例学中の例外である。
わが国だけではない。ジーゲリストの『偉大な医師たち』を見ても、クルト・コレの『大神経医伝』三巻を見ても、そこに出てくる多数の医師たちにこのような召命感はない。
いかに、献身的な医師も、どこかに「いつわりのへりくだり」がある。ある高みから患者のところまでおりていってやっているという感覚である。シュバイツアーさえもおそらくそれをまぬかれていない。むしろ、神谷さんに近いのは、らい者を看取ろうとした人々、すなわち西欧の中世において看護というものを創始した女性たちである。その中には、端的に「病人が呼んでいる」声を聞いた人もいるかもしれない。神谷さんもハンセン氏病を選んだ。神谷さんの医師になる動機は、むしろ、看護に近いと思う。この方の存在が広く
心を打つ鍵のひとつは、そこにあると思う。医学は、特殊技能であるが、看護、看病は、
人間の普遍的体験に属する。一般に弱いもの、悩めるものを介護し、相談し支持する体験は、人間の非常に深いところに根ざしている。
P.163
圧倒的大多数の医師にとって医師であることはひとつの社会的役割である。しかし、病人に呼ばれて医師となった人には、それでことが済むはずはない。医師であることは、それを超えて、いわゆる存在同一性と化しているに違いない。
P.166
彼女が精神科医としての足跡の多くを残した阪神間の話である。年輩のある精神科医は
「阪急電車に乗ってうとうととしていると、亡き神谷さんが前に立っているような気がしてはっと顔を上げることがある」と語られた。おそらく芦屋川から三宮まで阪急神戸線に乗って、長嶋愛生園に行かれる早朝か戻られる深夜にそういう事実があったのだろう。うとうとしている相手を起こさずに、洋書などに目を通しながら気づくのを待って微笑みかけられたのだろう。
神谷さんの存在は、いまだになつかしい存在として疲れた精神科医を時に支えているかのようである。そのあらゆる才能とは別にそのような存在の重み、のしかかる重みではなくむしろ軽やかな、優しさが動かし難い存在としての現存は、おそらく生前の知己が感じられたのと同じく、
■書評・紹介
■言及
*作成:田中 まみ・中倉 智徳