『妣たちの国――石牟礼道子詩歌文集』
石牟礼 道子 20040810 講談社(講談社文芸文庫),254p.
last update: 20181107
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石牟礼 道子 20040810 『妣[はは]たちの国――石牟礼道子詩歌文集』,講談社(講談社文芸文庫),254p. ISBN-10: 4061983776 ISBN-13: 978-4061983779 1300+
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■内容
◆内容紹介
“「苦海浄土」三部作を完結させた石牟礼道子の、詩と散文による《魂の文学》60年の軌跡!
不治疾のゆふやけ抱けば母たちの海ねむることなくしづけし天草に生まれ不知火海に抱かれて生い立つ。実直な生活を歌う病弱な詩人は、近代の業苦と言うべき水俣の悲劇に遭い、声を奪われた人たち、動物植物等あらゆる生類、山河にざわめく祖霊と交感、怒りと祈りと幻想に満ちた「独創的な巫女文学」(鶴見和子)を結晶させる。60年に亘る石牟礼道子の軌跡を、短歌・詩・随筆で辿る精選集。”
■目次
1 海と空のあいだに(抄)――短歌
2 あやとり祭文――随筆と俳句
簪
とある世前の秋のいま
鬼女ひとりいて
あやとり祭文
3 命のほとりで――随筆
気配たちの賑わい
乙姫さんと三日月と
狐たちの言葉
おいしいということ
地母神
海はまだ光り
命のほとりで
言葉の秘境から
4 いまわの花――詩と随筆
死民たちの春
いまわの花
昏れてゆく風
島へ――不知火海総合学術調査団への便り
5 死んだ妣[はは]たちが唄う歌――随筆
彼岸へ
「死」を想う
香華
死んだ妣[はは]たちが唄う歌
「切腹いたしやす」
芒野
心のふるさと
著者から読者へ
解説:伊藤比呂美
年譜:渡辺京二
著書目録:天草季紅
■引用
◆昏れてゆく風(pp.151-167)*初出:『エコノミスト』1981年12月8日号
- 九州の胎内のような地形にある不知火海は、外洋とはまるで異なり、この島国の風土の生命の潮の湧くところ、というふうに思える。▽|△舟に乗っている彼女の姿は、そのような潮の、内と外へ呼びかける神舞いのように濶達でのびやかである。魚たちの群は彼女をめぐって回游し、彼女の声はまた、魚たちとともに空を游いだりする。あの巫女と名づけられる古代牧歌の精霊たちの母のように、自由の始源をあらわす女、彼女を評するとすれば、そのような存在と云えよう。六年前から始められた、不知火海沿岸総合学術調査団の諸先生方も、来られる度ごとに必ず彼女のもてなしを受け、水俣での気の晴れぬ日々に、活力を与えられて帰ってゆかれる。|彼女が日常語る言葉を総合すれば、ほとんど詩篇そのものと云ってよく、中空にそよぐれんぎょうの花のような声の光を持っている。あねごのようで、天性の深い知慧を授けられたものの率直さでものを云う。┃(pp.165-166)
◆島へ――不知火海総合学術調査団への便り(pp.168-189)*初出:『潮』218(1977-07): 168-179
- やっぱり、遺言状というものは書いておかねばならん、と思うのでした。不知火海沿岸総合学術調査団というようなものを発足させる前に、それをしておかねば。|生きのびるのであれば、不知火海沿岸一帯の歴史と現在の、とり出しうる限りの復原図を、目に見える形にしておかねばならぬと、わたしは以前から考えはじめていました。せめてここ百年間をさかのぼり、生きていた地域の姿をまるまるそっくり、海の底のひだの奥から、山々の心音のひとつひとつにいたるまで、微生物から無生物といわれるものまで、前近代から近代まで、この沿岸一帯から抽出されうる、生物学、社会学、民俗学、海洋形態学、地誌学、歴史学、政治経済学、文化人類学等、あらゆる学問の網の目にかけて▽△おかねばならないのではないか。網の目にかけるということは、逆にまた、現地のひとびとの目の網に、学術調査なるものがかかるということでもあります。出来あがった立体的なサンプルは、わが列島のどの部分をも計れる目盛りになるでしょう[…]不知火海沿岸一帯そのものが、まだやきつけの仕上がらない、わが近代の陰画総体であり、居ながらにして、この国の精神文化の基層をなす最初の声が、聴き取る耳と心を待っているのではありますまいか。幾層にも幾色にも、多面的にも原理的にも、この中にある内部の声を聞くことが出来れば、それが尺度になりうるのではあるまいか。その中心軸にうごいている風土の情念こそ、この国の魂を養い育てて来たのだとわたしは思うのでした。みずからは形を持とうとはしなかったもののすべてが、ここには全部あるのではないかと。┃(pp.174-175)
- ほんの少し考えてみてもわたしどもは、[…]知的らしくなればなるほど人工的、技工的繊細さを外面にはつけて来て、表明されないやさしさというものを見失ってしまいました。みずからは語り出さぬものたちを、応答なしとかんちがいし、そこを通りすぎてしまったように思います。その結果、突然加乗されて見えはじめたのが▽△たとえば水俣なのですが。┃(pp.175-176)
- そのような状態を表現するには学問でなくとも、ひょっとして文学、あるいは深い芸術が生まれうるならば……、より望ましいのですが。┃(p.176)
- なぜいま総合学術調査という形のものが見たいかといえば、やはり離れて眺めてみなければ、自分らのいるところの鳥瞰図が見えにくいからです。ここにあるなつかしい生きた全資料、全ての生きている遺産は確実にほろびつつあるのですから。┃(p.176)
- わたしどもは、まったく好奇心の源泉といってもよいほどで、自分自身の自滅にすら、しんしんたる興味を持たずにはいられません。自分自身が、まだあらわされない学問的総合の序説であると知れば、わたしたちはたぶん慎ましくなることでしょう。学問と言いましても、表現の一形態でしょうから、わたしたちの背後にある一見無口な世界に、耳を近づければ、人類史の永遠を一瞬に表現するほどの賑わいに満ちています。人々のまなざしは予言そのもの、韻律そのものです。頽廃のかなしみにおいて。▽|△いつの頃からか、ここに偏在している目として耳として、あるいは嗅覚として、わたし自身もいるのかもしれません。同じ目たちや耳たちと共に。けれども、外在するまなざしたちがどこかになければ、球体の向こう側が視えて来ません。内側からと、外側からととらえなくては視えて来ません。これはなんという欲望だろうとわたしは悩みます。|たぶんわたしは、幾度目かの蘇生をしようとしているのかもしれません。水俣へというより、序説としての現代の中に。┃(pp.177-178)
- 潮の流れを見ているアコウの老樹のような気分です。風が吹くと、鬼角の方角に向かって、自分の髪が白く光り、流れようとするのを感じます。ばさり、ばさりと、葉のようなものが自分の枝から落ちてゆきます。初夏も来ようというのに。いよいよ「おもかさま」にちかづくのだな、とわたしは思いながら、不知火海総合学術調査だなんて、先生方には、しごくオーソドックスなことかもしれないけれども、わたしの側からいえばひょっとして、自分の狂気もこのように、立ち枯れてゆくのだなあと感ぜられるのです。この静止▽△した気持は。┃(pp.178-179)
- 潮のふくらみも透明度を増して、春と夏のあいだの、秘奥のようなこの季節に、先生方をお招きすることが出来ないのが残念です。ときじくのかくの木の実が、自分自身の芳香によってみごもる季節に。いらしていただける時期が、いつかはきっと訪れるでしょう。そのとき先生方は、御自分の季節をまたひとつ、お持ちになれるでしょう。┃(pp.181)
- もちろん、情況論的に、ここに停止している時間について解いてみることはできるのです。けれども運動なるものが、時計の振り子のような永久運動を常にはらんでいる以上、ここでわたし自身はその振り子を止めておき、無限の時間、ミクロの時間の奥行きの中にはいってゆかねばと思います。|じっさいわたしたちの時間は止まったままか、さかのぼる時間、そこから脱出できない時間になってしまったのですから、そこを入口としなければ“行き道”がわからないのではないかと思いはじめるのです。うつつの目には見え、うつつの耳にはきこえて、動きつづけている振り子の裏側の、時間と時間の間にひらいている、みえないほそい入口へ這入ってゆこうかと。|見えない暗幕をかきあげ、使者たちをそこから招じ入れたいと思います。使者たちとても学者さんなどという仮の姿でやって来て、不知火海にいる人びとと入れ替わりなさいます。▽|△漁師のおじいさんやおばあさん、死んだ人、若者や少女たち、山のあのひとたち、海のあのひとたち、川のあのひとたち、歴史の実存者たちと。まだ暖かみの残っている歴史の心音に掌をあてて、時間をゆっくりかけて巻きもどしてゆけば、ほろり、ほろりと、あのひとたちが出て来ます。l丁重に、丁重にあつかわねば、あのひとたちが苦しがるから。┃(pp.185-186)
- わたしには、せっぱつまって進退きわまれば、命とひきかえにしますから、神さま、これこれのことをさせて下さい、とまことに軽々しく安易に願かけをする習性があります。[…]神さまに脅迫がましい願かけをするのです。[…]|神さまだってご都合がおありだから、そうそうこちらの願いを聞いてばかりもいらっしゃれまいと支度をするところへ、不思議やこれまで、使者たちがあらわれるのでした。あの世の人たちの群となってあらわれたり、熊本の、水俣病を告発する会となってあらわれ▽△たり、狐の子になって来てくれたり、土の中に身籠っているみみずの声であったり、彼方の空から降ってくる雪の匂いであったりしました。|この度もまた、使者たちがあらわれて下さったなあと、瞬き見るような思いです。これはいつの時代の人びとなんだろうと。|不知火海総合学術調査団、なるべく世界感のある名称と、そのような内容だといいですね、ええほんとうにそうしましょう、最初のお願いのとき色川大吉先生におめにかかり、期せずして口から出たことばでした。それはたぶん羞かみから、自分の卑小さを表わそうとして言い合ったのだとおもいます。調査団なんて、わくを作ろうとしたとたん、それにはまりそうな滑稽さに照れておりました。┃(pp.188-189)
━━━
- くぐり来たった虚空の中を、木霊のような情況論、組織論、文明論とかいうものが、共同体讃美論とかいうものが、ゆるやかな大陥没の余韻のように響きあって、幾重にもきこえます。それもしかし、虚空の賑わいというものでしょう。わたしは意識の横穴にしばらく腰をおろし、沈んでいる世界にむかって、まだ潮の干満だけは、原初のままに動いている海にむかって、聴こうとします。すると花びらのくるしみのような少女たちの会話が、あの胎児性特有の発語が、唯一の暗喩のように、読み解くことのできない寓意のようにわたしをとらえます。あの少女たちの声に、たぶん導かれているにちがいないと思い当たるのです。┃(p.186)
◆香華(pp.200-204)*初出:『熊本日日新聞』1988年7月20日
- 文学というものはこの世との異和や汚辱の沼の中から、幻花をつくり出す仕事である。┃(p.201)
■書評・紹介
■言及
◆立命館大学産業社会学部2018年度後期科目《質的調査論(SB)》「石牟礼道子と社会調査」(担当:村上潔)
*作成:村上 潔