「 満員電車の中で、わたしたちは身体を接する他人との距離を物理的にはとれないとなると、非物理的にとることを考え始める。たとえば、目をつぶることで、視覚的に現状を消し去ろうとする。わずかに車窓から外の風景が見えれば、それを眺める。考え事をする。新聞を広げる空間はないので、小さな本が読めればそれを読む。とにかく現状を遮断しようとつとめる。ウォークマン®のようなヘッドフォン・ステレオの出現は、室内空間に固定されることなく音楽や音を室内から自在に引き離し、わたしたちに新しい感覚や意識をもたらした。と同時に、満員電車の中で、音の異空間を与える装置ともなった。携帯電話が登場してからは、携帯電話もまた、異空間を与えるものとなっている。電車の中で、携帯電話のメールを送受信することで、たちまちメディア空間の中に入っていける。」(p.62)
「 すでにふれたように、日本の玄関という空間はきわめて特有性を持っている。それは外部(これを日本では世間=ソトサマという)と内部(これは日本では家=ウチという)をつなぐ空間である。それはいってみれば、潜水艦や宇宙船の減圧室にも似ている。潜水艦や宇宙船から外部の空間に出るためには、いったん船室から遮断された減圧室に入り、船室とのハッチを閉め、しかる後に外部とのハッチを開ける。そして外部に出て行く。入る時もその逆を行う。減圧室では潜水服や宇宙服を着脱する。玄関もまた、減圧室に似て外部と内部を調整する部屋の役割を持っている。そこでは、履き物を着脱する。海底世界や宇宙世界ではないが、外部世界と行き来するために、日本人は履き物を潜水服や宇宙服のように着脱するのである。
この外部(世間)と内部(家=ウチ)をつなぐアジャスト空間は、人との対応の場としても、アジャスト的な場としてある。決定的に内部(家)でも外部(世間)でもない場所で対応する玄関先の対応というやり方である。」(p.154)