HOME > BOOK >

『生命の倫理――その規範を動かすもの』

山崎 喜代子 編 20040330 九州大学出版会,308p.ISBN:4-87378-824-2 2800


このHP経由で購入すると寄付されます

山崎 喜代子 編 20040330 『生命の倫理――その規範を動かすもの』九州大学出版会,308p.ISBN:4-87378-824-2 \2800 [amazon][kinokuniya] *


■目次

序文 L・K・シィート i-iii
はしがき 山崎喜代子 v-vii

第一部 生命倫理規範をさぐる

第一章 科学/技術と人間の行方――生命と倫理の結合の可能性を考える 井口正俊 3
 一 生命と倫理の関係は必然的な結合ではないがゆえに不可避なのである
 二 生命体の発生根拠は「内と外」関係である
 三 生命倫理の特殊性―その「暗さ」はどこに起因するのか―
 四 生命倫理の可能性をどこに求めたらいいのか

第二章 生物学の展開と生命倫理 山崎喜代子 29
 はじめに
 一 生物学と生命倫理学
 二 一九世紀生物学の発展と生命倫理学前夜
 三 遺伝子操作の時代と生命倫理
 四 自己決定権の落とし穴

第三章 生命倫理の方向性を求めて――神学的倫理学からの予備的考察 天野有 53
 はじめに
 一 生命への畏敬
 二 生命の保護
 三 結びに代えて

第二部 生命倫理がたぐる社会政策
第四章 生命倫理における直観と論理――ヘアによる人工妊娠中絶問題への「黄金律論法」の適用とその問題点 高橋文彦 81
 はじめに
 一 ヘアの規範倫理学・メタ倫理学・応用倫理学
 二 人工妊娠中絶と「黄金律論法」
 三 胎児との同一性連関―批判的考察(一)―
 四 存在と不存在の非対称性―批判的考察(二)―
 五 フェミニズムの視点―批判的考察(三)―
 むすび

第五章 生命倫理と権利概念――妊娠中絶の問題を手がかりに 伊佐智子 115
 はじめに
 一 胎児の生命権とは何か
 二 女性の自己決定権
 三 自己決定権をめぐる権利論に欠けている論点
 おわりに――中絶問題のより良い解決のために

第六章 共に生きるということ――生命倫理政策と立憲主義 中山茂樹 139
 はじめに
 一 人権というものの考え方
 二 公共的政策としての生命倫理
 三 生命の保障
 おわりに

第七章 生命倫理の社会政策原理――ルーマン派システム論の視点 毛利康俊 165
 はじめに―生命倫理と政策研究―
 一 システム論のアプローチ
 二 意識システムと社会システム
 三 医療
 四 親密圏
 五 政治
 おわりに――身体性と時間性の法政策学に向けて

第三部 生命倫理学成立前夜――優生学の慢心と暴走
第八章 よい血統の者と生まれなかったほうがよかった者――米国優生政策の歴史 K・J・シャフナー 191
 はじめに
 一 序論
 二 優生学の大衆化
 三 優生政策の実行
 四 理想から非道への転落
 おわりに

第九章 ナチス優生政策とキリスト教会――遺伝病子孫予防法(断種法)への対応 河島幸夫 235
 はじめに
 一 優生政策と断種法の展開
 二 ヒトラーの優生学的人種思想
 三 遺伝病子孫予防法(ナチス断種法)の制定
 四 ナチス断種政策とプロテスタント教会
 五 ナチス断種政策とカトリック教会
 むすび

第十章 近代日本の優生思想と国家保健政策 中馬充子 271
 はじめに
 一 背景にあるもの
 二 戦後の保健教育における優生学思想とその撤収
 三 近代日本の衛生思想成立過程における優生思想の萌芽
 四 近代学校教育発足時の保健教育における優生思想および優生学的内容の形跡
 五 優生思想および優生学全盛期―民族衛生学と啓蒙運動―
 おわりに


■執筆者一覧(「奥付」より)
L.K.シィート(Leroy K. Seat)序文
西南学院院長・西南学院大学神学部教授(組織神学)
井口正俊(いぐち まさとし) 第1章
西南学院大学文学部国際文化学科教授,哲学(近・現代思想)
山崎喜代子(やまざき きよこ) 第2章
西南学院大学文学部社会福祉学科教授,生物学(動物発生学)
天野 有(あまの ゆう) 第3章
西南学院大学神学部神学科教授,教義学(バルト神学)
高橋文彦(たかはし ふみひこ) 第4章
関東学院大学法学部法律学科教授,法哲学(法思想史,現代法思想)
伊佐智子(いさ ともこ) 第5章
長崎純心大学人文学部専任講師,法哲学・生命倫理
中山茂樹(なかやま しげき) 第6章
西南学院大学法学部法律学科助教授,憲法学
毛利康俊(もうり やすとし) 第7章
西南学院大学法学部法律学科助教授,法哲学
K.J.シャフナー(Karen J. Schaffner)
西南学院大学文学部国際文化学科助教授,ドイツ文学(近・現代演劇)
河島幸夫(かわしま さちお) 第9章
西南学院大学法学部国際関係法学科教授,政治学(ドイツ政治と宗教)
中馬 充子(ちゅうまん みつこ) 第10章
西南学院大学文学部児童教育学科助教授,保健学(保健教育史)


■引用

◆井口正俊, 20040330, 「科学/技術と人間の行方――生命と倫理の結合の可能性を考える」山崎喜代子編『生命の倫理――その規範を動かすもの』九州大学出版会:3-27.
(pp4-10)
 「自然それ自体」が存在すると考えるのは、それがいかに必然的に存在するように見えようとも、それは人間の想像でしかなく、言ってみれば人間の勝手読みなのである。人間が勝手読みをせざるを得なくなったのは、人間がどこかで自然と異なった何か、つまり「不自然」さに出合ったからに違いない。この不自然さが自然なるものを逆算したのである。自然自体が存在すると思い込むことは、不自然ないし非自然なるものの経験の結果である。(略)
 にもかかわらず、私たちは、なぜ自然をあるいは自然現象について知りたいと思うのだろうか。人間は自然の一部であるのに、自然を対象化できる存在だからである。というより、対象化せざるを得なくなってしまったのである。なぜ自然を対象化せざるを得ないのか。人間を自然に同化させることが自己否定になってしまうような不自然なるものを経験してしまったからである。(略)
 人間が自然を対象化せざるを得ないことに関して、次のように考えられるのではないか。人間は、おそらく気の遠くなるような遠い過去において、自然から二重に異化され迫害されたのである。ここで人間を生物の仲間だとすると、生物(生命体)自体がすでに無機的自然から疎外され迫害を受けていたのである。その迫害こそ生命の発生を意味している。そこで発生した生物体は、それをめぐる環境を効率よく組織化し、時には環境を異化し破壊しているように見えるが、それは生命体自体の保存活動であって、自然全体としては調和した組織化と言える。ここでは生命体がいつどこで発生したかは問わないことにしよう。ただここで問題にしたいのは、人間は、「生命体」と呼ばれるものの集合、つまり生物の世界あるいはその領域からも締め出され、差別を受けたのである。言い換えれば、人間存在発生の可能性の根拠は、いつかどこかで亀裂が起こり生物体からも差異化されたことにある。つまり、初めの無機的な存在から言えば、二重に、つまり時間的にも二段階にわたって差異を強要され仲間はずれにされたのである。言ってみればそこで人間は二重に疎外されたことになり、二重な不安定性を与えられ、二重の不安を抱え込むことになった(3)。何故と問うなかれ。自然と人間の関係は、事後的(nachtraglich)にそうとしか考えられないからである。自然から疎外されたその時人間は自然にはもはや同化できないといった意味で憎悪を抱かざるを得ず、自然を相手に好意をいだきながらも復讐を開始したのである。そうせざるを得なくなってしまったのである。それゆえ、人間にとって自然を対象化することと敵対化することとは同義である。(略)
 その関係における矛盾を少しでも解消するために、単なる個体としてではなく類的な存在として、人間の振舞いに何かの基準を設けなければならないとする人間同士が提携して約束を作らざるを得なかった。それを「契約」とか「倫理」という名で呼び習わしてきたのである。(略)そこに「技術」の発生の起源が存する。技術は自然に対する人間の復讐の手段だが、その起源は人間から自然発生した内的「能力」ではなく、プロメテウス神話に表れているようにあくまで外から人間に与えられた「贈与」なのである。(略)
 そのことからして、技術が、敵対する人間と自然との間の矛盾関係を解消するために人間に与えられた贈与と考えれば、そのあり方を形式化し、理論化し、理解可能な領域にもたらす「科学」なるものは、構造的には「神話」と同一な位置にあると、言える。そう言った意味で科学は、生物が環境と直接かかわるような、つまり人間の自然現象それ自体に関わる純粋な能動的行為なのではなく、あくまでその現象の「記述」だからである。(略)
 人間は自然から疎外されたのにそこへ帰らなければならないという矛盾に悩まされ自然を憎悪する存在に成り下がってしまったのである。その瞬間こそが人間存在の誕生だと言っていいからである。その誕生の苦しみを、人間は「原罪」とか「業」とか呼ばざるを得なくなった。つまり、その先に人間に固有な「死」なるものがあることを自覚せざるを得なくなったのである。ということは、そこには他の自然にはない人間だけに何かが起こったのだと考えざるを得ないということである。その点から言っても、人間存在は自然というものに対してその差異を知ってしまったという負荷を背負っているのである。このように必然的に負荷を背負ってしまった人間にできることは、その方法はともかく自然と人間の差異を無効化して和解させてもらうか、一歩でも自分で自然の先を行くかどちらかしか方法はない。ふつう前者を「宗教」的営みと呼び、後者を「技術」的行為と呼んでいる。自然と人間との関係の相剋からして、宗教と技術の起源は同一の地平で同時に発生したのである。(略)
 生命と倫理は人間において、肯定的に結合しているのではなく、ましてや自然発生的に関係しているわけではなく、自然からの二重の負荷を媒介にしていることからすればむしろ不自然な結合なのであり、だからこそ人間にとってその結合は逆説的に責任を負った不可避なものとなるのである。生命倫理学もその「逆説的不可避性」という事態を手放してはならないのだ。
(pp22-24)
 生命と倫理は必然的に結合するものではない。もしそれを結合させてもそれは無根拠な結合でしかない。つまり不自然な結合だということだ。だが、その不自然な結合の仕方の中に、生命倫理の秘訣が隠されており、その存在の不可避性が生じているのである。いかにして?この結合は論理的に合理的な領域での必然的な結合ではなく、目的論的に技術によって開かれる領域での結合としてのみ可能であり、それゆえにこそ人間にとって不可避であり、有効なものとなるのである、と。自然から二重に負荷を負ってしまった人間が自然に対して出来ることは、自然を憎悪し自然に敵対するより他に手だてはない。その憎悪や敵対だけが、自然は人間によってだけ「自然」となるという反転を可能にする。ここではその反転の契機を「技術」と名づけ、自然と人間の結合、生命と倫理の不自然な結合を可能にさせる「喩」としての役割を強調してきた。なぜなら、結合し得ないものを不可避的に結合させる、つまり生命「と」倫理の、この「と」こそ「喩」の成立する場所であり、生命倫理自体の可能性の条件だからである。
 生命と倫理が必然的に結びつかないものであるなら、「生命倫理」はそれ自体としては「ナンセンス」(non-sense)である。しかし、それを歴史的状況の中で人間は自然に対して負荷を負いながらも不可避に結合させ実践していかなければならないとするなら、その時最も信頼できるのは、科学や技術に対する知識や法律の整備自体ではなく、それらの行為にそのつど対処し得る人間に共同の「センス」(sense)である。(略)人間はこれまで無意識的にこの「センス」を信用し、不完全で不安をかかえながらも、それを頼りにやってきたのである。これからも、ある難しい決断を迫られても、未来へのまなざしを過去の中に垣間見る様相論理として最後的にはこれまでと同様に、類的存在としての人間のこの「共同のセンス」(sensus communis)を頼りにやっていくより他に方法はないように、思われる。ここで言う「センス」とは、そもそもある現象ある事態について、論理的な接近と情緒的な接近を媒介し、自立して積極的に働くものではないが、人間が事後的に反省的に全体的にその事態に対して納得することの出来る場所を提供し、最初にまた最後に働く人間固有の可能性の能力なのである。(略)そしてこのセンスは、人間の自由な判断手段であり能力のように見えるが、実は、二重に疎外された人間に贈与として与えられた技術の行使に対する守衛であり番人なのである。それゆえ、技術の受け取り方は歴史的にさまざまな様相を呈するが、技術が贈与であることの構造認識があくまでそれを受け取る方法の根拠にならなければならない。そこを看過してしまう「科学」思想はすべて無効である。またそれと並行して、歴史的に変化する人間の意識を反映する制度としての「法」に関して、その立法や整備も同様な試練を受けていることになる。それゆえ、その観点から生命科学のあり方やそれにかかわる法の設定や整備に関しても、その行方は構造的に、また同時に歴史的に考察されなければならず、その鍵は、「技術=テクノロジー」に対するあり得べき人間の場所を誤認しないことにあると言っていい。(略)技術は、自然から疎外された人間がその欠如を補完するための要請として、必然的に現状よりいつも一歩先に進もうとするし、それを抑制することは出来ない。しかし前述したように、「自然それ自体」という存在はそのままでは確認できず、技術が贈与されてはじめて自然なるものを意識しはじめたとすれば、結果的に「自然的なるもの」という概念と意味は、人間にとっては技術の産物と言わざるを得ない。そのような反省をもたらす能力をここで「センス」と呼んでいるのである。このセンスによって「一歩前進」を「ひと昔前」へと反転させてはじめて、そこに「自然」が見え「人間」が見えてくるのだ。とすれば、生命と倫理の結合関係にとっても、「ひと昔前」という反省的時間が不可欠でありそれがその時そのように存在していた場所と記憶を確保することが要請されることになろう。その要請への応答は、この「センス」の可能性にかかっていると言っていいのではないか(18)。


◆山崎喜代子, 20040330, 「生物学の展開と生命倫理」山崎喜代子編『生命の倫理――その規範を動かすもの』九州大学出版会:29-52.
(pp29-30)
 生命倫理学の学問体系の中では、生命科学あるいは生物学は、どのような関わりをするのか、必ずしも明らかにはされてない。(略)生物学的論理を生命倫理の規範として提起するなら、不評を買う。「科学的な基礎の上に正しい行為の規則を確立する」として「進化論的倫理学」の提唱者になった、H・スペンサーがG・E・ムーアによって自然主義的誤謬として批判されて以来(3)、生命倫理規範に自然科学的論理を用いることは、特に応用倫理学においては避けられる傾向があった(4、5)。
 本章は、生物学と生命倫理学の関わりに全面的に答えるというわけにはいかないが、生物学の生命倫理学への関与の不透明さを念頭に置きながら、生命倫理学における生物学の役割を検討するものである。
(p32)
 環境倫理においては自然主義的・生物学的論理の倫理規範の有効性あるいは必要性が明快に示されていると考えることができる。
(pp33-35)
ヒトはチンパンジーとの共通の祖先から分岐して、チンパンジーの三倍におよぶ大化した大脳と高い認識力を駆使して、遺伝子突然変異がなくても、生では食べられないものを調理して消化しやすくしたり、土地の環境に応じて栽培植物を変えるなど、新しい環境を利用できる能力を持つ。環境情報を大脳に蓄え、さらに言語を媒介にして、科学技術情報として、体外に環境情報を取り出し蓄積することができる。また、大脳は出生後の環境を入力しながら神経細胞ネットワークを作る、出生後に完成する環境適応のための臓器でもある。ヒトは大脳を持つことによって、遺伝子突然変異がなくても、新しい環境利用の情報を、次々と新たな環境適応能力を加えながら世代を超えて継承獲得してゆく。その結果、環境は著しく変化し、自らの遺伝子との大きな矛盾が生じることになる。(略)
 イギリスの動物学者R・ドーキンスが提唱したミーム(meme)は、文化子あるいは文化遺伝子、文化複製子と訳され、生物の遺伝子に対応させた容易にコピーされ変化しやすい文化の単位概念を意味している。遺伝子が生物的な遺伝情報の単位であると同様、ミーム(文化遺伝子)は文化情報の単位であり、脳から脳へと拡がって、遺伝子が複製され広がってゆくように、文化遺伝子も複製され広がってゆくというのである(12)。ミームは模倣に相当するギリシャ語mimemeを語源として、記憶を意味する英語memory、フランス語memeに掛け、また遺伝子geneに似た音節のあるものとして作成された造語である。
 人類は生物種の一つでありながら、ミームの蓄積によって遺伝子を変化させることなく、ミームが突然変異をし続けることによって適応度を上げる特異的な生物種である。(略)
 遺伝子を操作するということは、遺伝子によって生み出されたミームが、今度は反対に遺伝子に作用して変異させるということである。このような現代は、生物進化史的には、遺伝子→脳→ミームから遺伝子→脳→ミーム→遺伝子へとステップ・アップした進化史的な新時代へと突入しているといえる。遺伝子操作のミームは遺伝子の法則性を忠実になぞり、その法則性を写し取ることによってその技術を洗練させたものへと変異させることができるようになり、遺伝子をより巧みに操作できるようになるにちがいない。
 生命倫理学の課題のひとつは遺伝子操作などミームのもつ反自然的危険を回避して環境や遺伝子などのもつ自然性、生物性との矛盾の回避あるいは調整にあるといえる。その時、ミームが正確に自然を反映して合理的で安全であるか、過去にも未来にもつながる「遺伝子の川」の流れ(13)、つまり先祖から子孫への遺伝子の受け渡しを滞らせないものか、調整しなければならない。遺伝子操作の生命倫理学の規範形成においては遺伝子のもつ生物学的営みが十分に理解されることが必要不可欠なのである。(略)
 ミームの蓄積が進めば進むほど、生命操作の科学技術とヒトの「内なる自然」である遺伝子との矛盾が拡大し、遺伝子との調整をはかるために、生命倫理学が必要となってくる。この調整役を目的としている生命倫理学は、確かに一九六〇年代に米国で新生したのだが、どのような学問領域も突然始まるものではない。生命倫理学源流は、遠くギリシア時代のヒポクラテスまで遡るのが常である。さらに、時代は新しいが一九世紀のフランスの動物生理学者C・ベルナール『実験医学研究序説』(14)まで遡ることも常識である。しかし、今日の生命倫理学のように一般国民の社会生活や政治政策に深く関わるという意味では、生命倫理学の「前夜」は、一九世紀の実証的生物学の興隆を背景にした産児制限運動と優生学であったといえよう。
(p45)
 二一世紀には、ゲノムサイエンスの進展とともに、人類の遺伝子操作技術を用いた新たな医療への市民の欲求が膨らんでいくことは必至である。子どもの遺伝病を避けたい親の思いは、有害遺伝子の排除という消極的優生学への衝動を強めている。さらに、今日は遺伝子操作によって、良き遺伝子を導入する積極的優生学の時代に入りつつある。ヒト自らを遺伝子操作するというように肥大化したミームがどこまで、どのように遺伝子を安全に操作することが可能であるのか、肥大するミームと「内なる自然」の「遺伝子」との矛盾の調整、調和的発展への試みが、生命倫理学に求められている。ミームがそれを産み出したヒト自身の遺伝子プログラムを操作するという現代は、ポッターの提唱した文字通り生き残りの科学としての生命倫理学の真価が問われているといえる。
(p46)
 マラリア抵抗性のある鎌形赤血球貧血症突然変異遺伝子は、少なくとも熱帯からマラリア原虫のいない温帯に移住した人々には、有利な遺伝子ではなくなった。遠くにある危険や獲物を瞬時に見分け、強い筋力が要求される肉体が適応的であった時代と、パソコンの前で目と指を使う現代の労働環境との間では当然遺伝子の適応度評価は変北するのである。遺伝子の評価は絶対的なものとはかぎらない。ヒトの大脳の生み出すミームは、遺伝子の環境変化を起こし、遺伝子の評価を変動させている。遺伝子ジーンの配列の変異はなくても、ミームの生み出す環境が淘汰圧を変え、遺伝子の適応度を変えていくのである。
 このような遺伝子の役割や評価の変動を考えると、その時代の価値や制約のもとに、遺伝子の価値を評価し人類遺伝子プールを操作することは、変動する未来の遺伝子の可能性を、時代の拘束や限界の中に閉ざすことになりかねない。二〇世紀初頭の優生学は、医療や食糧の普及による「劣悪遺伝子」の広がりが人類への大きな脅威であるとして人為淘汰を進めたが、二一世紀の遺伝子観からはそのような結論は出され得ない。
 現在の遺伝学は遺伝子プールの多様性の確保を大きな問題にしている。
(pp49-50)
 人権や権利という概念は人類社会の中での依然として重要な概念ではあるが、限界のある概念であることが、認識されはじめている(37、38)。権利は歴史的に形成された法的な概念であり、人間相互間の社会的政治的法的かつ基本的関係であり、同時代を生きる人間の相互間の法的なミニマムエッセンシャルとして確立しているものである。その抽象性ゆえに人間存在がもつ諸相はしばしば切り捨てられることになる。生命操作の時代においては同時代に生きる人同士の「自己決定権」では済まされない倫理対象の時間的空間的広がりが出現してきたのである。
 遺伝子操作の自己決定権という権利主張からだけでは、遺伝子のコピーを担い、次代、次々世代へと「遺伝子の川」の流れを担う子々孫々や、遺伝子の組合せセットは異なるが、ヒト種として遺伝子プールを共有していることからくる、遺伝子のもつ生物性、あるいは生物性にもとづいた公共性は語ることができない。
 しかし、共同体主義的生命倫理は、しばしば共同体構成員の自由の拘束になる。共同体主義的・公共的倫理規範は個人の自由、すなわち自己決定権の最大限の保障が重要であることはいうまでもない。共同体を縛る倫理規範が、個人の自由の束縛とならないかどうかは、共同体が共有できる倫理規範を持ちうるかどうかにかかっている。それは、社会やその構成員が遺伝子や自己の個体性についての現代生命科学に裏打ちされた生命観・人間観が共有できるかどうかという問題である。遺伝子操作を始めとした生命操作の時代には、生命や遺伝子の治療や選択が、その個体の時代に終わる場合とそうでない場合とを区別することが必要である。たとえ自分の遺伝子のように見えても、それは他者の遺伝子のコピーでもあり、ヒトの遺伝子プールの複製として共有しているものであること、つまり、自分の人権の及ぶ、自己裁量が完全に及ぶ範囲を超えていることを知るべきである。自己とは受精卵のクローンである自分の個体、つまり体細胞集団までであるという生物的論理を納得することが必要である。
 ゲノム科学を学び、その知識や判断をもって、自分の遺伝子の情報を知り、病気の予防や人生設計の判断材料とする限りにおいては「新遺伝学」の有用性は大いにある。今後、その有用性は増していくであろう。しかし、生命科学の技術を利用して次代の遺伝子の取捨選択を行う「リベラル優生学」はどう評価されるであろうか。それは現在のゲノム科学が、その遺伝子操作技術の是非を判断するには未熟にすぎるという意味においては、慎重にならざるを得ないであろう。優生学理論という意味では、依然として人類はそれを、応用科学としての科学性をもたせる段階には到達していない。「リベラル優生学」は確かな科学的裏付けをもたないという点においてだけ見るなら、たとえ「自己決定権」に基づいていようとも、その利用は二〇世紀初頭の優生学と同様、科学的であるとはいえないことは確かである。


◆天野有, 20040330, 「生命倫理の方向性を求めて――神学的倫理学からの予備的考察」山崎喜代子編『生命の倫理――その規範を動かすもの』九州大学出版会:53-77.
(p54)
 アメリカでの一連の人権運動の潮流の中で、生命倫理は、「学問」として、と同時に、「生命と人権を守る運動として世界的に展開」していった(2)。本章は、生命倫理に取り組むための方向性を、「生命と人権を守る運動」というその原点を念頭におきつつ探ろうとする試みである。言い換えれば、まさに「生命」(あるいは「生」・「いのち」)ということで何が理解されるべきかを神学的倫理学の視点から模索する試みである(3)。
 その際、私たちは二〇世紀の代表的プロテスタント神学者力ール・バルト(一八八六〜一九六八)の神学的倫理学に即して見てゆくことにしたい。したがって、本章の立場は聖書に基づくキリスト教倫理のそれである。ただし、それは多様なキリスト教倫理の立場の一つにすぎない。
 以下、私たちは、聖書に基づく神学的倫理学の視点から、まず、生命への畏敬(→一)を、次に、その裏面である生命の保護(→二)を論じ、最後に、生命倫理の鍵概念の一つである「自律性原理」への短い問いかけ(→三)をもって本章を閉じることにしよう。それによって試みられるのは、生命倫理のあるべき方向性を求めての一つの神学的予備作業である。
(pp55-56)
 聖書も、否、聖書こそが一貫して「生命の尊厳(神聖)」を語る。その最も代表的な言葉は、旧約聖書中のあの十誠に出てくる「あなたは殺してはならない」(出エジプト記二〇・一三)であろう。この神の誠めは、「生命の尊厳(神聖)」を言わば裏面から語ったものであり、新約聖書でも繰り返し引用される(イエスによる引用としてはマタイによる福音書五・二一参照)。それでは、聖書によれば、なぜ人が人を「殺してはならない」のだろうか。ここではその最も重要な根拠を二つだけ挙げよう。それは@「人は神にかたどって造られたから」(創世記九・六)であり、そしてとりわけ、Aイエスにおいて神が人と成ったから(新約聖書全体、特にヨハネによる福音書一・一四)、である。
 第一の根拠について。人間が「神にかたどって」創造されたとは、神自身が〈我-汝〉という関係存在であることに対応して、人間もまた〈我-汝〉(そのモデルが〈男-女〉)という関係存在として創造された、ということを意味する。そしてそこには、神と人間との間にも〈我-汝〉関係が成立しているという事態も含まれる。否むしろ、聖書によれば、神と人間との〈我-汝〉関係こそが人間が「神にかたどって造られた」ということの本来的意味だとさえ言える。(略)
 第二の根拠について。これは第一の根拠で語られたことの究極の事態である。すなわち、人間イエスにおいて、神と人間との〈我‐汝〉関係は歴史的現実となった、言い換えれば、神は人間と成った、のである。このイエスという歴史的現実において、神が人間を創造した際の根源的で特別な意図は究極的・決定的に表現された。その意図とはすなわち、「神は、この小さき存在における人間を永遠の昔から選び愛し」ている、それゆえ、「この卑小なる人間は、聖書の使信によれば、神に直接的に相対して立つこと―万物および一切の出来事の中心に立つこと―がゆるされている」というものだ。(略)
 以上の二重の、しかし実質的には唯一の根拠に基づいてのみ、人間の生命は「高貴で尊厳ある、神聖にして秘義に満ちた事実となる」のである。(略)したがって、「あなたは殺してはならない」という聖書の言葉は、何よりもまず、人はその生命を―神から特別な意図をもって与えられたものとして―(生きねばならぬ、ではなく!)生きることがゆるされている、ということを意味している(生命への畏敬)。そして、この積極的意味に、まさに「あなたは殺してはならない」(生命の保護)、という消極的意味が続くのである。
(pp68-70)
 すでに見たように(→一)、聖書に基づく神学的倫理学は「生命への自由」―「生きることに向かう自由」―の倫理学であり、他方、近代合理主義は個人の「自己保持」を原理とするものであった。そこに紹介した各々のテーゼの特徴を一言でまとめるなら、神学的倫理学は人間の生命の連帯性を、近代合理主義は人間(個人)の生命のまさに自律性をその核心とする、と言えるだろう。(略)ただ、ここでの私たちの問いは、「自律性原理」・「自己決定権」の根拠とは何か、ということなのである。(略)「アメリカでは『自律性尊重』が最も重要な原則として位置づけられている」が、これに対しては、それは「個人主義に基づく自律性尊重の偏重」だとの批判もあり、むしろ、「社会(コミュニティ)の秩序と個人の自律性のバランスを図るという考え方―共同体主義(communitarianism)―」が、「欧州を中心に展開され」ているという(46)。その際しかし、それが「個人主義」に基づく「自己決定権」の尊重であれ、これとの「バランスを図る」という意図を持った「共同体主義」であれ、問題は人間のなんらかの生死に関わる決断が下される際のその規準とはそもそも何であるのか、ということである。
 しかし、ここでは、「自己決定権」・「自律性原理」が孕むこのような問題性を指摘するにとどめよう。ただ、筆者の今後の課題として一言だけ述べておく。つまり、問題は西洋近代合理主義の限界ということであり、これに対して次のような方向で模索したいのである。個人(=主体性)を最大限尊重することと交わり(ゲマインシャフト)の中に生きることとが車の両輪のように成立すること、換言すれば、他者(=隣人)と共に生きることによってのみ私は真に私らしく生きうるのだということ、―これを生命倫理の出発点、と同時に目指すべき目標たらしめるべきではないだろうか。こうして出発点と目標とが定まれば、自ずから方向性も(その都度)整えられてゆくであろう。個と共同体とのこのような新しい関係を創出せしめる原動力として、筆者は、すべての人間(「万物」![コロサイの信徒への手紙一・二〇])のためにその生命(プシュケー)をささげて―その魂(プシュケー)を注ぎ出して―真の命(ゾーエー)(=永遠の命(ゾーエー))に生きる道を切り拓いた―、否、その「道」そのものである―イエス・キリスト(ヨハネによる福音書一四・六)を考えるのである。


◆高橋文彦, 20040330, 「生命倫理における直観と論理――ヘアによる人工妊娠中絶問題への「黄金律論法」の適用とその問題点」山崎喜代子編『生命の倫理――その規範を動かすもの』九州大学出版会:81-113.
(pp81-83)
 本章が取り上げる人工妊娠中絶の問題(以下、「中絶問題」と略す。)に限定しよう。岡本は前述の著書の第一章でこの問題について論じる際、多くの生命倫理関係の文献がそうであるように、トムソン(Judith J.Thomson)の「人工妊娠中絶の擁護(2)」とトゥーリー(MichaelTooley)の「人工妊娠中絶と新生児殺し(3)を考察の手がかりにしている。周知のように、前者は権利論アプローチを採り、中絶問題を胎児の権利と母親の権利の衝突として捉えた上で、斬新な思考実験によって女性の自己決定権を擁護する。これに対して、後者はパーソン論の観点から、胎児や新生児は生存権を享受しうる人格(person)なのかという問いを立て、これを否定することによって、中絶のみならず新生児殺しをも道徳的に許容するという衝撃的な結論を導く。岡本はこの二つのアプローチを批判の俎上に載せ、その理論的欠陥をてっけつし、「生命倫理学はいらない!」という主張を例証しようとした。しかしながら、ほとんどの文献と同様に(4)、そこでは本来ならば検討されるべき第三のアプローチが取り上げられていない。そのアプローチとは、権利論とパーソン論の双方を直観(intuitions)の表明にすぎないと批判し、これを理論的に乗り越えようとするヘア(R・M・Hare)の議論である(5)。
 ヘアのアプローチはわが国ではあまり注目されていない。その原因はどこにあるのだろうか。まず最初に、トムソンやトゥーリーが「権利」や「人格」といった実定法学者にも馴染みの概念を用いて中絶問題を論じているのに対して、ヘアは「黄金律(the Golden Rule)」という法実務的思考とは疎遠な道徳原理(たかだか自然法原理!(6))に依拠しながら考察を進めている点が挙げられよう。後者の視角は、女性にとって切実な法律問題の解決にはあまり役立たないと思われるのかもしれない。第二に、ヘアのけれんみのない学風も多少は関係があろう。実際、彼の論述には、トムソンやトゥーリーに見られる派手な思考実験や衝撃的な帰結は一切見られない。日常言語学派の中でも飛び抜けて平明な彼の叙述と、或る意味では極めて常識的な結論だけを見ると、どこか物足りない印象を与えるのかもしれない。
 しかしながら、私見によれば、ヘアが一見平凡な結論に至るまでの思索過程は、他の論者には見られぬ明晰な論理によって貫かれており、生命倫理の問題を考察する際の一つのあるべき論証モデルを提示している。そこで本章では、あまり詳しく検討されることのなかったヘアの中絶論を敢えて叩き台として取り上げ、彼の論証の中核にある「黄金律論法」(‘golden-rule'argument)の有効射程について批判的な考察を加えつつ、この生命倫理の基本問題について我々自身の思索を深めたい。以下では、まず最初にヘアの規範倫理学およびメタ倫理学上の立場を概観した上で、道徳的論証に関する彼の理論の核心部分を祖述する。次に、ヘアによる権利論アプローチおよびパーソン論アプローチに対する批判を瞥見した後、彼が「黄金律論法」と呼ぶ論証方法を中絶問題にどのように適用し、どのような結論を導くかを明らかにする。続いて、批判的な視角から「胎児との同一性連関」「存在と不存在の非対称性」「フェミニズムの視点」という三つの論点を考察し、ヘアの論証の限界および欠落部分を解明して、その補修・改善の必要性を確認する。ヘアの見解もこの批判的考察を通して無傷のままでいることは許されまい。願わくは、彼のアプローチにまだ脈があり、治療が可能であることを。
(p84)
 ヘアの倫理学上の立場は次のように特徴づけられる。すなわち、ヘアは、@規範倫理学上は功利主義(正確に言えば、選好功利主義)にさたんし、Aメタ倫理学上は普遍的指令主義(universal prescriptivism)を提唱し、B応用倫理学上は普遍的指令主義に基づく功利主義の応用によって中絶問題を含む実践的な諸問題の解決を図ろうとするのである。もっとも、これだけでは説明不足なので、@およびAについて若干の補足的な解説を加えたい(8)。
(pp105-107)
 本章の冒頭で提起した疑問に戻ろう。ヘアのアプローチにはまだ脈があるのだろうか。まず、彼のメタ倫理学上の普遍的指令主義について言えば、道徳言語の特徴を指令性と普遍化可能性に見る彼の洞察は、細部の微調整は必要であれ、正鵠を射ている。彼が中絶問題を考察する際に用いた「黄金律論法」も、その最も基本的な部分においては有効性を十分に保持していると言えよう。それでは、規範倫理学上の立場についてはどうか。批判的レヴェルの論争においては、各自の道徳的直観に依拠してはならず、道徳言語の論理に基づかねばならないという主張は、現状に対する批判としては一応理解できる。しかし、メタ倫理学上の普遍的指令主義から選好功利主義を導こうとする彼の戦略は、(本稿では十分に論じられなかったが)成功しているとは言い難い。このことは、「黄金律」がカントの「定言命法」と同様に義務論的(deontological)原理であるのに対して、功利主義が典型的な目的論的(teleological)あるいは帰結主義的(consequentialist)な倫理学説であることを考えただけでも明らかであろう。しかも、功利主義の基礎にある「最大化原理(maximization principle)」は、「黄金律」の中にはどこにも含まれていないのである(64)。したがって、ヘアの選好功利主義には、道徳言語の論理分析以外の更なる基礎づけが必要である。それでは、ヘアの応用倫理学における中絶論はどのように評価されるであろうか。我々は「胎児との同一性連関」「存在と不存在の非対称性」「フェミニズムの視点」という三つの問題点を考察した。まず第一に、ヘアは「黄金律論法」を中絶問題に適用する際に、「胎児としての私」と「成人の私」との同一性を暗黙のうちに前提していた。しかし、コラディーニが指摘したように、これを改めて存在論的に正当化した上で、明示的な前提として導入しない限り、彼の論証は論理的に妥当なものとはならなかった。しかも、現在の私は、私がそこから発生した受精卵あるいは胎児と物理的・因果的に繋がってはいるが、両者の間に心理的継続性はないから、いわゆる「心理的基準」を採用すれば、「胎児としての私」と「成人の私」との同一性を否定し、「黄金律論法」の適用対象から胎児を除外することができるのである。私はこの結論の方が説得力があると考える。
 第二に、ヘアは「黄金律論法」を用いて「胎児の時に中絶されなくてよかった」という我々の思いから中絶の原則的禁止を導こうとした。このとき 、「中絶されなくてよかった」という思いは、中絶されなかったことが現在の自分にとって善(利益)であることとして理解された。しかしながら、パーフィットが論じたように、「存在し始めること(あるいは、存在し続けること)」と「初めから存在しないこと」との間には、善(利益)・悪(不利益)の対称性が成り立たない。すなわち、我々にとって、中絶されなかったことは善(利益)ではあるが、仮に中絶されていたとしても、そのことは悪(不利益)だとは言えない。したがって、「黄金律論法」によって中絶の原則的禁止が正当化されたとしても、他方では「中絶は悪(不利益)ではない」という命題が同時に成立してしまうのである。
 第三に、ヘアのアプローチは、「黄金律」という抽象的・形式的な原理をまずは胎児に適用し、次に妊娠女性を含む関係者全員の利益を同様に推察して、比較考量によって結論を導くという方法であった。これに対して、フェミニズムの立場からは、彼の議論が典型的な「正義の倫理」の思考形式に則っており、「ケアの倫理」に対する配慮が見られないこと、「黄金律」の適用に際して胎児の立場が優先的に考慮されていること、そしてその適用自体が「女性対胎児」という旧来の構図を前提していることが指摘された。私見によれば、もしヘアが胎児を両義的存在として捉え、「胎児を身籠った女性」という「二者なる一者」に「黄金律」を適用したならば、胎児の立場で胎児の利害を真に代弁しうるのは妊娠女性以外にはありえず、ヘアが考えた以上に母親の発言権は強くなると考えられる。
 ヘアが中絶論において援用した「黄金律」は、キリスト教の伝統においても非常に重要視されてきた。その根拠は『新約聖書』にあり、「マタイによる福音書」において「黄金律」は「律法であり預言者である」(七・一二)とまで言われている。ヘアはこの「黄金律」を論理的に拡張することによって、中絶の原則(一応の)禁止を導き出そうと試みた。これに対して、ほとんどのキリスト教原理主義者は「黄金律」の適用によってではなく、「受胎告知」の神の立場から中絶禁止を主張する。しかし、土屋恵一郎が鋭く指摘しているように、「神様からの授かりものとして、妊娠が描かれる時、女性の子宮は女性のものではなく、神によって代表される外側に存在するものの支配下にある。それは女性の意のままにならないものとなっている(65)」。外側に存在する者の独善的な宗教的信念や無反省な道徳的直観が、苦渋の選択を迫られている妊娠女性の自己決定を不合理な形で抑圧するばかりか、公共的で間主観的な議論の可能性を圧殺し、例えばアメリカにおいては中絶を行う医師の射殺や病院への放火といった事件を実際に引き起こしている。その意味において、論理なき直観はまさに盲目であるが、他方、我々の考察は、ヘアの論証の欠落部分を指摘することによって、批判的レヴェルにおいてであれ、直観なき論理が空虚であることを改めて示していると言えよう。


◆伊佐智子, 20040330, 「生命倫理と権利概念――妊娠中絶の問題を手がかりに」山崎喜代子編『生命の倫理――その規範を動かすもの』九州大学出版会:115-138.
(pp115-116)
 「権利」は、諸利益が衝突する際に生じる問題を解決するための重要なメルクマールである。そこで、人間の生命にかかわるさまざまな生命倫理問題についても、しばしば「権利」が持ち出される。例えば、「胎児の生命権」、「死ぬ権利」、あるいは「自己決定権」などである。確かに権利論は、錯綜する諸利益を保護せよという要請に対して、当事者たる当人の利益を保護する上で有意味である。しかしながら、それぞれの「権利」の意味や価値が十分説得的な形で説明されえない場合には、単に、当人の利益を保護するという目的のために「権利」を持ち出しても、何ら解決を導き出すものとはならない。むしろ、十分な考察がなされないまま「権利」という言葉が使用されている場合もあり、その結果、かえって問題解決を複雑にしている側面もないとはいえない。そこで、本章では、これまでの「権利論」による問題解決の試みを批判的に考察したい。
 権利論を問題にする根拠としては、以下の三つが挙げられる。
 第一に、衝突する諸権利の捉え方である。とりわけ、生命をいかに扱うかが焦点となる生命倫理の諸問題においては、対立する当事者双方の「生命の尊厳」やクオリティ・オブ・ライフが対立している場合が多い。もっとも、ここで問題とするのは、権利を援用することそのものではなく、そこで語られている権利の内実を洞察しなければ、真の問題解決は図れないということである。そこで、本章では、これまでの「権利論」による問題解決の試みを批判的にとらえて、権利が衝突する様々なケースについてそれぞれの権利が意味していることは何かを丹念に検討することによって問題解決を図るものとする。
 第二に、「権利論」の前提とするものや、権利論を援用することそのこと自体についての問題がある。自己決定権を問題にする場合、「自由な自己決定」ということが前提とされ、「権利論」は、文字通り自由主義的な考え方の影響を強く受けている。しかしながら、私見では、権利を単に自由なものと見るだけでは十分ではない。
 第三に、生命倫理問題では、いくつかの「生命の尊厳」そのものが対立する状況になることも少なくない。そこで、「対立」する当事者の「権利」というものを持ち出すだけでは十分ではない場合が存在する。
 以上の考察を行う端緒として、ここでは妊娠中絶の問題を取り上げる。中絶問題では、一般に、「胎児の生命は保護されるべきだ」という胎児の生命権と、妊娠を継続するか否かの女性の自己決定権とが衝突すると考えられている。しかしながら、このような権利衝突は、実際、現実を正確に反映しているものなのか。そこで、本章では、一において、「胎児の生命権」を検討し、この権利が女性の権利と対等なものとして扱われていないことを示す。二では、「女性の自己決定権」の内実を明らかにする。三では、中絶問題における権利をめぐる議論に欠けている論点を明らかにし、よりよい問題解決のための一助としたい。
(pp133-134)
 結論としては、次のようなことがいえる。
 胎児は、女性に対しその生命権を絶対的に主張しうる立場にはなく、女性の自己決定権は、女性が生殖問題において大きな社会的負担を抱えているということから、尊重されて然るべきである。しかし、その場合、女性はまったく自由に判断できるというものではなく、同じ生命として、尊厳を持つ胎児の生命を配慮し尊重しなければならない。つまり、胎児に対する責任にもとづいて、妊娠を継続するか否かを判断しなければならない。
 女性が自由に判断できるのは、女性に対してやむを得ない選択を迫る社会に対してである。社会には、女性の生殖における重要な役割を理解し、胎児生命の保護に整合する形で女性の自己決定権を支えるという関わりが求められる。こうして、妊娠中絶をめぐる全体的状況は、妊婦の自己決定と胎児生命の保護が整合するような仕方で解決される努力が必要である。
 女性が妊娠を継続するか否かというようなきわめて個人的かつ微妙な判断の是非に関しては、往々にして第三者の側から濫用の危険性が指摘される。妊娠中絶は、道徳的には胎児の殺害であることには変わりない。したがって、このこと自体を正しいとみなすことには抵抗を感じざるをえない。しかしながら他方で、現在の社会的ないし家族的状況そして性道徳ないし異性間関係の在り方に鑑みれば、明確な適応事由が確定されない妊娠中絶の可能性を完全に無視することも想定不可能である。さらに、妊娠中絶が道徳的には不正なことだとしても、これを完全に規制管理することは不可能であろう。中絶問題に限定してではあるが、法律は合法性と違法性の間に横たわる、ある広い判断の余地を残すものである。というのも、そこで問題となっているのは、単に一般的な事柄ではなく、後にも先にも一つしかないかけがえない生命存在を取りまく総体的状況であるからである。このことはしかし、他の生命倫理の問題領域についてもあてはまることかもしれない。われわれがなすべきことは、かかる意図せざる濫用可能性を見通しつつも、他方で、道徳ないし倫理からの甚だしい逸脱を回避するように法律を用いることではないだろうか。


中山茂樹, 20040330, 「共に生きるということ――生命倫理政策と立憲主義」山崎喜代子編『生命の倫理――その規範を動かすもの』九州大学出版会:139-164.
(pp139-140)
 生命倫理の問題として論じられる事柄には、さまざまなものがある。この章では、生命倫理の諸問題を公共的な政策の問題という側面から捉える。(略)ある社会において「ものを決める」しくみを定めている法が、憲法(constitutional law)といわれるものである。本稿は、生命倫理に関する政策を決める際の枠組み(constitution)について考えたい。
(pp153-154)
 現代立憲主義は福祉国家のコントロールに腐心するのであるが、古典的な人権の観念にも個人の自律の保障とは異なる側面があることに注意をうながしておきたい。ここまでの本稿の人権についての説明は、個人がみずからの生き方を自分で決めうることを公共的に保障するという点に重点を置いてきた。「あなたの生き方は間違っている」と国家にいわれないということは人権の観念のたいへん重要な点である。しかし、「個人の尊重」というものの考え方の中には、これとは別に、ただ単にその人が存在することを保障することも含まれている(33)。
 個人の自律の保障と存在の保障とが完全に同じものではないということは、自律には一定の能力が必要であるということを考えるとよく理解できるだろう。生まれたばかりの赤ちゃんも「自己決定権」をいちおう享有するだろうが、自己決定の能力に欠けるとしたら、それを行使することはできない。自己決定は自己決定能力が前提となっており、その能力に欠ける人の「自己決定権」は制約されることになる。(略)
 これに対し、子どもが自己決定能力に欠けることを理由として、その生命に対する権利が制約されることはない。つまり、生命に対する権利というものは、自己決定能力に依存していない。身体を傷つけられないということにも、同様の面がある。生き方の自由の保障と生きていることそのものの保障とは、少し異なっているのである。(略)
 人が存在すること自体を法益として承認することは、一定の「望ましいこと」を各個人の具体的な意思を離れて設定することになることは認めなければならないだろう。けれども、法が生命に対する権利を自己決定能力に欠ける人にも認め、また「死にたい」と思っている人にも認めることは、その人の「生き方」にただちに干渉するものではない。「生き方」への干渉ではないかと問題となるのは、国家が、死ぬことを自己決定した人にみずから死ぬことを許さず、生きることを命じるときである。この国家の命令は、消極的に殺されないという意味での生命に対する権利の保障からただちに導かれるわけではない。死ぬことについての「自己決定権」の問題(36)は、生命に対する権利の保障とは別に議論する必要がある。
(pp154-155)
 もっとも、憲法学においては、「個人の尊重」をなにより自律の保障であると理解する説も有力である。(略)近代立憲主義が個人の自律を保障しようとするものであるとしても、そこから自律的でない存在は尊重しなくてよいという命題がただちに出てくるわけではない。(略)近代的な法的権利の言葉づかいのもとでも、自己決定能力に欠けるとされる人の生命・身体を侵害してよいことにはならないだろう。個人に認められる法益は、その個人の自己決定(意思)と常に結びついているわけではない。このことは、生命科学・技術の発展にともなう人体のさまざまな利用をめぐる政策について考えるときに重要な点である。人の生命・身体を他者による侵害から保護するための規制は、明らかに国家の任務であるからである。
(p157)
 どうして人は他者と共に生きていこうとするのかという問題を別にしても、他者の存在を承認するということは、存在を侵害しないという消極的な承認だけでなく、存在するために必要なものを積極的に与えなければならないということまで含まれるのだろうか、と問うことができる。侵害を加えるという作為と、援助しないという不作為は、同じように他者の不承認なのだろうか。日本国憲法は、生存権を承認しつつ、これを分けているようであるけれども、その意味について考えてよいだろう。
(pp158-159)
 マクロな政策として考えれば、それによって生命が救われる人への移植医療の保障と潜在的ドナーの生命に対する利益とをできるだけ対立的に捉えない方がいいとはいえる。潜在的ドナーの生命が十全に保護されてこそ、移植医療が社会で受容されるだろう。けれども、両者が衝突してしまう部分がどうしても残るように思われる。
 レシピエントの生命の保障とドナーの生命の保障を調整する原理は、これまで、ドナーの自己決定だと考えられてきたと思われる。本人の自己決定がなければ、その生命・身体への介入は正当化されない。他方で、本人の自己決定によって、その生命・身体への介入が正当化される。この論理についてはさらに検討すべきだろうが(小松は厳しく批判してきた)、かなりの説得力をもっている。(略)しかし、自己決定能力のない子どもからの脳死臓器移植について、自己決定の論理では説明できない(だからこそ臓器移植法は認めていないと解されるのだろう)にもかかわらず、それを認める法改正が主張されている(49)。これはどのように正当化されるのだろうか。おそらく、正当化のキーワードは「連帯」である。連帯にもとづく生命の積極的な保障は、財産権と同じように、他者の生命の消極的保障をあえて縮減することを含意するのだろうか。


◆毛利康俊, 20040330, 「生命倫理の社会政策原理――ルーマン派システム論の視点」山崎喜代子編『生命の倫理――その規範を動かすもの』九州大学出版会:165-188.
(pp166-167)
 本稿では、生命倫理的な政策領域に相当に一般的に見出される特徴を取り出し、その特殊性から要求される政策的考慮事項という、いわばメゾ・レベルに、議論の焦点をあわせたい。
 さて次にいかなるアプローチを取るかであるが、本稿は、ルーマン派の社会システム論に注目することにしたい。というのは、政策過程に対する自己反省的視線と政策対象領域に対する視線を一般的次元で交錯させるようなアプローチは、専門分化の進んだ今日の学問世界ではまれであり、ルーマン派システム論が、そのまれなひとつだからである。
 (四)そこで以下では、まず、システム論的に問題を処理する一般的な手順を確認した後、その手順に従い、生命倫理的問題事象を構成する諸システムについて分析し、それらの分析を総合する形で、生命倫理的問題事象にたいする法政策の課題の特徴を明らかにする。結論として、身体性と諸システム固有の時間性とをともに考慮に入れた法政策学が要請される。
(pp184-187)
 (一)生命倫理的問題事象においては、多くの場合、身体性が自律的存在感をもって現出し、その結果、その場の時間性が多かれ少なかれ、通時態の優位から現在性の優位の方へ変異する。このことは、まず、通常の社会システム同士のカップリングが、通時態の中での時間性調整におっていることから、関連する社会システムの時間性の再調整という問題を提起する。まず、身体性が自律的存在感をもって顕現するのが、なによりも親密圏と医療であり、かつ顕現のあり方が両システムの間で接近してきたので、かつてないほど、両システムの時間性調整という問題が提起されることになる。そして、両システムでの時間性の調整は、その周辺の、福祉システムを介しての法システムや政治システムとの調整、企業システムとの調整などへと波及するであろう。こうして法政策的には、個別生命倫理的問題ごとの、自己決定の位置づけをも含む規範的決定もさることながら、関連して生じる社会システム相互間の時間性の調整がうまくいくような慎重な制度設計を試みる必要がでてくる。
 しかし、ルーマン派システム論からの示唆としてここで特に注意しなくてはならないのは、社会システム相互間の時間性の調整というのは、生命倫理的問題事象の処理に伴う派生的問題処理にとどまらない意味を持つということである。すでに多くの人が指摘しているように、個々人にとって、どのような時間性の中で生きるかということは、その生の単なる外的条件ではなくして、その質を内的に規定してしまうものである。そして、個々の意識システムの、自他の生命(個人の人格的生命とは限らない)という超越へのかかわりは、そこに介在する身体性とのかかわりを通じてのみ、なされるのであってみれば、その意識システムの生きる時間性の関数でしかありえない。そして、個々人の意識システムの時間性のあり方は、それを取り巻く複数の社会システムの時間性の調整によって、内的に規定される。すなわち、直接性の程度はさまざまであるかもしれないが、生命倫理的問題事象に関連する社会システム相互間の時間性の調整、とくに医療と親密圏の時間性の調整という法政策的課題は、生命の扱われ方そのものに内的にかかわるのである。
 (二)また、法政策的処置は、生命倫理的問題事象に関して、直接的規定力を持たないであろうということにも注意しておく必要がある。これは何も、生命倫理的問題事象が親密圏や医療現場、あるいは倫理委員会など、法スタッフが必ずしもその場にいない、そういう意味で、法システムと政治システムの周縁で生起するというだけのことではない。そういう法や政治の側の事実上の制約の問題にとどまるものではない。法政策的処置はルーマンの言う近代的制度として、その運営に関しては規範的予期と認知的予期の二分法的態度が要請されると思われるが、身体は―ということはそこを通じて姿を見せる生命という超越も―この二分法を本来的にすり抜けてしまうのであった。
 親密圏や医療は、家族法や医事法の伝来的な規律領域であり、生命倫理的問題事象に関する制度もこれらの法と直接間接に関連して定立されるが、これら制度も、親密圏と医療に対して、直接的な規定力を持たない。伝統的にこれらの領域は、自律性に委ねられるところが多かった。家族の自律性、私事の自律的処理、専門職の自律などである。ところがその自律性の範囲は再編をまぬかれるものではないことが次第に承認されるようになってきた。その背景の一つが生命倫理的問題事象の認知であった。しかし、法的政策的介入を深めていけばよいというものではないのも、システム論の示唆するところである。親密圏や医療の場において、前述のような意味で身体の存在感が増すからである。
 (三)したがって、法政策は、いったん定立された後も、親密圏や医療の自律的展開において、身体、生命がどのように扱われるかを慎重にモニターする必要がある。もちろん、そのモニターは、政治の前述のような意味での自己反省であらねばならないので、制度運用の結果が、政治的声として法や政治の中で取り上げられるように、ルートを工夫しておかなければならない。そしてなお、その声のモニターも一面的モニターに過ぎないこともはっきり自覚しておくべきである。それは、生命の問題が、個人の意識の場だけでも、親密なコミュニケーションの場だけでも、政治的コミュニケーションだけでも、法的コミュニケーションだけでも、モニターしつくせるものではないことの反映である。
 (四)結局のところ、本稿の検討範囲で、システム論的分析を加えることで政策科学の達成に付加できたのは、次のような視点である。つまり、生命倫理的問題事象については、その本質的に適切な扱い方のためにこそ、親密圏と医療を中心とするもろもろの社会システムの時間性の調整と、身体の自律的存在性に注意して制度設計をすることが必要であり、結果のモニターでもその観点が見失われてはならないのである。
 こうして生命倫理的問題事象にシステム論的分析を初歩的に加えることで、われわれは身体性と時間性の法政策学が要請される地点にまで達した。しかし、その法政策学の実質的内容はいまだ形成されていない。システム論的分析をさらに先に進めることでそれが可能になるのかは、やってみなければわからないといわざるを得ない。ただ、私自身は今のところその可能性に賭けてみたい気がしている。


◆Scaffner,Karen J.(シャフナー), 20040330, 「よい血統の者と生まれなかったほうがよかった者――米国優生政策の歴史」山崎喜代子編『生命の倫理――その規範を動かすもの』九州大学出版会:191-233.
(p192)
 アメリカ史を検証するならば、個人の尊厳と平等とを否定する思想とその集団の系譜が浮かび上がってくる。人種主義、差別主義、非人道主義が生じた時がたびたびあった。それは、人々の生物学的相違が社会の不平等を要求すると考えられた時代である。そのような思想と行為がアメリカ史の中で、科学の名の下に、そして社会の利益のためにと主張されて、行われた時代であった。このイデオロギーは「優生学」と呼ばれ、一九世紀後半に出現し、二〇世紀まで人々にそして政策に影響を与え続けた。この章では優生学を概説し、それがどのように政策とその実践に影響を及ぼし、現在そして未来にどのような力を与えたかを考察する。


◆河島幸夫, 20040330, 「ナチス優生政策とキリスト教会――遺伝病子孫予防法(断種法)への対応」山崎喜代子編『生命の倫理――その規範を動かすもの』九州大学出版会:235-270.
(p235)
 ナチズムの犯罪としてはユダヤ人虐殺が最も有名である。しかし近年では、障害者もまた大量虐殺の犠牲者となったことが注目されるようになった。それは《安楽死作戦》とよばれ、主として第二次世界大戦の時期(一九三九〜四五年)に行われた。その前段階となったのがナチスの断種政策である。これは「遺伝病子孫予防法」という法律の下に実施された。本章においては、この法律を中心とした断種問題に対するキリスト教会の対応をとりあげ、ナチズムにおける優生政策と人種政策、そこにおける断種、安楽死、ユダヤ人虐殺の関係にも触れることにしたい。
(pp260-264)
 一 私は拙著『戦争・ナチズム・教会』(新教出版社、一九九三年、三刷=一九九七年)において、ドイツのプロテスタント教会がナチスの断種政策を肯定したのとは逆に、カトリック教会は断種拒否の基本姿勢をナチスの時代にも貫徹した、と述べた(75)。しかし、このたびの研究の結果、カトリック教会に関するこうした見解を修正しなければならない。(略)
 ナチスの時代には一九三四〜四五年、とくに一九三九年までの間に断種政策が猛威をふるった。これは一九三九年から始まる障害者・患者に対する《安楽死作戦》の序奏でもあった。断種された人々の多くは、やがて《安楽死》の対象となって殺されていったのである。この安楽死作戦に際してはプロテスタント教会の内国伝道、カトリック教会のカリタスの多くの施設からも少なからぬ犠牲者を出すとともに、他方では相当な抵抗が展開されて、それなりの成果をあげることができた。これに対して断種政策に関しては大きく異なっていた。
 まずプロテスタント教会の場合には、もともとナチス政権成立の前から任意断種を容認し、強制断種には反対するという立場をとっていた。しかしナチス政権によって断種法が制定されると、強制断種をも容認してしまうのである。プロテスタント系の内国伝道の諸施設から多くの断種犠牲者が出たのは、当然の成りゆきであった。これに対してドイツのカトリック教会とカリタスは、本来、任意・強制を問わず一切の断種を拒否することを基本方針としていた。それにもかかわらず現実にはこれを貫徹することができず、結局はナチスの断種政策に順応して相当数の断種被害者を出してしまった。その原因・理由はどこにあったのだろうか。
 まず第一に、安楽死作戦が法律なき状態で秘密のうちに遂行されたのに対して、断種の場合には遺伝病子孫予防法という公示された法律が存在した。法律に基づいて実施される国家的措置に対して、これを攻撃することはきわめて困難であったろう(76)。しかも当時の一般的風潮として、断種は遺伝病を減らすための有効な医学的治療行為であって、それは人間の命を抹殺するのではなく、人類の退化を予防するものであると信じる人が、少なくなかったのである。さらに断種は、障害者をふやさないために自分の体に傷を受け、子供をつくる機能を放棄するという、犠牲的な「隣人愛」の行為(遺伝病子孫予防法の立法理由書)として賛えられた(77)。こうした考え方は、まじめなキリスト教徒をはじめとして当時の多くの民衆の間にも、もっともな説明として受け入れられたのであった。
 しかし、立場をかえて、断種される患者の視点からすれば、断種とは、そもそも人間としてのふつうの能力と尊厳を傷つけられ、否定される暴力行為にほかならなかった。「不妊措置[断種]を受けさせるのは、『この社会にとって、あなたのような人が存在しつづけることは認められない』という宣告(78)」(傍点は河島)を意味したからである。第二に、カトリック教会の中に、とくにカリタスの中心にいる指導者の中にも、当時の人種的優生思想がそれなりに浸透していたことを、見逃すことができない。確かに教皇庁やドイツ司教団は過激な優生思想の行き過ぎをたえず批判し、それに警告を発してきた。しかしナチスの時代にもてはやされた人種的優生思想はカリタスに関わる人々の心をも捉えたのではなかろうか。(略)
 二 ナチス・ドイツの断種法=遺伝病子孫予防法は、優生政策と人種政策とが結びついたものであった。確かにこの法律の条文には人種政策を示す文言はない。しかしナチス当局にとっては断種法は「遺伝保護と人種保護」(Erb- u. Rassenpflege)という同一連関のワンセットとして捉えられていた。(略)ナチスの断種法に人種理論の文言が入れられなかったのは、まず第一に立法化が性急に行われてしまったこと、第二に、ドイツ民族の内部にも複数の人種が含まれている上に、人種的要素を表面に押し出せば、日本や中国、南米諸国などとの外交関係に悪い影響を与えかねない、と危惧されたからであろう(82)。
 いずれにせよ、ナチス断種法は精神的にも実質的にもナチス人種政策の構成部分であったといえるであろう。
 ナチズムとカトリック教会は人々の心と魂をめぐる領域で激しく争っていた。「カトリックの記録とナチスの記録との双方が示すところによれば、優生学的人種主義(eugenic racism)へのカトリックの抵抗は、その潜在的結果のゆえに深刻なものと受けとめられたのであった(83)」。
 すでに指摘したとおり、ドイツのカトリック教会の内部にも人種的優生思想に共鳴する指導者が存在した。しかしそうした傾向でさえ、ナチスの断種政策を受け入れることはできても、現存する遺伝病患者の生命を抹殺する安楽死作戦は、とうてい受け入れることができなかった。ナチスの安楽死作戦は、やがて両キリスト教会の抵抗にぶつかることになる(84)。
 最後に、障害者に対する「断種法」と「安楽死作戦」およびユダヤ人に対する「最終解決」、この三者の連関を強調するアメリカ人学者ドナルド・ディートリックの一文をもって本章を閉じることにしよう。
 「一九三三年以前の優生学上の議論、一九三三年の断種法―これに対して教会は決して有意義な反対行動をしなかった―、一九三九年の安楽死措置、一九四一年に開始された《最終解決》、これらをつなぐ本質的な結びつきが存在する。これらの政策は真空の中に出現したのではなく、むしろ固有の追跡可能な来歴をもっていた。これらの遺伝学的および人種主義的政策の優生学的な源は、医学的に、社会的に、そして最終的には人種的に望ましくない人々のコントロールと、場合によっては根絶を支持する、それ以前のポピュラーな医学的、法律的、そして倫理神学的な議論の中に見出されうる。断種と安楽死は、少なくともその非自発的な優生学的形態において、そしてまたそれに結びつく手続き処置は、伝統的な宗教道徳および自然道徳に対して強烈な攻撃を開始し、個人を国家あるいは人種の単なる付属物にしてしまった。それらは、人種的優越性の諸原理と混ぜあわさって、定義はどうであれ、《下等人間》(Untermenschen)の全面的根絶への前奏曲となり、準備となった(85)」。


◆中馬充子, 20040330, 「近代日本の優生思想と国家保健政策」山崎喜代子編『生命の倫理――その規範を動かすもの』九州大学出版会:271-308.
(p271)
 近代日本の成立過程における優生思想および優生学について、歴史的視点から考察することは、今日的な生命倫理問題を考える上でも、極めて重要である。日本の優生思想および優生学の歴史は、大きく、@明治初期の欧化思想の影響を受け、人種改良を雑婚に求めた時期、A明治中期以降のゴルトン優生学流入に呼応して、最先端の学問として優生学が流行した時期、B大正後期以降、優生学の研究体制づくりと啓蒙運動が盛んになった時期に分けられる。本章では、その誕生の経緯を明確にするため、特に明治初期に焦点を絞り、分析を試みたい。
 戦前に模索され蓄積された優生学の学問体系が、本格的に政策として現れたのは戦後であった。この点に鑑みて、両者の連続面と乖離面についても言及することにしたい。
(p303)
 優生思想および優生学に関する従来の議論は、戦前と戦後を対照的に捉える視点に依拠しすぎていたようである。実は戦前から戦後への乖離よりはむしろ、多くの連続性や同質性が、優生思想、保健思想、教育・教育学あるいは生命倫理観についても認められるのである。したがって、可能なかぎり学際領域を意識しながら、科学史、生物学史、統計学史はもちろん、人種学、社会衛生学、精神病学、人類遺伝学、生命論といった文脈の中に科学史的課題を探る調査・分析が要請されよう。これにより、科学技術の悪用、善用という二分法による混沌を超え、生命科学技術と社会科学の双方のバランスのとれた観点の中に新たな豊かさの可能性を追求できるのではなかろうか。


■言及

金森修, 20051020, 『遺伝子改造』勁草書房.
(p227)
 (e)山崎喜代子の論文「生物学の展開と生命倫理(*89)」(二〇〇四)。山崎氏は、遺伝子操作をするということは、遺伝子によって生みだされたミームが、今度は反対に遺伝子に作用して変異させるということだとして、文化がもつ或る塑性的な性格に目を向ける。そして、生命倫理がもつ課題の一つは、ミームがもつ反自然性の危険を回避して、環境や遺伝子が抱える自然性との矛盾の回避をすることにある、とする。そして現代遺伝学の目標は遺伝子プールの多様性確保にあるとしたうえで、遺伝子操作の自己決定性を重視するだけでは、多様性確保に即した公共性を語ることはできないと考える。仮に自分の遺伝子に帰属するように見えても、それは他者の遺伝子のコピーであり、ヒトの遺伝子プールの複製として共有しているものなのだ。だから自分の生殖系列遺伝子をいじるということは、自分の人権の及ぶ範囲、自己裁量が及ぶ範囲を超えていることを認識すべきだ、と主張する。これは、新優生学の基盤としての自己決定権を生物学的に限定しようとしたものだといえる。

(*89)山崎喜代子「生物学の展開と生命倫理」、山崎喜代子編『生命の倫理』九州大学出版会、2004,第二章、pp.29-52.

*作成:植村要