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『廃棄された生』

Bauman, Zygmunt 200402 Wasted Lives 1st. Edition, Polity Press
=20070630 中島 道男 訳 昭和堂,250p.


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Bauman, Zygmunt 200402 Wasted Lives 1st. Edition, Polity Press =20070630 中島 道男 訳『廃棄された生』,昭和堂,250p. 3150 ISBN-10:4812207436 ISBN-13::978-4812207437 [amazon]

■目次
謝辞
序論
第1章 はじめに設計図ありき―あるいは秩序建設の廃棄物
第2章 彼らはあまりにも多すぎる?―あるいは経済進歩の廃棄物
第3章 廃棄物ごとにその捨て場を―あるいはグローバリゼーションの廃棄物
第4章 廃棄物の文化

訳者あとがき
索引

■<以下、ほぼ抜き書きからなる要約>
第1章 はじめに設計図ありき──あるいは秩序建設の廃棄物
 「先進」国に見られる、1970年代に生まれた「ジェネレーションX」の若い男女は、古い世代が知らなかった不快を経験している。それには、不安にさせる新たな理由がある。一般に持ちだされる診断のひとつは失業であり、注目されているのは、新卒者にとって仕事の可能性が不十分にしかない点である。〔失業 (unemployment)の接頭辞が示しているのは例外ということであり、その社会は、完全雇用が社会的条件であり目的地と信じている社会である。「失業(unemployment)」の接頭辞は規範からの逸脱を示すものだが、「余分」にその意味合いはなく、永続性を示している。余分だと宣告されることは、使い捨て可能であるがゆえに廃棄されてしまったということである。失業者の目的地は、現役に呼び戻されることだったが、廃棄物の目的地は廃棄物置き場である。「余分」と宣告された人々については、財政上の問題として語られる。しかし、その根本的な問題は、「社会」概念によってとらえられる区域には、「人間廃棄物」のための区画などないということである。ジェネレーションXの生活経験の重要部分は、いつ余分が自分の運命になるかもしれないという疑いであり、それはうつ病になる十分な理由である。生産社会における失業者は、不幸だったかもしれないが、社会での位置は安定していた。消費社会においては、実力を発揮できない消費者の余地はない。ジェネレーションXは、前の世代に比べて二極化しており、しかもその分割線は社会的ヒエラルキーを上昇移動している。スピードに耐えられない住民は、乗り物から落ち、まだ内部にいない人は、割り込むこともできない。
 ジェネレーションXの余剰という心配は、前の世代の心配とは異なるが、先例のないものではない。近代の開始以来、各世代は進歩の「付随的な犠牲者」を有している。進歩という乗り物のは、乗車希望の全員を収容するには不十分であり、乗車はいつも選抜的だった。しかし、ジェネレーションXの苦境を独特なものにしているのは、第1に、そのコーホートの多くの部分が、無視され引き離されていると感じている事実であり、第2に、混乱の感情が広範に見られることである。あらゆる類似にもかかわらず、現在の困難は過去の諸世代の困難とは異なると直観的に感じており、過去から受け継いだ特許医薬品が効かないと感じているのだ。われわれの父母や祖父母の社会にも、入場のための条件は設定されていたが、その叶え方は説明されていた。それらの軌道には冒険の可能性がなかったため、拘束的に見えたかもしれないが、安全な航海を必要とする人にとっては、リスクに悩まされることはなかった。現代の困難は変化し、手段よりも、むしろ目標のつかまえどころのなさである。重要なことは、いちど廃棄物に割り当てられると、メンバーシップへの道は存在しないということである。重要なポイントは、自家製の道具で災いのもとを避けるためにできることが何なのか、われわれは語りえないということである。
 補論 物語を語るということ
 物語は、舞台の一部を明るくし、それ以外を闇に残すスポットライトに似ており、その任務は、プロットをその背景から切り離すことによって、見物人の知的な消費の準備をすることである。物語の使命は選択することであり、その本質は排除することをとおして包摂することである。
 モダニティの欺瞞的な希望が否認されることを予想するかのように、ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、イレネオ・フネスの物語を著した。フネスは少年のころ落馬して、見たことの一部に焦点をあて、その他の部分を無視することが不可能になった。フネスは、一日を間違えずに丸ごと再構成したことがあるが、その再構成には、丸一日かかった。フネスは「私の記憶はゴミの山ですよ」と嘆いた。
 知の工場においては、製品は廃棄物から分離され、それを決定するのは、将来の顧客が自分の欲求をどう見ているかである。メアリー・ダグラスは、「排除することは消極的行動ではなく、環境を組織しようとする積極的努力である」と語った。
 最初にくるのは光景であり、世界の無限性についてのイメージである。次にくるのが、「現に存在する」世界のレヴェルに高める努力である。
 スポットライトで照らされることがなければ、世界は秩序だってもいなければ混沌としているわけでもない。まず思想が世界のイメージを手入れし、世界が人間の理解の尺度に合わせて作り変えられるかぎりで、世界は操作可能である。フランシス・ベーコンの「自然に命令しようと思えば自然には従わなければならない」という訓令は、従順の勧告ではなく、挑戦の行為だった。
 人間によって作られたものではないがゆえに、人間の手の届かないところにまで広がっていることこそ、「自然」という観念の意味にほかならない。しかし、われわれが従う必要のある自然の法則を学ぶことによって、自然に命令することは可能である。マルクスは、下手くそな建築家でも、頭のなかに完成品のイメージをもっているという。設計図が要求されるのは新しいものを創造しようとするからである。
 新しいものを創造する二つの方法として、ルイス・マンフォードは、農業と鉱山業という寓喩を用いている。「農業は、人間が大地から取り去ったものを慎重に戻す」。これにたいして鉱山業は、「破壊的であり、……いったん採石場や坑道入口から取り出されたものはもう戻すことができない」。近代的な創造の方法として採用されている流儀は、鉱山業に似せて形成されている。農業が象徴しているのは継続性である。農民の社会は、存在は永遠に継続するとみなしていたのであり、損失をともなわない成長であり、死のあとにくるのは復活である。鉱山業は非連続の典型である。創造は、目標となる製品にたどりつくのに邪魔になるすべてのものを廃棄する過程をとおしてなされる。鉱山業は、新しいものが誕生するためには古いものが死ななければならないことを前提とする一方通行の変化である。
 ミケランジェロは、彫刻は、大理石の板から不必要な部分を切り取るだけでよいといった。ルネサンス最盛期のミケランジェロのこの指針は、近代的創造を導くものになる運命にあった。このことは廃棄物が創造過程の不可欠な要素になるというだけでなく、つまらない材料を美しい物に変化させる錬金術師の賢者の石にも匹敵する力が付与されたのである。しかも、廃棄物は神聖であると同時に悪魔のようでもあるアンビヴァレンスの権化とされる。
 しかし、メアリー・ダグラスの主張を思いおこすなら、いかなる物も、その固有の性質によって「廃棄物」であるのではなく、人間の設計図によって廃棄物に割り当てられるからこそ、畏敬や嫌悪といったあらゆる性質を獲得するのである。エドマンド・リーチは、多くの文化において、毛髪は、身体の一部であるあいだは、愛情をこめて世話をされるが、切り落とされると「ゴミ」になって汚染物質が連想されるという。毛髪の操作は、古い人間から新しい人間を呼びだすことになる。多くの文化において、毛髪は、社会的に割り当てられたあるアイデンティティから別のアイデンティティへの移行の通過儀礼の部分として仕立て直されている。切り落とされた毛髪が忌み嫌われるのは、肉体を持った自己とその他の世界との境界を傷つけることになるがゆえに、世界がその透明性を失ったりしないようにするためである。切り離された毛髪は、廃棄物と同様、古いものから新しいものを取り出す行為にも役立っている。「廃棄物」が周囲にあるかぎり、この熱望された変質は完全ではなく、創造行為が完成に到達するのは、廃棄物を分離する行為においてである。
 近代的精神は、世界は変更可能であるという観念と同時に誕生した。モダニティとは、これまで存在していた世界を拒否して変えようとする決意である。近代の条件はたえず動きつづけることであるがゆえ、近代は設計の歴史であり、自然にたいして継続的におこなわれている征服戦争である。設計図は、未来の現実を描いたものなので、建設して生じる世界がどのようなものになるかを前もって言うことは不可能だった。リスクは、全体の意図の崇高さを口実に、設計段階では軽視される。近代の進展につれて、設計への熱意を推進してきたのは、過去の設計によってもたらされた「付随的な被害」を見えないところに取り除こうという衝動だった。失敗の余地のない、リスクも防ぐ設計図など、名辞矛盾も同然である。「現実的」で実行可能であるとみなされるために、設計図には、世界の複雑性を単純化することが必要である。捨てられたものは、設計プロセスの廃棄物に転換される。設計の戦略は、行為の結果を「有益な製品」と「廃棄物」に区分することにほかならない。
 廃棄物の問題が新聞の一面を飾ることはまれだが、廃棄物問題をあつかうウェブサイトの数は巨大である。これが釣り合っていないことを考慮するなら、廃棄物は悲惨な問題であると同時に、厳重に守られている秘密でもある。われわれが育てている物語が重要とするのは、製品であって廃棄物ではない。われわれは廃棄物を見ないことによって不可視にする。われわれが悩まされるのは、その防御が破られるときだけだが、検索エンジンに尋ねてみれば、その時期が迫っている証拠が提示される。廃棄物は生産の恥ずべき秘密だが、生産のための努力は、そうした隠蔽を無理な注文にしてしまう。
 近代的な生活形式の生存は、ゴミ除去の巧妙さと技量にかかっている。必要なものと必要でないものとの境界線は、「自然の境界」ではないため、その活性化には不断の努力が必要である。境界線を強いるのは製品と廃棄物との差異ではなく、それらのあいだの差異を思い出させるものが境界線である。境界線は、ゴミが収集されるたびに描きなおされる。境界線は、製品とごみとの区分に先立っているので、境界線を描くには、多くの専門知識と熟練、さらにはそれを補ってくれる権威を必要とする。
 現存世界があるべき状態ではないならば、そのときこそ設計が実力を発揮する。自然は自身の法則に支配されており、自然の法則は人間が作ったものではないため、人間には変えられない。しかし、近代的精神が容認できないとみなした世界の側面は、自然法則を人為的法則に取り替えた部分である人間の状態だった。人が思いをめぐらすことのできる「人間の歴史の法則」とは、人間の自発性が失敗した場合には理性が必然的に引き継ぐということである。この引継ぎは、ある段階で人間理性が歴史的必然性の形状にたいして責任をとらなければならないということが不可避的であるおかげなのである。そうした段階に到達したのが、近代の始まりである。歴史の欠陥に満ちた遺産を、理性によって作られたパターンで取り替えることを遅らせてはならない。そうした義務こそ、近代化の熱意の原動力となるべきものであった。設計された未来は、成り行きにまかせたカオスの代案であり、モダニティとは、絶え間のない非常事態の状態である。モダニティは、設計が中毒にまでなった状態である。
 人間の共同性の形式を設計するという話になると、廃棄物になるのは、その形式の純粋さを落とす人間である。人間の共同性の新しい形式を指定することの別名は、秩序建設である。カオスが支配していたところに秩序を建設することとは、規則に従ってものごとを整えることである。秩序立った空間は規則に支配された空間である。
 法が法になるのは、法が存在していなければなされる可能性のある行為を、認可されたものの領域において、法が免除するからである。法が、内を外から分かつ線を描くことによって無法状態をうみだす。無法状態は法の不在ではなく、法の一時停止である。自己一時停止とは、法の境界線の外部に拘束しておくかぎりにおいて、法がそれら法の免除されたものに関心を持つことを意味する。排除されたものにとって法は存在しない。
 アガンベンの特徴づけに従えば、排除された存在の理念型的モデルはホモ・サケルである。ホモ・サケルの生は価値を欠いており、殺しても罪にはならず、宗教的いけにえにも用いられない。これを現代の世俗的な言葉に翻訳するならば、ホモ・サケルは、実定法によって規定されることもないし、法規則に先立つ人権の担い手でもない。法律上の定義の撤退によって規定されるホモ・サケルを蓄えておくその能力によってこそ、「主権的圏域」が得られるのである。ホモ・サケルは、秩序立った主権的圏域が近代に生産されていく過程で設計された人間廃棄物のカテゴリーである。
 モダニティの時代をつうじて、国民国家は、製品と廃棄物の区別を統轄する権利を主張してきた。国家がそうした機能の遂行を独占することについて、異議を唱えられることはないままに時が経過した。今日の国民国家は、もはや青写真を描くことを統轄していないかもしれないが、依然として主権の構成的特権、すなわち免除する権利を主張しているのである。

第2章 彼らはあまりにも多すぎる?──あるいは経済進歩の廃棄物
 人口過剰にたいする治療法はより多くの人口なのである。もっとも人口の多いネーションが、地球上の居住者の支配に必要な力を発展させることだろう。ローカルな密集はグローバルに処分されうるのである。
 1883年の労働組合会議における演説などからもわかるように、労働市場の超過密による貧苦の原因として責められたのは、新しい農業技術によって促された小農場主の没落、産業機械の設備がきっかけとなった熟練工ギルドの崩壊であった。そこで、労働者の生活基準を改善する手段は、職業紹介機関を取り囲む群集の移住に求められた。この解決方法に異論を引き起こさなかったのは、余剰人口を処分する場所に不足がなかったからである。人口の問題ある部分の国外への輸出を促すもうひとつの要因は、諸都市の内側に堆積する「余分なもの」が自然発火の臨界点に達するのではないかという不安であった。繰り返し起こる都市の暴動は、当局を行動へと駆り立てた。そのはじまりからして近代とは、大規模な移住の時代であった。移民は、近代化を遂げている場所から、いまだ近代化を経験していない地域へとさまよった。余剰人工は、近代化によって、一方では、生国における働き口や社会的地位の維持ができなくなり、他方では、近代化の影響を受けていない地域にたいして技術的・軍事的優越性を享受した。。このことが、余剰人口を生み出した国に、近代化の影響を受けていない地域を「空き地」と思いこませた。皮肉なことに、ヨーロッパの余剰人口のための新しい場所を開拓することを目的とした先住民の絶滅は、ヨーロッパの余剰人口を「経済移民」にしたのと同一の、進歩の名のもとで遂行された。このときから長い年月が過ぎたが、この観点によって切り開かれた光景と、それを描くために用いられた言葉は変わっていない。
 「人口過剰」とは、保険数理士たちのつくりだしたフィクションであり、経済の順調な機能を難しくする人々の出現を示すための暗号なのである。生産者の社会における彼らは、その労働が有効に配備されることのない人々である。消費者の社会における彼らは、「欠陥のある」消費者であり、彼らが生み出すのは、利益志向の消費産業では対応できない、別種の需要である。「余剰人口」は人間廃棄物のもうひとつの変種であり、秩序建設の設計図の犠牲者であるホモ・サケルではない。彼らは、経済進歩の意図されることのなかった「付随的な犠牲者」である。
 人間廃棄物の生産は、非人間的で技術的な問題の痕跡をはらんでいる。彼らにとって、設計図に基づく計画的な受難と過失による悲惨とのちがいを熟慮する道理などない。彼らの反応は的を外したものであるため、その非難は自己成就的な予言になってしまう。彼らが、こんにち高く賞賛されている生活様式に対して、あわせようとするなら非難され、敬意を払うことを拒むなら、「私たちの生活様式」の敵と受け取られる。
 人口過剰とは、廃棄物の生産と処理に没頭するグローバルな文明の意図せざる副産物にほかならない。人口統計学者の予想は、科学的に考えられる未来のかたちというより、現在の精神状態を映した予言に近い。たしかに、「未来の歴史」は科学的予測の方法論を無視したものであり、制度化されたルーティンが欠落している現在の状態にあっては、前もって想像することは不可能である。以下の人口統計的な推測は、こうした条件付きで読まれるべきである。
 地球政策研究所の2002年9月5日のリポートによれば、現在62億人の世界人口は、毎年約7700万人ずつ増えているが、人口増加の分布は非常に不均等なものだという。しかし、ここにおいて「人口爆弾」の爆発が見込まれている場所は、現在人口密度が低いところであることを隠蔽していることを指摘する必要がある。ポール・エイリッヒとアン・エイリッヒは、豊かな国々が高い人口密度を扶養できるのは、その他の多くの国々が扶養できないからだと指摘する。グローバルな商品取引によって、豊かな国は、その他の地域から資源を引き抜き、廃棄物を差し戻しているのである。「人口過剰」の責任は、「私たちの素晴らしき生活様式」にさかのぼってとらえる必要がある。これは受け入れがたい結論であり、「人口過剰」の不安の本質は、「彼ら」に焦点が当てられることにある。全体的な設計図は、「状況の客観的な状態」をあらわすのではなく、設計者の選好をあらわしているのだ。
 地球規模の「人口過剰」の解決には、「彼らの」出生率の制限が必要と定式化されると、課題は、ますます単純に「彼ら」に照準が定められ、「女性の教育と雇用の水準の増大」として避妊用具の消費予備軍を生産するのである。カイロで開催された「国際人口開発会議」(1994年)では、この目的のために20年にわたる「人口と健康プログラム」の推進が決議された。たまたま、エイズが「彼らの」出生率に立ち向かう戦いに参戦した。私たちの製薬会社が伝染病と闘うためのお手ごろな武器の供給に熱意を示さなかったのは、「知的所有権」の保護のためだけだったのだろうか?
 国内に限ってみれば、私たちを腹立たせるのは、出生率の下降と人口の高齢化である。「人口過剰」のもう一つの側面である「われわれの生活様式」の維持のために「彼ら」の輸入量を増加させる必要があるという予想は、豊かな国につきまとっている。もし、豊かな国に上陸できた廃棄された人間に新しい利用の仕方がないならば、そのような予想も恐ろしいものにはならないだろう。セキュリティ体制が敷かれた会社の会議室や、退屈な学術会議のホールを除けば、いたるところでそのように感じられがちである。
 補論:人間の権力の本質について
 世俗的な人間の権力にまつわる神秘を解き明かすのに、ミハエル・バフチンは、「宇宙的恐怖」の記述からはじめた。「宇宙的恐怖」の核心には、永遠不滅の宇宙の巨大さに比べて、限りある命しかもたない人間のちっぽけなありさまがあると言えよう。それは、人間の脆弱性、宇宙の不確実性の恐ろしさである。脆弱性と不確実性は、人間の条件のふたつの特性であり、「公的な恐怖」、すなわち、人間の権力への恐怖も、そのふたつの特性から作られている。
 バフチンは、宇宙的恐怖があらゆる宗教システムに用いられてきたことを示唆する。神、すなわち宇宙とその住人にたいする支配者のイメージは、脆弱性と不確実性の恐怖からつくられ、宗教は、安心という約束をふりかざすことによって、人間の魂を支配する権力をもつ。そうするには、宗教は宇宙を神の姿へと加工しなおさなければならなかった。重要なのは、宇宙から神への変転が人間を神の従僕にしたのだとしても、それが間接的な人間の権限増大の行為でもあった点である。バフチンが示唆したように、出エジプト記が、「公的な」恐怖に改造された宇宙的恐怖の物語として書かれているとすれば、それは不完全である。出エジプト記は、神が民の服従によって束縛を受けてきたにちがいないことも物語っており、人々は従順でいることによって、神に慈悲深い存在でいることを義務づけることができた。それによって人間は、脆弱性と不確実性を祓い清める手段を手に入れたのだ。
 出エジプト記の補足に用いられるのは、ヨブ記である。法治国家として理解されている近代国家の住人にとって、ヨブの物語はほとんど理解できない。それは、規則や規範を探すことを教え込まれたのに、ヨブ記のメッセージは規則や規範など存在しないということだったからである。ヨブ記が宣言しているのは、神が崇拝者にたいして負うものなど何もないということである。宇宙と異なって、神は命令をくだす。神は例外を設けることができ、その権力によって、人間は、律法以前の時代にそうであったように、脆弱で不確実な存在となる。
 これが人間の権力であるならば、「公的な恐怖」の産出こそが権力の実効性を占う鍵である。宇宙的恐怖が人間の仲介者を必要としないのにたいして、公的な恐怖は、人間の仲介者がいなくては何もおこなえない。公的な恐怖は、もっぱら発明されるものである。世俗的な権力を保持するためには、その対象となる人間は、脆弱で不安定なままにされつづけなければならない。カフカがいうように、「人間実存につきまとう不安」で養われた世俗的権力は、もっぱら恐怖の創造に労力を捧げておいて、後になってその恐怖から保護してあげると約束するのである。誰しも、次の日の朝にもたらされるものにたいしては脆弱で不確実なので、安全であることこそが例外的なことのように思える。
 人間の脆弱性と不確実性は、あらゆる政治権力の主要な存在理由である。近代社会において、実存の脆弱性と不安定性のもとで、人生の目的を追求せざるをえないのは、人生の営みが市場の力のもとにさらされているからである。政治権力は、「公的な恐怖」の供給に際しては、市場の法的条件の整備以外をする必要はなく、臣民としての規律を要求するに際しては、市場がもたらした損害から脆弱な者たちをかくまうことを約束する。このような政治権力の正当化は、「福祉国家」としての自己定義のなかに見られた。「福祉国家」という観念は、個人的なリスクを「社会化し」、それらリスクの縮減を国家の責務とする意志を明言した。国家権力への服従を正当化するのは、個人に振りかかる災難に備えた保険証券が国家によって保証されているからである。
 しかし、「福祉国家」の制度は徐々に解体され、国家の保護機能は減らされつつある。雇用に適さない一部の人でさえ、社会的なケアの問題から法と秩序の問題へと分類しなおされる傾向にある。自由市場から生じる脆弱性と不確実性にたいして、国家は手を引き、個人が所有する資源によって対処すべき問題として定義しなおされている。この新しい動きは、近代が頼りにしてきた国家権力の基盤を掘り崩しており、政治的アパシーの増大や市民的不服従の増大などが、それを証明している。
 このような現代の国家の正当性を基礎づけるためには、これまでとはべつの非経済的な種類の脆弱性と不確実性が必要とされ、最近ではそれが、個人の安全という問題に求められている。市場から生まれた不安定性と異なって、個人の安全にたいする危険は、強烈に宣伝され人為的に増強されなければならない。そうしてこそ、脅威が現実化しなかったことが、異常な出来事として、政府機関の善意のたまものとして称賛されうるのである。公的に喚起された恐怖は、バフチンの「宇宙的恐怖」にあるのと同じ人間の弱さにつけこむ。国家は、個人の実存的な不安にたいする治療法を探すことは、国民個々にさせているが、公的にかき立てられた新種の集団的な恐怖は、政治方策の任務に加えているのである。
 移民と、われわれの自家栽培された恐怖には「選択的親和性」があり、あらゆる地位と身分にぐらつきが感じられるときには、移民を自分自身の使い捨てられる可能性を具象化したものとして見て、嫌悪、恐怖するのである。ドアをたたく移民がいないのであれば、創り出される必要がある。グローバリゼーションによって主権上の特権を奪われた政府は標的として、政府が打ち勝つことができ、国民が目にする標的を「注意深く選択」せざるをえない。テロリスト・亡命希望者・経済移民の連想は、一般化され、今では、人間廃棄物という「彼らのような人々」に貼りつけられた、テロリストの陰謀という非難を振り払えないことだろう。これこそ豊かな国に上陸した廃棄された人間の新しい用途である。
 亡命希望者がテロリストと並んでニュース項目の第一位になるあいだに、「経済移民」は世間の目から事実上消えていた。呼び出し符号は変わったのに引き起こされる感情と態度とは変わっておらず、「経済移民」と「亡命希望者」のイメージはともに「廃棄された人間」をあらわしている。その目的こそ、グローバル化された世界の「内」と「外」の区分を保護することにほかならない。二種類の「廃棄された人間」のただひとつの違いは、亡命希望者が秩序建設によってもたらされる生産物という傾向があるのにたいして、経済移民は経済的近代化の副産物であるという点である。
 世界を現状のままに保つために人間廃棄物が果たす有益な機能は、もうひとつある。グローバリゼーションの廃棄物が唯一の廃棄物ではなく、近代的生産にはじめからつきものであった「伝統的な」産業廃棄物もまた存在している。消費社会における消費者は、ゴミ収集人を必要とするが、消費主義が勝利するごとにゴミ収集人に加わろうとする人は減少するのである。人間の不良品と消費の宴の不良品との出会いのお膳立ては整った。グローバルな自由と平等の世界において、土地と人口は、カーストの階層制度のなかに配置されているのである。しかし、すべての廃棄物処理が人間廃棄物によっておこなわれる遠くの場所にまで運び込まれるはずがなく、物理的な廃棄物と人間廃棄物との出会いが近いところに用意される。ナオミ・クラインは、「多層化した地域要塞」をいう。他国から有利な貿易条件を引き出すために結束している国家連合体である要塞大陸は、他国民を閉め出す外側の境界線を巡回しているのだが、要塞であるためには、いやな仕事をおこなう者として、壁の内側に貧しい国をひとつかふたつ招き入れる必要があるのだ。要塞大陸の内側では、境界線と、安価で従順な労働者の入手という、矛盾しつつも重要なふたつの前提のあいだにバランスを見出そうとして、「新たな社会的ヒエラルキー」が整備されている。このふたつの前提を言い換えると、自由貿易および反移民感情に迎合する要求ということになる。

■引用
第3章 廃棄物ごとにその捨て場を―あるいはグローバリゼーションの廃棄物

「地球全体におよぶ経済進歩の勝利の犠牲者たちによって現在遂行されているいくつかの機能について、議論してきた。彼らは、生活の糧を求めて地球をめぐり、それが見つけられるところに定住しようとしつつ、社会的な余剰という広範に見られる恐怖に駆り立てられた不安を荷下しするための恰好の標的となっている。その過程で、彼らは、もはや正常な機能を果たさず弱まりつつある権威を再び主張しようとする政府の取り組みを手助けするよう積極的に協力させられているのである。」p109

「理由は簡単である。「ビッグ・ブラザー」が「おまえたちを監視する」ために配備した装置の狡猾さと正確さはオーウェルの時代以降非常に上昇してきたが、マフィアの活動舞台であり、必要があればいつでも身を隠せるグローバル空間を監視している「ビッグ・ブラザー」などいないからである。」p111

「リチャード・ローティーは「グローバリゼーションの中心的事実」について、1996年に次のように述べている。
  国民国家の市民の経済状況は、今や国家の法の支配を超えている……。」p111

「トイプナーとバッケンフェルトを引用しながらハウケ・ブルンクホルストが指摘しているのは、あの未知の「グローバルな法」は、近代国家間の慣習としてわれわれが期待するようになっている法とは異なり、「政治からはまったくかけ離れており、憲法の形態も民主主義も下からのヒエラルキーもなく、途切れることなくつづく一連の民主的な正当化も見られない」ということである。それは「支配者なき支配」である。「グローバルな法」として通用しそうなどのようなものであれ、「裁判所では使用できないし、施行されることもほとんどまったくありえない。古代ローマ法にも似て、国際法の施行は、それを施行する権力をもつ人々の意のままである。」p113

「かくして不安が生じるのだ―それは、敗北し不運な状態にあるという痛ましい経験によって煽られる。われわれだけがということではなく、誰ひとり支配している者などいないし、誰ひとり事情に通じている者などいないのである。いつどこから次の一撃がくるか、どれくらいその影響力が及ぶか、ど113>114のように決定的な地殻変動が起こるのか、まったくわからない。不確実性および不確実性から生まれた苦しみこそ、グローバリゼーションの主要な産物なのである。」pp113−114

「もっと適切な別のはけ口を求めようとしても無駄であり、恐怖と不114>115安は手近な標的に影響を及ぼし、「近くのよそ者」への民衆の憤怒と恐怖に姿を変えるのである。」pp114−115

「転換の重大な一側面は、比較的早くから現われていた。それ以来、その側面は徹底的に実証されてきた。すなわち、包括的コミュニティの「社会国家」モデルから、「刑事裁判」へ、「刑罰管理」あるいは「犯罪管理」へ、つまりは排除国家への移行ということに他ならない。」p117

「すなわち、近代的な生活様式がグローバルに普及し、今や地球の最果ての限界地にまで達しているということである。それが「中心」と「周辺」との境界線、もっと正確に言えば「近代的な」(あるいは「先進的な」)生活様式と「前近代的な」(あるいは「低開発の」ないし「後進的な」)生活様式との境界線を無効にしたのである。」p119

「しかしながら、今や地球は満杯である。それはとりわけ、秩序建設や経済進歩のような典型的に近代的なプロセスがいたるところで生起し、そのため「人間廃棄物」がいたるところで、たえず量を増大させながら生産されていることを示している。」p120

「ローザ・ルクセンブルクは、食料が足りずに死に瀕している資本主義を予見したのである―放牧されている「他者」の最後の牧草地を食い尽くすことによって崩壊する、と。それから百年後、モダニティのグローバルな勝利の、極めて致死的な、おそらくはもっとも致死的な結果は、人間廃棄物処理産業の深刻な危機であるように思われる。」p121

「しかしながら、余分な人間を排出する経路がひとたびふさがれてしまうと、状況は一変する。「余剰な」人口が内側にとどまって、残りの「役に立ち」しかも「正統な」人々と付き合うので、一時的な資格剥奪と廃棄物への決定的かつ最終的な引渡しとを分離する線は、不鮮明でもはや読み取ることもできなくなりつつある。「廃棄物」への割り当ては、以前のようにごく限られた人々の問題としてあるよりも、むしろ、潜在的にはすべての人間に起こりうるものになっている。―すべての人間の現在と未来の社会的身分は、そのふたつの極のどちらかを揺れ動くのである。」p123

「その目的は、「ローカルな問題」をローカルなままにとどめておき、ローカルに生産された諸問題のグローバルな(かつ唯一効果的な)解決を求めることによってモダニティの先駆者たちを模範にしようとする遅参者たちのあらゆる試みを、芽のうちに摘み取ってしまうことなのである。」p126

「収容施設へ行く途中で、未来の入居者たちは、自らのアイデンティティを構成するどんな要素であろうと、ひとつを除いてすべて剥奪される。そのひとつの要素こそ、国籍を持たず、定まった場所もなく、役に立たない難民、という要素にほかならない。〔…〕顔のない大衆に再生される。「難民というもの」になることが何を失うことを意味しているかと言えば―
  社会存在がよりかかっている媒介物、すなわち、意味を運ぶ一連のありきたりの事物と人間―土地、家、村、街、両親、財産、仕事、その他日常的な目印などにほかならない。漂流して待ち続けているこうした人たちには、「むきだしの生」があるにすぎない。それが継続されるかどうかも、人道的援助にかかっているのである。」p132

「人々を危険から逃れさせることに最善を尽くす社会事業期間が、「民族浄化」をうっかり援助することがないかど132>133うか疑問である。〔…〕人道的な仕事をしている人たちが、「より低いコストで排除をおこなう人たち」でないのかどうか、そして(もっとずっと大事なことだが)切迫感と偶然性への不安とを鎮めるのはもちろんのこと、それ以外の世界の人々の不安を取り除いて消してしまい、罪の意識を赦免し良心の呵責を和らげるために考案された装置でないのかどうか、という点である。「人道的な仕事をしている人たち」の手に難民を委ねることは、(そして背後にいる武装した護衛隊に目を閉ざすことは)、調停しがたいものを調停させる理想的なやり方であるように思われる。すなわち、道徳的な正義への強烈な願いを満たすと同時に、有害な人間廃棄物を処理したいという抗しがたい願望との間の調停ということである。」pp132−133

「難民は人間廃棄物である。」p134

「再生処理の対象に選ばれないかぎり、廃棄物には微細な差異も微妙なニュアンスも必要ない。」p134

「そのような処理場は、すべての都市で姿を現しているのである。それらは都市ゲットーである。ロイック・ヴァッカントの洞察に従ってもっと正確に言えば、「ハイパーゲットー」である。〔…〕ゲットーは、自発的なものもあれば強制的なものもあるが(後者だけが名前にスティグマを伴う傾向がある)、両者のあり方の主な違いは、それらが「非対称意的な境界」138>139のどちら側に面しているかである―前者の場合にはゲットー地区の入口に、後者の場合は出口に、それぞれの障害物が積まれている。」pp138−139

「「人間廃棄物」146>147は、もはや遠くの廃棄物処理場へ移動させられることも、「通常の生活」に立ち入らないよう厳重に管理されることも不可能である。したがって、密封されたコンテナに封鎖されることが必要である。刑法制度はそのようなコンテナを提供している。〔…〕「リハビリ」したり、「改善」したり、「再教育」したり、迷える羊を群れに戻すといった意図は、せいぜいのところ、時折なされるリップ・サービスにすぎない。」pp146−147

「一度捨てられると、永遠に捨てられてしまう。」p147

「彼らが、抵抗し、告訴し、罪を着せ、あるいは補償を要求しうる権威など存在しないのである。彼らは、進行中のグローバルな法的・政治的・倫理的秩序の創造的破壊の廃棄物なのである。」p152

「そして廃棄物に追いやられる危険が最終的に回避されたと思える人など、ひとりとしていないのである。」p153

「廃棄物として閉じ込められることのないよう保護してもらうという色あせつつある希望を復活させることができる強い国家権力を求める民衆の新たな要求は、社会的な不安定さや社会的な保護よりも、個人の脆弱性や個人の安全という基盤の上に築かれているのである。」p156

「こうした新しい種類の恐怖は、あらゆる人間の共同性のつなぎ役をする信頼をも解体してしまう。〔…〕信頼がなければ、人間のコミットメントの網の目は崩壊してしまい、世界をなおいっそう危険で恐ろしい場所に変えてしまう。〔…〕信頼は普遍的な疑いに取って代わられている。あらゆる絆は、信頼に値せず、信じることもできず、罠や待ち伏せのようなものとみなされているのである―そうではないと証明されるまでは。」p158

第4章 廃棄物の文化

「「永遠」という理想像と、それが現在失墜してしまったこととは、人間廃棄物の生産と処理をめぐる複雑な歴史において、決定的とも言える役割を果たしている。」p161

「無限が絶対に収容できない観念は、余剰という観念―すなわち廃棄物という観念なのである。」p161

「こうした事態がつづく限り、永遠という観念は安泰であったし、それが人間のこの世での生活にたいして有している立法的、執行的で、かつ意味を付与する力も、安泰であった。この安定も、いったん人間が「ソリッドなものすべてを溶かし」、「すべての聖なるものを冒涜し」はじめると(こうした説明に従えば、これらふたつは、同一の態度、同一の行為の異なった表現方法にほかならない)、腐食が始まった。その安定性が近代の「リキッドな」段階においていったん崩れると、生き残りゲームにおける勝ち目は、「外のそこにある」世界から個人生活へと移っていった―今のところ、個人生活こそが、その生活状況のいかなる要素よりも長い寿命を持った実体であり、寿命がどんどん上昇している唯一の実体なのである。」p165

「今日は、なくてはならない有益なものであっても、ごくわずかの例外を除けば、明日には廃棄物となる。」p165

「リッキド・モダニティは、過剰、余剰、廃棄物および廃棄物処理の文明なのである。」p166

「慣れ親しんでおり、ずっと慣れ親しんだままであり、これからも今と同じように慣れ親しんだままであると期待できるような顔や場所、ルーティンや儀礼、光景や音の経験からこそ「永遠」という観念は形成されるのである。」p181

「ハーバード大学では「心的外傷の影響を芽のうちに摘みとってしまう」手段としてのプロプラノール剤を用いた実験がなされている。」p186

「「病気をもたらす社会環境を変えることではなく、病気の発病を防止することなのだ」、ということになろう。P187

「今や、「ビジネスのコンセプト、製品デザイン、競争相手の情報収集能力、資本準備、そしてあらゆる種類の知識、これらのその確かな寿命は短くなってきている」からである。」p188

「消費社会は、その顧客たち自身の理屈および理屈に導かれた行動の上に繁栄しているなどと言ったりするのだろうか。」p192

「「美とは何か」をめぐる近代の論争の初期段階において頻繁に持ちあがった概念は、調和、均整、対称、秩序などであった。〔…〕すなわち、どんな変化を加えても改悪にしかなりえないような配列の理念である。アルベルティはこのことを完璧(perfection)と呼んだ。」p197

「完璧が意味しているのは、変化はその目的を成就してしまったので、今や終わらなければならないということである。」p198

「「変化について考えるとき、われわれは、欲望と恐怖、期待と不確実性のあいだでつねに引き裂かれる」」p200

「選択の必要性がこれほど強く感じられ、これほど恐ろしい結果を伴ったことはかつてなかった、とは言えよう。しかも、日常的に、かつ、つらく回復の見込みのない不確実性という条件のもとで、である。」p201

「選択に伴う現代の苦悩を、ホモ・エリゲンスすなわち「選択する人間」をたえず苦しめてきた不快から区別するのは、明快な規則、普遍的に承認された信頼できる目標が全く存在しない、という痛ましい発見にほかならない。」p201

「間違えようのない定位点ないし誤解の余地のない指針などない。」p201

「「すべての点で美が義務となっている。美しくあれ、さもなければ少なくともわれわれに君の醜さをさらさないでくれ、というわけだ。」醜いことはゴミ捨て場行きを宣告されたことを意味する。」p207

「われわれみんなが恐れているように思われるのは、〔…〕放棄、排除、拒絶されること、排斥されること、勘当されること、捨てられること、われわれが現にそうであるものを奪われること、われわれがそうなろうと願っているものを拒絶されることなのである。」p222

「不安はたまらないほどあるし、たえず新たに供給されているのである。〔…〕消えつつある人間間の絆および解体しつつある集団の連帯から立ちのぼる同じような恐怖と混ざり合うのである。」p223

「真のネットワークによって事もなげに提供されてきたセーフティーネットがなくなったことを、われわれは痛いほど惜しんでいるからである。」p225

「消費者市場は熱心すぎるほどにわれわれの苦境からわれわれを救い出そうとする。〔…〕人間はおそらく消耗品に改造されているが、消耗品が人間になることはできない。」p226

「旧型ビッグ・ブラザーは包摂―統合、すなわち、人々を調和させ、そしてそこにとどめておくこと―に心を奪われていた。新型ビッグ・ブラザーの関心は排除―今いる場所に「適さない」人々を見つけ出し、その場所から追放し、「出身地」か「あるべき場所」に強制送還し、あわよくば最初の場所に近いいかなる所にも彼らが戻ってくることをけっして許さないこと―である。」p229

「旧型ビッグ・ブラザーも存続しており、今まで以上に態勢を整えている。〔…〕二人のブラザーは、協力しあって、「内」と「外」の境界線を管理して保守点検する。」p230

「旧型ビッグ・ブラザーの機能のひとつは、苛立たせるとうな、ぞっとさせるようなその弟分のまなざしを、取り得、人命救助活動、安全で至福な生存の保障とみなすようにさせることなのである。旧型ビッグ・ブラザーの非人情的な残虐行為が、新型ビッグ・ブラザーの非道な二枚舌を支えているのだ。」p231

「すなわち、包摂/排除のゲームが人間の共同生活がおこなわれるべき唯一の方法なのかどうか、われわれの共有している世界に結果として具体化される―与えられる―唯一考えうる形式なのかどうかということである。」p232

*作成:仲口 路子 追加者:植村 要
UP: 20071221 REV:20080423
生−権力  ◇身体×世界:関連書籍 2005-BOOK
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