「無」という新しい概念を紹介し、グローバル化について論じる。アメリカ化や資本主義と並んでマクドナルド化の原動力となっている無のグローバル化の消費という領域に注目し、空虚な社会形態について説く。
無とは…特有な実質的内容を相対的に欠いており概して中央で構想され、管理される社会形態を指す。(p.4)
ex.クレジットカードの勧誘過程
本書における最初の主張…ポストモダニストが「壮大な物語」と呼んでいるものに関係している。そして主に、消費分野に限定した記述的な主張である。
(本書は、存在から離れて無のほうに向かっている全般的で歴史的な傾向になりつつあるということを主張するものである)
無の意味づけにおける存在の定義…無をうまく定義するためには、存在を定義し、存在と無と区別できるようにする方法を明確にすることも必要。
→存在とは…特有な実質的内容にかなり富んでおり、概して現地で構想され、管理される社会形態である。
(このような、定義は二分法であり、本書では存在から無にいたる連続体を表す)
p.15図 1・1参照
映画『ストーカー』(2002)における登場人物による例
この登場人物はサイ(ロビン・ウィリアムズ)といい、写真屋で働いている。
サイに求められているのは、非サービスである。たとえば、彼はお気に入りの客には最良のサービスをしたいと思っていたが、彼にひいきの客をもつことを求められてはいない。
ヒトとサービスの考察は、明らかに、人間関係やそれらの強弱の考察を必要とする。
人間でさえ、彼らの接触相手の必要や期待に応じて、ヒトになったり、非ヒトになったりする。
→無と存在は社会的構築物である。
無は絶無ではないことの3つの意味
以上 まとめ…本当はなにも絶無ではないという逆説的な観点もまた存在する。
無には肯定的な側面がある。
無を熱烈に擁護している、イギリス育ちのデビッド・リンドリーというジャーナリストの例
リンドリーは、過去二十年間のほとんどを米国で過ごし市民になった。最近、彼はある本の調査をするために一年半ほどイギリスに滞在した。イギリスの独自の町並みをリンドリーは取材に行く前にはあこがれていた。しかし、取材に現地へ行った後、オックスフォードの古い町並みよりも、近代的で似たようなこぎれいな家が並ぶ、ミルトン・ケインズという町に惹かれた。(ちなみに、このミルトン・ケインズという町はイギリス人にとっては、魂のない現代風、郊外の味気なさそのものとみなされ、物笑いの種だった)
本書は、先進国世界の消費に関する書物であるといえる(p. 26)
(つまり、無の消費に関する書物である)
→では、無の生産はどうであるのか?
無の消費から無の生産に目を移すと、きわめて異なった状況がみえてくる。つまり、後発発展途上国に住んでいる人々は無のさまざまな形態を買う余裕はほとんどもっておらず、どのみち、それらの多くを手に入れることは、まったく、あるいはほとんどできないが、彼らが主に先進国で販売される広範な無を生産する傾向がますます強まっている。
→それと同時に
発展途上国で無を生産するとは二重の辛苦に直面させられている。
彼らは先進国で消費される無のさまざまな形態の多くを生産することを強いられいている。
彼らは先進国のとても裕福な人々が喜ぶものを低賃金で生産しているにもかかわらず、それらのものを消費する余裕がほとんどない。そして一部の労働者にフラストレーションを起こさせ攻撃的感情を抱かせる要因になっている。