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『私たちの脳をどうするか――ニューロンサイエンスとグローバル資本主義』

Cartharine Malabou[カトリーヌ・マラブー],2004  Que faire de notre cerveau,Bayard
= 桑田 光平・増田 文一郎 訳 20050620,春秋社,201p.


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■Cartharine Malabou[カトリーヌ・マラブー],2004  Que faire de notre cerveau,Bayard
= 桑田 光平・増田 文一郎 訳  20050620 『私たちの脳をどうするか――ニューロンサイエンスとグローバル資本主義』,春秋社,201p.ISBN10:4393322231 [amazon] ※ m.


■目次

日本語版序文 「〈騒乱〉に満ちた脳とともに」 港 千尋

序論
可塑性と柔軟性

第1部 可塑性の活動範囲
A 決定と自由のあいだ
B 「3つ」の可塑性
C わたしたちは性能を高める上で選択の可能性を持つのか

第2部 中央権力の危機
A「大脳=権力」論の終焉
B ニューロン人間と資本主義の精神
C 社会からの「離脱」とうつ病

第3部 「あなたはあなたのシナプスだ」
A 「シナプス自己」または「原自己」
B 「ロスト・イン・トランスレーション」―ニューロンから心へ
C もう一つの可塑性

結論 生物学オルター・グローバリズムに向けて

原注
日本語インタビュー 「私たちの可塑性をどうするか」(聞き手:桑田 光平・増田 文一郎)

■引用
「個人の冒険や歴史を巻き込む脳の固有の働きはある名前を持つすなわち「可塑性(Plasticite)である。脳を構成する歴史性とわたしたちが名付けたものこそ、まさにほかならぬ脳の可塑性なのだ。」(p8)

「運動や躍動が単なる反射に換言されるように思われるこの仮借ない有機的必然性の領域のなかで、性や自由の唯一の徴であるように見える意識から、あらゆるサイバネティクスの冷たさを切り離すことが私たちにとって今なお重要であるのだが、そうしたサイバネティックスの冷たさについて私たちはなにもわかっていないのだ」

「脳の可塑性は遺伝的必然性と比べて即興が起こりうる余地を残しているのである。今日では、もはや偶然と必然というものはない。偶然と必然そして可塑性―それは偶然とも必然とも完全に異なる―があるのだ。」(p16)

「サイバネティクスの領域と脳の領域の間のアナロジーは、はなはだ単純であるが、思考することは結局計算することであり、そして計算することは結局プログラミングすることであるという観念に基づいている。コンピューターと脳は結局いずれも「思考する機械」、つまりシンボルを操作する特性に恵まれた物理学的、数学的集合ということになる。脳の働きの可塑性が明るみに出たことは、ここでもまた、このような比較を時代遅れのものにした。可塑性が無効にしうるのは、機械のパラダイムー脳の働きを考えるうえで、ある程度までは不可欠なパラダイムーそれ自体の類似的または説明的価値ではなく、コンピュー タとそのプログラムに通常結び付けられる中心の機能である」(p61)

「資本主義は、「本質主義的存在論を、境界も中心もなく、また定点もない開かれた空間へと置き換える」と主張する際に、明らかに―暗にかつ明白に―ニューロンの働きを参照しており、「この開かれた空間の中では、存在者はみずからが関与している様々な関係性によって構成され、そして、この空間においては適切な出来事である流れ・移動・交流・配置転換・転任のままにみずから修正するのである」。ある空間やある地域への定着、家族への、またある専門化された分野への愛着、あまりに頑なに自らに忠実であること、こうしたことは今日「雇用可能性〔=雇用条件にかなっていること〕と呼ばれているものと両立不可能だと思われるまでにいたっている。生き残るためには、つまりある意味でとどまるためには、いつでもスタートする準備ができていなくてはならないのだ。」(p78)
「雇用可能性とは柔軟性の同義語なのだ」(p79)

「結局ニューロン人間は自らを語ることができなかったのだ。いまやこの言葉を解き放つべきときである。実際さもなければ、ニューロンサイエンスの言説は、医学的進歩の他には、社会の働きを調整することと、事物の理想的な信仰のグローバルな規範として、柔軟性の至上命令をほぼ毎日のように引き立たせることを可能にする様々な基準・モデル・枠組みを、気づかないうちに生産するという以外の帰結を持たないだろう。」(p90)

「柔軟性への抵抗、すなわち、ある種の政治的・社会作用を正当化するために、神経的プロセスをモデル化し自然化する還元主義的言説が、意識的であるとないとにかかわらず伝播させてしまう、このイデオロギー的規範に対する抵抗こそ、私たちが欲するものなのだ。」(p116)

「今日の西洋文化を特徴付ける、神経的なもの、経済的なもの、社会的なもの、政治的なものの間の絶えざる交通のただなかで、個人はまさに形を成すことと形の消滅との中間にいなければならないのだ。ある領土への定住可能性と、脱領土化の規則を受け入れることとのあいだに、またネットワークの布置関係と、そのはかない消滅可能な特徴とのあいだに。…自己の加工はある形、顔、像の作成とともに、それらに先立つないしは同時に存在する別の形・顔・像の消去を同時に含んでいる」(p121)

「自己の自己構成は明らかに、ある形、ある鋳型、ある文化の紋切り型の図式への単なる適応としては理解されえない。わたしたちは形そのものへの抵抗からのみ、自らを形作るのである。あらゆる形に開かれ、そしてあらゆる仮面、あらゆる立場、あらゆる態度を身にまとうことのできる多形性は、同一性の敗北しか生み出さない。維持と進化の間のいかなる真の緊張も感じさせず、純然たる模倣と性能の〔=競争力〕の論理の中で両者を混同する柔軟性は創造的ではない。それは再生産的で規範的なのだ。」(p122)

「自己の彫刻は、先天的な生物学的原型の爆燃から生じるが、このことは、この原型が捨てさられる、ないしは忘却されることを意味せず、自らをはね返すことを意味するのである。」(p125)

「わたしは科学と哲学のあいだの戦争は避けることができない、そしておそらく避けるべきではないとさえ思っています。…今日、科学はまさしく哲学からその対象すなわち心〔=精神〕を奪おうとしているのです。神経生物学や認知科学の領域におけるあらゆる研究がそのことを証明しています。したがって、哲学者は純然たる実証主義と、一切の唯物論の軽蔑へといたる形而上学的高みとのあいだに位置する立場を発明しなければならないのです。第一のケースにおいては心の科学が主張するように、心〔=精神〕は自然的対象であり、哲学はこの対象ーその論理的な作用と機能の仕方を明らかにすることが重要なのですがーの記述的プロセスでしかありえないとされています。第二のケースにおいては、心〔=精神〕は超越論的であって、生物学的基盤にはいっさい還元不可能であると主張するものとして、哲学は捉えています。従って、厳格な実証主義と弱弱しい形而上学のあいだで進むべき道を見出さなければなりません。」(p183)

*作成:近藤 宏 
UP:20080711 REV:20081102
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