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『人が人を裁くとき――裁判員のための修復的司法 入門』

ニルス・クリスティ 20061207 有信堂,191p.


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■Christie, Nils 2004  En passende mengde kriminalitet――A suitable amount of Crime, Universitetsforlaget, Oslo
=20061207 平松 毅・寺澤 比奈子訳,『人が人を裁くとき――裁判員のための修復的司法入門』, 有信堂, 191p. ISBN-10: 4842030143 ISBN-13: 978-4842030142 2100 [amazon]

■内容(「BOOK」データベースより)
人間らしい社会へ向けた犯罪学者からの提言。市場原理主義と“犯罪”増加の因果関係を鋭く分析。「報復」や「矯正」という概念を超えた「修復的司法」の可 能性を説く。

内容(「MARC」データベースより)
人間らしい社会へ向けた犯罪学者からの提言。市場原理主義と“犯罪”増加の因果関係を鋭く分析し、「報復」や「矯正」という概念を超えた「修復的司法」の 可能性を説く。犯罪・刑事問題を考える人に必読の書。

■目次

日本語版への序文
推薦のことば

クリスティの人と業績―ノルウェーにおける修復的司法――平松 毅
1 参審制と裁判員制度
2 紛争処理における欧米と日本の理念の相違
3 日本人が理想とする社会像
4 欧米人が理想とする社会像
5 アメリカにおける訴訟社会と囚人爆発の現状
6 紛争小国日本とノルウェーの共通点
7 建設的紛争処理社会と修復的司法

〔犯罪〕その言葉の意味を込めて

第1章 犯罪と行為の間
 1−1 行為が犯罪となるとき
 1−2 窒息死させられた妻
 1−3 権力の崩壊
 1−4 犯罪者となった公園の男
 1−5 家族と犯罪
 1−6 学校と犯罪
 1−7 老人の暴力
 1−8 変動する刑罰
 1−9 犯罪の対象とみなされる行為
第2章 地域社会の崩壊と単一文化の成立
 2−1 多元的文化
 2−2 複数の価値観を共有した時代
 2−3 高度産業社会
 2−4 共同体から学ぶもの
 2−5 子供の創造活動
 2−6 金銭と共同体
 2−7 ランドマークが示す単一価値観
 2−8 地域社会を必要としない資本
 2−9 単一原理に基づく社会
 2−10 全体主義との比較
 2−11 単一原理社会の代償
 2−12 安全に譲歩する連帯
 2−13 犯罪のない場所
第3章 利用される犯罪
 3−1 戦時下における犯罪
 3−2 内戦国における犯罪
 3−3 小国の特権
 3−4 犯罪取締りを競う政治家
 3−5 正当化される麻薬戦争
 3−6 様々に利用されるマフィア
 3−7 曖昧なマフィア概念
 3−8 国家権力を強化するマフィア
 3−9 戦いの対象としてのマフィア
 3−10 マフィアに代わるテロリスト
 3−11 利用されるテロリスト
第4章 投獄という解決
 4−1 犯罪を促進する国家
 4−2 膨大な囚人数
 4−3 アメリカとロシアの共通の特徴
 4−4 社会福祉の代替物としての刑務所
 4−5 対照的な東西ヨーロッパ
 4−6 ポーランドにおける囚人数の変動
 4−7 イギリスにおける重罰化の動き
第5章 消滅する連帯社会
 5−1 近隣社会
 5−2 人間関係消失の代価
 5−3 人間関係の回復
 5−4 資本主義以前の社会
 5−5 一党支配体制における家族の価値
 5−6 監視社会の遺産
第6章 水平的正義と垂直的正義
 6−1 二つのタイプの正義
 6−2 垂直的正義の支配
 6−3 二つの正義のせめぎ合い
 6−4 刑罰廃止の危機
 6−5 被害者のジレンマ
 6−6 刑罰の極少化
第7章 修復的司法
 7−1 沈黙による忘却
 7−2 正義は行われたか
 7−3 思想の処刑
 7−4 処刑により失われたもの
 7−5 刑罰の代価
 7−6 占領中の出来事
 7−7 大量処刑
 7−8 報復の防止
 7−9 和解は行われたか
 7−10 何のための記念碑か
 7−11 憎しみは消えたか
 7−12 国際刑事裁判所への懐疑
 7−13 真実解明委員会
 7−14 和解は可能か
 7−15 答えをもたないことの重要性
第8章 刑罰の適正規模
 8−1 修復的司法
 8−2 刑事施設はどこまで縮小できるか
 8−3 刑務所の拡大を阻止できるか
 8−4 建設的苦言
 8−5 世界チャンピオンのアメリカ
 8−6 変容する大学
 8−7 距離をおく必要性
 8−8 威厳をもって生きた人々


参考文献
訳者あとがき
索引

■2015
皆様へ
山本眞理です

ニルス・クリスティーさんが5月27日87歳で亡くなられたそうです。
『人が人を裁くとき』
http://www.arsvi.com/b2000/0400cn.htm(本頁)
今うろ覚えの不正確引用「(長年犯罪学者をしてたくさんの犯罪者と会ってきた
が)危険で矯正不能な反社会的人格障害者という人に私はあったことがない。精
神科医の中にはしょっちゅう合っている人もいるようだけれど」
あたかもリンチか、あるいはひたすら加害者個人の謝罪と更生を求めるが如き日
本版『修復的司法』もう一度きちんと修復的正義ないし司法を勉強すべきでは
ファミリー・グループカンファレンス研修会に参加する方も必読
FGC研修会
https://www.facebook.com/events/845100532206078/852760381440093/

■紹介・引用

「私にとって重要なテーマは、犯罪の意味であった。犯罪とはどういう現象なのか。犯罪は存在するものなのだろうか。犯罪という言葉を使うとき、それによっ て何を表現しようとしているのだろうか。また、どういう条件で、その言葉を使っているのだろうか」(p25)

「当時の社会には、このような飲酒者を追放したいという願いはあったが、ただ迷惑であるというだけでは、投獄する理由とはならなかった。ところが、泥酔を 有罪とみなさず、飲酒を病気の兆候とみなし、強制労働を治療と考えれば、拘束できるようになった」(p25)

「つまり、犯罪とは、確固たる一定の形をもつ存在ではないのであり、犯罪という概念は、取締りの目的によって左右されるということである」(p26)

「本書のテーマの一つは、何が犯罪とみなすに適するのかということの分析である。しかし、犯罪という概念の否定ではない。ある状況では犯罪という概念を適 用することが正しいこともあるであろう。当事者の力関係が極端に不均衡な場合がそうである」(p35)

「現代社会では、我々は見知らぬ人々の中で生きていく。これが、望まれない行為に犯罪という意味を与える恰好の状況となっている」(p36)

「犯罪は限りなく供給される。犯罪とみなされる可能性をもつ行為も、無限である。犯罪の量は恣意的に変えられる。犯罪という行為が存在するのではない。そ の意味は作られるのである。分類し、評価することは、人為的活動である。犯罪は、文化的、社会的、精神的プロセスの産物である」(p38)

「犯罪統計学は、解釈を必要としている社会的事実なのである。犯罪統計学へのこの視点から次の結論が出る。つまり、犯罪が増加しているのか、横ばいなの か、減少しているのかと問うことは無益だということである」(p39)

「このようにみてくると、発展という概念は、帝国主義的概念である。高度産業国家が、「我々のように」なるようにするというとき、その傲慢さにおいて帝国 主義的である。そして、その援助が、単一の支配的な原理に基づく価値観に、その他の価値観を植民地化させることによって、これらの国家を多元的原理に基づ く単一原理社会になるように強制しているという事実において帝国主義的である」(p45)

「共同の帽子の中にお金を入れることで、仕事と金銭の関係は簡単に断ち切ることができる。この村の人が仕事の誘因としての金銭について語るのは聞いたこと がない。働く理由は、なすべき仕事があるからである。全員が働いている。懸命に働く人もいれば、楽々とできる人もいる。しかし、金銭を仕事の理由とするこ とはない。……(中略)……労働は重荷であり、歴史的には苦痛と関係している。仕事には達成感がある。芸術の創造に近いものがある。金銭は創造活動を脅か すものである。仕事が金銭を得るための道具になると、労働へと変化する。
金銭と消費が重要でなければ、他の活動が生まれる余地ができる。このような村の代表的なものにヴィダローセンという村がある」(p47)

「金銭不足ではなく、ありすぎて村の安定は脅かされたかもしれなかった」(p49)

「私の視点は、最近の社会は一つの支配的原理が他の諸原理を浸食するという過去の状況に向かっている、というものである。現代は、生産と消費が最重視され ている。1人の思想や一つのマスタープランにしたがっているわけではないのに、国際取引を増加させようという国際的活動は、一つのマスタープランのような 働きをしている。……(中略)……成功できないのは恥だ。このメッセージを広めることにかけては、今日の株式業界は、過去の全体主義的独裁政権のプロパガ ンダよりも、おそらくはるかに有能である」(p56)

「犯罪というのは、人間が作り上げた現象である。お互いによく知っている人々の間では、犯罪の分類を用いることは自然ではない。ある行動が忌まわしいので それをやめさせようとするかもしれない。しかし、それを刑法の中のある分類に入れる必要はないのだ。もし、刑法の名称を適用しても、その名称は、一般に用 いられているよりも狭い範囲でしか使われない」(p105)

「次のような光景を思い描いてみよう。泉や川のほとりに集まる女たち。ほぼ毎日同じ時間に集まってくる。水をくみ、洗濯をし、情報や意見を交換しあう。話 題になるのは具体的な行為や状況である。それを詳しく語りあい、過去における同様の出来事と比較し、意見を述べあう。それは正しいことなのか、間違ったこ となのか。美しいことなのか醜いことなのか。強さの現れなのか、弱さの印なのか。男たちも同じような集まりの場で同じような話をする。徐々に、常にとはい かないが、出来事に対する共通の理解が生じてくるだろう。これが、相互作用によって規範が生まれるプロセスである。これを水平的正義と呼ぼう。平等な関係 をもつ個人が互いの親密さから作る正義である」(p113)

「水平的正義には、主要な三つの特徴がある。
 一:決定は地元に根をおろしている。……(中略)……/
 二:量刑のために何が考慮されるべきかという関連性の問題は、現在とは異なった形式で処理される。刑罰を科するために考慮されるべき関連を有する事柄は 中心問題ではあるが、水平的正義では、何を関連ありとするかについて予め決められたガイドラインはない。……(中略)……
 三:井戸端会議では、償いが懲罰よりも重要である」(pp.113-114)

「次に別のタイプの正義がある。それは、山から降りてきたモーゼである。彼が携えていた規範は、山頂よりも高いところから与えられ、石に刻み込まれてい た。モーゼが唯一の言葉を伝える使いであり、民衆はその受け手であり、統制される者であった。これは垂直的正義と呼ぶものの古典的な例である」 (p114)

「刑罰に関する一つの立場は、廃止論である。/
 廃止論者は次のように問いかける。「一体どんな論理や倫理によって、刑罰を調停に優先させるのか? 誤った行いによって片目を失ったのなら、代わりに家 をあげよう。乱暴な運転で怪我を負わされたが、もう許そう。刑罰は故意の苦痛である。故意に苦痛を与えることが、破壊された諸価値を修復する手段として有 効なのか?」。私はこれらの問いかけの背後にある立場には同意するが、廃止論者に諸手をあげて賛成することはできない。
 廃止論者の中でも急進派は、刑法と刑罰を全く排除せよと主張する。そのような極端な立場には大きな問題がある。
 まず第一に、調停や合意のプロセスに参加することを望まない人々に関するものだ。加害者によっては、その能力に欠ける者や、許しを乞うことはおろか被害 者と面と向き合う勇気のない者がいる。そのような人間は、被害者に会うとパニックになり、法廷での手続を望む。被害者も調停を考慮に入れようとしないこと もある。加害者が罰せられることを望むのである。そのような場合は、刑事事件としての法的プロセスが開始される。現代の国家では、刑法による解決という選 択肢なくして、民事による紛争解決プロセスはほとんど不可能である。この結果、民事事件として許される人がいる一方で、刑法で罰せられる人もいる。しか し、全員ではないにしろ許しを受ける人がいることは、倫理に反することではない。……(中略)……
 第二に、刑罰が廃止された場合のもう一つの問題は、調停プロセスの悪化である。……(中略)……/
 次にもっと些細な問題ではあるが、単純に規制することが必要となる場合がある」(pp119-121)

「刑罰は被害と対等ではありえない。被害者の近親者はこういうかもしれない。殺人者はたった12年の刑なのに、亡くなった子供の命はもう戻らない。そんな ことは間違っていると。そこまでなら正しいのだが、受け入れられないような条件を要求することがある。亡くなった息子を取り戻すことはできない。せめて犯 人の命を、犯人がしたのと同じ状況で奪えば対等だと。しかし、人間性をもち続けていたいのなら、事件を単なる報復の問題としてはならない。我々の倫理は もっと広い視野を有する。もし刑罰が与えられるのなら、その刑罰は我々の価値観の全体を表すものであるべきだ」(p124)

「被害者や被害者運動は、受けた苦しみが刑罰に反映されないと、深く傷つけられたと感じることが多い。それが裁判への厳しい批判として現れ、メディアがそ れを取り上げ、政治家に伝えていく。この状況にどう対処したらいいのだろうか。
 通常の方法以外にない。反論し、意見を交換し、論点を明確にしていく試みである」(p124)

「我々は、残虐行為による悲哀と悲惨さを抱いて生きていかねばならない。しかし、それと同時に、紛争解決のための昔ながらの方法を試さねばならない。我々 は、過去を忘れたくはない。しかし、あらゆる情報が表面に現れ、記憶と歴史に刻み込まれた後では、結局、許しと修復以上に優れた最終解決策はないのかもし れない」(p144)

「人間としてほとんどの人々は、他者に対してできることとできないことに関して、心の中にある基準をもっている。それをクーリー(1902)の精神で表し てみよう。最小限度の優しさと世話を受けなければ、人間は決して成長することはできないのだ。基本ルールは次のようなものだ。

 親切であれ
 殺すな
 拷問を用いるな
 意図的に苦しみを与えるな
 許しは懲罰を超える

 以上が核となる価値である。自然法の深い議論に入る前に、これらの価値は議論を超えたものだとあえていおう。それは明らかだ。そして、刑罰がこれらの価 値を壊すということも明らかである」(p147)

「地球規模で、刑罰の拡大や囚人の増加が叫ばれている中で、刑事施設の拡大に反対しなければならないのは明白である。望まれない行動を犯罪と規定する状態 を減らし、刑事施設の規模に限度を設けよう。特に苦痛の量を減らすことに尽力しよう。刑罰の適量は、現代進みつつある方向とは逆の方向に動いたときに、初 めてみつけることができるのだ」(p150)

「囚人数を最小限度に抑え、刑務所を人間的にし、死刑や拷問を廃止することが、少数民族や貧困者だけでなく政治上のマイノリティをも守る最上の手段なので ある。声高に人権侵害のはなはだしい一党支配の国家に対抗すべきだという意見を尊重はするが、私はそうはしたくない。それは出発点が間違っている」 (p160)


*作成:櫻井 悟史
UP:20071214 REV:20150619
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