HOME >

Scanlon on Well-Being

Wolff, Jonathan 200312 Ratio. XVI 4 December 2003 332-345


■Wolff, Jonathan 200312 “Scanlon on Well-Being,”Ratio. XVI 4 December 2003 332-345

■内容紹介(堀田義太郎


※ ベンサムの引用から開始され、とくに功利主義と帰結主義の善ないし価値論に対するスキャンロンの議論の射程を、とくにWhat Owe to Each Otherにおけるwell-beingをめぐる論点から吟味した論文。

「快と苦痛の回避などの何らかの善あるいは価値が動機付けと正当化の二重の役割を果たし得るという理念が、功利主義およびその他の帰結主義を維持している。善についての明確な考え方なくして功利主義は開始されえない。」(332)

⇔ 功利主義批判者は自らの立場についての弁護論の展開を強いられる。たとえば、人生には快や苦痛の回避のほかにもより多くのモノが存在する等々。スキャンロンは「帰結主義と功利主義」で次のように述べていた。

「功利主義にうまく代替する議論はまずそして何よりも、非功利主義的な道徳的理由づけの基礎について明快な説明を与えることで、功利主義の力の源泉を弱めなければならない。」(1982, p. 103)(以上:332)

スキャンロンのwell-being論は、功利主義を批判している。功利主義は一つ価値をもっており、それが促進されるべきだと言う。それに対する代替案とは何か? 慣習的に、道徳理論に対するアプローチは三つに分けられる。カント主義・帰結主義・アリストテレス主義だ。カント主義は、人間は理性と意思をもつ存在だとして、彼らに起こるべきことについての提案に同意したりしなかったりする能力をもつとする。帰結主義は人間は快苦を感じる能力をもつというところから開始され、我々がお互いを扱うべき方法はそこから導出されるとする。(333) アリストテレス主義は人間は善をもっており、それを涵養したり衰弱させたりすることができるとする。

では、well-beingはどこに位置づけられるか? 契約論者であるスキャンロンは合意の理念を重視する。他の考え方が重視されていないわけではない。むしろ、スキャンロンはwell-beingの理念を重視している。とはいえ、帰結主義理論がwell-beingをマスターバリューにしているのに対して、スキャンロンはそうではないとする。なぜか。もしwell-beingがマスターバリューであるとすると、我々が価値を見出すその他のモノも、well-beingの手段としてのみ価値づけられることになってしまい、さらに次のような三つの主張が維持されることになる。(以上:334)

a) well-beingは、少なくとも本人一人に関わるような場合、単一の合理的個人の意思決定のための重要な基盤を提供する。
b) well-beingは、友人や両親のような、関係のある恩人がそれを促進する理由をもつものである。
c)well-beingは、諸個人の利害関心が道徳的議論において考慮される際の基礎である。

スキャンロンの(c)のカテゴリーはさらに二つに分けられる。@ある人の利害関心は別の人のそれとコンフリクトを起こしうるということと、A利益と負担の分配がなされる政治的な意思決定では、公共的、社会的レベルを通して考える必要がある、ということである。とすれば、well-beingの問題が生ずる文脈は四つあるということになる。well-beingがマスターバリューならば、その考え方だけで、これらすべての文脈を処理しうるか、少なくとも問題を扱う道筋を与え、レベルの間の体系的な関係と結びつきを理解できた方がよいということになる。
スキャンロンが正しいならば、well-beingはその役割を果たさない。では、スキャンロンの異論とは何か? その内容を確認する前に、より一般的な議論が陥りがちな論点を推測することはできる。

a)我々はこの信念を満たすような何ものも見出すことはできない。
b)我々がwell-beingの概念のようなものを決して見出せないことについては、理に適った理由が存在する。
c)それを定義できるか否かにかかわらず、我々にその必要はない。

スキャンロンの立場はこのような立場ではない。well-beingを完全に捨て去ることはしない。ただ、それがマスターバリューであるということを斥けるだけである。(以上:335)

スキャンロンは、道徳性は、自分自身のwell-beingに対して、他者のwell-beingのために制約を課す要求をしうると論ずる。この議論は一見、個人的動機と、我々が「道徳的に基本的なデータ」だと考えるモノとの調和を想定しているように見える。つまり、私が合理的に追求するものと同じものが、道徳的計算に対する入力として機能する、と。だが、スキャンロンはこの見方に反する二つの論を展開している。

@この見方は個人的動機について間違った見方であり、A道徳的文脈で用いられるwell-beingは道徳的基礎ではなく、それはさらに道徳化ないし浄化されてはじめて規範的な観念になる、と。
では、スキャンロンは何のためにそのような主張を行うのか。単にわれわれに対して彼が是と考えることの描像を与えるためか、well-beingのマスターバリューとしての地位を捨てることを合理的に説得するためか? スキャンロンはその中間を行っている。
スキャンロンの立場を検証するためにも、マスターバリュー論者の可能的な反論を見ておくことには意義があるだろう。(以上:336)

スキャンロンは個人合理性、善行(benefaction)、道徳性そして政治的道徳は別々だと言う。だが本当にそうか? それは単に、well-beingからは独立した別種の圧力を生みだす文脈である、というだけではないのか。
スキャンロンの"Preference and Urgency"論文の事例で、「神の祭壇を作るために断食する人は、他者ないし共同体に食糧援助の要求はできるが、それと同じ強度で、神の祭壇を作ることは要求できない」という事例がある。
これは、well-beingに関する個人的観点と共同体の観点との違いだとされる。このミスマッチは何を説明しているのか。いくつかの説明がありうる。そしてその一つとして、well-beingがマスターバリューだという理念と一貫した説明も可能である。それによれば、個人的なwell-beingが政治的・公的文脈でそのまま通用しない理由は二重である。@我々は個人についてきめ細かい情報を持てないから、よりgenericな理由が必要になる。A公的な説明責任を適切に進めるものが必要だ。この二つの理由から、粗い単純化されたwell-beingの説明が必要だということになる。そうすることは、間接的な帰結主義的理由であり、より大きなwell-beingを生みだすための最良の方法なのである。
このような説明は、well-being理念に一貫した、文脈依存的理由があることを示している。(以上:337)

これに対して第三者の善行の文脈では、このような説明はできないという議論が展開できるかもしれない。なぜなら、きめ細かい情報を妨げるものはないし、政治的説明責任は関係がないから。
とはいえ、政治が介入しないのは、自立性がwell-beingの一部であり、個々人は自分のミスから学ぶことで人生でより多くのwell-beingを得るという説明も可能だ。つまり、well-beingはマスターバリューであるという議論は斥けられてはいない。
スキャンロンの議論に戻ろう。彼は諸個人の動機のなかでwell-beingが果たす役割は小さいという。それを行為の現象学に基づいて展開している。スキャンロンは、人はwell-beingと欲望によって動機づけられる、というベンサム流の図式を次の二つの理由で反駁しようとしている。

@「欲求をもつ」は「何かを理由とみなす」ことと、状態として違ったものとして理解されるとすれば、欲求は行為の説明にも正当化にもほとんど役に立たない。(以上:338)
A 我々は個人的なwell-beingの増進ではなく、人生の目的や追求のなかで非個人的価値のために行動する傾向がある。

大ざっぱに言えば、私は私のwell-being上昇の欲求で行動していない、ということだ。だが、ベンサムはそのような見解を「知識人の幻想だ」と呼んだ。
とはいえ、行為は様々であるので一般的に語る前に見ておく必要がある。
仮に行為と動機付けについての理性の役割に関するスキャンロンの議論が正しいとする。三人のタイプの人を考えよう。
@ 快をもたらすから行為するのだという人。
A well-beingを増進させるために行為するのだという人。
B 非個人的な価値があるから行為するのだという人。
彼らが行為の理由について自問するとする。最初の人は、「何が最も快をもたらすか」と問う。二人目は「well-beingを最大限増進する行為は何か」と問う。三人目は「もっともそうする理由のある行為は何か」と問う。それぞれを「快楽追求者」「well-being追求者」「非個人的理由づけ者」と呼ぼう。快楽追求者は友人として浅いし信頼に値しないかもしれないが、ある場面では称賛に値するかもしれない。(以上:339)

※ 340 は省略

スキャンロンは、人々が明確な目的で行為することは稀であると指摘する。とはいえそれは、我々が、合理的行為と個人のwell-being増進行為とを同一視できない、ということではない。スキャンロン自身、well-beingの性質について納得できる説明を与えている。つまり第一に、享楽と満足、第二に、合理的目的、第三に友情等々である。
元の問いにもどろう。重要なことは、人々が合理的に行為する以上、well-beingが動機でなくても、実際にwell-beingを増進させるということである。(以上:341)

ここで我々は、well-beingがマスターバリューであるかどうかをめぐる論争で問題になっている問いの手掛かりを失い始める。
スキャンロンも直接的な解答を与えていない。スキャンロンは、私のwell-being増進とそうではない行為との間に明確な境界線を引くことはできない、と述べている。それが正しいなら、これ以上この問題について議論を進めることはできない。
それでもスキャンロンは説得力のある議論をしていると思える。人々はwell-beingを増進するという明白な目的でほとんど行為していない。人のwell-beingを増進させるには多種多様なやり方があるし、しばしば人の行為はwell-beingを増進する結果をもたらす。ある意味でwell-being増進に向けられてもいる。このことは、何を合理的行為や非合理的行為とみなすかについての明白なガイドラインを与えない。

ここで第二の論題に移ろう。well-beingが道徳的議論で用いられる際、すでにそれは道徳的に浄化されているか否かという点だ。選好功利主義を考えてみよう。功利主義にはよく知られたジレンマが存在する。全てを計算に入れると極めて直観に反することになるが、他方、選好にフィルターを掛けると理論的な明晰性が失われてしまうというジレンマである。(以上:342)

マスターバリュー・テーゼを維持するための最良の方法は、誤情報と誤って形成された選好以外は認めるというものである。
スキャンロンの反論に対して選好充足説は応答可能である。選好充足説の応答は適切だろうか? スキャンロンの初発の意図に戻ろう。スキャンロンは、well-beingがマスターバリューだと信じている人を否定しようとはしていない。その立場をとる人は、自らの立場を次のように一貫した形で維持できる。

1 個人のwell-beingは彼らの知悉された選好(informed preference)の充足の問題である(この理論は、well-beingと他の行為理由との間に明確な境界線はない、というスキャンロンの反論に応答するだろう)
2 人々はしばしばこのような意味でのwell-beingを増進するという明白な目的で行為しないが、合理的な行為は事実上それを行っている。
3 我々には、政治的文脈や慈善のケースでは、well-beingについて異なる観念を用いる多くの理由があるが、しかしそのどれも、well-beingが知悉された欲求の充足であるという論点を打ち負かすことはない。
4 道徳性は知悉された選好の充足としてのwell-beingの観念から始まる。

これに対してスキャンロンは自らの主張を次のように提示する。

1 我々はwell-beingについての大まかな観念を持っており、それはある種の経験、合理的目標の成功そして他のもろもろのモノを含んでおり、そこには選好充足にとって固有の場所は存在しない。
2 合理的行為には数多くの形態があり、それはあなたのwell-beingを増進しないような仕方で行為することも含んでいる。
3 我々は異なる文脈でwell-beingについて異なる観念を用いるという事実は、well-beingがマスターバリューではないということを強く示唆している。
4 道徳性はwell-beingを非常に真剣に問題にするが、それは、道徳的決定の際に考慮される必要のある多くの諸要素の一つに過ぎない。

我々の前には選択肢がある。一方に、あらゆる問題に明快なガイドラインを提供する統一化されたアプローチがある〔知悉選好充足説〕。他方、完全に設定されることは決してありえず、多くの微細な洞察を提供するが、どれも決定的な答えにならないような〔スキャンロン流の〕見解がある。前者が非常に説得力を持っていることはもちろんである。だが、スキャンロンが示すように、理性の重みは、どんな理性的な疑いをも越えて後者を支持する。(以上:344)

*作成:堀田 義太郎
*このファイルは生存学創成拠点の活動の一環として作成されています(→計画:T)。
UP: 20100809 REV:
自由・自由主義 リベラリズム
TOP HOME(http://www.arsvi.com)