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『シティズンシップの政治学――国民・国家主義批判』

岡野八代 20031210 白澤社,262p.


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岡野八代 20031210 『シティズンシップの政治学――国民・国家主義批判』 白澤社,262p. 1900 [bk1][amazon] ※

■内容説明

◇[bk1]
 「「国家」と「わたし」の関係はどうあるべきか。過去のシティズンシップ(市民権)論、主にリベラリズムの議論を批判的に再検討しながら、「平等で自由な人格」がよりよく尊重されるための新たな理念を構想する。」

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 「過去のシティズンシップ(「市民権」)論、主にリベラリズムの議論を批判的に再検討しながら、「平等で自由な人格」がよりよく尊重されるための新たな理念を構想する。最終章で展開される、いかなる者の視点をも排除しない可能性を秘めたフェミニズム・シティズンシップの議論は、フェミニズム、ジェンダー論にとって必見。本書は、「シティズンシップ」論入門として最適であると同時に、社会科学の新局面をひらく挑戦の書である。」

■目次

序章 「平等で自由な人格」の尊重からの出発

第1章 シティズンシップと国民国家
 第1節 なぜシティズンシップ論なのか
 第2節 古典的シティズンシップ論
 第3節 近代的シティズンシップの両義性――シティズンとネイション
第2章 現代リベラリズムとシティズンシップ
 第1節 シティズンシップとロールズの『正義論』
 第2節 シティズンシップとリベラルな国家
 小括  リベラル・シティズンシップ――ナショナルな《帰属》への挑戦
第3章 リベラル・シティズンシップへの批判
 第1節 シヴィック・リパブリカニズムのリベラリズム批判
 第2節 多文化主義と集団的権利
 第3節 アイデンティティの承認と自己の尊厳
 小括  リベラル・シティズンシップ批判――より開かれた民主政体へ
第4章 フェミニズム・シティズンシップ論へ
 第1節 なぜフェミニズム・シティズンシップ論なのか
 第2節 シティズンシップの脱構築――公的領域と私的領域をめぐる政治
 第3節 境界のなかのシティズンシップ論――新たなシティズンシップの構想に向けて

 

■紹介 きむうぢゃ 2004/06


1. 論旨

  @ シティズンシップという概念を軸に、規範的観点から、一つの国家に居住しながら生きるわたしたちの生の現実を考察する。
  「本書における関心は……『わたしたち一人ひとり』と国家との関係は、そもそもどのような原則から成り立っているべきなのか、国際法上の主権を認められた国家の領土内に住んでいることと、『わたしたち一人ひとり』に本来的に認められているはずの人権を始めとした諸々の権利との関係は、どのような関係にあるのかを考察したい。」[岡野 2003:12]
  →これまでの政治思想史の中で探求され、現実の社会のなかでも実現されてきた民主主義や自由主義といった原則、すなわち平等で自由な個人として「わたしたち一人ひとり」が尊重されるために考察されてきたそれらの原則に従って、現在の日本国のあり方を批判的に考察する

  A 以上の問題意識のもと、シティズンシップと国民国家との関係を分節化し、Rawls とAckermanを軸に現代リベラリズムのシティズンシップ論の輪郭を描き、それに対する批判として「シヴィック・リパブリカニズム」「集団別権利/多文化主義」「アイデンティティの承認と自己の尊厳」という三つの観点からの批判を展開している。
 cf.Rawls, John:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/rawls.htm

  B 「『平等で自由な人格』」がよりよく尊重されるシティズンシップの構想が、近代国民国家が前提とするシティズンシップの理念に対するオルタナティヴとして提示されうることを示す。

  C それぞれの立場からのシティズンシップ論の限界確定をしたうえで、その突破口としてフェミニズム理論が示唆するシティズンシップ論をとりあげている。「国民でありながら二級市民へと貶められていた長い歴史を経験し、形式的平等を認められた後も、社会的には不利な位置づけを強制されてきた女性たちは、近代シティズンシップ論が前提としてきた基本概念により根源的な疑義を突きつけているからである。」[岡野 2003:158]
  ※市民、国民、民族 の定義
  民族:共同体意識を支える一種の捉えがたいもの、しかし限に存在する文化的・歴史的想像力/創造力の産物としての集合体、一つの統一された集合体を「民族nation」と定義づける。これは「国民」と交差しているが、同義ではない。
  市民:市民citizenとは「十全な市民権を享受し、政治参加の権利あるいは義務を持つ者」と定義する。

2. 現代シティズンシップ論の限界確定

  リベラリズム:個人の権利の尊重に国家の正統性の基礎を置く。シティズンシップをすべての者に付与されるべき公的な権利であると考える(法的地位としてのシティズンシップ)一方で、各個人が抱く生の構想の多様性と自由を保障するために、各個人が抱く善については、国家が決して強制してはならない私的領域に属するものであるとする。

  シヴィック・リパブリカニズム:シティズンシップに対するアクセスは、各個人が置かれた社会的・歴史的・文化的文脈によって異なっているために、ただすべての者に平等にアクセスが開かれているだけでは不十分である。シティズンシップが意味するのは、アクセスを実質的に可能にするための実践である。(実践の内容としてのシティズンシップ)。ある個人が抱く生の構想(善)は、他者との異なりや関係性のなかで生じるものであるため、善をめぐっての公的議論が閉ざされてしまうことには限界がある。その限界とは「十全な市民権とは何か」についての社会のマジョリティが抱いている見解に対する異論を封じ込めてしまうという限界である。しかし、リパブリカニズムは統一体への《帰属意識》を含意してしまう。

3. フェミニスト・シティズンシップ論の可能性

 ◆女性の解放と人間の解放との克服しがたい緊張関係

  @「あらゆるひとMen」の平等を自然な状態/生まれながらの状態として主張する男性思想家たちは、女性は「自然において」男性とは異なる存在だと主張した。
  A「あらゆるひと」の平等な自由を確保しようとして、伝統的な権威主義的・階層的社会紐帯を捨象し、個人の人格を抽出しようとしたリベラルな思想こそが、女性に対しては〈そもそも女性は、男性とは本来的に異なる存在である〉として差別的な取り扱いを維持し、強化した。
   事例:『ひとおよび市民の権利宣言』(フランス人権宣言、1789年)
  特権階級の女性がすでに政治参加していたにも関わらず、その権利が消滅した(フランスの1302年以来の三部会の歴史。革命の開始と三部会の消滅。1832年の選挙法改正による参政権の男性限定)
  「同じ人間でありながら、あるいは同じ国民――nation, subject, people――でありながら、生まれにおいて女性であるからという理由で市民citizenであることから排除される存在であった彼女たちの闘いは、能動的市民となること、つまり女性参政権を求める運動として展開され[た]……。しかしながら先にも触れたように、近代の人間解放思想こそが、女性たちを市民として認めることを拒む契機を孕んでいたことは、男性と同じ解放思想の論理を援用しながら女性を社会的従属から解放することが可能なのかどうか、という根本的な問題を女性たちに突きつけることになった。」[岡野 2003:176]
  →差異と平等のディレンマ(男並み/女権拡張か、女性としてのありよう/二級市民化か)

  このディレンマが引き起こしてきた緊張をまとめると[岡野 2003:178-9]
  @ どちらの理念を支持するにせよ、両者はつねに女性にとっては不利な結果をもたらす危険性がある。
  A 女性解放が果たされたかのように見えるが、その結果、女性でありかつフェミニストであるとはどういうことかという問いに対する答えが見いだしにくくなってきた。(女性でないかのように振る舞う者が、なぜフェミニストでありうるのか)
  B 「平等か差異か」という問いは、男女間をめぐって問われるだけでなく、女性のあいだでも問われる問いである。すなわち、いったい〈誰との平等か〉、〈何における差異か〉という問いに、フェミニスト自身が直面せざるをえなくなってきた。

  ディレンマをめぐるこういった問題は、岡野によれば、「女性のみが経験するディレンマであるというよりも、むしろある法制度が確立するときに避けがたく生じる領域設定――法の下に生きる者と、そこから排除されてしまう者の境界線を引くこと――によって、法外に生きざるを得なくなった人びとが具体的に直面する問題である」[岡野 同上]。岡野がフェミニズム・シティズンシップ論に可能性を見出すのは、この排除をめぐる問題への手がかりが、そこにあるからだという。

 ◆岡野による「平等か差異か」のディレンマに対するフェミニストたちの回答の整理

  @ ダブルスタンダート批判
  何を基準に等しい、異なっていると言っているのかを問い直す。すべての者が理性的存在であるといいながら、一部の男性のみを理性的存在者の範型としていた啓蒙思想の二重基準を批判する。
  A ジェンダーの発見
  二者択一を迫られる者たちが置かれた社会的立場は、社会正義によって変革せねばならない不正によってつくりだされてはいないか、否か、を問い直す。
  B 新しい社会主義の構想
  「自然」と考えられていることが、実際には〈これこそが、社会問題だ〉と決定した後につくりだされたものなのではないか、を問い直す。ある議論がどのような論理や価値に訴えながら諸問題に応えようとしているのかという問いかけが、自然へと訴えることによって排除されてしまうことへの批判。
  C フェミニズム・シティズンシップの構想
  シティズンシップが含意するさまざまな価値(=不偏不党性、普遍性、自立、理性的で自律的な公的存在)に、批判の余地はないのか、を問い返す。「たとえば、わたしたちは例外なく依存的存在として生まれてくるにも関わらず、なぜ自立や自律的存在であることがシティズンシップにとって必要な価値とされるのだろうか」[岡野 2003:184]
  →近代以降のシティズンシップ論は、家族という社会制度/領域を対象外としていた
  →「相互依存関係を中心にした新しいシティズンシップ論」へ

  このような類型化をしたうえで、フェミニズムがシティズンシップ論に与える重要な視点について、岡野はこのように述べている。@Aにおける批判的考察をみて、BCにみられる問いかけへと収斂していくという道筋において「より広く深く一人ひとりの間に結ばれているさまざまな関係性への配慮」へとシティズンシップ論を導いていくことで、「いかなる者の視点をも排除しない可能性を秘めた」シティズンシップ論を提示できる、と。

 ◆シティズンシップの脱構築

  程度の差はあるものの、現代のシティズンシップ論は公的/私的領域の境界線を必ずといっていいほど引いてきた。
  →「政治と家族」「公的領域と私的領域」という二項対立の図式そのものを脱構築すること
  ※ 二項対立は階層構造であり、一方は優位に、一方は劣位に置かれる。その際、優位の側は、劣位のものではないものとして規定される。この意味において、じつは劣位のものこそが中心的なものである。
  →シティズンシップと家族という制度との関係→家族の政治性を問うこと
  岡野がここで「家族の政治性を問う」として試みているのは、家族内の関係にまで正義の原理を徹底させることではなく、「家族内において評価されるべきある規範や価値が、公的領域・政治には関係がない、と規定されてしまうがゆえに、そうした規範や価値を体現すると考えられる者たちまでもが、公的領域において二級市民へと貶められしまうこと」を問題にすることである[岡野 2003:189-90]。
  つまり、〈家族:私的領域:ニーズを満たす(女性)→非政治的〉v.s〈政治:公的領域:権利や正義(男性)〉といった公的/私的の境界線を引いたうえで語られるシティズンシップ像こそが、それにみあった家族という制度を生みだしているのであって、問題はそこにある。それは、「シティズンたちの活動する場ではない、と政治的に取り決められてきた家族が、いかにしてシティズンたちの活動の場である公的領域におけるさまざまな特権的立場を支えているか」を問うことに他ならない。

  *チョドロウとスペルマンの議論:人がシティズンへと育てられる場としての家族
  チョドロウ:なぜ「女性」が母親業motherをしなくてはならないのか? 精神分析理論を援用しつつ、それは「特定の社会体制の再生産」をなすため、と論じた。女性が母親業(の選択)をするのは、個人の意志を越えた方法で、恣意的ではない規範化された手順で、より広い社会的文脈の中で構造化されているためであって、生物学的決定でも、個人の意志によるものでもない。
  スペルマン:母親業はジェンダーのみではなく、階級、人種、セクシュアリティといった他のカテゴリーにも規定されており、それらのカテゴリーはそれぞれ無縁ではない。チョドロウの定式化を敷衍しつつ、家族の領域もまた(その外の社会がそうであるように)さまざまなカテゴリーによって不正に階層化されている。そして、その諸価値を再生産するのが家族である。
  ロールズ:家族を問題の射程に入れてはいるものの、家族内でのジェンダー配分については容認する議論を展開
  ↓↓↓
  家族=ある政治体制のミニチュアとして、その体制をそのまま生きることを規範とする「権力装置」

  家族が自然であるかのように見えるのは、その権力装置としての機能をまっとうしている限りにおいてである。ということは、家族を政治から切り離すことが意味するのは、家族が再生産しているその諸価値を現状のままに維持し、守ろうとする政治的な態度である。その諸価値の政治性が露わになるその場でこそ、それに異議申し立てする声を聞き取ることができる。
  →シティズンシップが体現していると考えられてきた価値規範の再考、新たな構想へ

 ◆相互依存的な人たちのシティズンシップ

  ある体制にとって「自然ではない」ような家族のありようが、体制が必要とする諸価値を照らし出す。
  リベラルな社会にあって理想とされる家族とは、リベラルな価値を教育しうる家族である。そのリベラルな価値は、個人の自立を徳とする。I. Youngはそれを批判する(リベラルが徳の一つに数える自立とは、男性偏重の価値観なのではないか ※ここで批判されているのはギャルストンというひとが唱えるリベラルの徳で、その徳のひとつに自立がうたわれている。それが指すのは経済的自立である)。自立を市民の徳として考えること、その徳に必要な家族を要請することは、一部の者を二級市民へと貶める構造につらなるものである。
  たとえばシングル・マザーをめぐる問題。シングル・マザーが問題視されるのは、本来なら個人あるいは家庭で充たされるべきニーズを、政府に要求することによって果たそうとする(と考えられている)からである。その要求は家族と政治のあいだの境界線を越え、両者の並置を揺るがすからこそ、政治的に問題視される。

 ◆フェミニスト・シティズンシップ論

  ヤング:不偏不党性批判
  cf.Young, Iris Marion:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/young.htm

  「差異の政治」という政治構想により、不偏不党性という公的領域における理念がいかにして巧妙に差異を抑圧するか、を論じる。
  @ 不偏不党性は、諸個人が生きているはずの状況の特異性/固有性を否定し、すべての状況を同じ道徳的基準の下で判断することを要求する。(市民間の合意達成)
  A 不偏不党性は、ひとびとの感情に紛れ込む異質性を排除しようとする。(多様で固有な感情の抑圧)
  B 不偏不党性の理念は、道徳的主体性の多様性を一つのあるべき主体へと還元してしまう。(善の構想の多様性を尊重しようとするにも関わらず、それを裏切る)
  →不偏不党性の要請は、マジョリティの「正義の諸原理の選択に影響を与える一般的事実は何でも知っている」という傲慢さを助長する。これに対してヤングは、公的領域においてこそ、よりよくひとびとの差異が表象されるような制度を模索する[岡野 2003:210]。
  →「異質性をはらんだ公的なるもの」の提唱
  1) どのような人格であれ、行為であれ、生活上の側面であれ、それらは議論の余地なく私的なものであると強制されてはならない。
  2) どのような社会制度であれ、実践であれ、公的議論や表現に適った主題ではないとして、アプリオリに排除されてはならない。
  →マイノリティの声を拾い上げる

  フレイザー:ニーズ解釈の政治
  cf.Fraser, Nancy:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/fraser.htm

  フレイザーが公/私二項対立に批判を加えるのは、ニーズ解釈の政治という見地からである。これまで(現代資本制福祉国家における)財の配分をめぐる議論が、ニーズの充足ばかりを焦点化し(ニーズ希薄理論)、どのようなニーズがいかなるひとびとに必要なのかという問題(ニーズの濃密な理論)には関心を寄せなかったことを批判している。ニーズの解釈が「行政−司法−個人管理の国家装置」に独占されていることで、脱政治化されていることを批判。その要点は
  1) ニーズの希薄理論が、ひとびとのニーズは所与のものであるがゆえに問題視する必要がないと考えている点。ニーズ解釈が異議申し立ての場となりうる可能性を隠蔽。
  2) 誰がどのようなパースペクティヴから、どのような利害関心の下で、当のニーズを解釈するのかが問題とされない点。「誰が」が政治的論点であることを見過ごす。
  3) 現在、社会に承認されているニーズ解釈のための公的言説の携帯が適正で公正であるということが疑われない点。
  4) ニーズが解釈される過程そのものの社会的で制度的な論理が問題化されない点。
  →ニーズ解釈の政治=政治化されるものpoliticized
   マイノリティの政治参加への道を開く。対抗言説の空間、有効な語彙の獲得、終わりなき新たな解釈の産出。

  コーネル:正義と境界線
  Cornell, Drucilla:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/cornell.htm

  「経験的世界」と「理念的世界」という境界線(その境界を見極める困難さ)を見失うことなく、「理念」のよりよい実現に向けて未来を構想していくこと。シティズンシップとナショナリズムとの密接な関係性を批判的に考察しながら、未来におけるフェミニズムの倫理と政治を模索する。
  ※ 境界:地平線のようなもの。わたしたちはつねにすでにその手前にいる。どこにそれがあるのか、定まっているようなものではない。何が境界になって自らを限界づけているのかを完全に把握できない。しかし、その境界→限界こそが、わたしたちが未来に開かれていることを知らせる可能性でもある。不可能性から可能性へ。
  コーネルが正義に求めるのは、ロールズの配分的正義とはまったくことなる視点から、国境・世代・人種・ジェンダー・セクシュアリティといったさまざまな境界線が孕まざるを得ない排除の構造を脱構築することである。脱構築と法解釈との関連性を提示し、「倫理的な関係」とコーネルが呼ぶ「他者との非暴力な関係」を模索する。デリダの脱構築/差延を援用し、正義はかつてこれまで一度も存在したことがない〈未だない〉と本来的に結びついているとする。だからこそ、〈これが正義であり、配分されるべき財/善goodsのリストであり、わたしの取り分との比較からあなたにとっての公正な配分とはこれだけである〉というべきではないとする(ここがロールズとの違い)。「現在の」シティズンシップが表象し損ねている→未来にもたらされる「べき」シティズンシップを、正義は提示する(国境を越えたシティズンシップの可能性。たとえば外国人参政権)。

  「フェミニズム・シティズンシップ論がわたしたちに気づかせてくれるのは、社会において等しく尊重されなければならない人格は、ひとびとが取り結ぶ社会関係の複雑な網の目とその網の目によってつくらされている境界線の間で、そして他の諸人格との関係性の中で一個の人格と『なる』がゆえに、シティズンシップ論があらかじめ議論の対象としない人間関係は存在しない、ということである。……」[岡野 2003:22, ]


4. コメント(きむうぢゃの見解)

  *岡野の議論から、フェミニズムの視点からシティズンシップ論を問題にするときに、もっとも重要な点とされるのは公的領域と私的領域をめぐる政治であることが導出される。

  *誰がシティズンシップを十全に備えるべき者であるのか否か、という境界を引く権力に対する批判的な視座を岡野は非常に重視する。これはきむうぢゃも共有する。ただ、少々気になるのは、「同じ国民・人民・臣民」であるにも関わらずという場合の「同じ国民・人民・臣民」は、ジェンダーの視点のみではないかたちで批判されているのか? 言い換えれば、シティズンシップがもつ排他性あるいは排除の構造、つまり境界設定をめぐる問題は、諸カテゴリーの相互関連の問題として保持されているのだろうか? これは、本書の初発の問い「『わたしたち一人ひとり』と国家との関係は、そもそもどのような原則から成り立っているべきなのか……」に関わると思われる。この点で、岡野の議論は次の点にシフトしてしまうように思われる。それがつまり、個別具体的な生を生きる「わたしたち一人ひとり」の中に(さえ)見られる葛藤である。
  ロールズが国家(など、シティズンシップの基盤となる集団)を一枚岩として描き、そのアナロジーで個人をも矛盾や葛藤のない一枚岩の存在として想定しているのを批判して、岡野は集団のなかにも差異があり、〈わたし〉という個人の人格の中にも矛盾や葛藤がある、とする(岡野だけがこう言っているわけでもないけれど)。この点は正しい。ただ、それが、これまで正義の問題としては扱われてこなかった「私的領域」を論じる際に、国家(という集団)が孕んでいた不正義の問題が、個人の問題へと流れこんでしまうことにはならないか。これは議論を後退させることにはならないだろうか?

  * ここからは岡野にたいする批判ではないが、ちょっとひとこと。上記の問題はさらに、「個人的なことは政治的である」という、フェミニズムが提起した素晴らしいスローガンに対しても問題提起を投げかける。このスローガンは、いつのまにか逆転して「政治的なことは個人的なことである」というように、矮小化されてしまっている傾向にないだろうか?この点、このスローガンについてチャンドラ・T・モハンティが展開している議論は非常に興味深く、詳細に検討したい。

 (以上)

  *人名へのリンクは立岩が行いました。

 

■引用(立岩による)


◇第3章 リベラル・シティズンシップへの批判
  第1節 シヴィック・リパブリカニズムのリベラリズム批判
   リベラリズムのバラドクス

 「リベラルなシティズンシップ概念は、自然権を持った個人を前提に展開する。リベラルな国家におけるシティズンとは、国家により権利を認められた者であり、その資格として、原則的に「人間であること」以外の何事も問わないところに、リベラルなシティズンシップの画期的意義が存在していた。ともかくも国家の領域内に一定期間居住していさえいれば、国民としての権利は誰にでも認められる、と。しかし、リベラリズムの真髄ともいえる、個人の権利とシティズンシップのこうした関係のなかに、リベラルなシティズンシップ概念が孕む克服しがたいパラドクスが宿っている、とリパブリカンたちは考える。
 そのパラドクスとは、つぎのように表現できる。リベラルなシティズンシップ論によれば、国家による一元的な善の解釈の強制こそが、個人の自由に対する脅威だと考えられていた。にもかかわらず、リベラルなシティズンシップ概念は、国家の肥大化と国民(シティズン)の無力化に加担するという皮肉な結果を生むのだ。国家の肥大化を抑え、国民であることが個人の自律の確立につながることを保証しようとするならば、一人ひとりが自発的に国家の機構に参加し、つねに自らの声を政府の政策に反映させようとしてなけばならないであろう。しかしながら、リベラルなシティズンシップ概念は、そうした実践と参加の原理を欠いてしまっている。」(岡野[2003:120-121])

Pogge, Thomas W.について

 「トマス・ポッゲは、ロールズが正義の原理を国家内に限定することは、ロールズの最も保守的な規定であるとして批判的である。かれの無知のヴェールをめぐる議論を真剣に受け止めるならば、どこの国民として生まれたか、ということは生来の資質、ジェンダー、人種以上に社会制度が生んださらに根深い偶然性と言えるからだ[Pogge 1989:esp. chap.6]]。ロールズの『正義論』を国際関係にまで広げて論ずる議論は、非常に重要な課題であり、とりわけ二一世紀において主権国家以外の財の再分配機関を創造/想像しうるのか、国家を超えたシテ(p.101)ズンシップが存在するのか、という問題とも関わってくる。インターナショナルなシティズンシップについて直接本書で論じることはできないが、第4章終節において、その可能性については触れてみたい。」(岡野[2003:101-102])

Kittay, Eva Federについて

 「(26)現実のわたしたちの生活においては、一方的な他者への依存、あるいは無償でその依存を引け受けることといった関係が実際に多く見られる。それにもかかわらず、リベラリズムの伝統では、個人の選択能力を重視するために、依存 dependency をめぐる議論は不問に付され、相互依存といってもあくまで、自立した対等な個人を前提とした相互関係性 reciprocity にすぎなかったことを私的するものとして[Kittay 1997]を参照。この論文では、「相互依存と平等のイデオロギー」が、いかに依存をめぐる関心を私的領域へと押しやり続けているか、を明らかにしている[ibid., esp., pp.12-16]。すなわち、相互に助け合うことのできるほどの自立した人間とは、どのような存在であるかというと、かれらは私的領域に一方的な依存とそれを引き受けるという――おそらく誰しもが一度は体験しているであろう――関係を押し込めることで、言葉を換えるなら、そうした関係を足下に踏みつけることで、自ら立つことができる存在である。」(岡野[2003:237])

Kittay, Eva Feder 1997 "Taking Dependency Seriously: The Family and Medical Leave Act Considered in Light of the Social Organization of Dependency Work and Gender Equality" P. DiQuinzio and I. M. Young eds. Feminist Ethics & Social Policy, Indiana University Press


UP:20031216 REV:1217,20040625
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