A 以上の問題意識のもと、シティズンシップと国民国家との関係を分節化し、Rawls とAckermanを軸に現代リベラリズムのシティズンシップ論の輪郭を描き、それに対する批判として「シヴィック・リパブリカニズム」「集団別権利/多文化主義」「アイデンティティの承認と自己の尊厳」という三つの観点からの批判を展開している。 cf.Rawls, John:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/rawls.htm
B 「『平等で自由な人格』」がよりよく尊重されるシティズンシップの構想が、近代国民国家が前提とするシティズンシップの理念に対するオルタナティヴとして提示されうることを示す。
C それぞれの立場からのシティズンシップ論の限界確定をしたうえで、その突破口としてフェミニズム理論が示唆するシティズンシップ論をとりあげている。「国民でありながら二級市民へと貶められていた長い歴史を経験し、形式的平等を認められた後も、社会的には不利な位置づけを強制されてきた女性たちは、近代シティズンシップ論が前提としてきた基本概念により根源的な疑義を突きつけているからである。」[岡野 2003:158]
※市民、国民、民族 の定義
民族:共同体意識を支える一種の捉えがたいもの、しかし限に存在する文化的・歴史的想像力/創造力の産物としての集合体、一つの統一された集合体を「民族nation」と定義づける。これは「国民」と交差しているが、同義ではない。
市民:市民citizenとは「十全な市民権を享受し、政治参加の権利あるいは義務を持つ者」と定義する。
このディレンマが引き起こしてきた緊張をまとめると[岡野 2003:178-9]
@ どちらの理念を支持するにせよ、両者はつねに女性にとっては不利な結果をもたらす危険性がある。
A 女性解放が果たされたかのように見えるが、その結果、女性でありかつフェミニストであるとはどういうことかという問いに対する答えが見いだしにくくなってきた。(女性でないかのように振る舞う者が、なぜフェミニストでありうるのか)
B 「平等か差異か」という問いは、男女間をめぐって問われるだけでなく、女性のあいだでも問われる問いである。すなわち、いったい〈誰との平等か〉、〈何における差異か〉という問いに、フェミニスト自身が直面せざるをえなくなってきた。
@ ダブルスタンダート批判
何を基準に等しい、異なっていると言っているのかを問い直す。すべての者が理性的存在であるといいながら、一部の男性のみを理性的存在者の範型としていた啓蒙思想の二重基準を批判する。
A ジェンダーの発見
二者択一を迫られる者たちが置かれた社会的立場は、社会正義によって変革せねばならない不正によってつくりだされてはいないか、否か、を問い直す。
B 新しい社会主義の構想
「自然」と考えられていることが、実際には〈これこそが、社会問題だ〉と決定した後につくりだされたものなのではないか、を問い直す。ある議論がどのような論理や価値に訴えながら諸問題に応えようとしているのかという問いかけが、自然へと訴えることによって排除されてしまうことへの批判。
C フェミニズム・シティズンシップの構想
シティズンシップが含意するさまざまな価値(=不偏不党性、普遍性、自立、理性的で自律的な公的存在)に、批判の余地はないのか、を問い返す。「たとえば、わたしたちは例外なく依存的存在として生まれてくるにも関わらず、なぜ自立や自律的存在であることがシティズンシップにとって必要な価値とされるのだろうか」[岡野 2003:184]
→近代以降のシティズンシップ論は、家族という社会制度/領域を対象外としていた
→「相互依存関係を中心にした新しいシティズンシップ論」へ
Kittay, Eva Feder 1997 "Taking Dependency Seriously: The Family and Medical Leave Act Considered in Light of the Social Organization of Dependency Work and Gender Equality" P. DiQuinzio and I. M. Young eds. Feminist Ethics & Social Policy, Indiana University Press