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『精神医学京都学派の100年』

京都大学精神医学教室 編 20031225 ナカニシヤ出版,121p.

last update:20110210

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■京都大学精神医学教室 編 20031225 『精神医学京都学派の100年』,ナカニシヤ出版,121p. ISBN-10:4888488347 ISBN-13: \3150 [amazon][kinokuniya] ※ m01a. m.

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・京都大学精神医学教室の開設から今日にいたる歩みを出身者の協力を得て回顧する。精神医学の学術的な面での足跡と、これまでの伝統を背景にしてどのような研究方向へと進むのか、またそれぞれの時代の思い出などを収める。

http://www.nakanishiya.co.jp/books/ISBN4-88848-834-7.htm
人間学的・現象学的精神医学の中心として、精神医療改革運動の拠点として、時代をリードした京大精神科の歴史。写真・資料を多数収録。

■内容


内容(「MARC」データベースより)
京都大学精神医学教室の開設から今日にいたる歩みを出身者の協力を得て回顧する。精神医学の学術的な面での足跡と、これまでの伝統を背景にしてどのような研究方向へと進むのか、またそれぞれの時代の思い出などを収める。

■目次


[巻頭言]
 京大精神科百周年を迎えて
 京都大学精神医学教室100周年を迎えて
 京都大学精神医学教室の100年

[第一部 京大精神医学教室における研究の百年]
 精神病理学
 心理・精神療法家の人々
 京大精神科と非定型精神病
 京都大精神科神経科における神経心理学及び神経精神医学研究(T)
 京都大精神科神経科における神経心理学及び神経精神医学研究(U)
 京都大学精神医学教室における精神病理学
 児童青年精神医学の展開
 京大精神科におけるてんかん研究
 精神科化学研究室の思い出−1960年代初頭−
 京都医療少年院と司法精神医学−その精神科臨床における可能性−
 精神医学史研究

[第二部 それぞれの時代の思い出]
 京都帝國大學精神病學教室の思い出

回顧
卒後40年
戦前・戦中から戦後の昭和28年まで
岐阜でのこと
人とのであい
昭和28年入局の頃
阪本病院の医局で
昭和30年代の回顧
精神科評議会運動の理念と展開
法精神医学
脳波室を中心に集まった人々との思い出
神経病理学と評議会
新病棟の建設
「環境療法」ということ
昭和42年−48年:京都大学精神医学教室
松本雅彦先生との勉強会の思い出
大学院再開について(94年)
評議会時代最後の助教授として
「教養部研究会」の思い出
研修医の頃
京大精神科評議会の10年に思う−新体制へと積み残された課題−
京都大学開講100周年に寄せて
勉強会(アポリア)を振り返って
再開大学院一期生
精神科評議会と私の30年

編集後記
編集委員会(林 拓二 ・ 岸本 卓三 ・ 山岸 洋 ・ 村井 俊哉)
年譜

■引用


木村 敏 20031225 「京大精神科百周年を迎えて」,京都大学精神医学教室編[2003:1]


「私たちを精神科医としてはぐくんでくれた京大精神科教室が、百周年という記念すべき年を迎える。慶賀の意を同門の方々と分かち合いたいと思う。
 京都大学は元来、医学部にかぎらず他の文系、理系の各学部についても一般にいえることとして、中央の「オーソドックス」な学問思潮になびかず、「反体制的」ともいえる独自の学風を育てることを特徴としてきた。精神科教室もその例に漏れない。とりわけ次の二つの点で、京大の精神科教室は長らくのあいだ、東京を中心とする諸大学には見られない際立ったオリジナリティを保ち続けてきた。
 そのひとつは、初代の今村新吉教授がはっきりと示された哲学的精神病理学の方向である。ベルグソンとジャネを高く評価された今村先生の精神病理学は、その後3代目の村上仁教授によって継承され、私たちに伝えられることになった。それとともに今村先生の遺産として特筆しておかねばならないのは、「精神分離症」(現在の統合失調症)を人間の社会的本能の障害として捉えるという考え方である。これは、同じこの疾患をもっぱら脳の器質的病変に還元しようとしてきた古典的体制的な精神医学に対抗して、これを社会的存在である人間の本質に深く根ざした病態として理解し、その後の人間学的・現象学的な精神病理学を明確に先取りした卓見である。この方向をも継承された村上先生は、ミンコフスキー、ビンスヴァンガ−、ボスなどの現象学的あるいは現存在分析的な方向にいち早く注目され、京大精神科を日本における人間学派の中心として形成されることになった。1969年以降、京大精神科が「反精神医学」的な異議申し立ての中心的存在となったことも、これと無関係ではないはずである。」(木村[2003:1])

◆(『精神医学京都学派の100年』)編集部 20031225 「京都大学精神医学教室の100年」,京都大学精神医学教室編[2003:6-8]

 「確かに、精神科評議会はその30数年に及ぶ運動の歴史の中で一定の成果を挙げ得たが、さらなる新しい目標を見出すことはできなかった。その上、学位を認めながら、なお「反教授会」の旗を掲げるという矛盾した方針をとり続けたために、教授会も苦慮していた。しかし、平成13年1月に満田の学問的流れを汲む林拓二(愛知医科大学)が客員教授となり、9月には正式な教授として赴任した。そこで、精神科評議会は新しい教授とともに教室の発展をはかるために「発展的解消」をし、新しく精神科医局として発足した。」(『精神医学京都学派の100年』編集部[20031225:8)

◆高木 隆郎 (昭和28年卒)「児童青年精神医学の展開」

 「京大精神科における児童臨床は、沼田作先生(大正2年卒)をもって噴矢とする。
 今村新吉教授還暦祝賀記念論文集(昭10)の巻末に小南又一郎先生と三浦百重先生の寄稿された文章によると、沼田先生は三浦先生の入室(大8)よりやや遅れて今村先生の門下に入り、ある時点で浪速少年院医官に就任され、昭和5年昭和天皇御大典記念に創設された兵庫県児童研究所技師に転出され、その開設の準備に奔走された。しかしその舎屋の建設完成(昭和7年,1932)を見ることなく急逝され、教室より速水寅一先生(昭2卒)が後継赴任された。沼田先生は「瓢逸なる」方とも「超凡、超俗の資」とも記されている。上記記念論文集に寄せられた速水先生の報告によれば、兵庫県児童研究所は発足当初、医師は先生おひとりで年間1,000人近い児童を身体精神の両方とも診療、相談に当たっておられた模様で、「当所のように完全に近い設備と機構を有しているところは日本中に唯一」だった。とはいえ、折からの時局でこの研究所も閉鎖の運命をたどったようだ。戦争によって、沼田、速水先生の児童の流れは、いったん途絶える。
 京大精神科の第2の児童の流れは、戦後の少年法施行(昭24)に伴う医療少年院(当初少年療護院)、少年鑑別所等司法機関の新設に関係する。当時の三浦百重教授はもともと精神鑑定や司法精神医学に熱心であったから、とくにその人事には力を入れられた。昭和24年京都少年療護院(昭和26年京都医療少年院となる)開設に当たっては、まず久山照息先生(昭16卒)を医務課長に、翌25年満田久敏教授を第2代院長として送り、京都少年鑑別所には林脩三先生が就任された。この辺の事情は本書司法精神医学の章で詳述される筈なので、以上略記にとどめる。
 ただ林先生は、昭和31年、大阪市が政令指定都市となり、府とは別に児童相談所を持つことになったとき、その初代所長として転出された。知能分布曲線の左端に不規則な小山があるのはいわゆる精神薄弱病理型や頭部外傷等重度の脳器質障害に由来するものであることを早い段階で指摘する(精神神経学雑誌,1956)など、精神薄弱の遺伝についての優れた業績があり、学識とお人柄から所員、福祉関係者から敬愛され、また情緒障害児短期治療施設を率先して設置されるなど、行政的な手腕も評価が高かった。現在京都市児童福祉センター副院長として門真一郎(昭48卒)が活躍しているが、同門としては林先生の流れを受け継いだことになろう。

U
 第3の流れは、昭和30年(1955)村上仁教授のご着任により、京大精神科が戦後の新しい精神医学を諸領域で展開させ、わが国の指導的立場を確立していったことと関係がある。児童精神医学はそのひとつの例である。高木隆郎(昭28卒)は村上教授から児童相談や自閉症など子供の精神医学がアメリカで発展している、やってみないかと示唆される。教室関係では当時大阪市大(のち神戸大学教授)の黒丸正四郎先生(昭14卒)が戦後いち早く「精神衛生の理論と実際」(黎明書房,1949)を出版しておられ、とくに教育界では高名だった。」(p34)

◆川合 仁(昭和34年卒) 20031225 「精神科評議会運動の理念と展開」,京都大学精神医学教室編[2003:74-76]

「林教授より私に与えられたテーマは、京大精神科評議会運動の理念ということであるが、そもそもの出発点からはっきりした理念があったかどうか疑わしい。
 成立過程を振り返ってみれば、70年を中心とした京大医学部斗争や精神神経学会斗争を斗ってきた精神科医が、大学斗争の終息していく中で、京大精神科を活動の場として確保していくための要請として成立したものである。成立時点では、過渡的なものとして、医者だけで構成するが、将来的には京大精神科で活動しているすべての従業員で構成すべく発展させるというものでもあった。
 以上の経過で成立した精神科評議会であるが、理念らしきものとして、評議会入会の条件としてあげられたのが、
 1.反教授会権力
 2.臨床、教育、研究を一人一票制による合議で運営していく
 ということであった。そう書いたところで、医学部斗争に関わったもの以外には解りにくいと思われるので、もう少し説明したい。             `
[1]大学斗争は何を中心として斗われたか。
 周知のように医学部斗争では、医学生清年医師遠谷、無給医.大学院生、教師全員が、それぞれの立場から、学問とは何か、医療は与うあるべきか、医学教育はどうあるべきか等をめぐって考え、そして議論した(ヒんなことは日本の歴史上かつてなかったことと思うが、本当に真摯に考えた)。
 その中から、問題点として共通に浮かび上がっ司きたのが、医局講座制の問題である。教授を頂点としたピラミッド型の職階制、関連病院への人事支配、その核となる学位制度が大学における研究、教育を歪め、日本の医療を荒廃させているという認識ではほぼ一致していたと思う。
 残念ながら、その改革は実現しないまま、バブルへ帽かって高度経済成長を推進しようとする勢力による大学措置法の発動によって暴力的に抑えられてしまった。従って、いくつかの見せかけの改革、あるいは若干の近代化はなされたものの医局講座制の権力は温存されたままになった(今だに名義貸しだの派遣だのと称して関連病院から収奪したり製薬企業との金銭癒着等は絶えない)。
 京大精神科で斗ってきた精神科医にとって、温存された医局講座制権力と斗いながら医学、医療の改革をすすめるには、どうすべきかというのがその時点での深刻な課題となった。そこで共通認識となったのが前記の2項目である。
 1.医局講座制を温存させようとする政府権力の出先機関である教授会権力と斗っていくこと。
 2.臨床、教育、研究を真に患者側に立って行ってゆくためには、医者の自主、民主、公開(これはかつて物理学者が核研究を再開するに当たって出した3原則)が必要であること。そして職階制を通しての権力支配を打ち破るべく直接民主主義(=評議会民主主義、レーテ・デモクラシー)によらなければならないこと。蛇足ながら評議会のいわれはここにある。<74<

[U]評議会で何が実現したのか。
 いずれにしても改革とは大変なことである。この場合の改革は成長を求めるのではなく、ごく当たり前の患者側に立った医療、医学を目指すだけだというのにである。  第一の困難は、抵抗派との斗いである。この場合の抵抗派は教授会及びそれに連なるものであるから、絶対多数派である。
 人事を通して絶えず、大学院制度、学位制度を復活させようとする圧力の中で、かなりのエネルギーを消耗させられた。その上に、改革派内部の路線対立(?)や病棟内部での職員間の党派的対立が重なったりして苦悩することも多かったが、逆に考えれば、それらが、私共への責任性の自覚への契機となった訳でもある。ある意味では四面楚歌といってもよい訳だが、"連帯を求めて孤立を恐れず"(恐れずひるまず"ではない)がなつかしい。
 その中で、第一一に目指されたのは、日常臨床行為の点検である。患者の人権を尊重し、治療を効率的にすすめるにはどうしたらよいかが日常的に追求された。製薬企業、関連病院との癒着を断ち切って医療技術を磨くことを目指した訳であるが、その点では日本全国で一番の成果を挙げたのではないかと自負している。トータルとしてみれば、大学病院としては全国一のレベルを保ったと思う(もちろん理想とは程遠いが)。
 更に評議会出身者が、地域の病院に出て、開放化に努力した功績も歴史にのこるものである。スティグマを背負ったとも言える岩倉病院を開放化したことと、収奪の限りをつくした十全会病院に対する反十全会斗争は、京都、関西の精神病院での患者処遇を改善するための象徴的斗いであったと思う。
 また精神神経学会等での告発活動、保安処分反対斗争、各種委員会活動を通じた行政施策の改善等の面でも評議会関係者は絶えず中心的メンバーとなってきた。
 教育面では、精神医学講義のカリキュラム編成面での改革は殆ど手つかずだった。とてもそこまでのエネルギーがさけなかったと言ってよい。勿論個々の担当者の工夫はあったと思うが、トータルとして患者側に立ったカリキュラムの編成はなされなかった(臨床講義だけはなくしたが)。ポリクリ、ベッドサイド等でも患者の人権(プライバシーの保護)の面で検討すべき課題は残されたままである。
 しかし、特筆すべきことは、医学入門講座で医療被害者、公害被害者、精神障害者等に教壇に立ってもらい、患者側からの医療批判の場を作ったことである。今でこそいくつかの大学で試みられているが、20年以上も前に教授会との斗いの中で実現させてきたことは誇りに思っている。その中から、精神科以外の領域でも患者側に立った医療、医学を実践している医師、看護婦も多数でている。近く必ず、成果となって現れるであろう。
 地域活動としても、保健所を通じての患者支援、共同作業所の設立と発展、患者会活動への支援等他大学では見られない貢献をしてきたと思う。
> 私事になるが、薬害、公害、環境汚染等に対する斗いでは、京大病院では唯一人と言ってもよい状況で活動してきた。京大病院の研究室の毒物タレ流しをやめさせたり、また全国スモン訴訟では、キノホルムの毒性に関する調査を一人で手がけて患者支援できたことを誇りに思っているが、所詮被害が発生してからでは還すきるということも銘記すべきである。
 最後に、研究面での成果が出ていないというのが、評議会に対する大きな批判てあることは重々承知しており、研究機関としての大学病院という立場から言えばもっともな批判であるとも思うが、現在の劣悪な精神科医療状況の中で.患者の人権を中心におく臨床の場では、とてもそのための時間が無かったというのが実情であっ<75<た。将来、我々の実践の積み重ねの中から有意義な研究成果が生まれることを期待するのみである。」(pp74−6 全文)

◆中山 宏太郎(昭和37年卒) 20031225 「法精神医学」,京都大学精神医学教室編[2003:77-78]

[……]
「<77<
いわゆる池田小学校事件の裁判所鑑定(林拓二・岡江晃、平成15年)は、本件の裁判所決定との関係のみならず今までに見なかった最近のいくつかの事件とあいまって、立法への影零にも強い関心を持ってみている。
 最近の立法として最も重要なものは、精神保健法(昭和62年)とその後の同法改正と並んで、心神喪失者等の医療等に関する法律(平成15年成立)である。後者には私も強い批判を持っているが、吉岡隆一君が若手をまとめて論陣を張ったことで心強く思っている。その運用に検察官は大きな裁量権を持っているように思うので、運用の透明性の確保と法の目的との整合性の確保のためには精神科医の絶えざる注意が必要であると思う。根気ある論陣をはっていただきたい。」(pp77-8)

◆川越 知勝(昭和38年率) 20031225 「神経病理学と評議会」,京都大学精神医学教室編[2003:82-83]


[……]
  「神経病理学の進歩は大がかりな設備と研究体制を要求するようになった。研究を進め、成果をあげるためには莫大な予算を獲得し、多くの研究者を自分の下に集めなければならない。こうして、科研費などの予算配分をめぐり、東大教授を頂点とする体制が確立されていった。この様な状況の中で、昭和43年(1968年)東京大学医学部で医局解体を叫ぶ運動が始まるや、その波は一挙に全国に広がった。医局解体とは、大学の研究体制の解体であり、特に神経病理の研究に対する批判が強かった。京都大学の精神医学教室で評議会が結成され、私を含む神経病理グループへの批判がおこり、それまでの研究のあり方に対し検討が行われた。
 しかし、今振り返ってみれば、当時、神経病理学そのものが転換期にさしかかっていたと思う。一つには、研究にかかる設備の経費が大きくなりすぎ、各大学の精<82<神科では研究を維持出来なくなったことで、その後、神経病理の研究は大学を離れ、国公立の研究所に統合されていった。第二には、神経病理学の基本である脳のマクロレベルの検索は、脳のCTスキャンやMRIが出来たことで、患者の生存中に、日常的な検査として行われるようになったことがある。更に、電子顕微鏡で脳の微細構造が解明されたことで、神経研究は形態学から、分子レベルの研究へと発展していったことである。
 今日、ヒトゲノムの解読が達成され、遺伝子レベルでの病気の解明が進められている。しかし、遺伝子の異常がみつかっても、それが、脳の中で、どの様な表現形となっているかをつき合せて検証されなければならない。その意味でも、神経病理学が長年培って来た成果は決して無駄ではなく、新しい神舞研究の基礎となっていることは間違いないと確信している。
 最後になるが、この稿を書きつつ、若くして逝った、元同級生の関口進君のことが思い出される。彼は入局した時から、だれよりも早く、これからの精神科の課題は刑法改正と保安処分の問題であると語っていた。評議会と日本の精神科医療の転換の流れを決定づけた金沢学会での、これも同級生であった小澤勲君の熱弁を聞きながら、彼がかつて光風寮病院で一緒に働いていた関口君から語られた思いが、彼の気持ちを一層駆りたてている様に感じられたのが昨日の事の様に思い出される。」(pp82−3)

◆田原 明夫(昭和42年卒) 「環境療法」ということ

 「Zubinの脆弱性モデル、Ciompiのシステム論的モデル、或いはWHOの障害モデルICF等、生物学的な要因ばかりでなく、心理社会的要因(環境因子や個人因子)が、疾患の生成ばかりでなく、病状や障害の経過に大きな影響を及ぼすことにっいては国際的なコンセンサスが得られているが、病院や地域社会に於ける実際の臨床場面に於いて、治療環境やスタッフのあり方に、どのような工夫やそれに基づく組織化(医療・福祉チームの形成)が試みられているであろうか?
 青医連運動・大学闘争を経て精神医療に足を踏み入れた私にとって、単科精神病院は、まさに課題の塊であった。広い窓に格子のない2階建ての開放病棟を持つ光愛病院は当時では開放的な病院であった。烏山病院に習い機能別4単位制を導大していた。しかし、作業や当番と称する使役的作業があり、内職作業の売り上げや院外作業での給与の殆どがレク費用とされていた。閉鎖病棟では買い物は伝票で処理され、煙草の本数も制限され、看護活動の重点は患者の日常生活管理に置かれていた。ISやESが「治療」と称される一方、日常的な関わりは治療活動とは意識されていなかった。年数回の「レクリエーション」も患者さんを楽しませてあげる、押しつけの企画の色彩が強かった。
 病院の施設・設備・人員等のすべてを治療的に構成せんとする環境療法や、レクや作業等を院内日常生活に組み込もうとする活動療法の考え方は、無用な制限を廃し、患者の人権や主体性を尊重し、自由を拡大しようとする運動を進める.ヒで有効であった。労働組合運動とも結びついて、患者と共に考え、共に活動することが「仕事」となっていった。
 開放病棟を自治会主体に運営することを試み、退院者も遊びに来て泊まるようになった。慢性病棟では毎日笑いがあるレクが企画され、グループ別の院外レク、退院者のアパートでの昼食会などの積み重ねから、アパート退院者を多数出していった。今にして思えば、Group-analysisの主唱者Foulkesが軍病院Northfieldで44年に行ったtherapeutic communityの先駆けの試みに、四半世紀程遅れた同様の試みであったと云えようか。
 病棟の開放化から病院そのものを社会に開放していこうとする試みは各地で取り組まれ、患者会運動の高揚と共に、あらゆる職種と当事者も参加する病院精神医学会の内容を多彩で豊かなものとした。それらの活動を交流し共有することを目指して、大阪では「地域精神医療を考える会」が組織された。病院職員と行政を主体とする地域で活動する職員との思いのずれは、断酒会活動を主体に開放病棟中心に治療を展開していた大阪のアルコール医療の担い手達によって埋められた。考える会は今も継続されている。
 「治療」の枠組みの混乱から「診療所活動」に挫折した後、京大に戻った。そこでも、毎朝の男子病棟のソフトボールを中心に、研修医達の協力も得て、多様な活動を試みた。女子H病棟でのcommunity meetingは「コーヒーを自由に」との患者の要望も解決できず頓挫したが、後に喫茶「いこい」が開設されたりもした。しかし、クラスター方式の新病棟も、病棟医制度が定着した他には、新たな構造を活用した<89<活動を生み得なかった。
 「運動」は時に高揚し、時に衰退する。人が代わり、流れが停滞する時、活動は形骸化することもある。「光愛病院には自由はあるが治療はなかった」との声を聞く。環境の中で最も影響力の大きい人の輪、目標を共有するチームの意義は大きい。疲れ、意見を異にし、目標を見失い、情勢が変わってチームは揺らぐ。病む心の辛さに接近しえないままの、ひとりよがりの働きかけは強要や自己満足、そして相互依存を生む。着実な生活の場と、外と未来に開かれた集団と的確な支えが、病みながらも生きることを豊にすることは、「やどかり」「べてる」等の多くの実践が教えてくれている。治療共同体の理念も、個別間の小矛盾が全体の目標を見失わせる時、構成員が共に考え・共に活動することが難しくなる。
 「居場所の提供」と「集団活動」を旨とし、新たな治療の場として期待されたデイケアも全国千を超えているが、外に開かれることが少なく、自己満足やプログラム依存に陥るとき、目標の喪失とホスピタリズムを醸成するおそれが強い。
 病院においても、地域内の場においても、J.K. Wingが指摘したclinical povertysyndromeを生じさせることのないactivityを如何に保つかが問われている。
 患者の気持ちや思いを言葉にし、行動に移す機会を増やし、他者との交流を通して現実との接触を豊かにし、自尊感情を高め、新たな目標を持てるように支えることのできる環境や、活動の機会を作り続ける工夫を重ねることは、重要な治療活動と考えている。
 本学出身者がチームリーダーを引き受けている臨床の場から、病院・地域精神医学会や精神障害リハビリテーション学会、集団精神療法学会などへの発表が増加することを期待してやまない。」(京都大学医学部保健学科作業療法学事攻教授)(pp89−90)

◆横山 博(昭和45年卒) 20031225 「松本雅彦先生との勉強会の思い出」,京都大学精神医学教室編[2003:93-94]

 「03年3月、松本先生が洛南病院を退職された。昨年は評議会が凍結された。思い起こせば長い年月が流れたものである。懐かしさと苦々しさの混じりあった奇妙な感覚なしには、まだ私には当時のことを思い起こすことができない。全共闘運動、京大精神科医局解体、評議会結成、精神科医師共闘会議の運動の渦まくなかで、70年卒の私は、現教授の林拓二君と一緒に、大阪、泉南の地にある古くからの京大関連病院であった七山病院に赴任した。京大闘争のため卒業が半年遅れ、その秋からすぐに赴いたのである。何の研修もなく、今から考えれば随分乱暴な話である。
 七山病院では、故山崎光夫先生が50年代の後半から、702床もある大病院の開放化をもう既に進めておられ、当時で年間予算・千万円を越える様々な作業体系を持っていた。このような病院において、厳しく教えてくださる山崎先生のもとで精神科医としてスタート出来たことは、林君と私にとっては幸運なことであったし、その後の2人の臨床を重視する立場の礎を造ることができたと言えよう。
 七山病院を拠点とし、私の精神医療改革運動は、ゆっくり精神医学を学ぶ時間もないまま忙殺を極め、地域医療、精神医療改革運動、患者・家族会運動の拠点としての田原診療所設立へと上り詰めていく。この運動には、当時の大阪の精神医療の現実を変えるために、多くの大学からの若手精神科医が参加し、それは大きな成果をもたらしたと言えるが、その成果と推移については別の拙書に譲ろう。かように運動に浸り込む一方で、目の前の分裂病患者をどう理解してよいか分からないi枚に私のこころはあせり、分裂病の精神病理、精神療法関連の文献を一人で読む一・方で、読書会を求めていた。それに応えていただけたのが加藤清先生との研究会であり、松本先生の読書会であった。
 松本先生の読書会は週一回、水曜日に行われ、私が参加し出したのは多分72年か73年ではないかと思う。当時もう既に読書会は、先輩である浅見莇先生、田原明夫先生達で行われていた。この読書会では、これまでに反精神医学のRD.レインなどを読んできたとのことであった。当時私はどうも過激だけの人と見られていたようで、参加したいと言ったらいささかびっくりされたのを覚えている。読書会は、H.S.サリバンのschizophrenia as a human processやフロム、ライヒマン、ウインなどの分裂病の精神療法、家族論に関するものが中心であった。松本先生が外国文献からコピーしてくださった論文も多数読んだよう記憶している。論文の内容はもちろんのこと、論文に現れた問題につき実際の事例をとおして話し合われ、時には事例の方が討論の議題になったりすることは、かけだしの精神科医である私にとってまことに興味深いものであった。この水曜日は、後に受け始める水曜日のユング派の教育分析と合わせて、日常の喧嘩を忘れさせる貴重な一日であった。
 当時の私たちにとって反精神医学から引きずる、医師としての存在論的根拠性は絶えず議論の中心にあったし、大阪の田原診療所では境界性心性の人たちを巡って、運動のなかでそれが直接問われていた。病者としてレッテルを貼られ排除されていく患者のルサンチマンに医師としてどう応えるのか、差別された人たちの解放に医師はどう関わるのかと問われ、精神科医としての専門性との問で、田原先生と私は当事者として大海の中の小舟のように揺れていた。かくなる現実に巻き込まれる<93<我々2人にとって、松本先生と他のメンバーの客観的立場からの暖かい視点の提供はしばしこころの休まるひとときであった。
 月日を重ね、田原診療所は何者かに襲われ閉鎖を余儀なくされた。悲しい出来事であった。この失意の日々の時、H.サールズのCOUNTERTRANSFERENCE AND RELATED SUBJECTSを翻訳しようと提案してくださったのが松本先生である。ここには、「献身的医師(the dedicated doctor)」を初めとして、すべてではないにしても我々が陥った問題の数々が整理されていた。この翻訳作業の途中で私はユング研究所に留学することになるのであるが、この本は松本、田原、横山のまとめと他のメンバーの積極的な関与で『逆転移1、2、3』として出版される運びとなった。私の留学には、山崎先生の功績を無に帰す七山病院の経営陣の変化で京大関係者がすべて引き上げるという事態も関与していた。一一人の医師が解雇されるという熾烈な闘いの中でも、この読書会の存在は大きな支えであった。かようにこの読書会は私の精神科医としての歩みとともにあり、私はここから言い尽くせないものを得ていて感謝するばかりである。ただ同じく大阪から参加していた漆原良和君が、02年秋早逝されたことが悔やまれてならない。彼の静かなる永眠と松本先生の末長い御健勝を祈って終わりとしたい。(甲南大学文学部人間科学科・教授)」(pp93−4)

◆岡江 晃(昭和46年卒) 20031225 「大学院再開について(94年)」,京都大学精神医学教室編[2003:95-96]

 「ここに、京大精神科評議会の『大学院再開にあたって』(92年12月9日)いう文章が残されている。そこには、『(我々は)約20年にわたって、日本の医療における「研究至上主義」と若手医師支配の大きな柱であり、医療荒廃の元凶であった医学部大学院・学位制度を批判し拒否してきた』、『大学院・学位制度は、若い医師をこめような医療の現場から引き離し、医局講座制の因習に束縛し続け、現代の医療が持つこのような問題性を隠蔽してきた」と大学院・学位の問題を指摘し、また人学院大学構想を批判しつつも、しかし、3点の条件(臨床研究、臨床経験、開かれた相互討論)のもとで『大学院を再開する道をあえて選択した』とし、そして最後に、医療改革の運動について、この20年の間に蓄積した経験を洗練し、臨床医学に独1面白視点を切り開き、新たな実践を創造するために……我々は、大学院を再開する と結ばれている。そして、93年3月には学位論文の評議会での発表と審査が行われ.94年4月には約25年ぶりに精神科の大学院に2名が入学した。
 残念ながら、この大学院・学位の再開を巡る内部討論の資料はほとんど残っていない。従って、当時私が感じていたことを思い出してみることとする。
 一つは、新たに評議会に参加する研修医・非常勤医の大学院・学位に関する意識はすっかり変わりつつあった。当時の常勤医は、大学闘争・医局解体闘争のなかて「自ら信念に基づいて主体的に大学院・学位をボイコットした世代」、そして大学闘争終了後であっても、医学生運動や反差別運動などに関わった経験を持ち、「大学院・学位をボイコットしている評議会に自ら主体的に参加した世代」、あるいは「批判的視点を持っている世代」が多くを占めていた。しかし80年代後半になると.研修医・非常勤医の多くは、他科入局の同級生の多くがあたりまえのように大学院・学位というコースを辿っており、年々問題意識は希薄となっていた。つまり、評ぷ会に参加することは、「大学院・学位のボイコットを強いられた世代」となるこヒを意味していた。この構造の象徴的な出来事として、91年秋の大学院試験の栢山を秘密裏に出した非常勤医がいたことがあげられる。この事態に対して、評議会ヒは.「医局解体闘争を継承する組織」あるいは「医局講座制を否定し、教育・診療・{lll究を自立的に運営する組織」であるとか、評議会運動とは、「臨床の重視」「研究至r主義の否定」「医局講座制の否定」「反教授会」であるという理念では、当時の研修医・非常勤医全体を本当の意味では説得しきれるはずはないと感じた。
 二つには、文部省の大学院大学構想がスタートし、91年東大法学部、92年京大法学部と東大理学部が大学院大学となり、間もなく京大医学部も大学院大学となることは確実な情勢となった。大学院・学位をボイコットしたままでは・評議会のなかに大きな矛盾と亀裂を抱え込むことになると感じた。
 三つには、91年から92年にかけて、いくつかの総合病院精神科部長の後任を巡って、評議会の常勤医であることから躊躇されたという面もあったかもしれないか・それぞれの病院長からは学位あるいは留学経験のある者という条件めいた要当かあったらしい。将来の総合病院の部長等の人事に懸念を抱かざるを得なくなった。<95<
 四つには、当時、私は日本精神神経学会の卒後教育問題委員会(実質的には学会認定医あるいは専門医の導入の是非が、平行線を辿りながら長年延々と討論された)の委員であり、いくつかの大学を見学し、指導医ばかりでなく研修医とそれぞれ別個に討論する機会があった。そして、他の大学の事後研修大学院についても知ることができた。そこで、評議会の「教育・診療・研究」がこのままで良い、何とかなるだろうなどというような、楽観的な考えを続けることは到底できなくなっていた。
 これらのことから、これ以上大学院・学位の問題を先送りすることはできない、方向転換をして踏み切るしかないと考えるようになった。そして議論が始まってからは、再開の方向で発言した。しかし、すでに10年以上も前のことであり、大学院・学位の再開を最初に提起した者が誰であったのか、あるいは『大学院大学化を巡る情勢』や『大学院再開にあたって』などの節目節目のまとめになる文章の主な執筆者は誰であったのかなどは、すでに、記憶の彼方となってしまった。ただ、評議会内部では激論とならず、淡々とした議論がなされた。そして、約250人の評議会出身者に葉書で意見を求めたが11通の返事しかなかった(92年12月16日付けの拡大評議会会報No.7)ことには、失望感を抱かざるを得なかったことも記憶している。
 今から振り返ってみれば、大学院再開とは、理念においては医局解体闘争を継承する組織であった評議会から、理念においても現実的にも、他大学の精神科医局に比して、より「民主的な運営」であり、より「臨床を重視」する評議会へと大きく舵を切った節目であったのは間違いないように思う。」(京都府立洛南病院)(pp95−6)(全文)

◆扇谷 明(昭和47年率) 20031225 「評議会時代最後の助教授として」,京都大学精神医学教室編[2003:97-98]

 「精神科助教授として赴任しましたのは、平成3年11月です。当時木村教授が赴任して以来、未だ助教授が不在でした。木村教授から私の勤めていました国立療在所宇多野病院に「大学に戻ってくるよう」電話で催促がありましたが、当時私は宇多野病院の医長として頑張っていましたので、どうしてわざわざ火中の栗を拾わねばならないのかと渋っていました。木村教授はしびれを切らしたのか宇多野の院長のところに挨拶に来られ、院長命令で私は大学に戻ることになりました。このあたりは、後に誤解され、私が宇多野病院を見捨てたといわれましたが、決して本意ではなかったことをお断りします。
 大学に戻りますと、助教授という管理職でありながら、評議会員であるという矛盾をかかえ、ここはおとなしく静観しようと思っていましたが、早速洗礼を受け.平成4年には評議会議長を務め、教授と評議会員の間をとりもつことになりました。当時の木村教授はそれまでの評議会との激しい確執に疲れたのか、正面きっての、評議会との対立を避けられ、表面上は教授と評議会は仲良くやっているという感じでした。病棟運営は評議会に任され、入院患者の治療方針は評議会の話し合いで決めるということで、非常に民主的で、患者本位の治療が熱心に行われ、なかなか評議会もよいものだと思ったりしていました。ところが、いざ助手の選考で、評議会の中でもめるとなるとなかなか決着がつかず、議論が深夜に及ぶこともあり、消耗しました。評議会は一人一票制でよいのですが、重要な案件を誰かが責任をもって引き受けなければならないときには弱点がでます。
 こういう評議会のなかでも、京大精神科から研究が少なく、また博士号も出ないので、このままでは他の大学に負けてしまうという危機感がでてきました。議論のなかで、評議会独自の規約でもって、博士号、大学院を認めようということになりました。博士号の内容は臨床研究で倫理上問題がないもので、大学院の人学資倍は大学以外の精神科で少なくとも1年以上勤務経験があって、3年以上の精神科臨床経験があるものとされ、また研究内容は臨床研究に限るとされました。まず私が博士号を応募し、木村教授、評議会の後押しもあって、評議会公認(?)第1号の博士号を取得しました。
 間もなく木村教授が退官され、教授選が始まりましたが、約半年後には三好教授が次期教授になることが決まりました。三好教授は4年間の任期ということもあり、教室の改革にはあまり熱心ではありませんでしたが、学会活動に力を入れられ、新たに日本神経精神医学会を創設されました。
 大学院には2人が応募することになり、評議会の面接も受かり、優秀な成紬て大学院試験を合格され、実に約30年ぶりに大学院生が誕生しました。研究は臨床開先に絞られることにしましたので、そのテーマを見つけることに大変苦労しましたが、大学院生と一緒に研究について議論することは、私にとっては無上の喜びであり、教授会と評議会との確執を忘れる時間をもてました。京大教育学部の実験心理の大学院生との共同研究もできる体制がとれ、新しい研究が進んで行き、2人とも立派な英文論文を仕上げ、博十号を取得しました。その他、私の在任期間に3人の先生が博士号を取得され、京大精神科の臨床研究而での評価が高まってきたように思われま<97<した。
 三好教授が無事退官された後、教授選考に入りましたが、次の教授はなかなか決まらず、林教授の正式着任まで2年半かかりました。こういう長い教授不在の時期に私が教室の責任をもたねばならず、また自ら教授に立候補していましたので、非常につらい立場に立たされました。当時の評議会は実質名前のみで、大学院、博士号も認められているのに、それでも教授会の評議会アレルギーは根強いもので、教授選考委員会との面接では、いかに評議会をつぶすのかとの質問がなされ、閉口しました。林教授が赴任され、まず評議会の名称を変えることに腐心されたのも、現在の京大教授会の意向から考えれば納得されます。私は林教授が着任され、事務的申し送りをし、開業しました。開業は自分のことだけを考えておればいいので、大学と違ってストレスはほとんどありません。
 京大精神科100年の伝統は、臨床面で患者を良く診たうえでさらに研究するということであり、それは現在にまでなお受け継がれています。教室がますます発展して行くものと確信しています。」(pp97−8)

高木 俊介(昭和58年率) 20031225 「京大精神科評議会の10年に思う――新体制へと積み残された課題」,京都大学精神医学教室編[2003:102-103]

 「私は1992年から2002年まで、丸10年京大精神科に在任していた。その間半分以上は、人事担当と病棟医長という役目で過ごしている。そういう位置にいたためであろう、私に京大精神科評議会について書くようにというのが依頼の趣旨であったが、それだけの紙数もなければ、なにより私がその任ではない。かといって百年記念にあたっての祝辞・世辞のたぐいにも興味がない。私的な感想となることをご容赦願いたい。
 なんといっても京大に在籍していた10年は、木立の緑もまぶしい素晴らしい環境で、鴨川の流れを眼前に眺めながら過ごすことのできたよい思い出である。しかし、その流れのように、時代の流れもまたとどめようもなく、その中にあって成しえたことは少ない。
 私がいた間の大学病院の大きな変化は三つある。一つは大学院大学の設置により大学院を再開したこと。二つ目は、独立行政法人化と医師研修義務化を控えて精神科教室全体としての対応を迫られていること。最後に、私が辞める直前のことであるが、教授を交えた人事委員会が設置されたことである。
 最初のふたつは大学組織全体の上からの動きであり、評議会と教室全体がひとつのものとして対処していくことになった。一方、宇都宮病院事件から精神保健法の成立の頃を境として、評議会運動の内実が大学内の医局講座制解体闘争から大学の外の精神科医療改革の実践へと変わってきたために、運動体としての評議会が大学にあることの必然性は薄れていった。人事委員会の設置は、教授からの人事権の奪取を軸としていた大学内での評議会運動の実質的な終焉を意味した。
 往々にして誤解されてきたことだが、評議会は大学院に象徴される研究機能を否定してきたわけではなく、医局講座制に支配されて医療現場から遊離していた研究至上主義を批判してきたのである。大学院大学となった大学医局に求められている研究は、一個入の思いつきや臨床の片手間の時間でできるものではないだろう。旧来京大精神科の特色として賞揚されてきた一匹オオカミ的気風は、大学の枠に縛られない学会や研究グループが大学の外に数多く育っている現在、大学院大学にとっては足枷にすぎない。大学院大学としての存在意義を教室員に示すような意義のある研究を生むには、そのための組織づくりから始めなくてはならないだろう。今後、大学の研究テーマをどのような方向に見定めて、どのような研究チームをつくっていくのか、外から見守りたい。
 独立行政法人化と研修の義務化という、大学にとっては未曾有の大変化にどう対応していくのかということも.新体制にとっての大きな課題である。私は個人的には国立大学の独立行政法人化には疑問を持っているが、こと病院についてはよい刺激になるのではないかと思っている。病棟医長会議やリスク・マネジメント会議で見聞きした危機感のなさや朝令暮改、システムの硬直と無駄など、あきれることが多かったが、それらは独法化により嫌でも改善を強いられることになるだろう。しかし、採算性のない精神科にとっては臨床部門の縮小を強いられるような危機的状<102<況となる可能性が大きい。ここに対する目配りと今後の戦略は、新体制の中に乏しいように私には思えるが、杞憂であろうか。
 研修の義務化は人事問題とあわせて考えられなければならないが、今後大学医局が若手医師に対するコントロールを失っていくことは確かである。よい方向に変われば、これまでのいわゆる関連病院が臨床研修病院として独自の力をつけていき、博士号なども純粋に研究職にのみ必要なものにすぎないという本来のあるべき姿に戻るであろう。このような好ましい方向に変わるためには、各病院が研修システムをきちんとあつらえて人事面での独立を果たし、今回新しくできた人事会議で人学と対等に話せるようになることである。
 大学病院には臨床・研究・教育の三本柱があると言われてきた。しかし、その三つを平等に引き受けてこなすことはそもそも無理なことであるというのが、10年間大学でそれなりに力を尽くした私の感想である。そろそろ医局講座制も自ら削るところを覚悟して、医療全体の中で分にあった場に落ち着かなくてはならない時代になっていると思う。京大精神科とそこを通過した精神科医が、新しい流れの中で精神科医療・精神医学の新たな姿の範を示すものとなることを願う。」(pp102−3)

◆林 拓二 20031225 「精神科評議会と私の30年」,京都大学精神医学教室編[2003:111-113]

「精神科評議会が大学院を認め、学位を認めたとき、評議会は実質的に終焉したといえよう[…]この時点で、精神科評議会はその存在を自ら否定し、求心力を失った。」(林[2003:112])

■言及

◆立岩 真也 2011/05/01 「社会派の行き先・7――連載 66」,『現代思想』39-7(2011-5):- 資料
◆立岩 真也 2011/06/01 「社会派の行き先・8――連載 67」,『現代思想』39-8(2011-6):- 資料
◆立岩 真也 2013/12/10  『造反有理――精神医療現代史へ』 ,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.
『造反有理――精神医療現代史へ』表紙
 第2章 造反:挿話と補遺
  6 京大評議会


*作成:三野 宏治
UP:20101220 REV:20110208, 0210, 0414, 0516, 0730, 20140221
精神医学医療批判/反精神医学  ◇精神障害/精神医療  ◇身体×世界:関連書籍 2000-2004  ◇BOOK
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