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第3の流れは、昭和30年(1955)村上仁教授のご着任により、京大精神科が戦後の新しい精神医学を諸領域で展開させ、わが国の指導的立場を確立していったことと関係がある。児童精神医学はそのひとつの例である。高木隆郎(昭28卒)は村上教授から児童相談や自閉症など子供の精神医学がアメリカで発展している、やってみないかと示唆される。教室関係では当時大阪市大(のち神戸大学教授)の黒丸正四郎先生(昭14卒)が戦後いち早く「精神衛生の理論と実際」(黎明書房,1949)を出版しておられ、とくに教育界では高名だった。」(p34)
「03年3月、松本先生が洛南病院を退職された。昨年は評議会が凍結された。思い起こせば長い年月が流れたものである。懐かしさと苦々しさの混じりあった奇妙な感覚なしには、まだ私には当時のことを思い起こすことができない。全共闘運動、京大精神科医局解体、評議会結成、精神科医師共闘会議の運動の渦まくなかで、70年卒の私は、現教授の林拓二君と一緒に、大阪、泉南の地にある古くからの京大関連病院であった七山病院に赴任した。京大闘争のため卒業が半年遅れ、その秋からすぐに赴いたのである。何の研修もなく、今から考えれば随分乱暴な話である。
七山病院では、故山崎光夫先生が50年代の後半から、702床もある大病院の開放化をもう既に進めておられ、当時で年間予算・千万円を越える様々な作業体系を持っていた。このような病院において、厳しく教えてくださる山崎先生のもとで精神科医としてスタート出来たことは、林君と私にとっては幸運なことであったし、その後の2人の臨床を重視する立場の礎を造ることができたと言えよう。
七山病院を拠点とし、私の精神医療改革運動は、ゆっくり精神医学を学ぶ時間もないまま忙殺を極め、地域医療、精神医療改革運動、患者・家族会運動の拠点としての田原診療所設立へと上り詰めていく。この運動には、当時の大阪の精神医療の現実を変えるために、多くの大学からの若手精神科医が参加し、それは大きな成果をもたらしたと言えるが、その成果と推移については別の拙書に譲ろう。かように運動に浸り込む一方で、目の前の分裂病患者をどう理解してよいか分からないi枚に私のこころはあせり、分裂病の精神病理、精神療法関連の文献を一人で読む一・方で、読書会を求めていた。それに応えていただけたのが加藤清先生との研究会であり、松本先生の読書会であった。
松本先生の読書会は週一回、水曜日に行われ、私が参加し出したのは多分72年か73年ではないかと思う。当時もう既に読書会は、先輩である浅見莇先生、田原明夫先生達で行われていた。この読書会では、これまでに反精神医学のRD.レインなどを読んできたとのことであった。当時私はどうも過激だけの人と見られていたようで、参加したいと言ったらいささかびっくりされたのを覚えている。読書会は、H.S.サリバンのschizophrenia as a human processやフロム、ライヒマン、ウインなどの分裂病の精神療法、家族論に関するものが中心であった。松本先生が外国文献からコピーしてくださった論文も多数読んだよう記憶している。論文の内容はもちろんのこと、論文に現れた問題につき実際の事例をとおして話し合われ、時には事例の方が討論の議題になったりすることは、かけだしの精神科医である私にとってまことに興味深いものであった。この水曜日は、後に受け始める水曜日のユング派の教育分析と合わせて、日常の喧嘩を忘れさせる貴重な一日であった。
当時の私たちにとって反精神医学から引きずる、医師としての存在論的根拠性は絶えず議論の中心にあったし、大阪の田原診療所では境界性心性の人たちを巡って、運動のなかでそれが直接問われていた。病者としてレッテルを貼られ排除されていく患者のルサンチマンに医師としてどう応えるのか、差別された人たちの解放に医師はどう関わるのかと問われ、精神科医としての専門性との問で、田原先生と私は当事者として大海の中の小舟のように揺れていた。かくなる現実に巻き込まれる<93<我々2人にとって、松本先生と他のメンバーの客観的立場からの暖かい視点の提供はしばしこころの休まるひとときであった。
月日を重ね、田原診療所は何者かに襲われ閉鎖を余儀なくされた。悲しい出来事であった。この失意の日々の時、H.サールズのCOUNTERTRANSFERENCE AND RELATED SUBJECTSを翻訳しようと提案してくださったのが松本先生である。ここには、「献身的医師(the dedicated doctor)」を初めとして、すべてではないにしても我々が陥った問題の数々が整理されていた。この翻訳作業の途中で私はユング研究所に留学することになるのであるが、この本は松本、田原、横山のまとめと他のメンバーの積極的な関与で『逆転移1、2、3』として出版される運びとなった。私の留学には、山崎先生の功績を無に帰す七山病院の経営陣の変化で京大関係者がすべて引き上げるという事態も関与していた。一一人の医師が解雇されるという熾烈な闘いの中でも、この読書会の存在は大きな支えであった。かようにこの読書会は私の精神科医としての歩みとともにあり、私はここから言い尽くせないものを得ていて感謝するばかりである。ただ同じく大阪から参加していた漆原良和君が、02年秋早逝されたことが悔やまれてならない。彼の静かなる永眠と松本先生の末長い御健勝を祈って終わりとしたい。(甲南大学文学部人間科学科・教授)」(pp93−4)