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『帝国の視線』

松田京子 20031101 吉川弘文館 225p.


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 製作:宇野善幸(立命館大学大学院先端総合学術研究科

■松田京子 20031101 『帝国の視線』,吉川弘文館, 225p. 6300 ISBN-10: 4642037578 ISBN-13: 978-4642037570 [amazon][kinokuniya]

■内容(「BOOK」データベースより)
1903年に開催された第5回内国勧業博覧会。「文化」と政治が絡み合った国民国家形成期、植民地パビリオン台湾館などの「異文化」展示が果たした役割と は。帝国意識とナショナル・アイデンティティの問題を考察する。

内容(「MARC」データベースより)
1903年、第5回内国勧業博覧会が大阪で開催された。「文化」と政治が絡み合った国民国家形成期に、「異文化」展示が果たした役割とは? 世紀転換期の日本「帝国」の特質の一断面を照射する。

■著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
松田 京子
1967年三重県に生まれる。1996年大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。現在、愛知教育大学教育学部助教授(本データはこの書籍が刊 行された当時に掲載されていたものです)

■目次

序章 問題の所在
第1章 博覧会という「場」―第五回内国勧業博覧会と大阪
第2章 植民地パビリオン台湾館
第3章 調査・収集という「知」―台湾旧慣調査と伊能嘉矩
第4章 パビリオン学術人類館
第5章 人類学と「展示」―人類学者・坪井正五郎の思想
終章 総括と展望

■引用・整理

序章 問題の所在
第一節 問題設定

1 
 十九世紀から二十世紀にかけての世紀転換期―「帝国の時代」と呼ばれるこの時期は、世界資本主義経済システムに世界の大部分の地域が組み込まれ、そのな かで、一握りの帝国主義諸国が、地球の表面積の約四分の一にあたる諸地域を、植民地として分配もしくは再分配し、支配者として君臨した時期であった。そし て十九世紀中葉に後発の位置から国民国家形成を開始した日本もまた、急速な中央集権国家体制の確立と、「富国強兵」政策の推進を背景とした国民国家体制の 整備を一応果たし、そのうえで、近代国家としての初の本格的な対外戦争・日清戦争を決定的な契機として、この世紀転換期に、周辺のアジア諸国に対する膨張 主義を特徴とした「帝国」として立ち現われたといえるだろう。
 近年の国民国家論の興隆のなかで、「想像の政治共同体」としての「国民」形成の動態解明が、一つの大きな研究主題として焦点化し、その進展のなかで、私 たちはさまざまな知見を得てきた。その一つが、「文化」という思考そのものが、「国民」形成という政治的な動態のなかで「活力」を得てきたものであり、そ の意味で「国民文化」という思考と相即不離の関係性を取り結ぶものであるということだ。


▲「文化」を表象することの政治性
 「文化」を表象することの政治性―いまや論じ尽された観さえあるこの問題を、本書では改めて問い直してみたい。
 問い直しの戦略として、本書では、世紀転換期という時代性と、その時期に出現した第五回内国勧業博覧会という具体的な「場」にこだわるという方法をと る。つまり、「文化」表象の政治性を、限定された社会的コンテクストとの関連で論じぬくという方法を採用したい。このような戦略を採用する理由は、文化を 表象することとその政治性が、どのような関係を取り結ぶかは、それぞれの社会的コンテクストのなかで決定されるものであり、この関係のあり方こそを問うべ きだと考えるからである。そして同時に、文化表象の政治性と社会的コンテクストの取り結ぶ関係性から、世紀末転換期の日本「帝国」の特質の一断面が照射で きるのではないかと考えるからでもある。

2-3
 本書は十九世紀から二十世紀への世紀転換期における「文化」表象の問題を、具体的には一九〇三年に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会という「場」に そくして考察していく。その際、とくに「異文化」表象の問題を、展示という表象技法との関連で論じる。ここでは、何が表象すべき「異文化」として浮かび上 がるのか、「自文化」と「異文化」の線引きはどのように行われるのか、そしてそこに働く政治性と思考のあり方はどのようなものなのかが問われることにな る。このことは、「われわれ」と「他者」の境界線はどのように引かれたのか、つまり「他者」が破壊性を秘めた理解不能な存在から、「われわれ」の知的枠組 で理解可能な形に制御された、「われわれ」を移し出す「鏡」の「他者」として、いかに構成されていくのかを問うことになる。そしてこのような「他者」表象 に、きわめて近代的な表象技法である展示という技法が、どのような「威力」を発揮するのかを検討することは、博覧会という「場」を取り上げる重要なポイン トでもある。このような観点から、世紀転換期に「日本国民」として収斂していくようなナショナル・アイデンティティの問題を、その鏡としての「他者」像の あり方と、それを支える「知」のあり方を通して考察すること、これが本書の主題である。

第二節 方法的立場
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 周知のように、権力を直接的な政治権力に限定する狭義の権力論に異議を唱え、生活のさまざまな場面で発揮される「微細な権力」に着目し、それら諸権力の 編成原理のあり方こそを、その時代の支配の様式として取り出したミッシェル・フーコーの議論を大きな起爆剤として、政治性への問いは狭義の「政治史」の枠 組から解放され、より広い問題構成のなかに置き直されたといえるだろう。そのなかでも、「微細な権力」を構成し、さらにそれを「科学性」の名のもとで権威 化していく学知に関し、批判的な視点から問い直しが行われてきた。このような文脈のなかで、学知による表象の権力性への問いが、問題として主題化されてき たといえるだろう。その問いは、表象の妥当性に対する問いとして展開する一方で、表象主体のあり方を問うものとして深められてきた。
 「誰」に「文化」を語る権利はあるのか―この問いをめぐる議論は、先述してきたようなフーコー以降のポスト・モダニズム思潮の流れのなかで蓄積されてき たと同時に、それまで表象の「客体」として一方的に描写されてきた社会的マイノリティの人々の異議申し立てという、実践的な活動との緊張関係のなかで深化 してきたものであるといえる。




▲「文化」
 その重要性を踏まえたうえで、確認しておく必要があるのは、次の点である。「文化」表象の「主体」の変更は、別の意味での「文化」表象の政治性を、つね に孕み続けるという問題だ。「異文化」の表象が、オリエンタリズムに収斂されていく危険性を孕むとすれば、他方で「自文化」の表象は、排他的なナショナリ ズムもしくはネイティヴィズムに収斂されていく危険性を同時に孕むからである。さらに、「自文化」表象においてもまた、表象主体の特権性は構造的に維持さ れ続ける。すなわち周蕾が指摘するように、つねに「真正ネイティヴ」を創造してはいくが、「無関心な目で見つめ、あざ笑」うネイティヴが存在し続ける構図 から抜けきれるものではない。

5
 そこでまずは、なんらかの集団性をこめた「文化」の表象という場面においては、それが「異文化」であれ「自文化」であれ、その場その場に働く政治性があ るという認識から出発し、その政治性を具体的な社会的コンテクストとの緊張関係のなかで解きほぐす作業が必要なのではないかと考える。

7-8
 以上、「日本的オリエンタリズム」をめぐる研究は、活字の形で表象されたテクストの分析から、「他者」を構成し規定する知的枠組を抽出するといった方向 で深まりをみせているといえるだろう。このような成果に多くを学びながらも、本書は学者や思想家、官僚、ジャーナリストなどが活字のなかで展開した知的枠 組のみを問題とするという方法はとらない。そのような知的枠組が、どのような形で可視化され具体的な様相をもって実践されるのか、そしてその実践が逆に自 らを生み出した知的枠組に何をもたらすのかという、知的枠組と実践がせめぎあう場面を取り上げたい。つまり言説と実践のあいだに存在する関係が最重要なも のと考える立場で、世紀末転換期における「他者」表象のあり方を論じたいと思う。
 そのような場面を取り上げる意図は次の通りである。つまりサイードの議論にもどれば、「『オリエント』なる独特の存在が問題となる場合にはいつでも、不 可避的にそこに照準が合わせられる(したがってまた常にそれに組み込まれることとなる)関心の網の目(ネツトワーク)の総体」として、広範な人々の意識、 もしくは発想のあり方を捉えていく、その次元を問う必要性があると考えるのである。


第三節 先行研究の検討と本書の構成

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 日本における博覧会の研究は、そのアプローチの方法によって大きく四つの研究動向に分けられよう。一つめは、吉田光邦の論考に代表されるような、技術史 の観点から博覧会を捉えようとする動向である。一九八〇年代以降、精力的に展開された吉田を代表とするこのグループの研究によって、博覧会研究は本格的に 始まったといってよいだろう。二つめは、清川雪彦の研究に代表されるように、おもに経済史の観点から展開された研究動向で、日本の産業発展に果たした博覧 会の役割を問うというものである。三つめの動向は、日本への博覧会の導入、および博覧会の性格の変化を、博覧会行政に携わった政策決定者層の意図から解明 しようとする、政治史からのアプローチである。四つめは、吉見俊哉の刺激的な著書『博覧会の政治学―まなざしの近代―』でとられた社会史的なアプローチで ある。吉見はその著書において、博覧会の歴史を「博覧会に集まってきた人々の社会的経験の歴史として捉え返す」という視覚を提示し、博覧会を「その本質に おいてきわめて政治的でもあれば、イデオロギー的でもある文化の戦略的な場」であるとする。そのうえで、「同時代のどのような大衆意識を、いかなる言説と 空間のシステムにおいて動員し、帝国の幻想のなかに、またその帝国が可能にする商品世界の幻想のなかに、構造的に組み込んでいったのか」を問おうとしてい る。

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本書は、吉見が口火を切った四つめの研究動向の流れに与するものであり、吉見の論考には本書をまとめるに際し、大きな示唆を受けた。しかしながら吉見の研 究は、十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、博覧会を支えた思考様式を「近代」の問題として抽出することに主題がおかれており、そのため欧米で行われた 万国博覧会と日本での博覧会を支えた思考様式が、いかに共通の枠組を持ったかに論述の大半は費やされている。共時的に存在した知的枠組を抽出するという点 では、吉見の論考は傑出しておりその点で学ぶことも多かったが、その共通性に目を向けるあまり、それぞれの博覧会での展示が、それを支える知的枠組とどの ような緊張関係を持ったかについては、ほとんど考察の対象とされていない。博覧会を「文化の戦略的な場」として捉えるかぎり、どのような戦略が具体的にど のように発揮されるのかを問うことが、博覧会の歴史をそこに来場した人々の「社会的経験の歴史として捉えかえる」うえで、やはり必要な作業なのではないだ ろうか。



第一章 博覧会という「場」―第五回内国勧業博覧会と大阪―
はじめに

第一節 経済博覧会から「帝国」の博覧会へ―第五回内国勧業博覧会の特徴

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 一九〇三年三月一日から七月三十一日までの計一五三日間。五回目の内国勧業博覧会は、現在の大阪・天王寺公園一帯で開催された。そもそも内国勧業博覧会 とは、一八七七年に内務卿大久保利通の提唱によって、東京・上野で第一回が開催されて以来の歴史を持つ博覧会である。しかし博覧会を行うという思考が、こ のとき、突如として東京に出現したわけではない。十九世紀後半は、欧米を中心とした世界的な博覧会ブーム、それも万国博覧会ブームの時代であった。
→第二回(東京上野、一八八一年)、第三回(東京上野、一八九〇年)、第四回(京都、一八九五年)

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 では、このような内国勧業博覧会は、基本的にどのような性格を持つものであっただろうか。この博覧会は、殖産興業政策の一環として存在した、まさに経済 博覧会であった。そして、その経済的な意義の中心は、博覧会の観覧者および出品者相互間に、技術知識・情報を普及促進させる点にあったという。さらに経済 博覧会であったからこそ、後発の位置から世界資本主義経済システムに参入した日本は、自力による産業振興、外国品遮断による国内産業保護を達成するため に、万国博覧会ではなく「内国」という限定をつけた形で博覧会を開催することになる。それは欧米列強とのあいだに存在する不平等条約、とくに治外法権の存 在と、それへの対抗としての外国人の内地旅行(=内地通商)の拒否という点に連関する限定でもあった。そして、このような内国博の性格は、第四回まで一貫 していたといってよいだろう。

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 しかし第五回は、上記のような内国勧業博覧会の基本的な路線とは、様相を異にするものとして出現した。冒頭に掲げた史料が端的に語っているように、日清 戦争での勝利、一八九九年の治外法権撤廃といった出来事に伴う日本の国際的な地位の上昇という自負心を背景として、第五回内国博は、国家の威信を内外に知 らしめる博覧会、「国光国華を発揮する」博覧会として認識されていたのである。事実、第五回では初めて外国の出品を認め、日本の産業発展状況との比較対象 となり得るような、大規模な外国製品の展示を内に抱え込んだ。またその点と関連して、「今回の博覧会に於ても能く其成立の所以と目的を説明して、広く列国 に示さば、左なきだに東洋の漫遊は近来欧米人の流行とて、日本の博覧会を観るために態態(わざわざ)東洋旅行を思ひ立つものも少からざる可し」と、欧米各 地および清国、朝鮮といった周辺アジア諸国からの観光客の誘致が本格的に企図された、まさに「帝国」の博覧会だったのである。

第二節 第五回内国勧業博覧会と「貧民街」移転問題
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 従来、大阪という都市空間の近代史を振り返る際、第五回内国勧業博覧会は「大阪の工業技術の発達や商業活動のうえに寄与し、特に交通上に大きな貢献を果 たした」博覧会として、もしくは「南部大阪は旧博覧会敷地跡を中心として益々発展するに至」るその基盤を提起した博覧会として語られてきた。本論では、こ れまで大阪の都市史のなかで、インフラストラクチャーの整備および南部開発の起爆剤という位置づけが与えられてきた第五回内国博の開催という出来事を、博 覧会開催決定と同時に持ち上がった「貧民街」移転問題という視座から考察することを通じて、改めて、「帝国」の博覧会の開催が世紀末転換期の大阪という都 市空間にどのような影響を与えたのかを捉え直してみたい。その際、「影響」の考察は、インフラストラクチャーの整備や地域開発がどの程度達成されたのかと いった実態論的なレベルにとどまらず、大阪という都市空間をどのように再編していこうと思考されたのかという認識論的なレベルにも踏み込んで、論じていき たいと思う。

1開催地決定の経緯

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当該地の開催決定に至るまでには、二段階の紆余曲折があった。
 まず第一に、第五回内国博の開催をめぐっては当初、東京、大阪、仙台、名古屋などの諸都市が名乗りをあげていた。そこで博覧会の経済的効果を期待した大 阪財界は一八九九年、商業会議所が中心となり会頭土居通夫を会長とする誘致期成同盟会を結成し、約三〇〇〇人の署名による嘆願書を準備・提出するなど、積 極的な誘致運動を展開したのである。

2 道路拡張問題と「貧民街」
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 しかし、この計画は一筋縄ではいかなかった。道路拡張の対象となった地域の家主等によって、反対運動が展開されたのである。この動きは管見の限りでは、 一九〇一年十月に、日本橋筋をはじめ道路拡張計画の対象となった戎橋筋、松屋町筋周辺の家主等が、嘆願書を提出したことを最初とする。その後、反対運動は 一時下火となるが、道路拡張計画がかなり具体性を帯びはじめ、また地元新聞各紙が道路拡張を公然と支持する記事を掲載しはじめた一九〇二年三月に、再燃す ることとなった。

3「貧民街」排除の論理
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「貧民街」の描写は「唯此辺に住する人間の種類が、上流乃至中流と行ぬばかりに時として眉を顰めたり、目を掩ふたりする醜状の演ぜらるゝ憾があるので、わ れわれは単に日本橋筋と聞たゞけで既に一種不快の感を起す」という記述からはじまる。まず日本橋筋周辺に住む住民は、その行為からして深いで「われわれ」 と相容れないもの、つまり「われわれ」とは異なる存在であるという認識を前提として、「貧民」「貧民街」の記述が開始されるのである。では具体的な描写で は、どのような項目に力点が置かれることで、「われわれ」とは異なる存在として、「貧民」「貧民街」は描き出されていくのであろうか。

25
「われわれ」の感覚からして、彼らは「異様の臭気を放つ」存在であり、また彼らの行為も「われわれ」の衛生観念からみれば、「不潔」である。だから、彼ら の住む「貧民街」も「われわれ」の居住環境と比較して「不潔」である、という点を強調して描写が行われていることがわかる。つまり「われわれ」の衛生観念 を持ち出し、それを共有していないこと、「不潔さ」を強調することによって、「われわれ」と「貧民」を弁別して描き出すことが可能になっているのである。

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 つまり「貧民」「貧民街」はおもに、いかに「不潔」であるか、そしてとくに犯罪との関連でいかに「反秩序的」であるか、という二点を軸に差異化が行わ れ、描き出されているといえる。そして新聞・雑誌上における「貧民街」取り壊し支持の論調も、基本的にはこのような「貧民街」に対する表彰と同様の表象を 行いつつ、展開していったのである。

26
「不潔」であり「反秩序的」であるという点を軸として弁別される「貧民」「貧民街」は、その異質性により、存在自体が「われわれ」の居住する市および国家 の「体面」を汚す。それ故に、「貧民」「貧民街」を排除すべきである、という論理展開がここには見てとれる。そしてその異質性が「別種族」という形で言い 表され、「われわれ」との線引きが行われている点に注意しておきたい。ここでいわれる「種族」とは、本書の第二章以下において考察の中心的対象となる、人 類学的構成概念としての「人種」や「種族」とは、異なるカテゴリーである。つまり公衆衛生観念の共有を核としつつ、身体所作や生活状態といった日常生活の 細部にわたる諸価値を判断基準として構成される異質性、いわば「微細な権力」の不均衡な配分によって構成される異質性が、ここでは「別種族」として言い表 され、その存在が「国家の面目」に関わる問題として強調されているのである。

第三節 伝染病と博覧会

1 急性伝染病と「貧民街」


UP:20070805
「社会的排除」 ◇貧困 ◇
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