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『「不自由」論――「何でも自己決定」の限界』

仲正 昌樹 200309 筑摩書房,ちくま新書432,215p. ISBN:4-480-06132-0 735
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■仲正 昌樹 200309 『「不自由」論――「何でも自己決定」の限界』,筑摩書房,ちくま新書432,215p. ISBN:4-480-06132-0 735 [amazon][bk1]

■内容説明[bk1]

今さら、「主体性の神話」に戻ることはできないが、かといって全くの無秩序の中で「動物的」に生きていくこともできそうにない。近代的な「自由な主体」の「限界」を振り返りながら、ポスト・モダン状況の中で、“とりあえず”どういう態度を取ったらいいのか考えていこうというのが、本書の主題である。

■引用

プロローグ

第1章 「人間は自由だ」という虚構

現代思想における「人間」20
よき人間と悪しき人間24
アウシュヴィッツ後の「人間」29
「文明」と「野蛮」33
※「人間性=人類」の理想の姿を最終的に実現しようとする営みはナチスのようになる危険性を指摘したテオドール・アドルノ(1903−1969)について
※アドルノのわかりにくさ
「アドルノは、それ(「野蛮な暴力」の連鎖35)と同じようなメカニズムで、文明化に伴って暴力が増大していく、と考える。「野蛮な暴力」を封じて「文明化」しようとする努力が、野蛮な暴力をさらに上回る「もっと野蛮な暴力」を生み出し、さらに、そのようにして派生した「もっと野蛮な暴力」をも封じようとする努力から、「もっともっと野蛮な暴力」・・・と、「野蛮な暴力」は次第にエスカレートしながら連鎖していく。それこそが、文明化されればされるほど、文明を背後から支える野蛮な暴力を上昇させていく、「啓蒙の弁証法」なのである。」35

アウシュヴィッツと「人間性」の限界点38
「近代ヨーロッパの野蛮=文明の象徴ともいうべき「アウシュヴィッツ」という出来事については、様々な哲学的な考察が試みられてきたが、その中で最も影響力があったのは、アドルノと同様にユダヤ系ドイツ人であり、ナチスの政権掌握にともなってアメリカに亡命した政治哲学者ハンナ・アーレント(1906−1975)のそれであろう。」38

「こうした「同一性」の論理が、"自然と"圧倒的に強くなった体制においては、人々は独自の判断を止めて、自発的に、つまり自らの"自由意志"に基づいて、「全体」の目的に「同調」するようになる。自分の利益を自分の責任で孤独に追求するよりも、(自分をその一部として包んでくれる)「全体」の利益に合わせた方が楽である。このように、「個人の自由」と「体制への同調」が ―少なくとも形のうえでは― 両立するという意味で、「全体主義」は通常の独裁体制とは異なるわけである。」40

「アイヒマンの分析を通して、アーレントが到達した「悪」の本質とは、日常的な「陳腐さ」の中で、自分で考える能力を喪失していくことである。組織の中でルーティン的に決まったことをやるだけで、他者に対して自分の意見を表明し、自らの個性を際立たせることを怠っていれば、人は次第に「人間らしさ」、つまり他者への外的影響から自由な思考を働かせられなくなる。そうなると、大いなる「全体」へと同化する全体主義の罠に陥りやすくなる。いったん「全体」と同化してしまえば、自分(たち)以外の存在に対する関心がなくなり、彼らが死のうと生きようと、どうでもよくなってしまう。人間的な自由な思考を奪って、動物の群れのような本能的で野蛮な集団行動へと駆り立てる傾向こそが、「悪」なのである。」41−42

「・・・アーレントは、デカルト―カント以来、近代思想の大前提になってきた「人間性=自由に考える」能力の普遍性・生得性に疑問を感じた。彼女は、アウシュヴィッツ以降も、依然としてそうした「人間性」を自明の理であるかのごとく見なしている"ヒューマニスト"に対して警告を発したのである。「人間性」とは作られたものなのである。」43

「人間性」の条件43
「西欧的な「人間性」の限界についてのアーレントの考えが、最も体系的に展開されている著作が、「人間の条件Human Condition」(1958)である。」43

「・・・アーレントは我々の「人間性」が、古代ギリシアの「ポリス」という極めて限定的な環境の中で生じてきたと主張している。「人間性」とは、人類が誕生した時から自然にあったものではなく、人為的に作り出されたものである。」43

「アーレントは、「人間性」を構成する要因として、(1)「労働labor」(2)「仕事work」(3)「活動action」―の三つを挙げている。・・・・・・(3)の「活動」は、「ポリス」という特殊な空間の中で初めて可能になった。この「活動」こそが、最も「人間らしい」営みである。/・・・・・・アーレントの言う「活動」は・・・物理的な暴力ではなく、言論や説得によって「他者」に対して働きかける能力である。」44

「アーレントは、「言語」を媒介とした「活動」によって、「人」と「人」の「間の空間」が、実体的及び比喩的な意味で生まれてきたと考える。まず、「言語」を使えば、相互に何らかの形で働きかける際に、直接的に相手に接触して物理的刺激をやり取りする必要性が減少する。加えて、「他者」を、「自分」の一部とか延長としてではなく、異なった思考をしている別の人格と認めるようになる。これは、乳幼児が言語を習得するにつれて自/他の区別を知り、「他者」は自分の思い通りにはならないということを学習するのと重ね合わせてイメージすれば分かりやすいだろう。相手を「他者」と認めた瞬間から、自分の考えに対して他者の賛同を得るべく、言語活動によって説得することが、人生において極めて重要な意味を持つようになるのである。」45

※ポリスの中心のアゴラ(広場)→「活動」の場
※「公的領域」→「活動」により意見表明する場、ポリスの共通の関心
 「私的領域」→生物学的な生活上の必要性のニーズが満たされる場46-47

無理に拡張された「人間性」48
「つまり筆者の解釈では、アーレントが言いたかったのは、「古代ギリシアのポリスが人間性に溢れていてすばらしかった」ということではなくて、「我々(=西洋人及びその文明的影響下にある人間)は、古代のポリスによって生み出された人間性に規定され続けている」ということである。」49

「アーレントに言わせれば、近代における「人間性」概念の適用範囲の拡大は、むしろ「ポリス」的な人間性の条件の解体につながった。全員が「人間」として「公的領域」の光の中に出てきて発言するようになった結果、この領域を影から支えてきた「私的領域」の本来の機能が低下し衰退していった、というのである。」50

「アーレントは、そのように、もともと「私的領域」に属していたはずの物質的諸要素の混入によって「利害」からの「自由」を確保できなくなった"公的領域"を、「社会的領域Social Realm」と呼んでいる。」52

「とどのつまり、資本主義であれ共産主義であれ、「経済」的利害が人々の中心的関心事である限り、我々は「人間」になり切れないのである。」52

「複数性」の破壊53
※集団が一人の人間のように、説得を伴わず、暴力支配のモードに入る。
「「プロレタリアート」としての普遍的な人間性を志向するマルクス主義は、一般的には、ナチズムやファシズムと対立するものと考えられている。しかしアーレントは、「階級的利害」という共通項によって、労働者たちを「一つ」の意志を持った「体」であるかのごとく集団行動へと誘導する点で、マルクス主義はナチズムと同類であると見なしている。」53

「国民的利害であれ、階級的利害であれ、人々が互いに意見交換する「以前」に、全員が進むべきゴールを設定したうえで、そこに出来るだけ多く動員しようとするような"政治"は言語的コミュニケーションを核とする「人間性」の弱体化に通じる。」54
「アーレントは、ポリスでの「活動」を通じて生じてきた「人間性」の最大の特性は「多元性plurality」であるとしている。」54

弱者「解放」論の危険57
「日本語で「自由」と訳される英語には、<freedom>と<liberty>の二種類がある。アーレントは、近代市民革命における「自由」を論じた著作『革命について』(1963)の中で、この二つを概念的に区別し、前者を、古代ギリシアのポリスのような「言論活動」の空間を創設しようとするものとして積極的に評価しているのに対し、後者は、物質的な欠乏状態からの"自由"、つまり「解放liberation」の次元に留まるものとして限定的な評価しか与えていない。」58

「本音」の非人間性61
※「気持ちがいい」だけでない本音について
「アーレントはまさにそれを問題にしているわけである。各人が他者と共存するために被っている「仮面」を剥いでいけば、直視するに耐えないものがどんどん出てくる。我々の"人間性"は落ちるところまで落ちていく。否、どこまで落ちていくか分からないと言うべきだろう。限度を知らない「本音トーク」には、我々がようやく身につけた「仮面=ペルソナ」を破壊して、無限の野蛮さを到来させてしまう危険がある。」63

「「本音を語ることが人間的」だ、という安易な発想は、公的な演技を通して生まれてくるアーレント的な意味での「人間性」を衰退させ、アイヒマンのように陳腐で、自分では考えないで安易な方向に流れる"人間"を作り出すだけである。必死になって不自然な「仮面」を被り続けようとしているからこそ、「人」と「人」の「間」に多様性が生まれ、「人間らしい」活動が可能になるのである。」64−65

西欧的「人間」の終焉とは?65
※普遍的な「人間」の枠に当てはまらないマイノリティーの存在を強調する諸潮流→「これらの潮流は、人間本性の普遍的な「同一性」を前提とする近代思想のアンチという意味で、「差異のポリティクス」と呼ばれることがある。」65

第2章 こうして人間は作られた

 人間的コミュニケーションの習得70 ※ユルゲン・ハーバマス
「「コミュニケーション」とは、もともと立場の異なる「他者」同士が、互いに競い合いながら「意見」交換し、「合意=真理」に至るプロセスである。当然、でたらめにだらだらしゃべっているだけでは、共有できるような「真理」に到達するはずはない。」71

 コミュニケーションの「普遍性」と「特殊性」73 ※「普遍」的だ→ハーバマス 「特殊」的だ→アーレント
ハーバマス→「ハーバマスは、近代市民社会において経済活動の担い手として台頭してきた「市民」たちの間で発展してきたコミュニケーション形態が(絶対王権に対抗する)「市民的公共圏」を形作り、それが次第に一般化してきたという歴史的分析を、自らのコミュニケーション理論の起点としている。・・・」74→

アーレント→「それに対してアーレントは、既に見たように、人間的なコミュニケーション(=活動)能力を、古代のポリスの特殊な歴史的環境と不可分のものと見なしている。・・・」75
※コミュニケーション=「仮面」

 コミュニケーションの美的側面78 ※ポリスの「人間的な活動」の特性 「レトリック」
「活字やラジオ、テレビ―最近ではインターネット―などの「メディア」に媒介されて「世論」が形成される近代市民社会とは異なって、古代ギリシアの「ポリス」での「言論活動」は、原則的に「市民」全員が同じ空間(広場)に居合わせ、全員の姿が見える範囲内で行われた。「公的領域」というのは、抽象的・理念的に存在するだけでなく、現実に一定の空間・時間を占めていた。」79

 「人間性」の技法82
 「ヒューマニズム」の根源84
「近代人は、「ルネサンスのヒューマニスト」たちが(再)発見した「人間」を、仮面を脱いだ全くなまの野生の人だと考えがちだが、それは、十八世紀以降の「自然人」観のバイアスを通して"人間"をイメージすることが習慣化しているからである。既に見たように、近代人にとっては、理性の働きを知らない「自然人」が理想だった。しかし、ルネサンスのヒューマニストにとっては、「古代」という媒介なしに「人間本性」を表象することは考えられなかった。「ヒューマニズム」とは、「生き生きした古代」のエクリチュールを掘り起こすことを通して、それまで埋没していた「人間性」を生き生きと復活させようとする営みだったのである。」86

 反啓蒙主義的啓蒙主義者としてのルソー87 ※媒介なしの「生の人間」を再発見しようとした、ことについて
※ルソーによる、反省的自己をもつようになった人間の不幸について・・・
「反省的自己意識というのは、「他者」との関係の中で、「自己」自身の存在を意識化するに至った意識の在り方である。・・・・・・つまり無限に「外」に向かって拡張していこうとする自己が「内」へと「反射reflechir」されることで、自己という存在について「反省reflecchir」するようになるわけである。この反省的自己意識が、「理性」の芽生えである。/「理性」が覚醒して「自/他」の区別をするようになった人間は、既に第一章で見たように、「自分のもの」と「他人のもの」を区別し、前者をより増やそうとするようになる。そうやって、周囲の事物に対する「所有=自己固有性propriete」観念が生まれ、それを固定化するために、「社会」が組織化される。「社会」というのは、自己の所有を確保しようとする各人のエゴイズムの産物であり、そのために掟がある。掟を破るのが「悪」である。」88−89
→だから、善悪を知らない赤ちゃんのほうが幸せだ、という論調。

「ルソーは、そうした「自然人」としての無邪気さを抑圧してしまう、押し付け的な社会教育制度を批判し、自然な本性を可能な限り生かす理想的な教育の書として『エミール』(1762)を著わした。」89−90

 契約する自由な自然人90 ※ルソーの、もうひとつ(ひとり)の、「自然人」とは異なる、理想的人間類型について
「ルソーの著作で最も有名なのは、理想的な社会の統合原理を定式化した『社会契約論』(1761)である。タイトルになっている「社会契約」論というのは、周知のように、キリスト教会を通して与えられる神的権威によって王権を根拠付けることが困難になった近代的状況において、「国家」による主権の正当性を新たに創出するために考え出された理論である。そこで大前提になるのが、各人が「自然人」として得ている「自由」を、「国家」による支配と両立させる、という命題である。つまり、「神」を持ち出すことができないので、自立した主体が、強制によってではなく、自発的に、主権の形成に合意するという論理構成が必要になったわけである。」90−91
→ホッブズ、ロック「自然状態」仮説
→ホッブズ:「リヴァイアサン=国家」92

→ルソーはロック、ホッブズ的な「自由」制約論を批判した上で、「ルソーの『社会契約論』は、そうしたホッブズ―ロック的な「自由」制約論を批判したうえで、各人の「自由」の追求を本当の意味で調和させられる「社会」の在り方を理念的に呈示しようとしたものである。」93
「では、自己の「自由」を他者に転移できないのなら、どうやって「契約」を結べばいいのか、ということになる。そこでルソーが提案するのが、「自分自身の自由に関わる基本的な諸権利を、自分自身を受け取り人として譲渡してしまえばいい」という回答である。/・・・「私たち」全員のことである。・・・」94
 →人民主権論、国民主権論と呼ばれる

 近代法を支える「一般意志」96 ※人民主権論を支えるものとして
「そこでルソーが考え出したのが、一つの"人格"としての「我々」の意志である「一般意志」である。・・・。その「一般意志」を具体的に表現したものが「法」である。一般意志を書き留めたものである「法」に従うことは、他人の意志に従うことではなく、自己自身に従うことになるわけである。」96

→「一般意志」は「全体意志」とは異なる。

 「一般意志」の表象不可能性99 ※ルソー「一般意思」のイメージのしにくさ
「しかし、では、どのようにしたら、ある人物が、「個別利害」を超えた中立的な書き手であることが立証できるだろうか?・・・」100

 「教養」小説の両義性105
 スロータダイクの「連鎖書簡」論108 ※エクリチュールの連鎖について
 「人間性」の終焉112

第3章 教育の「自由」の不自由

 「人間性」教育としての「生きる力」論118 ※教育における「主体性」論の問題について
※ルソー的な人間観は強く根付いている「教育」「教育学」における主体性論について
「無論、こうした"主体性"重視論が出てきたことには、それなりの時代的背景がある。偏差値重視の「詰め込み教育」路線の是正が七〇年代からずっと叫ばれてきたにもかかわらず、一向に改善の兆しが見えてこない状況の中で、「教育」の目標を転換することが必要だと認識されていたのは確かである。その際に、「外」側から「知識」を詰め込むという従来のやり方とは反対に、「内」側から生まれてくる「主体性」を重視するという発想が強くなったのは、ある程度、納得できる。しかし問題なのは、「詰め込み」と「主体性」を二項対立的に捉えてしまって、「詰め込み」を減らせば「主体性」が"自然"と浮上してくるかのような前提で、「主体性」教育論を組み立ててしまったことである。」120

「・・・そのように"前提"してしまう前に、そもそも「主体性」とは何なのかを明確に規定しておかねば、「主体性=非詰め込み=放任」という安易な方向に流れてしまうのは、最初から明らかである。・・・「主体性」とは、他から干渉されない、"自由"な状態に置かれていたら、何人の内にも"自然と"生じてくるものなのか、それとも、一定の制度的な枠組みの中での「他者」からの「働きかけ」がない限り形成されないものかをじっくり考える必要があるだろう。」120−121

「既にルソーたちの社会契約論に即して見たように、「主体Subject」になるということは、同時に、特定の公共的秩序「〜に従う〜be subject to」ことを意味する。全くの「無」の中に「主体性」なるものが急に自生的生じてくるわけではなく、一定の文脈(コンテクスト)の中でのみ「主体」が現れてくるというのは、現代思想でかなり常識的になっている議論である。」121

 「ゆとり」から「主体性」は生まれるか?122 ※「ゆとり」教育の「短絡」さについて
 「ゆとり」論が暗黙の前提とする学校127
※ゆとりの「聖域」となってしまっている「学校」、それをはっきり言わない「ゆとり」教育推進者
「自然児」教育の戦略132 ※ルソー「エミール」と日本の学校教育の相容れなさ
国家の側からの「主体性」教育135 ※「自然な主体性」の言説の、どっちにころぶか分からない危うさ
 左の自然主義141  ※「左」的、リベラリズムも「共同体」的
「・・・しかし、たとえ自己決定に基づく「選択」であったとしても、これまで見てきたように、そうした"自己決定"自体が、全くの「無」の中から突如として"自然"発生的に生じてくるものではないことには留意する必要がある。・・・アーレントが論じているように、「政治的自由」にコミットした振る舞いは、生得的なものではなく、公的領域での討議を経て歴史的に形成されてくるものである。」144

 右の自然主義146 
 「自由主義史観」の不自由150
「「ナショナリズムnationalism」は、十九世紀のヨーロッパにおいて、フランス革命の拡大に反発する形で生まれてきた思想である。」150−151
※「自由主義史観」という言い方の二重の矛盾153
 →@自虐史観からの脱却という意味で、日本というネーションに合った文脈で歴史を語るという発想自体が西欧産である。
 →A「愛国心」的なコンテクストへ誘導しようとしている。

 「生きた言葉」を蘇らせる153
※「死んで」いるエクリチュールから「生き生きとした言葉」を引き出そうとする自由主義史観の矛盾
 「自然な人間性」の「技法」化158 ※「自然体」は実はすでに何らかのエクリチュールによる「型」にはまっている

第4章 「気短な人間」はやめよう
 
 主流派としての「リベラリズム」166 ※ジョン・ロールズ「無知のヴェール」
「一九九〇年代までの現代思想の中心点は、明らかにフランスにあった。というより、現代思想とは、フランスのポスト構造主義思想のことだった。今ではそれが明らかに、アメリカにシフトしている。ポスト・コロニアリズムのような、もともと反西欧的な性格のものも含めて、現代思想のメイン・ストリームになっているのはアメリカで活動している人たちである。」166
「そうしたアメリカ思想の最大の本流を形成している―あるいは"形成していた"―のが、ジョン・ロールズ(1921−2002)によって開拓された「リベラリズム」の思想であろう。」166

 挟撃される普遍主義170 ※「リバタリアニズム」と「コミュニタリアニズム」
「「リバタリアニズム」とは、ロールズの「公正としての正義」までも含めて、国家や共同体が再分配を行なうことを可能な限り回避し、個人の自由な活動の余地を最大限に確保することを目指すものである。・・・最も有名は理論化は、「最小限国家」論を定式化したロバート・ノージックである。」170

「これに対して、コミュニタリアニズムの方は、個人の自由の尊重よりも、"個人"を形成する共同体的な諸文脈や歴史的に培われてきた価値に重きを置く立場である「共同体」というフレーズ抜きの「個人の自由」それ自体に意味を認めない立場だと言ってもいい。」170−171
 →マイケル・ウォルツァー、チャールズ・テイラー等

 ポスト普遍主義の問題173 ※「普遍性」を取り払うことによる「境界線」の不明確さ

 「個人」と「共同体」の境界線178 ※社会的アイデンティティーがある限り共同体拘束は受けている
「つまり、どんな少数派の中にも、「少数派のなかの少数派」が必ず存在しており、そういう人たちの中には、無理やり「少数派の共同体」に"入れてもらった"ら、かえって不自由になる場合がある、ということだ。・・・」178-179

「そもそもマイノリティーとしての自覚を周囲から強制されることを嫌がる人もいれば、より細分化された「差異」の表象を求める人もいる。」179

「それでは、そういうミニ「共同体」的なものにつなぎ止めようとするのも止めて、完全に個人本位で考えればいいではないか、とリバタリアンなら主張するだろう。しかし、それで問題が完全に解決するわけではない。」180
 →リバタリアンも「共同体」は認めざるを得ない→森村はそう言っている→井上はそれは国家へつながる、と確か言ってる。

 (重要)アイデンティティーとイマジナリーな領域への権利182 ※コーネルの「イマジナリーな領域への権利」
※「個人」と「共同体」について
「・・・我々の「アイデンティティー」の基盤になっている「共同体的なもの」が様々なレベルで多元的に存在しており、しかもそれらが相互に複雑に重なり合っているので、どうしてもきれいに割り切った形で、社会的「正義」について論じることができないのである。普遍的な視点からすべての人間が共有できる「正義」について語るのを放棄して「共同体」ごとの「正義」に限定して議論しようとしても、今度は"共同体"の範囲確定をめぐる問題が生じてくる。」182

「「自己決定」という場合の"自己"が何なのかが、そもそもはっきりしないのだ。自分では自立しているつもりでも、意識すると否とにかかわらず、いろいろなところで「他者」たちと複雑に共同体的な関係を形成しているので、どういう文脈の中ででの「私」なのかによって、「自己」の性質が異なってくるのである。」182

→「・・・アメリカのフェミニズム系法哲学者ドゥルシラ・コーネル(1950‐)が提案しているのが、「イマジナリーな領域に対する権利(right to the imaginary domain)」というメタ権利概念である。」183

「「イマジナリーな領域」というのはラカン派精神分析において「想像界」と呼ばれるものに対応しており、簡単に言えば、「他者」たちとの相互関係の中で、「他者」たちを「鏡」としながら「自己」が形成されていく領域である。」183
→「鏡」→大人たちの言語、ふるまい、他者たちが帯びている共同体的な要素、特定のジェンダー、言語、エスニシティ

「我々は通常、そうした自己を想像するプロセスは、大人になった時点で既に完結しており、我々のアイデンティティー(自己同一性)は動かしがたくなっていると考えがちである。リベラリズムやリバタリアニズムで「自己決定」という場合に前提になっている「自己」は、通常、そのようにして動かしがたくなっている「自己」を指す。・・・人は強制から"自由"になりさえすれば、その都度「自ら」の自律的な「意志」によって判断することができる、というのが近代的自由主義の大前提である。しかしながら、現実に存在している「我々」は、それまでの共同体的文脈から全く自由に判断することはできない。」184

→例:異性愛者は自分は本当は同性愛者かもしれない気がついたと仮定・・・
「これまで異性愛者として「自己」を同定(identify)してきた人であれば、同性愛者としての"自己"モデルとなる第一次的他者との関係を欠いているはずである。「アイデンティティー」というのは、他者との関係性を通して形成されるのだから、既にある特定のアイデンティティーを有している人間が、それとは相反するような"アイデンティティー"を他者との関係なしに急に形成することはできない。そもそも、そういう自分の姿を「想像」することさえかなり困難なはずである。一人で無理にイメージしようとしても、観念的で現実味のないイメージにしかならないであろう。そうなると、同性愛者としての"新たなアイデンティティー"は不確かなので、なかなか「自己」決定できないことになる。どういうのが本当に「自分らしい」のか分からなくなってしまう。」185
 →国籍、エスニシティー、宗教、あるいは「学校共同体」(学校)、職業共同体、地域共同体・・・
 →通常のリベラリズムは「心」の問題に入りこむべきではない、ということになり、本人の「主体性」に任せられる。「アイデンティティー」どうこうはカウンセリングの領域であり、近代法の領域ではない。

「つまるところ、リベラリズムやリバタリアニズムにおいても、「自己決定」に先立つ"自己"の選択の問題は、結果的に、既存の共同体的文脈に委ねられることになる。どういう「自己」を選ぶかは、当人と、当人を取り巻く様々な共同体的文脈との関係の中で、"自然と"決まってくるのを待つしかないのである。しかし、そうなると、「自己」の在り方について相当な違和感を感じても、(イマジナリーな領域を共に形成している)「他者」の助けがないので、現状を受け入れざるを得なくなるケースが圧倒的に多くなるのは明らかである。」186

 「自己」決定のための「権利」187 
※「イマジナリーな領域への権利」について。自己決定する「自己」の再「自己同一化作用」の、「法」的、「政治」的権利について。
「「イマジナリーな領域への権利」は、「自己決定権」を行使する能力を獲得するための(メタ)権利として理解することができる。つまり、「決定」する主体としての「自己」を"自分"で「決定」することのできる「権利」である。「権利」であるという以上、単に主観的に想定されたものではなく、法的・政治的に客観的な形式を備えたものになっている必要がある。」187

「当然、こうした議論の前提として、「アイデンティティー」というのは、一度形成されてしまったら変えられなくなるものではなく、常に生成しつつあることが想定されている。」188

「コーネルが、これまでリベラリズムにおいて考察の範囲外に置かれていた「心の中の問題」である「イマジナリーな領域」を前面に出すようになった背景には、本人がそれほど望んでいないネガティヴ・アイデンティティーが、いつのまにか"自由"な「自己決定」の基盤になっていたり、「集団的自己主張」の根拠になったりする事態が頻繁に生じているからである。」188
→幼児虐待の体験、女性の人権が必ずしも尊重されていない文化的共同体、

「「イマジナリーな領域」における「自由」な「自己」(再)想像の権利が保護されていない限り、政治や経済の領域における「自由な主体性」に基づく「自己決定」は、本当の意味では成り立ち得ない、というのがコーネルの議論の骨子である。」190
「彼女は、自らの立場を、アイデンティフィケーションについての精神分析的な知見に基づいて、伝統的なカント的リベラリズムに根本的修正を加えたものとして位置付けている。」190

 →どういう「自己」として「自己決定」を行うか

 「自己」決定論と「イマジナリーな領域」191
※(特に医療の分野では)「イマジナリーな領域」の境界線、「自己」の在り方自体をめぐる再想像、の課題。それしなければ「自己」決定はできない。
「こうした議論は、それほどアイデンティティーの危機を感じていない"普通の人"が日常の様々な場面で遭遇する「自己決定」にも当てはまる、と筆者は考えている。」191→※ほとんどの場合、共同体的文脈によって外堀が埋められている。


「無論、生まれてから現在に至るまで、様々な周囲の「他者」を「鏡」としながら「自己」形成(アイデンティフィケーション)してきたので、それらすべての共同体的文脈から全く「自由」に判断するということは不可能である。それを承知であえて"自己決定"というからには、どういう場面での「自己」が問題になっているのか「状況設定」を可能な限り明確にしたうえで、そうした"自己"を拘束している所与の関係性を捉え直す機会が与えられるべきだろう。」192

→※患者の自己決定権、インフォームド・コンセント

「哲学的に見て、よい困難なのは、そもそも「どういう情報を患者に与えるべきか」、「何を説明すべきなのか」はっきり確定できないような場合、言い換えれば、「自己決定」すべき「状況」を明確に設定できないような場合である。」194
「本人の「残りの人生」がどのような様相を呈するか、ということまでは予想し切れない。深刻な病であれば、治療の結果、副作用によって弱ったり身体機能の一部を失ったりして、これまでの自分が抱いてきた人生の「イメージ」が変更を余儀なくされることもある。「自分の人生」だけでなく、周囲の人々の人生のイメージまで、否応なく変化させてしまう可能性もある。」194

「問題なのは、そうした「自己」の在り方をめぐる再想像が必要になっているということが、なかなか意識化されないことである。そのせいもあってか、近年、あたかも医師から客観的な情報さえ与えられれば、既に確定している患者の「自己」によって、主体的な「決定」がなされうるかのような、素朴な「自己決定論」が蔓延している。」195

 自己決定論と効率性195 ※効率性と自己決定の親和性
「「決定」するに先立って、いちいち「自己」を再想像していれば時間はかかる。・・・」195
「専門的な経験の豊富な前者(専門家 −樋澤注)が後者になり代わってその利益を代行する形で決定することを、一般的に「パターナリズム(paternalism:温情的干渉主義)」と言うが、様々な文脈で「説明責任accountability」が声高に叫ばれている現状では、後者に「責任」のほとんどを負わせてしまうことができる「自己責任」(→「自己決定」?)の方が、前者にとっては、パターナリズムよりも"便利"である。」196

「効率性を重視する「新自由主義」の経済思想と、「自己決定」論とは親和性があるのである。」196

「何度も言うようだが、自分がどういう「状況」に置かれているのか分からなければ、なにを自己決定していいいのか自体が、分からないのである。」199

 気短な「主体性」199 ※
「精神分析的な視点からの近代家族史研究家であるエリ・ザレツキーは、「自己決定」を特徴とする近代的「主体性」は、実は西欧人の「気のみじかさshort−temperedness」の現われだ、という面白い指摘をしている。」199
「これは、我々が漠然と「主体性」と呼んでいるものの正体を極めて巧みに言い当てている説明だと言えよう。先に述べたように、「自己」をめぐる諸関係性のネットワークを視野に入れ、「決断」の際の選択肢によって、それらの関係性がどう変化するかシミュレーションしていたら、なかなか「自分だけで」決めるということはできない。むしろ、自分で決められる部分はごく少ないことが分かってくるはずである。」200
「・・・「他者」を「鏡」にしないと、「自己」を最終的に知ることはできないのである。」200

「しかしながら、そうした「自己」を取り巻く関係性についての複雑な思考の流れは、回転効率を重視する資本主義的な生産体制に貫かれている「近代」においては、軽視されがちである。むしろ、邪魔である。」201

「近代的な「主体性」は、そのように気短に短縮された関係性の中で、姿を現してくる。こうした「主体」は、建前上は、他者の影響から"自由"に自己決定する能力があることになっている。しかし、その背景を考えれば、むしろ、「他者との関係性についていちいち考えないで、さっさと"自己決定"するよう」強制されていると言える。・・・我々は、「自由な主体」で有らねばならない、という極めて"不自由"な状態に置かれているのである。」201-202

 非主体的な主体としてのマルチチュード202 ※マルチチュードへの期待
「マイケル・ハートとの共著『<帝国>』で有名になったイタリアの哲学者アントニオ・ネグリ(一九三三−)は、伝統的な「革命主体」としての「プロレタリアート」の代わりに、世界を変えていく運動の担い手候補として「マルチチュードmultitude」を名指ししている。「マルチチュード」というのは、もともと一七世紀のオランダの哲学者スピノザの政治哲学用語で、(神的霊感に導かれて)その場に集まっている雑多な「群集」を指す。」203

「・・・「自己」を取り巻く様々な関係性の中で、ネガティヴな「アイデンティティー」から可能な限り解放された、"新たなる自己"を「再想像」するプロセスがそれほど進展していないのに、表面的に"主体性"だけ変化させようとしてもうまく行かない。別の形での「自己決定」論が出てくるだけである。/今、現代思想に求められているのは、「自由な自己決定」あるいは「非主体的な主体性」への強制からの"自由"について、じっくりと考えることではないだろうか。」206

 「自己」の状況限定207 ※
「ここまで、「自由な主体」になるよう強制されることの"不自由さ"について批判的に論じてきたわけだが、最後に、「"強制から自由にならねばならない"という強制から"自由にならねばならない"」などという結論を強引に持ち出すつもりはないことを確認しておきたい。それだと、結局、これまでの矛盾を反復するだけである。既に示唆したように、自由主義的な「自己決定」論を「全面的」に否定しようとすれば、「負の自己決定論」へと表面的に転換するだけで、肝心なことはほとんど変化しない。」207

「問題なのは、あたかも、共同体的な文脈抜きの「自己決定それ自体」があり得るかのうような言説が一人歩きするなかで、どういう「状況」なのかという規定抜きに"自己決定"がなされうるようになることだ。」207

*作成:樋澤 
UP:20041022 REV: 20151022
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