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『デリダ――脱構築』

高橋 哲哉 20030710 講談社,330p. ISBN: 406274354X 1575 


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■高橋 哲哉 20030710 『デリダ――脱構築』,講談社,330p. ISBN: 406274354X ISBN-13: 978-4062743549 1575 [amazon] ※ b d/p

■出版社/著者からの内容紹介
デリダ(Jacques Derrida 1930‐2004)
フランスの哲学者。仏社会科学高等研究院教授。現象学と構造主義の再検討から出発し、ロゴス中心主義の哲学、文化、社会がそれにとらえきれない「まったき他者」を排除、隠蔽してきたことを指摘。尖鋭で長大な射程をもつ問いかけが大きな反響を呼び起こしている。『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』『弔鐘』『プシケー』『法の力』など著作多数。

脱構築(deconstruction)
形而上学や伝統が、内部/外部、自己/他者、真理/虚偽、善/悪、自然/技術、男/女、西洋/非西洋/などと階層秩序的二項対立を立て、支配的な項の純粋現前を追求することには、そうした思考ではとらえられない「他者」を排除する欲望が潜(ひそ)んでおり、脱構築的思考はその欲望を暴き出そうとする。しかし脱構築とは否定に終始するニヒリズムではなく、他者を他者として受け入れ、その呼びかけに応(こた)え、決して現前しない「正義」の到来を志向する。それは哲学、芸術から政治、倫理、法、宗教などあらゆる営為をとらえ直す、ラディカルな「肯定」の運動である。

■内容(「BOOK」データベースより)
形而上学や伝統が、内部/外部、自己/他者、真理/虚偽、善/悪、自然/技術、男/女、西洋/非西洋などと階層秩序的二項対立を立て、支配的な項の純粋現前を追求することには、そうした思考ではとらえられない「他者」を排除する欲望が潜んでおり、脱構築的思考はその欲望を暴き出そうとする。しかし脱構築とは否定に終始するニヒリズムではなく、他者を他者として受け入れ、その呼びかけに応え、決して現前しない「正義」の到来を志向する。それは哲学、芸術から政治、倫理、法、宗教などあらゆる営為をとらえ直す、ラディカルな「肯定」の運動である。

■内容(「MARC」データベースより)
他者排除の欲望を暴き他者に応える思想とは…。ロゴス中心主義の哲学が他者を排除してきた歴史を指摘したデリダは脱構築の問いかけでどのように思想的反響を呼び起こしたか。98年刊「現代思想の冒険者たち 28」の新装版。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
高橋 哲哉
1956年生まれ。東京大学教養学部教養学科フランス科卒。同大学院哲学専攻博士課程単位取得。専攻は哲学。現在、東京大学教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

まえがき
第1章 砂漠のなかの砂漠
 1 アルジェリアのユダヤ人
 2 パリからパリへ
 3 脱構築の時代
第2章 形而上学とは何か
 1 テクストとしてのプラトン
 2 エクリチュールの神話
 3 パルマコンの戯れ
第3章 言語・暴力・反復
 1 原エクリチュールの暴力
 2 反復と散種
 3 署名・テクスト・約束
第4章 法・暴力・正義
 1 脱構築の二つの焦点
 2 法の力
 3 アポリアとしての正義
第5章 メシア的なものと責任の思考
 1 アブラハムと責任のパラドクス
 2 幽霊のポリティクス
 3 メシアニズムなきメシア的なもの
デリダ略年表
主要著作ダイジェスト
キーワード解説
読書案内
あとがき
索引


■引用(原文の傍点は下線に変更)
「あらゆる法は脱構築可能である。法の脱構築可能性が脱構築を可能にするのだから、脱構築とは法の脱構築以外のなにものでもない。
 デリダはあらゆる価値の破壊者だ、脱構築はニヒリズムだと信じてきた人ならば、ここで「わが意を得たり」と思うかもしれない。「それみたことか。デリダはあらゆる法を破壊し、正義の可能性を否定しようとしている」と。ところが、事態はまったく逆なのである。脱構築はニヒリズムではない、それは「肯定」の思想だ、というデリダの主張がもっとも明確な形をとるのは、まさにこの地点においてなのだ。
 あらゆる法が脱構築可能なのは、正義が脱構築不可能だからである。「もしも正義それ自体というようなものが、法の外あるいは法のかなたに存在するとしたら、それは脱構築することはできない」。正義は脱構築不可能なものである。脱構築が起こるのは、脱構築不可能な正義がある仕方で――現前としての存在とは別の仕方で――「存在」するからである。すべてが脱構築可能なのではない。脱構築不可能なものが「ある」からこそ、脱構築は生じる。脱構築とは脱構築不可能なものの肯定である。つまり、正義の肯定なのである」(p.201)

「だれもが知っているように、法はつねにおのれが正しいこと、正義であることを主張する。だがデリダにとって、法が正義と完全に一致することはけっしてない。なぜか? たったいま見たように、どんな法も法であるかぎり創設の原暴力を含んでいる。また、法の維持は創設の原暴力の反復を含んでいる。原暴力とはすなわち、決定不可能なものの決定であり、(主体の、現前の、ロゴスの普遍性の)他者との関係の抹消である。法と正義がけっして一致しないのは、正義の核心にまさにその他者との関係があるからにほかならない。法は必然的に一般的形式的であり、特殊者をその適用対象として包摂するが、正義はつねに特異な者、単独者(singularité)に、他者としての他者、「まったき他者」にかかわっている。脱構築が正義の肯定だというのは、それが「まったき他者」の肯定だということ以外のなにものでもない。他者の呼びかけへの応答としてのみ脱構築ははじまる。他者との関係こそが脱構築不可能なのである」(p.202)

「あらゆる契約に先立つ〈他者への関係〉としての正義という思想は、当然、レヴィナスの思想を想起させる。デリダ自身、レヴィナスの主著『全体性と無限』(一九六一)から「《他人》(Autrui)に対する関係――すなわち正義」という表現を引用し、彼の正義の観念が「ある地点」まではレヴィナスのそれに近いことを認める。ただ、他方では両者の微妙な異同も無視することはできないだろう。レヴィナスでは、特異な他者との関係は正義よりもむしろまず「倫理」として考えられ、正義は第三者との関係を考慮する計算、理性、法=権利に対応させられる傾向が強いのに対し、デリダでは反対に、法=権利が一般性、規則性、合理性、計算可能性に対応し、正義はそれを超えた特異な他者との関係を強調するものになっている。また、レヴィナスの場合、正義はまさに〈他人〉への関係であり、他なる人間への関係に限定されるのに対し、デリダはその人間中心主義――人間以外の生物に対する供犠(くぎ、サクリファイス)の構造――を問題にする、等々」(p.203)

「正義は、法創設の暴力が排除し、抑圧し、沈黙させた特異な他者たちへの関係である。あらゆる法=権利(droit)の脱構築は、法=権利を創設し維持する力が忘却させた特異な他者たちを想起する、脱構築不可能な正義の名において生ずる。法=権利は正義のために、正義に向かって脱構築されるのである。
 このことは、法=権利は正義の対立物ではないということでもある。法=権利は不正な暴力以外のなにものでもなく、正義と二項対立の関係にある、というのではない。法=権利が正義に向かって脱構築されるのは、法=権利が正義にかかわるところをもつからである。「法=権利は正義の名において行使されることを求め、正義はといえば、施行される(力を与えられる[enforce])べき法=権利のうちに定着されることを要求する」。なぜなら、まず第一に、特異な他者への関係である正義は、現実世界204>>205では「法の力」がなければまったく無力である。正義なき法=権利は盲目であるが、法=権利なき正義は空虚なのだ。第二に、もしある人が正義の名においてある特定の他者にだけ関係し、それ以外の他者を無視するとしたら、あるいは、彼または彼女がいっさいの規則や原則を無視し、そのつどただ恣意的・即興的に行為するだけとしたら、かえって極端な不正が招き寄せられる恐れがある。法=権利の一般性、規則性も、正義にとっては必要である」(pp.204-205)

「「贈与」の問題とはなにか? デリダはこれを次のようなアポリアとして呈示する。ある人(A)があるもの(B)を別のある人(C)に贈与する。ところが、これが真の意味での「贈与」であって「交換」でないためには、贈り手と受け手のあいだに相互性があってはならず、したがって、受け手からの返礼や反対給付、また受け手の側での負債の発生などがあってはならない。そうしたものがあるやいなや、「贈与」はじつは「交換」であった、ということになってしまうからである。しかもこのことは、贈与や反対給付、負債やその返済が物質的レベルで起ころうと、象徴的ないし精神的レベルで起ころうと、本質的にはまったく変わらない。(A)が(B)を(C)に贈ったとき、(C)が(A)に感謝しなければならないとしたら、(C)は精神的負債を負ったのだし、(A)が(C)に感謝されて満足するとしたら、(A)は精神的な反対給付を受けたのである。(中略)厳密にいえば、(A)であれ(C)であれ、ただ(B)を贈与として意識しただけで、同じような効果が生じてしまう。
 したがって、贈与のアポリアとはこうである。「究極的には、贈与としての贈与は贈与として現われないのでなければならない――贈与する者にも、贈与される者にも」(『時間を与える』第一章)。贈与があるためには、それは贈与として現前してはならないのであり、贈り手も受け手もそれを贈与として意識したり、記憶したり、認知=承認したりしてはならないのである(デリダによれば、これは「無意識の負債」など無意識レベルでも変わらない)。別のいいかたをすれば、贈与は贈与として現われたとたんに贈与ではなくなってしまう。もし贈与があるとしても、それが現前(présenter)することは絶対にないし、現実存在(exister)することは絶対にない。贈与は贈与として現われるやいなや交換になり、投資と回収のエコノミーのうちに巻きこまれ、贈与としては廃棄されてしまうのである。こうして、デリダによれば、贈与は不可能なもの(l'impossible)である、ということになる。贈与の可能性の条件はその不可能性の条件である。贈与はアポリア、パラドクス、ダブル・バインドの経験としてしか考え225>>226ることができないのだ」(pp.225-226)

■言及・紹介


作成:野崎泰伸
UP:20080213 REV:
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