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『レイアウトの法則――アートとアフォーダンス』

佐々木 正人 20030725 春秋社, 245p.

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last update:20171131

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■佐々木 正人 20030725 『レイアウトの法則――アートとアフォーダンス』, 春秋社, 245p. ISBN-10: 4393360281 ISBN-13: 978-4393360286 2,300+ [amazon] [kinokuniya]

■内容

(amazonより引用)
 新聞や雑誌のページを割り付けたり、洋裁の型紙を割り付けたりすること。レイアウトとは通常そのような行為を意味するデザイン用語とみなされている。だがその射程には、芸術や表現行為全般が含まれているのではないか、その根底には、人間の知覚・感覚の本質とも共鳴する何かが潜んでいるのではないか? 本書は「レイアウトとは何か」というささやかにして大胆な問いから出発し、多彩なアプローチによってその核心へと迫っていくことを意図して書かれた書物である。
 この独創的な問題提起を可能としたのが、サブタイトルや帯でうたわれているアフォーダンスという視点の導入である。本来これはJ.J.ギブソンが発案した「協調としての行為が関連する環境の性質」を意味する生態心理学の概念なのだが、日本におけるこの分野の第一人者として知られる著者は、人やモノの表面の「肌理」へと注目することによって、今までの研究蓄積をレイアウト概念の再考察へと生かすことに成功した。絵画、写真、建築、組み版、相撲、リハビリテーション、ダンスなど取材の対象は多岐にわたるが、著者はこれらの事例を「光」「余白」「力」などの切り口から注意深く観察し、それらにうかがわれるレイアウトの本質が「肌理の性質を持った周囲」にあることを説得力豊かに論証していく。D・A・ノーマンの『誰のためのデザイン?』にみられるように、アフォーダンスと表現の関係というと従来は狭義のデザインに限定されていた観があるのだが、本書の問題提起はその裾野を大きく広げ、芸術全般を本格的な考察の対象とする可能性を開いたに違いない。
 ところで、対話者の1人として本文中にも登場する鈴木一誌が手がけたブックデザインについてもひと言触れておくべきだろうか? 本書を一読した後、通常どおりの意味でも十分美しく読みやすいそのレイアウトの違った側面に目が止まるようなら、しめたものという気もする。(暮沢剛巳)

■春秋社のHP

 http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-36028-6/

■目次



1 レイアウトの法則
    「レイアウト宣言――自然のデザイン原理」

2 光のレイアウト
    「正確に言えば光は見ることができない――絵画とジェームズ・ギブソンの視覚論」
    「光の経験――デッサン派対色彩派」 【鼎談】松浦寿夫・高島直之(司会)
    「包まれる[アムビエント]――写真と視覚」  【対談】畠山直哉

3 余白のレイアウト
    「小屋の力、街の愉しみ」  【対談】塚本由晴
    「ページとフォーマットの劇場」  【対談】鈴木一誌

4 力のレイアウト
    「相撲と無知」
    「リハビリテーション――制御・入れ子・協調のデザイン」
    「生へといたる消滅――ウイリアム・フォーサイスの動き」

結 レイアウトのレイアウト
    「肌理[キメ]と粒[ツブ]」

■引用

 肌理は肌理になだらかに変移する。周囲に肌理を発見した男は、肌理と肌理が包摂するこの関係を「入れ子」と表現した。私たちを取り囲んでいる肌理は、こ のように次から次へと現れる新しいレベルの肌理を埋め込んでいる。移動するといま見えている肌理から分岐する肌理が現われる。だから肌理を見るということ で、周囲がどこまでも途切れていないということを知ることになる。
 本書がレイアウトとよぶのは、この肌理の性質を持つ周囲のことである。周囲にはレイアウトがある。レイアウトは他に例のない仕方で世界を繋げている。私 たちはレイアウトを知ることで、世界の「全体」を知ることになる。(p.10)

 ギブソンは、このレイアウトという周囲のレベルが、環境に埋め込まれた意味のありかを動物に知らせ、絶えることのない興味を彼らに与え続けていると考え た。彼は環境にある意味をアフォーダンスとよんだが、動物はレイアウトにアフォーダンスを知覚する。ギブソンが構想した生態心理学は、レイアウトに中心的 役割を与えている。(p.11)

「「触る」ことは、周囲にある多数の固さの集合に、多数の堅さが作る身体の集合がレイアウトされることである。大規模な固さの勾配を差し入れることである。それは比と比の出会いであり、レイアウトの知覚である。」(「レイアウト宣言」p29)

「この変形が複合する変形をわたしたちは出来事とよんでいる。わたしたちは出来事に意味を知覚する。出来事とは複合するレイアウトの変形のことであり、意味はたいがいは二つ以上の変形の比に知覚される。周囲には出来事があり、それが動物を知覚している。」
「視覚を拒否する、これが20世紀の絵画が抱え込んでしまった困難の一つである。ジェームス・ギブソンの絵画理論も「視覚」を否定することから開始された。……彼が到達した結論は「絵画は見るものだ」という当たり前の肯定であった。ギブソンは視覚についての数十年に及ぶ思考の果てに「絵画は視覚を基礎にしている」という主張にだとりついた。…絵画と視覚の関係についての常識を肯定するためには、わたしたちにとって、もう一つの常識である網膜像に始まる視覚理論を全面的に否定する必要があった。」(「正確にいえば光は見ることができない」p45)

「像の理論の中心にあったのは、反射という光の性質であり、反射した光線が眼球などの結像装置を通過して、光線の交差点で像を結ぶという、結像仮説である。伝統的な視覚理論ではこのように成立する像こそが視覚の基礎であるとしてきた。像理論の成果の一つが、「三次元」世界から投射する光線を平面に投影し、世界の見えを「忠実に」再構成する方法とされた遠近法である。…しかし遠近法には大きな問題があった。遠近法が描く像は静止している。遠近法とは、画布の前で静止する画家の視線と、作品の前で静止する鑑賞者の視線を同一平面状で再び結びつける方法である。遠近法で書かれた画面は、対象だけではなく、それを描いたものと見るものの静止した位置を正確に特定している。…しかし、原理的にはこのような制限を持つにもかかわらず、実際に遠近法で描かれた絵はどの位置から見てもわたしたちに意味をもたらす。遠近法で描かれた絵は、遠近法の限界を超えている。」(「正確にいえば光は見ることができない」p46)

「彼はまず、それまでの生理学や物理光学が好んで分析してきた光線という「要素刺激」からではなく、物理的な性質を持ちつつも単一の「要素」やその集合には還元できない 刺激の「次元」のようなことによって知覚が可能になるのだと考えた。」(「正確に言えば光は見ることができない」p46)

「「光線の束」とは単一の光線ではなく、対象全体がもたらす光線の構造のことである。それは環境の表面にある放射要素の明るさとしきそうに対応する光線からできる束である。」(「正確に言えば光は見ることができない」p46)

「環境の表面にはどこでも粒が密集してあり、密な肌理を作り上げているが、その粒に光が投射すると、粒の光源側とそれ以外の方向に反射の差ができる。この差が集合することで網膜に投影する光に「肌理の勾配」ができる。それは隣合う光線群の作る一つのパターンである。」(「正確にいえば光は見ることができない」p47)

「視覚が、環境の表面からの光の投射がもたらすエネルギーの絶対値のようなものを利用しているのではなく、環境表面のレイアウトがもたらす光の「隣合いの構造」とよべるようなものを利用しているということである。視覚が光線ではなく「光の束」を利用しているのだとしても、「束」は点描画家が描こうとしたことのように、対象の肌理から来る光線を、網膜上に点の集合としてプロットしたようなものではない。肌理のパターンというレベルが重要である。「点」や「線」の集合ではなく、それらが集合して現れてくるマクロなレベルに意味がある。…50年代後期に、ギブソンは視覚の問題を「光線」と「像」から、「光の構造」と「表面性」に転換した。」(「正確にいえば光は見ることができない」p49−50)

「放射光は刺激であるにすぎないが、包囲光には周囲の表面のレイアウトという「情報」が内在している……見ることは光線のエネルギーを網膜の細胞で受容し、それを脳のどこかに伝送して「結像」し、それを「解釈する」ことではない。見ることは媒質中にいて、そこにある光の構造に持続して接触し、構造の詳細に気づくことができるようになうことである。視覚のために光にある情報は、脳で構成されなくとも、環境の中にある。」

「寝ている猫を移動しながら見る。あるいは移動する猫を座ったまま見るときに、わたしたちが見ているのは猫の変形である。猫の形は刻々と変化し、そしてそこにいるその「 猫の不変」が見える。変わらない一匹の猫が、変形下に潜んでいる。」

「もし絵がわたしたちの視覚に感動を与えるとして、それをもたらしているのは、画面の中に、わたしたちの多くが知らない特別な情報があるからであろう。」

「未来派のように、いくつもの静止した身体を並べることで、あたかも動いているだろうと示すのは、絵を描いている人の視覚の断片をその絵を見ている人に強いるようなものですね。それは過去の複数の瞬間の羅列にすぎない。見ているものの同時性の感覚とは関係ないことですよね。」(「光の経験」(発言者佐々木)p74)

「「光」は相互に関連付けなきゃならない多くを埋め込んでいる。光だけではなく、それは接触感だってそうですね。…知覚はある種の内的な関係付けが多数の情報間に成立していないと、分裂するはずです。」(「光の経験」(発言者佐々木)p74)

「佐々木:普通の視覚の根拠は包囲光であって、重要なのはタイムレスだと。要するに無時間のアウェアネスだというわけです。どういうことかというと、固定した視点などないということなんです。それに対して、写真はそうではなくて、フローズンタイムだという。つまり、単一の固定した視点で時間が凍結している、そういうしてんだと、ギブソンは言う。…表現の話を環境の視覚音に持ち込んではいけない、というのがギブソンの一貫した主張だった。
畠山:写真は止まっているから時間がある、という言い方をするんですね。普通は、静止しているから時間がないというのに、全く逆に捉えている。」(「包まれる」p90)

「佐々木:アフォーダンスとは行為だけが知っていて、それがあるおかげで行為というある種のまとまりが動きに生ずるそういう周囲のことです。動きが何かを実現するということ、つまり行為をするということは、動きにある組織が生じて、それが変化し、段々発達してものに接近する組織になっていくことです。…アフォーダンスはそういう物を中心にして公共性を導く言葉です。…寿司の話もたいがいは「腹で握る」とか、職人の身体の側で語るわけです。どこでも俗流の主観の「現象学」ばやりなのです。物の凄さが職人の身体の凄さにすり替えられてしまう。それは全くの間違いではない。けれどもアフォーダンスというのは、物の側、行為の外にある周囲を意識することで異質なコミュニケーションをドライブする可能性を示しているのです。」(「小屋の力、街の愉しみ」p115)

「サーフェスにはそこを意味にしている生態学的法則がある。」(「小屋の力、街の愉しみ」p116)

「自分が今どうしても扱わないといけない物が目の前にあって、そのもの時代が何をみることができるのか、何を捕まえることができるのかが問われているんです。今日、僕が定着とか観察とかいっていたのは、すべてそういう意味なんです」(「小屋の力、街の愉しみ」p152)

「どんな運動も単体の動きだと思ってはいけません。指の動きについて知りたい人は、一本の指だけ見ては駄目です。他の指と一緒に見る。呼吸について知りたい人は、呼吸だけではなく、呼吸と他の身体の動き、例えば発話との関係を見る必要があります。例えば「食べる」という行為を観察したい人は、食物を噛み砕く「咀嚼」の動きと、飲み込む「嚥下」の動きと、それから「呼吸」の動きと最低三つは見る必要があります。」(「リハビリテーション」P211)

「ある運動にともなう呼吸を習得するとき、それだけを練習しようなど思ってはいけないのです。息を運動群に埋め込んでしまえばいい。そうしたら、自然に、呼吸はある秩序の中に位置する。運動のシステムにおいては自由度を解放することで、自由度を制約する秩序が生まれてくるのです。非決定イコール秩序だということです。自由度が大きいということは何かがきまらないことです。その非決定をそのままにしておくことが決定を生む。 そういう矛盾が動物運動の原理なのです。」(「リハビリテーション」p213)

「感覚ー運動がリンクする所に周囲への意識が生ずる。そこに心が現れるということです。・・・心理学に必要なのは、複数の運動と物だけなのです。それだけでサイコロジーは成立するはずなのです。」(「リハビリテーション」p215)

■書評・紹介

■言及



UP:20080212 作成:篠木 涼 REV:20080731(近藤 宏), 20171131(焦 岩)
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