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『痴呆を生きるということ』

小澤 勲 20030718 岩波新書,223p.

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last update:20141118
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小澤 勲 20030718 『痴呆を生きるということ』,岩波新書新赤0847,223p. ISBN:4-00-430847-X 777 [amazon][kinokuniya][kinokuniya] ※+ a06.

■内容

*編集者による広告(全文)

 「いま、全国で要介護認定者のうち「何らかの介護・支援を必要とする痴呆高齢者」は149万人存在すると言われ、また、在宅の要介護認定者210万人の うち、3人に1人は痴呆の影響がある、と言われています(2003年6月26日・厚生労働省調べ)。
 痴呆のお年寄りを介護する家族の方にとって、物理的な大変さはもちろんのこと、心理的な負担も大きな問題でしょう。とくに「もの盗られ妄想」と言われる 典型的な痴呆の症状は、日頃もっとも世話になっている家族に攻撃の矛先がいくので、家族にとっては大きな精神的ストレスになる問題です。
 本書では、20年以上痴呆老人のケア・治療に携わってきた著者が、これまでほとんど問題にされてこなかった痴呆老人の精神病理に光をあて、このような妄 想や徘徊がどうして生じるのか、どのような心の働きからきているのかを分析します。
 痴呆のお年寄りの心の世界を理解することによって、周囲の家族・介護者はどのような行動をとればいいかがわかり、症状も軽くすることができます。本書 は、いわゆるハウ・ツーものではありませんが、痴呆のお年寄りを介護する家族の方の精神的負担を軽くするのに、少しでもお役に立つことができれば、と願っ ております。(新書編集部 中西沢子)」

■目次

はじめに
第一章 痴呆を病む、痴呆を生きる
 1.病としての痴呆
 2.生き方としての痴呆
第二章 痴呆を生きる姿
 1.痴呆はどのような経過をたどるのか
 2.私小説にみる痴呆老人の世界――耕治人を読む
  (1)『天井から降る哀しい音』――初期痴呆の世界
  (2)『どんなご縁で』――中期痴呆の世界
  (3)『そうかもしれない』――重度痴呆の世界
第三章 痴呆を生きるこころのありか
 1.痴呆老人からみた世界
 2.初期痴呆――未来への不安
 3.中期痴呆――過去への執着
 4.重度痴呆――今・ここに
第四章 痴呆を生きる不自由
 1.アルツハイマー病者の著作から
 2.痴呆を抱えて暮らす困難
 3.妄想の成り立ち
第五章 痴呆のケア
 1.前提と基本視点
 2.周辺症状のケア――もの盗られ妄想を例に
 3.個別ケアを超えて
終章 生命の海
おわりに

■引用

◆ひとことで痴呆と片づけられがちだが、その症状はきわめて多彩である。そこで痴呆という病を得た人にはだれにでも現れる中核症状と、人によって現れ方がまったく異なる周辺症状とに分けるのが痴呆学の習わしである…。/前者には記憶障害、見当識障害、判断の障害、思考障害、言葉や数のような抽象的能力の障害などがあげられる。後者には、自分が置いたところを忘れて「盗まれた」と言いつのるもの盗られ妄想、配偶者が浮気していると思いこむ嫉妬妄想などのような幻覚妄想状態、不眠、抑うつ、不安、焦燥などの精神症状から、徘徊、弄便(便いじり)、収集癖、攻撃性といった行動障害まで、さまざまな症状をあげることができる。/…中核症状は脳障害から直接的に生み出される。一方、周辺症状は中核症状に心理的、状況因的あるいは身体的要因が加わって二次的に生成される。/言い換えれば、周辺症状とは、痴呆を病み、中核症状がもたらす不自由を抱えて、暮らしのなかで困惑し、行きつ戻りつしながらたどり着いた結果であると考えることができる。…/このように考えると、中核症状の成り立ちは脳障害から医学的な言葉で説明するしかないが、周辺症状を理解するには、痴呆という病を生きる一人ひとりの生き方や生きてきた道、あるいは現在の暮らしぶりが透けて見えるような見方が必要になる。[2003:6-8]

◆しかし、問題は忘れることだけにあるのではない。自分が忘れやすくなっているということまで忘れてしまう。だから結果的に他人のせいにするということも起こってくる。…痴呆の兆候の一つなのである。[2003:28]

◆痴呆を病む人たちは、一つ一つのエピソードは記憶に残っていないらしいのに、そのエピソードにまつわる感情は蓄積されていくように思える。叱責され続けると、そのこと自体は忘れているようでも、自分がどのような立場にあるのか、どのように周囲に扱われているのか、という漠然とした感覚は確実に彼らのものになる。[2003:32]

◆繰り返されるつまずきにまつわる感情が蓄積されてゆき、彼らはどこか自分の意のままにことが運ばないという不如意の感覚(気分といったほうがよいかもしれない)にさいなまれるようになる。つまずきの指摘にも一見、恬淡とした態度をとり、周囲を焦燥に巻きこみ、激しい叱責を招き寄せた彼らは、突然、言うのである。「自分がなくなっていく」「今が消える」「暗い穴に引きこまれるみたい」「早くお迎えが来てほしい」、あるいはもっと漠然と「何となく調子が悪い」「年でもう駄目」。/言葉にならないこともある。それでも、漠然とした不全感は確かにあるようで、痴呆のごく初期の段階に、なかにはまだ痴呆と見極められていない時期に、このような気分と何らかの関連を有すると考えられる抑うつ気分や不安、焦燥、まとまりを欠く言動、身体的訴え、妄想や作話、人柄の変化などを示す人が少なくない。[2003:34]

◆痴呆を生きる者も、その家族も、逃れることのできない現在と、時間の彼方に霞んで見える過去とを、いつも往還している。今を過去が照らし、過去を今が彩る。/そのために、現在がゆがんで捉えられたりすることもある。あの私の自慢の母がぼけてしまうなんて、ありえない。あのわがまま放題だった父を思えば、今の父の行動は、痴呆のせいなんかじゃない、昔のままの父だ。こんなことを声高に主張する家族も少なくない。/彼らにかかわる私たちは、同じ時間を共有することなどできそうにない。それでも、彼らには彼らの歴史があり、時間の重みがあることだけは忘れてはなるまい。[2003:36]

◆夜間に意識レベルが低下し、それに伴って認知レベルも低下するという病態を背景にさまざまな混乱が生じる。夜間せん妄といってよいだろう。このようなときの痴呆老人の言動は、こころの底にある不安が浮き上がってきたようなものになりがちである。だから、介護者はいっそう対応に苦慮する。/このような行動が続くと、介護者は不眠も手伝って情動が不安定になり、それが痴呆を病む人をさらに不安定にするという悪循環が生じてくる。[2003:40-41]

◆ケアには相手の心根を汲むという作業が何よりまして大切である。[2003:43]

◆痴呆のケアにあたる者は、痴呆を生きるということの悲惨を見据える眼をもたねばならない。しかし、その悲惨さを突き抜けて希望に至る道をも見いださねばならない。/希望の源はさまざまであり得る。しかし、痴呆を病むということは、人の手を借りることなく暮らし、生きていくことが困難になるということだから、ひととひととのつながりに依拠する部分が大きくなるということである。とすれば、希望はこの関係性に見いだされねばならない。[2003:45]

◆痴呆の一般的イメージは、徘徊や便いじり、もの盗られ妄想や攻撃性といった、だれの目にも明らかな障害で悩まされるというようなものであろう。これらの症状は陽性症状とよばれ、治療とくに精神科治療の主な標的となる。/しかし、実際にケアにあたっていて難渋するのは、この病が生きるエネルギーを徐々に奪うというところにある。その結果、元気がなくなり、ものぐさになり、閉じこもりがちになる。これらは陰性症状とよばれるが、意欲障害はその代表的な症状である。このような症状を乗り越え、いのちの炎を保ちながら、痴呆という病を抱えても生き生きと暮らす道を見いだすことが、実は痴呆ケアの最も難しい課題かもしれない。[2003:49]

◆無理に家族が負担を抱えこまず、社会資源を利用する。このこと自体は、おそらく正しい選択である。だが、この選択は、サービスを提供する者と、本人と家族の意識とのズレの始まりでもある。このズレは徐々に拡大することもあって、家族にとっては、サービスを利用することでかえって心理的負担を増すことにもなりかねない。[2003:51]

◆…痴呆にはさまざまな妄想がみられるが、もの盗られを主題とする妄想がもっとも多い。…この妄想は、自分が置いたところを忘れて、なくなった、なくなったと言い続けているうちに「盗られた」になるのだ、と理解されている。しかし…置き忘れた人のすべてがもの盗られ妄想に行き着くわけではない。そこにはなにがしかの事情というか、ある人たちに特有のこころのゆらぎがあるに違いない。/ところで、この妄想の介護に難渋するのは、妄想対象、つまり盗人にされるのが、多くの場合、最も身近な介護者であることによる。…どんなにやさしい介護者も、盗人にされ…激しい攻撃を浴びせかけられると、平静ではいられない。それでも、日常の介護から逃げ出すわけにはいかない。/介護の教科書には、盗人などはいないと否定するのではなく、一緒に探し、なくなったものが見つかれば、一件落着する、と書いてある。ある程度痴呆が深い場合は、これでよい。/ところが、痴呆のごく初期にみられる場合、あるいは妄想の出現が痴呆のはじまりであったのだと、後になって気づかされるような場合には、こうはいかない。なくなったものが見つかって「よかったね。ほら、ここにあったよ」と声をかけると、「おまえはそんなところに隠しておいて、意地が悪い」と逆ねじを食らう。/また、痴呆初期のそれは、「盗った」と攻撃する妄想対象が身近な介護者に特定され、その攻撃性は激しく、執拗である。逆にいえば、妄想対象は一人に絞られる。ところが、痴呆が進んだ段階のもの盗られ妄想は、盗んだとなじる相手が漠然としていて、「だれかが入ってきて」などと言うにとどまったり、あるいは身近な人を特定しても強く否定するとあいまいになったりする。[2003:75-77]

◆彼らの多くは「あなた(がた)の世話にはならない」と言いつのる。「あなた(がた)」とは妄想対象を中心とした、彼らにかかわりをもつ人たちのことである。しかし、ケアを開始してほどなく、実は彼らが妄想対象に依存したいというこころを秘しており、あるいは近い将来、依存せざるをえなくなるだろうという認識を漠然とではあれ、もっていることがわかってくる。あるいはさらに漠然とした人肌恋しさがある、といってもよい…/攻撃性の裏に妄想対象に対する依存欲求があることの一つの証明として、もの盗られ妄想が消失した後、少なからぬ事例において妄想対象だった人間が最も頼りにされる存在に変わるという事実がある。…かかわりが深まると、彼らが自分のこころに潜む依存したいという心情をそのままの形では表現できない人たちであること、あるいは自分のなかに依存のこころがあることを認めることさえ拒絶するような人柄であることがはっきりしてくる。そしてこの人柄は若い頃からのものであり、妄想対象を含む介護者らに連続性の感覚をもたらした当の原因でもあるらしいと理解できるようになる。/つまり、妄想を抱く者と妄想の対象になった家人の双方…に、妄想発症以前から両価感情的なわだかまりが存在し、それが妄想の発症によってあらわになったに過ぎないことがわかってくる。…このような両価感情を生み出した家族の関係は、多くは隠然としたかたちで、ときに表面化しながら、長年にわたって存在していたらしいのである。[2003:85-86]

◆人は一つだけの感情なら何とか耐えることができる。しかし、まったく相反する二つの感情を抱くとき、あるいは相反する二つの感情をぶつけられるとき、どうしても混乱し、困惑してしまう。…/もの盗られ妄想を抱く人たちもまた、二つの感情に引き裂かれている。つまり、彼らは喪失感と攻撃性の狭間で揺れ動いている。そして、この狭間にあるという事態が彼らを抜き差しならない窮地に追いやっている。…どんなに攻撃性をあらわにしているときでさえ、彼らは身の置き所がないといった不安な表情をかいま見せる。この寄る辺ない不安と寂寥こそが、こころの奥底深くに潜む本来の感情であるに違いない。…もの盗られ妄想を抱く人たちには、喪失感と攻撃性という二つのこころがある。ここで、妄想というかたちをひとまず括弧に入れて考えてみる。そうすると、この二つのこころは、自分がとても大切にしていたものを盗まれた時の、だれでもが感じるごく当たり前の感情であることがわかる。「拠りどころにしていたものがなくなった、どうしよう」という不安、寂寥の思いと、「なんということをするのだ、許せん」という憤激の気持ちである。/つまり、妄想とはいえ、そのこころのありかは、盗られたという妄想のテーマから直線的に導き出されるという意味で、とてもわかりやすい構造をもっている、ということになる。…このような場合、精神医学は…彼らが現実の生活世界にあって、喪失感と攻撃性の狭間で苦悩している、と教える。つまり、彼らの妄想は現実の生活世界に根ざしているのである。…喪失感こそが妄想の根底にある彼らの本質的な感情で、攻撃性はいわば二次的に生み出されている…[2003:87-89]

◆もの盗られ妄想を抱く人たちは、老いを生きている。…治療やケアにかかわる者は、この自明の事実を常にこころに留めておく必要がある。大半の治療者やケアスタッフあるいは介護者は、ケアの対象となる彼らより年下であり、老いることの重みを身にしみてわかっていないことが多い。/そのために、この自明のことを治療やケアにあたる者ですら、ときに忘れ、ときに軽視し、ときには意識から外してしまう。その結果、老いを生きる者のペースを超えた所作を強い、あるいは自分たちのあいだでは日常化している言葉が彼らのこころを傷つける、というようなことが起きる。老いるということが老年期にみられるさまざまな病態の地あるいは背景として常に存在している。このことは、いくら強調しても強調し過ぎることはない。[2003:90]

◆…老いるということは喪失体験を重ねることである。…老年期には、社会的、家庭的役割の喪失があり、人の面倒をみてきた人が一方的に面倒をみられる側に回る。心身の衰えが生じ、病が襲い、死が現実のこととしてせまってくる。そして、親しかった人と死別あるいは離別し、なじみの人間関係が喪われる。/しかも、これらの喪失体験は若い人たちと違って、取り返しがつかないことと実感される。客観的にみても、抱えこむことになった病や障害の多くは不可逆的であり、徐々に進行することが多い。そのために彼らの喪失体験は深く、持続する。そして、彼らを危機に導き、ときに混乱と絶望を生む。…問題は老いという事実、喪失という事実を、一人ひとりの老いゆく者たちがいかに自らの体験とするのか、というところにある。[2003:90-91]

◆もの盗られ妄想を抱く人たちは、老いを生きているというにとどまらず、痴呆を生きている。…そして痴呆を生きるということは、暮らしを営むさまざまな力が失われていくということである。このことが彼らの抱く喪失感の大きな源になっている。/ここで付け加えておきたいことがある。それは、痴呆を、そして老いを名詞で考えるべきではない、動詞として、つまり、ぼけゆく過程、老いゆく過程としてとらえるべきである、ということについてである。…白髪になり、腰が曲がり、入れ歯になる、病を抱える、性機能が減退する……の老いの客観的事象より、それらを老いゆく人たちがどのように受けとめるか、を問いたいのである。同じ事象を抱えても、その受けとめかたは人さまざまで、そこから老いるということの、一人ひとりの異なりが生まれる。痴呆についても同じことが言える。/このような見方からは、あるいは周辺症状の成り立ちを考える際には、痴呆の深さはむろん大きな要素なのだが、それ以上に重要なのは痴呆進行の加速度である。…加速度がついた時期には、多くの痴呆を病む人たちのこころにも、行動にも、からだにも、大きなゆらぎが生じる。そして、この時期の彼らのゆらぎ、あるいは不安や焦燥にどれだけ寄り添えるかによって、痴呆進行の加速度が間もなく減速してプラトーに達してくれるか、それとも加速度が衰えず、深い痴呆に至ってしまうか、が決まるといってよい。つまり、ケアに難渋する時期の対応こそが、痴呆進行の速度に影響を与え、痴呆を病む人の生活の質を規定し、ときには生命予後まで左右するのである。[2003:92-95]

◆痴呆ケアにあたって、私がこころがけてきたことをまとめると次の二点である。/まず病を病として正確に見定めることである。そのためには、痴呆という障害のありようを明らかにし、暮らしのなかで彼らが抱えている不自由を知らねばならない。そして、できないことは要求せず、できるはずのことを奪わない、というかかわりが必要になる。これは客観的、医学的、ケア学的に理に適ったケアを届けるという課題である。/しかし、痴呆ケアはこれだけでは足りない。痴呆を生きる一人ひとりのこころに寄り添うような、また一人ひとりの人生が透けて見えるようなかかわりが求められる。そのために、現在の暮らしぶりを知り、彼らが生きてきた軌跡を折りにふれて語っていただけるようなかかわりをつくりたいと考えてきた。/この二つの視点を統合することが、痴呆ケアの基本である。[2003:195]

◆もの盗られ妄想を抱く人たちは、少し打ち解けてくれると、聞いている人を待っていたかのように、自らの来し方や現在の暮らしのありようを、せきを切ったように語り出す。…こうして、彼らのこころの風景は少しずつ見えてくる。/急がず時間をかけて、繰り返し繰り返し語られる彼らの言葉を、こころをこめて聴く。あまり誘導したり、時間的順序を正したりはせずに、聴く。多くは、自分の意思ではなく私たちの前に連れてこられた彼らは、このような作業を通じてようやく物語る主体となる。彼らは長い人生を歩んできて、「今・ここ」にいる。そして、ようやく彼らは存在感をもちはじめる。このような過程を通じて、彼らは矜持をもって生きてきた過去を生き直すのである。/彼らの断片的な物語を、家人らの情報ともあわせて、ストーリーとして読むことができるようになると、痴呆の症状とみえていたものが、その人らしい表現とみえてくる。[2003:198-199]

◆彼らのケアを開始してまずなすべきことは、責任の所在をいったん棚上げできる場面をつくり出すことである。…/ここまでもつれた糸を解きほぐすには、彼らが置かれた家庭という閉じた場所だけではうまくいかない。閉じた場を開くこと、それも責任の所在を追及せずにすみ、追及されることもない場へと、彼らを誘い出すことが必要である。[2003:200]

◆喪失感に寄り添うためになすべきことは、言葉にすれば明らかである。なじみの場、なじみの関係、なじみの自分が喪われたことが彼らの喪失感を生んでいる。とすれば、喪われた場と関係が新たななじみの場、新たなこころ安らげる関係に置きかえられねばならない。そして、新たな身の丈に合った生き方を彼ら自身やその家族、さらにかかわりのあるさまざまな人たちと一緒に発見しなければならない。/彼らが喪ったもの、喪いつつあるものの大きさ、深さを考えれば、それを補い、埋めることの困難はいうまでもない。しかし、ほんのちょっとした心遣いがこころを和らげてくれるのもまた事実である。[2003:203]

◆…激しい攻撃性を家族内の介護者が受けとめきることは、こころのありかを考えれば、かなり難しい。第三者あるいは専門スタッフのかかわりが何らかのかたちで必要である。…/すでに抜き差しならなくなっている「依存する−される」という人間関係から、その一部を「介護を受ける−提供する」という役割・権利関係へと移行させるのである。ケアは結局、ひととひととのかかわりあいである。だが、そこに契約という関係を導入することでかえって乗り越えられる課題もある。むろん、そのような場や関係では責任の所在が問われないということが、ケアを成功させる必須条件である。[2003:204]

◆「障害受容論という学問領域
 […]
 障害受容論という学問領域がある。たとえば、死病を宣告されたときに人はどのような心理過程をたどるのか、というようなことを研究するのである。死病の 宣告だけではなく、自分の子どもが障害児であることがわかったとき、あるいは交通事故で意識障害を来たし、意識が戻ったら脚が切断されていることがわかっ たとき、人生の途中で失明、失聴したときなどの場合にも適用される。
 有名なのは、キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』という本だが、この題名の翻訳はちょっと誤解を招きやすい。死に至る過程で人はどのように死を受容するか を述べた本だからである。<0211<つまり、副題にある「死にぬく人々との対話」を主題としている。だから、ターミナル・ケアの現場なとで よく読まれている。
 […]<0212<
 障害受容論の意味と限界
 受容に至る段階論は、キューブラー・ロス自身によって、あるいは他の論者によってさまざまに修正を加えられてきた。だが、段階論じたいにそれほど大きな 意味があるとは思えない。キューブラー・ロス自身も癌を宣告されたとき、「私の理論は、私に何の慰めももたらさなかった」と語ったという。
 だから、障害受容論の意味は段階論の緻密な検討にあるのではなく、いきなり最終的な受容を求めてはならないというところにある。受容に至るには、いくつ かの段階を踏むことが必要なのである。痴呆を病む人たちに引きつけていえば、こうなる。」(小澤[2003:211-213])

◆痴呆という病を受容すべきなのは痴呆を抱えた本人だけではない。彼らとかかわる人たちが、さらに彼らの住む地域が、そして社会全体が、彼らを受容できるようになれば、あるいは痴呆という事態を、生き、老い、病を得、そして死に至る自然な過程の一つとしてみることができるようになれば、周辺症状は必ず治まり、彼らは痴呆という難病を抱えても生き生きと暮らせるようになるはずである。[2003:217]

■言及

◆立岩 真也 20140825 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※

◆立岩真也 2006/01/06 「良い死・6」,『Webちくま』[了:20051215]

 「病を得て、自らにおいて衰弱が進行していく場合がある。例えば、癌が体内にずいぶん増殖している。こんな場合に何ができるか、何がどれだけ効くのかは多くの場合にはっきりしない。そして治療や、治療でなくとも病院に通ったり入院したりすることには何がしかの苦痛が伴う。このような時には、短い(可能性が高い)が相対的に気持ちのよい人生を生きるか、気持ちがよくないが長い(可能性が高い)時間を生きるか、その間の選択はあるだろう。すこしも楽しくない選択ではあるが、両者から選ばざるをえないことがあるし、あってよいだろう。このことは「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」(『現代思想』2004年11月号、特集:生存の争い)で述べた。薬と身体との関係、放射線と身体との関係、接合の不具合は様々あって、そういう場合の不愉快はたしかに大きなものだ。そんな時にもうよいと思う人がいても、自分はどうするかは別に、わかる気はする。
 ただ、この時、潔癖に一切を拒絶すると言う人がいて、実際にそれを貫く人がいて、それがなにか感動的に語られることがある。そうした文章はたくさんあるのだが、例えば岩波新書で出ている小澤勲の『痴呆を生きるということ』(2003)。この本は、多くの人に読まれている、認知症の人たちについてのとてもすぐれた本だが、その中に著者の知人としてそんな人が出てくる。
 「彼女は医師を問いつめ、余命いくばくもないことを知った。彼女は医学的治療が単なる延命をもらたすだけである、と考え、いっさいの医学的処置を断った(その正否をここでは問わない)。」(p.215)
 身体の機能不全や衰弱の場合であれば、能動的な活動の総量もまた減っていく。むしろ世界を受け取ることの方が多くなっている。そんなときに気分の悪くなるようなものに邪魔されたくはない。静かにしていたい。そんなことがあるだろう。ただ、その人が死を恐れていないとして、しかし生きていることの快もまだ終わってはいない。苦痛はその上での苦痛である。その苦痛をなくすことはできないのではあるが、騙すことはできる。そのことも拒絶する時、それはなんだろうということである。その決断の強さを誉めていればそれでよいのかということである。もう長くないことがわかっていてそ上で思うように生きていたいのはわかる、だが、それならいくらか楽に過ごせる方法があるのなら適宜使えばよいではないか、ということである。その時に、「一切の○○を希望しません」とい う力の入り方はなんだろうということだ。」


UP: 20080831 REV: 20100830 20141117 1118
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