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『邂逅』

多田 富雄・鶴見 和子 20030615 『邂逅』,藤原書店,231p.


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■多田 富雄・鶴見 和子 20030615 『邂逅』,藤原書店,231p. ASIN: 4894343401 2310 [amazon][kinokuniya] ※ r02.

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内容(「BOOK」データベースより)
脳出血に倒れ、左片麻痺の身体で驚異の回生を遂げた社会学者・鶴見和子と、半身の自由と声とを失いながら、脳梗塞からの生還を果たした免疫学者・多田富雄。病前、一度も相まみえることのなかった二人の巨人が、今、病を共にしつつ、新たな思想の地平へと踏み出す奇跡的な知的交歓の記録。
内容(「MARC」データベースより)
「スーパーシステム」という概念を創出した国際的免疫学者、多田富雄。「内発的発展論」という社会の発展の理論を創出した国際的社会学者、鶴見和子。日本の伝統文化に根ざす二人が片麻痺の病の中出会う。

■著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

多田 富雄
1934年、栃木県結城市生まれ。東京大学名誉教授。専攻・免疫学。元・国際免疫学会連合会長。1959年千葉大学医学部卒業。同大学医学部教授、東京大学医学部教授を歴任。71年、免疫応答を調整するサプレッサー(抑制)T細胞を発見、野口英世記念医学賞、エミール・フォン・ベーリング賞、朝日賞など多数受賞。84年文化功労者。能に造詣が深く、舞台で小鼓を自ら打ち、また『無明の井』『望恨歌』『一石仙人』などの新作能を手がけている。2001年5月2日、出張先の金沢で脳梗塞に倒れ、右半身麻痺と仮性球麻痺の後遺症で構音障害、嚥下障害となる。著書に『免疫の意味論』(大佛次郎賞)『独酌余滴』(日本エッセイストクラブ賞)など多数

鶴見 和子
1918年、東京生まれ。上智大学名誉教授。専攻・比較社会学。1939年津田英学塾卒業後、41年ヴァッサー大学哲学修士号取得。66年プリンストン大学社会学博士号を取得。論文名Social Change and the individual:Japan before and after Defeat in World War2(Princeton Univ.Press,1970)。上智大学外国語学部教授、同大学国際関係研究所所長を務める。95年南方熊楠賞受賞。99年度朝日賞受賞。幼少より佐佐木信綱門下で短歌を学び、花柳徳太郎のもとで踊りを習う(二十歳で花柳徳和子を名取り)。1995年12月24日、自宅にて脳出血に倒れ、左片麻痺となる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

鈍重なる巨人 多田富雄 8-33
回生 鶴見和子 34-47
自己と非自己について―多田富雄さんへ(二〇〇二・五・三一)(鶴見和子)
創造性について―鶴見和子さんへ(二〇〇二・六・一四) 多田富雄 74-93
異なるものが異なるままに―多田富雄さんへ(二〇〇二・七・七)(鶴見和子)
超越とは何か―鶴見和子さんへ(二〇〇二・七・二七)(多田富雄) 114-131
自己と創造性―多田富雄さんへ(二〇〇二・一二・一)(鶴見和子)
異なった階層間の接点―鶴見和子さんへ(二〇〇三・一・三)(多田富雄)
「われ」とは何か―多田富雄さんへ(二〇〇三・一・二六)(鶴見和子)
自己と他者について―鶴見和子さんへ(二〇〇三・三・二〇)(多田富雄)


■著者からのコメント

【藤原書店PR誌『機』2003年5月号より】
片麻痺の病の中、二人は出会い、日本の学問の新しい地平を開く
邂逅(かいこう)

多田富雄+鶴見和子

多田富雄さんへ

 多田先生、こんにちは。いかがでいらっしゃいますか。
 同病ですけれども、私は最近事故を起こして転倒いたしまして、大腿骨にひびが入りました。それで今、安静にして、ベッドで寝ております。 そのうえに、私は歯を全部抜きまして、「お歯無しの山姥」となりました。ですから今、歯を入れないでしゃべっておりますので、発音不明瞭かと存じ、たいへん失礼でございますが、このようにして先生とお話をしたいと思います。本当は先生とお目にかかってお話をしたかったのですけれども、こういうことになりまして、ほんとうに残念でございます。
 それから、奥様からのご丁重なお手紙を付けていただき、『脳の中の能舞台』(新潮社、二〇〇一年)をいただきましてありがとうございました。
 先生が『文藝春秋』(二〇〇二年一月号)にお書きになりました、「鈍重な巨人----脳梗塞からの生還」という、ご病気後の記録を、自分のことと引き比べて、たいへん興味深く拝見いたしました。最近の「オール・ザ・サッドン」(『一冊の本』二〇〇二年六月号)も拝見いたしました。
 それから『脳の中の能舞台』は、感動して読みました。『生命の意味論』(新潮社、一九九七年)は、私の専門外でたいへんむずかしい御本でございますが、一生懸命に寝ながら----たいへん失礼ですけれども----読ませていただきました。ほんとうに自分の理解がゆきとどいてないと思いますが、このように拝見いたしましたものの中から、今日、いくつかの問いかけをさせていただきます。私が間違っているところも多いと思いますが、その点はどうぞお直しくださって、お答えいただきたいと思います。(中略) それから第二は、先生は金沢でお倒れになって、それから東京の病院にお移りになったときに、病院は隅田川のほとりであった。そこのベッドの上で、声は出ないけれども、頭の中で能の『隅田川』をはじめからおわりまでお歌いになった。それから能の『歌占』(うたうら)もはじめからおわりまでお歌いになった。私は、倒れたその晩から、夢を見ながら体の奥底から短歌が噴き出して参りました。ということは、先生は能という日本の伝統文化によって、私は短歌という日本の伝統文化によって、生死の境を越えた、ということだと思います。白洲正子さんは、偶然見ましたテレビの中で、「自分が倒れたとき、能の『弱法師』(よろぼし)を舞って、そして回生した」とおっしゃっていらっしゃいました。
 先生は、人間の個体は「スーパーシステム」であると定義付けていらっしゃいます。そして人間の作った文化もまた「スーパーシステム」であるとおっしゃっています。そこで、人間の極限状態になったときに、自分が習得した日本の伝統文化----先生の場合は能、私の場合は短歌----が救いになる、つまり生命活動を与えてくれる、つまりスーパーシステムとしての伝統文化とスーパーシステムとしての人間個体との間の、生命活動のインタラクションがある、ということなのでしょうか。つまり、異なる領域のスーパーシステム同士がインタラクションする、相互作用して、生命活動をまた両方にもたらす、という不思議な関係をどうお捉えになりますか。それを、うかがいたいと思います。
 それから第三点は、倒れられる前と倒れられた後と、どのように人生が変わったか、変わらないか、ということについて伺いたいと思います。『文藝春秋』のご文章の中で、多田先生は「ある日、麻痺していた右足の親指がピクリと動いた」と書いてらっしゃいます。そしてこれは自分の中の鈍重な巨人の胎動を意識させた、というふうにお書きになっています。
 私は、倒れてのちの自分の変化を「回生」ということばで表現しております。それは、医者にMRIの映像を見せられまして----私の場合は左片麻痺ですから右脳です----、「右側の運動神経の中枢が決壊した。深部が決壊したから、この左片麻痺は死ぬまで治りません、だから運動はできません。しかし 左側の脳は完全に残っています」と言われました。それで、言語能力と認識能力が残ったから、仕事はできますというふうに言われました。そこで私は、自分が後へ戻れない、「回復」しない、一生これから重度身体障害者として生きるのだということがはっきりわかりますと、そこで、後へ戻れないならば前へ進むよりしようがない、つまり、新しい人生を切り拓くと覚悟を決めました。
 それでどういうことが起こったかというと、まず歌が復活して、自分自身のことばでものを語り、考えることができるようになりました。これまではアメリカ社会学からの借りもののことばでものを考え、語っていた。借りもののことばを捨てたのです。もうひとつは、私は水俣の調査から、人間は自然の一部である、だから人間が自然を破壊すれば、自分自身を破壊したことになるのだ、ということを学びましたけれども、それは理屈だけの話でした。しかし、身体障害者になってからは、毎日の天候によって自分の足の痺れ具合、痛み具合というのは、時々刻々違います。それだけ私は自然に近くなった、ということがよくわかりました。そして鳥の動き、草花を見ても、たとえば燕の飛び上がる姿を考えて、自分でそのようにやってみたら車椅子から初めて立ち上がれたとか、山川草木鳥獣虫魚のふるまい方から自分が学ぶということが初めて出来るようになりました。そのことが、私の新しい人生をいま、形づくっております。(後略)

鶴見和子(つるみ・かずこ/比較社会学)

鶴見和子さんへ

 目が覚めるようなお手紙をいただき有難うございました。こんなお手紙は胸ポケットにしまって持って歩きたいほどです。
 早速お返事をと思いましたが、左手だけでワープロを打つのは、思いのほか時間がかかるもので、予定より遅くなったことをまずおわびします。これからが楽しみです。ただお断りしておきたいのは、先生と呼ぶのはやめにしましょう。鶴見さんが世界的社会学者で、しかも日本人には数少ない自分の学説を持った学究だというのはよく分かっています。また私より年長であり、この病気についても少し先輩であることも知っています。でも、先生から、先生と呼ばれると、こそばゆくて困ります。こちらも先生と呼ぶと、先生のフットボールのようになるので、鶴見さんと呼ばしてもらいます。
 鶴見さんは最近転倒して、大腿骨の損傷で安静にしておられるとか、どんなに気落ちされたことでしょう。同病でよたよた歩いている私には、転倒がどんなに恐ろしいか、時には命取りになることも良く分かっております。幸い大腿骨骨頭の骨折でなくて良かったと、胸をなでおろしています。落ち着けば、またリハビリ再開でまた歩けるようになるでしょう。今はそれだけを祈っています。
 さて私の状態を申し上げますと、発病から一年を経過し、麻痺がほとんど動かぬものとなっています。私のは左脳の梗塞ですから、右半身の運動麻痺が主ですが、以前にやったと思われる右脳の小梗塞巣の影響もあって、重度の構音障害や嚥下障害を伴っています。右麻痺は私の書字能力を奪い、ほとんどものを書くことができなくなりました。日常の仕事も同じです。(中略)
 今思い出してもあれは突然の発作でした。旅行の間に山形で深酒はしましたが、快い疲れが残るだけでしたし、発作を起こした金沢ではワインのグラスがやけに重いといぶかったのが、そういえばあれが予兆だったかと後で気づくのが精一杯です。後悔しても後の祭りです。
 発作のときも事の重大さが分からず、それに夢うつつで病状を理解できなかったのでした。夢の中で臨死体験のようなことがありましたが、だんだん意識が戻ってきたときは次のようなことを考えました。
 まず片麻痺は、梗塞の程度がどのくらいかによるので、予後が分かるには発作が落ち着くまで待たなければならない。でも症状からいって、容易ならざる状態だということが分かりました。正直言ってうろたえました。
 それより声が出ないのはなぜなのかが、初めは理解できませんでした。それが球麻痺(下部脳神経が侵されたことによる、発声・発語・嚥下・咀嚼・表情の麻痺)による重大な症状であることを理解したのはいろいろな検査で痛めつけられた後でした。どんなに苦しくても、訴えることができないのですから恐怖でした。
 そのうちに病状が安定して、ものを考えることができるようになって、やっと自分が重度の身体障害者として、余生を生きなければならない状況を理解したのです。これが私の病気のノートです。予兆など無かった点は、鶴見さんと同じです。
 その時心配だったのは、重大な脳の損傷があったのだから、もう自分が自分では無くなったのではないか、ということです。それを客観的に調べるには、記憶が保存されているかどうかを確かめるのが一番です。それで暗記しているはずの謡曲を頭のなかで謡ってみたのです。はじめは簡単な『羽衣』のクセでした。このテストに合格したので、次はもっと難しい『歌占』に挑戦したのです。ちょうどこの曲を小鼓のおさらい会で打ったばかりで、覚えているだろうことも確かでしたが、物語の筋が死んで三日たってよみがえった男の話だったから、わが身に引き比べて自然に思いついたのでしょう。
 このテストも合格でしたが、そんな非常事態に謡曲をうなるというのは、どうしたことなのかと後で考えたとき、鶴見さんがご指摘になった第二の問題と関係していることに気づきます。Self Reference の問題です。
 白洲正子さんが、臨死体験で『弱法師』を舞って帰ってこられたのは、私との対談(『おとこ友達との対話』新潮社)ではじめて話されたのですが、白洲さんはそのころ最近の能のあり方に失望しておられた。それが極限状態で、再び能の『弱法師』の日想観の世界に戻ってきたのは、白洲さんの血の中に濃厚に能というものが刻印されていたからだとおもいます。「橋掛かりの途中で、『暗穴道の巷にも』と謡うところがあるでしょう。あそこのところがとってもくるしかったの」と言われたのを今でも思い出します。
 スーパーシステムは個体のような複雑なシステムを言いますが、それはもっと高次の文化現象や社会現象と常に照応している。だから意識が正常にもどってから、私の生命活動の原点にもどって、私の最も愛した能の世界とインターアクションしたといってもいいでしょう。実際、夢うつつで過ごした三日間の臨死状態は、まるで能を見ているように鮮明に思い出されます。(後略)

多田富雄(ただ・とみお/免疫学)

■引用

◆鈍重なる巨人 多田富雄 8-33
 「私が心配したのは、脳に重大な損傷を受けているなら、もう自分ではなく<0017<なっているのではないかということでした。そうなったら生きる意味がなくなってしまいます。頭が駄目になっていたらどうしようかと心配しました。それを手っ取り早く検証できるのは、記憶が保たれているかどうかということでした。
 まず九九算をやってみたが大丈夫でした。次に、覚えているはずの謡曲を頭の中で歌ってみた。」(多田[17-18])

◆回生 鶴見和子 34-47

 「一九九七年元旦に、日本のリハビリテーションのくさわけの上田敏先生から、速達をいただきました。「一度、診察してあげたい」と申し出てくださったのです。これは天の恵みでした。わたしはすぐにお電話をして、「ご指定の病院にうかがいます」と申し上げました。上田先生は、茨城県守谷町の会田記念病院をご指定くださいました。
 一月十五日に入院しました。」(鶴見[2003:35])

◆創造性について――鶴見和子さんへ(二〇〇二・六・一四) 多田富雄 74-93

 「人間の条件」  「しゃべるというのは、人間だけに許された能力です。人類はみなしゃべる。しゃべることによるコミュニケーションを使って文化を発展させて来たのですから、話せないのは人間ではない。今、やっと娘と妻にだけは分かる片言だけの日本語を話すことができて、かろうじて人間を保っています。<0074<
 もっと大変なのは嚥下障害です。」(多田[74-75])

 「まずはじめに、病気の予兆の問題です。私の場合はすべて突然でした。ある朝一夜明けると体は麻痺し、声を失っていたのです。カフカの『変身』という小説を読んだとき、ある日突然虫になるなど、まったく非現実的な話だと思いましたが、カフカ自身は、あれは荒唐無稽なことを書いたものではないといっていたのを読んだことがあります。そのことをまず納得しました。
 何しろ前日まで元気で旅行して、友人と大酒を飲んで騒いでいたのですから、晴天の霹靂です。」(多田[77])

 「その時心配だったのは、重大な脳の損傷があったのだから、もう自分が自分では無くなったのではないか、ということです。それを客観的に調べるには、記憶が保存されているかどうかを確かめるのが一番です。それで暗記しているはずの謡曲を頭のなかで謡ってみたのです。」(多田[81])

◆超越とは何か―鶴見和子さんへ(二〇〇二・七・二七)(多田富雄) 114-131

 「脳のほうの「自己」は、神経という高次のネットワークによって作り出されるのですが、免疫の方は細胞同士の化学物質のやり取りによって成立する自己防衛の機構です。両者ともに高度の自己−非自己の識別能力を持っていますが、基本的には別物です。
 それではなぜ二つを同じ舞台で論議するかといえば、二つのシステムに<0116<アナロジーがあるからに過ぎません。互いに別の発達過程をたどったにもかかわらず、「自己」という属性をもつようになる。なぜか、というのが私たちの疑問です。何しろ「自己」がどうして形成されるかというのは心理学や哲学の大きな命題ですから、両方の「自己」の成り立ちを比較しながら考えてみようとしたのです。
 もちろん脳の「自己」と免疫の「自己」とは性質が違います。でも共通性があることも確かです。それに免疫の自己の成り立ちは実験で検証することができますし、試験管内培養でも一部の実験が可能です。一方脳は培養もできないし、実験などおいそれとできない。だから免疫でヒントを掴もうとしたのです。
 そうすることで、生物学的な「自己」というものの本性や成り立ちが分かってきたのです。たとえば、両方ともに後天的な選択と適応によって自<0117<己が形成されることや、「自己」というものの可塑性、安定性、フラジャイルな属性などです。それがどうして付与されるかと言う、共通の疑問が説明できそうなのです。その結果、両者ともに同じ戦略を使っている、典型的なスーパーシステムであることが分かってきたのです。」(多田[116-118])

■言及

◆立岩 真也 20100701 「……」,『現代思想』38-9(2010-7): 資料


UP:20100604 REV:20130116
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