HOME
>
BOOK
>
『小児がん病棟の子どもたち――医療人類学の視点から』
田代 順 20030117 青弓社,198p.
このHP経由で購入すると寄付されます
■田代 順 20030117 『小児がん病棟の子どもたち――医療人類学の視点から』,青弓社,198p. ISBN-10: 4787232096 ISBN-13: 978-4787232090
[amazon]
/
[kinokuniya]
■内容
(「BOOK」データベースより)
白血病や悪性リンパ腫などと闘う小児がん患児たちをフィールドワークし、患児同士、患児と親、患児と医師・ナースの相互作用の諸相を導き出し、病棟社会の関係構造を提示する。
(「MARC」データベースより)
白血病や悪性リンパ腫などと闘う小児がん患児たちをフィールドワークし、患児同士、患児と親、患児と医師・ナースの相互作用の諸相を導き出し、病棟社会の関係構造を提示する。
■目次
第1章 はじまりの語り 9
第2章 フィールドに向かって 16
第3章 病棟社会の構成 24
1 子どもたちの日々。面会する母親。そして夜の待合室 24
2 場所をめぐって―入っていい場所/だめな場所/出ていってはいけない場所 44
3 マルク(骨髄穿刺)とルンバール(腰椎穿刺) 52
4 しつけの問題 55
5 身代わり地蔵―現代医学と「民間信仰・民間療法」59
6 ほかの子どもの死、あるいは「死およびそれを連想させるもの」を峻拒する 63
第4章 自分の病気を知ること/知らないでいること 77
1 子どもが自分の病気を知っていくということ 77
2 子どもの病気に対する母親の態度という「情報」 88
第5章 終末期、そして子どもの死 111
1 子どもの死をめぐって―病名告知・再発告知という情報から 111
2 母と子の絆 147
第6章 「ふり」をする母親 156
第7章 タブーを排除すること、あるいは不安と恐怖について 160
第8章 「社会的な死」を招来しないための関係構造 181
おわりに 断ち切られた者、終わらない歌を歌う 187
注 193
資料 195
■引用
第1章 はじまりの語り
(p11)
そこで本論は、白血病を中心とした悪性血液疾患や悪性腫瘍など、小児がんに罹患して入院を余儀なくされたわが国の子どもに焦点を当てる。そして、本来、死がもっとも身近にありながらも、死があらゆるかたちで忌避されつづけるわが国の病棟社会で(つまり自分やそこで出会ったほかの子どもが「死ぬかもしれない、死に逝く」ところで)病気と死に向き合っていかなければならない子ども自身が、自分やほかの子どもの病気や死をどう思っているのか、あるいはどのように体験しているのかということを基軸にした研究を志向する。
(pp13-15)
これらは、おもに次の二つのことを主軸にして、病棟社会を記述し描き出すことをつうじてなされる。ひとつは、その病棟社会に流通する、病棟社会を根底で支えている社会的・文化的文脈の諸相を描き出すこと。いまひとつは、子どもが病棟社会を支える一員として、どのような仕方で子ども側からその社会を維持し支えていくのかということを描き出すことである。
以上に関してのテキストを編むために、私は小児がんの子どもが入院している小児科の病棟へのフィールドワーク・参与観察をおこなう。そして、右記の二点の主要な記述軸をとおして、最終的に病棟社会を秩序立てて支え、維持する関係構造を提示する。
主要な二点の記述軸を、より具体的に詳しく述べれば、次の視点での記述の集積となる。
1、患児という新たな役割獲得のプロセス
2、病棟社会での関係の構築
3、新たな状況への適応戦略
加えて、子どもがそれらのことをどのように認識していくのかという情報認識とその伝達の様相、
つまり、
4、病気に関する情報獲得のプロセスとそれにともなう認識の変化
5、病名/予後にかかわる子どもの認識の諸相
以上を描き出し、かつ論考する。そして、その結果として、病棟を社会として成立させ、維持していくための秩序と関係の構造を提示するということになる。以上のことは、基本的にフィールドワークをとおしての参与観察によって、具体的な場面を記述したかたちで提示する。また、これらに対する検討考察は、日本という文化のなかで、子どもが予後の心配が多分にある小児がんに罹り、小児病棟に入院して闘病し、ときには「死に逝く」ということが、文化的・社会的にはどのようなことなのかを読み解くということにもつながる。このことは同時に、根底では、日本で「子ども」であるということはどのようなことなのかを照射することにもつながる。つまり「重篤な疾患」という「危機状況」が、「子どもであること」「子どもであるため」に必要なことを照射するというわけである。また、小児病棟という社会で、子どもが子どもとして、そこでの他者との相互の「渡り合い」や「関係形成」をとおして「子ども」としてのアイデンティティや役割を(治療に向けて半ば強制的にではあるが)形成し、そこで社会的存在となっていくプロセスというものは、前述した「社会化」の過程の
主要部分となる。
第3章 病棟社会の構成
(pp29-30)
病棟に帰ってくると、午後二時までの安静時間が始まっている。基本的に子どもたちは自分のベッド上で過ごすことになっている。男児のあいだではファミコンが大流行だ。ときおり、攻略法の情報交換やファミコンソフトの交換などやりながら、安静時間を過ごしている。女児はさまざまだ。ファミコンをしている子もいれば黙々と本を読んでいる子もいる。お絵描きしてる子も。となりの
ベッドの子と話している子もいる。担当ナースが検温や服薬のために各病室をまわりだす。もちろん、すやすやとお昼寝している子もいる。無菌個室では、骨髄移植を受ける子どもが本を読んでいる。廊下から子どもを見ると、ガラスの保護箱に入っているかのように見える。まるで実験を待つ動物のように。通常の個室では、終末期の子どもが痛み止めのモルヒネの効果でうとうとしている。そのかたわらに母親がいる。まだ若い。もう命いくばくもないわが子を見つめている。この世に生を受けてからその子はまだ五年しかたっていない。五年間しか一緒にいられなかった母と子。子どもは、うとうと眠りながらも手はそこだけ眠っていないかのように母親の手をしっかり握っている。そこだけ違う時間が流れている。しばらくすると思いがあふれて、彼女の瞳には涙があふれるだろう。どれだけ泣いても涙が涸れないのが不思議だ。でも子どもが起きているときは、絶対に涙は見せない。どれだけ祈っても神様は願いをかなえてくれなかった。自分の命と引き替えでも、この子を助けてともう何十回も祈ったことだろう。疲れと哀しみが「澱」のように心と身体に降り積もっていく。
私は記憶する。心に刻み込む。この情景と雰囲気を決して忘れまいと。個室から、個室狭自の時間の流れが、音をたてて私に迫ってくる。カーテンは几帳面に閉められている。でも感じる。かすかな生が圧倒的な死と対峙しているという密度の濃さを。母親と子どものあいだを、「思い出」という「生きていること、生きてきたこと」の証が駆け抜けていることを。私は途方にくれた立像のようにその個室の前に立ち尽くしている。
(p52)
前章での病棟社会の日常構成をめぐる子どもの様相および本章でのいくつかのシーンから、次のようなことがわかる。
ひとつは、病棟におけるさまざまな「規則」は、基本的に先に入院している「先輩患児」との「やりとり」や「先輩患児」からの「注意」をとおして学ばれ認識されていく。また、自分勝手にここから出ることはできないということも「患児役割」の拡大とともに、しっかり認識される。子どもたちは、このようにして日常社会に生きる健常な「子ども」から、「病棟社会」に生きる、病気をもつ子どもである「患児」として再構成されていく。
(pp58-59)
ナースのほぼ全員が、対象である小児がんの子どもと母親の関係は、前述の語りと同様に、次の点で特徴的であるとしている。すなわち、ほかの疾患(たとえば腎臓病や神経疾患)の母子関係に比べて、母子二者の密着度が高く、ときに母親は子どもにべたべたに甘えさせる傾向があると述べている。そのため、これまでの「しつけ」が崩壊し、母親の前では、「専制君主」のようなふるまいをする子どもがときおり見受けられるという。たとえば、シーン4の例のように「毎日おもちゃを買って来い」といって必ず面会のたび新しいおもちゃを手に入れる子どもと、それを聞いてしまう
母親などがいるという。そこにいたらないまでも、ほとんどの母親は、子どもをがん系統の病気にしてしまったという後ろめたさや罪悪感などから、子どもをひたすら甘やかし、子どもの依存を、ほぼ際限なく許容する傾向にあるとナースたちはみている。
(p60)
母親は医師ではないので、西洋近代医学をもとにした治療には加わることができない。しかし、なにもできないことの「歯がゆさ」や「子どもをこのようにしてしまった」という罪悪感をみずから「乗り換える」手段として、少しでも「子どもが治ること」に役立つと考えたことを、母親は病棟社会に持ち込んでくる。
(pp62-63)
以上からわかることは、病棟社会のなかに、母親によって持ち込まれる「民間信仰・民間療法」
に対して、病棟社会がきわめて強い寛容さをもっているということである。
「民間信仰・民間療法」は、西洋近代科学・医学の集積体である病棟社会に対置してある(あるいはそれらに基本的に「排斥」されつづけてきた)、いわゆる「エスノメディシン」と呼ばれる日本的・土俗的医療に深層で連なる治療文化である。病棟社会では、医療側も子どもの母親も、現代医学の治療の「間隙」を、この「民間信仰・民間療法」のために「開けておく」ことを許容しあう。このことは次のことをも意味する。すなわち子どもは、入院していてもどこかで必ず「病棟の子=患児」ではなく(したがってそこの病棟社会の一員としての患児の役割に完全に染まりきらず)「本来の子ども」の居場所である「家の子は健常児」でいられる「文化的な隙間」のようなものを病棟社会は開けておくということである。それは、子どもの前では、明るくふるまう母親たちだったり、終末期にはとくに、子どもの好きなものを食べさせるための「持ち込み食」の導入許可だったり、願掛けとしての癒しの儀式など「宗教」の病棟社会への導入だったりする。このような意味で、子どもも母親も医療サイドも、西洋近代科学・医学をベースにする、治療を究極的な目的とするような病棟社会には完全には「染まりきらない」。
(pp69-70)
林君は病名を告知されていない。たんに血液の病気だからとしか言われていない。しかし、彼の担当ナースは「この子は、自分の病気ががん系統であることをなんとなく(まわりの雰囲気などから)知っているような気がする」と述べている。また、日ごろの林君を見ていて、病気とかがんとかの直接的な話題は出なかったにせよ、私は彼の「するどさ」と「賢さ」をかなり感じていた。そのような林君が「自分の病気はもしかしてがんなのでは?」という疑義をもつだろうことは十分にありえる。そこで林君は、自分の疑義を確かなものにしようとある種の「確かめ」をここで試みたと思われる。それがシーン6である。しかし、林君の発話は、誰にも相手にされなかった。同意はもちろんのこと、反発や反論さえなかった。「沈黙」をもって迎えられたのである。しかし、私がその場の状況に立ち会って感じたのは、現象的には「沈黙」であっても、そこにいたまわりの子どもやナースの雰囲気は、どちらかといえば積極的なある種の意志を感じさせるものだった。それは、「沈黙」というより、「黙殺」という雰囲気だった。
このように病棟社会の成員を脅かしかねない「良くない情報」、ここではすなわち「死およびそ
れを連想させる話題」は、強烈に峻拒される。林君は、このタブーを犯し病棟社会の秩序を破ることによって、皮肉にもふたたびタブーや秩序を「黙殺」の内に強烈に学ぶことになった。
さて、このシーン6の状況から次のことが推察できる。すなわち、本人がなんとなく気づいていること/半信半疑なことの「情報認識」、この場合自分はがん系統の病気ではないかと疑っていることの「精度/確かさ」を、林君は確認しようとした。しかし、その「確認」のための言動をとったとたん、それまでの雰囲気とはうって変わり、周囲に凍りついたような反応が生起した。結果として、そこにいあわせた全員から、彼の発話は黙殺され無視されたのである。林君の発信した情報は、受信者がいないまま中途半端なかたちで宙に浮き、行き着ける場所なく放置されたのである。
(pp73-76)
このように、「ほかの子どもの死」についてのナースと子どもの質問‐回答のやりとりは、よくよく考えてみれば奇妙なものである。すなわち、大部屋にいたさいに、面会時は母親同士もよく話し、かつ子ども同士もよくなじんで、仲良く遊んだり話したりしていた子の一方が、まったく何の挨拶もなしに「転院、転棟、退院」してしまうということの奇妙さである。しかも「退院」後は、一緒に病気と闘った日々を過ごしたいわば「闘病」の同志ともいえる残された片方の子どもへの「お見舞い」にも「挨拶」にもいっさい来ないのである。そのうえ、その子どもの情報も完全にストップする【※】。
※―通常の日常生活では、これはきわめて奇妙なことといわざるえないだろう。子ども同士だけでなく母親同士まで含めて関係が構築され、しかも仲良く「闘病」までしたいわば「戦友」ともいえる深い関係が、完全に断ち切られるのである。しかも、ときには「退院」という理由で子どもには説明されるのである。病気が治っての退院ならばとても「良いこと」のはずである。にもかかわらず、その「喜び」をもって、戦友であったはずの自分のところに何の挨拶もなくある日突然いなくなってしまうのである。あるいはその後、
まだ病気と戦っている自分のところに「お見舞い」にも来てくれないのである。そのうえ、あろうことか「退院したはず」の子どもの情報は、まったく誰も「それ以上」教えてくれない。
このような「奇妙な状況」が現出するにもかかわらず、また、おそらく大半の子どもは「転院、転棟、退院」というナースの回答を「おかしく」思うだろうにもかかわらず、子どもはそれ以上追求することもなしに、質問を終わらせてしまうのである。
なぜ、ほかの「子どもの死」についての医療スタッフ側の、よく考えれば「奇妙な回答」が、社会的に成立して機能するのだろうか。また、なぜ、子どもは「それ以上」質問を続けることをしなかったのだろうか。
それは、子どもが「そのこと=子どもの死」を聞くことについて、その回答以上のことを「聞いてはいけない」という暗黙の「圧力」というべきものを認識しているからである。そして、その「圧力」は病棟社会の関係の文脈のなかに強力にはたらいて、それに反するような子どもの言説や質問を抑制するのである。同時にこの「聞いてはいけない」という圧力は、もちろん、大人の「聞いてほしくない」とか「本当のことにふれてほしくな」という強力な気持ちが先行してあってはじめて、子ども側の「聞かない」ということが成立する。なぜなら、その質問をする子どもが入院してくるはるか以前に、この病棟社会はそのように成立して、その社会における関係と社会の維
持が、そのようなことを守ること(この場合は、「死んじゃったの?」というような直接的な言葉で子どもが質問したり、「それ以上」しつこく聞いたりしないこと)によってひとつの秩序だった社会として、成立しつづけているからである。その結果、フィールドワーク先の病棟では「病死そのものあるいは病死を連想させること」には、言説を構成しないで、あるいはそこにはふれないでおくという暗黙のルールが不断に生起する。そして、このルールは、病棟社会をひとつの安定した社会として強力に現出させていく。
さて、前述したように、「ほかの子どもの死」について子どもに与えられる情報は、「転院、転棟、退院」である。このような奇妙な回答を提示されても、それを質問した子どもは当然実感をともなって納得できない。納得はできないが、強力な「病死・死」を峻拒する、あるいは無視するルールとその秩序化によって、親しかった(実際は死亡した)ほかの子どもの「転院、転棟、退院」という回答と「この病棟では誰も死なない」という、いわば「公式情報」の真偽を明らかにするまで、「そのこと(ほかの子どもの死)」をナースに聞きつづけることは子どもにはできない。聞きつづけることで、いま、目の前で展開しているナースとの関係、ひいてはその関係を秩序だった方向に析出させつづけている病棟社会の文脈を、「破壊」してしまうことを子どもは十分に感じているのである。こうして子どもは、半信半疑、あるいは中途半端で奇妙な感じを抱いたまま、「それ以上」の質問は打ち切らざるえなくなる。目の前の関係とそれをつつむ器としての病棟社会を壊さないために。しかし、子どもはもちろん、実感をともなっては十分に納得できない。しかもそれ以上「確かめ
ること」もできない。その結果、そのような回答を、ひとつの確固とした社会的な情報として、自分の認識のなかに確信をもって定置できない。定置できないということは、この病棟社会における「死の問題」を不明にして、それについて判断を留保しつづけていくしかない。すなわちほかの子どもも自分も、「死ぬかもしれない/死ぬだろう」というような認識をうやむやにしていない。あるいは排除しつづける。それは、病棟社会全体の「死を排除する」という強力な文脈と相乗するものとして、この病棟社会にかかわるさまざまな状況と人々の関係に、後述するようなきわめて強い影響をおよぼすことになる。
第4章 自分の病気を知ること/知らないでいること
(pp80-81)
さて、以上の個々の子どもへの入院理由・説明を、その内容から分けてみると次のような三群に分類が可能である。
第1群:検査入院である→「発熱の原因を調べるため」とか「どうも血液のなかに病気があるらしいからそれを調べるため」というようなことを子どもは説明される。
第2群:ある種の病気である→「体のなかに悪いバイ菌がいるのでそれを退治するため」「血液のなかに悪いものがあるのでそれを治療する」などである。より年少の子どもへの理由づけにされることが多い。
第3群:入院期間を述べる→これは、根拠なくとりあえず子どもに三ヵ月くらいで退院できるから辛抱して」とか「しばらく我慢して入院してね」ということを告げる。
小児がん系の病気と診断された子どもの入院にさいし、親と医師のあいだには、その子に「病名」告知するか、するならば時期はいつにするかというような決断がまず迫られる。もちろん、子どもに「病名告知」をするかしないかの「判断」は、親の意向が最大に尊重される。そして、たいがいの(ほとんどすべてといってもよいくらいの)親たちは、子どもの入院にさいし「病名告知」を望まない(親が子どもへの「病名告知」を強く希望するごく少数の子どもを除いて、初回入院時に「病名告知」をされる子どもはほとんどいない)【※】
※―もちろん、それはその病名のインパクトが子どもにショックを与えるのではないかという理由からだろう。同時に、親自身がその病名を子どもに伝えたあと、子どもが「ショックのあまり」どのように変化してしまうかとても不安だということも推察できる。
(略)
その結果、「がん系統」の病気で、したがって、深刻な病気で入院するというような「説明」は、上記で記した入院理由・説明からもわかるように、子どもになされることはない。最初の自分の病気にかかわる「説明」と「情報」がこの程度のものならば、そこから子どもは、どのようにして自分の病気への理解と認識を構築していくのだろうか。
まず、言えることは、このような説明・情報下での子どもの病気認識は、親や医療従事者の入院理由・説明、その内容の「雰囲気」に連動して、重篤な悪性血液疾患や腫瘍にもかかわらず、希望に満ちたものとなる。
(pp83-84)
このように子どもは、基本的に病名もないまま、「検査のため」という「理由づけ」や日常的な病気の延長、すなわち「バイ菌退治」や「おでき取り」というようなイメージで入院状況に置かれる。それとともに、まわりの「深刻でない」説明の雰囲気と相乗していくと、ますます自分の病気の深刻さに対する認識は困難になる。その結果、大半の子どもは、入院当初は自分の病気はなんだかよくわからないが、退院後の近い将来の希望を語ったり、すぐに退院できると思っていたりして、「軽い病気なので近々元気になる/退院できる」というような病気に対する認識を形成することになる。ただし、例外的に、少数の、入院当初あるいは入院してしばらくたったあとに病名告知を受けた子どもは、その病名のイメージから、「これは/もしかすると重い病気かもしれない」という
ような病気認識をもつこともある。このような病気認識は、医師および親からの病名告知と説明にさいして、その内容と意味が理解できる子どもが対象となるため、比較的年齢層が上の子どもがもつ認識となる。これまた、ごくまれにだが、病名告知は受けていないものの、子ども自身の鋭い「感受性」「直観」などによって「もしかするとこの病気は、重いのかもしれない」と自分の病気の状態を「見抜く」子どももいる。これらの子どもも、認識をもつことになる。
(pp86-88)
このように子どもは、入院生活では先輩にあたるほかの子どもの様子を見て、具体的な薬の名前ではなく薬の色から、それが使用される順番を学び、効き方と副作用を知っていく。また、シーン10のように子ども同士教え合って、外泊の基準や治療クールの段階を理解していく。その結果、治療クールが一段落したあとの、つまり次の治療クールまでのコ時退院」と、治療が終結したあとの「完全退院」の区別がわかりだしてくる。そのため、子どもは、この病気には上記のような治療のクールがあって、二、三ヵ月の短いスパンではどうやら治療は終結しないらしい/治らないらしいということがわかってくる。繰り返し、入院治療の必要な病気だと理解していく。以上のようにして、子どもは、自分自身の治療の進行と病棟生活での先輩の子どもの言動/行動や治療の進行状況を見て、治療に関することや病棟社会でのそれに応じたふるまい方を学んでいくのである。しかし、子ども同士の情報のやりとりも、基本的には大部屋で流通する範囲にとどまっていく。これは、大部屋にいながら施行される処置や治療の様子に関する情報への認識と、大部屋から個室に移ることになる骨髄移植前後に関する情報認識にとどまる。後者の情報の認識程度は、移植対象者はいずれ個室に行くだろうという情報と、大部屋に戻ってきた骨髄移植終了者の移植体験についてである。
また、この時期の子どもは、言葉をある程度使用することができて、かつ理解できる年少児も含めて、いわゆる「病棟用語」をどんどん覚えていく【※】。
※―子どもたちの会話でよく飛び交う「病棟用語」は「ヘバロック」「一時退院」「完全退院」などである。同時に、そのような「用語」を使用しながら、「治療ごっこ」も始まる。注射をするシーン、お薬がまわってくるシーンなど、子どもにとって「きつい」治療状況を「ごっこ遊び」をとおして自分のなかになじませていく。あるいは、それらへの「慣れ」をつくっていく。
また、「完全退院」していった子どもの再発・再入院などから、骨髄移植後の再発や治療終結後に再発があるらしいこともわかる。その結果、「どうもこの病気には、良くなる子となかなか良くならない子がいるらしい」こともわかってくる。そして、この時期にようやく子どもは、入院当初に認識していたような「楽観的な」病気ではないらしいと思えてくる。子どもが、まわりの大人たちの楽観的な雰囲気と相乗して、当初、楽観視した以上にこの病気は手ごわく、その様相は複雑で治療経過も長く、どうやら大変そうな病気だという認識をもつ子どもも、とくに年長の子どもを中心にして増加してくる。
以上、述べてきたことから、終末期以前の子どもの病気認識および病棟生活での変化は、ようにまとめられる。
・子どもの病気認識および病棟生活での認識変化
第一段階@:自分の病気はなんだかわからないが、入院は要しても軽い病気なので近々元気になる。そして退院できる。
第一段階A:これは/もしかすると重い病気かもしれない(一部の思春期の年代を中心とした子ども)。
第二段階:先に入院している同室の子どもと友人になる。そこでの情報からの病気認識の変化。→使用される薬の順番を薬の色で覚えていく。→外泊の基準や治療クールを理解していく。→一時退院、完全退院の区別。→骨髄移植という治療を認識する。→病棟で使用される「病棟用語」を覚えて使用する。治療をまねた「ごっこ遊び」をする。
第三段階:再発と寛解がある病気である(治療期間が長くかかる病気らしい)。
(p106)
こうして母親は、子どもの病気に対する自分の「態度」と「感情表出」で、二重の基準をもつことになる。その二つの基準とは、
1、子どもの目の前では、つねに明るくあたかも病気などないかのようにふるまう。
2、子どもから見えないところでは、子どもの病状に即した自分の正直な感情、すなわち、泣くなどの感情を吐露する。
とくに1の基準は、次のようなメッセージを子どもに与えることになる。すなわち、「自分の病気は重くない。しばらく入院すれば治癒する」というメッセージである。また、このメッセージは、母親が闘病中の子ども自身にもしっかりもってほしい「病気認識」でもある。そのため母親は・子どもにぜひとももってほしいこのような病気認識に「悪い」影響を与える自分の「悲観的態度・感情」を子どもの前では注意深く排除する。そして「明るくふるまう」と同時に、子どもの病気認識に悲観的な影響を与える話題(病死などの死、増悪に結びつくような話題)をも子どもの前では注意深く排除するのである。
(Pp109-110)
この話は、子どもがいかに自分の病気に対する両親の意向を尊重して、それに沿うようにするのかということと、自分の病気の「取り扱い」をめぐって、両親に対していかに気を使って配慮するのかが見えてきて興味深い。
このように病棟社会の子どもは、みずからの病気についての、母親の「思い」に敏感に反応する。
その「反応」の主眼は、親が子どもとの関係維持に「困らないように」子ども自身が親の気持ちをよく読みとって配慮するというかたちをとる。つまり、子どもは、まず、親の意向である「病気や再入院、病棟生活について自分の子どもはぜひこうあってほしい」という、いわば「親の子どもへの要望」と「気持ち」噛に一生懸命配慮する。また、それらの「要望」や「気持ち」を、子どもは非常によく読みとりもする。そのうえで、それらの流れに沿うように子どもは言動をしていくのである。
第5章 終末期、そして子どもの死
1 子どもの死をめぐって―病名告知・再発告知という情報から
@病名告知を受け、かつ再発告知も受けた子ども
(pp122-123)
まず、大部屋には倉島君と同様な「再発者」がいないこと/いなかったことがあげられる。以前、倉島君は柳君の再発をちゃかすように言うことをとおして、同室のほかの子どもたちの「再発者」への反応を見ようとした。それは、このように再発者にふれる「言動」を発話することをとおして、大部屋での「再発者」としての自分の位置づけ、すなわちふるまい方の基本を知ろうとしたのだろう。しかし、ナースの注意でその後、これらのことは大部屋では「言ってはいけないこと」、ある
種のタブーになる。その結果、倉島君や、当初、一緒になってはやし立てることをしたほかの子どもも、大部屋では「再発」を話題にしてはいけないことがわかってくる。そのため、再発者の大部屋での位置づけが双方に見えてくるまで、あるいはわかるまでに、倉島君のような大部屋に一緒にいる「再発者」をめぐる、おもに言葉のやりとりをとおしての「再発者‐初発者」双方が織りなす社会的相互作用の進展とそれにともなう両者の社会的な位置づけが不明なまま、また「再発」という言葉の流通も阻止されたまま、両者が同じ部屋にいつづけることになる。この結果、社会的な関係で役割をとらなくてもいい仕方(関係を維持・発展させなくてもいい仕方)、すなわち大部屋のほかの子どもたちとそのような社会的関係をもたずに「引きこもる」方策を、大部屋でたった一人の再発者である倉島君は、自然にとりはじめたのだと思われる。
以上の意味で、倉島君は、再発者という自分の大部屋でのあり方、位置づけを押し出して、ほかの子どもたちと、おもに再発をめぐるやりとりをしながら共同でその社会を産出し、かつそれにともなう関係を構築することができなくなったのである。すなわち、いまでは彼が、この場で自分が患児たる最大の事由である「再発者」という役割を背負ったまま、この大部屋のほかの子どもに対して、いったいどのようにふるまえばいいのか、彼自身わからなくなったのである。つまり彼は、大部屋での自分の役割を担えなくなったのである。
こうして倉島君は、自分自身のなかに引きこもる。そして、そういうこととはまるでいっさい関係がないかのように、白血病は、倉島君を死に追い込んでいく。
(p125)
なお、倉島君は、死の三日前の急激な増悪時、(がん細胞浸潤のため)股関節痛がかなりひどい状態になった。しかし、彼は「明日、テストなので絶対に学校(病院に付設の養護学校)に行く」といって痛み止めを内服して学校へ車イスで向かったという【※】。
※―おもに、思春期の子どもは、かなり末期になってもこの倉島君の例でもわかるとおり、一生懸命養護学校に行ったり勉強したりする。ブルーボンド‐ランガーは、このような子どもの健常児により近づく行為を「死なないふり」をするための補助手段だと述べている。しかし、私には、「死なないふり」というよりむしろ、自分がまだ健康であること、健康な部分が残っていること、あるいは病気が「慢性化」して病棟で「寝たきり」にならないことへの、子ども自身にとっての重要な「証」であるように思える。つまり、健常児と同じく学校に行き、勉強するということは、子どもが子ども自身で唯一できる部分的な「健常児役割」への役割回復の試みであり、同時にそれはまた子どもみずからが織りなす「病気への対抗」と「社会的な治療」なのだということである。
(pp127-128)
このように病名告知を受け、かつ再発告知を受けた子どもばかりではなく、次のことがあらゆる状況の子ども全体にかかわることとして推察しうるだろう。すなわち、思春期であれ、年少の子どもであれ、子どもにおそらく唯一具体的に「自分の死」という認識を迫るものは、まさしく彼ら自身の身体感覚ではないだろうか。つまり、これまでとはまったく違う、死に向かうさいに生じるすさまじい増悪による身体感覚の変化が、彼らに「自分の死」というものを突きつけるということである。
前述したように、フィールドワーク先の病棟社会では「子どもの死」という情報はすべてタブーであり、それらが情報として流通することは強烈に峻拒される。このことと、これまで述べてきた「自分の死」の認識状況を合わせると、どのような構造が見えてくるだろうか。ひとつは、ほかの「子どもの死」といういわば、死にまつわるひとつの、しかし強力な情報をもとにしての、つまり「誰かほかの子が病気で死んでしまった」という情報が流布することによって形成される、「もしかして自分もあの子と同じように死ぬのでは」というようなかたちでの、子ども自身の「自分の死」の認識は、ほとんどないことがわかる。この病棟社会では、「情報としての死」はタブーであり、まったく流通することはない。大半の子どもにとっての死の認識は、まず「ほかの子どもの死」という情報としてではない。突然、自分自身の死の直前にふりかかってくる容態悪化という身体症状のすさまじい増悪によってはじめて、具体的に「自分の死」が認識されるのではないかということ
である。すなわち、終末期の子どもでも、死の直前の臨死期になって、自分の身体の増悪が死に向けてほぼ最高に達するまでは、「自分の死」をまったく認識しないし、またできないのである。
A終末期までに病名告知はされているが、再発告知はされていない子ども
(pp135-136)
三田さん本人にとって、これらの日々は「終末期」の日々ではない。「たんなる軽い病気の入院者」であり、このいまの病気は、以前、自分がここで治療したような「重篤」な「悪い」病気ではないし……と思い込んでいるのである。だから、いずれ治ると思っている。治って高校に進学することを楽しみにしている。しかし、ナースにとって彼女はまぎれもない「終末期」の子どもなのである。方針どおりにするとはいえ、そこごこに「思わず」終末期の子どもに対するような村応や雰囲気が、ナース側に見え隠れしてしまう。そして、敏感な三田さんは思ってしまう。「今回の入院は、ナースがとても優しくてなんだか変だ」と。終末期として「準備」しているナースとの違和感を、三田さんが母親に向けて表明したのである。しかし三田さんはそこから、だから自分は終末期にあって、あの病名は「うそ」なんだと思うことまではできない。よもや、母親も含めたまわりの大人たち全員がある意味で「共謀」して自分に「うそ」の病名までつけている、という「考え」など「思いもかけない」。もちろん、自分の病状や病名に対する疑義が自分の認識のなかに出てくることもない。ナースの態度が変だと思っても、よもや「そこまで」とは、思えない。
高校進学を楽しみにしている「治りたい自分」。その彼女のいちばんの「希望」を第一に維持するために構成される彼女とまわりとの関係=「社会的な状況」。
そのようにして構築された社会的な関係での彼女の認識は、新しい軽い病気に罹患したということにとどまっている。つまり、身体が激しく悪化するまでは、前の病気の再発‐再入院というかたちでの新たな「意味づけ」を構築しなくてすむのである。以上の結果、彼女は、まわりに対してこ
れまでと同様な「初発者」としての認識と社会的位置づけをもつことになる。逆に彼女の状態を「知っている」スタッフや親は急に「優しく」なり、これまでとは微妙に異なる位置づけにシフトする。これまでの認識の延長上にある彼女とシフトしてしまったナースとの微妙な差異を、本人が「今回の入院は、ナースが優しくて変だ」と表明しているのである。
B終末期まで病名告知をいっさい受けず、また再発したとも言われていない子ども
(p140)
このように病棟社会の子どもは、どんな状況であれ、自分の親の意図・意向を最優先しつづけていることがわかる。私もフィールドワーク期間中、子どもの母親への「わがまま」を見ることはあっても、自分の病気については親の意図・意向を超えた言動や行動をする子どもを見ることはいっさいなかった。また、ナースへのインタビューでも、そのような親の意図/意向に反する子どもの例を聞くことはまったくなかった。
(pp146-147)
さて、以上の@からCの「病名告知」の仕方に呼応する子どもの言動・行動の「違い」から、病棟社会を支え維持しつづける関係の「原則」が浮かび上がる。
原則1:「ほかの子どもの死」の情報など、「死の情報」が病棟内に流通することをとおして成される「自分の死」への認識は、本病棟の場合まったくない。その結果、それらの死の情報を活用して、死について表現し発話しあうような子ども同士の関係という構造で、病棟社会は構築されていないことがわかる。病棟社会における死は、おおむね死の直前に子ども自身がきわめて個人的に、かつ症状の悪化をとおして、身体そのものに根ざしたかたちで認識するにとどまる。それは、関係に向かって「死への語り」を展開するというかたちでの、社会的な文脈を構成するものとはならない。いちじるしく個人的に子どもの身体とその母親との関係にだけ限定され、そこから社会に出て、その社会を構成するほかの成員にはなかなか共有されない。
原則2:(とくにBの病名・再発告知なしの状況例から)まわりの「大人」が、子ども自身が現在の状況に「不信感」をもったり、そこからしつこく自分の病名を聞いたりしないことを望むなら(親が望んでいないことを子どもがするならば、当然、親子関係が葛藤状態に陥るだろう。それがエスカレートすれば、関係そのものが崩壊する可能性もある)、子どもは「不信感」を抱かない、「不信感」を入れないようにしていく。すなわち子どもは、まわりの「意図・意向」にそった認識形成にみずからも努める。このように病棟社会では、その社会の秩序維持と運営に、権力と責任をもっているまわりの大人たちの志向する「関係の安定の仕方」、すなわちそこでの社会的関係を安定させ維持していくための方策を理解して受け入れるということが、そして、その「意図・意向」をきちんと読みとって、それに従うということが最優先の社会的課題として子どもに果たされる。それによって、終末期にいたるまで「病名告知」や子ども自身の死は、関係においては「問題化」しない。病棟社会と関係の「安定」は保たれたまま、最後まで終始することになる。
2 母と子の絆
(pp154-155)
前述したように、子どもが死に逝くプロセスで、ブルーボンド‐ランがーの観察した子どもは、死ぬまで患児としての「役割」を担っていくという社会化を停止しない。「母親の子ども」としてではなく「病棟社会での患児」としての社会的役割を優先的に担いながら、かつ死に逝く者として子どもは、残された者との社会的関係を維持するために、自分が死ぬということを知っていても「知らないふり」をする。このように、ブルーボンド‐ランがーの観察した九歳以下の子どもたち(本研究でいえば思春期以前の子どもたち)にとって死は、あくまで社会的役割維持・社会的関係維持双方の方策をともなったきわめて「社会的な出来事」なのである。それに対して、フィールドワーク先の思春期以前の子どもたちは、終末期以前の子どもたちは、終末期に入って死が近づけば近づくほど、それまで培ってきた社会化、すなわち患児役割をどんどんはぎ取り、死の直前には、ほとんど「赤ちゃん」のようになっていく。そして治療も対症療法だけとなり、西洋近代医学も引き揚げを開始する。つまり、子どもの死が近づくにつれて、病棟社会での患児役割という社会的役割という社会的役割の展開および関係維持の方策が、かぎりなく弱化されていくのである。それにともなって、現代医療を司っている医療者が、医療の領域から撤退しはじめる。そして、家族、ひいては二者関係である「母子関係」という、いわば病棟社会にありながらも、きわめて「私的な領域」【※】に、子どもの死が近しくなるにつれてどんどんと子どもを返していくのである。まさしくこの過程が、小児がん病棟でのおおむね九歳以下の子どもの、社会的な側面からの死に逝くプロセスなのである。
※―私的な領域における死
最近は、ずいぶん変化が見られるが、これまで日本の医療の医師‐患者関係の基本的あり方は、「医師におまかせ」の「パターナリズム」であるといわれてきた。しかし、本フィールドワークで子どもの終末期の状況を見ていると、その死が近づけば近づくほど医師を中心とした医療は撤退しはじめ、どんどん「家族におまかせ」になってくる。このように日本の医療で死は、医療の領域として「管理・運営」されるものではなく、きわめて私的な領域のものと認知されつづけてきたのではないか。余談だが、この意味で「脳死」という死のあり方を考えてみると興味深い。なぜ、「脳死」が欧米諸国に比べていちじるしく「国民的理解」が得られないかというと、そのひとつの、しかし強力な理由として、人の死はあくまで「極私的な領域の出来事」であり、死ぬ「私」が本来属する「私的な領域」に、死にゆきつつある時点で医療・医学から返還されつづけるものだからではないだろうか。そして、その頂点における死を迎えたときには、医療・医学から完全に離脱して全き「私」のもとに帰属する必要がある。そのため、医療側が脳死という死を提示しても、それが医療・医学の部類に属す死であるので、つまり死んでも「私」の側に返還されないので、文化的に、「そのような死」は承服しがたいのではないだろうか。そこから考えると、日本での献体率がきわめて低いというのも納得できるし、子どもの死後、医師が病理解剖を望んでも受け入れる親がきわめて少ないと言うことも理解できる。なぜなら、それらは死してなお医学の側に置きとどめられる死だからである。それらは「医学的な死」であり、医学という「出来事」の延長線上における死だからである。
第6章 「ふり」をする母親
(pP158-159)
以上述べてきたことから、本病棟では、子どもと病棟社会、子どもと母親との社会的関係の安定は、次のような社会的文脈のなかで維持されていることがわかる。
@病気にかかわる情報量がきわめて少ない状況に子どもを置きつづける
A病気や死など、病棟での社会的関係を脅かすような子どもの「問いかけ」は無視する
B母親は、(子どもの症状がどうであれ)子どもの目前では子どもが「元気になるふり」をしつづける
C病棟社会では、「ほかの子どもの死」をいっさい認めない
第7章 タブーを排除すること、あるいは不安と恐怖について
(pp170-171)
それでは、子ども側は、タブーにふれるような話題に発展しそうな他者からの言説や質問には、具体的にはどのように、それらを排除していくのだろうか。それは、排険すべき「そのこと」を、その他者とのあいだで「話題」にしないことをとおしてである。たとえば、前述したシーン26から細谷論文の事例のような闘病体験にまつわる質問などを、その体験を知っている他者が話題にする
とする。あるいは質問する。そしていったん、当事者である子どもが、その質問に受け答えてしまえば、その後、二人で構成した病棟社会を脅かすタブーに発展する可能性のある話題が社会的に共有された文脈として構築・発展される。その結果、次回からその共有された文脈への相互の認識をベースにして、再帰的に基本的にタブーとされるような言説=具体的な話題を、さらなる相互の質問と会話などで発展させながら、その文脈を強固にして豊饒化していってしまうことになる【※】。
(pp173-174)
以上まとめると、子どもは治療に集約される存在としての子ども、すなわち患児として生きていくために、また同時に、母親をはじめとする他者との関係を構築・維持しつづけていくために、この病棟社会で適応的に生き抜くさまざまな「ルール」ともいうべきものを、他者との「やりとり」をとおして学んでいく。たとえば、それは、質問しても「聞き流されたり」「無視されたり」という「やりとり」であったり、死や増悪に関することなど、ある特定の話題の展開は、まわりから抑止されるというようなことである。これらをとおして子どもは、まわりの聞いてほしくない意図、およびそれにもとつく「ふり」の様相を理解していくことになる。そうなると子どもは、そこでの社会的な関係を「壊さないために」その意図と「ふり」を超えることをしなくなる。まわりが「聞いてほしくないこと」はそれ以上聞かないし、「言ってほしくないこと」はそれ以上言わなくなる。同時に子どもは、許容範囲を超えるため閉め出した認識を、再燃させられるようなまわりからの「話題・お話(情報)」を、即座にかつ強力に拒否・排除するのである。
一方でそれらのこと、すなわち、まわりの意図・意向を超えて話が発展してしまうような話題を拒否し「会話」として発展させないことは、子どもの不安や恐怖のせいではないかという議論もあろう。しかし、不安や恐怖の顕現は、その状況と社会的関係のあり方が規定するものである。端的にいえば、その状況を形成する社会的関係や不安・恐怖の程度によって、それらの顕現は、それを
「徹底的に抑止する」から「思う存分発散できる」「いっさいの社会的な関係を無視して原始的なパニックに陥る/陥らざるをえない」までのスペクトルがある。つまり、この病棟社会で子どもが「そのこと」を話題にしないのは、たんに不安・恐怖があるから話題にしないのではない。その不安・恐怖の病棟社会での「取り扱われ方」、いわば「あり方」が、そこでの社会的関係に規定されているからこそ、子どもは、黙る/話題にしない、その話題を拒否するというかたちで不安・恐怖を顕現する【※】。
※―子どもが、自分の感情や欲求を、状況や場忙応じてどのように扱うべきか、扱わなければならないかということは、大人が子どもにしつづけてきた「しつけ」の根本である。いわば、感情や欲求を癒切に」発露すること・そ、子どもが社会化されるための重要な要件のひとつなのである。これは、小児がんに罹患した子どもも同様である。なぜなら、小児がんに罹患しても子どもがその感情や欲求を「適切に」発露することこそが、病棟社会を秩序だって維持.展開しつづけるひとつの強力な基盤となるからである。
(pp176-178)
「自分も死ぬかもしれない/死ぬだろう」というような死への不安や恐怖の認識が、その社会全体に峻拒され公認されない、あるいは「そのようなこと」は認知してはいけないという状況は、子ど
もの病気憎悪にともなう子ども自身の身体感覚の変化の社会的位置にも影響をおよぼす。たとえば、実際に子ども自身の増悪による身体不快感や痛みがあっても「そのようなこと(増悪や死に結びつくようなこと)」は、まわりの大人の意図・意向、すなわちこの病棟社会で子どもにしてほしい社会化の方向に反するので、子どもからそのような感覚の訴えがあったとしても、それについての正確な状況が子どもに説明されることはない。その身体不快感は病状の悪化・進行によるものという説明が子どもに与えられることはない。たとえ、子どもから訴えがあっても「大丈夫」であるというような「楽観的」な方向の言説がなされる。あるいは「それ」については言及されずに、ゆるやかに「無視」される。加えて子ども自身も、そのような情報はまったく病棟社会に流布していないので、ほかの子どもの死の情報やほかの子どもの終末期の身体状況の情報をもとにして自分のそれと比較することができない。このような状況では、ほとんどの子どもには、ブルーボンド‐ランガーが観察した子どものように、状況を比較検討して再構成し、自分の病状を判断してそれに合わせて自分を発露するということはまずできない。まわりからの、極端にいえばそれこそ「傷は浅いぞしっかりしろ」というような現状の否定と励ましによって、子ども自身の身体の変化への認識は、そのような「楽観的」に保持しつづけることが、ほぼ最後まで奨励されるのである。身体の増悪とそれにともなう子どもの認識が一致することは拒否される。自己の身体への認識は、たとえ痛くても不快感が増大しても、大人は総力をあげて、子どもの認識を楽観的な方向へいちじるしく「ずらしつづける」。そして、そのような「楽観的」な認識をもつことが、子どもには果たされる。このような結果は、たとえば、いまある「痛
み」が末期にいたったための痛みとして認識して、そのようなものとして発露していいのか、つまりもうしばらくすると死ぬのだから我慢もほどほどにして泣きわめいていいのか、たんなる病状経過の、あるいは回復過程の「痛み」として認識して発露していいのか、したがって、ここは我慢すべき痛みなのかは、子どもにとってはまったくわからないものとなる。
こうして子どもは、自分が増悪して死に近しくなっているという個人的認識をもちがたい。また、子どもは自分の増悪や死についての、まわりからの社会的公認と認知を得ることができない(そのようなことは「発話」もタブーになっている)。ほとんどの子どもは、病状進展にともなう身体感覚の増悪的変化と、それへの自分の認識が一致できない。実際、臨死期にいたった子どもにさえ、親は「治ったあとの楽しい予定」を語るのである。このように死や増悪を峻拒するという強力なタブーをともなう「楽観的認識」の呪縛からは、とても逃れがたいので、結果として子どもは「自分の死」を自分自身にも他者にも、すなわち社会に向けては発現/発言できない。例外的に、そのうちの一部の子ども、敏感な子どもや臨死期にいたった子どもの一部で、身体症状の増悪的変化が最高潮に達した子どもは、死や増悪に関することを発話することもある。けれども、ほとんどの子どもは「死」に直接言及しないまま、急激に死という転帰を迎えることになる。
第8章 「社会的な死」を招来しないための関係構造
(pp182-183)
以降、本フィールドワークのさまざまな知見の到達点として、病棟社会を構成・維持するために、子どもを軸としたその社会の成員がどのような方法と構築でもって、そこでの社会を存立させているのかについて述べる。
このことを論じるにあたって、まず前提として認識する必要のあることは、病気になって患児という役割を身につけていくにしても、その子はなににもましてまず「子ども」であるということである。通常子どもは、その生まれ出た社会で、生物学的な発達と同時に、その国その民族の文化的文脈を家族や地域、学校などのフィルターをとおして、自分という物語のなか織り込んでいく。そして、そこの社会と文化に適応していく。あるいは適応していかねばならない。つまり、そこの社会の成員として、その社会のあり方を受け入れ維持する頁として「社会化」されていく。私がこの最終章にいたるまでの各章で述べてきた社会化の諸相とは、病棟社会における@人間が社会を産み出すと同時にその人間が社会を産み出すということの諸相A個人がさまざまな他者との相互的なやりとりをとおして社会的なアイデンティティや役割を演じるための諸相だった。この章で述べるのは、社会化の最後の諸相である、B社会化は社会統制とともに社会システム存立の機能的要件を構成する、ということについてである。つまり、この章では病棟社会をひとつの社会システムとして存立させている、機能的な要件がどのように連関しているのかを提示してい
くことになる。
(pp184-185)
病棟社会を維持する、つまり社会的な死を成員が峻拒しつづけるという状況を基本的に支えつづけるものが、本論文でシーンや語りを提示しながら詳細に検討・考察してきたことがら、すなわち次の三方略である。それは、
1、母親の子どもへの「楽観的ふり」
2、「増悪・死」の発現の阻止(誰も死なない病棟)
3、親の子どもに対する意図・意向の最大尊重
である。
以上の、三点が貫徹されることによって、子どもへの病気情報の与えられ方が決定され、同時にその情報を元に子どもの病気・病状に関して、子ども自身が「認識してもよい」方向が根底的に規定される。そして、基本的に子どもがその方向に「合わせること」「沿うこと」によって、病棟社会の社会的関係が良好に機能し維持されつづける。さらにこれらに加えて、終末期状況という危機的・極限的な状況においても、関係が破壊されて「社会的な死」が招来しないようなシステムがはたらく。それは、とくに年少の子どもであればあるほど社会化以前の母子二者関係へと戻り、母親と一体化することをとおして「社会」を形成しなくともすむようにすることである。このようにして、終末期という極限状況に生起する/しようとする「社会的な死」を阻止していくのである。こ
うして子どもが死にいたるまで、病棟社会においてはなお、その社会を維持し続行させつづける方略が機能し、この結果「社会的な死」は最後まで回避されつづけるのである。
*作成:
植村 要
UP:20080930 REV:
◇
がん
◇
障害新生児の[選択的]治療停止
○
医療人類学
◇
身体×世界:関連書籍 2000-2004
◇
BOOK
TOP
HOME(http://www.arsvi.com)
◇