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Modest Reflections on Hegemony and Global Democracy

Young, Iris Marion 2003 Theoria


アイリス・ヤング集中講義


Iris Marion Young
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/young.htm
Modest Reflections on Hegemony and Global Democracy

〔簡易訳〕
ヘゲモニーとグローバル・デモクラシーについての控えめな考察
作成:山本崇記 2003/12/15(アイリス・ヤング集中講義のための勉強会で報告)

  アメリカ合衆国がその軍事的力の強大さにおいて他の国々と比較にならないということを理解するために、世界はイラクに対する戦争を必要としなかった。しかしながら、グローバル市民社会やほとんどすべての国々からの激しい反対に直面して、アメリカ合衆国がその力を誇示する露骨なやり方は、他の行為体の賛成や同意なく、その力が正しさを判断するという点において、アメリカ合衆国がそれを行使するつもりであることを示している。アメリカの経済権力はそこまで図々しく、並外れてはいない。企業の利益に基づいたアメリカは、世界経済の意思決定を支配しているけれども、これらは世界の裕福な国々の数少ない企業の利益と同盟を結んでいる。彼らは、グローバル経済政策を作るために異なった旗の下、一年に何度も集まる。例えば、世界経済フォーラム、世界銀行やIMFの会合、G8のサミットなどにおいて。
  アメリカ合衆国の軍事力やワシントンにおける合意の作り手たちの経済的ヘゲモニーが強化され、悪気もさえなくなっていくにつれて、それらに対する多くの反対も大きくなってきた。三年間の間、世界社会フォーラムは何千何万もの活動家や主張者を、グローバルな経済的の政策にNOを言うために、ブラジルに惹きつけてきた。二〇〇三年年二月、一億人以上の人たちが世界中で街路を埋め尽くし、その多くがイラクに対する戦争を遂行するアメリカの決定に対して能動的に抵抗した自分たちの政府を支持するために。
  この歴史的瞬間に、私たちは世界の独裁の下に生活している。それを「帝国」と呼ぶ人もおり、その中には肯定的な調子でその働きを発する人もいる。このように言うことで、私は民主主義が多くの国々の国内の政治過程から消失して来ているということを主張しようとしているのではない。むしろ、世界の軍事力として、そして、重要な企業や国際的な経済権力と同盟しているアメリカ合衆国が、主要な国際的事象に対して権威的な支配者として機能しているということを意味しているのである。独裁とは、その決定や行為によって影響される人々の相談に乗り、また応答するということなしに、その意図を出そうとする、また、出すことのできる体制である。その意味において、グローバルな覇権的権力は独裁者として振舞うのである。それ自身によってイラクに対する基礎的な安全や援助を回復することができない或いはするつもりがないアメリカの最近の承認は、この独裁的な支配を小さなレベルまで抑制している。しかしながら、それを為す期間、他の国々からの協力にアメリカ合衆国は固執し続けているので、少なくともそのヘゲモニックな状況は、独裁を望んでいる状況のままである。
  しかしながら、同時に私が参照してきたグローバルな草の根の社会運動は、「もうひとつの世界は可能だ」(“Another World is Possible”)というスローガンの周りに結集している。もうひとつの世界とは何か。それを考察することがなぜ重要なのか。それは可能であるのか。これらは、私がこの小さな話しの中で議論する大きな問題点である。私の考察は、2、3の点で行為のための話もするが、大抵概念的であり規範的である。
  まず私は、グローバルな軍事・経済のヘゲモニーがなぜ悪く危険であるのかの理由を再確認する。次に、ローカルそしてリージョナルな自己決定を蹂躙するよりもむしろ可能にさせるグローバル・デモクラシーのビジョンの概念的要素のいくつかを展開する。三つ目に、グローバルな再分配と経済的なエンパワーメントの議論をこのグローバル・デモクラシーのビジョンと接続する。結論的に、独裁に抵抗するあらゆる運動に生じする矛盾に著面するだろう。つまり、私たちが独裁的な支配者たちの下で生活している時、民主主義への移行はどうのようにして起こり得るのか、というものである。

ヘゲモニーのどこが悪いのか? グローバル・デモクラシーに関する議論

  アメリカ合衆国は、国際的な安全、人権、国内的な民主主義、そして経済発展を長い期間促進するためにその力を使用することを主張する。アメリカ合衆国の内外の多くの人々は、これらの主張の信頼性に疑問を持っている。そして、私はそれらを疑う理由があるということに同意する。しかしながら、諸原理を明確化するために、それらを偽りのない主張として想定してみよう。覇権的な軍事力が心からグローバルな共通善を持ち、それが悪を正し、諸国家や国際関係をより平和的で正しいものにするために、それらを変化させようとしているということを真実だとするとしたら。支配的な経済諸権力が、心の中で世界の人々の共通善のみを持っているとしたら。もし支配的な権力の使用の意図された目的が誠実に求められており、それ自身善いものであるとしたら、そのようなヘゲモニックな権力に反対するものとは何である得るのか?
  原理的に、これは単一の国家を支配する慈悲深い支配者に反対する理由があるのかどうかという問いと同様だ。私たちは、それがたとえ正義を目的としている時でさえ、独裁的な支配に対抗する哲学的な議論の多くの源泉を見ることができる。私は、ジョン・ロックによって提案された二つの議論を引用し、私自身の議論をそれらに補足する。
  今日の国際的なそして国内的な政治的言説の中で、人権の諸原理の役割はたいてい中世そして初期近代西洋社会の自然法のそれである。人権の諸原理は権利と善の基礎的な道徳の諸基準であり、その意味と妥当性は特定の制度には依存しない。ロックの「政府論の第二論文」(『市民政府論』)の中では、彼は自然法によって統治される自然状態を構築している。自然状態において各人は、自然法を認識する理性の能力をもっている。各人が自身の諸権利に応じて自然法を解釈し実行する権利を持っているという事実こそ、紛争や不同意の受け入れられない水準を発生しがちである。それらは、その法がかれらすべてを客観的に縛る政府の制度によってのみ取り除かれ得る。ある行為者が、自然法が破壊されてきたかどうか、そして侵害に対する適切な反応が何であるのかということについて考えるための自分自身の根拠しか持っていない時、彼は自分自身の関心による偏見に陥りがちになり、また、他者を過度に罰しがちになる、とロックは議論する。彼の観点を案内とすると、つまり、自然状態において道徳的行為者は一般的な善と自分自身の善、彼自身の関心と客観的に正しいものとの区別をつける十分な手段をもたないということになる。道徳的行為者は、心から自然法を解釈し守らせようと望み得るが、彼の法解釈によって特殊主義的な偏見の影響を制限する術を持たない。ロックはまた私たちが適当な事実を知り考慮に入れるための推論と能力において全く誤りがあり得るということも議論している。結果的に、自然法を正しく適用しようとする一人の道徳的行為者は、誤りに対するどんなチェックも、そのような誤りに気づくどんな方法も持ち合わせていないのである。
  哲学の歴史におけるこの問いへの応答のひとつは、推論に関する二つの見方の間にある違いを理論化することである。つまり、偏っていない一般的な見方と特定の見方である。私はここで、どこからともなく出てきた見方の考え、或いは、あらゆる偏見から離れた一般的な意志についての哲学的批判を振り返る余裕はない。私がこれらの諸批判の一文を理解しているので、その問いは、推定上一般的な見方が独りよがりのままであるということである。私たちが解決しようとしている問いは、推論についての行為者の観点が、その偏見や錯誤を明らかにするという別の観点によって制限を受けることがないというものである。単一の一般的な見方を仮定することは、単純にこの問いを別のレベルに押し出す。何が正しいのかということについての行為者の推論間での対話的相互作用の過程のみが、彼/女自身の特定のニーズ、関心、観点とすべての人のニーズ、関心、観点を規定的原理が考慮に入れるものより一般的な理解との間にある違いを意識するようにさせることができる。
  対話的民主主義論は、しばしば思慮深い民主主義と呼ばれるし、また広範囲或いはコミュニケーション民主主義と呼ばれもするが、それはそのような対話的倫理を政治哲学に適用する。Inclusion and Democracy(『包摂と民主主義』)において、私はこの一般的理論的なアプローチに、構造的な社会的不平等という状況の下で、民主主義の議論において政体のあらゆる成員を包摂するということは参加するという平等で形式的な諸権利以上の意味を持つという特定の議論を付け加えた。構造的な不平等は社会的・経済的にも有利な集団を政治的に有利にするので、包摂的で思慮のある過程は、比較的周縁化された人々のニーズ、関心、観点などが、慎重な過程の中で声と影響力を得ることを保障するような特別の手段を講じなければならない。経済的且つ社会的により弱い立場にある個人や集団の補償の代表に関する議論は、それはそうであるけれども、単なる政治的な影響力の分配における公正のひとつではないのである。問題や提案についてのすべての社会的観点を声にすることだけが、客観性を主張することのできる関心や判断と、偏った特定の関心や判断とを区別する公的な客観性を生み出すことができる。
  グローバルな政治のレベルに関すると、いつ危険な状態にあるのか、そして、どのようにしたら防衛されるのかということ決める思慮や意思決定の包摂的なグローバルなシステムがあるとするならが、人権は継続的且つ永続的に守られ得るということをこの議論は含んでいる。世界の相互作用と依存性の密度が増加することで、よりグローバルなレベルで、安全の規制、人権、貿易の規制、発展政策、そして、他のグローバルな諸問題に対する機会と必要が作られてきた。あらゆる世界の人々の経験や関心に沿って互いの観点が相互作用を起こすことによって、そのような規定的な諸過程が掲載されるときにこそ、グローバルな統治は道徳的正当性を持ち得るのである。

非支配的な自己−決定

  幾人かの人々はグローバル・デモクラシーを求めることに反対する。なぜなら、彼らは国民主権を保持したいからである。諸国家の多元主義的なシステムにおける人々の自己決定と自治に対する観点がないと、言われていることかもしれないが、ますます小さく弱くなっていく人々が完全に圧倒され、今日の強力なグローバル権力の中の経済・政治権力を高めるだけのいわゆるコスモポリタンなシステムに同化することを強制されるだろう。グローバル・デモクラシーのシステムを制定することを考えたり試みたりするよりはむしろ、外部からの軍事的強制や経済的支配に対抗する国民主権を強化する方が良いだろう。
  少なくとも二つの理由が、西洋型の主権性を削除するプロジェクトに対抗している。世界中の人々の間の依存性の程度が非常に進展したため、ほとんどの国家が国内的な出来事をよその国や組織による行為や政策の影響から効果的に守ることができなくなっている。さらに、伝統的な国民国家の主権の正当性は、国家によって不正に支配されているということを主張するマイノリティの社会運動によって疑問に付されるようになっている。その中心として、適切に形式化された自己−決定の原理を持つグローバル・デモクラシーの多元的概念は、現下のトンランスナショナル且つサブナショナルな支配の問題双方により良く応答する、ということを私は提案する。
  今日、自己−決定の原理の意味についての共通理解は、自己−決定を主権と同一視するというものである。主権として理解されることによって、自己−決定の原理は、支配されないということを意味する。自己−決定する存在は、それが排他的な支配権を持ち得また持つべきで、さらに他者が干渉することをやめるべきだというということに密接に結びつく域を持っている。この自己−決定の解釈によって自治主体の幾つかは、彼らの内的な支配権に対する規定的な権利を直接的に侵害しない限りにおいて、他者との関係において暴力を行使し、得ることが可能となる。さらに、自己−決定の非干渉的な理解は、もし相互作用の諸過程が自身の存在を存続する源を彼らから奪うとしても、援助や支えることを主張することなしに自治の諸実体をそのままにしておく。最後に、自己−決定を主権として理解することは、彼らの国家や他の人々がその支配権において彼らを誤って支配するという可能性に対抗して、諸個人や集団を守ることに失敗する。
  以前に書いたのだが、私は関係的な自治のフェミニスト的な分析を引用し自己−決定の概念化に関して議論し、フィリップ・ペッティによる非支配的な共和主義的概念について議論した。関係的な自治の概念は、行為者やあらゆる諸個人や集団の諸能力が関係的に構成されているということを認識している。どのような行為者も、彼/女がただ一人の支配権を持っている内部と彼/女が影響もしないし影響されもしないような外部との間に厳格な区別がされている孤島ではない。これは、社会的集合−集団や人々の真実である。美徳の位置、環境、歴史、文化的実践或いは行為の文化的目的によって他者と区別して自分自身を考える集団や人々は、争いや支配に関する互いの義務や潜在力を発生させるような他の集団との流動的な諸関係に埋め込まれている。そのような関係において、自治とは、どのようにして彼らが、これらの行為に他者が干渉しないような部分についての第一の義務を伴って、集合的行為を組織するのかということについて自身の決定を為し実行するための集団の能力としての真の意味を持つ。
  しかしながら、集団とは他者と共にあり、そして、その諸行為が他者に悪く影響してしまうかもしれないという関係性を認識する時、そのような自治とは概念的なものでなければならない。自治的行為体の間での関係に紛争が起こるところ、或いは共有化された問題が発生するところ、或いは他者による支配に傷つきやすい状態を作り出す不平等の発生を可能にするところでは、自己−決定は判決、交渉、集合的問題解決の共通の過程に加わる自治単位を必要とする。

非支配的な自己−決定の制度化

  非支配的な自己−決定概念はどのようにしてグローバル・デモクラシーのビジョンに貢献するのだろうか?ここで私はこの問いを簡単にだけそして非常に一般的な仕方で議論する一方で、このプロジェクトに捧げられる理論的な想像力が多く存在していることに気づいた。ローカルな自己−決定と人々の間でのグローバルな政治的平等と、グローバルなレベルでの集合的問題解決の双方が、ローカル且つリージョナルな単位のシステムという手段によって最も良く実行されることができる。その自治単位は、集合的生活や行為を組織する思慮のある自治を持っており、その手続きや決定にすべて参加できるグローバルなレベルの規定的体制の内部に重層化されている。グローバルな規定的且つ交渉的計画のリージョナル且つローカルな政治組織との関係は、地方に中央から課される法的なヒエラルキーであってはならない。そうではなく、グローバルな諸制度が、争いに判決を下し、合意を交渉し、そして協同的なプロジェクトを作り出すためのローカルな自治とリージョナルな自治との間の水平的な関係のために、共通の問題や手順についての議論を供給することができるだろう。グローバルな手順と規定的制度それ自身はポリアーキーであり、このモデルにおいては、例えば安全保障、財政、投資、環境、健康そして福祉というような異なったグローバルな争点に対して異なった中心を持っている。グローバルなレベルでの手続きや規定的な制度の機能は、他者による支配に対する脆弱さから自治単位を守ることであり、単位の内部において個々人を甚大な人権侵害から守ることであり、そして、自治単位によって共有化された問題を議論するための協同的なプログラムを発展させることである。これらの自治単位の多くが領域的に制限されている一方で、自己−決定の原理を制定することは、自治単位に、その成員によってのみ或いはその成員によって主要に占められている単一の領域にまったく住んでいない人々の意思決定をも可能にさせる。
  その中心に関係的自治を伴うグローバル・デモクラシーンのビジョンは、決定により拘束を受ける人々の代表が参画する意思決定の多様なレベルに関わっている。それは上下双方に説明責任があるシステムであるべきである。例えば、ローカルな単位は外部のものに対してかれらの行為について説明すべきであるし、グローバルなレベルに対してプロセスを再確認しなければならない。また、グローバルな決定はローカルなレベルに応えなければならない。しかしながら、既に言われているように、行政の相互行為や交渉は、垂直的であると同時に水平的にも移動すべである。協同が生じるレベルや他者による幾つかの単位の支配或いは上層レベルからの下層レベルへの支配に対する傷つきやすさのために、関係的自治はあらゆる単位がその自治に必要な基礎的資源に対する支配権を持つような過程を必要とする。このようにして、規制と協同のグローバルなレベルの制度の別の主要な機能とは、ローカルな自治に支援が必要な時、そのような資源の分配・再分配を監視することである。
  これらの線に沿ってグローバル且つリージョナルな統治モデルは、様々に呼ばれてきた。例えば、コスモポリタン民主主義、異質連邦主義、直接的な思慮深いポリアーキー、全方位連邦主義、中心化され脱中心化、説明責任自治、そして、異質化した連帯などである。これらの理論は制度的なデザインの諸原理を大都市地域における、そして/或いは、世界中の異なったローカル間における重層化した諸関係に同様に適用する。この種のビジョンにおいては、国家として知られている統治レベルは未だ居場所を維持したままであることができる。それらは、最も発展し強化された諸能力を保持している。執行官・行政官として、国家はローカルそして異なった集団そしてグローバルなレベルの間の媒介項として自らをみなすことができる。そのように、それらは強力な要素であるが、伝統的に理解されている意味での主権者ではないのである。

経済的なエンパワーメント

  グローバルな豊かさとグローバルな貧困との間にある広大な不平等を無視することのできるグローバル・デモクラシーの議論は存在しない。ヘゲモニックなグローバル資本主義の現存システムが、この不平等を生産・再生産しているのである。世界の何十億という人たち、南半球の未発展諸国の人々の大多数が、絶望的な貧困に苦しんでいる。その社会では、多くの人たちが、彼らが必要としている財やサービスを生み出すインフラをほとんど持っていないし、政府も命令を出したり、行動を調整したりする能力を失っている。この状況が惨めさを生み出し永続化させているだけでなく、それは効果的に世界の多くの人々を重要な点においてグローバルな統治計画に参与する可能性から締め出しているのである。たとえ、あるいはある程度までそのような統治が存在するかもしれないとしても。例えば、ほとんどの国々が世界貿易機関の名ばかりのメンバーであり、それはそれぞれのメンバーの国々に平等な投票権を与えている国際金融機関や世界銀行とは異なっている。しかしながら、たくさんの国々が会合に代表を送り、或いは調査を実施するための十分なスタッフを提供し配慮によって効果的な声を与えることが出来るような議論を為すための資源を欠如させている。より一般的に、グローバルに不平等が存在するということが多くの人々や国々を、企業、政府そして国際的諸要素による支配や搾取によって傷つけられやすくさせている。さらに、もし、関係的な自治単位がその成員が世間並みの生活をし、彼らの集合的な目的の幾つかを実現するのに必要とされる幾つかの資源に対する意味のある支配をもっていないのならば、ローカルな自己−決定はあまり意味を持たない。グローバルな民主主義化のプロジェクトは、グローバルな正義に向けて幾つかの動きを必要としている。
  最近の哲学的な論文が急増し、次のような問いが議論されている。単一の国民国家の国境を正義の義務は越えて拡がるのか? 哲学者の中にはそれらは拡がらないと主張し続けているものがいる一方で、この立場のもっともらしさは衰えつつある。トランスナショナルな正義の義務があるという議論は、単純に必要の事実に訴えることができない。人々の巨大な必要性とそのような状況に追い込んでいる傷つきやすさは最も良く慈善の責任に引き戻す。この観点の下では、遠い他者の必要性を解消することができる行為者はそうすべきだ。他の物事が平等であるので。しかし、彼らは厳密にはそうする義務をもってはいない。必要性をもった他者のより資源を持ったものに対する道徳的な要求というこの慈善の観点からすると、贈り物の水準やどのような状況下でそれが与えられるのかということを決定するのは送り手の責任である。今日、世界におけるトランスナショナルな援助が存在するという程度において、政府、私的アソシエーション、或いは個々人によって与えられようと、大抵この慈善という形態を取る。この構造が受け手を嘆願する立場に置き、寄贈者が贈り物を送る条件がどのようなものであっても感謝する状態のままでなければならないので、グローバル支配の諸関係を変えるというよりそれらを強化する。
  正義の義務に関するグローバルな観点からの最善の議論は、必要と同様に繋がりに訴える。世界の異なった部分の人々は、互いに様々に繋がっており、社会的協同の重なり合うネットワークに繋がっている。トランスナショナルな貿易、投資、移動、コミュニケーション、そして文化的交流などの諸過程は社会的協同のグローバル化した計画を生み出してきた。そして、この社会的協同の現存する基礎的な構造は、多くの他の人々を貧しく、支配や搾取により傷つきやすい状況にさせている一方で、少数の人間に多大な利益をもたらすという意味で、不正義である。
  もし、トランスナショナルな社会的協同の基礎的構造が人々の間に不正義を生産・再生産しているのならば、これらの構造は変革されるべきである。しかしながら、構造的変革を生み出す方法についての考察は、ここでの議論において私の能力を超えている。もしその通りにいったら、構造的効果を持ち得るだろうグローバルな再分配に関する二つの提案について言及しよう。
  少なくとも、国際的な機関、国家、そして世界の最も貧しい多くの国々の私営銀行に借りのある借金を帳消しにするという議論が二つある。おそらく、干渉の数十年の間に生じた最も重要な借金の規模は非常に膨大なので、すべての国民経済がその借金を戻すための努力の中で歪められている。もし、イラクの人々がかれらの社会を再建することができるということで借金が帳消しになるという提案が正しく正当化されるとしたら、その場合は世界の資源が少なく借金を抱えた多くの国々にとって魅力的なものになるだろう。
  メキシコの居住区に住む草の根の活動家やワシントンのホールを歩いてきたノーベル賞を受賞した経済学者とは異なる人々は、グローバルな税システムを最近求めている。最も有名な提案がトービン税であり、それは金融取引に小額の課税を行うというものである。より強力なグローバルな規定的諸制度や再分配の機能のための収入が発生する代わりに、その提唱者の幾人かによれば、金融取引税は資本の動きを遅くし、それをよりローカルな支配の下に置き続ける効果を持つ。哲学的、経済学的な、そして、社会運動の文献では、トーマス・ポッゲの分割されたグローバル資源というアイデアのような、グローバルな税システムに関する他の創造的アイデアを必要としている。

もうひとつの世界は可能か?

  グローバル・デモクラシーやグローバル・ジャスティスが必要としているものは何かということについての考えや議論は、世界の人々や組織がそれらを得るためにできることは何かということについて考えよりも十分に発展される。この点に関する楽観主義の理由は、トランスナショナルな社会運動の成長と想像力の中にある。特に、それは現存する軍事や経済的ヘゲモニーの構造に声を出して反対している南半球の人々やアソシエーションを含む。三年間、これら何十万の人たちが世界社会フォーラムに集まった。そして、最近の五年間でグローバルなエリートの毎回の主要会議の近くでの、反資本主義的グローバリゼーションのデモは目を引き、響いて来た。
  しかしながら、これらのトランスナショナルな社会運動は大部分方向付けられた議論であり、直接的で対抗的である。これらの運動が制度的な変化のために特有の計画的目的を定式化し達成しようとすることから、原則的に距離を置くべきだという議論をする活動家もいる。保つことの重要性、外部からの批判的な意見の重要性を私は理解する。そして、行動のための目的に賛同しようとすることによって切り捨てられるかもしれない広範囲の包摂的な議論の価値を私は認める。にもかかわらず、幾つかの組織や制度は、グローバルな統治をより民主主義的で正義のあるものにするために制度的そして政策的なオルタナティブを提案すべきであろう。
  もし私たちがグローバルな独裁の下に生活しているとしたら、そのようなオルタナティブを想像することは不可能に見える。どのようなオルタナティブも見えない中で、ほとんどの人たちが、そのことを断念するようになり、そして、国家はその権力にゴマをするようになる。それは、爆弾から彼ら自身を救うことを希望することによって、そして、おそらく少しずつ落ちてくる利益を受け取ることによって。しかしながら、断念と皮肉な支援とは、多くの公国においても世界においても、すべての独裁体制の生き血なのである。独裁者を弱体化させる唯一の方法は、彼との共同を引き出すことである。そのようにして、ヘゲモニーから民主主義へと移行する唯一の手段は、国家、私営組織、そして個々人双方にとって、アメリカ合衆国やそれが同盟を組んでいる国際的金融権力、企業権力世界の出来事を自分たちのやり方で管理する努力に抵抗するために、互いを組織化しようとすることである。これを実行する2、3の運動が進行中で、そして様々なテーブルの上には他の提案が存在する。
  おそらく非常に小さいことで早期に再分配の意味のある効果をもたらすことができない一方で、公正な貿易の消費者運動が直接に主要な生産者の利益に消費者の選択を結び付けている。別の事例においては、アメリカ合衆国のおいてもどこにおいても同様に、組織の数が増加していることによって、その基金の大部分を依存している契約をボイコットすることによって世界銀行の基金を破綻させようとしているのである。
  国家の調整のレベルで、アメリカの支配的な軍事的経済的利害と対決するという重要なやり方は、トランスナショナルな貿易においてユーロの流通を上昇させることができるという議論をする著述家もいる。世界の力を持たない多くの人たちの観点からすると、これは単純に恐れられるある独裁者を別の独裁者に交換することを意味するだけであり、それは幾分恐れが少ないだけである。おそらく、より積極的に、EUが金融取引税或いは他の別の税を、グローバルな統治や再分配を設立する目的のために実行するために十分に位置付けられ、もしそうであるならば他の国家も加わるだろうと提案する著述家もいるのである。
  最後に、新しいグローバルな制度を創造することと同様に国連に対してそしてそれを通じて、機能する可能性が存在する。国連安保理との直接対決の中で、アメリカ合衆国とイギリスはイラクに対する自分たちの戦争の荷を背政治的な範囲のすべての部分の多くの人たちは、国連は以前よりもグローバル・ポリティクスの働きにおいて不適当になっていると結論付けた。
  しかし、世界の統治を民主主義化しグローバルな正義の義務を実現するための熱望は、世界のあらゆる人たちを含み或いは代表するような何かしらのグローバルな組織をはっきりと必要としている。今日、国連、そして特に国連総会は、その小さい点、そして非常に不完全な点にも関わらず、世界のあらゆる人々を含むのに近づきつつある唯一の組織である。国連はしばしばアメリカ軍と経済的利害の目的の道具、そして、正当化を与えるものとして機能しているように見えるという提起は多くの真実を含んでいる。しかしながら、国連がグローバルな討議と政治的紛争の場であり得ることが、2003年春の出来事によって示された。20年間、グローバルな社会運動は、国家や国際組織に関する要望を政策化し、また、ラディカルなオルタナティブを具体化するための場として公的争点を方向付ける国連の会議を利用してきた。私はこの小論を書き終えるに当たって、ブッシュの外交政策はアメリカの命令の下にイラクにおける多国籍軍に対して国連の賛同を得ようとしていることであり、フランスはこの提案に抵抗することを主張した。もし、国内の市民社会が国家との関係において存在するだけであるとしたら、おそらく多くの活動家によって祝されるグローバルな市民社会は国連という公的国際組織との関係において存在する。
  究極的に、現存する国連は民主主義や正義へと伝わるあらゆる目的に仕えるために作り直すか変形されるかしなければならない。現在の安保理の構成は不公平であり時代遅れでもある。ブレトン・ウッズ体制は廃止されるべきであり、世界はグローバル金融の規制に関して新たな出発をする。グローバルな調整の文脈におけるローカルな自己−決定は、さらに、国連総会と並んで人民の会議を設立することによって前進させられるだろう。長い道のりにおいて、さらに、アメリカ軍の単独行動主義を弱める最善の方法は、国連に現在与えられているものよりも偉大な権威と能力を持ったトランスナショナルな軍事力を実現することである。グローバル・ヘゲモニーの事実は、これらの目的に向かって働くことから私たちを落胆させるべきではなく、むしろ、それを実行すること以外に選択肢が存在しないということを私たちに説得すべきものであるだろう。


UP:20040101
◇グローバリゼーションhttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/g001.htm
イラク戦争  ◇Locke, John[ジョン・ロック]http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/locke.htm 
Pogge, Thomas[トーマス・ポッゲ]  ◇世界社会フォーラム  ◇ 
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