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The Truth About Stories: A Native Narrative

King, Thomas 2003 Univ of Minnesota Pr


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■King, Thomas 2003 The Truth About Stories: A Native Narrative, Univ of Minnesota Pr., Indigenous Americas ISBN-10: 0816646260 ISBN-13: 978-0816646265 [amazon] ※

■Thomas King
1943年カナダ生まれ。英語/アメリカ研究学博士。小説家、映画脚本家、写真家。専門はアメリカ原住民における口承文化、文学、歴史、宗教、政治。現在ゲルフ大学英語教授。


◆"YOU'LL NEVER BELIEVE WHAT HAPPENED" IS ALWAYS A GREAT WAY TO START


■導入(pp.1-2)
  ・「亀が地球を支えている」という物語
  …Prince Rupertがその話をしたとき、オーディエンスの少女が「その亀の下には何があるの」と聞いたことがあった。「他の亀が支えている」「ではその下には?」「他の亀だよ」。少女は笑い始めた。「ではどれだけの亀がいるの?」。彼は驚いて、こう答えた。「もちろん誰も知らない。ただ亀は連なって支えているんだよ」。
  The truth about stories is that that's all we are.
  
  Okanagan部族の語り手であるJeannette Armstoringは、「私が話す言葉は、一つの言語で構成されているのではない。言語はいろんな人の舌や口から発せられている。私が部族の人から聞いた物語を語りなおすときは、同じ物語を違うパターンで語ることになる」と述べている。
  
  私は子供のころ、惑星間旅行の話が大好きだった。特に冥王星は小さくて、寒くて、孤独で、太陽から遠く離れていて、好ましいように思えた。この冥王星に行きたいという思いは、私が若くて思春期であり、貧乏であり、白人であることからくるものであったのだろう。そして、私は母親が見ていた世界にいたからだろう。
  
■母親の犠牲の物語(pp.2-5)
  私と兄弟は母の手で育てられた。しかしその頃、女性は家庭内にいるのが好ましいとされており、労働者として数えられてはいなかった。女性は男性によって快適な生活を与えられるものだと理解されていたのに、母親は彼女の男性からそのような環境は与えられなかった。彼女は女性がそうであると思われていたもの(invisible、女性として)と、彼女に押しつけられた状況(visible、男性ではないものとして)の狭間に捕らわれていたのである。つまり自立を求められたのだ。
  母親はカルフォルニアの航空宇宙産業の工場で、最初は事務員をしていた。彼女は夜間学校の欠員補充の仕事もしたし、数値制御のエンジニアとしても働いたが、彼女は事務員として分類され、賃金もそのままだった。
  そこは結局男の世界であり、彼女に仕事が課せられていく経過ができるだけ静かに進行したのは、そこで生まれる苦情をカモフラージュするためだった。30年以上も彼女は影の仕事をしていて、そこに居続けさせられたのだ。同僚の男たちは夢や希望を私に話して、「君の母親も少年と同じだよ」と言ったが、彼女はもちろんそうではなかったし、彼女自身がそれをよく知っていた。
  1963年、彼女は同僚と共に、数値制御チームの一員としてシアトルのボーイング社に転職した。それは一人前のエンジニアとしてキャリアアップを意味していたし、契約上、彼女はその他の同僚と同等の支払いを受けるはずだった。しかし彼女の給料は他の同僚よりもだいぶ少なく、プロダクション・アシスタントの女性と同じ時給だった。
  彼女は管理者に「約束が違う。平等に扱うと言ったのに、なぜ私だけ賃金が低いのですか」と聞いた。彼女はその答えが、ただ女性であるがゆえだと既に知っていたのだが、「良い仕事をしていればきっと報酬は上がる」という言葉を信じて彼女は待った。それ以外にできることがなかったのだ。しかし何年たっても待遇の差は変わらなかった。私は憤ったが、彼女はそれが彼女の生きる世界の特徴だと知っていたのだ。彼女はまだ、知性や意思に基づいた楽観主義の中に生きており、「努力は報われる」という世界観を持っていた。81歳の彼女は現在、その世界が叶わず、垣間見ることもできなかったことを認めるかもしれないが、その世界を未だ信じている。
  
■父親の失踪の物語(pp.5-8)
  父親には別の物語がある。私が3歳か4歳の頃に彼は出て行ったため、私は父親を知らない。ただ一緒にカフェに行ったような記憶があるだけだ。長い間、私は友人に彼は死んだのだと説明していた。出て行ったことを説明するより簡単だったためだ。9歳の頃、父親から電話があり、やり直すために3日間共に過ごす約束をした。しかしそれが彼からの最後の連絡となった。シカゴからカリフォルニアに来るまでの間に何かあったのだろうか。事故に巻き込まれたとか、殺されたとか。ただ、母親も私も待っていた。
  そして、私が56歳か57歳のころ、兄弟のChristopherが私を呼び出した。私は母親について何か悪い知らせがあるのだと思った。しかしそうではなかった。
  「You'll never believe what happened」と彼は言った。
  That's always a good way to start a story, you know: You'll never believe what happened.
  父親が見つかったと彼は言った。私たちの父親は見つかったのだ。
  私は大人になってからも、この出来事にまつわる妄想をよくしていた。それは、暗いバーで彼を見つけるというシチュエーションだ。私は彼に挨拶をして横に座り、彼と会話をする。そして私が自分の子供だと気づくのだ。
   兄弟が発見の過程を話し出したので、私はこの妄想から帰還した。父親の姉が新聞に情報募集の広告を出し、探偵が彼の足跡を調べて、イリノイで生きていたことを明らかにしたそうなのだ。
   Christopherはここで話を中断して、私の息継ぎを促した。私の気持ちは既に(例のバーで)父親を探し出そうとしていたのに。
   「これは良い知らせだよ」とChristopherは言った。
  全てを一度に話してしまわないことは、聴衆を物語に惹きつける語り手の技術である。
   父親はその後2度結婚して、7人の子供を設けていたとChristopherは続けた。
   「悪い知らせは?」と私は聞いた。
   「彼は亡くなったんだ」
  父親は川に落ちて、石に頭をぶつけて亡くなったそうなのだ。彼の葬式に参列した叔母が話したことによって、私たちはお互いの家族の存在を知ることになった。私の父親は私たち家族のことを、人生の道の端の缶に捨て置いていたのである。
   これが、私の家族の話である。そして彼らの物語である。
  
■物語の力(pp.8-10)
  ・だから何だろう?新聞をひらけば、自殺や暴力、飢餓などの様々な話は溢れている。私の母親や父親の物語は何も特別ではなく、私と兄弟にとってのみ意味をなすものである。私が話したのは、共感を促すためではなく、物語がどれほど私たちの生を支配する力を持ち得ているのかについて示すためだ。両親の物語は私の一部分として動かしがたくあり、私が生きている限り私を縛り続けるものである。
  
  ・物語は不思議なものであり、恐ろしいものである。
  原住民の小説家、Leslie Silkoは著書『Ceremony』の中で、悪がどのように世界に広がるのかについて書いている。それはどの人種によってでもなく、魔法使いによってである。
  魔法使いは、洞穴の中で集まって最も恐ろしいものについてのコンテストを開く。ある者は薬を抽出し、ある者は動物の皮を取り出した。またある者は呪文を唱えた。そして最後に、何もしない者が残った。男なのか女なのか、どこから来た者なのかもわからなかったが、その者は物語を持っていた。不幸にも、その物語は災難や虐殺、病気や血などの恐ろしさに満ちた物語であり、残忍な被害についての物語であった。その物語が終わったとき、魔法使いたちは彼の優勝を認めた。
  「あなたが優勝だ。しかし、その物語は良いものではない。それを私たちは受け入れられない。その物語を取り消してくれ」
  しかしもちろん、時すでに遅しである。一度語られた物語は取り消すことはできない。物語が語られてしまえば、それは世界に放たれる。
  
■創生の物語(p.10)
  物語るとき、それがどのような物語なのかよく注意して、見ておかねばならない。もし私が冥王星に行ったなら、私はそこの住人に私が知っている物語を喜んで話すし、彼らもそうしてくれるだろう。どちらが先かは関係ない。ただ、「どの物語を話すのか」が問題なのだ。
  個人的には、私は世界がどのように形作られたのかについての物語を聞きたい。どのようにしてこの世界が今の姿になったのか、自然の定義や、文化の理解についての彼らの物語を聞きたいのだ。
  私が知っているそれらについての数少ない物語の中で、特にお気に入りの話をしよう。
  
■The women who fell from the sky(pp.10-20)
  想像しよう。まだ地球の地表が水に覆われていたころ、宇宙のどこかの場所に女の子が住んでいた。彼女はどうかしているほど「知りたがり」の性格だった。好奇心があったのだ。この種の好奇心とは、諦めないことでもある。それは健全なことでもあるけれど、トラブルの中に身を置くことでもある。鳥が彼女に注意を促しても、彼女は「わかった。でもなぜ好奇心が良くないの?」と聞き返してしまうのだ。彼女は足の指にも「なぜ3本や8本ではなくて5本なの?」と聞き、湖で出会ったヘラジカに「なぜ私よりも大きいの?」と尋ねる。
  (彼女をCharmとひとまず名づけて、物語の先を行こう。名前は後で変えても良いのだから)
  ある日、Charmは何か食べられるものを探していた。しかし魚を見てもウサギを見ても食べる気がしなかった。「何か食べたい気がする。でも何を食べたらいいのかわからない」と言った彼女にウサギは「それは妊娠しているからだと思う」と答えた。そして「あなたに必要なのは、赤シダの根元で休むことだ」と提案して、彼女はそれに同意した。
  (読者はこの物語を馬鹿げていると思うかもしれない。事実、私たちは圧倒的に科学的、経済的な必要性、身体法に基づいたユダヤキリスト教、魂の道理に従う世界に生きている。あなたがそう思ってもかまわないよ)
   Charmは古い赤シダを探し出して、根のまわりを大きな穴が出来るまで掘り起こした。アナグマは「掘りすぎてはいけない」と注意したが、彼女は熱中して、かまわず堀り続けた。もう分かると思うけれども、しまいに、穴は世界の反対側まで貫通してしまったのだ。彼女は驚いて、よく見ようと穴の中に頭を入れて覗きこんだ。
   そして、彼女は穴の中に落ちてしまった。彼女は回転したり曲がったりしながら広大な空間の中をひたすら落ちていったのである。小さな青い点がだんだんと大きくなって近づいてきた。それは地球だった。地球は水に覆われていて他には何もなかったが、環境に適応して生き物たちが住んでおり、空から落ちてくるCharmを発見した。彼女が水面にぶつかると津波が起きて危険だと判断して、鳥が彼らの体を使ってネットを作り、優しくCharmを水面に降ろした。Charmは「泳ぎは下手だし、浮けるかどうかもわからない。早く広くて平らな場所においてほしい」と頼んだ。水に覆われた地球ではそのような場所は亀の甲羅の上しかなかった。彼女を亀の上に置くと、全てはうまくいったようだった。しかし彼女は妊娠していたので、「亀の甲羅の上はじきに狭くなる」と言った。
   そして、「誰が一番うまくもぐれるの?水の一番底に行って、泥を取ってきてほしい」と頼んだ。生き物たちはそれぞれに、コンテストだと言って挑戦した。ペリカンやセイウチが挑戦したが、水中は寒くて暗く、また底があまりに深すぎて、泥を見つけることは出来なかった。
  (もしここで私が全ての生き物の挑戦についてこと細かく話したら、読者はこの物語のポイントがどこなのか不思議に思うだろうね)
  全ての生き物が挑戦したが泥は見つからなかった。そしてカワウソだけが残った。「なぜ泥を見つけるの」という問いに彼女が「魔法のため」と答えたのが気に入って、カワウソは挑戦した。そして4日目の朝、カワウソは水面にあがってきた。カワウソは気を失っていたが、その手には確かに泥が握られていた。魔法は、より価値を持ったのである。
  Charmと生き物たちはその泥の塊を亀の甲羅の上において、歌をうたったり踊ったりした。泥は次第に大きくなり、地表は泥と水に分かれた。そしていくらかの生き物は泥の上で生きることになった。
   しばらくしてCharmは双子を産んだ。男の子と女の子で、光と闇を分け、右手と左手であった。右手の子供が泥の地面を滑らかにしたので、生き物たちは良く見えるようになったと言って喜んだ。左手の子供は地面を踏みならして谷や山を作った。双子は溝を掘り、川を作った。右手の子供は水流を作らず、生き物たちが自由に行き来できるようにしたので、生き物たちは便利だといって喜んだ。しかしすぐに左手の子供は「もっと面白いように」と流れを一方向にし、石を積み上げて滝を作った。生き物たちはまた喜んだ。
   右手の子供は整然と木が立ち並ぶ森を作り、左手の子供はごちゃまぜに木を並べて、密林や開かれた地を作った。お腹が空いたときのために、右手の子供は木にナッツやフルーツをならした。また右手の子供はバラを作り、左手の子供はとげを作った。右手の子供は夏や日の光を、左手の子供は冬や影を作った。
   「他になにかある?」と双子が聞いたとき、生き物たちは「人間はどうだろう、必要だと思う?」と尋ねた。そして右手の子供が女を、左手の子供が男を作った。「あんまり賢くなさそうだ。問題が起きないかな」と生き物が尋ねると双子は「心配ないよ、問題なく暮らせるよ」と言った。そして、全ての生き物と双子とCharmは世界を見渡してこう言った。
  Boy, this is as good as it gets. This is one beautiful world.
  
  素晴らしい物語だと思わないだろうか。エキゾチックな物語として受け取ったかもしれない。休暇先で買う様々な土産物のように。しかしそれらは旅行が終わってしまえば捨てられたり、忘れ去られてしまうだろう。このCharmの物語も、じきに忘れてしまう。というのは、北アメリカのパラダイムにおいて、私たちは全く実用向きの創生の物語を持っているからだ。以下のキリストの雷のモノローグは、土産物ではない。
  
■Christian creation story(pp.21-22)
  はじめに神が天国と地球を創った。地球はまだ形を成さず、空間と暗闇だけがあった。神の意思が働いて、水が地表を覆った。そして「光あれ」と言った。神は夜と昼を創り、日と月、その他の全てのものを作った。そして最後に人間を創った。男が先で女が後、アダムとイブである。そして全て完璧な庭を創り上げた。そこには病気や死、恐れや飢えが存在しない。ただ、一つのルールがあるだけだ。ほとんどのものを食べてよいが、善と悪に関する知恵の実だけは食べてはならない。それを食べてしまうと死んでしまうのだった。
  しかしハプニングは起こった。アダムとイブがそれを食べてしまったのだ。それがどのようにして起こったかについて気にしてはならない。一般的にはイブが林檎を食べてアダムをそそのかしたのだと理解され、イブを批難することになるだろう。アダムは断らなかった。多くのミソジニーたちは両者を非難しないのだし、逃れがたい失敗自体に目をつけているのではない。そのような理解は誤解であり意図的である。
  しかし何と言おうと、ルールは破られ、庭の平安は終わりを告げたのだ。神は、刀を持つ天使に入り口を見張らせ、庭を封鎖してしまった。そして、病気や死、憎しみや飢餓が渦巻く荒野へアダムとイブを投げ入れた。
  
■二つの物語の語り方(pp.22-23)
  原住民とキリスト教徒の、二つの創生の物語がある。私が原住民(Charmの物語)を多く説明したのは、創世記に比べて知られていないと思ったためである。
  また、二つの物語を私は違う手順で語っている。原住民の物語においては、私は一般的な聴衆に語るときの声や作法で伝えられるよう試みた。創世記においては、博識な場所における修辞的な間隔と礼儀正しい作法にのっとったものであるように試みた。これらの作法の異なりは、それが唯一の正当なものではないということを意味している。原住民の物語では、会話のような語りが物語を豊かにしているが、権威は減じられている。キリスト教徒の物語においては、冷静な語りは堅苦しい朗読の作法であるが、誠実さが示される。
  
   インディアンのAnishinabe部族の語り手であるBasil Johnstonは『How Do We Learn Language?』というエッセイの中で、原住民の物語が笑いに満ちたものであるがゆえに、時に他の部族から真剣に受け止められないことがあると述べている。しかしその物語が喜劇であっても、人間の成長と発展に関する理解の真実がその物語には備わっている。
  もちろん誰も、物語の価値と戦略を混同したりしないだろう。私たちは、アニミズムや多神教が単に一神教の原始の形態に過ぎないという間違った考え方を避けることができるくらいには、十分に文化の複層性について知っている。
  にもかかわらず、語る者は問題を抱えるのだ。
  
■二つの物語の違い(pp.23-24)
  神学者は二つの物語の本質は同じだと論じるだろう。両者とも世界の創造と人間のはじまりについての物語である。しかし、語り手はこれらを異なるものとして語っている。
  
  ・創世記中の要素は、法則、命令、秩序を重んじる一連のヒエラルキー(神、人間、動物、植物…)によって管理される世界を示す。原住民の物語では、世界の生成は共同体として現れ(Charm、双子、動物、人間…)、それらは平等とバランスを重んじる。
  ・創世記では、全てを創り出す力は全知全能であり偏在する単体の神位のものにある。世界は彼の意思から現われ、彼の行動で全ては始まる。原住民の物語において神位は、能力と意思(を通すことに)限界を持った一般的な姿のものにある。そして創造の行いと決定は、その他の登場人物たちと分け合って行われる。
  ・創世記では、世界は完璧な状態から始まった。そして知識を得て崩壊したのち、人間は庭の調和と平和を失って、厳しい眺望と危険な影が渦巻く世界に追いやられてしまった。原住民の物語においては、水と泥から始まる。そして良い提案者であるCharm、双子や動物たちによって、形がなく定まっていない世界に対して、程度を調整しながら、多様性に満ちた世界を完成させる。
  ・創世記においては、人間が受け継いだ庭の後の世界は、確かに闘争と戦争の世界である(神vs悪魔、人間vs自然)。原住民の物語においては、世界は平和にあり、重要な関心は善悪の優勢ではなく、バランスの問題としてある。
  
■物語を選ぶこと、二分法(pp.24-25)
  私たちの選択がここにあるのだ。
  ・創造が、単体の個のもとでなされた世界か、それとも分け合って行われた世界か。
  ・調和から始まり、混沌へ滑り落ちる世界か、それとも混沌から調和を導く世界か。
  ・闘争の世界か、それとも協力の世界か。
  もしアダムの視点で世界を見るなら、Charmたちが作り上げた世界を見ることはできない。もしひとつの物語を宗教的に理解するなら、その他の物語は非宗教的なものとなる。
  
  読者はこの話を二分法的に見るだろう。(デリダが述べているにもかかわらず、)西側社会の基本的な構造は、世界を二分法で見てしまうことにある。
  金持ち/貧困、白人/黒人、強い/弱い、正/否、文明/自然、男/女、書き物/話し言葉、市民/粗野な人々、成功/失敗、個人/共同体
  
■複雑さを理解することの困難(pp.25-26)
  私たちは簡単な対立を信じる。複雑さや矛盾を容易には信じず、理解できないものを恐れる。
  …私の父の謎のように。
  私は、母が「私を愛していたから」私のもとにいたわけではないように、父が「私を嫌いだから」去ったわけではないと確信している。しかし、私は自身の怒りを持続させるためにも、父の失踪の物語を自分に言い聞かせ、いつも、どんなときにもそれを語り、骨を断つほどに磨き上げてしまっているのだ。
  
  もし私たちが(物語の複雑さを善か悪かで理解してしまいかねない)北アメリカの主要な物語を採用してしまったら、アレクサンダー大王の物語が(支配者しか挑むことの出来ない、知恵の輪のように複雑に絡みあった)「ゴルディアの紐Gordian knot」を、豪腕と強器で力づくに断ち切ってしまったよりも悪いことを意味してしまうだろう。
  もしかするとそれは、なぜ私たちは、季節が移ろうことの魅力ではなく、英雄が戦うときの勝ち見込みや要素についての物語を好むのかということかもしれない。なぜ、私たちは底辺から頂上へ這い上がる競争形態を狂気じみたものだと書き表す物語よりも、競争で成りあがった成功者をもてはやす物語を好むのだろうか。なぜ私たちは人生の優しさを簡単に言うことができるときにも、子供たちに人生は厳しいと語るのだろうか。
  
  それが私たちの本質だからだろうか?私たちが語る物語は世界を反映しているか、あるいは単純に悪い物語から始めるからだろうか?
  先に取り上げた魔法使いたちは、お互いに魔法を見せ合っていた。
  Making magic
  Making faces
  Making mistakes
  
■Not the mind but the imagination (pp.26-27)
  私はパートナーが良い考えではないと警告しているにもかかわらず、キリスト教の教義が誠実と報酬、罪と罰であると自分に言い聞かせていた。しかし彼女は「難しく話したりしてはだめ。説教ではなく、物語を話して」と言った。「Don't show them your mind. Show them your imagination」と。
  
  私はこの良いアドバイスを無視して、私たちが直面している社会的、政治的、経済的問題に対する責任が、ナショナリズムの複雑さとキリスト教の基盤にあると考えていたのだろうか?私は本当に西欧の宗教や特権的ヒエラルキーに基づいた世界が、利己主義と私利を奨励する物語を促進すると論じているのだろか?私は、もはやこの世界は大量の破壊兵器を扱いきれないのだから、もし本当の市民社会を作るなら国旗を全て焼いて、神を殺すべきだと主張しているのだろうか?
  そうではないのだ。
  私たちは動物の生活を豊かにするためでなく、自分たちの利得のために木を切っていることを知っている。あるいは水質のためではなく、電気や個人的な所有のためにダムを作っている。人種や性別を分けることを、「私たちがそうするから」以外の理由がないことを知っている。また貧困を見過ごしているのは、困難が人を強くするということを信じているためではなく、分配を好まないためなのだ。
  
■違う物語を想像すること(pp.27-28)
  もちろんあなたは、既にこんな話を学んで、友人に話したこともあるだろう。
  退屈で退屈で退屈で、退屈で仕方ないでしょう。
  
  しかし考えてみて欲しい。もし、創世記の神位にあるものが、独裁的で厳格なものではなく、同情的で理解のあるものだと想像したらどうだろうか。創造の過程で、誰かが自分自身を見失ってアドバイスを必要としているとき、他の誰かがその難しい決定を助けることをいとわなければどうだろう?もし動物が自分で自分の名前を決めたとしたら?もしアダムとイブが彼らの愚かさを警告されていたらどうだろう?「愛しているよ。でもあなたのふるまいは好ましくない。それについて話そう。次はもっと良くなるようにしよう」と神が言っていたら。
  それらの物語を採用していたら、どんな世界だっただろう?
  
  とても悲しい話だが、私たち人間は無一文で住むところもない地上の荒野に降り立つまでは、神に作られただとか、楽園に住んでいるだとか、動物に名前を付けただとか言い張り、思い上がっていた。地上最強でも最速の動物でもないというのに、私たちは傲慢な人間だったのである。
  神がある人々(アルファ、オメガ)を宇宙の支配者として選んだということ。
  それは、日々の生活における(ガソリンスタンドでタンクを満たしたり、寝る前に神話を読んだり、ガイドブックの中に正しい導きの言葉を捜したりするときの)私たちのうぬぼれなのだ。それは死に赴く過程で私たちの欲望を掻き立てるための嘘なのだ。
  
  ・Linda McQuaigは 『All You Can Eat』の中で、こう述べている。
  「経済の中心にいる人間のタイプとは、ホモエコノミックスである。彼らは強い欲望で動く。彼らは理性を、自身の欲望を満たすための道具として使う。それが彼らのモチベーションともなっているのだ。そして彼らは他のタイプの人間を想像しない。――ホモエコノミックスとは私たちのことだ。」
  ・アイザック・ニュートンは「すべての作用に対し,常に逆向きで相等しい反作用がある」と述べた。彼が作家であればシンプルにこういっただろう。「全ての反応に対し、物語がある」と。
  
■Take the story(pp.28-29)
  さて、Charmの物語だ。それはあなたのものだ。好きにするといい。したいようにしていい。友達に話してもいい。テレビの映画にしてもいい。忘れたっていい。しかし、将来「もしあの物語を聞いてさえいたらもっと違った人生だったろうに」なんて言わないで欲しい。あなたは今それを聞いているのだから。


UP:20080525 REV:20081001
ナラティヴ  ◇身体×世界:関連書籍 2000-2004  ◇BOOK
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