『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求:大統領生命倫理評議会報告書』
Kass, Leon R, ed. 2003 Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness: A Report of The President's Council on Bioethics,New York: Dana Press
=200510 倉持 武 監訳,青木書店,407p.
■Kass, Leon R. 2003 Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness: A Report of The President's Council on Bioethics,New York: Dana Press
=200510 倉持 武 監訳 『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求:大統領生命倫理評議会報告書』,青木書店,407p. ISBN-10: 4250205339 ISBN-13: 978-4250205330 \6825 [amazon]/[kinokuniya] ※ be.en.
■内容
(「BOOK」データベースより)
ES細胞による身体改造、生命操作による望ましい子どもの獲得、「幸福な気分」さえ調達できる薬物の投与…。先端医療の功罪を重層的に考究し、生命倫理政策の現在、そして未来を示す。
(「MARC」データベースより)
医療技術の「治療を超えた」利用は、人間・社会を幸せにするものなのか? ES細胞による身体改造、生命操作による望ましい子どもの獲得…。先端医療の功罪を重層的に考究し、生命倫理政策の現在、そして未来を示す。
■目次
訳出にあたって 9
緒言 11
生命倫理と科学的プロセス:倫理と科学が絡み合う議論に関する諸注意 16
序言 19
緒言,諸注意,序言の著者について 23
大統領宛送付書 27
大統領生命倫理評議会メンバー 32
評議会スタッフおよびコンサルタント 34
序文 36
第1章 バイオテクノロジーと幸福の追求:はじめに 1
1 黄金時代:熱狂と懸念 5
2 公共的関心の問題 8
3 問題の限定11
4 目的と手段12
5 「治療 対 増強」:区別の限界 15
6 自然の限界を超えて:完全化と幸福の夢 19
7 探究の構造:熱い思いを中心に 22
8 方法と精神 24
第2章 より望ましい子ども 33
1 生来の力の強化:遺伝学的知識と技術 37
A 概観 37
B 技術的可能性 39
1)出生前診断と選別排除 41
2)望ましい特質の遺伝子工学(「調整」) 44
3)望ましい特質のための胚選択(「選抜」) 47
C 倫理的分析 52
1)福利 53
2)安全性の問題 55
3)平等の問題 59
4)家族的社会的な重要性 61
2 子どもの性の選択[男女産み分け] 66
A 目的と手段 67
B 予備的な倫理的分析 70
C 自由の限界 75
D 性と生殖の意味 77
3 子どもの振る舞いの改良:向精神薬 81
A 覚醒剤使用による子どもの行動修正 84
1)覚醒剤とは何か 88
2)覚醒剤による改善が必要な振る舞い 89
3)万能強化剤」 93
B 倫理的社会的懸念 95
1)安全第一 96
2)育児:人間関係 97
3)社会的管理と順応 98
4)道徳教育と医療化 102
5)行動能力の意味 104
4 結論:子どもであることの意味 105
付録 注意欠陥/多動性障害診断基準 106
第3章 優れたパフォーマンス 121
1「優れたパフォーマンス」の意味 122
2 スポーツと卓越した選手 127
A なぜスポーツか 127
B 優れた運動選手 128
C パフォーマンス向上のためのさまざまな方法 129
1)よりよい装備 130
2)よりよいトレーニング 131
3)よりよい自前の身体能力 132
3 バイオテクノロジーによる筋肉増強 133
A 筋肉とその重要性 133
B 筋細胞の成長と発達 135
C 筋肉増強の技術と機会 136
4 倫理的分析 142
A バイオテクノロジー的手段の特徴 143
B 公平と平等 152
C 強制と社会的圧力 156
D 副作用:健康,バランス,そして包括的な生 158
E 人間活動の尊厳 162
1)競争の意味 163
2)行為者と行為との関係 165
3)人間の行為,人間的な行為:精神と身体の調和 167
F 優れた活動と善き社会 175
第4章 不老の身体 187
1 「不老の身体」の意味 188
2 基本的な用語と概念 192
3 科学的背景 196
A 老齢期特有の欠損に的を絞って 196
1)筋肉の強化 196
2)記憶の強化 197
B 全般的(全身体的)老化遅延 201
1)カロリー制限 202
2)遺伝子操作 203
3)酸化による損傷の防止 206
4)老化遅延に影響する成人病の治療法 207
4 倫理的問題 210
A 個人に対する影響 213
1)時間の拘束が外されてより大きくなる自由 216
2)関与と取り組み 217
3)願望と切迫 218
4)世代交代と子どもたち 218
5)死と死の運命に対する態度 220
6)ライフサイクルの意味 221
B 社会に対する影響 223
1)世代と家族 224
2)革新,変化そして再生 225
3)社会の老化 226
5 結論 228
第5章 幸せな魂 243
1 「幸せな魂」とは何か 249
2 記憶と幸福 254
A よい記憶と悪い記憶 259
B バイオテクノロジーと記憶の変更 261
C 記憶の鈍麻:倫理的分析 266
1)適切かつ正確な記憶 269
2)記憶しておく義務 272
3)記憶と道徳的責任 274
4)記憶の魂,記憶する魂 275
3 気分と幸福 278
A 薬による気分の向上 283
1)気分明朗剤:概観 284
2)の生物学的な効果と経験的な効果 287
B 倫理的分析 296
1)本当に生きること 297
2)適切な感受性と人間の心情 301
3)悲しみが教えること,不満が招くもの 304
4)自己了解の医療化 307
5)人間的な豊かさの源 311
6)幸福な自己とよい社会 313
4 結論 316
第6章 治療を超えて:全般的省察 333
1 大きな構図 333
2 一般的な懸念 338
A 健康:安全性と身体に対する弊害の問題 338
B 不公正 340
C 利用機会の平等 341
D 自由:自由と,隠然たる,あるいは公然たる強制の問題 343
3 懸念の本質的根源 346
A 傲慢と謙譲:恵み」の尊重 347
B 不自然な手段:人間活動の尊厳 351
C アイデンティティと個人 354
D 部分的な目的,全体的な繁栄 357
4 バイオテクノロジーとアメリカ社会 365
A 通商,規制,欲望の生産 367
B 医療,医療化,治療を超える」足もと 369
C バイオテクノロジーとアメリカの理想 373
文献案内 379
訳者あとがき 383
索引 399
■言及
◆島薗進, 200509, 「増進的介入と生命の価値――気分操作を例として」『生命倫理』15(1):19-27.
(pp20-21)
アメリカ合衆国では2003年にブッシュ大統領のもとの生命倫理委委員会が、『治療を超えて』と題された報告書を公にした(4)。この委員会の座長は医学を学んだ後、哲学研究に転じたレオン・カス(Leon Kass)であり、カスの主導の下、この委員会は倫理的な配慮から生命科学と先端医療の際限ない推進に歯止めをかけようとしてきた。まず、クローン人間の産生と治療のためのクローン胚の作成・利用の是非の問題、すなわち「いのちの始まり」をめぐる倫理問題が議され、ヒト・クローン個体の産生の禁止を合意するとともに、治療のためのクローン胚の作成・利用に対して4年間の問は政府の援助を行わないというモラトリアムを置き、討議を継続することを提議した(2002年)(5)。それを受けて、この委員会は直ちに増進的介入の討議に取り組み、それが『治療を超えて』に結実したのである。治療のためのクローン胚の作成・利用やES細胞の樹立・利用をめぐる倫理問題と密接に関連し、その背景をなす問題として医療・生命科学による増進的介入の限界をどう考えるのかが論じられたのだった。
(略)
『治療を超えて』は増進的介入の諸分野として、(1)「よりよい子どもを得ようとすること」(産み分けや子どもの集中力増進)、(2)「すぐれた技能を達成するために」(スポーツにおける能力増進)、(3)「不老の身体」(老化防止)、(4)「幸せな魂」と題された分野を取り上げており、「幸せな魂」を扱った章はさらに、@記憶の操作を論じた部分とA気分(mood)の操作を論じた部分に分けられている。増進的介入をめぐる生命倫理の論題は多岐にわたり、論点も多方面に及ぶことが知れる。だが、『治療を超えて』はあえて論点を絞り込もうとしており、この問題が人類文明の重要な選択に関わるものであることを示唆しようとしている。アメリカ的価値観に強く訴えかけてもおり、この論題が重要な政治問題であることも知れる。そこにある種の単純化があり、議論の無理があるようにも思われるが、大問題を正面から受け止めようとする野心的な試みはそれなりに評価すべき点でもあるだろう。
『治療を超えて』は遺伝子操作や発生過程での介入にはさほどの重きを置かず、むしろ成人への増進的介入医療の是非に力点を置いており、それは各論の配列にも現れている。各論の最後に置かれているのは、薬物による大人の精神への増進的介入を扱った「幸せな魂」の章だが、それはこの論題の重要度が低いからという理由によるのではない。むしろこの問題こそ、最終的で包括的な論点に関わっているからだと論じられている(p.205)。この言明には多くの異論や疑義が投げかけられるかもしれない。しかし、「幸せな魂」のための医療の是非を論じることが、増進的介入の倫理問題を考察する上で、たいへん重要な意義をもつという論点には、多くの読者が同意するだろう。少なくともアメリカの公共的討議においては、そうした合意がなされたようである。
「幸せな魂」の後半部分は気分明朗剤とも特徴づけられるSSRI(選択的セロトニン取り込み阻害薬)の利用をめぐる問題を扱っている。2000年代初頭のアメリカでは、大人の8人に1人がSSRIを服用しているという。また、エリート大学の学生の20パーセントが気分明朗剤を現に服用しているか、服用経験があるという調査結果もある。これらの中には確かに治療的目的で処方されたものがあるだろうが、かなりの量が増進的介入にも用いられてきたと推測され、その割合がどれほどかはわからない。これは手軽で「安全」な薬物による人間改造ではないか。私たちの倫理の基盤である人間性そのものを掘り崩しかねない危うい事態ではないだろうか。
SSRIは軽度の欝状態の改善にめざましい効果があり、1990年前後に爆発的に普及した薬品群である。中でもっともよく知られているのはプロザックである。そこでプロザックがSSRIを代表して行き過ぎの増進的介入の嫌疑を受けることになるのだが、この「被告」の背後には有力な弁論が存在している。プロザックをめぐって問題が生じることを指摘しつつも、その積極的利用に賛意を表し、大量の読者を獲得したピーター・クレイマーの書物である。以下、クレイマーの弁論を紹介し、レオン・カスの生命倫理委員会が提示した異なる解答を参照する。その上で、一般に増進的介入の限界について論じる際に、この論題がもつ意義につき、若干の私見を述べることとしたい。
(pp23-25)
プロザックの使用のような医療の増進的介入に反対する人々は、どのような論拠に基づいて反対しているのか。ここではまず、慎重論の立場をとるアメリカ政府の生命倫理委員会の見解を紹介したい。レオン・カスが主導するブッシュ大統領の下の生命倫理委員会の報告書『治療を超えて』に述べられているものである。第1節でもふれたように、「幸せな魂」の章は、「記憶」の操作と「気分」の操作の二つをとりあげている。前者はトラウマとなった記憶を消去するような医療技術について論じている。これは倫理的な問題としてはたいへん意義深いものだが、スペースの都合上、ここでの議論は気分操作の問題に限定したい。
『治療を超えて』は「幸せな魂」の生命倫理を論じるにあたって、まず「幸せとは何か」という大きな問題から議論を始めている。座長であるカスらの意見では、人間の幸せにとって「あなたは何者か」というアイデンティティの問題、あるいは人格の問題が重要だという(p211)。その幸せが一時的な高揚感にとどまらず、あなたの一生にとっての幸せであるかどうか。また、得られた「幸せ」が真実のものであるかどうか。つまり、それにふさわしい行為を介さないで得られたまがい物でないかどうかが問われる。さもなければ、快楽や満足や喜びと真の幸福が混同されてしまうだろう。真の幸福は十全な主体性をもった人格が、自ら担おうとする愛や責任と切り離せないものなのだ。
第一に、チェックを受けずに記憶を消すこと、気分を明るくすること、また、私たち自身の情緒的な傾向を変えてしまうことは、強く、首尾一貫した人格的アイデンティティを形成する私たちの能力を掘り崩しかねない。私たちの内的生活が日常的経験の浮き沈みを反映しないものになり、それとは別に展開するものになればなるほど、私たちは自らのアイデンティティを消散してしまうことになる。私たちの生活は他者と関わり合い、日常茶飯事と予想できない事柄の混合物に身を浸すことから成り立っている。この過程で次第にアイデンティティは創られていくものだが、そのアイデンティティが消散してしまうのだ。
第二に、新しい薬品が記憶や気分を行為や経験と切り離してしまえば、私たちはいかにして生きるか、何を感じるのかについて、真実であり現実にかなっていることが難しくなるだろう。とりわけ自らの人生の、また他者の人生の限界や不完全性に責任をもって、かつ尊厳ある態度で向き合うことができなくなってしまいかねない。人間の生はもろくはかないものであり、幸福を追求し、他者への愛とともに生きていけば、失敗や苦悩は避けがたいものである。そうした真実を学び、挫折や不安や悲しみは人間の生が不可避的にはらんでいるものであることを、適切な自省によってしっかりと知ることができるはずだ。ところが増進的介入によって、挫折や不安や悲しみは治療すべき病気であるかのように、いつかは撲滅されるだろうもののごとくに扱われることになる。人間の幸福の核心には他者と結びつきながら、善きものを追求していく行為のプロセスがある。満足や快楽や喜びはそうしたプロセスと切り離せないものであり、人間生活の豊かさの反映であることを学びとっていくことこそその人を形作るものであろう。ところが増進的介入は満足や快楽や喜びが目的そのものであり、一日のうちに我がものにできるかのように考えるよう促すのである。(p.213)
増進的介入は、(1)その人が何者であるかというアイデンティティを危うくさせるとともに、(2)その人を人生の真実から切り離してしまい十全な人格形成を困難にしてしまう。これが「幸福な魂」の増進的介入に反対する『治療を超えて』の主張の要点である。
プロザックなどのSSRI(選択的セロトニン取り込み阻害薬)による気分の操作の是非のみに焦点を合わせた、後半部分についてさらに見ていこう。『治療を超えて』は6点にわたって、SSRIがもたらす倫理的マイナス作用をあげている。スペースに限りがあるので、無理を承知で要約しよう。@SSRIによって人が得たものは、真実とは異なる何かである。薬物を通して得た自己は真実の自己ではない。A薬物は真実の世界の深さから人を隔ててしまう。苦しみや悲しみの深さから隔てられることは、愛や共感の深さからも遠ざかることになりかねない。B困難や不満足からこそ、向上への意欲もわく。否定的な経験からこそ、深い意味での知恵や強さや共感力も生ずる。C人間の自己理解が医療化される。生理的な作用や遺伝子を通して自己を理解するようになり、医師がよき生活を管理することになる。D生き甲斐あるよい人生(human flourishing、すなわちアリストテレスの「エウダイモニア」)は「快」からのみ得られるのではない。行為や経験において養われた徳こそが人生を真に豊かにする。SSRIは善き人間生活の根源を見失わせかねない。ESSRIは人々が自己の内側に閉じこもったり、皆が明るい気分をもつのがノーマルとされる社会を引き寄せるかもしれない。どちらも自由を尊ぶ社会が達成してきたものを脅かしかねない。
このように『治療を超えて』は、気分明朗剤による増進的介入の倫理的問題につき、多面的に論じており、今後の議論のための多くのヒントを提供しており豊かである。だが、そこでの強調点は、自律的な自己が弱められるのではないか、個々人の主体性が失われるのではないかという点に集約される。つまりは、真の現実から離れて薬で作られた自己に安住しようとすること、そして、自由社会に求められる責任ある主体的自己が見失われてしまうこと――ここにこそ気分明朗剤による増進的介入の倫理問題の核心があると主張されている。
(pp25-26)
近代的な自己拡張や主体性追求が見逃してきた生命の価値にこそ増進的介入の倫理的問題の核心があるという見方は(8)、プロザックの使用の限界を考える際にも有効だろう。私たちは身体の苦難をできる限り退け、快や満足を増進することによっても生命の価値を得るが、思いがけない不運に見舞われ、痛みや苦難を免れがたい(vulnerability)ことから、もっと重く基本的な生命の価値を感得すると思われる(9)。招き寄せるのではなく訪れてくるものに開かれてあること、与えられたものによってこそ生きていること(giftedness)を知り、そしてそれを喜びをもって受け入れることにこそ善き生の要諦があるという考え方も広く分けもたれている(10)。自己の彼方から訪れる生命の恵みの感受力は、痛みの経験と切り離しがたい。また、痛みを免れがたいことの経験は、他者の痛みや苦難に対する慈悲共感の念を育てる。それは謙虚さや責任感や連帯意識の源泉となるものである。そこに善き生活を形作る共同性の基礎が育まれる。
『治療を超えて』ではこのような論点を中心的な論点としていないが、そこここにその片鱗は含まれている。気分の操作の問題を論じる際にも、痛みや悲しみこそが生命の価値の源泉ともなること、とりわけ愛や共感の基礎になることが注目されていた(論点AB)。また、どのような社会的波及効果があるかについて、慎重に考慮すべきであることにも注意が促されていた。世代を超えて苦難と共同行為の記憶を伝えること、痛みからこそ学びうると知ること、共感力を育成すること、人類社会の連帯の基礎を守ること――こうした生命の価値にとって、増進的介入医療はどのような影響をもたらすだろうか。たとえば、SSRIの乱用がもたらす社会的影響は慎重に検討されるべきであるが、そのような学問的企てはほとんど進んでいない。『治療を超えて』では自己の統合(integrity)や主体性(agency)が脅かされるという点に力点が置かれたために、以上のような諸論点が背景に沈むことになった。
◆金森修, 20051020, 『遺伝子改造』勁草書房.
(pp212-221)
本書の中心的主題、遺伝子改良などの強化問題について、近年重要な文献が出た。それは、アメリカの生命倫理大統領諮問委員会が二〇〇三年一〇月に提出した『治療を超えて(76)』(二〇0三)である。この報告書は、従来の常識では治療とは言いがたい場面にまで医療行為が関与していく場面を、通常よりもさらに良くするという、まさに強化問題として纏め上げている。そして医療の周辺に出現し始めているそれら強化的な介入の諸相を「より良い子ども」、「卓越した遂行」、「不老の身体」、「幸せな魂」という四項目に分けて論じている。「卓越した遂行」は、子どもや子孫の遺伝子改良ではなく、自分自身の能力向上を目指した遺伝子改造のことを扱う。その際、この報告書の特徴なのだが、特に、スポーツを題材にした議論を展開している。それはほとんど〈スポーツの哲学〉であるといえ、そのもの自体の面白さがないわけではないが、本書の主題とは微妙にずれるので、紹介は割愛する。また「不老の身体」は、老化予防の技術を概観しているが、その話題が倫理的にほぼ問題ないことに絡むせいなのだろう、記述に冴えが見られない。ゆえに、ここでは残る二つの項目についての簡単な要約を与えておく。
(A)Better Children
子どもはまだどんな人間になるのかが分からない途上の存在。大人に比べれば心配事の少ない自由で自発的な時期を過ごす。親は、子どものあるがままを愛したいという気持ちと、少しでも良い状態に近づいてもらいたいという両義的な気持ちをもつ。遺伝子工学の前から、親はワクチン、ビタミン剤、フッ素入り歯磨き粉などの手法で、子どもの身体への介入はしていた。ただ、もちろんいまはその様式が変わりつつある。こう前提的に述べて、ほぼただちにわれわれの主題に直結する議論に入る。
(a)AID、IVFなどの既存の手法においても、優れた素質をもつ人間の配偶子をもらおうとする傾向はある。たとえばアメリカでは、高い知能や運動能力を備えた女性の卵子を高額で買いたいというような宣伝が立ち上げられることもある。だが、それらも実は、通常の性行為と本質的には変わらず、両性の遺伝形質がどのように混ざり合うのかというところまでは制御できない。ところで、AIDは別に多数派の生殖様式とはいえず、たいていのカップルは、自分たちの子どもが遺伝的に繋がっていることを欲する。遺伝子を実質的に一定程度制御するというスタイルのなかでは、現状・近未来を見据えた段階で、以下の三つの手法がありうる(p.36 sq)。
@screening out 遺伝病が疑われる場合に関与する手法。出生前診断により重い遺伝病をチェックして中絶する選択的中絶は、すでに現実のものになっている。このように、診断を通して或る種の形質を排斥するというのがscreening outである。従来のいわゆる否定的優生学と機能的には類比的だ。それが規範化されるかどうかが、問題性の一つの分岐点になる。また、遺伝病だけではなく、マーカーをもつ可能性のある形質として、背の高さ、痩せ具合、絶対音感、長命、気質、知性などがある。すると、screening outは新たな段階に入る可能性をもつ。とはいえ、妊娠過程でそれらの調査をし、良い形質を求めて何度も中絶を繰り返すというのは、さすがに考えにくい。ところで、出生前スクリーニングは子どもに対する新しい見方を成立させてしまう。その場合、〈生命への認可〉は無条件的なものではなくなる。子どもは単なる受容から、判断と制御の対象になる。診断とその後の中絶等の行為は、徐々に強制的なものになるかもしれず、重篤な遺伝病患者は〈自然の失敗〉というよりは〈両親の判断ミス〉という扱いになる可能性がある。
Afixing upいわゆるデザイナー・チャイルドを作る手法のこと。高い知性、良い記憶、絶対音感、穏やかな気質など、〈肯定的な〉形質をもつ子どもの創造である。われわれの主題から見て、ここでのこの報告書の判断は興味深い。委員会は、これを近未来ではほぼ完全な幻想だと断定する。なぜなのか。まず、両親が最も操作したいと思う特性、たとえば外見、知性、記憶力などは、ほぼ間違いなく多因子性であり、それにもちろん環境因も加わるわけだから、猛烈に複雑なはずだ。確かに、皮膚や目の色など、比較的少数の遺伝子で規定されているものもあるだろう。だが、仮に導入したとしても、その導入遺伝子が適切に働いてくれるかどうかは分からず、しかも導入の際に他の有用な遺伝子を駄目にしてしまうかもしれない。逆に、有害遺伝子を活性化させるかもしれない。さらに、多くの遺伝子は多面発現性をもつので、仮にそれが適切に導入されたとしても、思いがけない有害な形質を付随的に発現しないとは言い切れない。要するに、あまりに予見不可能で、あまりにリスクが大きすぎる。その危険性を冒してでもかろうじて構想可能なのは、それが重篤な疾患を治すという可能性を伴う場合だけで、ここでのように非治療的な改良・強化のために行っても倫理的に問題はないというためには、相当な強弁を要せざるを得ないだろう。こう報告書は判断するのだ。――最初から技術的側面は周辺視すると言ってはきたが、とにかく〈デザイナー・チャイルドの哲学〉をなんとか文化史のなかに位置づけようとしてきた私にとって、これが重要な反論であることは間違いない。では、私は潔(いさぎよ)くこの話題から撤退すべきなのだろうか。いいや、必ずしもその必要はない。というのは、次の手法に、設計的生命観の本質的特徴が引き継がれているからである。つまり、技術的側面をもともと周辺視していた分、それが次の手法で行われようと、デザイナー・チャイルドの手法で行われようと、議論の中核に影響はないということである。では、その次の手法、choosing inとは何なのか。
Bchoosing inこれは、IVFとPGDを組み合わせるという技術的基盤を背景にしている。まずIVFで複数個の受精卵を作り、それらの受精卵が初期胚の段階でその一部を取り、その遺伝情報をチェックする(PGD)。現在では、仮にそれが行われたとしても、まだいくつかの遺伝病などの情報の照らし合わせのために実施されるだけだ。だが、それが徐々に、或る好ましい形質をもつ胚だけを子宮内に戻すという方向に移っていくことは十分に考えられる。こうして結果的に一種の肯定的優生学が出現する。これは、自在な設計を前提とするfixing upとは違い、そのカップルの元々の遺伝資源のなかから〈良いもの〉を選ぶという限定性をもっている。だがその一方で、これは現時点の技術水準との連続性のなかに十分位置づけられる技術だ。
このchoosing inがもつ思想的含意を、もう少し私なりに敷衍してみよう。もし今後機能解析などの研究が順調に進み、さまざまな〈卓越した特性〉、健康、容貌、知性などに関係するゲノムのデータがどこかの〈公立ゲノム解析センター〉に蓄積されていったとする。すると任意のカップルがたとえば数十個の受精卵をIVFで作り、そのPGDをする過程で、そのセンターの情報と受精卵のゲノムをコンピュータを使って照らし合わせ、受精卵のなかで最も〈卓越した〉ゲノムに近いと見なしうるものだけを数個、子宮に戻すということである。繰り返すなら、デザイナー・チャイルドとは違い、遺伝形質の混ざり具合は従来の自然な性交でのそれと変わらない。だが、その複数個を事前に〈評価〉することによって、〈最適な〉受精卵だけを選択するという作業が入るので、デザイナー・チャイルド的な設計性の色彩を強くもっている。
もしこのchoosing inが、このような〈ゲノム解析センター〉の発達ともども陳腐化するようなことになれば、病気のない、〈優れた〉形質をもつ子孫を作るという〈夢〉の一部が実現されるかもしれない。これは、デザイナー・チャイルドよりも実現性が高い分だけ、より切迫した問題性を惹起するともいえる。
(b)この「より良い子ども」という項目の後半部分(p.82 sq)では、遺伝子そのものへの介入からは離れて、或る精神薬理学的な話題を扱っている。特にリタリンとアデロールが取り上げられる。それらは、ADHD(77)の子どもの注意力を増し、不可解な行動を鎮め、勉強の水準を改善しているように見える。だが、気になる点もある。ADHDの診断と処方が、近年劇的に増大しているということだ。リタリン(メチルフェニデート)は、九〇年代の十年間で実に七三〇%の伸び率を示したという。ADHDは難しい病気で、診断にも一定の曖昧性が入り込む。もしその事実を背景に事態を眺めたとき、近年の診断・処方の劇的な増大は、本当はそれまでも患者がいたのだが、ただ見過ごされていただけなのか、現代生活がますます激しい緊張感と忙(せわ)しなさを背負い、それが子どもの行動に反映しているのか、それとも何か薬理産業的なバイアスがあるのか、と、いろいろな推量を可能にせしめる底のものだ。しかも、ここでも強化問題が効いてくる。一九七〇年代NIHの調査で、リタリンがADHDの子どもと正常な子どもの両方に投与された。するとADHDの子どもは集中力が高まって正常に近づき、正常な子どもは一層良い結果を示した。となると、普通の子どもでも、試験前に一気に〈遅れを取り戻す〉ためにこの薬を使うということに、歯止めをかける理由がなくなる。それに、他の何人もの子どもがこれで集中力を高めて試験に臨むということが分かった親は、たとえ薬剤投与などに乗り気ではなくても、あたかも〈乗り遅れた〉ような気になって、子どもにしきりに勧めるというようなことにはならないか。集中という重要な精神的能力が、薬剤で簡単に手に入れられる。これは、文化的にも大きなことではないか。とはいえ、もちろん、別に諸手(もろて)を挙げて賛成できるようなことではない。この種の薬が社会的に汎用されるようになると、正常概念が若干のぶれ(校正者注:「ぶれ」に傍点)を起こしたまま、戻らなくなるかもしれない。それに、そもそも、子どもというものは、いろいろな失敗をしながらも周囲の励ましなどで徐々に自らの行動を調整していく存在ではないのか。化学物質による行動制御は、通常の学習・教育過程を、子どもの脳に直接化学的に働きかけることでスキップしてしまう。この状況が汎化する場合、子どもは自分自身を道徳的なアクターとして捉えるという感覚が減衰してしまうかもしれない。――リタリンなどの使用について、報告書はこのように賛否ない交(ま)ぜにした微妙なスタンスを露わにしている。
(B)Happy Souls
この項目では主に二つのことが語られる。
(a)まずは、強い情動記憶が固定することを阻害するために、普通、高血圧や不整脈の治療に使われるβブロッカーや、たとえばプロプラノロールなどを使うという事例(p.249 sq)。だが、なぜ情動記憶の固定を阻害する必要があるのか。情動記憶とはいっても、それが恐ろしく、辛い、嫌な経験の記憶であり、そのフラッシュバックなどでその後長く苦しめられる人々がいるからだ。つまり、もしうまくいけばプロプラノロールはPTSD(78)の治療薬になりうる。これは良いことではないか。だが、その濫用も若干懸念されてはいる。何か、心を打つ可能性のある経験をした直後に、自らそれを投与することで、その経験をわざと暈(ぼ)かしてしまうのだ。たとえば、犯罪者が被害者の苦痛にゆがんだ顔を忘れるために、兵士が婦女子を射殺した自責の念を忘れるために、などというように。また実際上の問題もある。この薬は事件の直後に打たないと効果がないが、或る事件がそれほど心を乱すものになるという予測は、どれほど適切になされるのか。またどの程度の関係者に処置すべきなのか。直接の当事者ではない単なる目撃者でも、PTSDになる可能性はあるわけだから、〈関係者〉の外延も特定しにくい。さらには、こうもいえる。そもそも世界の苦痛、悪いこと、残酷なことなどを馴致するというのは、良いことなのか。PTSDのための処置という目的を悪くはいえない。だが、この種の作業の果てに、われわれは、自分自身であり続けながらも、自分の記憶とアイデンティティを自在に〈編集〉できるという妄念に到達するかもしれない。しかも〈記憶の社会性〉とい論点もある。ホロコーストの第一証言者にとって、その見聞きしたことはあまりに過酷な心理的負担を与えたかもしれない。だが、それは社会のためには必要な経験だった。もちろん、だからといって、社会のためには特定の人の心理的負荷など軽視していいということにはならないが、とにかく人類として記憶し続けなければならないことは存在するのだ。――ここでも、報告書は、治療上の意義と問題点の併記をすることを忘れていない。
(b)この項目の後半では、いまや名高い気分調整薬のことが扱われている(p.270 sq)。いわゆるSSRI(79)。なかでもプロザックはあまりにも有名だ。もともとは抗欝剤で、効果も患者による個人差が大きい。ただここでは、治療用ではなく、普通の人が普段よりも若干〈いい感じ〉になりたいということで使う強化的な使用に焦点が当てられる。かなり長く服用を続けると、悲しみや怒りなどの否定的感情が、消え去るわけではないが穏やかになり、強迫や不安に対する感受性も減る。強迫神経症、PTSD、前月経気分障害、摂食障害などに効果を現す。また、ベストセラーになったクレーマーの『プロザックを聴く(80)』(一九九三)が書いていた、サリーのケースを想起しよう。彼女は生来引っ込み思案だったのだが、プロザックを服用するにつれ、徐々に積極的になり、四〇歳過ぎでデートを重ねて結婚したという話だ。より前向きで積極的に、より社交的で朗らかに。もしそれほど酷い(ひどい)副作用もなく、このような〈人格改善〉ができるのなら、悪いとはいえないのではなかろうか。
それに対する報告書の倫理的分析は或る意味で古典的(校正者注:「古典的」に傍点)色調のものだ。われわれの不安や不満を、本当の幸福とはいえない代用品をあてがわれることで満足してしまう危険性とは何か、自分のアイデンティティを失いながら幸福を味わうときに支払う代価は何なのか。薬を飲まないサリーは〈本当のサリー〉なのだろうか。彼女と結婚した夫は、いったい誰と結婚したのか。もし彼女が薬をやめて〈本当のサリー〉に戻ったなら、それでも夫は愛し続けるのか。また、MDMA(81)のような薬を服用すると、まるで知らない人にも愛を告白するなどということが起こる。この場合、もちろん、その〈愛〉は本物とはいえない。他方、だからといって、抑欝症でSSRIを飲んでいる人が本当には配偶者を愛していないなどとはいえない。だが、彼らが若干違う人生を生きているというのは確かだ。また、そもそも不安や悲しみなどの〈マイナスの〉感情は、本当に必要のない、なければないに越したことはないものなのか。ちょうど飢餓感がわれわれを食べ物に向かわせるように、心の飢えは、われわれの魂に滋養を与えるようにし向ける。その最中の当人の自覚には関わらず、苦しみや悲しみが、その人の本当の人間的開花の契機にならないとも限らない。自己満足で一杯なら、上を目指す気持ちもなくなってしまう。『すばらしい新世界』で使われていたソーマは、薬による自己満足の空しさを例証している。SSRIは、或る種の使用法のなかでは、情念と行為との関係を断ち切ってしまう。そしてそれが汎用されるような環境では、自己理解の医療化が起こり、魂が身体に融解してしまう。〈心の痛み〉の医療化は、心と魂という城塞を壊す生物学的還元主義に向けた大きな一歩である。そして、その趨勢は留まるところを知らず、われわれの内的生活のもつ威厳を減らす脅威をもっている。――彼らは概略、このようにかなり否定的な評価を与えている。
さて、そもそも部分的で、ごく簡単な要約にすぎないとはいえ、以上のような『治療を超えて』の概観は、われわれに次の事実を明らかにしてくれた。本書の主題、遺伝子改良が露わにするような強化(enhancemen)への衝迫は、いまや遺伝子工学的だけではない手法で、医療の多くの場面に出現しているという事実、そして治療が徐々に非治療的で強化的なものと融合していくという事実だ。後者については、また次の章で触れ直すことにする。
(pp236-239)
ところで、アメリカ生命倫理大統領諮問委員会の報告書『治療を超えて(6)(二〇〇三)では、いろいろな改良・強化技術のことが取り沙汰されていた。その具体的様相については本書第六章で見たわけだが、そのときにあえて触れなかったことがある。この報告書の第一章第六節で、著者たちは、遺伝子改良などの諸技術にひた走るそもそもの根源には、人間が長い間、身体の衰えや心理的絶望感、憧憬の果ての焦慮などに悩み続けてきたという事実があることを認めている。或る一定の限界に押し込められてきた人間たちは、技術的媒介が成熟するのを見て、その限界が凌駕可能なものだと感じた途端に、その限界超克をほとんど義務的なものだと感じるようになる。遺伝子改造までも含めて、人間にとって完璧なものに近付きたいという夢は、実は医学とは関係がないのである(pp.21-22)。
そうなのだ、私なりに敷衍するなら、次のように言える。医学はただの手段なのであり、その活動自体の根本に自らの最終的根拠を見いだそうとしても見つからないという構造をもっている。そして、たとえ一定のリスクがあったとしても自分の限界を突き破りたいと考える人は、あのプロメテウスのような心性に駆動されている。神から火を盗んだせいで、もの凄い懲罰を受けたプロメテウスの姿は、実は、より上を目指しては挫折していき、それでも憧憬や渇望をやめようとしない人間の姿そのものだ。〈プロメテウス・コンプレックス〉を抱えたままに生きていくというのは、人間の根源的な業(ごう)、または性(さが)のようなものだ。これを見ようとしない人間論は、どれほど美や正義論などで化粧をしても、底の浅さを隠すことはできない。そしてこの文脈で、あえて本書全体を貫く或る一つの判断を再確認するなら、いわゆる優生思想は、ナチスなど、特殊な歴史的拘束に囲い込まれた過去のおぞましい偶発的逸話というよりは、古くから存在し(7)、今後、新たな相貌のもとに現れ直してくる可能性の高い思想だと考えた方がいい。それは、自己凌駕の力動性を抱え込む人間性の根幹に関わるものであり、世界に対する一種の態度・欲望の発露なのである。確かに、かつて存在した否定的優生学のおぞましさは、こんな〈綺麗な〉表現で隠蔽されてしまうべきものではないだろう。だが、本書が、かつての優生学をそのまま復活させるなどという意図をまったくもっていないということは、本書をこれまで通読してきた読者には、ほぼ明らかなはずである。
ちなみに、『治療を超えて』第三章では、スポーツ選手の増強剤使用をめぐる議論の文脈で、ジャーナリスト、グラッドウェル(Malcolm Gladwell)の興味深い言葉が引用されている。「われわれは、生まれつき集中力があり、幸福で、美しいという幸せな少数者が恣意的に支配する世界よりも、気が散ればリタリンを飲み、気分が落ち込めばプロザックを採(と)り、魅力がなければ美容整形に走るような人々が住む世界の方を好むようになったのだ。確かに、美容整形がもたらす美は『苦労して勝ち取られた』ものではない。だが、そんなことをいえば、生まれつきの美も、苦労して得られたものではあるまい。二〇世紀終盤の主要な貢献の一つは、社会的競争の道徳的な規制緩和、つまり、人工的で通常以上の介入から得られた利点は、自然が与える利点よりも正統的でないわけではないという確認をすることにあった」(p138)。このように、生理学的所与を乗り越えようとする憧憬と渇望は、自覚的で、自己容認的なものになりつつある。
とはいえ、本書第五章でクローン人間のことを論じていたときにも問題になった、例のbeget/make問題については、どう考えたらいいのだろうか。確認するなら、カスはこの両者の本性的違いのなかにクローン人間のもつ存在論的な蝦疵(かし)を見て取っていた。だが、いま、上記のグラッドウェルの言葉をもう少し注意深く聴いてみたらどうだろうか。「気が散ればリタリンを飲み、気分が落ち込めばプロザックを摂り、魅力がなければ美容整形に走る」ということは、まさにmakingの世界の住人になるということだ。『治療を超えて』で取り上げている話題は、近未来のものも含まれているとはいえ、大統領が読むことを想定して書かれたもの、つまり、純粋な虚構だけではない半ば現実化した話題に関することである以上、少なくともアメリカのような社会では、ますますこのmakingの成分が文化の諸相に多面的に発現しているということが分かる。その意味で、デザイナー・チャイルドは、その特異的性格を減殺せしめられる。それは、より広範な〈設計と製造の世界観〉という背景に融合してしまう。確かに、至るところでmakingが行われているのだから、それがもつ問題性はただちに免責される、とはいえない。生殖は、たとえばSSRIでの気分調整よりは、永続的で根源的な位相に関わることなのだから、なおさらだ。だが、私が何度も繰り返しているように、或る一定の倫理的配慮を怠らず、慎重な手続きで〈生物学的強化〉を行うという目的限定を伴う限り、そのmakingは、他の場面でのより気軽なmakingに比べても顕著な罪悪になる、とはいえない。確かに、begetではなくなる。だが、それが〈繊細なmaking〉である限り、あるいは、そうであろうとする限り、それは言語道断なものから、討議可能、検討可能なものに接近していく。カスの論点は重要な論点だが、やはり私はこのように考えざるを得ない。この場合、〈繊細な〉などというような響きのよい形容詞をつけることで、makingの問題性をうやむやにするのは、典型的な言葉だけの解決だ、とする批判も聞こえてきそうだ。だが、そんな批判者には、ただこの一節だけを読めば、そう読めるかもしれないが、私がいままで何百枚もかけて論じようとしてきたこと全体のなかから、私がこの形容詞によって意味させようとしているものを汲み取っていただきたい、としか応えようがない。
(pp244-245)
本書第六章第2節(B)(e)で触れたことをもう一度思い出して欲しい。正常な両親から成長ホルモン欠乏症の子どもが生まれた場合と、非常に身長の低い両親から正常な子どもが生まれた場合という二つのケース。この場合、その両方に成長ホルモン剤投与療法が行われるとして、前者は〈治療〉で、後者は〈改良・強化〉(enhancement)ということになるのだろうか(8)。そして、前者は、リスクがあるとはいえ試すに値する治療だが、後者は単なる(校正者注:「単なる」に傍点)強化なのだから、倫理的に許されないということになるのか。そう私は問いかけておいた。
もう少し考えてみよう。或る人が重大事故のせいで片足の膝から下を失ってしまう。ところが同時代の医療の粋を尽くした精巧な義足が装着される。その結果、その人は、かえってそれまでよりも若干早く走れるようになる。これは治療なのか、強化なのか。この場合、直接の契機は治療的なものだというのは確かだが、結果的には一種、強化的な効果をもたらす治療だ。また、怪我をしたその人を心配していた友人が、結果的にその人がかえって早く走れるようになったのをみて、怪我などはしていないのに、意図的に両足を切断し、その後で精巧な義足を切断部位に装着したいと望むとすれば、それは許されることなのだろうか。その人は、いわば自らの身体を〈サイボーグ化〉することを願望するということになる。だが、この事例の場合、それによって迷惑をこうむる他者がいるとは考えにくい。その人がもし、短距離走の選手だとしたら、話は別だろうが……。このようにして、治療的実践の成果の存在自体が、治療の枠を破る改良的な医療行為への道を開いてしまうという構図が、否応なく透視されてくる。今後、このような事例はどんどん出てくる可能性がある。
ちなみに、この事態は『治療を超えて』の、まさに主題そのものだった。やはりここでも本書第六章第3節(A)での議論を想起して欲しい。生殖系列の一定程度の制御の手法としてscreening out, fixing up, choosing inの三つを挙げた後で、その実現可能性の点で、特にchoosing inを私は重視しておいた。〈公立ゲノム解析センター〉のバックアップ体制のなかでchoosing inが陳腐化することになれば、子どもの形質への質的評価とその選択という設計性が、一層安定的に社会に根付くということになる。そうなれば、fixing upのような〈自在の彫琢〉ではなくても、当該カップルがもつ遺伝資源のなかで〈もっと良いもの〉、または〈最良に近いもの〉がとにかく選択されていく。治療から、治療以上の様相に医療行為が拡大していくという風景が、実現可能性の地平のなかに拡がっていくことになる。
◆森岡正博, 200603, 「人間の生命操作に対する批判的見解に関する予備的考察(1)――大統領評議会報告書の場合」『疑似法的な倫理からプロセスの倫理へ――「生命倫理」の臨床哲学的変換の試み』大阪大学文学部:63-75.
http://www.lifestudies.org/jp/handai01.htm
報告書は、議論すべき論点を、「人間学」の問題、「生きる意味」の問題に絞ろうとする。この点において、報告書は、米国のバイオエシックスの中できわめて特異な位置を占めることとなった。いわば、本報告書は、議論すべきは生命の「倫理」というよりも、生命の「哲学・人間学」である、と宣言したのである。本報告書によってなされた、「倫理」から「哲学・人間学」へのシフトは、今後のこの領域の議論の決定的な転換点として認知されることになるであろう。生命倫理学のいわゆる「原理主義」(4原理=ジョージタウン・マントラ)時代は、本報告書の登場によって終わりを告げるであろう。そしておそらく、「生命の哲学」「生命の人間学」へと展開する学術的流れが、ゆっくりと形作られていくことだろう。報告書の議長であるカスはこの点にかなり自覚的であったようだ。カスは後に述べる単著『生命操作は人間を幸せにするのか』(2002年)の中で、これらの難問に納得のいく答えが出るとすれば、「その答えは科学でも、いや倫理学でもなく、正しい人間学a proper anthropologyからしか得られないに違いない」と述べている(4)。そしてこの流れは、当初から「哲学」「人間学」寄りであった日本の生命倫理の議論と、さほど齟齬なく結びついていくのではないかと思われる。たとえば、日本における脳死の議論は、米国に比べて、脳死に直面した家族の人間的な揺らぎや、脳死患者を取り巻く人々の関係性についての記述や分析が目立っていた。私はこの潮流を、「脳死への関係性指向アプローチ」と呼んだが、それは倫理学というよりも、むしろ人間学の香りを濃厚に漂わせていたのである。この意味で、人間学へとシフトしてきたカスらの生命倫理の議論は日本の生命倫理の議論と親和性をもつ、とみなすことができるかもしれない。
(略)
カスらの報告書も、私の議論も、ともに、生命を選別するテクノロジーによって、子どもを見る視線が「無条件」のものから「条件つき」のものへと変化してくるという見方を共有している。そのうえで、それを我々の社会に突きつけられた大きな挑戦状だとみなすのである。私の場合は、それをさらに「根源的な安心感」や「愛の確信の喪失」というところまで押し進めて形象化しようとした。この点については、それらの喪失を嘆くこと自体が一種のロマン主義ではないのかという批判をすでに受けている。科学や文明の進歩にともなって、我々は絶えずいろいろなものを喪失してきたが、その一方で我々は豊かさや長寿を獲得してきたのであり、多くの人々は前者よりも後者のほうをやはり選択するだろうというのである。しかしながら同時に、その選択によって、我々がいまどのくらいの巨大な難問を抱え込まなくてはならなくなっているのか、について考えずにすますことはできないはずだ。『無痛文明論』において、私は、それが「生命のよろこび」の喪失という大問題を引き起こすのであり、これはかなり決定的なことであると主張した。この論点は引き続き考え続けなくてはならない。
(略)
まず、報告書の論調としては、欲望増大へと突っ走る我々の文明に警鐘を鳴らし、いま立ち止まって進行方向を変えなければ、我々はいままで築き上げてきた大事なものを見失ってしまうだろうというものである。そしてそれを把握できるような知恵の復権を主張している。しかしながら、別にそれでもいいから生命をコントロールして長寿と健康を手に入れたいと主張する人々がいたときに、それを禁止する論拠にはなっていない。報告書の主張は、確信犯的な自由主義者たちの行動を規制することはできないのである。この報告書に直接的な社会政策の提言を見出そうとすると失望してしまうだろう。カスも書いているように、この報告書には、きわめて哲学的・人間学的なバイアスがかかっているのである。(そしてその哲学・人間学は、ユダヤ=キリスト教の保守思想のフレーバーに満ちている)。この報告書は、象牙の塔の安楽椅子から、社会に木鐸を鳴らすという役割しか果たしていないように見える。
ただし、報告書がブッシュ大統領に勧告されている点は注意を払う必要がある。仮に大統領がこの報告書の論調を重要視したとすれば、それを根拠にして、トップダウンの政策を発動するかもしれないからである。実際問題として、ヒトクローン研究やES細胞研究をめぐって、大統領側と民主党議員のあいだに大きな意見の対立がある。大統領評議会も、この対立図式が続く中で設立されたという経緯がある。であるから、この報告書の中身に自由主義者たちを規制する具体的な政策提言は含まれていなくても、報告書を受け取った大統領や政治家たちが、生殖や研究の自由を実際に規制する立法や政策を行なう可能性は残されていると考えられる。したがって、本報告書が政策提言として失敗作であるとは、ただちに言えないことに注意する必要がある。ただし科学研究に関しては、国家予算からの支出を規制したとしても、民間予算での研究は規制されないということになる公算が強い。もちろん人権、生殖、中絶などにかかわる面では、すべての米国市民(あるいは州住民)に適用される規制が可能であろうから、規制がどうなっていくのか注目に値する。
私の目から見てとくに強く感じられたのは、この報告書が、現代文明の欲望の構造を捉え切れてないという点である。たしかに欲望についての考察が必要だということは強調されているが、報告書での議論は単に個人の欲望という側面に限定されている。たとえば、社会全体の仕組みとして、健康や長寿や苦痛の回避などへの欲望が、マスメディアや、都市化のテクノロジーや、快楽商品によってかき立てられ、その欲望追求の大きな流れに我々全体が飲み込まれそうになっているという点への批判が希薄であったように思われる。そしてそのような欲望の渦巻きを作り出しているものが、ほかならぬ我々一人ひとりの内部にひそむ欲望であり、その欲望はほかならぬカス自身の内部にもうごめいているはずであるという点を、さらに掘り下げる視点が足りないように思われる。私はこのような作業を『無痛文明論』で行なったわけだが、要するにこの報告書には「無痛文明論」的な視座が希薄なのである。もちろん、この報告書やカスの書物では、苦しみを避けようとすることが人間を薄っぺらにしていくこと、条件つきの愛を選択することが親子関係を崩していくことなど、無痛文明論的なテーマが的確に指摘されてはいる。その点では、この報告書は凡百の生命倫理学の書物をはるかにしのいでいると言えるだろう。そればかりか、近年のこの分野の代表作と考えてよいかもしれない。しかしながら、それでもなお私には上記の点で大きな不満が残る。この報告書での議論を、無痛文明論へと接続する必要がある。
さらに言えば、この報告書には、米国社会が国内外で作り上げている搾取の構造をどう考えるのかという視点が欠如している。これは決定的な難点であろう。先端医療技術の恩恵に浴することができるのは、一部の米国民のみである。国内のハリケーンで被災するような人々や、米国が国外で戦闘している国民のほとんどは、これらのテクノロジーの恩恵に浴することはできないだろう。そればかりか、これらの先端テクノロジーの恩恵を受けるであろう富裕層の人々は、国内外の富裕でない人々から経済的な搾取を構造的に行なうことによって、それら先端テクノロジーの成果を購買する資金を得ているという事実がある。その仕組みそれ自体はそのままでよいのか、という点への疑問が、報告書からはほとんど感じられないのである。
もちろん、テクノロジーの恩恵を蒙るのは富裕層のみであるという議論は紹介されているものの、我々の社会において貧富の差はなぜ固定化されてしまうのか、その落差を利用する形でテクノロジーが社会応用されていくこと自体をどう考えればいいのか、についての議論はなされていない。これは生命倫理の根本問題であるはずだと思われるのに、貧富の差を「所与」とするかのような論調に終始している感がある。いずれにせよ、これは、カスもその一員であろう米国の富裕層のエリートたちが議論して、大統領に提出した報告書であるという点を、読者たる我々は忘れてはならないだろう。すなわち報告書では、米国の富裕層が保持してきた既得権それ自体を人間学的・倫理学的にどのように考えるのか、という点についての掘り下げが決定的に不足しているのである。もちろんこの論点が、米国に匹敵する富裕国日本で富裕な私(たち)がこの問題をいま議論しているというところへと跳ね返ってくる、ということもまた忘れてはならない。
このような批判に対しては、それは国際関係論やグローバリゼーション論であって、「生命倫理学」の扱う直接的なテーマではないという反論が、正統派の生命倫理学者からは上がってくることだろう。しかし、問題構成をそこまで厳格に狭めること自体が、今日においてはもはや時代遅れかもしれないという点に、そろそろ気づかねばならないと私は思うのである。
さらに言えば、与えられた生命の恵みに感謝することを強く主張するこの報告書が、ブッシュ大統領に手渡されたとして、その大統領が9・11の後に、アフガニスタンで、イラクで、数限りない生命に対してなにをしてきたのか、ということを我々はやはり考えないわけにはいかない。もしブッシュ大統領がこの報告書を強く支持して政策に反映するとするのならば、その行為と、ここ数年来の米国の戦闘行為との整合性をいったいどのように付ければよいのかを、カスらの生命倫理評議会は真摯に考えなければならないのではないだろうか。先端医療技術による人間の生命への介入を規制しなければならないという思想と、先端医療技術すらまだ保持していない国外の非戦闘人民(アフガニスタンの場合は世界最貧国の人民)を、自国の安全保障のためならば副作用として「予防的」に抹殺しても仕方ないとする思想が、実は一直線に結ばれているのではないかという疑問を、正面から考え抜いてみる必要があるのではないだろうか。そこからこそ、生命テクノロジーに関する真の哲学・人間学が立ち現われてくるはずだと私は思うのである。
大統領評議会報告書には、与えられた生命の恵みに感謝すること、望まれない生命を歓待することの大切さ、欲望にふりまわされて浅薄な人生を送ってしまうことへの反省、などの重要な立脚点が指摘されていた。これらの視点と、今日のグローバリゼーション状況下における米国や日本のふるまいがこれでよいのかといった自己吟味を合体させるときに、生命操作への批判的スタンスは、もっと説得力あるものになるのではないだろうか。安全保障の要請からくる予防戦争への邁進と、社会の安全保障のための子どもの予防的選別は、同じ思想から導かれてくる行為である。私はそれを予防的無痛化と呼んだ。これらの視点をも導入しながら、基本的ニーズへのアクセス可能性に厳然たる落差のある社会の中で、その構造自体をきびしく吟味し、生命の倫理・哲学・人間学を追究していくという問題設定が必要なのである。大統領評議会報告書は、生命倫理の議論をその方角へと展開していくための、重要な一ステップとして大きな価値があると私は評価したい。
◆◆金森 修 20070130 「装甲するビオス」,石川編[2007:3-26]*
*石川 准 編 20070130 『脈打つ身体――身体をめぐるレッスン3』,岩波書店,276p. ISBN-10: 4000267299 ISBN-13: 978-4000267298 \2835 [amazon]/[kinokuniya] ※ en.
だが、ここでの議論のポイントは、さらに一歩踏み込んだ所からしか見えてこない。上記のように、社会的、哲学的、医学的な問題群を抱えた上でなお、今でも多くの人々がこの種の薬剤による人格改変をやめようとはしないという事実の射程を見極める必要がある。アメリカの大統領生命倫理評議会報告書『治療を超えて』(カス 二〇〇五)の標題が端的に示唆しているように、現代医学は、本来の治療的介入だけでは終わらずに、本当なら非本来的で逸脱的であるはずなのだが治療とあまりに深い連続性をもつために一概に排除できない多様なレベルでの〈治療以上の介入〉に手を染め始めている。その意味で、抗うつ剤の本来的使用から、美容精神薬理学への展開は、ほぼ必然的な成り行きだと言っても過言ではない。もともとアメリカ社会は、LSDなどの例でも分かるように、伝統的に薬の使用と過剰使用とが弁別しがたい文化的風土をもっている。プロザックだけではなく、アルツハイマー病の進行を抑えるために開発されたドネペジルが、正常な人間の記憶力向上のために使われたり、ADHDの治療薬、リタリンが、正常な学生の試験前の集中力アップのために使われたりするというような例もある。なんらかの形で大きな社会問題が顕在化するに至るまで、この趨勢に抗うことはおそらくきわめて困難だろう。もちろん、個別的には、その使用法の適切性について各個撃破的な検討を続ける必要があるのは言うまでもないが、それは現実上のミクロ政治の場面での闘争に関わるものであり、大枠はなかなか動かしがたいという事情は変わらない。
身体にフィットする仕立ての良い服や美しい宝石で身を飾る。身体がもつ若干の瑕瑾に外科的処置を施し、たとえばより形の良い鼻を手に入れる。身体を動かす中枢部としての脳が、自分自身の能力に不足を感じ、それを精神的鍛錬によってではなく、薬剤によって改良しようとする。――これらの間に存在する差異は、それらを各時点で可能にしてきた技術的限界や知識分節の差異に基づくと言った方が正確で、それらを統べる精神的傾性に大きな飛躍はない。その意味で、美容精神薬理学もまた、人間のこれまでの技術的介入の伝統を延長し、敷衍こうするものなのだ。
◆金森修, 20070228, 「遺伝的デザインの文化的制御」山中浩司・額賀淑郎編『遺伝子研究と社会』昭和堂.
私とて、このヒト生殖系列への人為的介入という話題を紹介・分析するなかで、何も、20世紀前半のようなスタイルの優生学を再興させたいなどとは、まったく思っていない。だが、ここで、アメリカ大統領生命倫理諮問委員会の報告書『治療を超えて』(PCB 2003)で開陳されていた次の判断に注目しておきたい。『治療を超えて』の主題自体は、先端医療がますます治療と改良との間の境界を不明確なものにしつつあるという認識の元で、いろいろな具体例を挙げることだが、それについてはまた後で触れ直す。この報告書の第1章第6節で、著者たちは、遺伝子改良などの諸技術にひた走るそもそもの根源には、人間が長い間、身体の衰えや心理的絶望感、憧憬の果ての焦慮などに悩み続けてきたという事実があることを認めている。ある一定の限界に押し込められてきた人間たちは、技術的媒介が成熟するのを見て、その限界が凌駕可能なものだと感じた途端に、その限界超克をほとんど義務的なものだと感じるようになる。遺伝子改造までも含めて、人間にとって完璧なものに近付きたいという夢は、実は医学とは関係がないのである(PCB 2003: 21-22)。
そうなのだ、私なりに敷衍するなら、医学はただの手段なのであり、たとえ一定のリスクがあったとしても自分の限界を突き破りたいと考える人は、あのプロメテウスのような心性に駆動されている。神から火を盗んでもの凄い懲罰を受けたプロメテウスの姿は、実は、より上を目指しては挫折していき、それでも憧憬や渇望をやめようとしない人間の姿そのものだ。〈プロメテウス・コンプレックス〉を抱えたままに生きていくというのは、人間の根源的な業、または性のようなものだ。これを見ようとしない人間論は、どれほど社会正義論に気を配り、判断の審美性や歴史的規定性への配慮を怠らないとしても、最終的な底の浅さを隠すことはできない。そしてこの文脈で、あえて明確に私自身の判断を述べておくなら、いわゆる優生思想は、ナチスなど、特殊な歴史的拘束に囲い込まれた過去のおぞましい偶発的逸話というよりは、きわめて古くから存在し、今後、新たな相貌のもとに現れ直してくる可能性の高い思想だと考えた方がいい。それは、自己凌駕の力動性を抱え込む人間性の根幹に関わるもの、世界に対する一種の態度・欲望の発露なのである。確かに、かつて存在した抑制的優生学のおぞましさは、こんな〈綺麗な〉表現で隠蔽されてしまうべきものではないだろう。だが、ヒト遺伝学の現代的、または近未来的展開は、私がいま述べたような根源的性としての優生思想に、新たな現代的推進力を与えることになるのは、ほぼ間違いない。だから、わが国の思想界でも、優生思想や優生学を口に出すのも憚られるような絶対的タブーとして扱い続けるだけでは、対応しようがないのである。私が、あえて、生殖系列遺伝子改造という奇矯な話題に踏み込んだのには、このような現状認識と、一種の危機意識があったからである。
◆森岡正博, 200703, 「生延長(life extension)の哲学と生命倫理学――主要文献の論点整理および検討」『人間科学:大阪府立大学紀要』2:65-95.
http://www.lifestudies.org/jp/lifeextension01.htm
3 レオン・キャスと大統領生命倫理評議会の見解
2003年に刊行された、大統領生命倫理評議会レポート『治療を超えて』は、21世紀の米国の生命倫理界に衝撃を与えた重要文献である。このレポートの性格については、別論文で詳述したのでここでは述べない(21)。一言だけ述べておけば、この評議会の委員長に任命されたレオン・キャス(日本ではカスとも表記する)は米国の保守派の生命倫理学者の代表的人物であり、彼を任命したのが、かのジョージ・W・ブッシュ大統領であったということである。キャスは、かねてより、中絶、同性愛、尊厳死などに対して否定的な見解を表明してきており、神から与えられた寿命を人間の都合で延ばそうとする生延長の技術に関しても、慎重な立場をとってきた。大統領レポートは、生命倫理評議会によって書かれたという体裁をとっているが、事実上キャスが執筆したか、あるいはキャスの強い影響下で作成されたと推測される。このレポートは、米国では、キリスト教保守派による新・生命倫理宣言として受け止められている。1980年代の生命倫理学を作り上げてきたリベラル派の生命倫理学者たちは、これらキリスト教保守派による生命倫理に対して、強い警戒心を抱いている。英語圏の生命倫理は、いまや、キリスト教保守派・対・リベラル派の代理戦争の状況を見せ始めているのである。後に見るように、この状況は、生延長についての議論にも大きな影を落とすこととなった。
話を戻せば、この大統領レポートは、今日の生延長の議論にもっとも大きな影響を与えた文献である。大統領レポートは、その第4章をすべて生延長の議論に充てている。2003年以降に学術誌に発表された生延長に関する様々な論文は、多かれ少なかれすべてこのレポートを念頭に置いて書かれたものであると言ってよい。
では、大統領レポートの内容を見ていきたい。前節で検討したヨナスの議論が、このレポートに大きな影を落としていることが見て取れるはずである。
レポートの第4章は「不老の身体ageless bodies」と題されている。そこで議論されているのは、不老不死を追求することは倫理的に見てどうなのか、という問題である。この問題が浮上してきた背景には、遺伝子操作技術の急速な発展がある。たとえば線虫(C.エレガンス)の単一遺伝子を変異させることによって、寿命を2倍から3倍に延ばせることが分かってきた。ほ乳類のマウスでも、25%から50%まで寿命が延びたとの報告もある。これらの研究成果が人間に応用されるのも間近であろうと言うのである(22)。
レポートは、「生延長」と「老化遅延age-retardation」を区別する。生延長とは、人間が生きている期間を長くすることである。生延長には、若いまま長生きすることも含まれるし、老いた状態で長生きすることも含まれる。これに対して老化遅延とは、老いをできるだけ先延ばしすることである。それによって生延長も結果的に達成されると考えられる(23)。
生延長には3つの方法がある。それは(1)青年と中年の死亡数を減らすことによって、多くの人々が老年まで生きられるようにすること、(2)老年期にかかる病気や障害を減らすこと、(3)老化のプロセスに介入して、最長寿命を延長すること、の3つである。これらのうち、いまもっとも活発に議論されているのは、第3番目の直接的な老化遅延である(24)。そこには、筋肉の強化、記憶の強化、摂取カロリー制限、遺伝子操作、酸化防止、成人病治療などが含まれる(25)。
これらを念頭に置きながら、レポートは生延長と老化遅延の倫理的問題の議論に入っていく。レポートは二つのことを指摘する。ひとつは、幸福な生延長は、「健康と若々しさが長期間続いたあとに、肉体の老化が非常に早くやってきて、引き続いて死が突然に訪れる」というかたちを取るにちがいないということである(26)。これはまさにハックスリーが『すばらしい新世界』で描いた世界そのものだ。もうひとつは、生延長と老化遅延を押し進める衝動というのは、「不死への欲望desire for immortality」に似たものであるということである(27)。生延長、老化遅延は、不死の追求へと一直線に結びついている。そう指摘したうえで、レポートは述べる。「死すべき生の良いところは、単にそれが死を導くというところにあるというよりも、むしろその本性上、われわれはいずれ死ぬということ、そしてわれわれは死すべき現実を心に刻み込みながらみずからの人生を生きる必要があるということを、われわれに絶えず教えるところにあるのである」(28)。
これらのことを確認したうえで、レポートは、もし最高の健康状態が20年、ひょっとしたら200年も延長されるようになったときに、どのような事態が生じるのかを、個人のレベルと社会のレベルに分けて考察していく。
まず個人レベルでは、6つの論点をあげている。第1は、寿命が長くなることによって人生の可能性が広がる。死の恐怖も薄まるかもしれない(29)。第2は、寿命が延びることによって、自分の人生へのコミットメントが薄くなる危険性があるということである。われわれは、残された時間に限りがあるということ、そして最後の段階では残された幾年間のうちの一部分しか使い切れないということを知っている。そしてこのことを鋭敏に気づけば気づくほど、われわれは自分にとってもっとも重要で大切なことに命を費やしたいと望むようになる。レポートは次のように述べる。
まさに命を費やすというその経験spending a life、そしてそれによって自分の命が費やされていくbecoming spentという経験、それはすなわちまさに老いるという経験でもあるのだが、それがあるからこそ、人生の達成と人生へのコミットメントの感覚が生まれてくるのであり、時間が過ぎゆくことに意味があるという感覚が生まれてくるのであり、時間の中をわれわれが通り過ぎてゆくことに意味があるという感覚が生まれてくるのである。自分自身の活動によって命が使い尽くされていくことが、この世を十全に生きるという感覚を作り上げているのである。(30)
そのような感覚を奪われた人生は、「みずから没頭することも、コミットすることも少ない人生になってしまうだろうし、それはわれわれが充分に人間的だとこれまで考えてきたような人生とは、まったく異なったものとなることだろう」(31)とレポートは述べている。この直後にレポートは、そのような人生を悪いと言っているわけではないと弁明しているが、しかしそれまでの叙述のニュアンスは明らかに否定的なものであると言わざるを得ない。
さて第3点は、生延長によって死の予感が遠ざかることで、人生に切迫感がなくなることである。第4点は、生延長によって、子どもに対する感覚が激変するということである。老化遅延技術は、生殖能力を減少させるという動物実験の結果もある。第5点は、生延長によって逆に死への不安が高まるかもしれないという点である。これは重要なので詳しく見てみたい。生延長に積極的な人というのは、なるべくなら死を避けたいと思っている人であろう。レポートは次のように述べる。
もしこれらのテクノロジーが、実際のところ不死を達成するのではなくて、せいぜい生をいくぶん延長するだけのことであるならば、それは死をより絶えがたいものにし、死をより恐ろしいものにし、死のことが頭から離れないようにしてしまうかもしれないのである。・・・(中略)・・・老化遅延の時代においては、われわれは実際にはよりいっそう強く死のことを考えながら生きなければならなくなるのかもしれない。それは人生へのコミットメント、人生への没頭、切迫感、世代交代へとわれわれを導くのではなく、逆に、不安、自己中心的態度へとわれわれを導き、ちょっとした肉体的不調やあらゆる新しいアンチエイジング法のことでいつも頭がいっぱいになっているという状態へと、われわれを導くことになるのである。(32)
それに加えて、もし生延長にともなって、老衰の期間もまた大幅に延びるようなことにでもなれば、「死が恩恵blessingとみなされるようになるかもしれない」し、「もしこの悲惨を終わらせる致死的な病気がないのであれば、安楽死や幇助型自殺への圧力が増すかもしれない」とレポートは書いている(33)。
第6点は、歳を取ることの意味が、人生の中で失われていくことである。
老いというのは、結局のところ、人生行路を調停してゆくプロセスなのであり、時が過ぎ去っていく感覚や、自分自身の成熟や、他者との関係性というものに形を与えてゆくプロセスである。老化遅延のテクノロジーは、老化というものを人間のプランのうちにはっきりと位置づけて、それをより操作可能で制御可能なものにする。そして、老化というものを、自然・時間・成熟という拠り所から部分的に切り離すのである。それによって老化はわれわれの手中に収められるのであるが、それと同時に老化は、われわれの十全な人間的生を構成するところの、容易には理解しがたい構成要素となってしまうのである。(34)
その結果として、われわれの生は、「これまでわれわれが真に人間的であると理解してきたものからは、根本的にかけ離れたもの、おそらくはそれより深くもなく豊かでもないものless serious or richになるかもしれない」と、レポートは結論する(35)。以上を総括するに、個人レベルの生延長と老化遅延に対して、レポートは非常に冷ややかな態度を取っていると見てよいであろう。とくにこの最後の言葉には、キャスらのキリスト教保守派の生命倫理学者たちの本音が現われているように思われる。
次に社会レベルであるが、レポートは3つの論点を指摘している。第1は、健全な世代交代が妨げられてしまうという点である。年上の世代がいつまでも元気だから、年下の世代はいつまでも押さえつけられたままとなる。第2に、長く生きると世界を新鮮な目で見ることができにくくなるから、社会から新鮮さや大胆さがなくなっていく。第3に、そのことによって社会全体が老化していくだろうsociety as a whole would age (36)。そして現状維持ばかり気にするような世界になる(37)。
以上の考察をもとに、レポートは、以下のように結論する。
現在の約80年のライフスパンは、祖父母、親、子の三世代が同時に存在して、経験を若い世代へと受け渡していけるようになっている。「ここでは、世代と養育、依存と相互の寛容が、調和のとれた均衡をなしていて、そこには人生行路の一定の歩調があり、誕生・壮年期・老化という繰り返しのサイクルの中に、調和的に統一された歩みを刻み込んでいくのである。それは、愛と再生のバランスと美を示しているのであり、またそれは、いくらつらいことであるとしても人間の経験に意味と卓越の可能性をもたらすところの「死」、に対する(良き)回答となっているのである」(38)。しかしこのような調和の状態が、われわれの欲望に駆り立てられたテクノロジーによって、「投げ捨てられ、忘れ去られ」るかもしれないのである(39)。
このように指摘したうえで、レポートは次のように書くのである。
誕生と成長、老化と死という生命の移りゆきを肯定することによって、われわれは何か永遠なもの、何かこの「時間のドラマ」を超越したもの、地上の諸プロセスを超越しかつそのプロセスに目的を与えるもの、への通路を発見できるのではないだろうか、そしてわれわれを、すべての無秩序・堕落・死を超えた尊厳なるものへと引き上げることができるのではないだろうか。(40)
レポートのこの箇所では、「神」という言葉がもうほとんど出かかっている。生と死のプロセスは現状肯定すべきだし、生延長は控えたほうがよいというレポートの基本姿勢の背景に、キリスト教保守主義のイデオロギーを嗅ぎ取る者は多い。もう一文紹介しよう。
老化と死のみが、われわれに、時間というものの本質を気づかせてくれる。老化と死によって、われわれは、地上の生命の進化が永遠なる存在を希求する魂を生み出したということを知る。そして、もしこのような言い方を許してもらえるならば、最終的には時間それ自体を超越することができるところの永続的で有意味なものごとへとわれわれを参与させるチャンスを希求するような魂を生み出したということを、知るのである。(41)
この箇所もまた、「キリスト教的な永遠」のことを指していると考えられる。
以上のように、大統領レポートは、生延長と老化遅延について、それを禁止せよとは言ってないにしても、きわめて否定的な見解を打ち出したのである。そうすることによって、われわれの欲望によって限りなく押し進められていくテクノロジーに対して、最大限の警鐘を打ち鳴らしたのである。
4 2003年以降に現われた論調
大統領レポートは、米国の生命倫理評議会という政府機関から発行されたこともあって、生命倫理の世界に激震を与えた。ブッシュ政権は、ES細胞研究や治療用ヒロクローン研究に対して消極的だったこともあり、リベラル派の生命倫理学者だけではなく、現場の生命科学者からも異論が沸き起こった。と同時に、政府の報告書として、このような思想文書がふさわしいのかという疑問の声も起きた。
2003年以降の生命倫理関連の学術誌には、大統領レポートに反論する形で生延長について議論する論文が立て続けに発表されることになる。
◆島薗進, 20070920, 「はじめに」町田宗鳳・島薗進編『人間改造論――生命操作は幸福をもたらすのか?』新曜社:7-16.
(pp11-12)
アメリカのブッシュ大統領のもと、哲学者のレオン・カスを座長とする生命倫理諮問委員会では、二〇〇三年に『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求』という報告書を刊行した(邦訳、青木書店、二〇〇五年)。この委員会は、ヒトのクローン胚やES細胞の研究利用がはらむ倫理的問題をもっと深く考察することを促して研究抑制的な決定を下した。
その一方で、今後の医療が「人間改造」の方向へ進んでいくことを見越して、そちらに視野を転じたのは慧眼である。そして集中的な審議を行なって、歴史的な意義をもつ報告書をまとめた。すでに「人間改造」はどこまで進んでいるのか。それを認めてよいとすればその理由は何か、あるいは認めてはならないとすればその理由は何かを考えるための手がかりを提供しようとした。こうした問題を取り上げる論者はもちろんいなかったわけではないが、国民的な、そして世界的な討議の場に引き上げた功績は大きい。
これは生命倫理という領域を一新するような画期的な試みである。生命科学や医療技術の進展がもたらすだろう変化が、人類の生活に及ぼすであろう変化をどのように評価すべきかという問題を提起しているからである。科学技術は地球環境を大きく変化させてきたので、ようやくその影響を評価する知識が発達してきた。新しい技術が地球環境をどう変化させるのかを評価することは、今では科学技術の発達と不可分に追求するべき課題となるに至っている。
◆粟屋剛, 20070920, 「エンハンスメントに関する小論――能力不平等はテクノ・エンハンスメントの正当化根拠になるか」『人間改造論――生命操作は幸福をもたらすのか?』新曜社:76-89.
(p81)
さて、そのようなテクノ・エンハンスメントが実際に行なわれ始めるとどうなるか。これまで高い能力は一部の優れた人々の独占物――究極の独占物――であった(独占禁止法違反ではない)が、その「能力」という武器を多くの人が獲得するなら、何が起こるであろうか。
まず第一に、個人レベルでは、その能力を駆使して自己実現のチャンスをつかむ人が増えるだろう。誰もが社会で自己実現できるならそれはすばらしいことである(註:13)。ただし、能力獲得が必ずしも幸福と直結しないことはいうまでもない(註:14)。
(pp86-87)
(14)高い知的能力はその持主に必ずしも幸福――真の幸福(何がそれなのかはおくとして) ――をもたらさないということを示唆する小説としてダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』(小尾芙佐訳、早川書房、一九九九〔一九五九〕年)がある。これは、著しい知恵遅れの青年が脳手術などによって天才になり、そしてまた知恵遅れに戻っていく、という物語だが、青年は天才になっても幸せではなかった。最近では、レオン・カス(編著)の『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求(大統領生命倫理評議会報告書)』(倉持武監訳、青木書店、二〇〇五年)がエンハンスメントは人間に真の幸福をもたらさないということについて述べている。ビル・マッキベンの『人間の終焉――テクノロジーは、もう十分だ!』(山下篤子訳、河出書房新社、二〇〇五年)も同様である。なお、「幸福であればそれでよいのか」という問題もある。オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』(松村達雄訳、講談社、一九七四年)に登場する下層の人々は一応「幸福」だが、それは余計なことは考えないよう仕組まれているからである。
◆島薗進, 20070920, 「先端科学技術による人間の手段化をとどめられるか?――ヒト胚利用の是非をめぐる生命倫理と宗教文化」町田宗鳳・島薗進編『人間改造論――生命操作は幸福をもたらすのか?』新曜社:168-197.
(p170)
妊娠中絶においては、胎児という新たな生命個体を破壊することに重い倫理的問題がある。確かにヒト胚の研究・利用においても新たな生命個体の破壊は重要な倫理的問題だが、あわせてその生命を他の目的のために利用するということのはらむ倫理的問題がある。この問題をしっかりと考察することが、現在、いのちの始まりの生命倫理を考える上で重い意義をもつ(Shimazono、2007)。人の生命の利用が、人間改造に通じるようなエンハンスメント(増進的介入)を可能にすることも懸念されるのだから、破壊するかどうかだけでなくどう利用するかもよく検討しておくべきだ(カス 2003=2005)。私の印象では、このような考え方はこれまでの生命倫理の議論にさほどなじみのない日本人には比較的容易に理解を得ることができたが、欧米の生命倫理の議論になじんだ専門家にはなかなか理解されにくかった。
(pp185-186)
D胚の利用が進めば、不老長寿に近づき、超高齢まで生き延びたり、高齢で出産したり、個人の容貌や能力を高めたりというように、豊富な医療サービスで人体改造を進め、これまでの人間が避けることができなかった限界を超えていく人々が出てくる可能性がある。それは過剰医療というべきものだが、現在のように医療がクライアント個々人の欲望に従うことを原則とするような体制では、過剰医療の拡充は避けられない。再生医療はこの可能性を大いに高めるだろう(島薗 二〇〇二)。だが、このような過剰な医療を発展させることは、人類の福祉に貢献するのだろうか(フクヤマ ニ〇〇二、カス ニ〇〇五)。また、そのために利用される胚の、生命の萌芽としての地位に見合うものなのだろうか。
また、こうした医療が発展すると、そのような過剰な医療の恩恵に浴する人とそうでない人の間の格差が増す可能性が高い(シルヴァー 一九九八)。富裕国の人々や他の国の富裕層が得られる医療サービスと、貧困国の人々や他の国々の貧困層の人々が得られる医療サービスの間に今も存在する格差がさらに拡大していき、はなはだしい隔たりが生じるかもしれない。そうなれば、社会正義の根本への疑いが強まるし、富裕者と貧困者の間で同じ人類同士であるという意識が薄まってくる可能性もある。人類の平等の理念が見失われた身分制社会や奴隷制社会に類するものとなり、社会的な敵対意識も強まる結果を招く可能性がある。そんな危険をはらんだ医療技術開発に力を入れるよりも、まずは基礎的な健康の方にもっと力を注ぐべきではないだろうか。
◆松田純, 200710, 「訳者あとがき」 Wissenschaftliche Abteilung des DRZE[生命環境倫理ドイツ情報センター] 2002 drze-Sachstandsbericht.Nr.1. Enhancement. Die ethische Diskussion uber biomedizinische Verbesserungen des Menschen,New York: Dana Press(=20071108, 松田純・小椋宗一郎訳『エンハンスメント――バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』知泉書館):167-174.
(pp171-172)
エンハンスメント論でまとまったものとしては、アメリカ大統領生命倫理諮問委員会(The President's Council on Bioethics)が二〇〇三年一〇月に発表した Beyond Therapy, Biotechnology and the Pursuit of Happines (http://www.drze.de/themen/scopenotes)が有名だ。早くも優れた邦訳(『治療を超えて―バイオテクノロジーと幸福の追求』倉持武監訳、青木書店、二〇〇五年)が刊行されている。読み物としてはなかなか面白い。学術的研究としてはしかし、これまでの研究をしっかり踏まえていないという問題がある。エンハンスメントをめぐる議論はおもにアメリカで発展した。本書の文献表(末尾九―二五頁)を見れば分かるように、圧倒的に英語論文が多い。ところが Beyond Therapy の参照文献には、エンハンスメントの考察に不可欠の論点を提示している重要文献が多数欠落している。それはこの報告書からいくつかの重要論点が欠落していることを意味している。研究の作法としては一年前(二〇〇二年九月)に発表された本書を参照すべきであったが、英語以外の文献はほとんど使用されていないようである。
本書はエンハンスメントの倫理的研究に関する入手可能なほとんどの文献に当たりつくし、論点を簡潔に整理している。この分野の研究としては、国際的にも例を見ない。エンハンスメント是か非かについて結論を下すことを目的としてはいない。対立する議論が展開されているテーマで、一つの主張をなすことは本情報センター(DRZE)の任務ではない。問題の所在を明らかにし、議論がふまえる必要のある論点を提示することが情報センターとしての役割である。その意味で、エンハンスメントをめぐる議論は本書で終わるのではなく、本書から始まる。
*作成:植村要