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『功利的理性批判――民主主義・贈与・共同体』

Caille, Alain[カイエ、アラン] 2003 Critique de la raison tilitaire. Manifeste du MAUSS,Le Decouvert,.
=20110114 藤岡 俊博訳,以文社,268p

last update:20110209

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Caille, Alain[カイエ、アラン] 2003 Critique de la raison tilitaire. Manifeste du MAUSS,Le Decouvert.
=20110114 藤岡 俊博訳,『功利的理性批判――民主主義・贈与・共同体』 以文社,268p ISBN-10:4753102866 \2940 [amazon][kinokuniya] ※ **

■内容

「本書はアラン・カイエ『功利的理性批判 MAUSS宣言』(Critique de la raison tilitaire. Manifeste du MAUSS,Le Decouvert 2003)の全訳である。…本書の中心部分をなしているのは初版時の1989年に書かれた「はじめに」および本文であるが、2003年の再版時に「2003年度版への序文」と「2003年度版の補注」、さらに本書の議論を理論的に補強する「あとがき」(このテクストの初出は1991年)がそこに追加された。加えて本訳書の冒頭には、2010年の9月の時点において著者が本書を振り返った「日本語版への序文」が併せて収録させている。かくして、本書の核は、いわば3本の前書きと2本のあとがきによって幾重にも被覆されているのである。
 このような本書の複雑な構成に訳者がことさら言及するのは、本書が1982年の『MAUSS紀要』発刊を嚆矢とする《MAUSS》の思考活動の軌跡を単に辿り直しているにとどまらず、この運動体を取り巻いている社会的・政治的背景に対する目配せを常に含んだものであることを強調するためにである。……こうして見ると入門書的な体裁をとった本書の内容がこの20年のあいだの劇的否変化によって無効にされていないばかりか、むしろこの変動の本質を早くから見抜いていたその炯眼と、それに対する透徹した批判的まなざしを備えていることに驚かざるを得ない」

「訳者あとがき」より

■目次

日本語版への序文
 MAUSS――特異な歴史
 贈与――いかなる贈与か?
 一般社会学に向けて?
 贈与と承認のパラダイム
 日本に期待を寄せながら

2003年版への序文

はじめに

第一部 功利主義の力の台頭
1 漠然とした功利主義から支配的な功利主義へ
  T漠然とした功利主義
  U社会科学の古典的領野と支配的ではあるが相殺された功利主義
   経済学 
   社会学
   集団化された功利主義としての社会学
   哲学
   その他の言説および学科
2 支配的な功利主義から一般化された婉曲的な功利主義へ
 1 理論における一般化された功利主義
    表現を和らげ、説明を加えるなら
 2 実践における一般化された功利主義
   婉曲的な功利主義
   様々な両義性

第二部 功利的理性批判の諸要素

3 近代功利主義の発生に関する諸断片
  T宗教改革
  U市場
  V市場と中流階級の勝利
  W功利主義の力と壮麗さ
4 功利主義と経済主義
  T歴史の功利主義的な見方
   希少性、労働
   物々交換の寓話
   贈与
   市場
  U第三世界と発展の問題
5 理性の不確実さと主体のさまざまな状態
  T理性の不確実さ
  U主体のさまざまな状態
6 版功利主義と民主主義の問い
  T民主主義の概念への簡潔な指摘
  U民主主義・贈与・共同体
  Vそれほど反時代的ではない考察 
  Wなにをなすべきか

結論

あとがき 功利主義の概念、規範的な功利理性の二律背反と贈与のパラダイムについての覚書
 T 功利主義の概念
 U 規範的な功利的理性の二律背反
 V 功利主義に代わるパラダイムとしての贈与


■引用

もしそこに(贈与に)普遍的な人類学的与件、モースが「永遠の道徳の岩盤」と呼ぶものがあるとすれば――私たちはそう信じているが――このことが社会科学に対して持っている帰結は計算しえないほどのものである。そしてそれも単に民族学だけでなく、社会学、歴史学、道徳哲学、政治哲学、あるいは経済学にとっても同様である。…実際MAUSSは、一般社会学の、あるいはこのほうがよければ、一般社会学の可能な諸基礎を明確化するという希望と努力を放棄してはいない。… 経済学は1970年以来、合理的行動に関する理論という説明モデルを、伝統的な社会科学のあらゆる領野に拡大してきた。この一般化された経済学は、ある種の形式的厳密さという利点を持っている。しかしこの経済学は同時に、極めて貧しい哲学的人間学に依拠しており、その上結果として誤りであるという欠点をもっているのである。(pp13-14)

思想史では、功利主義はジェレミー・ベンサムの哲学として知られている。そして、ベンサムの哲学は彼の主要な弟子であるジョン・スチュアート・ミルによって展開され、幾人かの英米系の哲学者たち――かれらはヨーロッパ大陸ではほとんど知られていないが――によって今日まで引き継がれている、とされる。これは明らかに、あまりに狭い物の見方である。むしろベンサムの体系は、中世末からヨーロッパ思想の全体に伏在していた功利主義的問題系の一つの個別な定式化にすぎない、と言った方がよいだろう。p40

したがって、この13世紀から18世紀までの期間において、功利主義が大筋で漠然とした穏健なものにとどまっているのは、功利主義が常に神および(あるいは)国家の力への配慮と結びついたものとして現れているからである。p44

しかし、この漠然とした功利主義という契機の最盛期、すなわち実際に後の思想の、とりわけ経済学の原型として役立つことになる最もよく知られた最盛期を代表しているのは、社会契約をめぐる様々な理論である。個人は、自分たちの安全を確保し生活を享受するために、社会に参入することを自由に決断するものであり、共通の法が自分たちの利益の満足を保証する限りにおいてのみその方に従う義務を負うものだとしよう。だとすれば、正当性の唯一の源泉が個人の効用であるのは明らかである。p46

社会学はと言うと、このような反商業的な衝動を、理論的および学術的な領野において代表するものであった。その意味で社会学は、市場の発展が伝統的社会のがれきの上に生み出さないわけにはいかなかった政治的な反功利主義の理論的側面をなしていた。そこから、この学科がもつ、多くの点で反動的な性格が生じてくる。ふつう社会学は、サン=シモンやオギュースト・コントの著作を通して生まれたともなされている。これらはL・ド・ボナールやJ・ド・メ―ストルによる1789年の大革命の批判を踏襲したものである。社会学は彼らにならい、ルイ16世の死刑によって、また社会秩序の宗教的基盤の消失によって引き起こされた象徴的指標の喪失を危惧していた。しかしながら、ド・ボナールやド・メーストルとは異なり、社会学はカトリックおよび聖職者の権威の回復ではなく、新しい宗教――人類教および科学教――の樹立のなかに救いを求めることになる。これもまた、社会的紐帯の基礎は経済の中には存しえない――たとえ、諸学総合の精髄の資源を最大限活用して経済を発展させなければならないとしても――ということを主張する別のやり方である。したがって、社会学が表している反動は、単に大革命の脱共同体的な猛威に対するだけではなく、同様に、経済学者達によって称揚された拝金的個人主義を満たしている様々な脅威に対するものであった。p54

総体としての社会秩序における団結の諸要因を問うゆえに、そして、社会は経済にも、権力および法の基礎という問いにも還元されないと主張するゆえに、社会学は多かれ少なかれ再び「全体論的」になり、全体論理はその諸部分の論理には還元されないことを主張する傾向を持つようになる。55

当然ならが、社会学者達の全体論は、経済的論理は包括的な社会的論理の一つの部分集合にすぎないという確信から、そして、経済的論理が何らかの自律を勝ち取ったとしても、その最終的な意義は、もっとも広範囲な集合を背景にして解釈することによってでしか理解されないだろうという確信から生じている。そこから相関的に生じるのは、《経済人・ホモエコノミクス》という虚構は雅に一つの虚構にすぎないという確信である。56

クロード・レヴィ=ストロースの著作に関しては、誰もその偉大さと力を否定することはできない。実際、彼の著作は功利的理性の領野を抜け出している。おそらくは過度に、である。功利的理性の領野を照らし出すことによってよりというよりまむしろ、哲学にならって――彼は哲学を拒絶しているが――それを視界から締め出すことによってである。しかし、いずれにしても彼の著作には真の後継者がいないままになっている。 62

とはいえ、これらの物品が支払うことを可能にするのは、多くの場合、血の代価であり結婚に対する補償である。これらの物品が財に見合うものとして役立つことがあるとしても、それは売買には属さないさまざまなメカニズムを通してである。したがって、市場および売買取引の発展を禁止しているのは貨幣の不在なのではない。それはむしろ市場の拒否であり、この拒否は貨幣の形をしたこれらの物品に近代貨幣の役割を担わせることの拒否と対をなしているのである。  したがって、贈与をめぐる経済中心主義的な解釈は維持することができない。公然たる気前良さが持つさまざまなメカニズムが、物質的目的も含む個人的目的のために利用されることがあるのは当然である。功利的なものが功利的でない目的のために役立つことがあるのだから、その逆が同様に真でなければ驚きだろう。ただし利用され、さらに悪用されうるためには、様々な儀礼的形態は依然として実在していなければならない。……贈与に個人的利益が伴わないことはありえないが、だからといって個人的利益が贈与に対して優位でないあいだは相変わらず贈与は存在し続けるのだから、贈与を個人的利益に還元したところで何も説明したことにはならない 114

Kポラニーと彼の弟子たちの偉大な功績は、厳密な意味での市場が存在していなかったにもかかわらず、産業的生産や貨幣の使用、商業を知っていて、その内部にさまざまな市場(いちば・market place)が存在する強大で裕福な帝国が存在したことを示した点である。厳密な意味での市場が存在していなかった、ということはつまり、個人や集団の物質的生活が、そこでは需要と供給の短・中期的な変動に左右されてはいなかった、ということである。116

原則として、功利主義的理性は利他主義の存在を認めるのを嫌がらない。ときにその理論家たちが利他主義を熱烈に奨励することさえある。しかし、彼らが是が非でも主張しなければならないのは、利他的な選択はまず第一に利己的な選択であるということだ。その結果、気前良さは常に疑わしく、その自律は問題含みなものであり続けることになる。139

たとえば、人間主体の主要な利害は、主体が財の獲得ではなく自己自身のイメージへの配慮に向けるものであると主張するだけでも功利的《理性》によっては回収されえないさまざまな人類学を生みだすのに十分である。このことを納得するには、ヘーゲル、ジョルジュ・バタイユ、ハンナ・アーレント、ルネ・ジラ―ルらの人類学がどれほどまで異説的であり続けているのかを確かめてみるだけでよい。もし人間主体が、他者に基づいて作りだしたり、翻って他者から受け取るような自己のイメージによって統べられているとすれば、そして、それが現れの欲望、他者の欲望の欲望、ないし他者の欲望にしたがった欲望であるとすれば、人間主体が利己主義と利他主義の二分法に従っていると考えるのは明らかに不可能である。他者はまさに自我のただなかに現前しており、利己的であると想定される利益はすでに《他者》のための利益なのだ。おそらく、これがヒュームやスミスの共感概念が思考しようと努めていたものであろう。142

「反功利主義」というラベルの短所は、もっぱらそれが批判的かつ否定的に見えてしまうという点である。つまり、あまり魅力でなく、実りの少ないもの、ということだ。何を出発点とすれば肯定的かつ建設的な仕方で思考を試みることができるのだろうか。その答えには一つの名がある――とわれわれは考えている。贈与である。キリスト教的な、無償の、見返りのない贈与ではない。この贈与は絶対的な没利害の象徴であり、功利主義がその上にうちたてられる絶対的な利益性のイメージに十分見事に対置されるほかない。純粋な献身性ではなく、マルセル・モースが分析していたような贈与である。この贈与はそもそも、〈与える・受ける・返す〉という三重の義務によって動かされる循環であり、この循環はそれが循環であるかぎり、社交性のあらゆる形態がもつ真の要素的核心――ア・プリオリに総合的な社会的関係――として自発的秩序をなしている。功利主義哲学や功利主義的社会科学はこの循環の解体を進め、〈受ける〉という契機のみを抽象的に取り出し、あたかも人間は〈受ける〉あるいは〈取る〉という欲望のみによって動かせられているかのような推論を行っている。反対に、それらを全として考えることは次のことに注意を向かせる。すなわち人間は〈受ける〉ことだけでなく、まったく同様に〈与える〉ことや、〈取りかかる〉ことや〈創造すること〉や〈生み出す〉ことにも喜びを見いだすということ、そして、他方では人間は、受け取ったものを〈返す〉という義務が生みだす負債に従っているということである。確かに問題は、誰に返し、誰に与えるか、というものである。いずれにしてもここでは、人間が自分たちの生を織りなす多様な互酬性のネットワークのただなかに書き込まれているということのうちに、道徳的意味の具体的な諸基盤が見出されるのである。 213

市場が主として計算された利害で動き、国家が権力で動くというのが事実だとしても、人間主体が第一に、そして何よりもまず経済的ないし政治的主体であるわけではないのもまた事実である、ということだ。経済的ないし政治的舞台のうえにアクターの資格で介入するまえに、すなわち二次的社会性と呼ばれうるもののアクターの役を担うまえに、人間主体は、人間と人間の関係の領域、すなわち一次的社会性と呼ばれうるものの内部に生まれ、自らを構造化し、そこで自らの実存の意味を見つけ、それを試すのである。この一次的社会性は、親類関係、婚姻関係、隣人関係、仲間関係、友愛、愛情、そしてこれらをの全てを横断する会話の領域といった、多彩で広がりのある領域にわたっている。215

■書評・紹介

■言及

「訳者あとがき」より

かつて、エミール・デュルケームとマルセル・モースが社会形態学という題目のもとで、社会的基体を多面的に論じる総合的研究を構想していたように、著者自身および《MAUSS》も、反功利主義の旗印のもとに多様な分野を包括する一般社会学の構築をあくまでも目指しているのであって、いわゆる学際性ないし領域横断性をそれ自体として称揚しているわけではない。これらの謳い文句に頼ってしまうと、表面上の間口の広さをアピールすることはできても、各学科の個別の専門性に基づいてそれらを貫くような強力な、とりわけ倫理的な導線を導くことはできないからである。



*作成:近藤 宏
UP: 20110215
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