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『愛について――アイデンティティと欲望の政治学』

竹村 和子 20021018 岩波書店,351p.


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竹村 和子 20021018 『愛について――アイデンティティと欲望の政治学』,岩波書店,351p. ISBN-10: 400022011X ISBN-13: 9784000220118 3150 [amazon] ※ f03/g02

■目次

序 「愛」について「語る」ということ
第一章 〔ヘテロ〕セクシズムの系譜――近代社会とセクシュアリティ 
第二章 愛について――エロスの不可能性
第三章 あなたを忘れない――性の制度の脱-再生産
第四章 アイデンティティの倫理――差異と平等の政治的パラドックスのなかで
第五章 〈普遍〉ではなく〈正義〉を――翻訳の残余が求めるもの


文献
人名索引

■引用

第四章 アイデンティティの倫理――差異と平等の政治的パラドックスのなかで

「アイデンティティ、差異、主体の解体、位置性、行為体、自由、平等、正当性、承認、アゴーン……。多彩な概念が、抑圧からの解放をめぐって議論される。透明で客観的な普遍性の物語に疑義がつきつけられ――支配的な物語であれ、解放的な物語であれ――それが誰によって、誰に向かって語られているかが問いかけられる。」(p.209)

「〜である」と名のるカミングアウトと「〜になる」(ビ)カミングアウトの「質的相違」(p.210)

「九〇年代に入って、多文化主義や文化研究の文脈で、「アイデンティティの政治」が賛同と批判の両面で議論の俎上にのぼってきた。「アイデンティティの政治」や「(ビ)カミングアウトの政治」は、現存の抑圧的な性体制を転覆するためにかならず通過すべき、不可避の本質主義的な戦略なのか。あるいは、リスクを背負いつつ実践されるひとつの社会構築的な戦法なのか。そのとき、そこで何が起こっているのだろうか。」(p.210)


「「わたし」を同定するアイデンティティは、「わたしでない」ものを生みだし、それとの差異化をはかる。差異はアイデンティティの前提条件なのか。それとも差異は、アイデンティティのなかに生じるもの、ドゥルーズの言葉を使えば「自己に対して生じる」もの(Deleuze, a 40)なのか。」(p.211)

「スピヴァックは、社会構築的な考え方は反本質主義のように見えるが、じつは社会を本質として捉えているにすぎないと批判した。社会構築主義の考え方では、現在の資本主義社会は本質(つまり社会一般)とみなされてしまい、それを批判的に検証する作業はなされず、それ以外のものはみな「差異の〔個々の〕場所」になってしまう、と(Spivak, f 294)。」

「フーコーはその権力論で、「統治/従属」という古い権力形態から変容した近代の「支配/従属」の権力機構においては、権力は主体に対してはたらきかけるのではなく、主体をとおしてはたらきかけるものだと主張した。たとえば、ある種の欲望は外在的に存在して、それが「禁止」されるのではなく、「禁止」すべき欲望として言説によって「生産」され、その言説化された欲望をみずからに禁じた人間のみが、「主体」として認知されることになると。すなわち主体とは、言説権力を内面化し、それに服従することによって主体となる者であり、もとより啓蒙主義の人間中心的な自律性はもちえない。だがそうなると、抑圧体制を再生産する言説権力の「悪循環」から、どのように人は解放されるのか、権力機構と主体と言説が同延上にあるとき、自由への跳躍を引きおこす>213>スプリングボードをどこに求めればよいのか、という問題が浮上する」(pp.213-214)

「カミングアウトは、これまで負のしるしがつけられていたものをひとつの差異として主張し、その差異に積極的に自己同一化することによって、おぞましきものとしてではなく社会的存在としての承認を求める行為である」(p.215)

「「普遍的な諸能力にもとづいて平等な尊厳を求める政治は、すべて等しく同質化して」(Taylor, d 51強調は竹村)、そもそもの発端である「差異」の主張を空洞化するおそれがある。」(p.216)

「承認されない、もしくは誤認されている者は、他人から蔑視されて劣位の位置に置かれるだけでなく、他人からの蔑視を自らのアイデンティティとして内面化し、この自己蔑視が「抑圧のもっとも強力な道具のひとつ」(d 26)になると彼[テイラー]は言う。したがって、抑圧からの解放は、「真正さの理念に対する大罪」である不承認や誤認に対して、自分たち独自のアイデンティティ(つまり差異)を主張す>224>るものだが、差別化されない差異という平等の要求は、つまるところすべての人は「普遍的に平等」という価値の同質性や個人や集団が非共約的な差異のなかに自閉することから生じる公的領域の解体をもたらす危険性をもつのである。」(pp.224-225)([  ]による補足は竹村)

「だがここでなおも強調しておかなければならないことは、「アゴーン的な民主主義」や「(ビ)カミングアウト」や「連続的差異」や「とりあえずの連帯」等の政治において、アイデンティティの多重決定や過渡性や不定性が明確に述べられ、それを根拠にこういった政治が主張されているが、その政治が政治的実践となるには、結果としてのアイデンティティの変容だけではなく、現在性としてのアイデンティティの中断がかならず同時におこなわれていなければならないことである。なぜなら、いわゆる女は、自己を分節化している「女」というアイデンティティ・カテゴリーの指示対象――その記号に堆積している慣習とそこから排除されている過去――をずらし、指示対象の圧倒的な過剰さに向き合わなければ、女はゲイ男性を「友」とはみなせないからだ。アイデンティティ・カテゴリーを保持したまま、ゲイ男性と連帯することは、ゲイ男性の搾取でしかない。」(p.264)

「だから「アイデンティティの政治」は、自分自身に対してであれ他者に対してであれ、アイデンティティを分節化する、その瞬間瞬間に、自己のアイデンティティの脱分節化に向き合う――同一性を中断する――その逆説的な「アイデンティティの倫理的実践」の持続的な強度にかかっているのではないだろうか」(p.266)

■書評・紹介

■言及


*作成:高橋 慎一
UP: 20080420 REV:20081001
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