『身体のエシックス/ポリティクス――倫理学とフェミニズムの交叉』
金井 淑子・細谷 実 編 20021010 ナカニシヤ出版,224p. \2200 ※
■金井 淑子・細谷 実 編 20021010 『身体のエシックス/ポリティクス――倫理学とフェミニズムの交叉』,ナカニシヤ出版,224p. ISBN-10: 4888487235 ISBN-13: 978-4396110178 \2200 [amazon]/[kinokuniya] ※ f01 b02.
■内容
内容(「BOOK」データベースより)
身体、そのリアリティから生起する今日の倫理を問う。
内容(「MARC」データベースより)
身体・差異・共感をめぐるポリティクス、「自己決定する自己」と身体、違和としての身体など、身体をめぐる今日的な倫理的状況を、ジェンダーとセクシュアリティに関わる問題系において論じる。
■目次
まえがき
1 身体・差異・共感をめぐるポリティクス 金井 淑子
――理解の方法的エポケーと新たな倫理的主体――
1 性差に還元された差異
2 社会構築主義とジェンダー・ポリティクス――「身体」の棄却――
3 科学に差し出された身体――生殖の欲望と政治――
4 身体への新たな統制と、優生的選択への欲望
5 ドイツのバトラー論争――女性の身体を「脱構築」で切り刻むな! ――
6 「状況を生きる身体」、それぞれのリアリティへ
7 身体へのまなざし――理解の方法的エポケーとエクリチュール・フェミニン――
2 「自己決定する自己」と身体 田村 公江
――精神分析の発想から――
1 身体処理の自己決定
2 自己決定において私は何を求めているのか
★些細な事柄についての自己決定
★重大な自己決定
★自己決定原理の適用範囲
3 デカルトとラカン
★コギトの絶対確実性と自己言及問題
★人間にとって話すことは受難
4 自己決定する私はどこに存在するか
★鏡像段階の要点
★誤認
★在る自
5 おわりに――身体処理自己決定の問題をどう考えるか ――
3 バトラー理論の新たな倫理的ヴィジョン ギブソン 松井 佳子
1 はじめに
2 バトラー理論の射程
3 主体の脱構築――パフォーマティヴ・エイジェンシーにむけて
4 アイデンティティ・ポリティクスから差異の政治へ
5 ジェンダー/セックス/セクシュアリティの脱構築
6 おわりに――倫理の脱構築による新しい倫理のヴィジョン構築に向けて――
4 フェミニズム=マイナー哲学における<身体> 後藤 浩子
1 <フェミニン>における哲学
2 概念とカテゴリー
3 <フェミニン>と<器官なき身体>
4 性別、人種、文化
5 表象分析と<フェミニン>――社会構築主義の限界 ――
5 違和としての身体――岡崎京子とサルトル―― 永野 潤
1 身体と違和感
★きれいなものときたないもの
★嘔き気と身体
★生きられるモノとしての身体
2 見られる身体と見せる身体
★鏡の中の身体
★見られるモノとしての身体
★見せるモノとしての身体
3 「フリをする」こと
★演技する身体
★スリルとサスペンスと冒険
★違和としての身体
6 不可視化する「同性愛嫌悪」 河口 和也
――同性愛者(と思われる人)に対する暴力の問題をめぐって――
1 はじめに
2 「同性愛」の識別(不可能性)
3 同性愛嫌悪による暴力
4 社会統制の場(環境)としての「身体」
5 おわりに
7 性暴力映像の社会問題化――視聴がもたらす被害の観点から―― 浅野 千恵
1 はじめに
2 これまでの取り組み
3 社会問題化をめぐる困難
(1)第一のジレンマ:映像視聴がもたらす被害
(2)第二のジレンマ:出演者に対する二次被害の問題
(3)第三のジレンマ:調査者自身が受ける被害
4 問題化の主体としての第三者という視点
(1)誰にとっての被害なのか
(2)二次的被害によるPTSD
(3)映像がもたらす二次的被害
5 おわりに
8 生殖技術と自己決定 浅井 美智子
――代理母のエシックス/ポリティクス――
1 生殖医療の現在
★性・生殖における道徳の変更
★「代理母」は不妊治療か
2 生殖への欲望と自己決定権
★血縁を求める意識の矛盾
★身体提供の市場的価値
★自己決定権の許容範囲
3 社会的コントロールの倫理的根拠
★生殖への他者の介在
★慈善の行いとしての代理母
★予見しえぬ未来の責任
9 ジェンダーと女性の人権 平川 和子
――暴力被害女性への危機介入的支援の現場から――
1 はじめに
2 人間として生き延びるための義務と責任
3 言葉にならない傷みを世話する
4 現場における思考錯誤と倫理
5 語り合うなかから浮かび上がる人権侵害
★力と支配による男性の暴力
★女性たちのクライシス・コールや救援活動
★自分が自分がなくなるような自己意識の変容
★核心部分を粉砕する男性の暴力
6 おわりに
10 フェミニズムと娼婦の位置 細谷 実
――聖母/娼婦の分断の批判に向けて――
1 はじめに
2 多数派フェミニストの対応――売買春否定論――
3 少数派フェミニストの対応――セックス・ワーク論 ――
4 二つの戦略論の比較
5 「聖母/娼婦の分断」問題――その批判に向けて――
6 一九七〇年代における深江誠子の議論
7 おわりに
あとがき
■引用
太字見出しは引用者による
金井 淑子 20021010 「身体・差異・共感をめぐるポリティクス――理解の方法的エポケーと新たな倫理的主体」
金井・細谷編[2002:003-035]
この論の試み
そうした意味では、本論は、後藤が現代哲学の側から「マイナー哲学としてのフェミニズム」のテーマのもとに考察している試みを、フェミニズムの側から差異、身体、他者、理解、共感といった概念からアプローチしようとするものであるというべきかもしれない。フェミニズムのジェンダー・ポリティクスあるいはアイデンティティ・ポリティクスがいま、差異のポリティクス、身体のポリティクス、他者表象のポリティクス、共感のポリティクス、ポジショニングのポリティクスへと転換する、一つの重要な局面にあることを意識しつつ、フェミニズムから倫理的問題として差し出されている課題を確認しておくこと、それが本論の課題であるが、本書のイントロダクションを提示することでもある。(pp.5-6)
ジェンダーと身体
「パーソナル・イズ・ポリティカル」の命題においては、身体・セクシュアリティのテーマ、とりわけ女性の身体の<他者性>に関するテーマがその主軸をなしていたはずである。それを「ジェンダー・ポリティクス」と区別して「性の政治」と名づけるなら、「ジェンダー・ポリティクス」の理論的・政治的中心課題はまさに「ジェンダー」であって「身体」ではなかったというべきなのである。「性の政治」によって担保されるはずであった課題はどこかで「ジェンダー・ポリティクス」のカテゴリーの政治に回収されている。女性の身体の他者性、「いま現にこの状況を生きている」身体の個別性、女性の実存的契機に関わる身体の問題であったはずの課題が、どこかで棚上げされることになった。つまり「ジェンダー・ポリティクス」が問題としてきたのは、「ジェンダーとしての身体」「ジェンダー化された身体」ではあったかもしれないが、「セックスとしての身体」ではなかったのである。セックスの次元、身体の物質性の次元での差異、さらにその身体の経験のリアリティから「差異」や「他者存在」をめぐる議論を拓いていくことは棚上げされている。(pp.7-8)
科学への欲望
技術のもたらすこうした状況とフェミニズムが親和的な関係にある一面もまた否定できない。もともと女性の身体に対する技術の操作的介入は、出産の近代化が「出産の病院化」として推し進めたところからすでに始まっているように、女性の「産む性」という身体的与件が、社会参加の完全実現を阻む足枷であるという認識からすれば、女性のこの身体的な負荷をテクノロジーで軽減することを是認する「科学への欲望」は常に存在しうる。それはファイヤーストーンがかつて七〇年代に、試験管ベビーの誕生に女性の産む性からの全面的解放を託した発言以来のことで、フェミニズムの中には一貫してある考え方ではあるからだ。(p.12)
田村 公江 20021010 「「自己決定する自己」と身体――精神分析の発想から」
金井・細谷編[2002:036-058]
身体処理自己決定のねじれ
私たちはここで奇妙にねじれた困難に陥る。すなわち、「たとえ危険や不利益があっても」それを望むということに社会的問題が隠されているならば、社会的問題を指摘するという仕方で身体処理自己決定に制限を要求できるのだが(たとえば、安楽死の自己決定は、終末期ケアを充実させる社会的支援の不十分さという社会的問題と切り離して論じるべきではない。たとえ個人の問題として論じるにしても、死ぬ自由そのものではなく、他人の世話になって生き続けることを拒否するという生命の質の価値判断が論点となっている。不妊「治療」の自己決定は、「女性は結婚して子供を生むのがあるべき姿だ」という価値観による社会的圧力と切り離すわけにはいかない、など。)、社会的問題と切り離してよいと思われる場合には(たとえば、完全自由売春、善意の代理母、善意の臓器提供)身体処理自己決定を制限する理由がなくなってしまうという困難である。(p.39)
ギブソン 松井 佳子 20021010 「バトラー理論の新たな倫理的ヴィジョン」
金井・細谷編[2002:059-074]
バトラー理論のラディカル性
主体の自己同一性とジェンダー/セックス/セクシュアリティの首尾一貫性は連動しているという洞察が基本としてあるが、バトラー理論のラディカル性は次の二点に集約されよう。
(1) ジェンダー/セックス/セクシュアリティはすべて社会的に構築されたものだとみなす。
(2) 女/男という二元論的問題構制に疑義を呈する。
まずバトラーはこの三つの概念の因果関係を社会構築論によって転倒/脱構築する。バトラーは従来のセックス(自然)/ジェンダー(文化)の因果関係に挑戦して関係の反転を提案する。すなわち、これまではセックスがジェンダーに先立って存在すると考えられてきたわけだが、バトラーは反対にジェンダーという言説実践がセックスを「自然」として構築するのだと主張する。つまりバトラーはセックスがジェンダーなのだと言い切る。(p.67)
バトラーの身体観についての注
バトラーは身体を言説の前に所与のものとして存在するものとはとらえず、身体は常に言説によって形成されるという立場を表明する。つまりこれは身体の脱自然化であるが、この立場については、言説一元論として激しく攻撃されてもいる。しかしバトラーは決して身体が言説にすぎないと言っているわけではない。バトラーによれば、身体の物質性を理解するには、ことばを媒介として行なうしか方法がないのである。バトラーは身体の物質性を否定してはいない。つまりこれは認識論であって存在論ではないことを確認しておく必要があろう。(p.72)
後藤 浩子 20021010 「フェミニズム=マイナー哲学における<身体>」
金井・細谷編[2002:075-097]
永野 潤 20021010 「違和としての身体――岡崎京子とサルトル」
金井・細谷編[2002:098-118]
われわれ自分「である」フリをする。しかし、それはまさに、われわれが「本当は」自分「ではない」ということ、つまりわれわれの存在そのものには「違和」がうがたれていることを示している。私は「私である」フリをする。それは、私が「私ではない」からこそである。だが、考えてみれば、「私であるフリをする」とは、要するに「フリをしていないフリをする」ということである。つまり、われわれは、演技していない演技をしているわけだ。いずれにせよ、われわれには演技からの、そして「違和」からの逃げ道はないのである。(p.115)
河口 和也 20021010 「不可視化する「同性愛嫌悪」――同性愛者(と思われる人)に対する暴力の問題をめぐって」
金井・細谷編[2002:119-139]
キャロル=アン・タイラーとパッシングpassing
パッシングは名詞が主語となるような形態をもたない動詞であるというのは適切であるように思われる。というのも、それは行為体が曖昧にされ、潮流に逆らって泳ぐというよりもむしろ奔流に沈められてしまっており、その徴を探すような略奪的な目に対しては不可視であるような活動であるからだ。
彼女のこうした指摘に基づき、もう一度、名指されない、すなわち名詞が主語にならない、つまり主体ではないパッシングの「主体」(アン・タイラーは「行為体(agency)」という言葉を使っているのだが)について考えてみよう。それは意図を伴わない「行為体」であって、その行為体が行為することを、「何か」と「何か」のあいだの「境界」を通過する(pass)と考えてみる。しかし、ここではこの境界は自明ではないことを付け加えておかねばならない。となれば、「何か」と「何か」のあいだにあると思われる「境界」とは、実は最初から存在するものではないということになるのではないか。むしろ、この「境界」は、パッシングという行為によって、事後的に行為遂行的に作られるのである。(p.125)
ケンドール・トーマス、同性愛嫌悪による暴力とテロ行為の類似
まず第一に、テロリズムの場合と同じく、ゲイ男性とレズビアンに対する暴力の多くは、その恣意性・無差別性(randomness)を特徴としてもっているという。(p.129)
同性愛嫌悪による暴力がテロリズムと共有しているもうひとつの特徴は、その徹底的な「伝達的communicative」襲撃である。(p.129)
浅野 千恵 20021010 「性暴力映像の社会問題化――視聴がもたらす被害の観点から」
金井・細谷編[2002:140-158] cf.暴力
浅井 美智子 20021010 「生殖技術と自己決定――代理母のエシックス/ポリティクス」
金井・細谷編[2002:159-178]
代理母と日本人依頼者
しかし、代理母出産したこの女性のことばを紹介する書によれば、日本人依頼者は、「生まれてきた子供に対して代理母出産により生まれてきたことを告知する意思を持った人はゼロに等しく、子供と代理母との面会は出産後の数日間となるケースがほとんど」という。道徳的行為と信じて引き受けた代理母の善意は、日本人夫婦には共有されていないことがわかる。(pp.172-173)
代理母と功利主義
英米のみが「代理母」を容認しているが、それは背景に功利主義の倫理学があるからだと思われる。つまり、功利主義は、倫理的に正しい行為を、可能な限り多数の人々に共有されうる肯定的な価値(善)とみなされるものだと定義する。したがって、イギリスでは、商業的代理母(ウォーノック・リポートがいうように)「他者を手段とする」ことだとして禁止されているが、慈善の代理母は相互の母の幸福(子どもをもつこと)だとして是認されている。アメリカは自由と自己決定が基本であり、結果として不幸を招いたときに調停される。つまり不幸の軽減が図られるのである。(p.174)
平川 和子 20021010 「ジェンダーと女性の人権――暴力被害女性への危機介入支援の現場から」
金井・細谷編[2002:179-197]
細谷 実 20021010 「フェミニズムと娼婦の位置――聖母/娼婦の分断の批判に向けて」
金井・細谷編[2002:198-218]
売買春に対するフェミニズムの二つの対応
多数はフェミニストは、窮極目的として売買春の廃絶を掲げ、あくまでもそれを実現することを目指し、言わば「革命主義的」戦略をとる。その立場から見ると、セックス・ワーク論は、それをせずに売買春に付随する諸々の人権侵害を緩和したり廃絶していこうとする「改良主義」であり、問題へのとりくみにおいて窮極目的を見失わせて売買春を永続化させるものである、それどころか、そうした「改良」は、売買春参入者の量的拡大をもたらすことになる悪質な誤りである、という評価になるだろう。
他方、セックス・ワーク論を支持するフェミニストたちは、自由売春を法的に認めない限り、自由売春の中での諸人権の侵害にも、強制売春にも本当に取りくむことはできない、と言う。第一に、多数派フェミニストたちの理想主義的=観念論的な主張によって、売春婦たちが被っている現実の被害が二義的なものとして軽視され隠匿されてしまう。第二に、自由意志によらない売春(強制売春)をはっきりと確定し、それに対して断固とした対応をとるためにも、売春婦たちの自由意志による売春の承認と尊重、そして彼女たちと連帯しての運動が不可欠である。第三に、多数派フェミニストたちの主張自体が、売買春蔑視を再生産し/売春婦たちを弱い立場に追いやり/現時的な労働条件を悪化させ/彼女たちの抑圧になる。(p.205)
*作成者:篠木 涼