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Meyerowitz, Joanne 200208 How Sex Changed: a history of transsexuality, Cambridge, Massachusetts and London, Harvard University Press. 400p. ◇Meyerowitz, Joanne 200208 How Sex Changed: a history of transsexuality, Cambridge, Massachusetts and London, Harvard University Press. 400p. ISBN-10: 0674009258 ISBN-13: 9780674009257 [amazon] ※ s00/t05 ■目次 INTRODUCTION 1 1 SEX CHANGE 14 2 "EX-GI BECOMES BLONDE BEAUTY" 51 3 FROM SEX TO GENDER 98 4 A "FIERCE AND DEMANDING" DRIVE 130 5 SEXUAL REVOLUTION 168 6 THE LIBERAL MOMENT 208 7 THE NEXT GENERATION 255 ABBREVIATION 288 NOTES 289 ACKNOWLEDGMENTS 343 ILLUSTRATION CREDITS 347 INDEX 349 Illustration follow page 140 ◆ 筆者の紹介と本書の概要 ▽ 筆者の紹介/ジョアン・マイエロヴィッツ(Joanne Meyerowitz)。2004年からイェール大学のアメリカ学及び歴史学の教授。カリフォルニア大学とサンタバーバラ大学の提携プロジェクトであるインターディシプリン・ヒューマン・センターのクイア研究調査グループに所属。 編著には、Not June Cleaver: Women and Gender in Postwar America, 1945-1960 (Critical Perspectives on the Past): Temple University Press, 1994.や、History and September 11th: Temple University Press, 2003. 単著には、戦後米国女性史の定型的な語りである「大戦後の女性労働力の撤退」を批判したWomen Adrift: Independent Wage Earners in Chicago, 1880-1930: Univ of Chicago Pr, 1988.や、トランスセクシュアル(性転換者)の20世紀史を描いた本書がある。大戦後の女性やトランスセクシュアルの歴史を、メディア報道による情報伝播との関連で論じている。 マイエロヴィッツは、ゲイ・レズビアン研究、クイア研究のインパクトを受けた後の、アメリカ歴史学の文脈にいる。その研究の特徴は、ジェンダー・セクシュアリティの主題を扱うこと、経済決定論的な歴史記述に対して、より複雑な文化的因果関係を対置させることなどである。人類学、エスノメソドロジーと多岐にわたる研究を参照し、幅広い視野をもつ学際的な歴史学者である。 ▽ 著作の概要/現代の性の語りにおいては、生物学的・解剖学的性(sex)から区別された、性役割(gender)やセクシュアリティ(sexuality)という概念を使うことができる。だが、20世紀はじめには、genderとsexualityは、科学言説によって明らかに、sexという起源に因果的に結びつけられていた。アメリカにおける医学史や科学技術史の文脈では、この区別ができるようになったことは、医療技術の進展の成果(精神医療、泌尿器、内分泌系、外科等の性別適合手術に必要な医療技術の整備)であると位置づけている。またこれは、ゲイ・レズビアンの運動史では、権利運動の進展の結果と位置づけている。 しかしながら、この区別は、医療技術やゲイ・レズビアンの運動の進展にくわえて、男女という生物学的性の分類に一致しないセクシャル・アイデンティティをもつ人たちの大衆文化(あるいはself-knowledge)でおこなわれた、性の定義をめぐる議論によって可能になったという側面もある。 20世紀初頭にヨーロッパの科学が対象として見出し、ドイツにおける動物実験や人体実験で症例研究が重ねられた医療技術は、オランダやアメリカに伝播した。そして、1950年代にオランダで一人の米兵(クリスティン・ヨハンソン)が性転換手術を受けて、その報道の余波の下、アメリカに医療技術が本格的に移植される。その後、60年代の性革命(sexual liberation)をへて、性的少数者の医療をになう諸機関が設立され、ヨハンソン報道の影響下で大衆文化が活性化し、多くの当事者が「性転換症(transsexuality)」という語を使用し始める。この過程で、アメリカで、医療と、性的少数者の中でもとくに少数者である「性転換症者」との間で、性(とくに「心の性」)の定義が議論されたのである。 本書は、性転換症者やトランスジェンダーが、生物学的・解剖学的性から、性役割やセクシュアリティが区別されるにいたる過程を、医療技術と大衆文化の両方の歴史的展開から分析したものである。 ◆ 第一章「性転換(Sex Change)」 ▽ 性転換と大衆文化/『ユア・ボディ』誌上で「Miss R. R」が性転換について質問(心身の変化について告白)。3年後、『神経及び精神疾患雑誌』N. S. Yawger医師の論文「transvestitesと他の性倒錯の徴候」(大衆誌に言及)。アメリカの大衆文化で、ジャーナリストが男性から女性への変化、女性から男性への変化について報告した。「何が性を構成するのか、人はそれを変えることができるのか、どのようにして、という問いが公的な領域に入りこんできた」(14)。「性転換症transsexual」という語は、20世紀半ばまで使われていなかった。それまで、ジェンダーの横断は、倒錯、同性愛と結び付けられていた。 → 1910sシュタインナハ、1920s-1930sヒルシュフェルト、両性具有説。身体と心を分離した性の定義を変更する。ヒルシュフェルトやエリスが、「transvestites」や「enonism」を独立した領域として初めて抽出。 → アメリカでは、コールドウィルとベンジャミンがそれを使い、ヨハンセン報道が出てくるまでは、「性転換症transsexual」という語は見られなかった。性転換手術のニュースは、医療専門家によってではなく、1930年代の新聞や雑誌等の大衆文化をとおして広がった。性転換の物語が、インターセックスではない人の性転換の願望をかたちにする手助けになった。「1930年代から、ある特定の読者たちが、自己の感覚が外に出た形である手術による変化への望みもふくめて、性転換手術の広く知られた物語を利用したのである。読むことをつうじて、トランスジェンダーの一部の人々は――彼らの時代の言葉を使うならば、eonist、transvestites、同性愛者、倒錯者、両性具有者と自らを名指している――、性別を変化させることを望む人々のグループに属していると考えるようになる。」(p.16) ▽ 1910年代の性科学と性転換/ ・エウゲン・シュタインナハ(Eugen Steinach)/ウィーン大学の心理学者。1910年代初頭に性転換の外科的な試みを始める。ラットとギニーピッグの移植手術、「哺乳類オスからメスの性的特徴と魂をもつ動物への変容」(1912年)。齧歯動物の精巣及び卵巣の移植手術とその効果、「オスのメス化及びメスのオス化」(1913年)。シュタインナハは「男性」ホルモンと「女性」ホルモンの特定の効果を発見したと主張。「性転換の医学的可能性」を提示。(p.17) ・ロベルト・リヒテンシュタイン(Robert Lichtenstein)/精巣の移植手術を人間に行う。精巣をもたない、あるいは精巣を喪失した男性に移植。また、同性愛者の男性の精巣を切除、異性愛者の精巣を移植。 → 「これら初期の外科手術は、睾丸、子宮、乳房などの身体部分のたんなる切除であり、先端的な医療技術を要求しない介入方法だった」。(p.17) ・マックス・マルクーゼ(Max Marcuse)/ドイツの性科学者。「性変化への欲望」(1916年)を出版。性転換手術への要求を、一般的な性的倒錯やジェンダーを横断したアイデンティフィケーションから区別。 ・マグヌス・ヒルシュフェルト(Magnus Hirschfeld)/ベルリン性科学研究所を設立した医師。同性愛の権利擁護運動をはば広く展開。『Transvestites』(1910年)を出版。Transvestitesを同性愛から区別。ヒルシュフェルト自身も同性愛者だったが、性転換は望まなかった。1910年代にウィーンのシュタインナハを訪問。1920年代には、ヒトの性転換手術の権威となる。性科学研究所での第一例は、Dorchen Richter(MTF)。1922年に睾丸切除。1931年にペニス切除、ヴァギナ形成。1930年代に同研究所は、性転換手術を公式に発表する。1931年に、フェリックス・エイブラハム医師がヒトの性転換手術に関する科学論文を出版。 ・エリ・エルベ(Eli Elbe)/(MTF)デンマークの芸術家Einer Wegener。ヒルシュフェルトの性科学研究所の最盛期を象徴する患者。ベルリンで睾丸摘出、ヒルシュフェルトの心理学テスト。ドレスデンでペニス切除、乳房の移植。最後のヴァギナ形成手術の後、1931年に心臓疾患で死亡。死後に、デンマークとドイツの新聞で報道。同時期、ヒルシュフェルトの性転換手術が公的支援を獲得。1932年、MTFの手術に政府が資金提供。 ▽ 性転換手術が出現した理由は医療技術の発達だけではない/「20世紀に性転換症(transsexuality)と性転換手術(sex-change surgery)が現われた理由を説明するとしたら、医療技術、とくに形成外科技術や人工ホルモンの新しい展開を挙げることができるかもしれない。実際に、医療技術は性転換症の歴史で重要な役割を果たしている。だが、技術だけでは現代の性転換症に、必要条件も十分条件も与えることはできない。性転換症の初期の外科手術は、人工ホルモンの発明以前、洗練された形成外科技術の助けもなしに始まったのである。」(p.21) → アメリカでは破損した生殖器の復元のためにドイツの技術を利用。1910年代と1920年代に生殖腺移植とホルモン抽出、1930年代末に人工ホルモン作成。アメリカとヨーロッパの外科医が破損したペニス復元のために陰茎形成術を行ったのは第二次大戦後。 ⇒ 「(中略)したがって、新しいあるいは飛びぬけた医療技術に着目しても、性転換手術が実現された場所と時を特定することはできない。」(p.21) ▽ 性転換手術には新しい性の定義(「両性具有性」)が影響を与えた/「〔18世紀までの性別分離主義の展開に続けて〕19世紀をとおして、性別がはっきりと分かれ対立しているという考えは、ある支配的な社会理念を強調した。その理念が縁どる、性別によって区別された社会的役割は、とくに再生産〔生殖、家事、育児、介護〕に焦点をあてて、何よりもまず女性を「私的領域」に追放した。(中略)19世紀末から20世紀初頭に、ヨーロッパと合衆国の科学者が次々と、性別が分かれ対立しているという考えに挑みはじめた」(p.22)。 → @女性の社会進出、A同性愛者の存在 = 男性らしい女性、女性らしい男性の存在。 ⇒ @心理学者や精神分析学者による幼児期の「環境因(the environment)」の研究。A男性らしさと女性らしさの基底に身体的な「両性具有性(physically bisexual)」を発見。→ 両性具有性については、胎児の発達段階からの説明が加えられた。(p.22)(いわく、ヒト胚は性未分化な状態にあり、その後期においても発達は部分的なものでしかない。男性と女性の生殖器官の類似は、同一組織からの発現に起因している。女性においてはミュラー管がファロピウス管、子宮、ヴァギナに発達するのだが、男性の場合はそれが未発達のまま残る。男性においては、ウォルフ体とフォルフ細管が輸精管、精嚢、精巣上体に発達するが、女性の場合はそれが未発達のまま残る、等々。) → 分離主義的な性の定義に替わって、19世紀末から20世紀初頭には、男性と女性が重なり合う両性具有的な性の定義を実証する研究が重ねられるようになった。(p.23) ▽ 両性具有性説の展開/「初期のtransvestites、ジェンダー横断的同一化、性転換を描くすべての表現が、この現われつつある説〔両性具有説〕に同意しているのである。」(p.26) ・オーストリアの哲学者オットー・ヴァイニンガーの著作『性と性格』(1903年)。1920年までにドイツ語で8版、英語、イタリア語、ロシア語、ポーランド語に翻訳(p.24)。 → 「初期の性理論は、雌雄同体現象(hermaphroditism)や同性愛を、異常にも混合された性あるいは中間の状態として分類した」(p.24)。これに対して、ヴァイニンガーは、「すべての男性と女性は、二つの離れた軸の中間にどこかに位置している」と考えた。だが、ヴァイニンガーは、同性愛者を擁護し、女性を劣位とする階層化の理由を見出せないにも関わらず、女性蔑視と反ユダヤ主義に堕してしまう(p.25)。女性らしさは劣位に置かれ、ユダヤ性と結び付けられる。「ヴァイニンガーは、普遍的両性具有説(the theory of universal bisexuality)を、(彼が男らしい女性たちの運動と考えた)女性運動、人種やエスニシティを相対化する政治に反対するために利用した」(p.25)。 ・ジグムント・フロイト/オーストリアの精神分析学者。フリース、エビングやエリスに、両性具有説の起源を見出す。(p.25) ・クラフト・エビング/ドイツの性科学者。雌雄同体、両性具有、同性愛者といった中間体に男性と女性の例外である「第三の性」という名称を与える。他方で、彼も、男性と女性が普遍的に前提にしている両性具有性を肯定。transvestitesや同性愛者の権利擁護に。(p.26) ・ハブロック・エリス/イギリスの性科学者。両性具有性がtransvestitesの生物学的基盤(解剖学的素因とホルモンの影響の両方から)であると考え、それを「sexo-aesthetic inversion」また「eonism」と名付ける。(p.26) ・内分泌学の発達/性を決定する因子が生殖器から、ホルモン等の生理学的マーカーに。性のグラデーションを説明するものになる。(p.27) ・ユルゲン・シュタイナハ/生理学者。ホルモン操作による噛歯類の性転換実験を行った。人間にも同様の潜在的傾向があると考えた。(p.27) → 1910年代と1920年代に化学者によりホルモンが発見され、1930年代にホルモン操作による性転換実験が試みられる。男性は女性の素因をもち、女性は男性の素因をもつと考えられるようになる。普遍的両性具有説が開く、この性の重なり、グラデーションが、科学者たちに、男性と女性との性転換を発想させる条件になったのである。 →(アメリカ)この概念は、限られたかたちでではあるが、1920年代と30年代のアメリカの医学書籍に現われている(内分泌学者クリフォード・A・ウェイト、同性愛研究者ジョージ・ヘンリー)。1930年代末から1940年代にかけては、アメリカの大衆雑誌(『リヴィング』『セクソロジー』等)にも見られる(「分類ではなく尺度」への移行)。それは広範な文化的影響を及ぼし、人類学(ミード)、心理学(ターマン、マイル)、キンゼイの性調査が行われた。「アメリカの社会科学の文脈では、彼らは、生物学の影響よりも、文化、環境、学習の影響に重点を置いた。そのため、20世紀前半には、両性具有説はヨーロッパでもったほどのインパクトをアメリカではもたなかったのである」。(p.29) ▽ 性転換のためにヨーロッパに渡るアメリカ人たちとエリ・エルベ/ ・ウィンター/(FTM)ベルリンに渡り、1920年代にヒルシュフェルトを訪問。第二次大戦時にヨーロッパを離れ、シカゴへ。レズビアンとして生きる。 ・カーラ・フォン・クライスト/(MTF)アメリカ人の父をもち、幼少期はベルリンとサンフランシスコで育つ。ハリー・ベンジャミンの導きでヒルシュフェルトの下へ。1920年代にベルリンに戻り、1933年にナチによって閉鎖させられるまで性科学研究所の受付係として過ごす。1929年と1930年にエリ・エルベと同じ執刀医の手術を受ける。1942年ニューヨークに戻り、若い俳優たちに英語の話し方のレッスンをする傍ら、オフ・ブロードウェイに出演。(p.30) → 1933年E. P. Duttonが英訳を出版したエリ・エルベの本『男性から女性へ――性転換の真の記録』。インターセックスであるかのような表現が散見。イギリスの性科学者ノーマン・ハリーが序文を書き、エルベのケースを普遍化しないようにと促す。(p.31) → エルベの物語が雑誌等で紹介される。『セクソロジー』誌1933年12月号の記事「男性が女性になる」。エルベのケースを心理学的な問題から切り離す。(31)「科学が男性を女性に変えるとき」という記事は、エルベをインターセックスと結び付ける。「美を手に入れたデンマークの画家の尋常ならざるドラマ、それと平行して二人の少年になった二人の少女のケース」という記事は、ペンシルヴァニア地方のClaire Screchkengostとフランスのアリス・アンリエット・アクセ、二人のインターセックスについて書く。 ▽ アメリカの大衆雑誌と概念の雑多さ/「性転換についてのこれらの物語、また別のアメリカの物語が、異常なtransvestitesの行動についてのショッキングな分析、希少な生物学的問題、驚くべき外科的解決等へと、アメリカの読者を魅了した。これらは主流のメディア報道からは周縁にあり、センセーショナルな雑誌やタブロイド新聞、性を大衆読者に提示するために科学の粉飾を付ける『セクソロジー』誌のような出版物に現われたのである。」(p.32) → 「これらの雑誌では、今日の私たちならば区別して考える現象が、つねに一緒くたにされている。ジェンダーを横断したアイデンティフィケーション、インターセックス、同性愛、transvestitesはときに区別もしないで扱われ、しばしば医学的治療の必要性のために相互に関係する病理としてさえ描かれているのである」(p.32)。1939年『トゥルー』誌の記事「性の取り消し」(51の性転換のケースと、そのうちの一人ルース・パーリンの物語)。「囚われの少年が少女になる」。エルベ、Screchkengost、アクセについての報告は、性転換手術の因果関係の不確かさと物質的な基盤をもつ障害からの回復という側面を強調する。 ▽ 陸上選手と性転換手術/チェコスロバキアの陸上選手Zdenka Koubkovaが、手術を受けてZdenek koublovに(1935-36)。イギリスの槍投選手マリー・エディス・ルイス・ウェストンが手術を受けてマークに。ベルギーの自転車競技選手Elvira de BrijinがWillyに。この時期は、女性が公的な運動競技に参加し始めた時代。 → アメリカのメディアは、とくにKoubkovaの物語を紹介。1913年女性として生まれる。1932年オリンピックで女性として800メートル陸上の世界記録を更新。1936年ニューヨーク、ブロードウェイのクラブで舞台に上がる。 ⇒ 運動選手の性転換は、インターセックスの状態にあり発達障害であると報道。 ▽ 性転換手術と大衆雑誌の読者/「性転換手術の報道は、そこに自分の可能性を見出だす個々人からの注目を集めたのだった。(中略)性転換症の歴史において、トランスジェンダーの人たちは、彼ら自身のアイデンティティを構築し、記述し、再編成するのに適した文化的形式を使ったのである。1930年代から大衆紙に掲載された幾つもの物語が、すでにジェンダーを横断したアイデンティフィケーションについて一般的な感覚をもっている層の読者に、自分が何者なのかを記す新しい方法を、また、彼らがそうでありたい姿を思い描く新しい特別なファンタジーを与えてくれた。」(p.35) → 『セクソロジー』誌の編集宛てに、情報を求める読者からの手紙が寄せられた。それらの手紙では、自分は「Eonism」ではないだろうか、手術を受けられるだろうか、手術費用はどの程度か等の質問がなされた。1937年には「彼らは性転換を望んでいる」という題で、FTMとMTFからの手紙をまとめた記事が掲載される。(p.36)。「さらに一般的には、トランスジェンダーの人たちは、自分たちの状況をはっきりさせるためにこれらの言葉を使ったのだった。彼らはしばしば、倒錯者、同性愛者、transvestites、enonistsというラベルを自分自身に貼りつけた。ある人たちは自分の体に問題を見出した。見えない内側の器官があるのだと主張して、自分が雌雄同体であると考えたり、曖昧に『morphadites』であると思い描いたりした。そうでなければ、異常な体の状態を説明するために、自分の体格や体腺の障害を語った。女っぽい男や男っぽい女と見なされた人たちは、ジェンダー横断的なアイデンティフィケーションを、すでに自身が行っており、さらに行いたいと願っているジェンダーを横断した行動を書きつけることで確認したのである。性転換への望みを表現するのに、彼らは『性転換症』や『トランスジェンダー』という言葉を必要とはしなかった。彼らはどんなラベルを使ってでも、自分の問題をはっきりさせようとしていたのであり、つまるところ、助けを求めていたのである」。(p.36) ・ポーリ・マレー(Pauli Murray)の物語/アフリカン系アメリカ人の女性。1930年代末から1940年代にかけて『セクソロジー』誌に、自らの男性性を題材にした記事を掲載。「1930年代から1940年代の間、彼女は個人的な危機と格闘し、自分自身を理解し、医師に説明し、医療的措置を要求するために、一般に普及したラベル、物語、説を使った」(p.37)。自分のことを同性愛者だと考える。男性になって女性を性対象にしたいと思い、性転換手術をしてくれる病院を探す。『ニューヨーク・アムステルダム・ニュース』の女性的な男性に男性ホルモンを投与したという記事(1939年)を読み、この記事の病院を訪問。しかし、女性ホルモンを投与されかけ医師と決別。マレーは、ホルモンの不均衡で腫瘍ができたせいで、男らしくなったのであり、男生殖器が自分の腹部に隠れていると信じる。 ・『セクソロジー』誌の編集者/医師と同じく、雑誌編集者も手術を望む当事者を抑制しようとした。「雑誌編集者は、手紙の書き手は完全な去勢手術の後に、女性として生きることができると知っていた。その上で、手術は完全に性のない怪物を創造するだろうと警告したのだ」(37)。『セクソロジー』誌は、この手術がアメリカではごくわずかなトランスジェンダーの人だけしか対象にしないと示唆した。 ・ヒュー・ハンプトン・ヤング(Hugh Hampton Young)/『生殖器異常、雌雄同体、その他の腎上体障害』(1937年)の著者。アメリカ人医師による性転換手術は、インターセックスにしか適用されていないと報告。(p.38) ・ステファン・ワーグナー(Stephen Wagner)の物語/1904年生まれ。男性から女性への性転換を望む。1930年代半ばまでシカゴ在住。性転換手術(「女性化手術(feminizing operations)」(ワーグナーの命名))について貪り読む。1930年代から1940年代にかけて8人の医師、とくに精神科医の治療を受ける。科学小説や大衆小説から医学的介入の可能性を確信。だが、手術をしてくれる医師は見つからない。1940年半ばに一時手術を諦め、女性ホルモンを投与し、睾丸を腹部に押し上げて性器を女性化させようとする。 →「ワーグナーは、性転換を望む20世紀半ばのアメリカ人たちの根本的ジレンマを知ることになった。新聞や雑誌は、性を変化させる新しい医学的選択のヒントになる一連のセンセーショナルな物語を掲載した。だが、多くのアメリカの医師は、患者がインターセックスの状態であることを確かなかたちで主張できない場合は、治療を提供しなかったし勧めなかったのである」(p.39)。アメリカの医師たちは、性転換を望む人を同性愛者と同一視してインターセックスと区別していた。 ・バーバラ(エドワード)・アン・リチャーズ(Barbara (Edward) Ann Richards)の物語/1941年、カリフォルニア最高裁に名前と性別の変更を申立てる(申立時29歳)。数ヶ月に渡り、新聞や雑誌の注目を集める(「母なる自然の悪ふざけ、ロサンゼルスのサラリーマンが女性に」「私の夫は女」という題の記事等)。リチャーズには、ヒゲが生え、声、皮膚、体格の変化があった。法廷では、「女性の性質が前面に出た『雌雄同体』」であるとされる。専門家はインターセックスの証拠を見つけることができなかった。リチャーズは、自然に女になっていく自分の体に恐怖を感じたと証言。医療鑑定後、裁判所は「この男性から女性への特異な変化は、真のものであり永続的である」と判断し、変更を許可する(「受動的な変容の物語より以上に、積極的な人の手による介入が重要な役割を演じるようになる」)。1942年、リチャーズが性転換手術を受けたと報道される。ワーグナー(またその他の多くの人々)は、リチャーズの記事を読んでその後に続こうとした。 ▽ 第二次大戦後の性転換手術と二人の医師/テクノロジー礼賛、戦時中の男性と女性の社会的役割の流動化がもたらした諸文化の絶頂にあって、少なくともいくつかの雑誌の表現では、性転換手術はインターセックスの状態だけに適用されるというものではなくなっていた。だが、アメリカの医師たちはいまだ手術を拒否していた。 ・デヴィッド・O・コールドウェル(David O. Cauldwell)/1897年クリーヴランド生まれ。メキシコ国立大学で医学を修了、第二次大戦中は従軍、軍事産業の内科医、陸軍省の精神科医。戦後、アラバマで著作業。1946年から1959年まで『セクソロジー』誌の読者投稿欄の編集者。カンザスのハルドマン・ユリウス出版から著書多数。1951年までに140部もの性に関するパンフレットを「ブルーブック」シリーズとして出版(『そうだ君も神経症だ!ハイパー・セクシュアリティ――誰が性欲過剰なのか?』、『クリニングスについてのQ&A』等)。旧来の罪悪感に満ちた性についての考えを廃して、大衆的でユーモアのあるスタイルを駆使、性科学の概念を導。(p.42) → 1949年の『セクソロジー』誌の記事で「psychopathia transsexualis」という語(クラフト・エビングの著作から拝借)を、女性から男性への性転換を望む「Earl」のケースを書くさいに使用。Earlはコールドウェルにアドバイスを求める。「コールドウェルは、外科医はそのような手術ができるだろうが、提供はしないだろうということを知っていた。彼は人口ペニスが『指の爪ほどにも性感がなく』、『物質的機能ももたない』のだと指摘した。さらに、彼は医師が健康な体腺や組織を切除するのは「犯罪」であると考えた」(p.43)。 ⇒ インターセックスや分泌腺障害と区別して、「psychopathia transsexualis」を独立した性科学の概念として使用。Earlは性的には女性であったが、コールドウェルは性転換症と同性愛を区別。彼は性差を重視しないで、社会的要因が心の性を左右すると強調。「コールドウェルは、心理学的な性として理解されるジェンダーを、生物学的な性やセクシュアリティから引き離したのである」(p.44)。だが、医学的介入については、一貫して否定的な態度をとり続けた。 ・ハリー・ベンジャミン(Harry Benjamin)/内分泌学者、1885年ベルリン生まれ。アウグスト・フォレルの『性の疑問』を大学生時代に読んで、性の科学に関心をもつ。ヒルシュフェルトに師事、同性愛者や異性装者が集う酒場での調査に同行。1912年チュービンゲン大学で医学を修了。結核治療にあたる医師を支援するために、1913年アメリカに渡る。第一次大戦勃発後にドイツに帰国しようとするがかなわず。イギリスに短期滞在し、ニューヨークに戻る。内分泌学と老人医学の専門家となる。1920年代には、ヒルシュフェルトの性科学研究所を訪問。1930年代ウィーン大学のユルゲン・シュタイナハの下で研究に従事。精管結紮術、輸精管結紮、パイプカットが老人を若返らせるか否か等に関するシュタイナハの調査を出版。1921年、ベンジャミンはニューヨーク医学アカデミーでシュタイナハの講義を開催。1923年、シュタイナハのホルモン研究のフィルムをニューヨークで上映。1930年、ヒルシュフェルトのアメリカ訪問を支援。1932年、世界性改革連合(World League for Sexual Reform)のカンファレンスを誘致。1930年代初頭までには、売春婦や同性愛者の権利擁護を行い、性のリベラリストを自認。マーガレット・サンガー(産児制限運動)、ベン・レイトマン(アナーキスト)、ベン・リンゼイ(判事)、ロバート・ラトウ・ディッキンソン(婦人科医)と親交がある。ディッキンソンが、キンゼイをベンジャミンに引き合わせた。(pp.45-46) → オットー・ペングラー/ニューヨーク在住の年配のドイツ人(男性から女性)1920年代から1930年代にベンジャミンが治療にあたる。「ヒルシュフェルトの性科学の伝統に則っている彼〔ベンジャミン〕は、ジェンダー横断的なアイデンティフィケーションがいくらかは身体的原因をもち、医学的介入を正当化すると想定し、またそれを前提にした」。心理学的治療ではなく、X線照射とホルモン投与。(p.46) → バル・バリー(仮名)/(男性から女性)1949年にベンジャミンが治療。1948年22歳でウィスコンシン精神病院に入院。エリ・エルベ『男性から女性へ』を読んで手術を決意。州検事局に禁止される。ベンジャミンは、X線照射とホルモン投与を行い、エドムント・G・ブラウン検事に去勢に関するカリフォルニアの法的状況を確認するが、困難との回答。Karl M. 精神科医Bowmanとキンゼイの打ち合わせの結果、手術を断念。クリスチャン・ヨハンセンの報道に触れ、1953年にスウェーデンで念願の手術を受ける。 ▽ 1940年代の性転換手術と理想のイメージ/1950年までに、ごく一握りの例外的なアメリカの医師たちが、プライヴェートでの性転換手術をインターセックスでない患者たちに施した。サンクエンティン刑務所のMTF(1940年)、ユタ州在住でフルタイムのMTF異性装者(1940s)、ローラ・ウィルコック(1944)。米国外では、ナチスドイツの下でのカーラ・フォン・クライストの証言、ハノーバーのMTF(1943)、スイスのMTFの去勢と膣形成術(1930s)、イギリスのFTMマイケル・ディオンのホルモン投与(1939)と乳房切除術(1942)、ペニスと陰茎の形成(1940)。 → 「きわめて技術的な理由で、20世紀半ばまでは性別適合手術は存在しなかったとはいえ、それにもかかわらず、この手術は公の視線のもとに置かれ続けていた。1930年代から1950年代にかけてのヨーロッパからアメリカへという大陸横断を、私たちはとりわけ大衆文化に注目して追いかけることができる。アメリカの科学年報において、性転換は、20世紀前半に隠れた歴史もち、それは目に見えないままに潜んでいた。しかし、1930年代と1940年代の大衆雑誌で、センセーショナルな物語が、すでにジェンダーを横断する感覚をもち自分を性転換の物語に重ね合わせた人々に可能性を開いたのである。(中略)彼らは『性転換症』という言葉をまだ使っていなかったが、病理化されたきわどい形であるとはいえ、雑誌の中に模範となる人、彼らが自ら望んでいると承知しているものを体現していると思える人を見出したのである」(p.49) ■書評・紹介 ■言及 *作成:高橋 慎一 UP:20080520 REV:20080926 ◇性(gender/sex) ◇トランスジェンダー/TS・TG/性同一性障害 ◇身体×世界:関連書籍 2000-2004 ◇BOOK |