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『生命の刑法学――中絶・安楽死・自死の権利と法理論』

上田 健二 20020620 ミネルヴァ書房,398p.

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上田 健二 20020620 『生命の刑法学――中絶・安楽死・自死の権利と法理論』,ミネルヴァ書房,398p. 6800 ISBN-10: 4623035549 ISBN-13: 978-4623035540 [amazon][kinokuniya] ※ et.
上田健二(うえだ・けんじ)
1940年京都に生まれる。1963年同志社大学法学部政治学科卒業。現在、同志社大学法学部教授
■内容(「BOOK」データベースより)
本書は、長年にわたり刑法における生命保護に関しての研究、考察を重ねてきた著者が、刑法理論と実践において先を行くドイツの事例を検証しながら、日本における「生命刑法」の実態と前途を詳解。人命という最高かつ普遍的な法益の保護のあり方を比較法的観点から徹底検証する。
内容(「MARC」データベースより)
ますます重要になる生命に関する法的問題。長年に渡り刑法における生命保護に関しての研究を重ねてきた著者が、刑法理論と実践において先を行くドイツの事例を検証しながら、日本における「生命刑法」の実態と前途を詳解する。

■目次


■引用

【】内原文は傍点

◆はしがき
◇「法的に自由な領域」
「この理論の主要な提唱者であるカウフマンによれば、「法的に自由な領域」の理論の核心問題は、刑法的に重要な行為態様のすべてが「違法」か、それとも「適法」かという評価の対をもって把握することができるかにある。カウフマン自身はこの問いを否認し、これに対してとりわけ悲劇的な諸々の葛藤および実存的な窮迫状態の諸事例においては、それゆえに実存的限界状態においてはこの評価の両カテゴリーをもってするだけではやってゆけない。彼の見解によれば、法的に自由な領域において問題となっているのは、【法的に重要であり、法的に規制されてもいるが】、しかしそれは合理的かつ客観的な根拠をもって【違法であるとも適法であるとも評価することができない】行為である。このような状況において法秩序から見はなされた個人は、自己の良心の法廷へと投げ帰え〔ママ〕される。その場合では、彼の決断は、彼が法的に明白な違法の限界を超えていないかぎり、法によっても尊重されなければならない。」(vi)

◆第六章 末期医療と医師の生命維持義務の限界
「患者が不可逆的な意識喪失状態に陥っているために患者の意思を確認できない場合を考察の対象として限定」(172)

・ザックスの議論、「自殺及び自殺関与の不処罰根拠」にたいして ……
 「自殺不処罰の実質的根拠と自殺【関与】不処罰のそれとは決して【同一の原理に基づくものではない】」
「決定的に重要なのは、本人ならば自己答責的決断に基づいてその生命の法益性を否認することが許されるとしても、そのことが直ちに他人がこれに同調することの許容性へと導くものではない、ということである。本人から死の援助を求められた他人がみだりにこれに応ずることが許されないのは、単純な理由に基づく。それは、本人の評価によって無に帰した声明であっても、他人にとってはなお法益であり続ける、ということである。ここに、個人的法益であっても、それゆえ事故処分が可能であっても、最高価値としての生命法益については「他人評価」を許さない実質的な根拠があるというべきである。もっとも、生の極限情況の下ではごく限られた範囲において本人に「自死への権利」ないし自由を尊重し、本人の求めに応じて行う第三者の「死への援助」を――もちろん、これを拒否する自由が留保されたうえで――例外的に許容すべき場合があり得ることは積極的に承認されなければならないであろう」(213)
「いずれにせよ、ここで決定的な役割を演じている要素は「人間の尊厳」の発露でもある本人の自己答責的な決断の尊重であって、生命法益が自己処分によって存在しなくなる結果としての「法益侵害の不存在」ではない」(214)

◇「作為による不作為」
「疑いもなく事実としては作為にほかならない装置の遮断を特殊法的な理由から不作為として把握し得る」という議論(241)

設例(1)「ドイツ刑法一三八条(計画された犯行を告発しないことを内容とした犯罪)により告発を義務づけられている者が犯行を告知する手紙をきちんと投函したが、しかしその後に別の心配が生じたのでこれを郵便局で取り戻したために、被害者の死を招いた」
設例(2)「ドイツ刑法三二三条c(一般人の救助不履行を内容とした犯罪)により救助を義務づけられている者が溺れかけている者に救助ロープを投げかけたが、非救助者がしがみつくぎりぎりの時点でそれを引き戻した」という事例(240)
「ロクシンは、行為者が自らの救助の試みから撤退したのは、結果的には、彼がはじめから行動を起こさなかったであろう場合と状況が同じであると見て、両事例を通じて不作為犯であると理解する。「エネルギーの積極的投入と消極的投入とが互いに相殺される結果として、両行為者ははじめから救助を望んでいない者とは別異に扱//われてはならない」というのがその理由である。この事例から、ロクシンは次のような一般命題を引き出す。「ある作為がある命令履行の試みからの撤退を意味するならば、それは、その命令が積極的な介入によって無に帰せしめられる不作為犯の構成要件に該当する。……命令構成要件は、禁止の第二次的な福次規範として結果を惹起する作為の禁止をそのなかに含む、というように解釈されなければならない」からである。」(240-241)

⇒ 「ロクシンの挙げる古典的な出発事例とわれわれの当面する問題事例とが刑法上同類とみることができるか、ということがすでにして疑問である。それというのも、装置の停止事例では、装置への接続によって患者の生命が確実に助かるとは言えないまでも、少なくとも【その状態】で生命を維持することは可能なのであるから――これが問題の前提である!――、もしすでに行為者が設定した救助のための因果の連鎖を新たな積極的動作よって断つ場合を、これと刑法的評価の上で同種事例と見なし得るためには、たとえば溺れかけている者を救助するために投げ入れたロープを遭難者がしがみつく前に引き戻す場合とではなく、すでに彼がしがみついているロープを振りほどく場合、あるいはすでにボートに引き上げられた遭難者を改めて水中に投げ込む場合と比較しなければならないように思われるからである」(242)

◇新事態設定説 ホセ・ヨンパルト
「それによれば、患者は新しい状況に置かれ、新しい事態も始まるのである。それゆえ、「中断する」ということは、生き続けるための条件となった新しい状況を破壊することである。「この新しい状況を作る義務はなかったとしても、自由な決断に基づいて生じた新事態に対しては、人命に関する責任を負わなければならない」。それというのも、「別の理由がない限り、この場合における人命の破壊は、自然のなりゆきではなく、人間的な行為に帰せられるからである」。」(253)
「この見解の妥当性は、装置による延命手術をとる義務はなかったのであるから、それを中断することも自由であるはずであるという「不作為説」の論証が誤りであることからも、根拠づけられる。ヨンパルト教授の巧みな比喩に従えば、子を生まない自由があるといっても、生んでしまったからといって、それを殺す権利はなく、また、結婚するのは自由であっても、いったん、結婚すれば、前のように自由にはなれない。要するに、「前の時期に自由であれば、次の時期でも、たとえ事情の変化があっても、同じように自由であるとは言えない」のである。これは実に、その締結は自由であるが、しかし締結してしまえば新しい権利義務が発生するという「契約自由の原則」の示すところである」(254)
「以上を要するに、延命措置の中止が許されるのは患者の「人間の尊厳」が明白に侵害されている場合に限られる、ということである。それ以外の場合では、患者の死に直結する措置の中止は刑法上の違法性を阻却しないと言うべきである。それゆえ、この場合にとり得る医師の方法としてなお残されているのは、特別な措置を停止してもなお生きている患者に対して、医学的適応性の見地からその都度の状態に応じた「治療方法の変更」、あるいは「治療の段階的縮小」でしかあり得ない。」(254)
「第一に、患者の死に確実に結びつく延命措置の中断が許されるのは、措置の継続が患者の人間としての尊厳が【明白に】侵害されている場合に限られるということ、第二に、延命措置の停止が死に結びつかない場合では、いったん設置した装置による延命治療がその後の経過において医学的適応性を有しないことが判明したときは、患者の状態に応じて治療方法を変更、もしくは段階的に縮小することは許される」(255)

◆第七章 臨死介助と自死への権利

 四 指導思想としての自死への権利
「「自死への権利」の意義とその方解釈論的基準としての可能性」(320)
「この概念の目標とするところは、一言でいえば、現代の刑法が生命の「神聖」観から生命の刑法的保護を量的・生物学的生命に一元的に限定しているだけで、生命の担い手である個人の意思には考慮を払っていない事実に直面して、自己の死を求める権利ないし自由を自覚的に前面に押し出し、これを新しい刑法上の保護価値として承認させようとする努力である」(320)
「考慮を必要とするのは、自死を具体的な法的権利として承認すると、そこから「殺害請求権」が引き出される余地があり、これを肯定すると、この「殺害請求権に殺害を準備すべき国家の義務が対応」しかねないことである。生命毀滅者としての国家が絶対的に承認されてはならないのであれば、死への自由は第三者に対する請求権ではあり得ないという原則も動かすことはできない。しかしそれでも「【自己の死】の実現を妨害または阻止しないよう第三者に請求すること」は、権利の可能な対象ではあり得る。これにも相応の考慮を払うならば、絶対的生命保護と死への自己決定との緊張関係にあってなんとか耐え得る妥協点を見出すほかはない。
 そこで、こうした妥協を求める最善の解決策としては、【乗り越えられないどうにもならない限界状況】(ヤスパース)//における自死への決断の前には生命保護義務は一歩後退することを認め、これに対する第三者の援助も、それが自律的人格足る本人の人間としての尊厳を実現することを目標とする限りで、刑法的に【禁じられも命じられもしないとして許容する】理論構成に優位が帰せられるべきであると思われる。」(322-3)
「いずれにせよ法的に自由な領域の理論または放任行為の理論にも帰着し得るこの解決策には、なお検討すべき多くの課題が残されているが、それでもなお、自死への権利とは言われないまでも少なくとも自由がこれによって刑法的保護価値にまで高められることによって、第一に、緊急避難解決策をとった場合に生ずるであろう消えゆく生命と苦痛緩和との利益衡量が回避され、第二に、自殺の援助を求められた第三者にはこれを拒む自由が留保された上で死にゆくにまかせる自由も許容し、しかも自殺医師を積極的に誘発する臨死介助すなわち承諾殺人を原理的に排除するための安定した統一的な基準を提供しうる点に大きな長所があるといえよう」(323)

◆第八章 自殺――違法か、適法か、それとも何か
「自殺それ自体を法的にいかに評価すべきか」「自殺はそもそも【法的に評価されるべきか否か】という根本問題をも含めて、ここで問題とされなければならない」(340)
「自殺の法的評価に当たっては違法か、適法かという、「第三は与えられず(tertium non daur)」の選択肢しか存在しないというわけではなく、視野をドイツの文献にまで広げるならば、現に自殺それ自体は【法的な評価を免れている】と見る、十分に根拠づけられた学説も存在していることに注意されなければならない」(342)
「ドゥオーキンは、死が、われわれはいかに生きることができたのかのわれわれの表象と一致していなければならないと明瞭に言明している。これに従えば、決定的なのは本人の見方であるということになる。被害という見方がいまやまったく新しい光のもとに置かれるのである。判断の基盤が彼岸から此岸に移され、死はそれを担う//生者の見方から評価されるのである。このことが必然的に、利益侵害、価値背反性および軌範〔ママ〕違反性をともに関係づける被害理解というものへと導く。犯罪を、これによればもはや単なる軌範〔ママ〕もしくは法益侵害としてのみ特徴づけることはできず、つねに個人の具体的な人格的性格が評価連関として考慮のなかに組み込まれていなければならない。
 【他人殺害】が害悪であり、したがって犯罪であるということの理由は、この被害理解によれば、個人の生命計画の実行、その投企および見通しが第三者によって不可能なものにされることにある。生命は自己の個人的な展開と完成によって必要不可欠な条件であるがゆえにそれが最高価値を有しているということが、それによって可視的なものになるのである。他人によって招来された死は、かかる罪を廃棄するのであるということから、ひとつの害悪に他ならないのである。ここではもはや、死亡という状態がその形式それ自体においてではなく、被害者の視点が被害を出現させているのである」(358-9)
「自殺は、社会がその前では沈黙しなければならないひとつの自由な行為であり、したがってそこには被害というものは全く存在していないと帰結する。この帰結はそれ自体として、もはや原則的に動かしがたいであろう。ミュラーはしかし、そこから直ちに自殺が基本権として憲法によって保障された行為であることを論証しようとする。しかしわれわれはこの論証を追認することができるであろうか」(360)
ドイツでは、「自殺を、憲法的に保護された権利として承認する者のほとんどすべては、同時に「禁じられていないものは許されている」という法理に従って、ここでいわゆる「法的に自由な領域の理論」は必要としない、あるいは余計なものであるという見解に傾いている。これによれば、法と不法の間にはいかなる第三の領域も存在しない」(362)
「自殺が「法的に自由な領域」に属する行為であるとすれば、その関与形態のすべても、論理の一貫するところ、同様にこの領域に属するものでなければならない。自殺関与もまた自己答責的な良心の決断に基づく行為だからである。かくしてわが刑法第二〇二条はその処罰根拠を失う。そこでまず問題になってくるのは、いわゆる自殺放任行為説とここで提唱される立場の異同である。この説の主唱者である平野龍一は、「自殺は法的に放任された行為であり、違法な行為ではないというべきであろう。ただ生命は本人だけが左右しうるものであり、したがってこの場合の教唆・幇助は正犯に従属する総則の教唆・幇助とは違ったものであり、独立の行為形態なのである」と説明するだけで、肝心の放任行為がそもそも法理論的に何を意味するのかについては、どこにも明確にされていない。これが「法的に自由な領域」に属する行為とは別のものであることは、まず確実であるように思われる。それというのも、後者では、既述のように、【「法的に規定されていない」のではなく、法的に評価されない】行為が問題となっている。したがって行為自体は法的に重要であり、法秩序にとって関心を〔ママ〕あるものであるのに対し、放任行為は、日本語としてのその語感からして法的に重要でない行為という言葉により馴染みやすい。」(371)
「刑法第二〇二条の処罰規定を根拠づけようとするいずれの試みも挫折するものと定まっていることが明らかになった。それというのも、この種の試みのすべてが結局のところ、個々人の純然たる私事という聖域に踏み込むことにならないわけにはゆかないからである。しかしながら、個々人の真摯な自殺意志が第三者の利害関心によって濫用されるという危険があり得るということは、確かに真剣に考えられなければならないであろう。その防止手段としての処罰規定はなしで済ませることはできないであろう。そこでこのための条文の表現形式としては、たとえば次のような表現形式が最も望ましいのではないか。

 「他人の自殺行為への関与および彼の要求に基づく殺人は、それが自殺者または被殺者の真摯な死への意思の尊重によって決定されている場合には、罰せられない」
 ここで「罰せられない」という法的効果を表現している言葉の意味は、「禁じられていないが許されてもいない」という趣旨であることはいうまでもない。いずれにせよ、――アルトゥール・カウフマンの言葉をもう一度繰り返すと――自殺および殺害への同意については、個人は自らの責任において決断しなければならないのである。これは、国家とはいささかもかかわりのないことである」(373)


UP: 20080817 REV: 20100628 *堀田 義太郎
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