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『琉球共和国――汝、花を武器とせよ』

竹中 労 20020610 筑摩書房,558p.

last update:20111105

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竹中 労 20020610 『琉球共和国――汝、花を武器とせよ!』,ちくま文庫,559p. ISBN-10: 4480037128 ISBN-13: 978-4480037121 \1260 [amazon][kinokuniya] o01 tt17 m04
※原書は1972年、三一書房より出版。下記の筑摩書房版は原書と構成が異なっている。


■内容

沖縄、ニッポンではない―。30年前の復帰前夜に、そう喝破した竹中労。その言葉の真実味は、米軍犯罪、高い失業率と沖縄が注目を集める今日、ますます重みを増している。琉歌の豊かな世界にさまよい、花のような言葉を紡ぎ出し、さらに復帰を前に、アタフタする政治家・文化人たちに辛辣な批判をくわえる。沖縄をこよなく愛したその文章は、あなたを魅了する。(「BOOK」データベースより)


■目次

小序(実務者はしがき)
沖縄、ニッポンではない
わが革命的探検旅行
メモ沖縄 1969
?ト?ノ水ハ渙々タリ
メモ沖縄 1970
吾ら、ケマダに拮抗しうるか?
『沖縄決戦』を撃て!
コザ――モトシンカカランヌー
『倭奴へ』――沖縄上映運動報告
琉球情歌十二考――嘉手苅林昌の世界
蝶なて翔ばわ――言葉の問題から
あやぐ――神々のうたごえ
海を奪うもの――琉球処分外道祭文
メモ沖縄 1972
野底土南――琉球独立のヨハネ
哀愁波止場から太平天国へ
汝、花を武器とせよ……
さらなる幻視の海へ
メモ沖縄1972・5・15
海恋いの記
あらゆる性犯罪は革命的である
メモ沖縄 1972――総括
三一書房版・後記

解説 坂手洋二

■引用


■沖縄、ニッポンではない――我観・京太郎琉球史(『闇一族』3号、1972年4月) 「沖縄、ニッポンではない。
彼らはウチナーンチュ(沖縄人)、我らはヤマトンチュ(日本人)である。
その認識に立てば、これまで沖縄について語られてきた復帰、奪還、解放等のすべての論理、まやかしであることが自明となる。」(12)

「沖縄ニッポンではない。すくなくとも第1尚氏時代まで、琉球はヤマトの政治圏にも、経済圏にも、文化圏にも属さぬ、1個の海洋独立国家だった。ニッポンへの隷属は、薩摩の武力侵略からはじまる。」(21)

「およそ一国の植民地化は、その社会内部にコンプラドール(買弁層)をつくり出すことなしには達成できない。」(27)

「よろしいか、叛逆に対してより暴戻(ぼうれい)だった(裏返していえばより恐怖した)のは首里王府コンプラドール・王侯貴族どもだった、沖縄人よ、このことを胸に置くがよい、あなた方を裏切りつづけてきたもの、それは尚寧王から屋(や)良(ら)朝(ちょう)苗(びょう)に至るまでの“為政者”と称する奴輩、琉球自身の裡(うち)なる買弁であったことを。」(38)
●植民地主義を貫徹させるものとしてのコンプラドールの存在への注目。

「平ったくいえば、チンは日本人も朝鮮人も同じ“臣民”と考えとる、職業・学問等々の機会均等と生活の安定を与えてやる、明るく楽しい暮らしを約束するから、これ以上騒ぎ立てるなという意味だ。“同化教育”、この時を起点としてはじまる。けっきょくそれは『日本語を話せる下層労働者』をつくり出す政策であったのだが、朝鮮民衆の中には一視同仁其ノ所ヲ得ルという幻想を抱いて、来日するものが少なくなかった。」(40)
「1945年8月6日、9日、広島・長崎に原爆炸裂、朝鮮人強制徴用工4万人が死亡、放射能を浴びた2万人、光復(独立)した彼らの祖国に帰って4分の1世紀余、無国無補償の谷間にいまなお切り棄てられている――。ウチナーンチュ、『我々は朝鮮人とちがう』というか?ナンセンス。同国人であると主張するかぎり諸君は差別される。沖縄ニッポンではないと“異邦の論理”で大和に対峙するかぎり、諸君は自由なのである。」(42)→国政参加選挙への批判
●日本語を話せる下層労働者をつくり出す政策――同化教育。朝鮮民衆と「沖縄人」とが同時に受けてきた歴史と現在。

「俺はイミヌ・チョンダラーだ。琉球の独立を、まぼろしの人民共和国、汎アジアの窮民革命をゆめみる。政府なき国家を、党派なき議会を、官僚なき行政を、権力の廃絶のための過渡の権力を。
 琉球共和国を……、ゆめみる。」(44)
●琉球共和国とは、〈独立〉とは。既存の国民国家システムとはことなる〈独立〉のかたち。汎アジア窮民革命への接続のかたちとして。

■わが革命的探険旅行(1971年10月8日/『現代の探検』’71年春季号)
「私の『探険』の目的は、革命にある。より正確にいえば『世界革命』の展望を切りひらくことを目的として、汎アジア、ラテン・アメリカの“窮民”社会――スラムを、足かけ7年間歩きまわってきた。これからも、印度、パキスタン、中近東、アフリカへ、さらなる旅をつづけたいと思っている。
 私のいう“人間の探険”とはそのことである。世界の奈落に住む同胞たち、被差別、無権利の下層プロレタリアート、漂民、ルンペン、娼婦、犯罪者、非人、やくざ等々と、一味同心するべく、私は険を冒し探る。(“検”ではなく故意に、“険”の字を使用しているのである)」(48−49)
「1965年11月――、中華人民共和国訪問の途上、香港の九竜地区に2週間ほど滞在することとなった。それが、わが革命的探険旅行の発端である。」(52)
「1965年、日韓条約強行採決の東京を後にして東南アジア・中国の旅に上がった私はその年の10月、週刊誌記者をやめていた。弘文堂から出した『団地7つの罪』『処女喪失』という2冊の本の印税および映画化の原作料をすべてこの旅に投入して、私は“何か?”を求めていた。」(53−54)
「市民社会から差別され、切り棄てられた人間の奈落にこそ、この制度の鉄鎖を打ち砕く“叛乱”は生起されねばならぬと私は固く信じてきた。しかし、私の視野は、日本という一国の状景に限られていた。戦後20余年、外なる汎アジア=第三世界の風浪に、まるで盲目だった。そこに、どのような民衆の悲苦があるかを考えてもみなかった。
 1945年8月6日、9日、広島・長崎に原爆炸裂し、一天白光と化したそのときに、殺戮された日本人以外の民衆、数万の朝鮮人来住者徴用工がいたことを。また、54年3月1日、ビキニ水爆の死の灰は第5福竜丸のみではなく、周辺の群島住民にも降りそそいだことを。そして、あの“大東亜戦争”がもたらしたアジア、大洋州のすさまじい焦土は、20余年の歳月を閲してなおその傷口から血を流していることを、血債は血を以てしか償われぬことを、香港40万の棄民の讐念は私に告げ知らせた。
 かくて、“何か?”を、険を冒して探るべきテーマを私は見出した。日本帝国主義を打ち滅ぼすものは、だれよりもまず自分自身でなくてはならぬのだ。汎アジアなる、さらには全世界窮民の苦惨に身を置かねばならない日本人である、と。
 香港での2週間、もっぱらスラムを歩いてすごした。」(54−55)
「1967年、私はメキシコシティの鬼窟テピートに滞留し、この国に大乱のおこることを予言した。果たせるかな、68年オリンピックを目前にして、軍隊と学生の銃撃戦は街を血に染めたのである。香港暴動、パリの5月――、1968年から69年にきあけて、山谷と釜ヶ崎にのめりこみ、ここにも窮民の蜂起がおこることを告知して、『山谷/都市反乱の原点』を書く。」(61)
「十二月、コザ暴動おこる。民衆が外人(げえじん)の車を片端からひっくりかえして焼き払い、炎を囲んでカチャーシー(沖縄の騒ぎ唄)を踊り狂う。
 彼らは、いわゆる組織労働者に非ず、暴動には党、セクトの指導はなかった。これまで、整然たるデモがついに破ることのできなかった米軍ゲイトを、自然発生的な無告の大衆は楽々とブチぬき、基地突入を果した。それは、何を意味するか? 沖縄左翼反基地闘争の破産を、コザの暴動は実証したのではないのか? “新”左翼を称する諸君よ、本土の交番を焼くことよりも沖縄へ、コザへ、諸君は「探検」の旅に出立するべきではないのか?」(61)
「1970年――、私は再度にわたって韓国へ飛んだ。そこで4分の1世紀を、どのような庇護も援助もうけず、後遺症と闘い、生活苦と闘ってきた在韓被爆者にアプローチしてこの問題を顕在化することが、第1の目的であった。ソウル、プサン、済州島での日々を例によって私は木賃ホテルを拠点としてスラムを歩いた。とうぜん、まずしい被爆者たちは、まずしい人々の住む街にいた。」(62)
→1970年10月 竹中労編『見捨てられた在韓被爆者』日新報道.
●アジアへの旅→日本人の外(被爆した朝鮮人…)への思考とルポ(1965年香港、1967年メキシコ、1970年韓国)。沖縄取材と韓国取材が重なっていることに注目したい。

「まぼろしの“祖国”に幻想を抱いている。だが、“復帰”ということの意味をよく考えてみようではないか? 当然、本土から資本家、役人どもが乗りこんでくるだろう、アメリカにしても完全に撤退してしまうわけではない。けっきょく、日米両帝国主義に支配さえ、二重のクビキを負うことになる。当地の“革新勢力”は、いったい何を考えておるのか! 佐藤栄作や自由民主党に支配されちょる日本低国なんぞに復帰してどうなる! 本土から機動隊がゴッソリとやってきて、オノレらが弾圧されるのが関の山ではないか! 復帰、ナンセンス!(76)

■メモ沖縄 1969 (『話の特集』’70年1月〜4月号)
「余はほとんど連日、沖縄の海と空を眺めて歩き、琉歌・琉舞・琉酒に酔い痴れて娼婦の巷を徘徊せり。デモに参加せず“活動家”諸君と行をともにせず、三絃(さんしん)のリズムと、まるっきり理解できぬ沖縄(うちなー)方言(ぐち)の町辻に沈淪(ちんりん)したるのみ。
 波の上、栄町、泊(とまり)1丁目、拾貫(じゆつかんじ)瀬、コザの吉原、エトセトラ。女郎(じゅり)の里をへめぐって、スタミナの続くかぎり沖縄の底辺を探訪し尽せるなり。」(65)
●竹中労の足取り――沖縄の底辺

「明春、余は青年諸君と語らってインターナショナル・フォーク・キャラバン(IFC)を開催する計画なり。その船上コンサートの下見・検分のため、海を渡ったのである。この4月、アメリカの反戦歌手ピート・シーガーと再三文通して、彼の来日をすでに決定。さらに、黒人解放の闘志にして歌手であるレン・チャンドラー、そのほか13人の米国側参加を契約。これに中国、朝鮮、ベトナム、キューバ諸国を加え、高石ともや、岡林信康、高田渡など、プロとアマとを問わぬ日本側フォークシンガーを糾合して、日本列島を縦断する。
およそ100名の歌い手を数班に編成し、全国65都市、大小70回のコンサートを分散集合しつつ開催し、鹿児島から海路、沖縄にむかう。4月27日、“沖縄デー”前夜、那覇もしくはコザ市において10万人規模の圧倒的な徹宵デモンストレーションを敢行し得るや、否や?これが、沖縄訪問第1の目的なり。
第2、沖縄を舞台にミュージカル映画を製作する企画をたずさえ来れるなり。すでに大島渚、西野晧三らと腹案(プラン)を練り上げたけれども要は百聞一見にしかず、現地調査のために、余は沖縄を探訪せんとす。
目的の第3、URCレコードより“日本禁歌集”を出す。第1集『桜川ぴん助江戸づくし』は編集を終り、12月上旬、会員に頒布の予定なり。余は固く、春歌・猥歌は民謡の原型なりと信ず。民衆の歌は、もと道徳倫理のラチ外に自由濶達な性を謳歌していた。民謡の宝庫沖縄において、その第3、もしくは第4集に収録するエロ歌を発掘せんと欲す。
以上、3つの目的、連関し複合して余の脳裏に短期滞在の行動計画、こもごも結びかつ消え……、日帝不管の地(このコトバの意味をよく考えて給れ)沖縄に、変革の文化状況を投入せんとする余の真意を、果して現地の人士のどの部分が受け入れるか?と、とつおいつする間に午前8時30分、那覇に無事入国。」(65−66)
●3つの沖縄渡航目的: @IFC、Aミュージカル映画構想、BURCレコード・日本禁歌集の製作。

「聞けば、料金2ドル(720円)、那覇市最低の売春地帯なりという。車を止めて降り立ち、ジュッカンジと称するそのあたりを、ウロつきまわるなり。少年も青年も、なぜかついてこず、余1人にて身をかがめねば通ることもできぬ小路に入りこむ。ドブの臭気はムッと鼻をつき、かたむきかかった軒と廂(ひさし)がもたれあうバラック小屋の間を、肥?(ひく)を横にしてすりぬけ、迷路にわけ入れば死の沈黙(しじま)、シンと静まりかえった白昼の魔窟に、わずか2ドルで春をひきさぐ女たちは、おそい睡りをまどろんでいるのであろう。かすかに男女の会話がもれる戸口で、耳をすませど沖縄方言にて、意味不明なり。
 『オジサンは、こういうところを見るのですか』
 と、魔窟からはい出してきた余に、少年は仏頂面でいう。青年も怒りをふくんだ口調で、『本土の人にはあまり見せとうないところじゃけんね』
 沖縄の恥部――売春街に、ガゼン興味を示す本土からやってきた中年男に、彼らは非難のマナコをあびせ、饒舌になるなり。友よ、では大いに論じあい理会しあおうではないか!」(69)
「さて、白タク青少年の意見によれば、本土観光客は沖縄人を軽ベツし、差別しているという。早い話が例外なく、女はいないか?と聞くばかりではなく、手前は車の中にいて、『あの女と交渉してこい』などという馬鹿がいる。沖縄にきて、女郎を買わなかった本土名士は、佐藤栄作ぐらいのものだろう。カジヤマなどという文士は、中でもタチが悪く、沖縄の女はケツまで毛だらけだなどと、ロクでもないことを書きくさって、異民族差別感まる出しである。」(70)
「語りあってみれば、純情素朴、反米愛国の若ものたちである。『基地を見にいこう!』と口々に、彼らはいう。だが、基地もまた“観光名所”ではないのか?圧政と凌辱の根元である米軍事基地を望見する前に、沖縄民衆の生きざまをその底辺からベッ見しておかねばならぬなり。これ余の取材のセオリイにして、曲げることかなわず。もしイヤならば、料金返して帰りたまえと居直れば、彼らもようやく諒解、栄町・泊1丁目(前島町)・波の上等、白昼のしじまの裡なる歓楽街、あるいは市内の諸々に敗戦直後そのままなるスラムなどを、懇切丁寧に案内してくれるなり。」(70)
●底辺から取材対象の社会に生きる人々の生き様を見る、というセオリー。売春街=「こんなところ」ではなく「基地を見にいこう!」というタクシーの運転手。売春街に注がれる「本土」の差別への怒り→忌避、と、「本土」や「アメリカ」との分かりやすい加害/被害の構図を示せる「基地」への誘い。

「黒人兵士の差別に対する怒りを、“単純な白黒対立”(単純な怒りは正当ではないのか!?)と切り捨てる一方、住民たちのエゴイズムから発する、“やつらを追い出せ!”という怒りを、民族独立、反米愛国に短絡する感覚は、沖縄人民の真の解放自立と、どこでどうかかわるか?アメリカ帝国主義の支配から沖縄を解放する唯一の道は、黒人兵プロレタリアートと沖縄人民の連帯にあるいに非ずや?余は再びこの地を訪問する予定があるために、いまは多くを語ることを得ず、ただ、コザの暴動を“孤立したみじかい燃焼”から、燎原を焼く炎にすることこそ、真の左翼に問われるべき命題ではあるいまいかとだけ、ここでは述べておこう。」(72)
●コザでの白人兵と黒人兵の対立、喧嘩、騒乱(CIDの威嚇射撃への暴動、パトカーや白人兵への襲撃)への着目。竹中曰く、『世界』(1969?年11月号「日本の潮」)は現地住民が黒人の動きへ怒りを燃やしている、恐怖している、暴動は「孤立したみじかい燃焼に過ぎないものになる可能性がつよい」と論評し、また、『琉球新報』(1969年?8月31日)は、住民たちが「我々の土地からやつらを追い出せ!」と「力強い民族の合言葉と意識」が沸き起こったと報道した。黒人の暴動を、@白人と黒人との対立としてのみとらえ、A沖縄の人々の戦いとはつながりえない、孤立したものであり、むしろ対立するもの、としてとらえている。竹中はこのような民族主義に反対し、沖縄の人々と黒人兵との連帯が必要ではないかと主張している。

・琉球独立党との出会い(74−77)
・栄町 「栄亭」に登楼(78)
「この夏、当地出身の知人より、普久原恒勇編集『沖縄の民謡』なるA4版の歌集を恵贈され、余としてはそれを頼りにミュージカル映画の構想を立て、沖縄に来れるなり。この歌集は、上質紙125ページの豪華版で、“公衆の面前で歌うのには憚りのある”俚謡俗歌をも、『一部の反論はあったが敢えて採譜した』と解説にある。
 本土を発つとき、余はこの歌集を出版した人びと、琉球放送の上原直彦、作曲家普久原恒勇らの諸氏を通じて、ミュージカル、及び“禁歌集”製作の可能性を打診する心づもりなりき。明日、連絡し面会する予定なれど、まずは本場の琉歌琉舞を実見しておくことが肝要。就中、『海ぬチンボーラー』『デンスナー節』『県道節』『軍人節』等、内地では耳なれぬ猥歌、労働歌、反戦民謡のたぐいを聞いておかねばならぬ。」(78−79)
●沖縄渡航前に普久原恒勇編集『沖縄の民謡』の歌集を読み、ミュージカル映画の構想を立てていた。

「今日、本土復帰を願う人びとが、「オレたちは日本人だ!」と声をそろえて叫ぶとき、余のごとくニッポンジンであることに絶望しておる人間は、何やら複合した違和感に捉えられるなり。[…]沖縄の人民は革新屋良主席までをふくめて、佐藤栄作のペテンに乗せられているのじゃないのか?余にいわせれば“人種”なんぞはどうでもよい、“人間”が問題なのだ。早い話が沖縄の人がブラック・パワーと同盟してこの島に“革命”をおこし、連合人民政府をつくることのほうが、本土復帰よりはるかに有効かつ現実的ではないか?とさえ、余は思うのである。」(81)
●ブラックパワーとの連帯。民族・人種などどうでもよい、といいつつ、黒人と沖縄人とをつなぐ、という人種的な発想?→人種内の階級への着目?

「大島渚とのミュージカル映画を撮ろうという計画も、帰京後すみやかに進展、この文章が活字になっているころは、シナリオの田村孟、佐々木守ともども、宮古、八重山のあたりをロケハンしている予定なり。映画の構想は、混血児問題をテーマに、“伊予の松山兄妹心中”的な香り高き血とエロチシズムを発揚せんとす。」(85)
「ミュージカル映画の黄巣をいだいて沖縄に渡り、構想を放棄して“本土”に帰り来れるなり、我らの結論は、真に沖縄の悲劇を剔るためには、集団就職の少年少女が行政府主席屋良朝苗氏にピストルを発射する映画をつくらねばならぬ――ということであった。[…]琉球列島解放の論理を、“既定の事実”となった日本復帰の道程にクサビのように打ちこんでやるのだ――。」(110)

「つまらない感傷はすてて、雑草のごとき庶民のスタミナを信じようではないか! でなければ、大江健三郎『沖縄ノート』的サンチマンに陥没し、“戦後民主主義”の残像に恋々と固執していなくてはならぬなり。」(87)

「本島の人間は先島(さきしま)と称する離島の人間を差別し、離島は離島でおたがいに差別しあい、また奄美大島からの移住者を流れ者と侮蔑し、さらにその下層に台湾からの出稼ぎ労働者を置き、乞食、パンパンはすなわち穢多非人であり、米兵相手の娼婦同士に白と黒オンリーとバタフライの差別があり、降るアメリカに袖はぬらさじと日本人専門の売春婦は毛唐と寝るパンパンをさげすみ、とりわけ混血の娼婦は爪はじきをされ、女を買う兵隊の間にもブラックエンドホワイトの差別があり……、これら差別の諸相はこんがらがり、錯綜複合してわけがわからなくなり、とどのつまりは反米愛国、なにがなんでも祖国復帰という偏狭な民族(血族)主義に収斂してしまうなり。
 沖縄の人は怒るだろうが、それはテンノーヘイカミナオナチという、かつての朝鮮人の愛国心とどう異なるのか?と余はいいたい。借問する、沖縄人はなぜ日本人でなくてはならず、中国人、もしくはアメリカ人あるいは沖縄人そのものであってはならないのか?さらに借問する、祖国日本への復帰とは、いったい何を意味するか?それは、佐藤栄作=自民党警察国家の法と秩序、“支配と搾取”の機構にみずから組み入れられることではないのか? 重税と物価高と、後進地方としての差別を背負いこみ、機動隊・自衛隊をみちびき入れ、大資本に低賃金労働力を提供すること以外のどんな恩恵を、諸君の祖国は約束してくれるのだ?
 “日本”という括弧でくくれば、いまあるもろもろの差別が解消するとでもいうのか、米軍基地は撤去されて、沖縄人はゆたかに平和に暮らせるようになるか? イソップ物語の蛙どものように、それは支配者のスゲカエという悲喜劇をしかもたらさぬのではあるまいか? いやそれよりも最悪の事態がおとずれることを、余は予感するなり。
 沖縄の人(うちなーんちゅ)はその反米愛国、祖国復帰の悲願が、実は軍国主義復活の最も有効なテコとなっていることを、いちどでも考えたことがあるか? ホラ竹としては、ごくマジメにこのくだりを論じておる。沖縄の既成左翼は、「祖国復帰」なるスローガンに同調したとき、決定的な誤謬をおかした。それは沖縄人民自身による基地撤去、米軍武装解除(もしくは追放)という基本的な闘争を放棄して、日米両帝国主義のボス共にみずからの命運を託したことを意味する。「沖縄奪還」と字ヅラだけとりかえて、アホなことぬかしとるどこかの新左翼馬鹿も同断である。
 […]四・二八沖縄デーは平穏無事な海の上で、本土応援団と握手して“人民の連帯”とやらを祝っとる。ハハ、ノンキダネ。いっぽう、新左翼は馬鹿の一つ覚えで何の効果もない火炎瓶を、基地前哨線にプレゼントするのみ。」(89−90)
「沖縄のみならず、東京、大阪、横浜、博多、“自由都市”として続々独立を宣言し、中央政府に叛旗をひるがえすべきなのだ。なべての権力が死滅する理想社会への過渡期的国家は、自立した都市共同体のコミューン連合という形態をとるであろう。
 そのもう一つ手前の段階は、国家の内部に解放区が創出されて、これが中央集権政府と敵対しつつ、不可侵の条約を結んで並存する形態である。沖縄のばあい、それは現実的に可能であるはずなり。屋良朝苗のキンチャク頭からは、現存の“デモクラシー政治秩序”を止揚する発想など、とうていわいて出ようはずもないが、“本土なみ”の復帰路線では絶対に解決のできないジレンマが、沖縄の現実にはあまりにも多いのだ。」(91)
「本稿で予言したごとく、沖縄左翼の“復帰ナショナリズム”は、佐藤栄作政権を泰山の安きにおくことに利用されたるのみ。口をきわめていえば、自民党に勝利の栄冠をあたえたもの、それは沖縄革新勢力に他ならぬなり。反米愛国の主張がどれほどナンセンスで、しかも“反革命”であったかを、沖縄の愚かな左翼はいま深刻に反省しなくてはならぬ。
 さらにまた、“復帰”の内実たるや、沖縄少年少女を中小零細企業に組み入れ、最下層プロレタリアートとして(かつての朝鮮人のごとく)差別し、収奪する現実をしかもたらさないことを、屋良朝苗以下の教職員ボス共は率直に認めねばならない。」(96)
●民族のなかの差別への着眼。
●安易な復帰願望への批判。復帰とは何か?という問い。それは「“支配と搾取”の機構にみずから組み入れられること」ではないのかという〈底辺〉からの視点。
●解放区をつくる。過渡期的国家、自立した都市共同体のコミューン連合という形態へ。
●沖縄の復帰ナショナリズムにこたえてしまった本土革新勢力=相互補完関係。

・上原直彦、備瀬善勝との出会い。

「6時、ようやくベ平連の人来る、女性なり。[…]『はい、当地の悪友にさそわれて、売春街やバー街を歩くつもりです』
 むきつけに答えれば、ありありと不快感を面にうかべ、(まあ不潔な人だわ!)とマユをしかめるなり。『私、用がございますから、失礼させていただきます』
 席を立っていっちまう」(95)
●べ平連の女性との出会い。不快感によって迎えられる。

・1969年12月22日〜 沖縄滞在

■?ト?ノ水ハ渙々タリ (『えろちか』1971年5月号)
「もと唄の歌詞にみるごとく、七五の呂律を無視した自由奔放な態様によって、これらの〈うた〉は人びとにうたいつがれてきたのだ。それはまさに口伝による継承であり、旋律も固定したものではなく、土地により歌い手によって即興的に変化していく。したがって、五線譜にとりこまれたとき〈うた〉はその生命を失うのである。」
●歌いつがれることによって変化することこそが、本来の〈うた〉の在り方である。

「率直にいって、60年代のフォーク・ソングには、圧倒的な〈うた〉のマス・ヒステリア(たとえばビートルズのごとき)をつくり出す力量なしと私は判断していた。しかし、日本列島の各地に埋もれた(埋もれさせられた)土俗の禁歌とそれとが、燃焼の焦点をむすぶことができたなら、そのベクトルに起爆の可能性を求め得るのではないか?と考えたのである。とりわけて、未踏の沖縄に私は賭ける想いがあった。」(123)
「日本禁歌集B『海ぬチンボーラー』を私はほとんど涙しながら録音した、そこには何という素晴らしい、文明にも道徳にもよごされることのなかった土俗のエロチシズムがいきいきと脈々とあったことか!」(124)
「全国労音(日共系)の妨害によって、ピート・シーガーの来日がついに不可能となり、URC音楽舎が財政的リスクを放棄したために、日本列島に〈うた〉のアゴラを連鎖して、流砂のごとき体制崩壊の序曲を、すなわち70年代のエエジャナイカを伝播しようとしたキャラバンの夢は挫折した。」(126)
「1970年12月20日、1年前に大島渚らと止宿した、コザ市のホテル京都の前で“叛乱”はおこり、沖縄民衆は黄ナンバーの外人乗用車70数台を焼いて、そのまわりでカチャーシー(さわぎ唄)を踊り狂った。悲しいにつけ、嬉しいにつけ、この島の人々は両手を天にかざしてカチャーシーを踊る。[…]コザ叛乱の報に接したとき、私は69年に抱いた“予感”が正当であったことを、〈うた〉は人間を支配する“制度”に対する人間の復讐として、いつの日かこのような形で噴出せずにはおかぬのだということを、いま一度固く信ずる根拠を得た。[…]叛乱とカチャーシーの論理を、民衆脱自の狂疾から、体制全否定のエントゥシアスモス(憑霊)へと確実に導くものを、そこに見据えるために――。」(127−128)
●1970年3月〜4月のIFC(インターナショナル・フォーク・キャラバン)構想とURCレコード『日本禁歌集』製作の意図。反文明・反道徳としての土俗の禁歌=しまうた。
●〈うた〉の力をコザ暴動で踊る民衆の姿に再発見する。〈うた〉が人々を脱自、体制全否定、エントゥシアスモスへと導く。

■メモ沖縄 1970 (『話の特集』1970年8月〜12月号)
「失語の饒舌を、しばし黙せ!挽歌はまだ早すぎる。このまずしく美しい島をガンジガラメに縛り上げている米・日帝国主義統治のメカニズムに、とぎすました怨念の鉤をブチこめ!詩人よ言魂を信ぜよ!与那国のかの花(ぱな)酒(ざき)のごとく、水をも燃やす烈火の詩句を蒸留し、そのほむらもて絞囚の縄を、差別の鉄鎖を灼け!!ひきちぎれ!!」(143)

「三たびこの島を過ぎり、余はようやく一の視点、思念のさだまりきたれるを覚ゆ。本土知識人は沖縄を訪問してさまざまな報告を行なった――いわく悲劇の島、祖国喪失の島、基地の島、毒ガスの島、ドルの島、ひき裂かれた島、戦跡の島、観光の島、あるいは売春の島、免税の島、etc。
 それらの報告の一切は、フンサイされねばならぬ、と余は思う。『私が沖縄を訪問したとき、百人もの人あちが意見をきくために私のホテルをおとずれた』なんぜと得々と語る夜郎自大の大宅壮一はもちろんのこと、大江健三郎の感傷的な『沖縄ノート』、石田郁夫の真摯なレポートをも、余は否定し去らねばならぬと考えるのである。
 沖縄――その土着の思想と、民衆の民衆的信念とついに接点を持つことなく、人びとは“基地の島”“悲劇の島”の表層を、深刻な面もちで通りすぎていった。」(143−144)
「屈辱は、絶望は、“祖国”の裏切りのゆえにいっそう重く、沖縄人の心にのしかかるであろう。そして、その苦しみと等量の安価な同情と声援が、本土の進歩的な連中から寄せられるのだ。またぞろ“観光左翼”が大挙してこの島をおとずれ、さまざまな報告を総合雑誌に載せ、単行本を上梓するだろう。
 沖縄はかくて、永久に“悲劇の島”でありつづける。無告の民衆とかかわりない地点にむすばれた虚像オキナワは、ヒロシマ、ナガサキとひとしく、反戦平和の“聖域”として保護され、基地撤去運動は大集会、大行進の年中行事的カンパニアで、“持続”されるであろう。沖縄全体が「ひめゆりの塔」となるのだ。」
●沖縄(の悲劇や基地)が本土の進歩的な知識人=観光左翼からまつりあげられる構図。

「鬼畜、ウジムシ、ケダモノ、『米軍人をまっ殺してやりたい』『つるし首にせよ』という、クロンボドーイ(黒人兵の暴行)に対する沖縄人の怒りを、余は理解せぬではない。もしもおのれがその場にいあわせたら、石を投げてニグロの頭を割っていたかも知れぬ。
だが[…]『ゴメンナサイを6回も』いって逃げ出したという20歳の黒人兵に、余はまた別の感慨をいだく。[…]
ベトナム帰りの血に狂った若い黒人兵を、余はむしろ憐れに思う。沖縄をベトナムにしている日米安保条約こそこの事件の真犯人であり、梟首されるべきは米大統領ニクソン、岸&佐藤の安保ブラザーズではないのか?沖縄人よ、“祖国”は米軍事支配の共犯者であることを知れ!」(154)
●黒人への同情。黒人を戦場に立たせている日米両政府。

「昼日中は気がつかなかった乞食、浮浪人、精神病者の群、ほのぼのと明けゆく那覇の街に、異形の影を曳く、ここにも沖縄のもう1つの姿がある。放置されたこれらのアブレモノ、社会からの疎外者たちと、72年復帰はどうかかわっていくのか?」(161)
●「社会の疎外者、アブレモノと72年復帰はどうかかわっていくのか?」という問い

「本土依存のギブミー革新政権、屋良朝苗と教職員会に借問する、本土並みの繁栄、みせかけだけの“豊かさ”は、このまずしくとも美しい共同体の島を植民地的崩壊にみちびくだけではないのか?物呉ゆすど吾御主、沖縄の歴史は陳情の歴史であり支配者への卑屈な物乞いの歴史だった。屋良革新政権、再びその轍を踏もうとしていないか?」(168)
●沖縄=陳情の歴史、支配者への物乞いの歴史

「▽授業放棄、あいつぐ―――中部地区
 五月に入ってから、中部連合区教育委員会管内各中学校で授業ボイコットが続発、学校当局はじめ関係者を戸惑わせている。
 ボイコットの原因は、学校の規則に対する反抗、生徒間の集団対立などさまざまだが、服装をめぐる不満が大半。さる二六日、授業ボイコットがおきたA中学校では、病死した生徒宅をすぐに教師が見舞わなかったというのがきっかけで、目下休校がつづいている。生徒側はこの事件を契機にして、制服以外の着用の自由、男女交際、長髪を認めよ等々の“要求”を出している。[…](『沖縄タイムス』五月二九日夕刊)」(竹中、2002=1970、163)
「余、このメモにおいて、屋良革新政権下の恥部を暴かんとす。その第一、沖縄教職員会の退廃ダ落、驕慢横暴。いわゆる沖縄左翼中最大の勢力を有し、祖国復帰運動の原動力となり、いまや屋良政権存立の根幹である教職員会であるが、その内実は右のごとし。政治的には強力であっても、肝心の教育面はアメリカ映画『暴力教室』並の非行―――造反に手を焼いてオル。[…]授業放棄あいつぐのは理の当然。しかも生徒を非行に走らせる主たる原因は本土並みの逆コース、長髪禁止、制服強制、あるいは青少年保護法(これもトンネル売春防止法と等しく復帰を目前にしての緊急立法)による有害図書追放等々、道徳教育、修身教育の復活にある。」(165−167)

「“祖国”日本は沖縄の少年少女を最下層労働力として資本主義社会の奈落に組み入れるのだ。職安を通じた就職はまだしも労働部の調査の“対象”になるから救われるなり。だが、沖縄新卒者の本土就職大半は、“施設職安”による。そこには、救済の手段がない。」(169)

「本メモにおいて余はくりかえし警告してきた、“日本人”になることは沖縄の人びとにとっての実は不幸である、“祖国”を絶対に信用してはいけない、本土中央集権からみずからを切り離せ、自主・自律・自治の小国家コミュニティとしての“独立”をえらぶべきだ。行政府に日本に帰属するのなら“県”としてではなく、“琉球国”として連邦する方が沖縄の主体性をむしろ保ち得るだろうとまで極論した。」(175)
●復帰ではなく、自主・自律・自治の小国家コミュニティへの〈独立〉

「諸君もし沖縄に旅行する機会を得たら、泡盛を呑め、ウタ、サンシンに酔い呆けるべし、尾類小を友とせよ、基地メイド、日雇労働者、沖仲士らに立ちまじれ、国家=民族の水準においてではなく、人間=民衆の次元で人びとと連帯するとき、諸君は沖縄の悲苦の真相を、解放にむかう道を見ることが可能になるなり。」(178−179)
●国家=民族の水準ではなく、人間=民衆の次元で歴史を見る、連帯するということ。

「沖縄を返せ! 沖縄奪還! 沖縄解放! という左翼・新左翼のスローガン、さてどこからどこへ奪い取り奪い返すのか? 何者からの解放であり何にむかっての解放なのか?沖縄決戦をとなえた諸セクトは口をぬぐって入管闘争をいう、『沖縄は返った、次は北方領土だ』という自民党の白々しいキャッチ・フレーズと、ネガポジではないか? ニューレフトと秋の空よ、情況を利用主義的にしか把握することをしないという点で、新左翼と日共との間に径庭はない。」(181−182)

「祖国日本に復帰することは、物呉ゆすどの奴隷的屈従とひきかえに、固有の文化を失い差別を呼びこみ、自衛隊の進駐をまねき、本土からの観光客にコビを売り、集団就職の少年少女を流出し、本土企業の低賃金労働者として資本社会の囲内に追いこまれ、貧富の落差を開き、消費文明の毒にむしばまれ、司法・教育・社会・労働あらゆる面で“祖国”ニッポンの管理の下に置かれ、3割自治のチェックを受け、しかも米軍基地は温存され、フリーゾーンの美名による日帝アジア経済侵略の拠点と化し……、おそらく3年を出でぬうちに沖縄は悪しきジャパナイズをとげて、自然は荒廃し、人情は失われるだろう。」(181)


■吾ら、ケマダに拮抗しうるか?
「余は断言す、本土復帰のひずみはウチナーンチュを駆ってFLQ(ケベック解放戦線)的な抵抗の地下組織創出にむかわせ、黒人兵プロレタリアートと連帯して、米軍基地中枢を爆破・占拠の照尺に入れるだろう。アジアのすう勢は新しきテロリズム、武装ゲリラの簇生をまねきつつあり、台湾独立党革命派は、香港の拠点から原住民舞台に武器・弾薬を供給し、フィリピン学生運動は“秩序ある”デモから武装闘争へとエスカレートしつつある。韓国民衆もまた、五賊(軍・財閥・高級公務員・国会議員・政府要人等々)の腐敗堕落とあいまって、全国に反乱の気運がみなぎっている。
 汎アジア窮民の放棄、そのまさに台風の眼に沖縄が位置することを思え!そこに、最大の敵目標たる巨大な米軍事基地が存在することを思え!基地周辺において武器窃取はまことに容易な日常茶飯事であり、バズーカ砲が手品のように紛失していることを思え!コザ照屋の黒人外で、これまで度々の暴動がくりかえされていることを思え!それらもろもろの状況下に武装ゲリラが潜行し浮上することは現実に可能であることを思え![…]ネチャーエフ流にいうなら、沖縄本土復帰は人民の側に武器庫を提供し、汎アジア窮民革命前線根拠地を、もっとも優越なる地点に確保することに他ならないのである!(202−203)


■コザ―――モトシンカカランヌー (『テレビ山梨新聞』、1972年2月19日〜3月11日)
「「本土から軽べつされない立派な沖縄をつくりましょう」、屋良革新政府は目下新生活運動をくりひろげちょる。環境を浄化しよう、公序と良俗をうち立てよう、ナンセンス、ナンセンス、娼婦たちを“特殊婦人”と呼ぶエセ革新政府、その汚辱のよってきたる根幹を正さず、ただ強権をもってクサイものにフタ、モトシンカカランヌーの貧しい庶民の生活権を奪おうとする。」(竹中、2002=1970:224)
●復帰=国民化。下層・貧困層の切り捨て。

「市の全面積のおよそ三分の二が米軍の基地であるコザ、全業態の二二.六パーセントがサービス業(水商売)、Aサインだけで年間実に六千万ドル(二百億円)を稼ぎだしてきたコザ。“革新”勢力は、コザを沖縄の恥部、植民地とののしる。そこにはたらく一万人余りのホステス、ウエイトレス、バーテン、ボーイetc、“左翼”にとって労働者ではない、卑しむべきルンペン・プロレタリア、マルクス大先生のおっしゃる「反戦派の策謀に利用される」旧社会の腐敗物であるにすぎないのだ。
 戦後四分の一世紀、コザという街が、そこに住み、そこにはたらく人びとが負ってきた宿命に、タチヌシチャカラル(ふりおろす太刀の下こそ地獄なれ)、ジンヌモウキラリル(身を捨てて何とか食っていくゼニをかせいできたのだ)という思いに、復帰馬鹿どもは理会しない。まして、コザにこそ沖縄庶民の真の元姿があるという逆説など、まったく通用しない、夢のふりむん(狂人)のタワ言でしかあるまい。」(230)
「一九七〇年コザ暴動は、基地の街・新米の街の“正体”をむき出しにした。ここでも愚かな“左翼”は、しょせん自然発生的暴動に持続性はなかったなどと、ふやけた分析を行なってシタリ顔である。民衆は民衆であるかぎり、民衆支配に対立するのだ。
 七〇年反乱は、四分の一世紀の間タチヌシチャに置かれてきたコザ民衆の怨念の噴出であった。Aサインのボーイたち、GI相手の売春婦が先頭に立って石を投げ車を焼いた現実に、沖縄の“左翼”はまるで不感症であった。それが何を告げ知らせているのかを、ついに覚らなかった。
 基地の街・売春の街に、沖縄の元姿がリストレーション(復活)したのは、まさに必然であった。」(竹中、2002=1970:231)
●コザに生きるルンプロたちは、左翼の復帰運動の対象とならない、労働者とならない。むしろ、植民地や恥部として否定される。しかし、そこにこそ沖縄庶民の真の姿がある、という逆説を提起する。民衆=支配への対立。

「オレはこの街の実態を詳細に報告した。するてえと一読者(沖縄出身)と称する青年から、「あなたは沖縄の恥部を公開して何が面白いのか?」という投書が執拗に舞いこみ、ついには抗議の電話を昼夜かまわずかけてくるという始末で実に閉口した。今回の『モトシンカカランヌー』上映運動討論会でも、“左翼”学生諸君から、「沖縄を馬鹿にするのか!」

「なぜこんなキタナイ映画をつくるのか?」と集中攻撃をうけたのだ。
 沖縄人民党委員長瀬長亀次郎はいう、〔軍事植民地支配下の落とし子、沖縄のルンペン・プロレタリアを、はき清め得る日はいつか?〕(『沖縄からの報告』、岩波新書)。はき清められる?まるでゴミ扱いである。だが亀サンとしては、“売春問題”を(見当ちがいではあっても)『大きな課題』であると考えているだけ、まだしもなのだ。ここに、十数冊の沖縄について書かれた本がある。波照間洋『沖縄奪還’68〜’70/一体化の虚構』、関広延『復帰運動の核をさぐる/沖縄教職員会』、大江健三郎『沖縄ノート』etc……。
ほとんど1行のモトシンカカランヌー――沖縄下層プロレタリアートに関する記述も見当たらない。沖縄の“新左翼”が人民党(日共)の論理を絶望的に超えられない理由、まさにそこにあるのだ。『全軍反戦派/基地解体の拠点』(反戦青年委員会編)という本には“Aサイン業者との対決”なる章、〔『スト破り』『暴力団』『米軍の手先』等々とののしり、鉄筋を真赤に灼き、それをふりかざして(業者たちを)威嚇した〕などと、誇らしげに書いている。
何が反戦、何が革命、何が人民解放だ、戦後四分の一世紀の占領政策の矛盾を、その奈落で一身にひきうけてきたモトシンカカランヌーをひっ括って、“新左翼”小僧っ子どもは、アメリカの手先、非国民―――業者という。諸君はその内実を、一人間の心で思いみたことがあるのか? 日本復帰によって、何の保証もあたえられぬコザ民衆の不安に、諸君は未来の展望を示さず、ただ石をのみ投げる。灼熱した鉄棒をふりかざし、彼らをさらなる奈落へと追い立てる、ルンプロ、パンパン、やくざ、泥棒と。
 全軍労ストのピケに、Aサイン酒場の女、酔ってパンティ一つでデモをかけ、「私の商売どうしてくれるのよ!」と叫ぶ。労働者、学生、ゲラゲラ笑って見物、キチガイ女とののしって、石を投げるものがあった。」(240−242)
「“革新”勢力がルンプロと切りすててかえりみなかったモトシンカカランヌーにこそ、“革命”の真の原動力はあることを、コザの暴動は告げ知らせた。だが左翼エリートは、人民の反乱が那覇で決しておこらず、なぜコザという“非国民の街”でおこったかと、ついに理解し得なかった。それは持続しない闘いであったという、自然発生的な暴動にすぎなかったという、そこには人民を領導する前衛が不在であったという、嘘をつけ、嘘をつけ!
 人民を裏切り、真の“革命”を敵に売り渡してきたもの、それはつねに党派であり、組織であり、前衛であった。Aサインの女に石を投げるもの、“前衛”を僭称するものよ、オレは貴様らを呪殺する。コザの娼婦たち、わが街の同胞の怨念を以て呪殺する!」(242−243)
●恥部を明らかにされることに、拒否反応を示す沖縄の人々。「沖縄を馬鹿にするのか?」という反応。この反応に謝り、迎合していく(沖縄の祭り上げ)のが良心的・進歩的知識人の在り方か?あくまでそれに対して再反論していくのが竹中労か。
●新左翼、旧左翼、数あるオキナワ本が、モトシンカカランヌーを語れない、寄り添うことができない=沖縄庶民の姿に近寄っていない、むしろ切り捨てている、という批判。
●もっともシワ寄せを受けている底辺労働者と、その生活を支える基地サービス産業。基地に反対することは、シワ寄せを生きる人びととの連帯なしに考えてはならない。労働者の特権、学生の特権、ヤマトンチュの特権…それらが競り上がってくる時、何をしうるのか。「非国民」という言葉が、運動をする者から発せられるグロテスクさ。<復帰>運動によって失われる関係性。
●非国民の街(=復帰運動と親和性のない街?)、コザ。
●コザ暴動の重み。なぜ、コザであったのか?偶然の事故ではあったが、それは何度となく、沖縄各地で繰り返されてきた。では、なぜコザなのか。


■『倭奴へ』―――沖縄上映運動報告 (『キネマ瞬旬報』1972年3月上旬号)
「“出会いの映画”とは何か?『倭奴へ』である。NDU(日本ドキュメンタリスト・ユニオン)布川徹郎と出会ったのは71年2月、『映画批評』の3月号に私が書いた『呉ら、ケマダに拮抗しうるか?』と題する文章を媒介としてであった。
 その文章の中で、コザ暴動に関して述べた部分および汎アジア窮民革命論について、布川徹郎からほとんど全面的に同意するという電話が入った。私は彼と会い、直ちに韓国の被爆者をテーマとするドキュメンタリー製作に、共同して着手することとなった。
 この映画の製作・上映に当って、我々はどのような“私有”の形態をも拒否することを、第1の原則とした。
 すなわち、『倭奴へ/在韓被爆者無告の26年』は誰の作品でもない、それは1つの志において出会ったものたちの〈運動〉が生み出した当為の〈表現〉なのである。人は情況に応じて集まり、情況に応じて別れていくのだ。その流動の過程に創造はあり、作品は生み出される。」(247)
●NDUとの出会い。1971年3月以降。→『倭奴へ/在韓被爆者無告の26年』へ。

「党・セクトを死滅させるための唯一の運動論は、出会いの集団―――一期一会の営為を反復し、連環し、持続すること、自由自立の一個の“人間”に闘う主体を分袂(ぶんべつ)すること、その上でおのおのの力をリザルタント・フォース(合力)に結束すること。」(248)

「那覇のタイムス・ホールでは、1人の青年が立ち上がってこういった。『あなたたちは、何が面白くてこういうキタナイ映画を撮るのか?娼婦というのは肉体も精神も腐り果てた最低の女だ、沖縄にはもっと美しいものがある、労働者人民の英雄的な闘争がある。なぜそれを撮ろうとしないのか?朝鮮人の映画にしてもそうだ、被爆者に軍歌をうたわせるとはナニゴトだ(『倭奴へ』の中に被爆者が日本語で軍歌を歌う場面がある)、軍国主義の宣伝映画じゃないか!』[…]沖縄のセクトほど無知モーマイな輩はまれだった。大人気ないとは思ったが、けっきょくとことん沈黙するまでたたきのめすか、対応の手段はないのである。私はすっかり声がかれてしまい、大声を出しすぎて頭痛がする始末であった。 
 コザ市では、石反同の指導者と称する馬鹿が、マルクス・レーニンがどうしてこうして、毛沢東同志が突っぱったのと映画とまるきり関係のない大演説をおっぱじめ、『結論としていうのだ、これは反革命映画だ、人民を指導できない理論しか持たないから、朝鮮人被爆者とかパンパンとか一部の人間の悲惨しか見ることができないのだ、おたくたち沖縄にくる必要なんかないんだよ、1日も早く日本にかえれ!』とまくし立てた。
 これが、沖縄“新左翼”の理論水準である。本土と大して変りはないが、沖縄は『聖域』だという裏返しのコンプレックスが露呈しているから、さらに度し難い。」(252‐253)
●『モトシンカカランヌー』『倭奴へ』への激しい拒否反応。「キタナイ映画」、「肉体も精神も腐り果てた最低の女」、「一部の人間の悲惨」など、自らと対象とを切り離した反応。

「沖縄、なぜニッポンでないにもかかわらず復帰するか、その文化とまやかしの憲法・民主主義とをひきかえにするのか? 長い歴史を、大和に踏みにじられ差別収奪されてきたのに、怒らず闘わないのはなぜだ?」(275−276)


■蝶なて翔ばわ (『えろちか』1972年6月号)
「はじめての旅で、歌・三絃――琉球音楽のエロチシズムに憑かれて、いらい6度の取材旅行を、私は春歌と情歌の採集に明け暮れてきた。それは、反米愛国・祖国復帰のナショナリズムに短絡する“政治の季節”の中での営為であったから、いわゆる左翼、新左翼の連中は、『竹中労は沖縄に性的アナーキーの汚名を着せて、差別している』と、私をののしった。月刊誌『えろちか』に連載した『沖縄春歌行』と『琉球情歌12考』及びURCレコードで製作した『沖縄春歌集/海ぬチンボーラー』等は、いわゆる沖縄問題専門家から一顧の評価も与えられなかった。」(313)
●竹中労の沖縄論への評価。


■海を奪うもの―――琉球処分外道祭文
「物価高、失業の不安に下層庶民は置き去りにされ、光栄ある“復帰運動”のにない手は、おのれらの権益を大衆に優先して確保する。七二年一月二十四日、公労共闘(沖教組、官公労等)は行政府と統一団交を開いて、給与一ドル三百六十円(円切上げ前のレート)換算を約束させた。また、那覇市の革新市長、三役、市会議員は、歳費の大幅アップでテメエらの“復帰準備”だけとうに完了済みである。何というソドムとゴモラだ、とオレは思う。キミもおもえ! 海も土地もヤマトに二束三文でたたき売り、特権・特恵階層(すなわち買弁層)のみ肥えふとる、これが祖国復帰の真の姿よ。(343)


■メモ沖縄1972 (『話の特集』1972年4月〜6月)
「1972年正月7日、佐藤栄作の大人、米利賢国サンクレメンテにおいて、琉球処分の辞典を本年5月15日と定めたるまさにその日、余の沖縄渡航身分証明書は突如公布されたり。」(348)

・1972年1月21日〜 沖縄取材
・映画上映会(『モトシンカカランヌー』『倭奴へ』『さんや’68冬』)
・レポート『琉球情歌12考/毛遊びーの世界』の執筆
・琉球独立党とのコンタクト

「1970年12月20日、コザ叛乱の主力部隊は、まさにモトシンカカランヌー、すなわち遊(あし)ばーと酔っ払い――前衛に領導されぬ未組織下層プロレタリアートであった。党派・組織労働者が何十、何百回のでもをかけようとついに打ち破れなかった基地ゲイトを彼らモトシンカカランヌーの自然発生的な暴動は、やすやすとブチぬいてみせたのだ。
 外人ナンバーの車を片っ端からひっくりかえし焼き尽して、 唐(とう)船(しん)ドーイさんてえまん、一散走えーならんしゃ、ユイヤナ、ハイヤセンスルユーイヤナと、カチャーシーをうたいおどったコザ群衆のエントゥシアスモス(憑霊)を思うがよい、階級社会の秩序と習俗をその根底から破砕する脱自のエネルギー、実にそこに在るなり。」(351)
●コザ暴動=下層プロレタリアートによる叛乱という見方。

「憲法下の祖国復帰だと、憲法どこにある?議会制民主主義のカラクリに封じこめられて、佐藤栄作掌上のエテ公となった“革新”議員よ、歴史は諸公をさばくだろう、沖縄をヤマトに売ったのは、反体制を看板にして庶民に復帰ユートピアの幻想を与え、本土政府に処分の口実を与えたのは実はお前らであった、と。」(360)

「5月15日が近づくにつれ狂暴な思いは募るばかりなり、まやかしの“祖国”復帰を論理的に補完した奴輩、〔日本列島の深層にあるものを、沖縄では表層にたしかめ得る〕(谷川健一)、すなわち沖縄を通して日本を見ようとする股のぞき、日帝・植民地主義とネガポジの共犯関係にあることをこやつら少しも悟らず、この島の現実を感傷的饒舌で蔽いかくしてしまうなり。彼らの1人でも、グロテスクなオバケと化したキビを噛み、現在の島ちゃび(離島苦)に理会しようとしたものがあるか!」(397)

「ヤマト資本はブルドーザーで御嶽をつぶしたりはしないであろう、もしそのような事態がおこれば余は神女とともに浜に坐ろう、だが文明(科学)は宗教(空想)と妥協する狡猾さをそなえておる。東急資本は御嶽を“保存”するだろう、さらなる商魂をたくましく祭りをも観光化するだろう。」(402‐403)
●復帰後の観光化。沖縄の文化を観光資源として利用していく本土資本。

■野底土南 (『流動』1972年5月号)
「3月24日付の『琉球新報』に載った一通の投書を紹介しよう。題して〔竹中労は悪口雑言をいいすぎる〕

[…]狂人のタワゴトにしてはちょっと度がすぎないか。祖国復帰のために戦った28年間の歴史を、いまさら捨てろというのか?われらの屋良主席の教育者としてのたたかい、廃墟の中からの校舎づくり、その貢献のどこがいけないのか?“日本国民としての教育”は誤っていたというのか?我々は日本政府に満足してはいない、しかし日本人として祖国と歩調を合わせ、平和憲法のもとに歩む道がなぜいけないとあなたはいうのか?[…]沖縄の正当な要求をコジキ陳情といい、異民族支配からの日本国への復帰を再び植民地への道という。沖縄は日本であり、日本国民としての誇りを取戻すのがなぜいけないのか?平和憲法が我々を植民地にするのか?」(421)
「『ニッポン、祖国ではない』という認識をウチナーンチュ(沖縄人)が明確に見すえたときに、まぎれもなく日帝の植民地となったことに理会できるのである――。」(423)
●竹中労への沖縄県民からの反論: 歴史の否定、「日本人としての私」の否定として受け止められている。「平和憲法が我々を植民地にするのか?」という言葉から何をどう受け止めたらよいのか。これほどまでに平和憲法なるものが信じられていた。平和憲法が数多くの例外状態――日米安保と在沖・在日米軍基地と自衛隊――があるにもかかわらず「平和」的なものとして信じられていた/いるということ。平和憲法そのものが植民地と相反することがない状態。平和憲法が平和的でないこと、植民地がすでにあること、を竹中労のレポートは明示していっている。

「『革命』と音楽の不可分の相関を、琉球弧の歌、三絃の世界にかならずや諸君は見出したであろう。過渡の国家=琉球人民共和国、『国家を廃絶するための国家』を建国するための闘いこそ、日帝を侵略の水際に迎撃して粉砕する唯一の道なのである。

   幻の国などどこにもないから
 幻の海にでも沈もうよ
 そして激しい渦巻になろう
 船も鯨もよせつけぬ竜巻を養おう  (川瀬信・島II)

 幻の国はないか――、いや我々の魂の裡にある。日本という国家、佐藤栄作=自民党の一党独裁・平和憲法・議会制民主主義の国家に属することを拒み、おのれの裡なる“幻想の共和国”に属することによって、我々はこの擬制のヤマト帝国に明確に対峙することができる。」(424‐425)
●国家否定の国家――幻の共和国。日本という国家に属することを拒むこと。


■汝、花を武器とせよ…… (『別冊経済評論』増刊号 1972年6月号)
「“国会爆竹事件”法廷において、沖青同の3被告が沖縄語を使用したこと(ウチナーヤサバカランド)を私は感動的に受けとめた。それは、まさにウチナーンチュが日帝権力の“法と秩序”に組みこまれることをきびしく拒絶する意思表示であり、彼らの属する国が『ニッポンではない』ことの宣言であると私は思った。」(456)
●国会爆竹事件と法廷への高い評価=日帝権力の法と秩序への組み込みへの拒絶の闘い

「日本人とはなにか……、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、と自閉の独語をくりかえすセンチメンタル痴呆よ、よだれくりよ、何がじつに明瞭だ?笑わせるな、大江健三郎、貴様のような“沖縄をテコにして”日本および日本人を考える、ウフヤマトンチュー(夜郎自大の日本人)によって、沖縄の思想は曇らされ、毒される。[…]君たち(沖青同――引用者補足)はいま、うまれ島に生起しつつある民衆の不定型のエネルギーにこそ、身を寄せねばならぬのだ。とらわれぬ自由な魂を、日本にも中国にもアメリカにも制禦され支配されぬ、沖縄を!」(460)
●大江健三郎批判――「沖縄をテコにして」日本へと再帰する思想の帝国主義?

「沖縄を上弦とする東南アジア諸国、北海道を下弦とする北辺の民族、アイヌ、オロチョン、エスキモー等、そして太平洋の島々、ポリネシア、ミクロネシアを包括して、さらにはオーストラリア、インド亜大陸、アラブ、アフリカ、ラテンアメリカを連関する汎アジア・太平洋――世界革命、いうならば『世界地図を塗り変える』視座から沖縄を射程に入れているのだ。」(461)
●汎アジア窮民革命論へ

「71年夏、川満の文章が載っている『映画批評』の同じ号で、私はゲバリスタ(世界革命浪人)を名乗った。そのときから「オレは日本人ではない」と自己規定しているのだ。冗談と笑うか? 私はまったくの正気である。私はどの国家にも属さない、私はおのれの胸中にむすばれた“世界窮民共和国”に属する。当然、この地球上のすべての窮民は同胞である。在韓被爆者も、アイヌも、沖縄売春婦も、私のきょうだいである。
 私は非・国民ではない、非国・民である。言葉の遊びではない。私には属すべき現在の国家はない。[…]汝、花を武器とせよ、……剥落逃散するイメェジ(川満はネズミの地走りに譬えている)」(466)
●1971年夏『映画批評』でのゲバリスタ自己規定

「“革命”を担うものは誰か? ネズミの地走りを、ある日この島に幻視するものは、まぎれもなく純情ぐれん隊、モトシンカカランヌー、沖縄若年プロレタリアートでなければならない。無数の永山則夫よ、非行少年たちよ、コザの暴力団よ、沖縄を米日帝国主義の不管の地とするのは実に君たちである。」(470)


■さらなる幻視の海へ (『キネマ旬報』1972年5月下旬号)
「今度の映画製作には私はスタッフとして参加せず、彼らに先行して記録の対象を発掘する役割りを担っています。NDU『アジアは一つ』が、ルポルタージュする対象は左記のようになるでしょう。
 (1)宮古島における東急グループ開発進出と、それを阻止しようとする神女たちとの抗争。
 (2)八重山群島における台湾人移住者の実態、スッポン養殖場、パイナップル航路、etc。
 (3)フィリピン人ストリッパー、韓国労働者、インドネシア人技術者等々の在沖縄外国人。
 (4)西表島における旧炭坑および廃村の無人地帯、動物たち、縦断道路の工事現場、観光予定地、もと炭坑強制徴用夫(現在は石垣市の養老院に収容されている)。
 (5)サバニ、沖縄に土着した日本人漁夫、海と魚たち。
 (6)五・一五復帰時点における那覇とコザの諸相、モトシンカカランヌーの娼婦、暴力団、―――非行少年。
 (7)琉球独立党の人々、村芝居、ヨンダラー、カチャーシー、他。」(476−477)

「日本復帰が切り棄てていくもの、モトシンカカランヌー、全軍労臨時労働者、観光資本に海を奪われていくサバニ漁の漁民たち、そして外国人、NDUがこの右翼チックな題名の記録映画にこめた熱い烈しい思いを、日本の“新左翼”はもちろん、現在沖縄の“革新”と称する勢力も理解しないでしょう。だが彼らは孤立した闘いの未来に、汎アジアの窮民・流民の革命への出会いを、しっかりと見すえています。」(480)
●日本復帰が切り棄てていくもの。なぜそれに着目するのか?「アジアは一つ」の含意。

「私たちが「沖縄はニッポンではない」というとき、それは単に土着の文化、“民族”としての習俗の差異からではなく、「経済功利主義の毒腺を放射する」日本国家権力に対する非国民の思想、さらに明確にいうならば“国賊の論理”からであることを―――、琉球人民共和国は“国家を廃絶するための過渡の国家”であり、さらなる幻視の海域に「アジアは一つ……」という国境否定のイメェジを包括することに、ご理会いただけると思います。」(481)
●『アジアは一つ』の国境否定のイメェジ。

■メモ沖縄1972・5・15 (『話の特集』1972年7月号)
「琉球政府は娼婦を特殊婦人と呼ぶ。“復帰”と同時に県警は37人の売春取締専従班を設けて、徹底的な取締りに乗り出すという。コザ署では業者を集めて、前借金禁止、あっせんの禁止等々、“売春防止法”に関する説明会を開いた。5月8日には、『沖縄の売春に取り組む会』(滑稽な名称である)の代表が本土から乗りこんできた。
 市川房江、山高しげり、藤原道子といったお歴々、『コザ市の特飲街では15、6歳の少女売春婦がかなりいると聞いている、人権問題である、調査を徹底せよ、更生施設等については本土政府とも接衝して、本土の母子福祉施設に収容できるよう話はついている、特殊婦人問題は根気のいる仕事だが頑張ってほしい』(『琉球新報』)なんぞと、地元当局にハッパをかけておるなり。
 糞婆ァめらが余計なことを、お前さん方に沖縄ムトシンカカランヌーの解放を云々する資格などあるものか!本土に収容するだと、よくもまあ、平然と残酷なことを、エドワールド・フックスの言葉をかりればこうだ、〔いつの時代にも女性の解放という理想をネジ曲げ、娼婦たちを救済するという名目で、彼女らを苦しめ弾圧してきたのは、女性運動家たちであった〕」(496‐497)
「辻の色町のジュリグワーたちは貧しさ故にこの商売をえらんだのだ、という意味である。酎婦2万人、その十中九人までがルミに宿命を背負っている。病気のばあちゃんである、借金である、彼女たちに娼婦をやめさせてどうする、その方が人権問題だ、沖縄から売春はなくならない、どうしてもなくしたいのなら娼婦をみんな殺すがいい、でなければ貧乏をなくすことだ、できるか?
“復帰”はルミに再び手錠をあっける、彼女の憎しみはいっそう深く烈しく燃えるだろう、」(497−498)
●復帰の一つの結果。売春解放の運動の両義性。


■海恋いの記 (『ニッポン春歌行』あとがき[1973])
「1972・5・15――“復帰”のあとさきをぼくは沖縄ですごした。1月、2月、4月、そして5月、琉球弧の北から南までを縦断して、くる日もくる日もやる瀬ない怒りと悲しみを抱いた。海を奪うものは誰だ、まやかしの祖国ニッポンは、沖縄の自然と人情を破壊していた。海岸線の土地は買占められ、浅瀬は埋め立てられて、公害企業が進出し、観光資本に俗化されていく。被統治時代にもなかった、唯物功利の世(ゆー)替(がわ)りの波に洗われて、人びとの心はすさみ、悪しきヤマトナイズの毒に骨がらみに犯されていく。」(502)

・安次富正春君についてのルポ。コザでAサインを営む家庭に生まれ、本土への集団就職に参加。
「その確認[日本人と琉球人は同祖である]がくずれたのは、“本土”に集団就職してからである。『…沖縄の出身だというと、急に態度を変えて“理解”を示そうとするヤマトンチュ』に、不信感と反感とを彼は抱いた。つまり裏がえしの差別を敏感に嗅ぎとったのだ。最初は、『自分がひねくれているからだ』と思った。だが何人かの沖縄の若者と知りあって聞いてみると、同じ思いのものが多いことがわかった。」(509)
●沖縄への同情や理解に、不信感と反感を抱く、沖縄の若者

・大島渚『夏の妹』批判。大島渚とスタッフの差別批判。


■あらゆる性犯罪は革命的である
「――逆説的にいえば、沖縄における性犯罪発生率のこの間の急激な“上昇”は、南国のフリーラブ・コミュニティ(恋愛共同体)が悪しき本土化の波、法と秩序の毒に浸食されつつあることをもの語る。
 『病める世相』と地元のマスコミは少年犯罪の増加を嘆くが、その世相を醸成したものは、公序良俗キャンペーンに他ならない。屋良朝苗道徳政権は、売防法、青少年法等を立法し、『清く正しく美しく』『本土に恥じない』沖縄をと、社会浄化に専念してきたが、その結果は皮肉にも少年犯罪の暗数を顕在化して、“監禁しようとすれば脱出する”青春の情動の暴走をひき出してしまった。」(522)


■メモ沖縄1972――総括(『話の特集』1972年9月号)

・さらなる流離へ、アジアへ
「極月、108日間の第1次汎アジア幻視行に出発する計画を私は立てている。大韓民国、中華民国(台湾)、香港、ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、香港、インドネシア、マレーシア、フィリピン、――そこで、私は次に掲げる人々に出会うだろう。
@在韓被爆者、プサン緑町の娼婦、済州島独立戦争の生き証人、ベトナム帰りの兵士たち、ソウル広州団地の難民。
A高砂族、アミ族等の蕃社少数民族、戦後2・1暴動の関係者、北白川宮暗殺事件に連累した人々と、その周辺。
B香港三合会(窮民の秘密結社)、客家の漂民、港九工場の下部労働者、珠娘(水上売春婦)。
Cインドシナ三国……、未定
D泰麺国境のモン族武装農場、カンチャナブリ、チェンマイ等の小都市窮民(並びにバンコックへの流民)。
Eシンガポール木屋区(スラム)、廉介屋(貧民団地)、蛋民等々の突人。
Fゴム園季節労働者、錫鉱山坑夫、北ボルネオ漁民、山岳地帯原住民、カリマンタン剽民、セレベス開拓農民。
Gインドネシア本島……、未定
H解放区の新人民軍(フィリピン)、フクバラハップ、マニラ暴力組織(ペペ、バスケス、テッド・ルーイン一統)。
I各地の日本人、商社マン・浮浪者・事業経営者・技術者等々。」(532‐533)

・海を奪うもの――総括
「海洋博とは何ぞや?すなわち“琉球経済処分”の大団円、政府企画の『催しもの』の欄には、『海洋に関する防衛展』『自衛艦の参加』とある、経済処分の後からはとうぜん“軍事処分”がやってくるのだ、日帝南進はかくて沖縄に前線基地を確保するのである。」(539)
●復帰→海洋博のライン。海洋博には、復帰に込められた意味が凝縮している。経済と軍事の進出。

・独立の旗の下に――総括U
→琉球独立党への評価、1972年5月琉球独立党主催の討論集会「さらば沖縄県!」への参加、映画上映会『赤軍・PFLP/世界戦争宣言』

・島うた幻視行――総括V
「いささか図式的にいうならば、音楽→憑霊(エントゥシアスモス)→脱自(エクスタシス)→大衆狂乱(マス・ヒステリア)→自然発生的な暴動、叛乱という構図を、私は『ビートルズ・レポート』(『話の特集』別冊)から一貫して追求してきた。音楽的な昂憤は階級意識よりもすぐれて革命である、というテーマに理会したのは故三島由紀夫であり、深沢七郎であった。」(547)
●音楽の力。暴動・叛乱の潜在性。「音楽的な昂憤は階級意識よりもすぐれて革命である」
→『日本禁歌集』、LP製作

●沖縄の復帰を、対米関係のナショナリズムによって捉えるのではなく、植民地主義の地図の中に置き返し捉える。植民地主義の継続としての復帰。<復帰>前にある労働力の移動と搾取のネットワーク。アジアは一つ―――すでに資本と国家によって一つになりつつある状況を、底辺労働者=庶民の側から別様の「一つ」のあり方を照射していく試み。あり得た沖縄の捉え返し、それはベトナムを含むアジアとの関係性の再構築である。

■書評・紹介

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20111005 
沖縄 竹中労  ◇「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) BOOK
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