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『聖の青春』

大崎 善生 20020515 講談社(講談社文庫),419p.

last update:20150112

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■大崎 善生 20000200 『聖の青春』,講談社 = 20020515 『聖の青春』,講談社(講談社文庫),419p.  ISBN-10: 4062734249 ISBN-13: 978-4062734240 \648+税  [amazon][kinokuniya]

■内容

幼くしてネフローゼを患いながらも、羽生善治が最も恐れたと言われる天才棋士・村山聖(さとし)の熾烈な生涯。 命懸けで将棋を指す弟子のために、師匠は彼のパンツをも洗った。師弟愛、家族愛、ライバルたちとの友情……。 “怪童”は将棋界の最高峰A級に在籍したまま、名人の夢ひとすじに生き抜いた。水晶のように純粋で温かい輝きを放つ29年間の生涯を描く。 第13回新潮学芸賞受賞作。

■著者略歴

1957年札幌市生まれ。日本将棋連盟に入り、「将棋マガジン」編集部を経て「将棋世界」の編集長。連盟を退職後は、作家活動に専念している。 『聖の青春』(講談社文庫)で新潮学芸賞、将棋ペンクラブ大賞、『将棋の子』(講談社)で講談社ノンフィクション賞、 『パイロットフィッシュ』(角川書店)で吉川英治文学新人賞を受賞。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

プロローグ

第一章 折れない翼
発病
不思議なゲーム
腕だめし
親族会議

第二章 心の風景
師匠
奇妙な生活
奨励会
前田アパート
終盤伝説

第三章 彼の見ている海
デビュー
天才と怪童
一夜の奇跡
殴り合い
初挑戦

第四章 夢の隣に
自立のとき
よみがえる悪夢
強行退院
ライバルと友情と

第五章 魂の棋譜
帰郷
手術
鬼手
宇宙以前へ

エピローグ

村山聖熱戦譜
公式戦全記録

聖のこと 村山伸一

■引用

 
 平成7年1月17日。>271>
 早朝、私の部屋の電話が鳴った。森夫人の恵美子からであった。
「地震がありまして。家族は全員無事です。これから船越君の救出に向かいます。そのことを主人に伝えてください」
 大慌てでそれだけ言うと電話は切れた。この日はC級2組順位戦の対局日で森は上京していた。
 地震? 全員無事? 船越君の救出? 私は寝ぼけまなこをこすりながら、ただならぬ言葉と雰囲気を感じて慌ててテレビをつけた。
 阪神大震災であった。
 テレビは伝えていた。マグニチュード7・2の大地震が兵庫県全域を襲い、街は崩壊し多数の人間が行方不明になっていると。
 恵美子は必死の思いで公衆電話に並び、私の家へ電話をかけてきた。森に状況を伝えるにはそれが最善の方法だととっさに判断し、私に伝言を託したのであった。
 私はとりあえず大急ぎで将棋連盟に駆けつけた。そして、森に恵美子の伝言を伝えた。
 森は対局前で4階で所在なげにうろうろしていた。地震のことはテレビで知っていた。
「とにかく、家族は全員無事だそうです。いま、奥さんの両親と山崎君とで船越君の救出に向かっているそうです」
「救出?」>272>
「ええ、そう言っていました」
「そうですか」
 森は無表情だった。テレビに映し出される光景のあまりもの無残さに感情を失っているように見えた。家族や多くの弟子たちがあの惨劇の真っただ中にいるのである。
 情報が整理されるに従い、森の住む宝塚市の被害も相当に深刻なものであることがわかってきた。
 船越隆文は福岡出身の森の弟子の一人で、当時16歳で3級。
 森を慕って、大阪を出て森のマンションから徒歩2分の場所にあるアパートに引っ越してきたばかりだった。そして、そこで被災したのである。
 当日、村山は前田アパートにいた。村山の部屋も大きく揺れた。いつものように穴蔵の中で眠っていると、アパート全体がひしゃげるように揺れ、 自分を取り囲む何千冊もの少女漫画がなだれのようにくずれてきて、村山はあっという間にその中に埋もれてしまった。
 幸いたいした怪我はなかった。
 少女漫画の山をかき分けその中からむくむくと自力で脱出し、おでこにできたすり傷にばんそうこうを貼り、それで村山の被災は終わった。
 順位戦を戦い終えた森のもとに悲報が届けられた。船越のアパートはつぶれ、1階に住んでいた16歳の奨励会員は圧死した。 消防団によって掘り出された遺体は公民館に運ばれたと>273>いう。
 恵美子が駆けつけたときには、アパートは1階部分が悪魔の手によって押しつぶされたように壊滅していたという。道路に無造作に積まれた何冊もの将棋雑誌、 それがここが船越の部屋であったことを雄弁に、そしてあまりにも物悲しく語っていた。
 大震災が起こる数ヵ月前、私は森の家に遊びにいった。森は弟子たちを集め、鉄板焼きパーティーを開いてくれた。一人一人が自己紹介をした。
「船越隆文3級です」と言ったくりくりとした大きな目が忘れられない。
 食べきれないほどの肉を最後まで、目を白黒させながらがんばって食べていたのが船越だった。やさしくて、素直な青年で、性格がよすぎることを森は心配していた。
 その日の深夜、対局を終えた森が私の部屋にやってきた。森のマンションは崩れはしなかったが非常に危険な状態であるらしい。 食器や水槽などあらゆるものが粉々に砕け散った。マンションの玄関の戸が開かず、内弟子の山崎が何回も体当たりしてこじ開けた。
「きのうは何かいやな予感がして一睡もできんかったんや」と森は言った。
「わしは動物やからなあ、こんな勘だけはよう当たる」
「わしの家の近くにこんかったら、こんなことにならんですんだのに」と言って肩を震わせた。
「かわいそうなことをしたなあ」>274>
 その日、私は森と一晩中眠れない夜をすごした。森は弟子を失った事実に打ち震え、そしてこれから自分のやるべきことを思い必死に闘志をかきたたせていた。
「もう弟子は取らん」と言って森は泣いた。16歳で3級の船越は棋士になれるかどうかはかなり厳しい線上にいた。それでも、記録係に塾生にと健気な努力を重ねていた。 森もそんな船越がかわいくて、自宅の近くに住まわせ、手取り足取り指導してやろう、自分のできることは何でもやってやろう、そう思っていた矢先のできごとだった。
「天災だけはどうしようもないんじゃないですか。誰のせいでもないし」
 自分を責める森を私は必死に慰めた。
「村山君は無事だったそうですね」と私が言うと「ああ、漫画が崩れてきてデコにぶつかったくらいやそうや。冴えんなあ」 とそのときだけ森は少しだけホッとした表情を見せるのであった。弟子を失い、家も家族の状態も正確に把握できないという極限状態の中で、村山のはからざるコミカルさが、 少しだけ森の心を柔らかくしてくれた。
 午前6時、朝がくるのを待ちわびるようにしていた森は部屋を出た。
「とにかく大阪の将棋会館までいって、棋士たちの情報を整理します」と理事としての言葉を言い残して。

 谷川浩司は神戸のポートアイランドの自宅で被災した。島は孤立し、谷川は集会所で不安>275>な夜を過ごしていた。対岸にあるプロパンのタンクが爆発する恐れがあり、 非常に危険な状態であるという。
 2日後には米長とのA級順位戦が迫っていた。将棋連盟を通じて、米長から対局を延期しましょうとの申し出が届いた。しかし、谷川はその提案をやんわりと拒否した。 そして、神戸市内への橋が開通するのを待って、夫人の運転する車に乗り、暗黒の街を脱出する決意をした。
 車中から見る神戸の街の、あまりにも凄惨な光景に谷川は息をのんだ。谷川が生まれ育った神戸の見慣れた光景が地獄絵図のように姿を変えてきた。 人々の悲しみの悲鳴や嗚咽がそこら中から聞こえてくるようだった。
「将棋を指すしかない」
 谷川は何度も何度も自分にそう言い聞かせた。「いま、自分にできること、それは将棋しかない」と。
 神戸から12時間かけて谷川は大阪にたどり着き、予定通りに対局室に着座した。
 生きて将棋を指せる喜び、谷川はただそれだけのことに深く感謝した。心の奥底から湧き上がるその感銘を存分に将棋盤にぶつけ、難敵米長を打ち負かしたのである。
 谷川の行動はスポーツ新聞に大きく取り上げられた。それは、地元神戸の被災者たちに大きな感動と勇気を与えたのだった。>276>
 将棋連盟では棋士から義援金を募った。
 いち早く反応したのが羽生と村山だった。
 義援金受け入れの窓口となった勝浦修九段は、村山の金額の大きさに驚愕した。そして、さらに大きな金額を羽生は提示した。将棋界の若きリーダーたちの意気ごみと、 困った人々を助けたいという純粋な思いやりに勝浦は胸を打たれた。
 弟弟子の死は村山に計りしれないショックを与えた。弱いものがなすすべもなく、犠牲となり死んでいく。それは少年時代の子供たちの死によく似ていた。 何の抵抗もできないまま、まるで人形のように簡単に死んでいく弱者たち。船越もまた何も言わずに、何も叫ばずに消えていった。
 そのとき、船越は川に溺れ、自分は土手に立っていた。村山はそのことを思いつめ、病状は悪化の一途をたどった。生き残った自分をわけもなく責め、 限りなく深く傷ついていった。
 1月18日、震災の翌日に村山は住友病院に半ば強制的に入院させられた。そうしなければ、このまま取り返しのつかないことになると医者が判断したのである。
 村山は混乱していた。蘇る少年時代の悪夢に混乱していた。神戸の惨状と弟弟子のはかなすぎる死に混乱していた。
 村山は自らの精神を追いこみ、そして精神が肉体を追いこんだ。純粋な魂は容赦なく自>277>分の肉体を切り刻んだ。その結果、指先すらも動かすことができなくなっていた。 病院のベッドの中でこんこんと考えつづけた。船越が死に自分が生きている意味について。(pp.270-277)


◆引用に登場した棋士(公益社団法人日本将棋連盟ウェブサイトより)
村山聖   ◇森信雄   ◇山崎隆之   ◇谷川浩司   ◇米長邦雄   ◇勝浦修   ◇羽生善治

■書評・紹介

■言及

北村 健太郎 20140930 『日本の血友病者の歴史――他者歓待・社会参加・抗議運動』生活書院,304p. ISBN-10: 4865000305 ISBN-13: 978-4-86500-030-6 3000+税  [amazon][kinokuniya][Space96][Junkudo][Honyaclub][honto][Rakuten][Yahoo!] ※
『日本の血友病者の歴史――他者歓待・社会参加・抗議運動』表紙画像
(クリックすると大きな画像で見ることができます)


*作成:北村 健太郎
UP: 20150112 REV:
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